騒動の種
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会議室の空気は今日もよどんでいる。窓は何年も前に塗装したきりで、それ以降は風雨に晒されるままにしていた。この議題は理事会に何度も挙げられていたが、そのたびにお部屋のリフォームよりも重視されるべき課題が持ち上がってきたのだった。

今日もリフォームは後回しだな、リチャード・エイクマン(Richard Akeman)はそう思った。彼はため息をつき、拳を打ち合わせ、会議テーブルに置かれた書類の山をぺちりと叩いた。テーブルの上にきちんと揃えられた書類の山を。

「皆様、午後2時9分になりました。これより会議を始めます。」エイクマンが宣言する。「席におつき下さい。」

さまざまな男女が古ぼけた椅子に古ぼけた体で腰掛け、室内はブツブツ言う声とギシギシ言う音で満たされた。うなる声ときしむ音がしばらく続いた後に、会議室内に静寂が戻ってきた。

「どうも。」エイクマンが口を開く。「まず、この緊急会議を招集した理由についてご説明いたします。」エイクマンは一呼吸置き、会議室を満たす静寂に少し尻込みした。この栄えある世界樹株式会社(the Worldtree Corporation)取締役会のお歴々には、物事を進めるにあたって一貫性と計画性を尊び、騒動(Disturbances)を厭うというある種の暗黙の了解が存在するのだ。そして今この会議室は、彼らの苛立ちが渦巻いている。役員たちは説明を待っており、その内容は良いものでなければならないのだ。

しばしの沈黙ののち、エイクマンは話し始める。「ひとつ、残念なお知らせをしなければなりません。救いの手機関(the Helping Hands Organization)が破産を申請しました。」

会議室は息を呑む声で満たされた。救いの手機関は今まで何年も、世界樹社にとって重要な役割を担ってきていたのだ。世界樹社の慈善活動部門を担当し、よく使われるスローガンを借りれば『コミュニティへと利益を還元する』ための事業をいくつも行ってきたのだ。そしてこれは、わが社にとっては重要な税額控除の源だったのだ。その機関が消失したことで、わが社は新たな慈善団体を探し出さなければならなくなった。これはとんでもない騒動だ。

早口のぶつぶつ声が部屋のあちらこちらから上がり、役員たちの狼狽が強まっていくのがエイクマンに感じとれた。こほんと軽く咳払いをすると、16組の当惑した瞳が彼を一斉に見つめた。

落ち着いた瞳が、1組だけ混じっている。

「幸運にも、この問題を解決する手段はすでに用意されています。」エイクマンは言葉を続ける。「救いの手機関解体の報を受けてすぐ、私は新たな、救いの手と同等に信頼に足る慈善団体の代表から連絡を受けました。」

エイクマンは嘘をついていた。彼はその新たな慈善団体の信頼性について何も知らなかった。より正確に言うと、新たな慈善団体については何ひとつとして知らなかったのだ。金曜日、救いの手機関の破産を知らされた木曜の翌日、差出人名のない封筒が彼の個人用メールボックスに現れた。封筒と同じくその中身からも差出人について知ることはできなかった。中にあるのは無地の白いポストカードで、いくつかの語が印刷されていた。『求めるものに愛の手を』と大きく書かれ、その下には電話番号が記載されていた。やけっぱちになっていたエイクマンがその番号にかけると、女性の声が応答した。女性に慈愛に満ちた声で語りかけられ、気がついたときには『非常に重要な代表者』との会合の予定を次の火曜日に入れていた。もし彼に落ち着いて考える余裕があったならば、電話の相手が世界樹社の内部組織について異常に詳しいことに気づけたかもしれない。しかし当時のリチャード・エイクマンはとても忙しく、そんなことを考える余裕などありはしなかったのだ。

「世界樹株式会社取締役会の皆様、ご紹介いたします……」
エイクマンは会議室の反対側を指し示す。その時になって初めて、テーブルの反対側に座っている身なりのよい男についてほとんど何も知らないことを思い出した。

会議室にいる全員が、不安げな顔をその男に向ける。彼は多くの役員たちよりも先にテーブル端の席に座っていて、今までずっと笑顔を保っていた。会議室で笑顔を見ることは、特にこんな重大な議題が挙がっている日には、ほとんどなかった。年配の役員幾人かはうさんくさげに鼻を鳴らした。テーブル端に座っているこの男は誰だ、なぜこんな風に笑い続けている?この騒ぎに気づいていないのか?

