藍色の研究
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    西暦2013年 五月三日


     春。それは一般に始まりの季節とされ、寒い冬の終わりであり、また暑い夏の前触れでもある。正弦波で例えるなら節だ。財団においてもこれは例外ではない。春になればプリチャードから上がってきた職員や、一般公募に応募して厳しい審査を乗り越えた職員が新たに財団職員として雇用される。応神薙は、少々特殊な家系の先端なれど、やはり今年に雇用された新人である。彼は云うならば誇り高き烏だ。抜きんでて高い能力を持ち、そして群れない。彼は、サイト-8100の食堂で大盛抹茶パフェの四杯目を食べていた。

    「いや、食べすぎでしょう」

    「これくらい食わんと腹が減る。腹が減ると戦はできない。すると俺は死ぬ」

    「だから、食わねばならないと?」

    「そうだ」

     ジョシュア・アイランズは応神薙の何年か前に雇用された、渉外部の要だ。何かの縁だろうか。二人は出会うとすぐに意気投合し、友人となっていた。応神薙が五杯目のパフェを平らげるのを傍で眉をひそめながら見ていたジョシュア・アイランズは、ここ最近やたらと増加するトラブルをいかにして避けるかをひっきりなしに考えていた。

    「そうだ、ルームシェアだよ。今思い出した。早く相手を見つけなきゃまずいな」

    「私はごめんですよ。君と暮らすなど、胃が捻じ切れそうだ……。学生の時に朝の四時から木刀を振って案山子を叩き壊してプロテインを飲んで筋トレしてプロテイン飲んで木刀をへし折ってプロテインを飲んでいたら悪い噂を流されて、新たなルームメイトが見つかることなく現在に至る、と。アホなんですかね、あなたは」

     応神薙の肉体は整っていた。それはもう、厳しい鍛錬によって、手はタコだらけになり、無駄な肉を一切合切削り切った。トラを思わせる恵まれた体躯に確かな戦闘センスも相まって、最初は機動部隊員として雇用される予定だった。しかし驚くほど個人主義の彼は、上官の指令に従うことが大前提の機動部隊とは相容れなかったのだ。

    「まあ、心当たりはなくもないですが」

    「じゃあとっとと『心当たり』に当たりに行くぞ」

     ジョシュア・アイランズは大きなため息をついた。


     いくつかの電車を乗り継ぎ、JR総武線錦糸町駅に出る二人。最近は要注意団体や正常性維持機関の人員が立て続けに変死しているので、少し警戒している。スーツにシャツと標準的なサラリーマンの格好のアイランズと、黒いコートに黒いサングラスで全身真っ黒である応神薙の二人組は、街ゆく人たちの中でもかなり浮いていたに違いない。そこから都07系統バスで一駅行くと、墨東病院に行くことができる。アイランズの心当たりは、墨東病院にいるのだ。

     墨東病院、地下。死体安置所に心当たりはいた。応神薙より頭半分ほど背が低く、パッと見たらウサギのような顔であると形容できる彼だが、明らかな狂気を何処か孕んでいる様子だ。男は彼の背丈ほどある銛を今まさに豚の死体に投げつけんというところだ。

    「あー、失礼。谷崎、今いいですか?」

    「ええ、どうぞ」

     軽薄な声であると形容するのが適切な声だ。男は構えていた銛を下ろす。彼は少し納得した様子で薙とアイランズのほうへ歩み寄った。彼は二人をしばらく見つめて息を整えた後、口をゆっくりと開いた。

    「アイランズの連れは武芸に達者と見た。この銛を投げつけてはくれないだろうか」

    「は?」

     武骨だが丈夫な作りの銛が男から応神薙に手渡される。訳も分からぬままに豚の死体の前に立たされた応神薙は、とりあえず力いっぱい銛を投げつけた。失敗。銛に余計な回転が加わり、弾かれてしまった。これで感覚をつかんだ応神薙は今度こそともう一度投げる。銛は死体に深々と刺さり、見事に貫通した。無機質な蛍光灯に照らされる冷たい部屋にはただ水音と静寂が満ちる。

    「で、シェアハウスだか何だか」

    「待て、なんでおれは銛なんかを投げさせられたんだ」

    「あー、近くでGOC構成員の死体が見つかって、銛が刺さってたんだ。武芸達者なキミでも一回目は外して、ぼくは数えきれないほど外した。銛が得意な奴が銛で人を殺すなんて、単純極まりない」

