インシデント 07/1993/イシュメール/475
北極の凍てつく寒気を乗せた強風が、ベーリング海から北太平洋へと吹き降ろす。風が水面を揺らし、大波が黒曜石ほどに黒い海を渡ってゆく。灰色の空と黒い海に挟まれた水平線上の唯一つの色は、それぞれの波の頂に沸き立つ白い泡である。
沿岸警備隊の哨戒艦カッター マンロー が波を掻き分け、竜骨で水面を切り裂きながら進むと、側面に描かれた橙の縞模様がモノクロームの景色の中で燃え盛る。海上境界線に沿って巡視を続ける艦の暗い砲身は、あたかも活躍の時を待ち構えるかのように、砲座の上で不吉に睨みを利かせている。
寒気除けに明るい橙色の雨具をまとった少数の甲板員が、甲板と船首楼を駆け回る。大半の者は艦内で身をすくめ、空が晴れるのを、そこから何かがもたらされるのを待っている。
マンローの指揮官代理、ザカリー・ジャクソン艦長は艦橋に陣取り、強風の中を威風堂々と突き進む艦の揺れに合わせて、ほんの僅かに身を傾けている。
「無線連絡はついたか?」
下士官は持ち場から顔を上げない。「中国籍トロール船 鄭芝龍チェン・チーロン。玉兎革新公司に登録されているとのこと」
「シロなのか?」
「公的には存在すらしない会社です。少なくとも、我々の記録には載っていません。そして、あの船はダッチハーバーに禁制品を密輸している船舶の情報と一致しています」 アメリカ合衆国最大の漁港、ダッチハーバー — 港湾都市ウナラスカの一角 — には、毎日毎日、雨だろうが晴れだろうが、年間を通して世界中の船が来航する。違法な貨物が運び込まれるのも珍しくない。その手の密輸品は飛行機や船でアンカレッジへと運ばれ、アラスカ州内で流通するか、さもなければ南方本土ロウワー48州まで移送されるのだ。
まるで少尉が自分と同じ結論に達したとでも言うように、ジャクソンは無言で頷く。
「チーロンの乗組員に乗船準備をするように伝えろ。私が報告を入れよう」
T+0m: 沿岸警備隊の哨戒艦が民間船舶と接触し、標準的な麻薬取締活動の一環として乗船許可を求めると共に、USCGコディアック基地に当該事件を報告する。
反応無し。無線オペレーターは再度呼びかけるが、チーロンは引き続き沈黙している。放送システムや霧笛の効果もほぼ変わらない。薄汚い船はただ速度を上げ、ダッチハーバーへの進路を取り続けている。マンローもペースを合わせ、100ヤードほどの間を開けて並走する。
ジャクソンは眉をひそめるが、姿勢を崩さず、身動きもしない。1分待つ。2分。呼びかけにも拘らず、チーロンは進路を維持する。彼は少尉に目をやる。「船首前方に威嚇射撃しろ」
メッセージは数珠繋ぎに復唱、確認され、やがて制御室の別な少尉に届く。「船首前方に発射。装填完了、ターゲットロック完了です、サー」
ジャクソンは首を傾げる。「君の権限で撃って構わん」
遠隔操作の76mm艦砲が所定の位置に旋回し、アクチュエータが荒波や2隻の船の相対速度に合わせて調整されると、甲板に出ている者たちには金属質な唸りが聞こえる。長い砲身が僅かに空中で揺れる — まるで害獣の臭いを嗅ぎ付けた犬のように — そして発射する。くぐもった砲声が乗組員全員の骨に響く。反動は船の重量に大部分吸収されるが、それでも水兵たちの骨髄を少々揺さぶるには十分である。撃ち出された砲弾の速度は秒速1,000m近く、速すぎて目にも止まらないが、中国船の甲板にいる連中にとってはショッキングなほど大音量のモーニングコールだ。
2拍待つ。「チーロンは減速しています、サー」
「宜しい」 ジャクソンは双眼鏡を手に取り、チーロンを注視する。どうも一騒動起きているらしく、色とりどりの雨具を着た乗組員たちが、ひびの入った木製甲板を走り回っている。ただ1人だけ、背の高い大柄な人物が甲板にじっと立ってマンローを凝視しているが、やがて船室に入っていく。「これで彼らが分別を取り戻してくれるように願おう」
チーロンがアイドリングし、マンローが蛇行しながら急がず後を追うにつれて、2隻の差は縮まり始める。しかし、何かが起こる。無線オペレーターたちは大声を上げ、ヘッドホンに手をかけてほぼ一斉にむしり取る。
