マクロぺタラ
評価: +39+x
blank.png

0

"お前に7年くれてやる。"

暗闇の中、皺嗄れた声が後ろから耳を撫でた。僕の右肩に置かれた手は冷たく、骨に牛革を巻き付けたような硬質さを直に伝えてくる。何度も見た夢だ、続く言葉も知っている。

"だから好きに生きると良い。"

ずり落ちるようにして離された手を追うように振り返っても、そこには誰も居ない。何が僕に囁いているのだろうか。無論、神などではないだろう、かと言って悪魔のようにも思えなかった。ましてやその何者かに、己が生かされているなどという認識すらない。

そうして目が覚めたら綺麗さっぱり忘れ、悠々と日々を送るのだ。

1

[2013/3/29]

ゆき、お前は私が居なかったら6年前には死んでたんだぞ」
「またその話ですか、父さん」

伊勢山 喜は赤ワインでにわかに熱を帯びた父、伊勢山 のぶの小言をいつもの愛想笑いで流した。

「私だって何度言ったか覚えてないさ、だがな……今回ばかりは訳が違うだろう」
「わかってます、門出の日ですからね」

静かに時が流れるレストランでスーツ姿の父と子が向かい合う。彼らに血の繋がりは無かったが、心を以て心に伝うすべは心得ていた。故に父の言葉の意味するところを子は理解していた。理解していて、解ってないような態度をとったのを父は知っていた。

「私の思っていたお前の門出ではなかったがね。なあ喜、なぜ私はお前に学を仕込んだと思っている」
「僕が良い将来を迎えられるように、ですよね」
「そうだとも、そうだとも。わかっているならば……なぜ、私の後を追うのだね」

サイト-8165管理官、伊勢山 信。彼が6年前に拾った14歳の少年は、年齢詐称で修めた親心に誇らしい学歴を財団というドブに投げ捨てんとしていた。

「僕は父さんの力になりたいんです、何度言ったか覚えてません」
「親不孝め……」
「直ぐにそんな事言えなくしてみせますよ」

目を伏せ背凭れに身を預ける父を前に、子はしゃんと背筋を伸ばしたまま軽口を転がす。父の目は余計に細くなる。

「考え直しては……くれないんだろうな、お前はそういう奴だ」
「ええ、そういう奴です。それに、こういう話は研修に入る前にも既にしたじゃないですか」

父は参ったと言わんばかりに肩を落としてため息をつく。一呼吸開けて携帯電話を開き、子の前でおもむろに通話を始めた。

「ああ、わかっていたさ……だから、今日は人を呼んだ」

通話を終え、携帯電話を閉じた直後にレストランの扉が開く。つかつかと、長身の女が二人の元へ歩み寄ってきた。

「お疲れ様です、伊勢山管理官。この方が例のお子さんですか」
「そうだ。紹介しよう、喜。彼女は正木 鈴まさき すず、明日からお前のバディをやってもらう」

バディと紹介された喜より2,3歳上に見える彼女は、外套を片手に眼鏡を正し、喜に品定めするような視線を向ける。

「初めまして喜君。私は正木 鈴、長い付き合いになれるようお互い頑張りましょう?」

2

[2013/5/1]

初めのひと月を共にした喜の印象を一言でまとめるなら、"絵に描いたような優等生"だ。伊勢山管理官は恐らく彼のことが心配で仕方ないのだろうが、明らかにバディ――と銘打った"おり"――をつける必要はないぐらい彼は優秀で、清濁併せ呑む事を心得た精神も持ち合わせた優良株であった。

『鈴さん、主犯格と思しき人物の拘束に成功しました。そのまま儀式の妨害も試みているところです』
「さっすが。そのまま一人で片せそう?」
『暇しているなら手伝いに来てほしいのですが』
「失敬な、バッチリお仕事中よ」
『左様ですか』

喜から無線が飛んできた。相変わらずの仕事の速さについ舌を巻いてしまう。見回りをしていた男を縛り上げて追い剥ぎする手を止めないまま軽い冗談でこちらの空気感を伝えた。

私と喜はFAフィールドエージェントだ、特に"契約"が発生するタイプの異常存在の確保と、それに能動的に関わった人物・組織の制圧を専門としている。専門は適性検査と希望調査で決定するのだが、聞くところによると喜の第一希望がそのまま通ったとの事だ。彼がこれを専門にしたかった理由を本人に聞いてみたところ、やたらと小難しい宗教学だか考古学だかの話を延々と語ってきた。よくわからないが兎に角拘りがあるらしい。

『儀式の妨害に成功しました。尤も、随分とお粗末な祭壇だったのでこのまま続けさせてても失敗していたでしょうが。直接触ったらまずいモノにはマーカー付けておいたので、拾えるものだけ拾って袋に詰めてから撤収します』
「はいよ、お疲れさん。じゃあこっちで機動部隊後処理呼んでおくからエントランスで落ち合おうか」

ともあれ、ケチの付けようがない仕事ぶりを見せてくれるため一応彼より3年先輩の私のメンツも仕事もない訳だ。まあ私はそれを気にするようなタチでもないので別に良いのだが、むしろ……この後の方がメインの仕事とも言える。

「お待たせしました」
「それ、先に着いて待ってる君の台詞じゃないと思うよ」

最低限表を歩けるような服装に着替え、装備を外してからエントランスを出る。外はまさかこのおんぼろ雑居ビルで悪魔召喚(未遂)が行われていたなんて思ってもみないであろう通行人で賑わっている。車を停めてあるコインパーキングはここから少し歩いたところだ、どちらが先行するでもなく並んで歩き出す。

「この後のタスクは?」
「今回の件の報告書を纏めるぐらいです、他の仕事はこれと言ってありません」
「そっかそっか……じゃあ行こうか」
「……行くって、どこにですか」

私の言葉を聞いて一瞬彼の動きが固まり、そして歩く速度が速くなる。そんな彼の手首をグイっと掴んで私もまた歩き出す。ただし行き先はコインパーキングではなく、ちょうど通り過ぎんとしていた商店街だ。

「とぼけちゃって、素直じゃない。もういつもの事なんだから解るでしょう?」
「勝手にルーティンにしないで下さい!真っ直ぐ帰りましょうよ!」

彼の訴えを無視したままずんずんと商店街の人込みを分け入っていく。ぎゃいぎゃいと文句を言っているが気にしない、どうせそろそろ周囲の訝しむ目に委縮して静かになる頃合いだ……ほらなった。

「私の奢りなんだから、細かいこと考えずについてこればいいの。わかる?」
「そういう問題じゃないんですが……」

私のもう一つの仕事、それは――

[2013/4/5]

