憂鬱な目覚め
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「気分は如何ですか?」

冷たい声で“彼”は目を覚ました。少し眠っていたらしく、有りもしない目を有りもしない手で擦りそうになる。“彼”には目が無いが、透明な壁の向こうに白衣を着た人物が見えた。

「あぁ、博士か。気分は悪くない。」

寝起きであった為か機嫌も悪く、重たい体を持ち上げながら応えたが相手はそれを気にする様子も無く淡々と資料を取り出していく。食事の時間になっていたが、“彼”には食欲は無かったし何もしたくなかった。

「この静かな城内で、氷の棺桶の中で快適に過ごさせてもらえているのでな。」
「ならば良いのですが。お食事はまだですよね?」

相も変わらず淡々と話しかける研究員に“彼”は皮肉も通じないのか、と内心悪態を吐きながらも答える。

「生憎腹は減っておらん。先日たらふくご馳走して頂いたのでな。我は眠いのだ。」

精一杯の皮肉を込めて言い放つと“彼”はそのまま水槽内に置かれた紙のベッド(だんぼうる、と言うらしい)の上で再び寝転がった。そのまま不貞寝を決め込もうとしたがまたも冷たい声が掛かる。

「いけませんよ?昨日も飲んでないらしいじゃないですか。一応、担当研究員としては貴方の健康状態の維持もひとつの務めなんです。必要なら皿でも用意しましょうか?その程度ならば私の裁量でどうとでもなりますが。」
「いらん!我の事は放って置け!」
「先日の件を気にしてるんですか?アレは唯の実験であってその事で貴方への扱いが変わる事はありませんよ。」

研究員の言葉で“彼”の心中に先日の出来事が思い浮かぶ。大言壮語を吐いた挙句に晒したのは赤っ恥だった。目覚めた後に見た研究員の顔には明らかな同情の色が浮かんでいたし隣の仮面の男は笑いながら紙のベッドを放り込んだ。そして気が付いた。自分はもうちっぽけな姿のまま生きていくしか無いのだと。その事を思い出すにつれて“彼”の怒りは倦怠感へと変わっていった。

「好きな様にしろ。同情なぞいらん。」
「別にそんなつもりは無いのですが。」
「その割にはえらく優しいな?シマムラ博士。」
「下北沢ですよ。貴方は名前を正確に憶える努力をした方がいいですね。報告書も曖昧な証言のせいで上の人達からお叱りを受けてるんですから。」
「下らぬ名なぞ憶えるだけ時間の無駄だ。」

言い終えて“彼”は気が付いた。そういえば、ここに来て呼ばれるようになった名を今日一度も呼ばれていない。

「エスシーなんたらとは呼ばないのだな?さては貴様も人の名を憶えられないのではないか。シモキタザワ!」

そう言って高笑いをする“彼”に研究員は答えた。

「そうですね。自らの担当する存在との円滑なコミュニケーションを図るのも研究員の務めですし、名を忘れるのも思い出すのも私の“裁量”でどうとでもなりますから。」

血液を用意しますと言いながら部屋を出ていく研究員の後ろで、高笑いが段々と小さくなっていった。

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