     薙が視線をアイランズにやると、彼はまるでいつもこうなんだと言いたげに首を横に振っていた。この男が何者であるのか、推し量りかねていたのだ。

    「まあ、詳しいことはぼくの家で話そうじゃないか。忘れものをしちまったから、30分後に北砂三丁目で会おう」

     男は風のように部屋を去った。応神薙はキツネにつままれたような表情で突っ立っており、ジョシュア・アイランズは手慣れた様子で豚の死体を男の住所に送るように指示を出した。

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       応神薙は一人でバスに乗り、しばらく揺られながら思索にふけっていた。あの謎めいた男は何者だろうか。信念に裏付けされた狂気を信条としているように見えるあの男は、何者だろうかと。車窓はいつしか高いビジネスビルは消え、マンションがいくつも立ち並ぶ風景に移り変わっていた。バス停止の慣性を利用して彼は立ち上がり、軽やかな足取りで降車した。

       男は彼の宣言したとおり、ちょうど30分後、応神薙の二本後のバスで現れた。男に導かれるまま応神薙は近くのマンションに入り、エレベーターで14階まで上がる。そこには、周りの無機質な壁と全く調和していないマホガニーの扉があった。

       戸を開けると、そこは近代的な内装の部屋だった。廊下には特に特筆すべき点はなく、浅い色の木のフローリングで、清潔感があふれている。14階と15階は彼の居室であり、両階は階段で結ばれていた。そそくさと靴を脱いで階段を上がると、江東区を超えてずっと向こうまで見通すことができた。効率的に割り振られた、無機的な街並みだ。ぼやけた青の空が縁取りをあいまいにする。床には、大量の紙束が散乱していた。

      「山ほど質問がある」

      「そのうちいくつかには答えてしまおう。ぼくの名前は谷崎翔一、エージェントだ。主な業務は異常犯罪の解決で、去年の冬に財団の職員になった。公益財団法人犯罪心理学協会で、ちょっとしたポストについている。それまでは、特事課で一年くらい働いてたよ。官僚主義に嫌気がさしちまってね」

       谷崎翔一は淡々と言い放つ。テレビの天気予報が空虚に響く。どうやら横浜は激しい雨が降っているらしい。彼は応神薙にまずコートを脱ぐことを勧め、それから彼に一缶のジュースを手渡した。

      「其処から財団に引き抜かれて、今は特事課のコンサルタントって立場だよ。ポーランドがまっ平になってから、異常がかかわる犯罪が多くなったからね。まあ、お呼ばれすることは多くないけど」

       ほかになんかある?とでも言いたげに、彼は肩を軽くすくめた。応神薙の疑問は、もちろんそれだけではなかった。彼はおいてあったソファに座り、缶を開ける。小気味よく気の抜ける音が部屋に響く。

      「今あんたが答えたのは一つの質問だけだな。『正体が何者か』ってのだけだ。あと二つ質問がある」

      「おや、ではそれにも答えてしまおう。最近ルームシェアが人気になってきてね、良い人はいないかと、アイランズに聞いてみたんだ。そしたらその翌々日にキミを連れて現れた。キミが武芸者であると見抜いたのは、ひとえに筋肉と手のタコだよ」

       そうぶっきらぼうに答える谷崎翔一は、応神薙にとって新鮮だった。ジュースに口をつけ、考える。応神薙はなまじ平安時代から続いている名家の出身であるので、家では丁重に扱われ、学校でも友人はいれど親友と呼べる人間はおらず、どこかよそよそしい扱いを受けていた。よろしく、と彼の前に差し出された手を全力でつかみ返す。谷崎翔一の少し驚いたような表情を見て、応神薙は少しだけ笑みを浮かべた。

      「それで、ここに住むのかい?空いてる部屋ならいくらでもあるよ」

      「それも、面白そうだ」

       谷崎翔一のもとにトラブルはやってくる。応神薙のもとにも、やってくる。それに本能的に気付いた彼らは、交わした言葉は少なかれど、互いが互いの良い友人になるであろうことを予見していた。