「人付き合いを覚えさせてほしい、ですか。別に特にコミュニケーションに困っている様子はありませんでしたが」
「それはフォーマルのやり取りの話だろう、それに関しては私が礼節を叩き込んだから問題ないのだが……いや、だからこそ問題と言うべきか」
「……?」
「その……なんだ、私は職員を育てるのは得意だと自負しているが……子を育てるには些か向いてなかったようでね。喜に友人付き合いのやり方という物を教えられなかったのだ。大学にも年齢を3年詐称して入れさせたからな、友人が出来なくても当然だったわけだが……私がそれに気付いたのはつい最近になってからだった」
「はあ……」

管理官室に私を呼びつけた伊勢山管理官の言葉からはいつも歯切れの良さがまるで見られない、どうやら余程責任を感じているらしい。

「つまり、彼の友達になってやってほしいという事なのだよ。仕事上の付き合いだけでない友人にね」

「はぁ……落ち着かないです」
「たかがファミレスで大げさな。まずは背凭れを使う所から始めてみたら?」
「そういう話じゃなくてですね……任務終わりに寄り道するのが慣れないという話をしているんです」
「真面目だねぇ……」

ファミレス特有の長細いメニューをくるくると指で弄びながら喜をからかう。肩ひじ張りっぱなしのその姿は、初めて会ったときにやたらと上品ぶったレストランでそこの空気感にいたく馴染んでいたの彼と同一人物だとは到底思えない。もはやこっちとしてはそんな反応にも慣れてきたが……ここはひとつ、仕事の話で彼のプレッシャーを解いてやるとしよう。

「しっかし、今回の連中も凡庸というか……わざわざ私ら専門家が出向くまでもなかったんじゃない?」
「確かに全体的に準備不足感が否めない儀式でしたし、探知対策もされていませんでしたが……失敗したからといって周囲に被害が及ばないとは限りませんからね、やはり僕達が出向くことに意味はあると思います」
「……真面目だねぇ」
「それはもう聞きましたよ」

やはりそうだ、仕事の話になると彼は饒舌になる。学生時代も大方こんな調子だったのだろう、なるほど友達が出来ない訳だ。学問の話をしたがる大学生なんてこの世には存在しないのだから。

「真面目と言うより……本当に好きなんだろうね、この仕事」
「ええまあ、そうですね。大学でもそう言った分野を学んでましたし」
「だからこそ解せないけどね」
「……と、言いますと?」

喜は半分ほどになったデミオムライスを食べる手を止め、首を傾げる。私はボンゴレに突っ込んでいたフォークで彼を指さした。

「そんなに好きなら研究職をやればよかっただろうに、どうしてFAなんてやってるのさ」
「……」

ポカンとした顔を見せる喜、ふいに静寂が訪れた。少しの間そうして時間が流れたのち……喜はおもむろに口を開いた。

「……鈴さんは、悪魔という概念と契約という行為が初めて結びつけられたのがいつの時代のどこかご存じですか?」
「…………ん?」
「これは資料の絶対数が少ないせいで確証はない話なのですが一般には――」

ペラペラとやたら熱烈に語りだす喜、私はそれが私の問いかけに答えるための説明であることに気付くのに数秒を要した、その逡巡の隙にもう既に彼の話についていけなくなってしまった……

私はつくづく実感した、彼に仕事の話はさせてはいけない。彼の人付き合いを改善するならばこれは賢明なやり方ではなかったわけだ。私は彼の呪文をバックにひとりそんな反省を反芻していた。

3

[2013/7/15]

「うわ、恐ろしく暑いね……」
「単に冷房を切っているだけではなさそうです、室温が儀式の条件に関わっているのだとしたら相当に繊細な代物を扱っていそうですね……期待が持てます」
「期待?」
「ああ、いや……バッタもののカルトには飽き飽きしていましたから」

さっさと済ませましょう、彼はそう言い残してさっさと階段を昇って行った。彼の仕事中の働きぶりはこの数か月で随分と変わってきた。初めのころは私の仕事を1から10まで奪い去っていたのが、私がそれなりに仕事をする前提で立ち回るようになったのだ。ガサツになったとは考え難い、ともすれば私を多少なりとも信用してくれたのだろう。そう考えると私も俄然やる気が出てくる。私は彼の退路を保障すべく、手始めに警備室へ押し入ることにした。

『聞こえますか、鈴さん』
「うん、どうした?」

警備員2人を眠らせて掃除道具入れに突っ込んでいたところに無線が入る。その言葉遣いはいつも通りだが、どことなく言葉に気迫があった。興奮しているような、そんな声。

『久々の当たりです、異常実体がばっちり顕現してますね……』
「ありゃ、事後だったか……敵対は?」
『攻撃はしてきません、言葉は通じています。銃を向けても怯む様子はないですから、まあ効かないものと見ていいと思います』
「了解、直ぐに向かうから待ってて。何階にいる?」
『4階です、クリアリングは済んでます』
「オッケー、3分で着くよ」
『3分……分かりました』
「この後コーヒー奢ってくれるなら2分で向かってあげようか」

ブツッ、通信が切れる。わざわざ切らなくたって良いだろうにと思わなくもないが、兎に角向かわなくては。

「……どうよ、1分と50秒で着いた」
「わざわざ計ってませんよ……」

辿り着いたのは窓のない正方形の部屋、喜に眠らされたと思しきローブ姿の男女が4人床に転がっており、部屋の一角で轟々と暖炉が燃え盛っている。そして部屋の中央には――

「中々珍しいわよね、ここまでコテコテの悪魔ですって感じの悪魔も……」
「……」

――黒い体毛に羊の角を携えた痩せこけた人型実体が鎮座していた。ニタニタとした笑みを浮かべたまま沈黙している、そして茶化すように組んでいた腕を解いてこちらへひらひらと手を振って見せた。喜はその悪魔に銃口を向けたまま、額にじっとりとした汗を滲ませている。

「戻し方が判らないって感じであってる?」
「まだ調べれてないです、なにせ警戒を解く訳にもいかないので……」
「わかった、じゃあ銃向けるのは私が代わるから、その間に宜しく」
「了解です、やってみます」

結局、悪魔は喜が帰し方を紐解いて実行するまでの間、一切のアクションを起こさずただただ私や喜を観察するようにねめ回すばかりだった。暖炉を消した部屋に嫌な熱気と消し炭の臭気が残されている。

「よし……じゃあ、帰りましょうか」
「ええ、そうね」

何だろう、どことなく彼の言葉に、このやり取りにぎこちなさを覚える。部屋に充満した炭素ガスのせいかもしれないと思い、廊下に逃げる様に出てきた。階段を下りる間、喜は一言も言葉を発することは無く……建物を出ると、おもむろに立ち止まった。こちらへ向き直る。

「……喜君?」
「…………今日」
「今日?」
「今日は何処へ行くんですか、連れてってくれるんですよね?」
「……あぁ、成程…………成程ね、ふんふん……」
「な、何ですか……」

