1998年、初夏。超常組織らはヴェールに包まるじゃじゃ馬のお給仕に区切りを付けさせられ、我々財団はその徽章を風表に晒し熱にうなされる青空を仰ぎ見た。当時の日本支部にとってポーランドの事件そのものはほぼほぼ関係の無い事だったが、その余波が余りにも突拍子の無い地崩れになってしまっては浮足立つのも詮方なかったし、それを戒める声はいつになく覇気が欠けていた。
1年経った今日でも、それは余りにも変わらない。変わった生活に慣れていくまでの心地悪さをいつまで経っても拭え切れずに居た。思えば町の香りすらも何処か奇妙な印象を醸し出している。1999年、二度目の冬。
雪が降っていた。
寒空に愁然と浮かぶ雲と雲が幾重にも重なり、重なり、雪雲を造っている。
夜の繁華街、3日前に背広のポケットに突っ込んだウォークマンのスイッチを鳴らすと共に収まっていたカセットテープが従順に回り始め、寡黙な語り部はぽつぽつと思い出話を始める。超常大臣のスピーチ、オーロラの下照り付ける祈祷弾頭の映像を見ながら寝ぼけた様な面で必死に次の言葉を探すコメンテーターの拍子抜けた声。GOC機動部隊がインタビューで下手な英語を使って話す声。それらがまばらに降り注ぐ雪と街の喧騒を淡々と押しのけてイヤホンから流れ込んでくる。
1999年の立冬は、日本人にとってはいささかすわりの悪い時期だった。
90年の初まりを皮切りにしたバブルを支える株価地価の急落や不動産融資を見境なく行っていた金融機関の一斉破綻。多くの価値観を捨てきれず信念とポリシーに従った破滅は高度成長期からバブル景気の体験を経て青年期を謳歌していた世代にとって衝撃そのものであった。その衝撃と些か現実味を帯びてしまった恐怖の大王や2000年問題等に辟易していた人々は鏡に向かって皮肉交じりの苦笑を強いられている。
しかしこれは一般人の話。インフレのはねっ帰りで徐々に価格が低迷していくコンビニの缶コーヒーを後目に財団サイト売店の缶コーヒーは忽然として「98円」の姿勢を崩した事は無かった。
俺たち何千万人居るのか知れたものでないフィールドエージェントにしたって給与の変動はいつだって昇格に伴う昇給かその逆かでしか無く気前の良かった上司が奢りを渋る事はそういう事なのだと裏で口を隠して遠い目をしたものだった。
そうした財団の飄々としたいつも通りの経済状況のおかげでバブルであれなんであれくぐる居酒屋の暖簾は変わらない。筆書きで読めない店看板を一瞥し雪の冷たさに後押しされ少し強めにガタついた引き扉を開けた。

「まぁ、納得は出来ないよな…」
同僚の近藤はそう言い頬杖を突いて空のおちょこを撫でている。彼にお酌を促すともう十分酔ったと言ったそぶりで冷めたレンコンのはさみ揚げを一口齧った。俺に対しては弱みを見せるに何ら問題ない相手だったからか、調子に乗って少しばかり飲み過ぎていた様子だった。
「最近、昔の事ばかりを思い返している気がしてならないんだよ」俺はそう言いコップの焼酎を飲み干した。
温い息が自身の酔いを克明に感じる。人の入りはそこそこで居心地の良さが売りであると勝手に解釈している居酒屋、舌の肥えていない野郎二人にとってはそこそこの酒とそこそこのつまみで十分だった。
「秘密組織だった頃の思い出?…シニアスタッフみたいな事を言うもんだな」近藤はそう言い意地の悪い笑いを見せた。
「止めてくれよ、どんな組織でもアレは避けようのない事なんだ。公安時代を思い出すよ」
近藤と俺は同年代で公安刑事時代バディを組んでいる時アノマリー関連の事件に触れた際の対応を買われ財団にスカウトされた。公安とのお別れに対して近藤は苦労して実直にキャリアを積んで公安に入籍した経緯からか多少の名残惜しさがあったらしいが公安の多忙さにウンザリ気味だったり福利厚生、給与、労働環境その他諸々が魅力的すぎた事から俺は何の遺恨も無く財団からのスカウトを受けた。近藤も秘密組織からのお誘いという響きに浪漫を感じたという所も大きかったのか最終的には受け入れた。平成が始まる1989年春の話。
「でも、この店で仕事の話が出来るのも、家族に嘘を付き続けなくて良くなったのも、あの事件のお陰じゃないか?」近藤はそう言った後、窓の外に視線を向ける。
「家族云々はお前だけだろう」
所帯持ちの近藤は鼻で笑った。
「煩いだけさ、大学時代が恋しいよ」深い溜め息をもらす。
「なんだ、お前も結局懐古主義じゃないか」
「主義って程じゃないさ、ただ…」近藤の癖である後を濁す話し方をした。
「ただ?」
「…あるだろ、誰でも、そう思うこと」
風が強く吹き、窓が小刻みに震えた。