      西暦2013年 五月四日


       この朝は春にふさわしくなく、まるで一歩湿った冬へと戻ってしまったようだった。曇り空が重くのしかかる高層マンションにはまず段ボールがいくつか届き、その数分後に応神薙が自らを届けた。奇蹄病患者を忘れてはならぬと叫ぶデモ隊の映るテレビを見ていた谷崎はすくっと立ち上がり、応神薙の部屋に荷物などを詰め込むのを手伝い、それから冷蔵庫よりドリアンを取り出した。

      「げ」

      「げとはなんだ、果物の王様だぞ。それに、新鮮なものは匂いも強くない。結構奮発したんだよ。キミの歓迎の意も込めて、さ」

       彼は慣れた手際でドリアンのとげとげしい皮をむいた。すると、『果物』としか形容できないような強い香りと、それに乗せられた硫黄のようなにおいが部屋を漂う。

      「く、臭いじゃねえか」

      「信じてくれ、口に入れちまえば臭くない」

       見せつけるように谷崎は黄色い房を四つに切り分け、一つを口に放り込む。しばらく咀嚼した後、彼は大粒な種をゴミ箱に吐きだした。薙が恐る恐る匂いを近くで嗅いでみると、依然として玉ねぎのようなにおいはあるが、それよりも果物の匂いが何倍も強いことに気づいた。

       黄色い一切れを口に放り込むと、驚くほど異臭はせず、あるのは果物の匂いのみだった。アーモンドで強く味付けされたカスタードクリームのような味。これを王と言わずに何と言うのだろうか。油分も無視できない量が含まれている。新鮮なドリアンの一切れは、応神薙の口の中で霞のように溶け去った。残り二切れは瞬きの間に消え去ってしまった。

       応神薙が口に残るにおいと甘さをカフェオレで流し込んだ後、彼はあることに気づいた。お菓子作りのための道具が多い。ハンドミキサーからゴムベラ、そしてアラザンなどの様々なデコレーション用のもの。それらがひとつのボウルに乱雑にまとめて入れられていた。

      「なあ、お菓子作るのか?」

       期待の意を込めて聞く。

      「ああ。あまり好きじゃないが、なぜだか作ってしまうんだ」

       何処か物悲しそうに言う彼の腰につけられたわずかに焦げた百合の造花が揺れる。しかし、これは応神薙にとって良いことであった。お菓子を作れるのならば、食費を抑えられるし、モチベーション向上にもつながる。応神薙はマグカップを片手に、ソファにどっかりと座り、テレビをつけた。

      『エー、夏鳥思想とは、1998年の神格実体降臨前の世界に戻そうとすることを是とする思想です。シンボルマークは懐古の鳥として知られていおり……』

       何気ない一日。財産職員には貴重なれど、少しばかり退屈な一日。事件とか、体と頭を動かせるものがないと、どうも味気ないのだ。


       幸いなことに、トラブルは二人を放っておかなかった。谷崎の携帯電話がけたたましく鳴る。少しびっくりした様子の彼が電話を取ると、アイランズが何やら慌てた様子で話していた。

      『昨夜あるエージェントのバイタルサインが停止しました。状況を見るに殺されたみたいですね。GOCからも苦情が来てるし、特事課からも富士山みたいに苦情が入ってます。今上からこっぴどく叱られちまいましたよ。早く解決してけじめをつけてください』

       一連の変死事件には報道管制が敷かれていたので、民衆の知るところではなかった。はじめは特事課が連続自殺事件として捜査に乗り出したものの、下手人の足取りはつかめず、逆に一人が毒殺されてしまった。ニッソ医機の構成員は特にむごたらしく殺されたし、つい先日に毒死したGOC構成員の胸に銛が刺さっている状態で見つかったのだ。どれも、江東区近辺で起こっていたものだ。静観を決めていた財団だが、ついに被害が出てしまった。場所は荒川の河川敷だ。

      「死体を見たことは?」

      「ないが、いい経験になるだろ」

      「よし、ならば押っ取り刀で駆けつけるぞ、文字通りね」

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         現場にはすでに多くの人間が集まっていた。大部分が特事課の連中であることはすぐにわかり、そして谷崎は特事課の塊の中に見知った顔を見つけると、そこに向かって歩みを進めた。そこには身長およそ185センチの体格の良い中年の男が彼の班とともに立っていた。

