「えーと、そろそろ着陸船を分離する頃合いだな」
「うむ」
時に西暦1969年7月20日、地球から平均して38万キロメートル離れたこの地でこの日成し遂げられようとしている偉業に対し、少なくとも世界の西側半分が期待と興奮を向けている。しかし、地球よりも遙かに近いところで、十分な偽装の中からそれに聞き耳を立てている人々は、故郷の東西を問わず否応なしに例外に属することになった。彼らにとってそれは偉業でも何でもなかったからだ。
サイト-0006。セレウコス・クレーター、月の表側と裏側の狭間に設けられたこの恒久月面基地の建造が秘密のとばりの中で始まったのは、もう1年以上前のことになる。最初の月面サイトであるサイト-0001が月の裏側で造られ始めたのは、さらに前のことだ。どちらも今なお拡張工事が続けられており、特にセレウコスにおいては、地下に発見された溶岩洞の利用計画が机上で動き始めていた。
「切り離しは無事成功したようだな」
「うむ」
彼らは、今しも静かの海へ降り立とうとしている月着陸船と、遠く離れたヒューストンとの間で交わされる無線交信を盗み聞きしていた。敵対的な、あるいは潜在的に敵対的な行動ではない。この作業を秘密裏に頼み込んできたのは、この地に船を送り込んできた組織、米国航空宇宙局N A S Aの側だった。
交信の単調な心地よさを味わいながら、モニタ担当の2人の宇宙飛行士──これは、現在サイト-0006に常駐している人員の3分の1にあたる──はちびちびとコーヒーをすすっている。
「なあデイブよ」
「どうしたフランク」
「あいつらは俺たちがここにいることを知ってるのかなぁ」
「さあね。NASAのお偉いさん方は知らせるつもりなどないみたいだが、宇宙飛行士個人がそれとなく感づくことはあるからな」
「うむ。グリソムとホワイトとチャフィーは気づいてたみたいだしなぁ。だからスカウトされたんだ」
飛行士の1人が、地球の6分の1という重力差にも慣れた手つきでコーヒーのお代わりを注いでいる時、受信機から流れ出す声に軽い緊張の色が混じった。
「どうした?」
「イーグルのLGCが警報を発したらしい。番号は1201と1202……うちの船でも前に似たようなことがあったな。確かあの時は、コンピュータが受け取る情報量が多すぎて処理しきれなくなったんだ」
「今回もそうかはわからないが、こちらが救助に出る必要は……まだなさそうだな。様子を見よう」
「うむ。現時点では、あちらさんの方で対処できる範囲のトラブルだ」
彼ら──正確には財団地球外部門の上層部が相応の政治的取引の結果としてNASAに依頼されたのは、たった今、月の軌道を巡っている小さな船が何らかの事故を起こした場合の救助ミッションだった。結局の所、今繰り広げられている「冒険」は、十分に安全面に配慮した上でのパフォーマンスに過ぎない、ということになる。
トラブルは無事に処理され、月着陸船は再び正常な降下に移ったようだ。しばらくの間、サイト-0006の通信室にはコーヒーをすする音だけが響いていた。
「しかしなぁ、奴ら、俺たちのことを知ってたら虚しくなるだろうなぁ。俺たちは4年以上前に月に降り立った。今じゃ最初の惑星間宇宙船が尻の先で水爆を炸裂させながら火星に向かってる。奴らが挑むフロンティアの先には、常に俺たちがいるんだ」
「うむ。まあ、それが我々財団の使命だからな」
「ああ。勇敢なる開拓者たちがアノマリーに出くわす前に、その場をあらかじめ掃除しておく必要がある。フロンティアはやがて生活圏に変わる。生活圏の中で人知れずアノマリーを確保して収容して保護するのがどれだけ大変か、地球の様子を見れば一目瞭然だ……わかっちゃいるんだ」
「確かになぁ、自分たちが成し遂げようとしていること、信じていることが全部嘘だなんて知ったら、飛行士たちも熱狂している地球の連中も……おい、そろそろ着陸するみたいだぜ」
少し後、受信機から声が流れ出す。ニール・アームストロング曰く『鷲イーグルは舞い降りた』。その6時間と30分近く後には、歴史に残る台詞がもうひとつ。『これは人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍だ』。
「そして財団にとっては無意味な一歩に、乾杯」
「彼らのちっぽけな『静かの基地』にもだ」
サイト-0006も、かつて宇宙船だったものを中核にしているという意味では、『静かの基地』──アポロ11号の月着陸船イーグルと共通点があると言える。しかし、数度の拡張工事によって居住環境としての性能差は歴然としたものになっていた。その成果のひとつ、小さな喫茶室では、2人の飛行士がジム・ビーム・ライ入りのプラスチック・グラスを酌み交わす。アルコール飲料、この場合はライ・ウィスキーの持ち込みをある程度は許容できるほどの余裕が、既に月面にはあった。
「地球のお祭り騒ぎが目に見えるようだ」
「うむ。昼にいる人間は仕事や学校をほっぽり出して、夜にいる人間は眠い眼をこじ開けながら……当然さ。彼らは持ちうるすべてをこの月着陸に注ぎこんだ。これは実に偉大なことなのさ。ただ、我らが奉じる財団が、彼らすべてよりもさらに強大な、ズルとペテン以外の何物でもない怪物というだけなのさ」
「怪物か。悲しいなぁ。俺たちももう、伝説の中の怪物か何かになっちまったのかなぁ。彼らと同じ視点で世界を眺めて、彼らと同じ思いを抱くことはもうできないのかなぁ」
「うむ。これからもずっとそうだ。星への最短ルートと引き換えに、財団という悪魔に己を売った代償だよ」
彼は天井を見上げる。あるいは、その向こう側にある凍てつく星空を見つめようとしているのか。
「俺たちは外側の住人なのさ。フロンティアの外側、俺たち以外の連中が主観的に認識している宇宙の外側、サーリングかラヴクラフトめかして言わせてもらえば、外なる宇宙アウター・スペースの住人なのさ」
「外なる宇宙、ねぇ……良いな、それ」
「何が?」
「いや、我々の活動領域を端的に表していると思ってね」
*
──幾年かの歳月が流れた後、彼らが属する部門の組織と活動領域が広がり続け、独立した支部ブロックとして扱われるようになった時、その名前には「外 宇 宙アウタースペース」の文字が冠されることになる。
それが、彼ら2人の飛行士の考え通りの意味を含んだものなのかは、定かではない。
*
静かの海に佇む小さな宇宙服の中で、彼は降下中にちらりと目にしたものについて考える。何も知らぬまま一見しただけではわからないだろう。しかし、そこに何かがあるという事前情報を知っていれば、巧妙に隠蔽された有人施設であると見抜くことが出来た。
ケープ・カナベラルで耳にした噂は正しかった。月には自分たちより先に人が降り立っている。ソヴィエトか、考えにくいがナチの残党か、あるいははるかに巨大ななにかか。いずれにせよ、私の一歩は、さほど偉大な一歩ではなかったのだ。
しかし、そう遠くない未来、月面に広がる謎が解明されたE x p l a i n e d未来には、我々もその謎の先駆者に追いつくことができるのだろうか。これはそのための最初の一歩なのだろうか。もしそうであるならば……いつか。