Story Application: "085, A Romance in 2.5 Dimensions"
第1章: シエラネバダ
カドミウムイエロー5号の髪を肩に掛けた彼女がカンバスの隅に腰を下ろし、細い足を踵の辺りで交差させたまま、下地が塗られただけの白い余白を眺めている。腕を組んで、やけになったかのように足を前後にバタバタさせている。待ちかねているのだろうか。
「まだ?」
そう言うのが聞こえた。
「早く早く!」
(我慢だ。)非常に柔らかいチャコールペンシルを使って書く。(芸術家を急かしてはいけない。)
ベンチに斜めになり、溜息をつく以外の反応を見せなかった彼女を見て、私も溜息をつく。痒い所でも掻くかのように、彼女がウルトラマリンのドレスを少し引き上げる。その瞬間、白い下着が輝くのが見えた。彼女に伝えるべきだろうか。いや、それは最良の選択とは言えないだろう。
絵の具の準備は出来ている。パレットも、ブラシも全て整えてある。湖畔の写真をカンバスの隣に止め、山脈の光景を目に焼き付けるためにただじっと眺める。この写真はもう10年前、まだ10代だった頃にシエラネバダでキャンプした時に撮ったものだ。当時、隣にはレイチェルが居た。天使のような顔と、親しみやすい目をした愛すべきレイチェル。皆が寝静まった頃、私のテントに忍び込み、私の唇に指を重ねたレイチェル。静かにキスし、私の寝袋に忍び込んできた。今はサクラメントのどこかに住んでいるのだという。グリーンピースのロビイストをしているのだと聞いた。わからないものだ。山並みや木々のアウトラインを描く。キャシーは、レイチェルが保護し記録に残そうと激しく戦っている森を、そうと知ってか知らずか笑みを浮かべ眺めている。Tシャツと下着だけを身につけた彼女がクラスメイトのテントに忍び込み、彼と愛を確かめ合っていた夜。コオロギの鳴き声と水の落ちる音が響いていた夜。
記憶。鉛筆が、まるで好き勝手に動いているかのようにカンバスの上を踊る。インスピレーションが湧いた時はいつもそうだ。左脳が働くのをやめ、右脳が自由に動き出した時、目と、手と、鉛筆に、完璧な調和をもたらす。記憶。黒いネクタイを付けた男が来て、私の神学と民俗学についての論文を読んだと言った時の記憶。世界を守るためのチャンスを得たのだと言った時の記憶。最初の任務の記憶。最初の任務は、収容状況の管理だった。今、鉛筆と消しゴムを持っている手は、その時は親友の血に塗れていた。マギー・リンドン。たった一度の不注意のために、682によって2つに引き裂かれたマギー・リンドン博士。私が作るどんなカドミウムレッドよりも、深く、暗い赤をした彼女の血。悲しくはなかった。しかし、後悔が残った。いまだ貸し金庫に預けてある、ダイアモンドの指輪に対する後悔。それを彼女に渡すことはもはや出来ない。
もしも私が、同僚のように冷徹で強靭な心を持ってさえいれば。私は、飲み潰れて全てを忘れてしまうことができない。私は、冷酷な死と同じ意味を持つ解雇を要求する事ができない。クレフ博士やコンドラキ博士ならば出来るのだろう。まだ私が幼い頃、私の母がいつも言っていた。兄弟の中でお前が一番繊細だと。実際、私の仕事は科学の中から見つかったが、安らぎを見つけるのは、いつも芸術の中からだった。そして、管理者が安らぎを見つけろと決めたのも芸術だった。Keterレベルのプロジェクトから外され、私の才能を必要としている別のSCPが居るのだと聞かされた。
私が何を期待していたのかは解らない。しかし、こんな事を期待していたわけじゃない。
いつものように、時は早くすぎる。私がスケッチを終えた頃には、気づかないうちに1時間が経過していた。キャシーがはしゃいでいる。山の、湖の、桟橋の、小さな小屋の緩やかな輪郭を見て微笑む。