        「谷崎、出世したな」

        「その言葉が妥当かどうかは知りませんが、給料は増えましたね」

         大島博之は谷崎翔一の元上司という立場の人間だ。谷崎がまだ特事課にいたころはとにかく彼との折り合いが悪く、気に食わない指揮には従わずに独断で動いていたことが何回もあった。それで彼の特徴的な野太い声で怒鳴られたことも何回もあった。二人の仲はお世辞にも良いとは言えないが、彼以外に見知った人間はいなかった。

        「ところでそこのお侍さん、帯刀は違法って知ってるかい」

        「知ってるが、守る気は毛頭ない」

         大島が応神薙のコートのふくらみを見て言う。財団は超法規的機関であり、身を守るためや突発的事象に対応するための帯刀帯銃が許可されていることは、大島も知るところだ。応神薙が何者かを聞かれる前に谷崎は彼が助手のようなものであると答える。少し複雑そうな顔の応神薙は、谷崎と二人で警戒色のテープをくぐった。

         死体は草がまばらに生えた河原に横たわっていた。死後およそ半日だろうか。目立った外傷のないそれの額には、財団のエージェントであることを示すクリアランス・カードが貼り付けられていた。曰く、『平野始』。谷崎も応神も、彼には面識がなかった。しかし、やはりどこかに仲間意識はあるようで、少しばかりの黙とうをささげた。死体の顔は骸骨のように痩せていたが、それでもはっきりとわかるくらいに恐怖の表情を浮かべている。

         いやいやながら彼を通す鑑識の一人を一瞥し、谷崎が顔を死体のやせこけた口付近に近づけると、特徴的なにおいを感じ取ることができた。シアン化合物による毒殺だろう。しかし、明らかに自ら摂取しているサインがある。遺体はわずかに湿っている、上等なスーツを着ている。その下のシャツは、泥と草にまみれてしまって、お世辞にも綺麗であるとは言えなかった。手首に新しい傷があるが、これが直接的な死因ではないだろう。地面に血はなかった。谷崎は財布をまさぐり、ひとしきり拡大鏡で調べ終わると、口を開く。

        「スーツは死亡時には着ていなかったみたいですな。彼は横浜から電車ではない手段でここに来た  賞賛は結構」

        「よろしい。被害者に共通する点だが、全員が一軒家に住んでいる」

        「それだけですか?」

         応神薙は河原に横たわる死体をつぶさに観察していた。しばらくして、彼は谷崎の思考が、よく根拠づけられていることに気づく。シャツとスーツの汚れ具合の違い死亡時にはシャツ姿であったことを、また湿っているスーツは、空が彼に傘をさすことを許さなかったことを示している。財布の中から切符の類は出てこなかった。これは電車を使っていない証拠だ。財団ならば、領収書を提示することであとから交通費を全額支給してもらえるからだ。彼がこの制度を活用しないということは考えにくい。

        「それだけだ」

         いや、困った困ったと頭をかく谷崎翔一。情報が多すぎるのは考えものだが、少なすぎるのはさらに考え物である。大島にスーツの微物検査の結果をメールで送るように約束させた谷崎は早めに捜査を切り上げ、二人はマンションへの帰路へつく。

        「なにか、考えはあるか?ほら」

        「あるけど、言わないでおくよ。今はまだ情報収集の関係だからね」

        「あー、なるほどな。先入観に邪魔されたくないってことか」

        「まあ、そんな感じだね。先入観は誰でも無意識のうちに持ってしまうから、それを正しく認識してやることが大事なんだよ」

         閑静な住宅街を歩く二人。民家から漏れる木漏れ日のようなピアノの音色を緩やかに堪能する。目を細める谷崎の顔には、死神の鎌のような笑みが浮かんでいた。何かを思い出したように、応神薙が口を開く。

        「どうも、裏があるような気がするんだよな。実行犯一人じゃこんなことは到底できっこない」

        「興味深い仮説だ」

        「というのもな、どうやってこんなハイペースに正常性維持機関の構成員の居場所を探り当てて、かなりまどろっこしい手段で殺してくんだって」

         ははあ、とうなづく谷崎翔一。彼はポケットから飴玉を取り出し、口に放り込んだ。数回感触を舌で楽しんでから、バリボリとかみ砕く。

        「ともかく、犯人は一つミスを犯した  スーツを着せたことだよ」


         時間は午後五時。現場から戻った二人は徒然なるままにけだるげな午後の時間を過ごし、気づけばドリアンをすべて消費してしまった。鏑矢のように雲間から差し込む斜陽の冷たさを吸い込み、応神薙は考える。古今東西の探偵ものでは、この時点で彼らの脳内には終局の場面すら見えているが、谷崎翔一はそうではないようだ。どこかこれを演じているような彼は、どこまでも人間だった。