「報告せよ」
一番近くの下士官がジャクソンに顔を向ける。「チーロンが我々の周波数に繰り返し信号を発していますが、どうも我々に向けたものではないようです」 自分の言い分を証明するため、彼はヘッドホンジャックを外し、チャープ音やクリック音で断続的に遮られる、甲高い囀りめいたノイズを持ち場に流す。音は数秒ごとにループしている。
「解読できそうか?」
下士官は肩をすくめて、くるりと自席に向き直る。「中国式のモールス信号かもしれませんが、解読のために録音し、コディアックに再度送信することなら可能です」
ジャクソンは頷く。「当面は二次周波数に切り替えろ。こんなノイズに通信を妨害されては堪らん」
部下たちは従い、ジャクソンにも周波数を予備チャンネルに切り替える際のダイヤルのクリック音が聞き取れる。ジャクソンは例のノイズと、その耳障りながらも重厚な響きを反芻する。そこにはどこか、彼にクジラの歌を連想させるものがある。
T+7m: 中国船舶がプロジェクト: HELL’S HEART関連の周波数を発信する。担当者は通達を受けて緊急出動する。
チーロンがまたしても加速を開始し、スクリューの回転に掻き乱された黒い海水が泡立つ。
「サー」
ジャクソンは小煩い少尉に向かって苛立たしげに手を振る。「分かっている。少し待ってやろう」
背筋を伸ばし、腕を後ろで組んではいるが、彼の指はせわしなく動いてお互いを引いたりねじったりしている。彼の千々に乱れた思考の唯一の表れである。老朽化した漁船如きが軍艦を出し抜けるはずがない。あの漁船の船長は囮だったのか? それともただの阿呆か?
「ジェイコブス、即応チームを要撃艇インターセプターで出動させてくれ。あの船に乗り込み、速やかに停船させろ」
「イエス、サー」
別の声。「サー」
「今はダメだ、スチュアート君」
「しかし、サー! ソナーが半マイル先に不明船影スカンクを検知しました。表面接触、南南東、速力20ノットです」
ジャクソン艦長は目をしばたたく。「今になって気付いたのか?」
「つい先程までソナーには映っていませんでした」
「視認できるか?」
下士官は困惑した様子で眉を寄せている。「いいえネガティブ、サー。どうも潜航中らしく、映像もまだ解像されていませんので、具体的な外見は分かっていません — しかし、クジラの挙動とは一致しませんし、ソナーの検知範囲に群れはいません」
ジャクソンの脳裏を幾つもの思考がよぎる。ロシアはベーリング海で軍事演習を行っているが、中国もそこに加わろうとしているのか? あの漁船は中国の潜水艦に信号を送ったのか? ジャクソンは一度深呼吸して、気を引き締め、背骨をボキボキと鳴らす。
彼の声は明瞭かつ威厳あるものとして発せられ、制御室内に流れるざわめきを断ち切る。「最新情報が入り次第教えてくれ。マッギル、もう一度チーロンに呼びかけ、従わなければ乗船すると警告しろ。カメス、チェーンガンの狙いをあの船のブームに合わせろ。私の命令で撃て。スモール、不明船影の映像を捉えろ」
艦橋の喧騒が高まる中で、スチュアートがまた呼びかける。「対象は4分の1マイル先から急接近しています、艦長。潜水艦ではありません-」 彼は束の間口ごもる。「正体が掴めません」
マッギル。「応答がありません、サー」
スモール。「まだ見えてきません」
カメス。「ターゲットをロックしました、艦長」
ジャクソンは一瞬、声を上げるのをためらう。そして、「撃て、カメス」
シングルバレルのブッシュマスターが吼える。機械的なガタンという音。再び吼える。揺るぎなく力強い咆哮がトロール船のブームを吹き飛ばし、金属とファイバーグラスの破片に変えていく。1秒に1回、チェーンガンが火を吹き、チーロンの上部構造に聳え立つブームと足場を掃射する。船が竜骨を傾けると、猛攻撃に曝された足場が折れ曲がり、甲板に崩れ落ちて下の海面へと零れていく。それでもチーロンは進み続ける。
