死者との約束
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彼は事あるごとに「僕が死んだら絵をもらってくれ」なんて言っていた。その時はちょっとした冗談だと思っているから私も笑いながら「わかったわかった」などと言って、あまり考えもせず約束をする。けれど私は絵の造詣なんて持ち合わせていないし、特段絵を見るのが好きというわけでもなかった。ただ彼が描いていたから。彼が観ていたから。私が芸術と向き合ったのはそんな理由だ。彼との友情は本物だったが、私にとって芸術は友達づきあいのツールだった。彼だって私は芸術そのものにそこまで興味は無いと分かっているのだと思っていた。

それはどうやら違ったようだと気がついたのはある夏の日の事だった。彼が死に、葬儀を終えてしばらくの時が経ったある日、一つの荷物が家に届いた。どうやって私の住所を突き止めたのかそこには彼の名前が書かれていた。それを見て私はあの日の約束を思い出した。彼はずっと覚えていたのだ。本気だったのだ。それに気付いて申し訳ないような情けないような気持ちになった。

「君に贈るのは空の絵だ。青い、青い空。白い雲が浮かぶ底抜けの空だ。鳥も飛ばそう。君と同じで自由な鳥を」

その言葉が嬉しかった。彼が私のために絵を描いてくれるということよりも、彼が私を自由と呼んでくれたことが。その頃は自分を貫き通そうという意志に縛られているような気がしていたから。だからそれを自由と定義する彼の言葉がこの上なく嬉しかった。そして、その嬉しさのままに口を開いた。

「だったら俺がその絵を世界一の名画にしてやるよ。世界中に知らない奴がいないくらい有名にさ」

守れる約束ならば良かった。だが当時とは居場所が違い、立場が違った。財団職員と異常芸術家アナーティスト。ヴェールが破れ、異常芸術家という存在が社会に溶け込みつつあるとは言えど、二人の道が分かたれていることに変わりは無かった。データベースに追加される彼の動向を見る度にそれを如実に感じていた。だから今更そんな古い約束にしがみつくことなどない、と思った。それでも彼は約束を果たしたのだから私も応えるべきではないのか、と思った。考えれば考えるほど答えは遥か遠くに思えた。

約束なんてかなぐり捨てて財団に殉じるべきだと分かっている。そうする事が財団のためで、ひいては人類のためになると。だが、私の中の感情的な部分がそれを真っ向から否定していた。あの事件、そのあらまし。それを間近で見届けて、財団は本当に人類を守るのか、なんてどうしようもない問いが生まれた。疑問が疑念を次々に生み出し、組織に私が命をかける意味、人類を守るという信頼、絶対だったその前提が私の中でぐらつき始めた。財団にいる事が本当に人類のためになるのか。その事を悩み続けていた。

だからこそどうすべきか迷っていた。約束と財団は今、私の中で等価だった。天秤の針は振れず、私自身の手で動かさなければならない。そしてその覚悟は未だできていなかった。

荷物も開けずに私はふらふらと家を出た。決断する時間が欲しかった。道を歩けば葉桜の並木があった。学校があった。公園があった。鳥がいた。この南太島の風景はどれも彼との思い出を想起させた。もう随分前の事だというのに一旦思い出すと彼の描く絵が頭に浮かんで離れない。

公園を歩いているとボート乗り場に差し掛かった。水面に空が映っている。彼が一度も空を描かなかったのを思い出して、私はボートに乗ることにした。彼の面影が無い空の中心でならどうにか落ち着けるような気がした。

500円玉を受付に渡してボートを漕ぎ出し、池の中心近くでオールを止めた。雲ひとつない良い天気だった。上を見れば底の抜けたような深い青空があり、下を見ればそれを灰色に映す鏡面があった。ボートが二つの空の中心を漂っているかのようだった。

空を埋め尽くす青空を見やる。霧が届かなかったからなのか空は色を保ったままだ。それはこの灰色の街においてあまりにも魅力的な姿で、見ているだけで吸い込まれるような錯覚を覚えた。彼の描いた空の絵もこんな吸い込まれるような深い青色をしているのだろうか、なんて思って、ありえない想像に苦笑する。彼が描く絵はいつもモノクロ。色がついているはずがない。ましてやこの灰色の街で色のある絵に出会えるものか。そこまで考えて私は思った。いや、本当にそうだろうか?

あの事件を境に彼は作品を発表しなくなった。スランプか、それとも筆を折ったのか。街がこうなってしまってはそれも仕方がないのかもしれない。けれど芸術を失って彼に何が残るのか。それが私にとっての気がかりだった。そしてその心配を裏付けるように彼は死んだ。結局あの事件から一つも作品を残さないまま。

だが、彼は描き続けていたに違いない。あの事件以来ずっと。そうでないならなぜ今になって絵が届くのか。彼はずっと描き続けていたのだ。ならば、それはきっとただの絵ではない。

ある日、色は塗らないのかと彼に尋ねた。

「ああ。なんか……こう、嫌な感じがしないか?」

「何がさ」と私は言った。彼の絵は控えめに言っても素晴らしいもののように思えた。目の前の物をそのまま写し取ったようなその絵にもしも色がついたなら、それはきっと実際のそれそのもののように見えるのだろう。それなのに色を乗せないのが不思議だった。

彼は目を泳がせ、手を開いたり閉じたりした。頭の中で何かを纏めようとする時の仕草だった。

「木炭画ってさ。物の色とか、光の当たり具合だとか、質感だとか、そういう固有の色を白黒で表現する訳だけど、さあこれだとなった後のものに新しく色を乗せるというのがなんだか……そう、色を頑張って表現した上から色を塗るってのは変じゃないか?」

ロマンチックだな、と思った。物事に存在するはずの限界をまるで存在しないかのように無視して話す彼が眩しかった。だからただ「そういうもんか」と呟いた。彼は重々しく頷いた。

「色は乗せるものじゃなくて出るものなんだ。今の僕には出せないけど、いつか木炭だけで誰にでも見える色を出してみせるよ」

夢物語だと思っていた。そんな事はできっこないと。きっとどこかで諦めるか、適当に満足するのだと。今は違う。私は異常を知った。正常を知った。世界の裏側の一端を知った。今の私は彼は正しかったと知っている。

彼は成し遂げたのではないだろうか。この街が色を失ってから何もかもを研鑚に費やし、その果てに彼だけの色にたどり着いたのではないだろうか。ならばあの絵は南太島を覆う灰色を引き剥がすための鍵という事になる。だとすれば彼が死んだのも、決して事故や偶然ではなく。

彼は命を懸けて託したのだ。あの絵と、そこに篭められた願いを。そう悟った時、天秤の針が傾いた。

財団を捨て、彼の絵を然るべき場所に届けると決めた。たった一つの古ぼけた約束のために全てを捨てる覚悟を決めた。そうするべきだと思ったのだ。彼が命を捧げたのなら、私もこの命をもって応えなければならないと。

彼の絵を車に積み込んで私は運転席に座った。行き先は既に決まっていた。

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