         鐘を打つように鳴るインターホンの音。谷崎がオートロックを開けると、数十秒もしないうちにマスク姿の着ぶくれした男が現れた。しわがれてぼそぼそとして、極限までに聞き取りにくい彼の声に言われるまま、サインをする。差出人は警察だ。微物検査の結果が入っているようだ。

        「何々、要約すると変わった色の毛が検出されたとか、奇跡の行使は見られなかったとか」

         官報特有の仰々しい言語で書かれていたが、要するにそういうことである。応神薙の脳内には何か思い当たる点があるようだ。

        「ペットなんて飼ってたっけ?」

        「否だね」

        「じゃあ、何者の毛だ」

         飄々と肩をすくめる谷崎翔一の目はらんらんと輝いていた。まるで新しいおもちゃを見つけた子供のような目である。彼の手は求愛をする南の鳥のように震えていた。わずかな気味の悪さを覚えた応神薙はコート姿のままでソファに転がった。

        「われらの毛深い友人さ、薙くん」

        「冗談は寝言だけにしてくれ」

         惰性に任せるまま吐き出した息の導くままに谷崎は一人用のカウチに吸い込まれる。遠く響く車のクラクションの音が、夕闇の終わりを告げていた。初めて死体を見た応神薙は、思いのほかショックを受けてしまっていたようだ。夕飯の事すら忘れた二人は、そのまま眠ってしまった。


        西暦2013年 五月五日


         空腹で目を醒ました二人は仲良く同時にあくびをし、冷蔵庫から缶詰といくらかの果物を取り出した。スパムと鯖缶をつつきあう二人は目の前に何があるのかすら曖昧な、まだ夢から完全に抜けきっていない妙な気分だった。お世辞にも江東区の空気はきれいであるとは言えないが、空には黒い布を電光に透かしたような空が広がっていた。

        「犯人は奇蹄病なのか」

        「その通り、でも素性はまだ分からんなあ」

         さくりとリンゴがかじられ、応神薙の口内に強い甘みと確かな酸味、そしてえもいわれぬ香りが広がる。鯖缶の塩気とうまみと、確かに調和したその味は彼の目を醒ますには十分だった。奇妙な時間に起きてしまったので、完全に目を醒ましてしまうためにも、木刀を振る必要がある。何かを思い出したように外に出る谷崎翔一を見送った後、応神薙は乱雑とした自分の部屋に引っ込み、思う存分汗を流した。

         空に白いヴェールがかけられたころに谷崎翔一は奇妙なにおいを漂わせながら、黒い鞄を片手に戻ってきた。木刀を振り終わってタンパク質と炭水化物を思う存分補給した応神薙は鞄を開く谷崎を横目に、酷使した筋肉をほぐすために柔軟運動をする。

        「記憶消去フラッシュに、身分証と水筒と携帯電話と少しばかりの食い物」

        「寂しい中身だな」

        「いかにも。あー、目論見が外れた」

        「目論見?」

         谷崎翔一は弾くように鞄をソファに向かって投げ、いじけたように一人用のカウチに丸まって転がる。誰が見ても分かるほどに彼は落胆していた。

        「ああ、エージェントならば手ぶらじゃ外出しないはずだよ。たとえ脅されたって、無意識のうちに鞄を持っていくだろうね。しかし、鞄はあの場にはなかった。犯人がわざわざ持ち去ったか、彼が犯人の車に置いてきたかのどっちかだ。彼は彼がこれから死ぬだろうことを予期してたんだよ。いや、実に見事だ。それで、ぼくは携帯電話のGPSサービスを使って追跡しようとしたんだけど、困ったことに電話番号がわかっても追跡サイトにログインするためのパスワードがわからない。それで現場近くのごみ捨て場をひたすら当たって鞄を回収してきたんだが、望み薄だな。なんせ携帯の電源が一昨日からずっと切れてたみたいだ。あ、ちなみにぼくは殺してないよ、たまに疑われるんだ」