成程、何か口ごもっているとは思っていたが、ようやくお決まりの流れを受け入れる気になってくれたらしい。しつこく外出に振り回し続けた甲斐があるというものだ。だが……

「連れてってくれる、ってのはちょっと違うよ、喜君。私達は一緒にランチに行くんだ、なら君が店を提案してくれたっていいじゃない?」

「驚いたよ、まさか君が二郎系なんて食べるとは」
「……1人でも入りやすいんですよね、ラーメン屋」

スーツ姿のサラリーマンに紛れてカウンター席に並ぶ私と喜、私がもっぱらこんな店に来るのは初めてだから浮き足立ってしまっているのを、喜は窘めるようにコップに水を注いで差し出した。

「とてもじゃないけどレディを連れてくる店ではないんじゃない?ま、いいけどね」
「鈴さんは仕事仲間であり友人ですから、今更そんな事に気を遣うのも気持ち悪いでしょう」
「……真面目だねぇ」
「それ、口癖になってません?」

確かに真面目という評価は些かズレていたかもしれない、そんな自省をしこたま背脂の浮いたスープで押し流した。

「しかし本当に真面目よね、鷹が鳶を産んだみたい」
「……父さんは真面目な方ですよ」
「礼節がなっているのと根が真面目なのは話が別よ」
「……」

にわかに喜の表情が曇る、ムッとした顔をちらと見せて、すぐ誤魔化すように茹でもやしを頬張った。まずい、どうやら父親を揶揄うのは地雷だったと見える。私がどう取り繕おうか悩んでいると、もやしを飲み下した喜が再び口を開いた。

「……似てなくても仕方ないでしょう、血縁は無いんですから」
「おっと……」

地雷も地雷、大地雷じゃないか。何故こんなにも大切な話を伊勢山管理官は私に伝え忘れていたんだろうか。いや、彼の事だ、失念していたのではなく彼なりに気を遣った結果なのだろうが……やはり彼に父親の素質はなさそうだ。兎も角、私はそれを知らなかったことを正直に伝え、軽く謝罪した。すると喜は伸びかけの麺をそれ以上留め置くまいと一息に啜ってから自分が伊勢山管理官に拾われた養子であることを私に話してくれた。

「父さんは伝えていなかったんですね……それなら仕方ありません」
「いや、私も浅慮だったよ。しかしその、"拾った"ってのは一体全体どういう……」

乗りかかった舟だ、この際聞けるとこまで聞いてしまおう。そう心に決めた私はスープの濁りに沈んだ豚バラを引きずり出しながら話を続けた。

「文字通り拾われたんですよ。当時はまだ博士だった父さんに」
「どこで」
「研究施設です、6年前の11月に。守山事件って言って伝わりますかね」
「あー……」

聞き覚えのある単語だ。確か、どっかの要注意団体が片田舎に建てた研究施設で事故が起きてアノマリーが流出した事件だったはずだ。詳細は知らないが、その事件の事後調査に赴いたのがうちのサイトの職員だったという話も又聞きした気がする。

「僕はそこで実験用に捕らえられていた戸籍上存在しない人間だったんです、それが例の事故で研究施設が壊滅して、壊れた施設の中に取り残されて……そこへやってきた財団の調査員、つまり父さんたちに奇跡的に助けられたんです」
「ふむ……それで返す家もないから伊勢山管理官が引き取った訳ね」
「はい、本来なら財団フロントの孤児院に入るのが通例だったわけですが……その、時期が悪くて入れなかったんですよね」

ともすれば単なる親子の仲とは思えない父親への崇敬の念も頷ける。喜にとって彼は紛れもなく命の恩人であり、尊敬の対象。彼がそう望んだのなら16で大学にも入るし友人を作る間を惜しんで勉学に励むわけだ。しかしそうなると今度は更に疑問が浮かんでくる。

「喜君と管理官の間柄はよくわかったよ、素敵な話じゃないの。じゃあ君はどうしてそんなに尊敬してる管理官の言葉に背いてまで財団に来たの?」

スープを涸らさんと丼を傾けようとした喜の手が止まる。彼のこういった硬直反応は今に始まった話ではないが、やはり慣れない。穏やかそうな顔をしておいて地雷原が過ぎるのだ、この男は。

「……父さんに、長生きしてほしいので」
「うん……?どういう事?」

想定していたどれとも異なる回答に困惑を隠せない。しかし喜はそれ以上何を言うでもなく、改めて丼を空にするばかりだった。

4

[2013/9/6]

「まずいまずいまずい……!」
「物理的な制約を受けてくれることだけは救いですね、どうします?機動部隊おうえんが来るまで鬼ごっこを続けますか?」
「君はできるだろうけどさぁ!」

例のごとくカルトの現場に乗り込んだ私達は、顕現済みの半人型異常実体とまさに契約を結ばんとしていた袴姿の大男を部屋の外から撃ち抜き、続いて部屋に押し入りながら道中に拾った消火器で床に広げられた祭壇を洗い流した。いつもならそれで大抵の異常実体は効力を失うか帰っていくのだが、此度の個体は帰るどころか烈火のような怒りを顕にし、こちらへ襲い掛かってきたのだ。反撃されること自体は初めてではないのだが、今回ばかりはこれまでと格が違う。並の相手なら1,2発で黙らせるテレキル銀がBB弾のように弾かれてしまうだけでなく、鞭のような形状の肢体を唸らせて一振りごとに床や壁に大穴を開けて見せるのだ。ここが古典的日本家屋ではなくただの雑居ビルだったなら間違いなく廊下の端に追い詰められていた事だろう。

「いや、僕だけってのもありかもしれないです。出口がわからない訳じゃあないんですから、鈴さんだけ先に外に出て体力を温存してください」
「本気で言ってるの!?」

私達がここを離れられない理由は唯一つ、さっきから執拗に追い回してくる黒一色の蛸人間が私達と言う標的を失った際にこの場を離れる可能性が大いにあるからだ。確かに喜の提案は合理的だ、私が足を引っ張る前に離脱した方が、彼の為にもなる。きっとそうなのだろう、しかし……

「本気です、鈴さんなら僕が時間を稼いでいる間に何か上手い事やってくれると信じてますから。それとも鈴さんは僕がちゃんと時間稼ぎできるかどうか信用できないんですか?」
「……わかった、わかったから!ああもう、いつからそんなクサいセリフ吐けるようになったんだかもう……!」

ああ、乗せられてしまった。最近の喜はいつもこうだ、ここぞで押しが強くなる。彼はバディを組んだばかりの頃の優等生君とは似て非なる、力強い我を持ったエリートへと昇華していた。それがFAとして喜ばしい事なのかどうかは兎も角、1人の人間としての成長は確かだった。私は喜に目配せひとつを残して、縁側に踊り出る。敵がこちらを追ってこない事を必死に祈りながら生垣の向こうへ転がり込んだ。敵はこちらへは来なかったようだ、家屋の中から不規則に破壊音が外まで届いてくる。膝に手をつき呼吸を整えながらそれを見守り、額の汗をぬぐい……顔を上げたところで、破壊音が止んだ。拭ったばかりの額から嫌な汗が滲み出てくる。間もなく到着した機動部隊を尻目に、私は再び家屋へ駆け寄っていく。縁側に飛び乗り、障子を蹴り開け……辿り着いた床の間には壁際でへたれこむ喜の姿があった。そこに異常実体の姿はなく、彼が怪我をしている様子もない。彼の足元には最初に洗い流したような祭壇がセッティングされていた。こちらに気付いた喜は疲弊の色を隠さずにふにゃりと笑う。

