SCP-RUの略史
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まぁ、我々の歴史の中で、私が見落としたり忘れてしまった点もあるかもしれない。だがこれが、私が思い出せることだ。 - GeneR

私が知る限り、全てはあの画像掲示板から始まりました。2010年6月27日、SCP-RUとして知られる1人のユーザーとその他数名が、SCP Foundationをロシア語に翻訳してみようと決心しました。Ged_Malburgは、その頃からの最古参の活動中のメンバーです。当時、サイトデザインは異なり、ナビゲーション・サイドメニューもフォーラムも存在しませんでした──翻訳作業自体は、別のウェブページを使用するよう取りまとめられていました。登録は誰でも自由で、制限はありませんでした。GeneRがプロジェクトに参加したのは、2010年11月の末です。この時、サイトはほとんど放棄されていて──全ての活動は、僅か3人だけで行われていたのです。このため、彼らは黙々と、単独で作業を続けていました。やがて、ユーザーの1人であるdr-phasanovaが、彼女自身とMalburg、GeneRの3人で一緒に作業しよう、と提案を持ちかけました。

私はまだあの提案のメッセージを取っておいてある、送信されたのは2011年の1月30日。我々はその時、おおよそ110本の翻訳を終えていた - GeneR

Wikiを立ち上げたSCP-RUがこのプロジェクトを離れてから、随分時間が経っていました。彼以外に管理者は存在しなかったため、スタッフがサイトに加えられる変更は非常に限られており、状況はThe Administratorが行方不明になったことで活動に制限を受けた2009年の英語版SCP Wikiと似ていました。幸いにも、MalburgがSCP-RUと連絡を取り、3人のために管理者の権利を得ることができました。2011年2月のことです。この時ようやく、フォーラムに投票モジュール、そして英語版Wikiのようなサイトデザインを彼らは手にしたのです。また、Resureが参加した時期でもあります。彼は“技術者”のポジションに非常に見事に収まり、様々なweb機能やGoogleアナリティクス、ドメイン登録、そして彼以外のスタッフでは成し得なかったその他のことに関しても貴重な支援を行いました。

2011年3月のある時、彼らは自分たち自身のSCPを創作することを決め、サンドボックス・サイトを作りました。ルールはWikiの歴史の中でたびたび変更されましたが、良いと認められたSCPを5個以上メインサイトに持つ著作者は、SCPを書く際にサンドボックスを経由しなくても良い時期がありました。その頃作られたSCPは彼らにとって独特な雰囲気を持つものでしたが、今では一般的に、2008年に作られた英語版のSCPと同じようなものだと考えられています。“古典作品”といったところでしょう。

そういったSCPを改稿するプランもあるが、それは我々のコミュニティでは殆ど前例がない。我々にとっては、未知の領域なのだ。 - GeneR

サイトが1周年を迎えた時、彼らはオフ会を開くことを決めました。参加したのは僅か3人ですが、それがスタートでした。その後少なくとも7回が開催され、その内の2回は11人のサイト・メンバーが集まりました。

それから暫くして、DugondとOsobistがやってきました。Dugondは凄まじい作業能力を持っていました──彼らの膨大な編集作業の殆どは、主にDugondの尽力によるものです。彼は細かい不備や食い違いを大量に見つけ出し、サイトの改善に大いに貢献しました。しかし、ロシア語版Wikiの人々は最終的にサンドボックスWikiの管理を彼1人に任せるという間違いを犯し、Dugondは燃え尽きてしまいました。彼は自身の論文にも取り組まなければならなかったため、サイトを去りました。やがて彼は戻って来て、また活動し、そしてまた活動を止めて去っていきました。とはいえ、これは2年間の出来事をひとつの段落に要約しています。Dugondが行ってしまったのは、今しがたの事です。

彼と連絡を取る手段は全く無い。いつかは戻ってくるだろう。あるいは、戻ってこないかもしれない。 - GeneR

Osobistは活動を続けています。彼は多くの“事務”や“組織化”の作業をこなし、the vk.com(ロシア版のFacebookのようなもの)のコミュニティを運営、一般規則の管理も行っています。

2人は活発な翻訳者でもありました(Dugondの方がより多作でしたが)。人々は参加を続け、コンテンツ量も増大しました。この頃はコンテンツの蓄積が優先事項であり、翻訳記事(そして新たなロシア語版SCPオブジェクト)は着実にその数を増していきました。

あー、2011年の話題に戻ります。この年の終わり、GeneRは彼らの記事を初めて英語に翻訳しました(SCP-1138)。これは元々Fartunの著作であり、彼の処女作SCPでもありました。次に、最高管理者権限をSCP-RUから委譲させることに成功しました(GeneRは何度か彼に連絡を取ろうとしましたが、成果はありませんでした)。また、1年半の努力の末、彼らはとうとうSCP-076の記事の下部に表示されていた女性用下着の広告を取り除きました。これらの広告は雰囲気をかなり損なっていたのです。

2011年の9月、彼らは初めての荒らし行為を経験し、英語版SCPwikiのものを参考にした参加申請手順を整備しました。11月の末、Wiiskeyという名のユーザーがルールを破り、http://scpfoundation.ru/evil-doctor-alto-klef を直接メインサイトに投稿しました。この詩は瞬く間にトップ3まで上り詰め、現在もその順位を維持しています。得票数で173とほぼ同等、076の僅かに上です。

2012年は多くの変化がありました。何よりもまず、SCP-087のゲームの誕生です。Googleアナリティクスの解析では来訪者の数は5倍に膨れ上がり、新たな参加者とサンドボックスの粗悪なSCPの数は……想像できるでしょう。

2012年の4月、ロシア語版Wikiは最も多作な著作者のひとり(~25個のSCPを執筆)を、彼が創作した要注意団体に対する意見の不一致で追放しなければなりませんでした。彼は批評を受け入れなかったのです。この出来事は長く、苦々しいものであり、彼らはこれについて話さないようにしています。ソーシャル・ネットワーク・グループも2012年の初めに設立されました。ロシア語版Wikiは、数千もの翻訳あるいは創作記事と共に、成長を続けてきました。彼ら自身による翻訳コンテストも2013年に開催され、177を超えるエントリーがありました。

ロシア語版SCP Wikiは最初の翻訳コミュニティであり、我々が彼らと共に協力する年月の中で成長を続けています。彼らも我々のように、幾つかの困難な時期を経験しましたが、常にそれを乗り越え強くなってきました。もしあなたが興味を持ったなら、彼らのtaleSCP記事を幾つか読んでください。出来ることなら、ロシアのスタッフに声を掛けてください。彼らが今まで我々のために成し得た、そしてこれから成し得る仕事を、大切に思いましょう。

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