雲が遂に口を開けて豪雨を降らせ、両方の船を水のカーテンで覆い、波を荒れ狂わせ始める。雲が積荷を解き放つのと同期して、1隻の小型船がマンローを離脱し、後ろに航跡を残しながら、波間を跳ねつつチーロンへと急行する。インターセプターは大量の兵器を搭載し、完全武装した12人の州兵を載せている。
「もう一度奴らに繋げ、マッギル。1分以内にエンジンを切らなければ合衆国沿岸警備隊が乗船する、手加減は抜きだと伝えろ」
スチュアート。「サー、船影は100ヤードまで接近、止まる様子無し」
「視認できたか?」
「いえ — ちょっと待てよ… 何だこの-」
マンローの左舷、チーロンから見て反対側の側面が勢いよく衝撃を受け、艦体が竜骨の上で揺れ動き、上部構造が震撼する。泡立った海水の白い飛沫が、ドラムロールのような音を立てて甲板に打ち寄せる。
衝撃でよろめき、片膝をついていたジャクソンが立ち上がる。手すりを掴む指の関節が白くなっている。無理やり抑えつけた口調で絞り出す、「ケーシー、被害報告」
モニターに警告表示が点滅する中、士官たちの手がキーボードの上を飛び回る。「シチュエーション・ノーマル! 艦体に大きな凹みが生じ、幾つかの漏水が発生している模様。沈没に繋がるほどではありませんが、それでも重大な被害です」
彼は頷き、歯を食いしばる。「必ず機関士たちに通達しろ。ジェイコブス、即応チームを呼び戻せ」
「イエス、サー」 間もなく、チーロンの拿捕を取りやめた小型船が右に舵を切り、マンローへと真っ直ぐ引き返し始める。
「スチュアート、例の船影はどうなった?」
下士官は言葉に詰まっている。「右舷で旋回し、約50フィート後退した後… 潜水?」 声の抑揚のせいで、その報告は不信と懸念が混じった質問のように聞こえる。
艦長は艦橋の右舷窓に大股で近寄り、波立つ海に目をやる。見えるのは、夏の嵐が激しさを増すにつれて荒れ狂い、ぶつかり合う黒い海と灰色の空だけだ。
「サー、船影が急速に浮上-」
そして、マンローからほんの数フィートしか離れていない沸き立つ海を破って、それが跳び上がる。
シャチではない、サメではない、ジャクソンがかつて目にしたどんな生き物でもない。角ばった長い鼻面には鋭くごつごつした歯が密集し、口は内臓を抜かれた魚のような象牙色で、貪欲な顎からの脱出を防ぐケラチン質の髭がびっしり生えている。巨体のあまり、その動物は艦橋よりも高く軌道を描き、ジャクソンの立ち位置はその落ちくぼんだ暗い目と — 琥珀のような色合いの、寒々しく残忍な知性に彩られた目と — 水平になる。胴体は脂肪と筋肉でできた大きな灰色の長方形で、無数の傷跡とフジツボに覆われ、きめ細かい皮膚も相まって、肉と骨から成る生き物よりもむしろ動く巨石のようだ。ヒレは長くて幅広く、巨大な櫂となってこの生き物の重厚な体躯を深海の冷え切った底に導く。
しかし、他にも目を惹く特徴がある。生き物の滑らかな皮膚は途切れ途切れで、肉にボルト留めされていると思しき、きらめく大きな金属板の周りに瘢痕組織が隆起している。長い、扇のような、鋼鉄製の余分なヒレも水中から現れ、表面に落ちた雨粒を瞬間沸騰させながら鍛冶場の鉄のように白熱している。長さ数フィートほどの針金めいたアンテナが、リヴァイアサンの巨躯の下側に垂れ下がり、腹肉に食い込んでいる。胃から突出した何本ものチューブが熱い蒸気を吐き出し、その身体を白い霧で覆っている。
この巨大な姿を全体として見た時、それは艦長の心の奥底にまで突き刺さり、彼の爬虫類脳が高台に走れと絶叫する。リヴァイアサンは跳躍の頂点に達し、太古の氷河が崩落するような緩慢で必然的な動きと共に、慈愛に満ちた水中へと再び下降してゆく。インターセプターに回避する余裕は無い — 仮にあったとしても、乗組員たちは茫然自失で何もできはしない。いずれにせよ、マッコウクジラの圧倒的な重量が小型船の真上に墜落し、その質量が四方八方に水煙を巻き上げ、船体を細やかな霧で包み隠す。