         やんなるね、と水面のような声でつぶやく彼の手に持つ携帯電話の起動ログを見ると、一昨日から昨日にかけてが空欄になっていた。これでは追跡なんてできるわけがない。知り合いのGOC構成員の情報を流して釣りでもするかなどと、谷崎翔一の不穏なボヤキが聞こえる。空はいよいよ藍色から白、そしてモルフォ蝶の羽の輝きのような青へと変わっていった。

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           気分転換のために朝ご飯を外食で済ませた二人がマンションに戻ると、そこにはすでに大量の人間がいた。大島博之と、そのチームだ。谷崎翔一は彼らににこやかに手を振り、ずけずけと部屋の中に立ち入ってカウチの上に丸く収まった。

          「あんたら、ここで何をやってやがる」

           応神薙が大声で怒鳴る。

          「薬物の押収に決まっているだろう」

          「はあ?言うならもっとましな冗談を言ってくれよ、お巡りさん」

          「おっと、こんなところに被害者の鞄があるなあ。なんでだろうなあ」

           大島博之がソファに転がっていた鞄を拾い上げてわざとらしく言う。ここまでの確執があるとは、谷崎翔一は過去に何をやらかしたのかが気になるところだ。応神薙が大島博之の手を払いのけ、ソファにどっかりと座る。

          「聞いたところによるとお前ら、つい一昨日に出会ったそうだな。このままいくと週末には結婚か?」

          「ちょっと静かにしてください、大島さん。被害者のほうがあなたたちよりも何倍も賢かったですよ。こんな無駄なことしてないで、とっとと犯人追跡の方法でも考えたらどうですかね」

           カウチで谷崎が丸まったまま言う。その顔には、コップをひっくり返したら水がこぼれるくらいに明らかな呆れが見て取れた。

          「知ってることを話せってことだ」

          「見ての通りですよ、携帯のGPSは使えないし、手首に傷があるのも意味不明だ」

           谷崎の向かい側に大島博之が座る。市民に紛れて人を気取られずに殺せるような輩は何者か。影のような人間だ。つかみどころがない。応神薙は閉じていた目をかっと開き、弾かれるようにパソコンに向かった。同時に、谷崎が手をたたく。そういうことか、と大島博之が野太い声で叫んだ。

          「薙くん、SCiPネットに入って、平野始の位置情報を追跡してくれ!」

          「ああ、今やってる。クソ、なんでこうも接続が遅いんだ」

           エージェントには標準でバイタルサインと位置情報を追跡するナノマシンが注射されているのだ。鳴り響くインターホン。谷崎はそれを忙しいと一蹴し、居留守に放り込む。再び鳴り響くインターホン。画面の向こうにはマスク姿の男がいた。

          「荷物ですよ、受け取ってもらわないと困りまさあ」

           しわがれた声の男が言う。谷崎翔一は数回頭を振り、何回か津波のような呼吸をして、オートロックを開けた。

          「いや、おかしいぞ。一つは死体安置所だが、もう一つがここだ」

          「あー、ちょっと出かけてくる。一時間くらいで戻ってくると思うから、安心してくれ」

           応神薙の制止も聞かずに、彼はそそくさと玄関の外に出て行った。


           外で待っていたのは彼とほぼ同じくらいの背丈の、着ぶくれしたマスク姿の男だった。よく見ると、彼の顔はカミソリで無理やり剃られており、目は片方が飛び出てもう片方が引っ込んでいた。

          「制服なら、顔に注目しなくなる。感心しましたよ」

          「無駄口はついてきながら聞きゃすよ」

           男がポケットから銃を取り出して谷崎翔一に突きつける。谷崎は一切動揺したそぶりを見せず、ただ静かに突きつけられるままにしている。エレベーターを降り、配達用の軽トラに乗り込む二人。これからどこに向かうのか。谷崎翔一には皆目見当もつかなかった。

           車のエアコンには女性と赤ん坊の古ぼけた写真が貼り付けてある。車窓の景色はゆるやかに移り変わり、やがて橋の上に出た。大島西中学校のわきで車を止めると、二人はそろってドアを開け、橋の下に向かった。うすら寒いそこは落書きにまみれ、死んだように静かだった。