「……生きてる?」
「生きてますよ、この通り」
「一体どんなマジックを使ったの?」
「いや、まあ、賭けだったんですが……向こうの土俵で勝負してみたんです」

彼の手にはペットボトルが一つ、中身は水のようだ。半分ほど飲み干してある。

「契約したんですよ、あの蛸男と」
「はぁ!?」
「まあ待って、落ち着いて。順に話します」

どうどう、とこちらを宥めてくる喜に言われるまま私は沈黙した。

「あいつがなぜ怒っていたか。簡単な話、取引を邪魔されたことに腹を立てたんでしょう」
「それはまぁ、そうだろうけど」
「だから僕はこんな契約を持ちかけました。"僕が彼の代わりに契約を持ちかけるから、矛を収めてくれないか"とね」
「……じゃあ喜君、まさか……!」
「待って待って、銃を向けないで。話はまだ半分ですよ」
「……続けて」

拳銃は下ろさない、私は警戒の色を隠さないまま説明を求めた。

「ここでミソなのが、殺した彼と同じ契約を結ぶとは言ってない所です。つまり、私が吹っ掛ける契約がどんなものであれ、成立さえさせれば奴は文句を言えなくなるって事です」
「……何を契約したの?」
「"お前が帰るための祭壇を用意してやるから、ペットボトルの水を一本くれ"ってね」
「……ぷっ、はは、ああばっからしい……」

そこまで聞いて、私はすっかり脱力してしまった。拳銃を握り締める手が緩む。やはり彼のセンスは規格外だ、そんな事思いついたとてやるだろうか、普通。

「流石に肝が冷えましたよ……」
「無茶しちゃってさぁ……全く、ちゃんと冷やすと良いよ」
「はは、反省させてもらいますよ。さて……と」

喜は私が差し出した手を取ってぐっと勢い任せに立ち上がる。形ばかり襟を正し……私に向き直った。入口の方から機動部隊の面々がぞろぞろと入ってくる足音が聞こえてくる。

「夜ご飯、行きましょうか」
「だね、今日は何処に連れてってくれる?」

「今日はなかなか堪えましたね」
「当分は御免だね、こういうデカい案件は……」

繁華街を一つ外れた裏路地のダイナー、そのアメリカンアンティーク調のカウンターテーブルには私と喜の2人が居るばかりだ。平日の23時ではそれも仕方ないだろう。愚痴をこぼしながら控えめな直径のバンズにタコミートをたんまりと挟み込んだメキシカン・バーガーを袋に収めてピンを抜く。隣で喜は顔ぐらいあるコンビーフホットサンドを頬張っていた。

「しかしまぁ、こんな大事になりそうな案件を上はよく私達2人に任せようと思ったよね」
「それだけ評価されている……と考えれば少しはポジティブに捉えられません?」
「ものは考えよう、かなぁ……まっさか私がエリート扱いを受ける日が来るとはね。喜君様々だよ」

正直、そんなに出来る人間だと思われても困るっちゃ困るのだが、喜の性格からして高い評価を受けてる事は素直に喜ぶタイプだ、下手な水は差すべきじゃない。

「大げさですよ……あ、そういえば今思い出したんで訊くんですが」
「ん?」
「鈴さんは僕と組む前は何をしていたんですか?」
「あー……」

いつか聞かれるとは思っていたが、話す機会が来るまで思ったより時間が掛かってしまった。別にやましい過去があるではないのだが。むしろ……

「覚えてないんだよね」
「……記憶喪失って事ですか?」

んー、と小さく唸りながら首を傾げる。記憶喪失で間違ってはいないのだろうが、ニュアンスとしてはもっと、こう……

「いや……何というか、自分のしたことに自覚がない、って言うのかな。どんな学生時代を送ってどういう経緯で財団に入ったのか、記録としては残ってるし、そうした記憶もあるんだけど……自分の人生なのに、まるで誰かに渡されたあらすじを読んでいるみたいに他人事なの」
「…………なんか盛大にやらかして記憶処理を受けたとかではないんですか?」
「痛い所を突くね、喜君……」

全く否定できない指摘に苦笑いを隠せない。逃げる様にダイエットコーラを啜る。

「実際、何度かカウンセリングを受けたりしてるんだけど……特に頭に異常はないみたいで。私の自己認識以外はまるで正常なんだよね」
「いつからそんな風なんです?」
「数年前、かな。はっきりといつから自分の記憶としての自覚が持てるようになったかは……判らない」

とは言え別にそれで悩んでいる訳でもないので、重苦しさを出さないよう茶化した口調で振舞った。バーガー袋の底に溜まったタコミートをフォークで拾い上げながら話を続ける。

「だから記録上の私の話をするなら、喜君とタッグ組む前は第三類調査さんぽをやっていたよ」
「一般的な新人FAの業務ですね」

第三類調査とは鞄に諸々の計器を詰め込んで街を練り歩き、異常が日常にまろび出ていないか目を光らせる仕事だ。私達がカルトの現場に押し入るのも、第三類調査を行っているFAからの報告に基づいて行われるのがいつもの流れとなっている。まあつまり、私は凡庸な新人エージェントに過ぎなかったという訳だ。

「それがどういう訳か、君のバディをやっている」
「言われてみればどうして父さんは鈴さんを指名したんですか?」
「さぁ?」
「さぁ、って……」
「適当言ってるんじゃなくてね?ほら、君のお父さんは仕事の事になると不言実行だからさ……何かしら思惑があっての事だろうけど、教えてはくれないんだよね」
「ああ、成程……」

皿の上でパラパラとパンくずを払いながら曖昧な笑い声を漏らす喜、管理官のそういう振る舞いに心当たりがあるのだろう。

「とにかく、私はそんな事とっくに気にしてないし、気にしないで?」
「……まぁ、鈴さんがそう言うなら」

すんなりと引き下がる喜、腫物の多い彼だからこその潔さだろうか。

「それにほら、大事なのはいつだって今この瞬間でしょう?」
「もちろん、その通りです」
「無茶な仕事は振られるけどさ、でもすっごい充実してる毎日だよ。それで充分じゃない?」
「何と言うか、能天気ですね」
「その言い草は酷くない!?」

思わぬ毒にフォークで突き刺そうとしていたウェッジカットのフレンチフライが皿を滑って飛んで行った。

「冗談です……感謝してますよ、鈴さん」
「ちょっ……君ホントに脈絡とかないわけ?」
「いや、ほら、毎日楽しくやれてるのは鈴さんのお陰じゃないですか。僕一人じゃこうはならなかっただろうし」