束の間、艦橋では誰もが凍り付いたようになり、幾つもの目が瞬き一つせずに右舷窓の外を凝視している。視線はインターセプターとクジラがいた場所に釘付けになっているが、霧が晴れた今、そこには白く泡立った水があるばかりで、船や乗組員の痕跡を示す残骸の欠片さえ浮かんでいない。ジャクソンの手は、まるで万力のように、金属か骨が折れるのではと彼自身思うほど固く手すりを握り締めている。
1人の声が静寂を破る。スチュアート。「対象は再び旋回中、今回は左舷です、位置は水深75フィート」
スモール。「生存者の報告はありません、艦長。死体も発見されていません」
ジャクソンの心中で何かが固まる。冷たくて硬いものが、彼の内側を、喉の奥を掻きむしり、言葉で、行動で、或いは冷えた銃口から吐き出されようと懇願している。あの根源的な姿を見たせいか、彼の部下12人を見境無く殺したためか、それはどんな手段に訴えてでもあの生物を始末したがっている。唇を冷笑の形に歪めて、彼は窓に背を向け、死んだような静寂の中で士官たちに直面する。窓を叩く雨音と船のエンジンの唸りだけが響いている。彼が見下ろすと、すぐ傍らの士官たちは危うく仰け反りそうになる。
喉の奥に居座っていたものが切れ、言葉が溢れ出す。「マッギル。チーロンとの交信を全て遮断し、コディアックに通報しろ。我々が未確認潜水物体USOとの交戦状態に入り、数名の死者が出たと伝えるんだ。スチュアート、あの獣の位置を秒単位で知らせろ。カメス、奴への砲撃用意を直ちに整えろ。ジェイコブス、総員戦闘配置」
T+11m: 民間船舶との交信が打ち切られ、マンローはUSOとの交戦状態に入る。最初の衝突で左舷のP&Wガスタービンエンジンが損傷し、現場修理のため直ちに停止されたため、マンローの推進能力は減退する。
「レーダー照準では対象を捕捉できません、サー。水中の敵との交戦を想定していません」
「だったら手動で狙えばいいだろうが!」 ソ連崩壊の煽りを食って、対潜水艦戦システムは前年に全てのハミルトン級カッターから撤去されていた。確かに維持費のかさむ金食い虫ではあったが、ジャクソンは今でも損失を痛感している。
波浪と豪雨の中で、左舷に設置された3門の.50口径機関砲が火を吹き、鉛玉と硝煙の嵐に耐える軍旗のようにちっぽけなボロボロの背ビレを立てて艦へと突進するリヴァイアサンの巨体を狙う。猛攻撃を受けても進路は変わらないが、背中の肉が目に見えて筋状に裂け、血が流れ、斜めから飛んできた徹甲弾が金属製の防護板に跳ね返って火花が飛び散る。ほとんどの銃弾は当たっていない — 艦は荒波にもまれ、雲は今季最大の嵐となってバケツをひっくり返したような雨を解き放ち、海は荒れ狂っている。大波が船尾に押し寄せ、冷たく黒い水のシャワーを甲板と窓に浴びせかけ、艦砲を操作する甲板員たちを水浸しにする。
チーロンは更に遠のき、高波とひしめく雲に隠れてもはやほとんど見えない。しかし、この時ばかりは誰も注意を払わない。
「最高速度まで上げろ、プロクター」
衝突を避けようとマンローが前進しても、クジラはそれに合わせて攻撃角度を変え、船体にほぼ真正面から激突する。上部構造が再び震え、数多の警告灯がブザー音を鳴らしながらコンソールを照らす。
「左舷の隔壁が座屈し、3号エンジンの性能が非最適状態まで低下しました」
「排水ポンプは最大出力で作動中です」
「コディアックからの通信です、サー」
ジャクソンは辛うじて自制心を保ちつつ、少尉の手から無線をもぎ取る。「こちら、マンローのザカリー・ジャクソン艦長だ、コディアック」
パチパチと音割れした回線越しに声が届く。彼がいつもコディアック基地で言葉を交わしている通信士ではない。アンカレッジに数多い安酒場に通うチェーンスモーカーのジャズミュージシャンのような、掠れたしわがれ声だ。「艦長、基地に撤退してください。敵と交戦しないでください」
思考回路が麻痺し、ジャクソンは瞬きする。返答するまでに若干の間が空く。「失礼ながら、我々は現状に鑑みて最高速度で航行しており、敵はそれでも我々との交戦を継続している。我々は自衛のために発砲しているのだ」