「ザカリア・マクスウェル(Zachariah Maxwell)と申します。」その男は言った。「本日はマナによる慈善財団の代表として参りました。財団はあなたがたの素晴らしい会社のため、慈善活動を提供することはとても興味深いことだと考えております。」

その男は、言うべきことは言い切ったとでもいうように口を閉ざした。会議室の沈黙に苛立ちと憤慨が混ざり出す。リチャード・エイクマンはぎごちなく笑顔を作った。

「あー、えー、あの有名なマナーの財団をご存知ない、のですか?」エイクマンはぼそぼそと口に出すことにどうにか成功した。

「マナ、です。」応えたのはマクスウェルだった。彼の口角がほんのわずか下がった。

「そう、マナの。はい。」エイクマンの額に汗が浮かび出す。今この状況を制御できないことに気づかれはしないだろうか。「ええとすみません、ちょっとど忘れしてしてしまいまして。もういちど貴方から説明していただけませんでしょうか。」

マクスウェルの中で何かのスイッチが入ったかのように、表情筋がぐいと引っ張られた。笑みを浮かべた口は顔の中でさらに幅を広げ、はじかれたように立ち上がって椅子をはじき飛ばした。マクスウェルが腕を振り回すと、役員の一人が非難の悲鳴を上げた。

「紳士、淑女、我が友、素晴らしき役員会の皆みな様方!」マクスウェルは高らかに語り出す。「こんな話をご存知でしょう?」会議室内を大股で力強く歩き出した。「シカゴのホームレスは汚泥と腐敗の中でもがいているをいうことを!」手を頭に当てて見せるのはショックを表すジェスチャーだ。「インドの住民は自分の家を呼べるものを持たないままだということを!そして、」演説はまだまだ終わらない。「今もアフリカで飢えている子供がいるということを。」

突然マクスウェルの表情は失望のそれに変り、がくりと肩を落とした。「そう、これは問題でしょう?我々は来る日も来る日もこの類の知らせを受け取っている。なのに誰も気にしていない。これらがごく当たり前の出来事になってしまっていることは、これら自体と同じくらいに大変な問題なのです。」マクスウェルはまた部屋中を、今度は気難しげにのろのろと歩き始めた。「資金を出す方もいらっしゃいます。」会議テーブルを平手でぴしゃりと叩く。「しかし何も変わりはしない。なぜ?」ぐるりと振り向き、彼に警戒の目を向けているメガネの老役員の顔を正面から見つめた。「そう、彼らはお金を出し、」役員に顔と顔が触れ合わんばかりの距離まで近づき、「そして忘れてしまうのです。」

「しかし、もしも忘れなかったら?」マクスウェルの振る舞いがまたも変化した。背筋をしゃんと伸ばし、両手を体の横につけ、決意に満ち溢れた態度になった。「もし寄付をした相手のことを皆が純粋に考えていたらば?もしも世界がそんなふうであったならば?」親しみに満ち溢れた笑顔が皺となってマクスウェルの顔を覆い、ただただ純粋な熱意が声音に混じり始めた。「そう、世界樹株式会社の栄えある役員会の紳士淑女の皆様、それこそ我がマナによる慈善財団が目指す先にある世界なのです。あなた方の資金は科学やテクノジー、その他現代技術による素晴らしいツールを生み出し、朽ちることのない変化をこの世界にもたらすのです。広告キャンペーンはそれらが人々の心から消え去ることを防いでくれることでしょう。すべての飢えたる者に糧を。すべての貧しき者に衣を。紳士、淑女の、皆様方、あなた方の資金により、」一言ごとにマクスウェルの掌がテーブルを打ち鳴らす。「我らは。すべてを。成し遂げましょう。

マクスウェルが期待に満ちた目を上げる。迎えるのは見渡す限りのしかめ面だ。誰かが咳払いをしたのが聞こえる。

だらだらと冷や汗を流しているのはエイクマンだ。騒動を収めるために招いたこの男は、しかし騒動の種そのものだったのだ。部屋中を跳ね回り、荒唐無稽な達成目標を売りつける……。マクスウェルは役員会の秩序と業務をあざ笑い、マナによる慈善財団は世界樹社を誤った方向に導くことを約束しているのだ。痛恨のミス。ミスの代償としてエイクマンは地獄を見ることになるだろうし、それがどんなものかも知っていた。

エイクマンは詰まりそうな喉で咳払いをし、どうにか謝罪の意を込めた笑顔を作り出した。「その、あの、たいへん素晴らしい目標でございましてですが、」絞り出した声はしわがれている。「その、うう、普段の場でしたらその、こういうことを言いたくはありませんですけども、ええと、あう、こと経済の場に、場においては、そのような……」エイクマンの声はかすれて消えてしまった。

