1997年5月10日
雪で覆われた丘の麓の黒い月。
彼の兄が先に生まれたが、二人の内では幼い方が強かった。印がつけられた。しかしそれは、胸に抱かれるみどりごの為ではなかった。運命は男のためにあった。
二人の少年がそれぞれ、獰猛な獣へ向けて槍を振るう場面。
二人の子供は二人の男となった。大人になり印が齎され、名が与えられ、そして運命が始まった。
槍を持ち毛皮をまとった男の姿。彼に寄り添う、ふくよかで健康そうな女と、5人の子供らしき影。もう一人側に立つ、羽のついた杖を持ち頭飾りをつけた、彼より小柄な男。
その時、彼は川の粘土を持たなかった。肥沃な赤も、大地の茶色も、なめらかな灰色も。神話で語られるように燃えた炭の漆黒さえも。彼には血と唾、膿と骨しかなかった。
それで十分だった。
腹を切り裂かれた、多くの恐るべき獣たち。
語り部と年長の者たちが、兄弟の偉業を語る。いかにして戦士が獣を打ち負かし、呪術師が病を癒やし悪霊を祓ったか。彼らは兄弟たちの偉大な運命を語る……
小柄な男が頭飾りを外し、顔のない群衆の元から歩き去っていく。大柄な男がその方向を向いている。
だが運命は重荷である。躓き、それに壊されるだろう……
出産の血にまみれ、奇形の赤子を胸に抱いて死んでいる女。
そして運命は、そこから壊れぬものを掴み取る。
広がる灰色の土地、黒い空に覆われたその中央に、白い小さな影。
その洞窟には何も携えていくことはできない。槍も、短剣も、火も、目も、耳も。死はその魂のみが通ることを許す。
暗闇に浮かぶ人影、白い髑髏の顔と血に染まった赤い手。
槍は折れ、獣の皮は腐り、火は薄れる。全てが死ぬ。魂だけが、試されるだろう。
ふくよかで長い髪をした、蒼ざめ霞んだ人影。片腕に抱かれた子供。
やがては報いがある……
血に汚れた同じ人影。
だが運命は、気紛れに報いる。
洞窟の出口から注ぐ光。
試練は終わった。生命、力、そして孤独がその報酬だった。
薄暗い森に囲まれた独りの影。
季節が生まれ、死んでいった。
彼は違った。
丘に立つ姿、彼を取り囲む多くの人々。違う女、多くの子供、他にも大勢の、充たされ強健な姿。
再び死が生の方を向いた。それは続いた。
血のように赤い炎。
そして再び全てが死に絶える。彼は違った。
獣の頭蓋をつけ外套をまとった背の高い人影に囲まれ、皮を剥がれ打ち据えられ血まみれになった彼の姿。腕と足を縛る鎖。
彼は死ねなかった。だから、彼は見ていた。
彼のものではない紋章をつけ、血の海に立つ男。秋の落ち葉のように積み重なった死体。
彼は死ねなかった。だから彼は奴隷となって生きた、道具として。
冷たく、黒い石の箱。繋がれた棺。
道具は使わない時はしまわれ、使えなくなれば処分される。
アベル――アブレインの子、山と川の長、黄泉の国より還りしもの、千の冬の放浪者、罰する刃、眠れる神――は、それらの絵の最後に、歯を見せて顔をしかめた。ひとつの名前が彼の心、魂の奥深くに響き、数えきれないほど抱いた憎悪を沸き立たせた。心の中に燃え滾り、それ以外の感情を全て焼き尽くした憎悪。彼らへの憎悪。侵略者。殺戮者。奴隷の主人。穢れ。ダエーヴァス。
何も失うものが無くなった時、男の魂は剥き出しになった。
アベルは吼え、壁に拳を打ちつけた。必ずや、壁は彼の拳のもとに砕かれるはずだった、普通の石であれば。拳は石の箱を通して鈍い音を立て、ひびも入らなかった。
いや……子供の癇癪で壊れる牢獄の壁は無い。アベルは殴り続けるのをやめ、息を切らした。残響が凍りついて消えた。
なぜこの記憶に縋っていた? なぜもっと前に奴らを葬り去らなかった? なぜこの手でダエーウォンの壁を破壊しなかった? なぜ大祭司を真っ二つに裂き、穢れた偶像を壊さなかった? なぜ最後の時、奴らの邪悪な魔術師が彼を封印しようと自らを生贄に捧げた時に、奴らを黒き神に泣き縋らせるようなことをしなかった? 奴らは死んだ、死んで去った、そして彼は狂気に己を忘れるのに十分すぎる血を浴びた。なぜ?
その答えは彼の元に現れた。
アベルは8フィートの背を真っ直ぐに伸ばして立った。今、彼は知った。何故思い出していたのかを知っていた。全て、再び起こっていることなのだ。彼はつい先ほどまでパレットとして使っていた、引き裂かれた胴体に手を伸ばした。手は臓物で濡れていた。彼は冷然とした牢獄の壁にもう一つ絵を描いた。微笑んでいる男、だがそれは本当の顔ではない。
主人の命令に従う兵器にされた男。
彼らは同じだった。
彼らは、同類であった。