「俺の不満もそれの一つなんだろうか」俺は懐からタバコとジッポライターを出して火を付け、咥える。メントールの香りがほろ酔いの中で微かに鼻を突き抜けた。
「だろうね、…後はそれのお陰もあるんじゃないか?」近藤は向き直り、掛けてある俺の上着を指差した。
「上着?」
拍子抜けした俺を見て近藤は頭を振る「違う、君の大事なウォークマン」
「ウォークマンだって?」
「テープの中身については大方察しは付いてるさ…」
「職業柄、ってか?」不意に近藤から目を逸してしまった。
「いや、アレを聞いているお前の表情は、如何にも思い出を咀嚼している時の顔そのものだ…」近藤も意図してか無意識か、同じ『思い出しの表情』をした。
俺にも見覚えがある表情、組織としてこき下ろしはするものの公安時代の経験は浅いものでは無かった事は事実だった。
俺は「なんだよそれ」とセブンスターの紫煙を少し強めに吐く。
近藤は大気に溶けゆく煙を見て懐からバージニア・スリムを取り出し火を付けた。
「まぁ、良いんだけどさ。必ずいつかは慣れるさ。きっと…」近藤が灰皿をテーブルの中央に寄せ二人同時にタバコの灰を落とす。
「きっと、きっとか…」グラスの水を一口飲む。電球が爛々と発しているオレンジの光がスポットライトのように降り注ぐようだった。気持ちよく酔いが回るといつも部屋の中で自分だけが照らされている様な錯覚を覚える。
「僕はな」近藤が静かに煙を吐き、重々しく口を開く。
「今日から、君と同じこの慣れない気持ち悪さから卒業しようと思ったんだよ」天井を仰ぎ見てそう言った。
「なにか、あったのか?」俺はセンセティブな話であるかもしれない可能性を考えず率直に聞いてしまった。
「なにかあったって訳じゃないさ…」天井から俺の方に視線を戻す。
「じゃあ、何が?」
「香って来なかったか?」
「何がだよ」
若干食い気味に聞き返す。
「柚子の香りが、さ」
普段感情豊かでない近藤が今日で初めて柔らかい顔で笑った。
「それは…」
「ほら、今日は冬至だろ。冬至は風呂に柚子を浮かべるじゃないか、ここに来るまでの民家から偶然香ってきてさ…」遠い目をして言う。
ウォークマンを手繰り過去に耽っている間にそんな香りが漂っていたのだろうか。サイトの出口を抜け繁華街までの道は確かに住宅地を通る。そう思うと、確かに今日の町はいつもよりも香りが違うと一瞬感じたような気もした。
「僕も住宅街の半分を過ぎた所で偶然…心のスキマが空いたその一瞬で感じたんだよ」近藤は自嘲気味に笑う。
「それまでは全然気が付かなかった柑橘の香り。毎年変わらずこの日に香る柚子の香り。それに気がついてから周りに意識を向けると道行きに何度も香ってきてさ、そう思うと去年の、1998年の冬至も同じ香りがしていたのにそれに気がつけなかった事になんだか…なんだか『嫌だな』って思っちまってな…何も変わっていないのに、何か大きく変わったと財団おれたちだけが思っていて、そっちの方が心地が悪いと思ってしまった…」
近藤は言い切ると一息付いて水を一口飲んだ。
気が付かなかった、柚子の香り。そう、さらに思い返せば去年の冬だけじゃない。今年の桜も、青々とした草木も、紅く染まった紅葉も、思い出の網からそのまま時の流れへ滑り落ちてしまった。1998年、初夏から世界は確かに変わったが、それでも変わらぬモノは沢山あった。
「なるほどな」俺はタバコを灰殻に押しつぶす。
「確かに、心地が悪いな」
声が大きく威勢がいい店主と勘定を済ませ、雪が多少弱まった寒空へ再び繰り出した。
「なぁ」近藤は店を出た後そう言うと革のビジネスバッグを開き、書類の奥からビニール袋に包まれた3つの柚子を取り出して、ビニール袋を破りその内の1つを差し出した。
「やるよ、これ」多少の照れ臭さが含まれた声で言った。
受け取った柚子は夜闇の中街灯の光を受けて鮮やかな黄色を映し出した。
「いいのか?」
「お湯に漬けるなり、なんなりとやりな。家族の為に道行きで買ったものさ」
「そうか、ありがとう」皮越しに香る柑橘の香りが酔いからの覚めを鮮明にしていく。
「いいんだよ」と言うなり近藤は俺の帰路とは逆の方向へ歩いていった。相変わらず真っ黒な背広が似合わない彼の背中を見届けてから俺は歩き出した。
かじかむ片手をポケットに入れるとウォークマンの冷たいプラスチックの感触を感じる。
音声再生のスイッチに癖で指を伸ばしたが力を込める前に片手で持っている柚子の香りに気が付き、ポケットから手を抜いた。
丸々とした柚子の実。風物詩を感じる事が出来るなら別にこんな世の中でも良いじゃないか。
そう、自分に語りかけて、一口柚子を齧った。
「すっぱ…」