          「なるほど、奇蹄病をきっかけに妻と子供に出ていかれたと」

          「その通りだよ」

           しわがれた声の彼がマスクをとる。彼の鼻はまるで雪の重みでまがった木のようにねじれていた。口からは黄色く染まった左右不対称な牙がのぞいている。この奇妙でちぐはぐなのが、奇蹄病患者の特徴だった。

          「これはビジネスだよ、谷崎翔一。おれがあんたみたいな奴らを殺すたびに、雇い主から金をもらえる。家族に渡すのさ」

          「雇い主?」

           谷崎翔一がいぶかしげに聞く。彼に心当たりなど、まったくない。

          「あんたのファンだよ」

          「まあ、今はどうでもいい。キミはしょせん道具として使われてるだけですよ……夏鳥の連中か?」

          「その通りさ……前の奴は毒殺するつもりだったんだが、キレちまってな。近くの銛で刺し殺しちまった」

           ひょうひょうと笑う男は谷崎翔一の額に銃を突きつける。いつの間にかに脱ぎ捨てられた手袋に隠れていた彼の手は、藍色の毛でびっしりと覆われていた。

          「撃つがいい」

          「じゃ、お言葉に甘えて」

           弾丸が谷崎翔一の脳を蹂躙することはなかった。代わりに彼の額が感じたのはわずかな熱。拳銃に似せたライターだ。自動拳銃など、入手法があまりにも限られている。

          「とっとと投降したほうが身のためじゃないんですか、ヤギの郵便屋さん」

           男の目から光が消えた。この一言が彼の堪忍袋の緒を爆破したのだ。彼は拳銃を宙に置くように手から離し、獣のように身をかがめる。そして固めたこぶしを谷崎翔一の腹に叩きつけた。谷崎は後ろに飛ぶことでいくらか衝撃を緩和することに成功したが、それでも口から血を吐き、何メートルか宙を舞った。カラスの羽ばたきのような音とともに、彼は意識を手放した。


           応神薙はサングラスと彼自身の携帯端末を無線でつなぎ、谷崎翔一の現在位置を追う。まどろっこしいエレベーターに乗り込んだ応神薙はその場でアイランズに連絡する。

          「救急車を持ってこれるか、あとは護送用の車だ」

          『誰か怪我でもしたのですか?近くの消防署に空いてるのがあるから、それを向かわせます。護送用のは、特事課が手配するでしょう』

           アイランズに感謝を告げる。一階へと降りた応神薙は一つ深呼吸をし、木の幹のように武骨な筋肉を叱咤して、北へ全速力で走りだした。警察車両のサイレンが、彼の後ろで鳴り響く。

           新開橋。明治通りの一部であるその橋に、谷崎翔一の座標を示す光点はあった。しかし、橋の上には人影がない。ならば下である。応神薙は階段などというまどろっこしい方法を使う気はさらさらなかった。彼は、烏のようにコートをはためかせて飛び降りた。

          「おや、忠犬ハチ公みてえだ」

          「話はあとで聞く、黙ってろ」

           応神薙は点のような射撃で男の両ひざを打ち抜く。重要な動脈は幸いにして外れていたものの、男は痛みにうめきながら崩れ落ちた。谷崎翔一の口元には少し血だまりができていた。内臓から出血したのだろうか。緊急止血ポリマーを腹に打ち込み、何回か頬をたたくと、谷崎翔一はそのハシバミ色の目を開けた。

          「ときに薙くん、思うんだけどさ、殺人とかいう緋色の糸をどうにかこっちまで手繰り寄せて、白日の下にさらす。これを、藍色の意志と呼ぼうと思うんだ。いいセンスしてるでしょ?」

          「面白いな。頼むから黙って寝てくれ」

           しばらくしてサイレンが鳴り響き、エージェント二人は手近なサイトへ、下手人は警察病院へと運ばれていった。

            • _


             下手人、大石泰三の人生は2009年に至るまで順風満帆だった。彼は横浜のとある外資系の会社の営業マンを務めており、彼自身は膨大な額のボーナスを常日頃と言わずとも、受け取っていた。2009年某日の、日本生類創研アウトブレイクで、彼は厄介な病に感染してしまった。奇蹄病である。彼の体は激痛を伴ってねじ曲がり、およそ人とも獣とも、この世の生物とも言えないような醜い外見となってしまった。

