偏食家たちの宴
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明治と呼ばれる時代の初め。
横浜の外国人居留地で洋食屋を構える屋敷には、十平という齢九つの丁稚がいた。
十平は幼いながらによく働き、最初期に日本へ移民してきたオリバー店主にもよく可愛がられていた。
ただこの少年、ときたま変な物が見えると訴え、妙な音が聞こえると騒ぐクセがあった。
同じ小間使いの年長者たちにはそれでよく叩かれもしたが、オリバーは十平を叱ったりはしなかった。それで十平はますます意気込んで働いた。

さて、そんなある年の正月。
お節を詰めた重箱に隙間が目立ち始めてくる朝餉を終え、丁稚や奉公人たちがのんびり店の準備をしようとしていた、そういう昼時前。

「ごめんやす」

一人の女が暖簾をくぐってやって来た。
顔に白粉、口に紅、煌びやかな花簪。まるで芸妓だ。
とても美しい女だった。だが同時にとても場違いな女だった。
ここは極東くんだりまでやって来る異邦人たちが、肩をぶつけて寝泊まりする遺留地。
本物の芸妓が来る場所ではなく、芸妓の真似事をする傾奇者が来る店でもない。
第一まだ店を開けてない。普段なら無碍にもしないが、迷い込んだのが異常者であれば話は別だ

その時、たまたま女の一番近くにいたのが十平だった。
だから声を掛けようとした。何の用だ、まだ店は始まってない、と。

「あらぁ、子爵様。あけまして、おめでとぉございます」

今年もよろしく、と続ける女の視線の先には、店の一番奥の席に座る異国の男が座っていた。
タキシードにハット、テーブルにステッキを立てかけ、パイプをふかした碧い眼の偉丈夫。
装いに過度な高貴さはないが、その振舞いには高潔な自信がみなぎっている。そして異様だった。
この男、いつからそこにいた?

十平が見ると、先ほどまで女を怪訝な目で見ていたほかの丁稚、奉公人たちが、何事もないかのように仕事を続けている。
狭い店内の中で顔なじみがひしめき合っているというのに、十平は自分が広い部屋に一人でいるような心地がした。

「ねぇ、坊や。このお肉で「みーとそーす」いうん、作ってもらえへんやろか?」
「唐辛子をよく炒って混ぜてくれ。パスタは、そうだな……、ペンネが食べたい。店主にそう言えばわかる」

手の平大の風呂敷を差し出し注文をつける女の甘い声と、不器用な態度でパイプを突き出し指図する男の渋い声に、頭がくらくらするのを感じながら、十平はオリバー店主を呼びに裏手へ走った。


十平がミートソースのパスタを二皿持って奥の席へ行くと、男と女は机に二つの箱と一つの本を並べていた。

  やったら、このお皿はうちが貰ぉときます。『肉の王冠』いうんは、お約束通ぉりに、ヘビのおじさまへお届けしますさかい」
「こちらも仙道薬に関する文献、確かに受け取った。翁にお会いできないのは残念だが、今回は良しとしよう」
「おじさまも、『子爵様に会われへんのはえらいつらいわー、せっかくの同好の士やのになー』、言ぅてはりました」
「そうか……。む、料理が来たな」

男が気づき、机の上を空ける。
十平は手早く給仕し、さっさとその場を離れようとする。

「ねぇ、坊や。一口食べてみぃひん?」

女に呼び止められた。
いや言葉だけではない。いつの間にか手首を握られている。
逃げられない。

「おい、梅春
「すんまへん子爵様。でもこの子、『ウチらの皿』に興味深々みたいやで」

十平は首を絞められたかと錯覚した。
違う。二人の異様な雰囲気に気圧されているだけなのだ。
決して、いま机の上にある二つの皿に蠱惑な引力を感じているわけではない。

「気づいたんやろ? このお肉、なんのお肉なんか」

わかっていない。十平は気づいてなどいなかった。
わからないが、常人と異なる嗅覚は禁忌の匂いを嗅ぎ取り、常人と異なる触覚は肉からの異様な鼓動を感じ取っていた。

ただ、あぁ。
とても、美味そうだ。

「ウフフ、かわええなぁ。あと三十年くらい経ったら、一角の偏食家になれるで、君」
「偏食家の丁稚が料理店で奉公か、ぞっとせんな」

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