喜は恥ずかしげもなくそんな言葉を並べて見せる、それを伝えるのが当然だと言わんばかりに。コーラに逃げようとした私を空のグラスがズズズと窘めた。

「真面目だねぇ、ホントに君は……」

5

[2013/11/4]

「珍しい事もあるんだね、喜君」
「すいません……心配かけました」

壁際に座り込んで右腕をこちらに差し出す喜、私はそこに一文字に走る切り傷に包帯を巻きつけていく。超高層マンションの一室に乗り込んだ直後にその家主の肉体を贄に受肉した異常実体の幼体が彼に一太刀浴びせたのが5分前のこと、急襲をなんとか凌ぎ事を済ませたのが1分前のことだ。

「出待ちされてたとは言え、後れを取るなんて君らしくないよ」
「すいません……少し精細を欠いていたようです」

言われてみればどことなく顔色がよくない、どうやら不調を隠して無理していたと見える。

「まったく、君がやられたら私に危険が及ぶんだから……調子が悪いならそう言ってくれなきゃ困るよ」
「耳が痛いです、はは……大したことないと思ってたんですけどね」

包帯を巻き終えたそこをビシッと一発軽く叩いてから替えの上着を着せてやり、それから喜を立たせてやる。

「よっと、次は気を付けてよ?」
「ええ、気を付けます……じゃ、行きますか」
「ちょっと、本気?流石に今日は大人しく真っ直ぐ帰った方が良いんじゃ……」
「大丈夫ですよ、ほら、行きましょう。どうせ医療部は24時間開いてるんですし」

喜は有無を言わせぬように部屋を後にしようとする。私は慌てて後始末だけ電話で呼んでその後を追った。

……何か、妙だ。微妙に何かすれ違うような感覚。前にもこれに似た違和感を覚えた気がする。

「あれ、ここって……」
「ああ、覚えてますか」

やたら早足な喜に連れてこられたのは、3月の末に彼と初めて顔を合わせたあのレストランだった。私は申し訳程度に服を正す。ウェイターに案内されるまま窓際の席に座ると、11月の寒気が締め切られた窓ガラス越しに滲んできた。

「毎年、この時期になると父さんとこの店に来るんです」
「この時期?」
「11月7日、僕が父さんに拾われた日です。記念日と言っていいでしょうか、決まってここに連れてきてくれるのですが……僕も晴れて学生から社会人になった訳ですから、今年は僕の働いた金で父さんを招待するんです」
「へぇ、律儀なことで」
「それで……その、普段から鈴さんにもお世話になってますから。鈴さんも連れてきたかった訳です」
「……真面目だねぇ」

先程店員と会話していたのを聞く限りでは予約を入れていたようだ、道理でやけに強引だったのだろうと合点がいく。しかしそういう話なら前もって言ってくれればよかったものを、まったく不器用な男だ。

「――それで父さん、今度は他所の世界の人も救おうと思ってるなんて言うんですよ、全くお人よしが過ぎるとは思いませんか!」
「ちょ、ちょっと喜君、一旦落ち着こう?個室とは言えそれ多分機密だから……」

デセールも片される頃には私も喜もすっかり酔いが回っていて、とりわけ喜は顕著に饒舌になっていて、先ほどから父親の自慢話が止まらない。とりあえず水の入ったグラスを喜に半ば強引に押し付けると条件反射的にそれを呷った。

「あ……すいません、つい熱くなっちゃって……」
「落ち着いた?もう……しかし、本当にお父さんが好きなんだね」
「はい、大好きです…………だから、本当は財団なんて辞めて欲しいんです……」

喜は机に突っ伏してそんなことを口走る。伊勢山管理官に辞めて欲しいと思っていただなんて初めて聞いた話だ、そこで不意に数か月前にラーメン屋でした会話がフラッシュバックする。

「"長生きしてほしい"、から?」

喜は突っ伏したまま反応を見せない、肯定と見ていいだろう。初めて彼の本心を垣間見ることが出来た気がする、こんな形で酒の力を借りて聞くことになるとは。彼の行動、言葉、今まで絶妙に点々と違和感を残していたそれらが少しずつ線を形成していくのを感じる……今こそ、彼の事を良く知るチャンスなのかもしれない。

「前にどうして財団に入ったのかって聞いた時にはぐらかしたのも、伊勢山管理官に辞めて欲しいっていうのと関係があるの?」
「……」

喜は答えない。ピクリとも動かない。

「ねぇちょっと、喜君?聞いてる?」

腕を伸ばしてテーブル越しに喜の肩を掴み、揺さぶる。すると……喜は何の抵抗も見せず、椅子からずり落ちてどさりと倒れた。

「ちょ……まさか酔いつぶれたの?ねぇ……」

慌てて立ち上がり、彼の傍に座り込む。そして気付く。彼の指先は痙攣し、顔は真っ青になって脂汗をかいていた。

6

[2013/11/5]

「すいません、まさか食事中に倒れてしまうとは……体調が悪い時に酒は飲むものじゃないですね」
「心配させないでよ……はぁ。心臓止まるかと思ったんだから」

翌朝、医療部のベッドには点滴を繋がれたまま申し訳なさそうに苦笑する喜の姿があった。顔色は幾分か良くなったように見える。

「諸々の手続き、鈴さんがしてくれたそうですね」
「そりゃそうよ、バディだもの」
「そうでしたね……すいません」
「まったく……喜君が元気にならないと私の仕事がないんだから、ちゃんと休んでね。私は君の代わりにお医者さんに話聞いてくるから」
「そんな、悪いですよ。僕が聞きに行きますから……」

慌てた様子で起き上がろうとする喜を、私はそのままぐいっとベッドに押し返した。ちょうどそのタイミングで入ってきた看護師とバトンタッチして病室を後にする。

「どうもぉ、呪術医の櫟原です」
「……呪術医?」

診察室に話を聞きに来た私はそこに待っていた思わぬ職種の医師に困惑せざるを得なかった。30半ばほどに見える軽薄そうな雰囲気のその男は呪術医と名乗ったのだ。体調不良と急性アルコール中毒にどうして呪術医が出しゃばってくるというのだろう。

「結論から言っちゃうとですねぇ、伊勢山喜さんは死にます」
「……はい?」

死ぬ?この男は死ぬと言ったのか?