            「こんな人とお付き合いしてるなんて、恥ずかしいわ」

             生き延びただけ幸運であった。多くの奇蹄病患者は、感染した時点で変容に体が耐え切れずに死んでしまうのだ。彼の妻は、まだ幼い息子を彼の財産もろとも連れて遠くに出て行ってしまった。彼の心には、初めて憎しみが生まれた。夏であろうと冬であろうと、彼は長袖を着て、手袋をして、目深に帽子をかぶって過ごすようになった。彼は、タクシードライバーを始めた。制服ならば、顔を気取られることもないからだ。

            「ドライバーの顔なんて誰も気にしないから、大丈夫だよ」

             当時の雇い主のその言葉をただ信じて、大石泰三はタクシーの運転手を続けた。平凡なある日のことだった。マスクの紐が取れ、彼のイボイノシシを湾曲させたような醜い顔が漏れてしまった。それを見てしまった客は正気を一時失い、殺される、殺されると叫んで窓をたたいた。

            「お前はもう首だよ」

             当時の雇い主に、そう告げられた。大石泰三は、人の肉の味を知った。

             それからというものの、彼は時折人の心を忘れるようになった。獣の心が表に出てきて、一時我を失ってしまうのだ。彼はどうにかして、頭を何度も下げて頼み込むことで、配達の職についた。配達ボックスに置くなどすることで、顔を見られずに仕事ができるからだ。

             しかし、彼はやはり彼の妻と幼き息子を愛していた。どうにかして、お金を送ってやりたかった。そんな時に、彼はあの曖昧な男に出会った。

            「キミによいビジネスを持ちかけよう、ケダモノくん」

             影のような彼はそう言って、大石泰三に一束のリストを渡した。これがキミの仇であると、強く言い聞かせた。獣としての本能が、逆らってはならぬと強く告げていた。

            「わかりました」

             しわがれた声の彼がリストの端に見たのは、懐古の鳥。まごうことなき夏鳥思想連盟だった。彼は、再び人の肉の味を知った。だんだんと彼の人間としての意識をつなぎとめるのが難しくなってきた中、彼が最後に見たのは何処までもただ藍色の空だった。


            西暦2013年 五月lD日


              夢のようだった。どうやら色とりどりの魚が藍色の水の中を悠々と溶けている最中に、まるで何も脈絡がないように貫入してくる大ウツボやエイを眺めるのは。心身ともに疲れ果てた谷崎翔一が池袋のとある病院から退院した後、その足で向かったのはサンシャイン水族館の大水槽だ。平行線が狂ったそこには誰もいない。平日の午後で、学生や会社などで人々がまだ忙しくしているからだろうか。彼はただ徒然なるままに座してただただ魚を眺める。独特な紋様を持つ黄色く溶ける魚をいつまでも追跡してみたり、ただひたすらにウツボが現れるのを待ったり。

             平和で緩慢とした時は、唐突に終わりを迎えた。とてつもない違和感を感じた谷崎翔一は、体の痛みも忘れて立ち上がる。まるで自らが王であるかと宣言するように、つい先日見た下手人の死体が、斜め45度に右手を上げ、水面から貫入する。水槽の水の藍色と、下手人の体毛の藍色が、まるで溶けるように夢と現の境界線をあいまいに。水彩絵の具のようににじみ、かすれる時計で時間を確認すると、午後3時73分だ。ラバーで滑る床を、まるでかき分けるようにして進む。

            「ああ、ああ。あなたがこの死体を唯一見たお客様です。つまり、第一発見者ということになります。ああ、早くこれを何とかしなければ。警察を、警察を」

             異変を察知した水族館スタッフが谷崎のもとに駆け寄る。彼の顔面は黒くぼやけていた。天井からしめ縄の走り回る音が聞こえる。

            「ご心配なく。御覧なさい、あの死体を。あなたが怖がる理由は全くございませんよ。何せぼくが警察関係者ですからね。ああ、見てごらんなさいよ、彼の顔を。目はひん剥かれ、口は半開き。薬物中毒者みたいだ」

             谷崎翔一は痛む腹を少し抑えつつ、水槽に近寄る。地獄のように冷たいアクリル板に手を触れ、彼は彼自身がどこか悔しがっていることを知った。さかな、みず、しもてにん。彼の見ている物体は意味による呪縛から解き放たれ、一つ一つの記号へと溶けていった。

             にじむように黒い血が、水槽を支配した。

             

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