「USOには発砲しないでください、艦長。あなたの服務規定は変更されました。哨戒ルートを終了し、報告のため基地に帰還してください」
ジャクソンは言い返すのを堪える。「我々のここでの行動はごく限られており、交戦によって哨戒は既に打ち切られている。それにしても、この命令は何処から、誰の権限で出されたものだ?」
相手の声は、空電と嵐の最中とは思えないほど明瞭に聞こえてくる。「あなたに現状での指揮権はありません、艦長。その状況はあなたの管轄外であり、その質問はあなたの給与等級では知り得ないものです。指示に背くようであれば、あなたの行動は反逆と見做される可能性があります」
男の言葉と独り善がりな口調に急所を刺されて思考が飛び、ジャクソンは束の間沈黙する。しかし、彼は怒りと憤りの滴る声で丁重に返答する。「私はただ本艦と乗組員を守るために必要な行動を取っているだけだ、サー、それが反逆と見做されるならば一向に構わん」
相手の声は重々しく、掠れた一呼吸を置く。「今からの数分間は、あなたにとって非常に重要なものとなります、艦長。賢く言葉を選んでください」
一瞬の間。ジャクソンは素早く決断する。「マンロー、交信を終了するオーバー・アンド・アウト」 彼は無線をコンソールに叩き付け、怒りのあまり白くなった拳を握り締めながら、揺れる甲板へと出ていく。
ジャクソンは20年近く海で過ごし、ベトナム沖で勇ましく任務を果たし、メキシコ湾でカルテルの麻薬密輸を阻止してきた。だが、幾つかの躓きを重ね、昇進を逃した末に、コディアックに駐留することになった。アラスカ州は常に行き止まりだった。退役前の最後のピット・ストップだ — 彼にとっても、マンローにとっても。彼は常に最善を尽くして、命令に忠実に従い、自分が正しいと信じることをしてきた。インターコム越しに、機関士たちが船底の状態を必死に中継し、漏水やパイプ破裂や死者を報告しているのが聞こえる。コンソールの警告表示が黄色や赤に点滅し、事態が切迫しているのを伝えているのが見える。
彼の心のごく一部は、命令に従って基地へ戻らなければキャリアを、長年の功労を棒に振ることになると告げている。しかし、乗組員のため、部下のため、船のために声を上げる部分の方がずっと大きい。あの生物に圧倒されるわけにはいかない、そして何より、決してあれを岸に近付けるわけにはいかない。もし、サケを追ってブリストル湾に辿り着き、そこの漁師たちを襲うようなことがあれば… 彼は振り返り、不安と恐怖に眉根を寄せる少尉たちの目を見る。そして静かに溜め息を吐く。どちらを取ろうとも角が立つ…
少尉たちの1人と目が合う。スチュアートだ。何か言いたげな表情をしている。「スチュアート少尉?」
スチュアートは唇を舐め、辺りに素早く目を走らせる。「チーロンを見失いました、艦長」
何か付け加えたげな表情をしている。「…それで?」
首とこめかみに汗をにじませ、スチュアートは固唾を飲む。「我々の迎撃を意図する複数のUSOが1クリック先に検出されました。敵対者と同一の存在です」 彼は急いでそう付け加える。
T+13m: マンローと接触した追加5頭のUSOは、速やかに船との交戦を開始する。マンローは服務規定に反して撤退を拒否。USOから繰り返し体当たりを受けたために、船尾部分の複数の隔壁を封鎖する必要が生じる。隔壁の1つが封鎖される前に甲板員1名が溺死する。
「榴弾に切り替えろ」
「イエス、サー」
艦は総動員体制で動いており、脈動する機械の心臓に合わせて、何百人もの男女が悲壮な決意で修理、装填、射撃に励んでいる。ガタガタ、ブンブンという機械的な物音を立てて、6門のブッシュマスターの弾倉の中身が徹甲弾から榴弾へと入れ替えられる。沿岸警備隊員たちの便宜を図って色分けされた8インチHEI-T弾の先端は、マスタードに浸したかのように黄色い。
「分割射撃だ」