「伊勢山さんのあちこちから"紐付け"が見つかったんです、紐付けと言うのは儀式的契約において将来的に対価として支払う予定の人の部位や物に発生する呪術的な形而上学的エネルギー、いわゆる呪力の事です……って、あなた方には釈迦に説法ですかね?とまあその紐付けが、全身からくまなく。言うなれば彼は多重契約者ですね」

櫟原の言葉は右から左へ流れていくばかりで上手く頭に入ってこない。

「紐付けは"支払い"の日が近づくと二次関数的に濃くなってきて、呪力が直接的に体へ悪影響を及ぼすんですけどぉ、まぁそれが伊勢山さんの場合すっごい濃いと。早い話、数日のうちに死んじゃいますねぇ。多分まぁ2日後ってところでしょう、彼は11月7日のどこかのタイミングで体を複数の悪魔にバラバラに持っていかれて死にます」

私は口をぱくぱくと開くばかりで言葉がうまく出せない、今にも貧血を起こしそうだ。

「彼が一体どんな動機でそんな契約を重ねたのか、本当なら尋問官を呼ぶところだと思うんですけどぉ……まぁ、数日中に死ぬと判ってたらわざわざ仕事をしに来るとも思えませんねぇ。私も彼が死んでから事後報告した方が彼の為になると思うのでそうするつもりですし」
「あ……あの」
「はい、何です?」

ようやく声をだせた、覚束ない、一言。

「喜君は……助けられないんですか?」
「いやぁ~難しいでしょう。そりゃ契約を強引に破棄する方法は幾らでもありますが……あの量でしょう?ま~ず体がもちませんし……時間が限られてますからねぇ」
「そう、ですか……」

死ぬ。唐突に、呆気なく、訳の分からない死に方で。どうして私は何も知らない?喜は一体私に何を隠している?

「まぁ、どうするかは貴方にお任せしますよ。管理官に報告するかどうかも含めて」

そうして私は診察室を追い出されるようにして廊下に出て、そのままどこへ向かえばいいかも判らず漠然と歩き出した。

「そっか、バレちゃいましたか」
「……騙してたんだ」
「はい」

うろうろと治療棟を彷徨った挙句喜の病室に戻ってきた私は、診察室で聞いた事をそのまま話した。すると喜は余りにも呆気なくそれを認めた。

「随分素直に話すんだ」
「もう、どうにも隠しようがないですからね」
「どうして、こんな事を」
「……父さんに、財団ここを辞めてもらう為です」
「説明になってない」
「父さんは変なところで強情ですが……僕が父さんにとってのアキレス腱になっている事も知っているんです」
「……」
「だから、父さんの心をこっぴどく折ってやろうと思って。11月7日に父さんの前で無残に死ねるように、仕事中に鈴さんの目を盗んで契約を重ねていたんです。そうして父さんが僕をそうさせた財団に失望させ、トラウマを植え付けて辞めさせようって寸法です。ついでに父さんの弱点である僕がこの世から居なくなったら父さんはより安全に余生を過ごせる」
「……狂ってる」
「そうかもしれません」
「どうして今なの?」
「契約を引き延ばせば年に一度の検診でバレてしまいますから。やるなら1年未満で収める必要があった訳です」

理解できない。そんな成功するかも不確実な、誰ひとりとて幸せにならない計画をなぜ実行できるというのか。

「……私の事も信じてなんかいなかったんだね」
「そ、それは違います。鈴さんの事は信頼してましたし、鈴さんと食事に行くのも本当に楽しくて……」
「都合のいい事言わないでよ!」

私はかっと頭の天辺まで血が上るのを感じて乱暴に立ち上がり、倒れ転がる丸椅子をそのままに病室を転がり出た。

「そういえば、聞いたよ」
「……!?」
「喜が酒で倒れて運ばれたんだってね」
「あ、ああ、その話ですか……」
「……?他に何がある」
「いえ……」

喜の事を頭から振り払うべく事務方の仕事を手やみくもに伝っていた私は、ある書類を伊勢山管理官の元へ届けた際に呼び止められ、そんな話を振られた。

「全く迷惑をかけるね。しかし良かった、まさか喜が君にそうも心を開いてくれるとは」
「私はただ……いえ、ありがとうございます」

ずきり、痛むものを感じる。

「やはり見込み通りだったよ、彼は少年時代を施設に閉じ込められて過ごし、そして君には記憶の空白がある。過去が欠けたもの同士、通じるものがあると思っていてね」
「……それで私を、彼に……」
「そうだ、そういえば話してなかったね。兎に角、私は嬉しいんだ。喜はこの7年間でいま一番楽しそうに見えるのだよ。ありがとう、正木君。これからも喜を頼むよ」
「……はい、任せて下さい」

私はその台詞をちゃんと言葉に出来ていただろうか。逃げる様に管理官室を後にする。

……悔しい。

何も知らずに悠々と過ごしていた自分が憎い。こんなにもあんまりな現実を教えてくれなかった喜が憎い。だから
……喜の思う儘には絶対にさせたくない。

「櫟原先生!」
「うわっ……ああ、あなたですか……どうしました?」

診察室の扉を乱暴に開き、押し入る。露骨に迷惑そうな顔を見せる男に私は勢いのまま頭を下げた。

「喜君を助ける方法を、教えてください」

7

郊外へ続くバイパス道を130km/hでかっ飛ばす。目的地はとある隔離サイトだ。

「……やめましょうよ、鈴さん。こんな事したって……」

助手席に座る喜が恐る恐る声を掛けてくる、その手首には私が掛けた手錠が嵌められている。今に至る経緯はこうだ。

「まあハッキリ言ってしまえば私が彼を助ける事は出来ないんですね、呪術の総合医なので。ただ、ここからちょっと離れたところに契約儀式の研究を専門に扱っているサイトが有るんですよ。そこでなら或いは何か知ってる……かなぁ~、と」
「行きます」
「……何度も言いますが、より惨い結果になる事だってあり得るんですよ」
「……お願いします」
「はぁ……わかりましたよ、じゃあこちらからアポを取っておくので、伊勢山さんを連れて向かってください」

正直に言えばダメ元だ、それは否定できない。時間だって残されてない。だがそれでも、今より早くはならないのだから……今に賭ける他ない。辿り着いた僻地のサイトの門を60km/hで滑り込み、守衛にしこたま怒鳴られたのを無視して研究棟の指示された部屋へ喜を引き摺っていく。

「じゃあ、始めましょうか」

桑谷と名乗った博士が放った第一声はそれであった。

「え、は、始めるって」
「検査です、私は回りくどいのは嫌いなので。時間もないなら俄然早い方が良い」

言われるままに手錠を解いた喜を彼の助手に引き渡すと、連れていかれる喜を尻目に彼はそのまま私に説明を始めた。

「端的に説明しましょう。彼は助けられます」
「……!」
「ただし、全ては彼が協力的か否かに掛かっています。私がこれから説明するすべての段取りは、彼自身が助かる気がないのなら成立しません。説得が誰の役割りなのかは、解りますね?」