「すごいすごい!」
彼女が感嘆の声を漏らす。
「行ってみてもいい…?」
(まだだ。)私は書く。鉛筆を下に置き、今度はパレットとブラシを持つ。一番広いブラシで下色を置いていく。深いダークブルーを水に、ブラウンを山に、パールセルリアンを空に。キャシーが待ちかねているのを見て素早く動かす。しかし、自分のペースに注意し、ゆっくりと速度を落とす。カンバスの前に置いた写真に、何が写っているのか、ただじっと観察する。ブラシの下では、山脈にゆっくりと命が宿っているところだった。平坦なブラウンがより深みを増していく。岩の多い山頂には雪が積り、松のような木々が岩肌を割いて突然現れる。下に降り、近くにある木々をより詳細に描き込むために時間を費やす。枝が折れているのを1つ。幹が曲がっているのを1つ。3つ目には少し腐ってきているような兆候を。もっと近くに、キャシーに近づいていく。暗いグリーンで僅かに乾燥した草を描く。明るいイエローを叩き、芽が出かけたマスタードの花を描く。
私が湖に取り掛かろうとしたその時、絵が命を持ち始めた。柔らかな風が松の木の高い枝をサラサラと流し、乾いた松葉を地に落としてゆく。キャシーが裸足で踏みしめている松葉のカーペットが厚くなる。青い絵の具の水たまりとして生まれた湖に、より淡い層と淡い色調を加えて形を出す。少しだけセルリアンの混ざった白いハイライトで、空の反射を作る。それと、レイチェルと私が何時間もボートを浮かせていた時のような、小さい波。水面に形が作られると、それらは動き出し、満ちては返しを繰り返す。
ブラシを上げ、絵から距離を取る。何かが足りない…。写真にも、絵にも存在しない何か。絵を完成させるための何か…。
キャシーなら解るだろうか。
「桟橋も描ける?」
彼女が言う。
「水に飛び込んでみたいな」
今は彼女と話すことが出来ない。何か書き加えたら、絵を台無しにしてしまうだろう。だから、返答の代わりに黒い線を4本引き、ブラウンとウォルナットで塗り重ねた。桟橋は少しガタつき、支柱も少し古びているように見える。しかし、それも魅力の一つだろう。ふと、この場面に真鴨を加えたいなと思った。しかし、それはキャシーに孤独を思い出させはしないだろうか。結局、私は水面に一枚の木の葉を書き加えた。木の葉は彷徨うように湖を横切り、暗い水面に小さな波紋を作り出した。
「ありがとう」
キャシーが私の方に向き直り、微笑みながら言った。
「とっても綺麗!」
白い絵の具で隅にサインを入れ、「どういたしまして」という言葉と共に、笑った顔を小さく加えた。キャシーはベンチから立ち上がり、裸足で松葉を踏みしめながら湖畔へと歩いて行く。荒い地面は気にしていないようだ。彼女は、裸足で松葉を踏む時の本当の感覚を知っているのだろうか。それは痛いのだということを。
絵の具のトレイにつまずき、バーントアンバーやヴァーミリオンの小さなチューブが収容室中に飛び散る。失敗した。こんな哲学じみた問題、考えたって仕方がないのに。
「クソッ!」
溜息をつきながら膝を落とす。堆積したカンバスと紙の下を探り、絵の具や画材を集め始める。
最後のカドミウムレッドのチューブを拾い、箱の中を整理していた時、絵の中で白い肌が輝いているのが目に入った。キャシーが青いドレスを無造作に脱ぎ捨て、桟橋の上に置いているのだと気付いた瞬間、私は慌てて振り向いて、赤くなった顔を背けた。露出した白い背中、ほっそりとした、可愛らしい、海の泡から生まれたアフロディテを思わせる姿が、髪からリボンを外し、ドレスの上に乗せる。彼女は輝くしぶきを上げ水に飛び込み、きらめく水滴のシャワーの中から顔を出した。ゆっくりと泳ぎ、湖を横切っている。水の冷たさを大いに楽しんでいるように見えた
背泳ぎをすればいいのにな、と思った。私の中の狂った衝動がそうさせたのだろう。