左舷の三連装砲身が、20ノットで艦に向かってくる2つの航跡 — 今ではパンサー・トゥー及びファイブと指定されている — に向かって地獄の砲火を浴びせかける。砲塔の上では、両肩に装着されたショックアブソーバーが25mm弾の反動を分散させ、モーターが装填するのと同じ速さで発射する。ようやく、照準を自在に操るガンジョッキーたちが高波と雨の中を通して中心部に着弾させ、榴弾が残りの仕事をこなし、強烈な鉄槌のごとき力でクジラの背中をえぐる。1頭のクジラ — 小柄で、見たところ金属板は無い — は巨体の中に収まっている重要な何かを砲撃で決定的に破壊され、減速して完全に動かなくなる。断末魔の泡が波に呑まれていく。
残りのクジラは弾幕に反応して数フィート潜水し、砲弾の貫通力を和らげたかと思うと、すぐさま飛び出してマンローの船体に頭から突っ込む。凄まじい力を掛けられて、更に多くの鋼板が座屈し、リベットが破断する。
両舷の砲が轟音を上げながら6頭のリヴァイアサンを迎え撃つ中で、またしても対潜水艦戦システムの喪失がジャクソンの心に切実に突き刺さる。魚雷を駆使すれば数分で事態は打開できただろうが、それが使えない以上、マンローはある物でやり繰りしなければならない。
ジャクソンには、艦橋の向こうにいる少尉たちや下士官たちが、艦長の目が届かないと思っている時、お互いに小声で囁き合い、何がこの暗澹たる不条理な事態を引き起こしたかを究明しようとしているのが見えている。内心では、彼も同じように首を捻っている。クジラどもは単に狂っているだけなのか? しかし、それでは全てのクジラが装着している金属製の増強部品の説明がつかない。中国の実験か? しかし、それでは例の謎めいた無線通信の説明がつかない。ジャクソン艦長は両手を背中で組み、顎を突き出す。こんな疑問を抱いたところで今の彼には何の役にも立たない、頭の体操は全て片付くまで脇に置いておこう。
「サー」 艦橋にいる少尉たちからの状況報告や警告の数々を、1つの声が突き抜けてくる。
「良い知らせを頼むぞ、マッギル」
「ある甲板員から今しがた報告がありました。火薬庫で余剰のハープーンを発見したとのこと。回収漏れと思われます」
ハープーン対艦ミサイル。“ヨストの警備隊”時代の改革の一環として配備されたそれは、肝心のタカ派総司令官が3年前に退役した後、導入時に負けず劣らずの速さで撤去されていた。真鍮のようにピカピカで、恐ろしく威圧的で、おまけに高価な代物だ。潜水艦に対しては魚雷発射管に装填し、それ以外にはキャニスターから撃ち込む仕組みになっている。
遂に、暗く荒れ模様の日にも一筋の光明が差した。「何発ある?」
「報告されたのは3発のみです、サー」
ジャクソンは小声で毒づく。明るい面を見よう、明るい面を。
「最大のターゲット、パンサー・ワンとスリーを優先しろ。上手くいけば、他のクジラどもは怯えて逃げるか、ひるむかするだろう」
「イエス、サー」
「ハープーン・ワンを発射せよ、カメス」
幾つもの滑車とホイストで、ハープーンが火薬庫から甲板へと運び出され、キャニスターに装填される。所定の位置に固定されながらも、キャニスターの中に鎮座するその姿はほとんど無邪気に思えるほどだ。何枚ものフィンが生えた筒状の身体は、揺り篭にぴったり収まっている。
「ブルドッグ、確認アファーム」
ボタンが押される。「ブルドッグ、発射アウェイ」
T+16m: マンローはハープーン・ミサイルを発射した史上2隻目のハミルトン級カッターになる。怒りに駆られて発射した事例としては史上初である。
パンサー・スリーはマンローから300ヤードの位置まで接近し、艦と並行に泳いでいる — 6頭の生体機械クジラの中でも群を抜いて大きく、全長80フィート近い — その航跡は波の頂点越しに辛うじて見える程度だ。ハープーンが撃ち出されると、艦の甲板がロケット弾の後ろに尾を引く黄白色の煙で一瞬曇るが、降りしきる雨と吹きすさぶ風がすぐさまこれを消し飛ばす。もし甲板で無防備に嵐と海に立ち向かっている隊員がいたなら、あっという間にミサイルの轟音で聴力を失い、点火時の閃光で目を潰されていただろう。時速500マイル強のミサイルが灰色の荒天を切り裂き、怒涛のすぐ上を掠め飛んでいく。パンサー・スリーが海中に身を沈める直前、搭載されたコンピュータがその尾ビレにロックオンし、ミサイルは標的を追って波間に突っ込む。ハープーンのブースターが最後の一蹴りを入れると、ミサイルは肉とほんの短い間だけ接触して起爆し、クジラを吹き飛ばすと共に、数マイル先にまで伝わる衝撃波を海中に撒き散らす。