私はひとつ頷く、本当に説得できる確証はない、なにせ喜が今何を考えて居るのかだって判らないのだから。しかし、迷っている場合ではないことだけはよく解っていた。

「なら良いです、説明を続けましょう。後払い型の契約と言うのは大抵、支払日までの間だけ何らかの力を使う権利を与えるタイプです。そして実際の検査結果を待つ必要がありますが、彼はそうして契約で得た力を使ってはいない」
「判るんですか?」
「使ったらバレるんですよ、サイトに標準装備されている計器に引っ掛かるので」
「な、なるほど……」
「つまり、レンタカーを借りるだけ借りて車庫から出すこともしていないような、そんな状態です。レンタカーであれば大抵払い戻しなどできませんが……悪魔相手ならば別です、契約をぶった切ることができる」
「それはどうして……」
「悪魔は1:9悪魔で利益が生じるトレードなら人を騙してでも契約できる。しかし0:10悪魔の契約だけは結べないんです。だから利益無発生を悪魔に訴えればその契約を破棄することが出来る」
「なんだか、言葉尻を捕らえて遊んでいるように聞こえるんですが……」
「もちろん、悪魔とてタダでは引き下がらない。キャンセル料を要求してくるでしょうね」
「キャンセル料……ですか」
「はい。何で支払わされるかは悪魔によるでしょうし、多寡もわかりません。そして彼の契約を彼の代わりに破棄するのは貴方だ、キャンセル料は貴方が支払う事になる」
「……」
「貴方と彼がどんな関係なのか、私は知りませんが。いずれにせよ、相応の覚悟は持つべきです。貴方が失うものは即物的な何かですらないかもしれない」
「……覚悟なら、出来ています」
「なら、いいです。検査もじきに終わるでしょう、私は準備に取り掛かります。貴方の最初の関門は彼を説得し、彼がこれまでにどんな契約を結んだのか白状させる事、いいですね?」

私が再び頷くと、桑谷は別室へ引っ込んでいき……入れ替わりで喜が戻ってきた。

私は矢継ぎ早に桑谷から聞いた説明を繰り返した、ただし……私が傷つきうるという話だけは伏せて。

「……だから、私に君の契約を解かせてほしい」
「いいですよ」
「……えっ」

想定外に呆気ない返事、後ろで見守っていた桑谷の助手とつい顔を見合わせる。

「僕は計画通りに父さんの前では死ねないんでしょうし、どうせどうにかなるものでもありませんから。それで鈴さんが納得するなら、すればいいと思いますよ」
「……後悔しても知らないよ、絶対に解いてみせるから」

その言葉は最大限の強がりだった、悔しくて堪らない気持ちが更にぐらぐらと煮えたぎるのを感じる。喜は"左様ですか"と冷笑交じりに呟いて、サラサラとメモを書き連ねていく。それは彼がこの1年間で契約した異常存在と契約内容、そしてその召喚方法だった。その数8件、1か月に1件は契約していた事になる。改めて感じる道の険しさにごくりと生唾を呑み込み、そのメモを別室で準備している桑谷に手渡した。

「前情報通りと言いますか、任務中に契約を重ねていたようですね」
「それを見て判るものなんですか?」
「ええ、私は国内で発生した契約儀式の事例全てに目を通して記憶しているので」
「す、凄い……」
「感心している場合じゃありません……ここからが正念場、もっとはっきり言うなら地獄ですよ」

言うまでもない、と頷いた。覚悟はとうに出来ている、正直、私自身でさえ、どうしてこうもこっぴどく裏切ってきたあの男の為にここまで出来るのか解らない。だが、どうしても。

彼を救わなければ気が済まないのだ。

"その髪で支払え"


いいよ、それくらい。幾らでも切り落とせばいい。

"貴様の血で償え"


殺しはしないんでしょう?ならタダみたいなものでしょ。

"小指を落とせ"


小指かぁ、まるでヤクザだね。

"爪を自ら剥ぎ取れ"


小指だって切れたんだから、多分爪だって我慢できる……はず。

"奥歯を貰おうか"


麻酔……は、してくれないよね。

"左目を寄越せ"


……片目あれば充分でしょう。

"処女を捧げろ"


…………

"刺青を彫らせろ"


………………何やってるんだろうね、私。

8

「な……す、鈴さ……」
「はは……そんな悲しそうな顔しなくたっていいのに、喜君」
「ど、どうして、何があってそんな……!」

血相を変えて駆け寄ってくる喜、ああ、ちゃんと私の事心配してくれるんだ。

「契約、ちゃんと全部破棄してきたよ。私の勝ちだね。へへ……」
「……違う」
「ん?」
「違うんだ!僕はこんなになるなんて知らなかった!知ってたら説明していたんです!なのにっ、なんで、黙って、こんな……!あぁっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!」

喜は突如、半狂乱になってのたうち回る。その理由が解らず私は兎に角桑谷の助手と協力して暴れる喜を押さえつけた。真っ赤に充血した目が眼振を起こしながら私の方を見詰めている……

「落ち着いてよ喜君、私なら大丈夫だから……」
「無駄なんだ!僕は……僕はっ!契約なんかなくても7日までしか生きられないんだ!」
「……何、言って……」
「…………僕はもう、契約済みなんだ、7年前に……」

一頻り発狂が収まった喜が嗚咽を漏らしながらぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。

「7年前のあの日、壊れた施設の中で大怪我を負って倒れていた僕に悪魔が契約を持ちかけたんだ。"お前を助けてやる。代わりに7年後に命を貰う"って……僕はもう碌に考え事が出来る頭じゃなかった、だから死力を振り絞って頷いた……」
「そんな……で、でも、それならその契約も破棄すれば……」
「言ったでしょう、破棄できるのは対価を支払うべき状態にない時だけだと。それに、その悪魔をどうすれば呼び出せるのかも判らないんですから」

桑谷が割り込んで私の言葉を否定した。

「じゃあ、ここに来る前に言ってた明後日死ぬ理由は……」
「口から出まかせを言った、話したくなかったから」
「……どうして」
「どうしても、です」

その言葉を最後に部屋を静寂が包む、それを破ったのは……私の笑い声だった。つい、噴き出してしまった。

「なんで、笑って」
「いやぁ?気付いちゃったから。そっかそっか……安心したよ。やっぱり私のしたことは無駄じゃなかった。つまり喜君は諦めきれてないんだ、そうでしょう?」
「……違いますよ」
「そうじゃなきゃ説明がつかない、諦めてないならどうして大学で宗教学や民俗学に没頭してたのさ」
「だからそれは、父さんに……」
「"僕は初めから狂ってて父さんの前で爆発四散するために四年間勉強しました"って?そんな馬鹿な話ある訳がない、君は7年というタイムリミットを何とか打ち砕けないかと模索したんだ。模索して模索して……それでもダメで、諦めて。そしたら一気に壊れた。それが君だ」
「……違う!」
「いいや違くない!君はまだ――」
「生きたいに決まってるじゃないですか!」

劈くような裏返った痛烈な叫び声が部屋にじんと響く。さっきまで血走っていた目が大粒の涙でぐずぐずになっている。

「諦めるのに、どれだけ苦悩したと思ってるんですか……狂うのに、どれだけ苦労したと思ってるんですか……今更掘り返さないで下さい!もうあと2日だったんだ!忘れたふりして悠々と過ごせればよかったじゃないですか!」
「それは違うよ、喜君。君が死んでも、私達は残されたままなんだ。君がもし独りを貫いていたなら、あと2日で君の世界は終わるんだろう。でも君の世界はもはや君だけの物じゃない……時は、止まらないんだよ」
「でも、じゃあ、どうするって言うんですか……」
「最後まで足掻く。君が諦めきれないなら、私も諦めない」
「……」