私はどうにか狂った衝動を食い止め、道具箱をゆっくりと、静かに閉じた。馬鹿馬鹿しい。彼女に聞こえるはずがない。私を見ることだって出来ないのに。しかし、どうにか…いや、押し付けがましいか。彼女は全裸で湖を泳いでいるのだ。私が見たところで何も気にしないのだろう。躊躇いながらパレットを片付けようとした時、何を忘れていたのかを理解した。
それは、白を残すだけで十分だった。私はブラシに絵の具をつけ、足りなかった要素を桟橋の積まれた衣服の上にそっと加えた。
これで仕事は終わりだ。私はカードを読み取り機に通し、明かりを消して、収容設備から出て行く。家に帰る準備を始めるまで、キャシーが気付く事は無いだろう。彼女のために太陽は明るく輝き続け、風はいつまでも冷たく、水はいつまでも清涼なまま波打っている。スケッチ帳はダクトテープで角に止めてある。彼女にとっての日常である、白と黒で構成されたモノクロームの世界につながる道。
不思議だ。オフィスに戻りながら考える。なぜ私は最後にあんな事をしたのか。私が裸で泳いでいる姿を眺めていたと彼女に知られないように、ただ黙って去るよりかはマシだと考えたからか。私は彼女を見ることができるが、彼女は私を見ることが出来ないという事実がアンフェアだと考えたのか。あるいは、ただ単に彼女をからかってみたかっただけなのか。
いや。恐らく、紳士としてタオルを持たずに泳ぐ女性をほっとけなかっただけなのだろう。
Interlude 1
"エージェント・ラシターの素行は、彼が受けた精神的なトラブルを考慮しても、模範的な状態になっています。彼の心理評価によると彼の精神状態は……んん…未だ逼迫した状態にあると……彼は以前より自殺願望に囚われなくなっているとあります。実際、我々はラッキーでした。彼がカミソリで手首を切って、その傷口から溢れ出る……クソッ…最初からやり直しだ。"
"エージェント・ラシターは未だ精神的な苦痛を残した状態ではありますが、彼は過去数カ月間において良い兆候を見せています。私は、彼が十分に回復し現場に復帰するという確信を持っています……よし。そして、数ヶ月の休養の後には、彼は拳銃で自分の頭をブチ抜き、彼のいたチームもそれを、クソッ……また最初からか……"
"エージェント・ラシターは素晴らしい専門家であり……いや、違うな、彼は素晴らしい専門家でしたが、今やクソッタレのポンコツとなり、それも当然の結果と言えるでしょう。新人の彼はガールフレンドを見……いや、婚約者だったかな……彼女が?彼が指輪を買っているところは見たが、しかし渡すことが出来たかどうか。まぁどっちでもいい、新人はそれについて思い悩み……いずれにせよ、彼はマギー・リンドンが682によって引き裂かれる瞬間を目にしました。しかし、彼女が緊急隔壁の反対側に居たために、そのクソッタレた光景を、何も出来ずただ黙って眺めているしかなかったという事です。もし私が、反対側に閉じ込められた人々がどんな恐ろしい目に遭うのかを見ることが出来るように、隔壁を9インチの強化プレキシガラスで作ろうと決めたやつを見つけたなら、私はそいつらをブチ殺し……。"
"…クソっ。こんなこと書いてどうするんだ。あいつらはデルタにするつもりなんだ。畜生、真実なんかなんの役にも立ちやしない。エージェント・ラシターは素晴らしい専門家であり、回復するための時間を必要としています。完全に回復するまでの間、より優先度の低い、SafeレベルSCPの収容任務を与えることを私は推奨します。こんなもんか。こんなゴミを信じる奴が居るっていうんなら橋だって売りつけられるんだろうな。馬鹿げた昇進なんて受け入れるもんじゃない……"
──ラシター事件の6ヶ月前、アシスタントディレクター・クレフのオフィスの監視ログより抜粋。