スチュアートはソナーを鋭い眼差しで見つめ、生きた動きを探すが、何も見当たらない。「パンサー1頭を撃沈」
艦橋は誰もが一斉にホッと一息吐いたかのような空気になる。爆発による水中衝撃波が束の間クジラたちを硬直させ、残っている5体の影がソナーの上で凍り付く。
ジャクソンは時間を無駄にしない。「準備ができ次第ハープーンを発射せよ、カメス」
「ブルドッグ、アファーム」
パンサー・ファイブが浮上して息継ぎをする。噴気孔と、黒く染まった空に向けて蒸気を吐いている2本1組の排気口は、標的にしてくれと言わんばかりだ。
ボタンが押される。「ブルドッグ、アウェイ」
2発目のハープーンが猛然と飛び出し、悪天候の中でも尚、耳を劈く雄叫びを響かせながらクジラに狙いを合わせ、レーダーが巨体をピング信号で埋め尽くす。今回の爆発音も先程と同じように聞こえるが、スチュアートは画面を覗いて眉をひそめる。「パンサー・ファイブはまだ移動しています」
ジャクソンは罵りの言葉を吐いて歯軋りする。ハープーンは残り1発。「ハープーンと主砲の発射を中止-」 彼の心は急変する。「-最後の発言は取り消す。主砲の発射は継続し、最も近いパンサーを分割射撃せよ」
「サー、赤外線カメラをご覧ください」
ジャクソンは直ちにクロフォードのコンソールへ向かう。着弾直前の映像が一時停止状態で画面に映し出される。パンサー・ファイブの背中が辛うじて波間に見え、凍てつく北極海によって断熱された巨体から発せられる余熱でぼんやり光っている。その上には、まるで糸で吊るされたように、ミサイルの白熱したブースターと光り輝く排気があり、ノーズコーンは下を向いて攻撃態勢に入っている。現代のダモクレスの剣だ。ところが、クジラの背に空いた穴から細く赤い線が伸びて、ミサイル本体を真っ向から狙っているではないか。クロフォードがボタンを押して1フレーム先に進めると、ミサイルは金属片と熱の白い球体の中に消える。「ミサイルは着弾すらしていません、サー」
ジャクソンは強張った笑みを浮かべ、彼の肩を叩く。「見事だ、クロフォード」
彼は口から泡を吹きそうになりながら、ぎくしゃくとコンソールから歩き去る。レーザー防御機構だと? ふざけているのか? 思わず舌を噛む。苛立ちが募り過ぎた時の昔からの習慣だ。
「パンサー・ワンが右舷で潜水、急速に潜航中」
「主砲準備、集中砲火スタンバイ」 ジャクソンは歯を食いしばって引きつり笑いを浮かべ、雨は点滅する警告灯の拍子に合わせて窓を打つ。警告灯の数はジャクソンが確認するたびに倍増しているようだった。
スチュアート。「パンサー・ワンは再び浮上中です、間もなく海面に — いや角度が急すぎる、艦の真下-」
マンローの艦首が刻々と高さを増す波を掻き分ける。大波の頂点へと上昇した船体は、構造ダメージに呻きながら谷間への下降に備える。しかし、その頂点で船尾に衝撃が走り、艦全体が前方に傾く。あらゆる物が1インチばかりも跳ね上がり、群れなす警告灯がまたしても倍増して、制御室を真っ赤に染め上げる。
「支柱を両方やられました、航行機能喪失」
「下から襲ってきたのか?」
「パンサー・ワンは再び潜水!」
マンローは今や僅かに傾いているが、波に揉まれては谷に突っ込んでばかりな嵐の最中なのでほとんど目立たない。舵制御はどうにか効いているが、それもギリギリのところで、操舵士は全力を尽くさなければ艦を水平に安定させられない。水中に血の匂いを嗅ぎ付けたパンサーたちが輪を描いて泳いでいる。
「浮上中。今回は左舷です」
「ブルドッグ、アファーム」