喜は何も言わなかった、しかしその顔は憑き物が落ちたような情けない顔で……私は黙って、彼の頭を抱え込むように抱きしめた。それから、立ち上がる。

「どこへ行くつもりなんですか」

桑谷が呼び止める事無く問いかけてきた。私も足を止めずに答え去る。

「守山。手掛かりがあるならそこしかない」

9

「着いた……」

辿り着いた廃墟は当時の様子をそのまま物語っているかのような半壊状態で、警備の一人も配備されていなかった。これ幸いと侵入を果たした私は瓦礫を踏み越えながら手掛かりを探していき……

「……あった」

ここだ。瓦礫が奇跡的にドームを形成していたそこは紛れもなく記憶の中のあの場所だ、喜は私の横に座らされて…………待って、私は何の話をしてるの?あの時って?いや、そもそも、どうして私は道も聞かずにこの場所に辿り着けたの……?

「思い出したようだな」

突然背後から聞こえた声にびくっと肩を震わせてから咄嗟に振り返る。そこには骨に皮を貼り付けたような茶褐色の老人が立っていた。

「現実を捻じ曲げようと僅かな記憶の残滓を辿って運命が如く手繰り寄せる。やはり人間は面白いな」
「貴方は、誰……いや、私は貴方を知っている……!」
「7年ぶりだな、お嬢さん」

混濁する記憶、取ってつけたような紛い物の日々がガラガラと音を立てて崩れていく。

「悪魔だ、貴方が7年前に、喜君と契約した……」
「如何にも」
「私はそれを破棄しに来た!無茶苦茶を言ってるのは解ってる!でも――」
「構わない」
「……え?」
「あの日少年と交わした契約を破棄する、それは構わない。だがな……そうしたら貴女が死ぬぞ、お嬢さん」
「…………何を、言って……」
「もう、思い出したんじゃないか?あの日、彼が本当に私と結んだ契約を」

『No.31番、前へ』
「……はい」

少年は祭壇に歩み出る。そこにはさっきまでNo.30と呼ばれていた少女の亡骸と、その後ろに立つ皺枯れた老人がいた。

『演習と同様の契約文を読み上げなさい』
「……」
『No.31?』

少年は爪が掌を抉るほど拳を握り締め、小刻みに震える。そして遠巻きに監視していた大人たちが歩み寄ってきた直後、キッと顔を上げて目を見開いた。

「悪魔、僕と契約しろ!僕の命をくれてやる!だから30を助けてくれ!」
『おい……警備員!実験は中止だ!No.31を撃ち殺せ!』

スピーカーから割れんばかりの声で指示が届いて慌てて銃を構えた警備員、しかし彼らの銃弾は少年と悪魔に届く前に失速してポトリと落ちるばかりだ。

「良いだろう、契約成立だ。だが……ただ命を奪うのもつまらんだろう」

もはや表情と言う機能を喪失しているかに思われた硬く皺だらけの顔の皮膚が明確に口角をあげ、目を見開く。

「お前に7年くれてやる。だから好きに生きるといい」

その悪魔の言葉を最後に、世界は連続性を失った。

「つまり、私の命と喜君の命、どちらかを選べと。そう言ってるのね……」
「ああ、そうだ。果たして彼の命は貴女のそれに見合うかい?お嬢さん」
「……いや、違う。私にはもう一つ、選択肢があるはずだ」

ピクリ、悪魔の眉間が動く。

「ほう?」
「私が新たに契約を結ぶ、貴方と。それもできるはずだ」
「ご明察。彼の入れ知恵かい?」
「いいや、違う。でも……彼と一緒に居れば、嫌でも思いつく」
「そうか、そうか。それで?貴女は私に何を望むんだ、お嬢さん」

求めるものは当然、一つだ。

「喜君の残りの命を奪わないと誓って。その対価は私が支払う」
「貴女はその命の代わりに、支払うだけの価値あるものを差し出せると?」
「……わからない。でも、何を持っていってくれたって構わない」

にたり。悪魔はその貌を悦びに歪める。

「その言葉、高くつくぞ……しかし覚悟は受け取った。決めたぞ、お嬢さん。私は……この世界から、貴女と彼が関わった記録、記憶、その全てを頂こう。貴女はこうも身を粉にして彼に尽くした証を、彼との思い出ごと焼き捨てるのだ」
「……」

ぞくり、背筋が震える。今更揺るがない筈だった覚悟が、今にも泣き出しそうで。

それでも。

「私はこの一年間、とっても楽しかった。喜君のお陰でね。だからこそ……それを手放す勇気も持てるの」
「……契約成立だ。おめでとう、彼の魂はこれにて解放された」

さようなら、喜君。どうかお元気で……もう死のうなんて考えちゃダメだからね。

10

"君に貰った時間を返すよ。"

暗闇の中、穏やかな声が後ろから耳を撫でた。僕の右肩に置かれた手は温かく、その柔らかな指先の感触を直に伝えてくる。何度も見た夢だろう、続く言葉も知っている。

"だから好きに生きてね。"

ポンポン、と軽く叩いてから離された手を追うように振り返っても、そこには誰も居ない。何が僕に囁いているのだろうか。無論、神などではないだろう、かと言って悪魔のようにも思えなかった。ましてやその何者かに、己が生かされているなどという認識すらない。

そうして目が覚めたら綺麗さっぱり忘れ、悠々と日々を送るのだ。

送れるはずなのに。

どうして、僕は泣いているんだろう。

[2014/3/29]

「どうだ、1年やってみて。仕事には馴染めそうか?」
「はい、父さん。我ながら板についてきた自覚がありますよ」
「なら良いんだが。聞いた話じゃお前、単独で任務に当たっているらしいじゃないか」
「あはは……なんだか、誰とコンビを組んでもしっくり来なくて」

喜は赤ワインでにわかに熱を帯びた父、信の小言をいつもの愛想笑いで流した。

「つまり、お前のお眼鏡に適う相棒が見つからないと」
「まぁ、そうなるんです……かね?」
「やれやれ、天才肌なのは結構だが……まったく」

父は参ったと言わんばかりに肩を落としてため息をつく。一呼吸開けて携帯電話を開き、子の前でおもむろに通話を始めた。

「お前がそんなだから今日は、人を呼んである。片目は無いが、腕は一流だ。きっとお前も気に入るだろう」

通話を終え、携帯電話を閉じた直後にレストランの扉が開く。

特に指定がない限り、このサイトのすべてのコンテンツはクリエイティブ・コモンズ 表示 - 継承3.0ライセンス の元で利用可能です。