ザカリア・マクスウェルは冷静な顔でその意見を受け容れた。「左様。」と簡潔に答える。「そう、もちろんです。重々理解しております。皆様の貴重なお時間を浪費してしまったお詫びに、こちらをお受け取りください。」マクスウェルはジャケットの中に手を伸ばし、中サイズの缶を2つ取り出した。慣れた手つきでふたを開き、それらをテーブルの上に置いた。

役員がこわごわと缶の中身を覗き込む。中には見事な出来栄えのおいしそうなトリュフ・チョコが42個入っていた。役員の一人がそっと一粒つまみ上げる。口に運んで噛み砕いた瞬間、彼の目は予想外の美味に見開かれた。二粒目に手を伸ばすが早いか、彼の同僚たちも我先にと自らのトリュフを掴み取った。会議室の面々は目の色を変えて争い、ほとんどのチョコレートを腹に収めた。ザカリア・マクスウェルが会議室のドアにスイと近づいて扉を閉ざした。

突然部屋の暖かさが三倍に増した。数人の役員は驚いて顔を上げる。マクスウェルはゆっくりと席に戻り、奇妙にゆらめく声で再び演説を始めた。「無理なおがいのために皆さまの時間をダにしてしまい……大変しつい致しました……。からば、少しお時間をいだきまして……皆様喜ぶやり方に変ましょう……」

会議室は再び静寂に包まれた。マクスウェルはすっかりおとなしくなった世界樹社役員会のメンバーを見回した。いずれも頭を垂れ、何人かはわずかないびきをかいている。マクスウェルの口角が吊り上がり、まったく新しい形の笑顔を作り上げた。

よろしい。お聞きなさい。」マクスウェルは唸るように語りだす。威厳すら感じさせる声音で。「なかなか楽しくはありましたが、おふざけはここまでにしましょう。全ての意味でね。この会社はカネをただ手元で回すことしかしておらず、それをあなた方はわかってやっている。ですが、これからはそのカネで成すべきことを成すか、さもなくば必要な者に分け与えるのです。わかりやすく言い換えましょうか。あなた方は札束の山に腰掛けているけれど、この世界のほとんどはその札束をイスにする以上に役立てられる場所でいっぱいなのです。マナによる慈善財団が世界を変え、あなた方はその援助者としての賞賛を得るのです。

マクスウェルは缶をつまみ上げ、残りのチョコに手を触れないよう気をつけつつふたを閉じ、ジャケットの内ポケットに滑り込ませた。このチョコは確かに美味ではあるが、同時に向精神性の化学物質、それと食べるだけでなく触れただけでも効く催眠状態誘導性の合成物質が混入してあるのだ。後には軽度かつ一過性の二日酔いしか残さないという優れものだ。普通の場であればこういう小道具は使いたくなかったが、こと経済の場においては……。

あなた方はすぐに目を覚まします、」マクスウェルの語りは続く、「私が要求したものは何であれ差し出すこと。今日私が行ったプレゼンテーションが素晴らしくそして強く心を動かされたため、これからは善き日々をすごすように決めたと覚えておきなさい。

マクスウェルが舌打ちすると、会議室に再び生気が戻ってきた。役員たちは周りを見回し、少しの間混乱していた。そしてさっき何があったのかを”思い出し”、隣の役員と熱っぽく喋りだした。役員たちは感謝を顔に浮かべ、再び元のにこにこ笑顔に戻ったマクスウェルを見つめていた。

リチャード・エイクマンはというと、なんだか少々ぼんやりしてしまっていた。どう考えても騒動を巻き起こすと思えた緊急会議がこんなにも円満に終わるとはとても考えられなかったからだ。エイクマンの心が満足感で満たされていく。テーブルの反対側に座っている身なりのよい男を見て、彼はすぐ行動を開始した。背後に手を伸ばして社の金庫を開け、公的な小切手帳を取り出した。小切手帳を開いたときにマクスウェルの笑みがさらに広がるのを見た、エイクマンが知らぬ間に浮かべているのと同じ笑顔を。

「それでは、」エイクマンが顔を上げる。「おいくらほど必要でしょうか?価値ある目的のために出資できてまことに光栄です。」エイクマンを支持する小さなざわめきが部屋中で上がっている。

この先に広がる広い広い可能性を見て、ザカリア・マクスウェルの笑顔はさらに広がった。「ええ、まずは2、30万ドルほど」彼は答える。「これくらいなら……そう、どうってことはないでしょう。」

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