ジャクソンは大股でカメスに歩み寄り、凄まじい力を込めてその肩を掴む。少尉は疲労困憊している様子だ。ほんの数分の戦闘でも、戦況や運用条件のマイクロ秒ごとの変化に対応しようとする彼女には重く圧し掛かる。ジャクソンの腹の中で煮えたぎっていた怒りが一気に凍り付き、あのクジラどもとそれによって生じた被害、乗務員の死や艦の損傷に対する、冷たくとも尚激しい憤りと化す。
彼は歯を食いしばって命じる。「あのクソ忌々しいクジラにハープーンをぶち込め」
カメスは命令を確認しようともせずに親指でボタンを押し込む。
復讐心と共にキャニスターから撃ち出された最後のハープーンは、最終速度に達することもなく至近距離からパンサー・ワンの巨体に命中し、マンローからほんの数ヤードの位置で炸裂する。起爆の威力で甲板の監視カメラがホワイトアウトし、艦橋の前面窓が衝撃波で吹き飛び、かじかむような空気と雨が艦内に流れ込み、乗務員は束の間耳が聞こえなくなる。ジャクソンの頬と片耳に軍用規格のガラス片が溝を刻み込み、緋色の血が流れる。クジラのはらわたが空気に曝されると — ほんの一瞬だけ — 制御室のガイガー・カウンターが唐突に生気を宿し、そのクリック音は絶え間ない呻きの連続になる。内臓を抜かれたクジラの死骸が雨を追うようにして海へ沈むと、ガイガー・カウンターも同じように不活発になる。
スチュアートの声はかすれている。「現在、パンサーは退却中。恐れをなしたようです」
ジャクソンは無理やりカメスの肩から手を放し、肩章に付いたガラス片を払い落とす。艦橋に吹き込む北極風が、彼を骨の髄まで凍えさせる。鼻から息を吸い込み、心拍数を安定させる。クジラどもがマンローからゆっくり退却するにつれて、ソナーのピング信号もテンポを落としていく。「マッギル。コディアック、コールドベイ、ダッチに無線連絡。我々が難破していると伝え、即時救助を要請するように。インターセプターにできるだけ多く人員を載せて陸地へ向かわせろ、必要ならトランスポンダーを持っていけ」
制御室の乗務員たちが慌ただしく動き出し、極寒を凌ぐための上着を着込んで避難の準備を始める。飛散したガラス片で負傷した少尉が足を引きずりつつ制御室を出るのを手助けしていたジャクソンは、スチュアートがコンソールを凝視していることに気付く。スチュアートがジャクソンを見る。「スリーが動いていません、サー。200フィート先です」
目視報告でも、1頭を除いて全てのクジラが撤退したことが確認される。パンサー・スリーは自力では動かず、海流と穏やかな波の中を漂っている。
「死んだのか?」
甲板からの叫び声。「何か起きてるぞ!」
静穏なベーリング海が — 普段は粘板岩スレートのように暗いというのに — 再び泡立ち始め、漆黒から地中海めいたシアン色に変化していく。巨鯨が身をよじり、ぽっかり空いた傷口や開口部から目も眩むような青い光を発している。
エンジンの息の根が遂に止まり、鳴り響いていた警報が全て静まり返ると、制御室のガイガー・カウンターのかすかなカチカチという音が聞こえてくる。チェレンコフ放射光だ、ジャクソンの脳の一部がそう思い当たる。彼らは今、原子炉の冷却プールを覗き込んでいるようなものだった。今まさに超臨界を迎えつつある冷却プールを。
「神よ、我らを救い給え」
電離放射線のビームが遂にクジラの肉体を食い破り、真っ青な破滅の柱となって灰色の空に放たれる。それが明滅した瞬間、クジラは白い閃光の中に消え —
— そして全てが地獄の心臓hell's heartに飲み込まれる。音も無く咲き誇る核の花が静かに水をキャビテーションさせ、肉も鋼鉄も等しく溶かし、やがて微粒子がキノコ雲の膨張する頭部に被さった炎の花冠と化して成層圏へと上昇してゆく。アリューシャン列島沿いの地震計たちが、北アメリカプレートの小規模な擾乱を律儀に記録に残す。
雲は割れ、午後の太陽の下で波がサファイアガラスのように滑らかになる。万事平穏にして静寂だが、やがて灰が降り始め、ヘリコプターが到着し始め、桃色がかった空を橙の縞模様で横切ってゆく。
生存者が見つかることは無いだろう。
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