阿部の某
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その小さな砦からは、夕さりの光の中、敵方の陣から煮炊きの煙がすでに見えている。岩付の城近くの砦、太田美濃守配下の兵三百が川向うの敵陣を睨んでいた。この前日、ある程度の兵数を差し向けて敵陣の様子を検めさせたが敵方の兵数は少なく見積もっても倍。砦に詰める兵たちはこの砦に籠城し、本城への到着を遅らせようかという算段をつけ、今は夜襲を警戒して交代で番についていた。

「しかし北条方、妙な輩を味方につけたとか」

この砦を任されている将、長倉が鍋に堅餅を投じながら誰ともなしに言う。

「妙な輩とは。乱波の衆かなにかでしょうか」

「いや、我が方で見たというものから直に聞いたわけでもないが、まるで鬼であったと」

「鬼、ですか。それはまた」

組頭、赤井が苦い顔で長倉に応じた。

「妙だと言ったであろうが。なんでも名を阿部の某といい、赤備えの大鎧を着けた偉丈夫だと」

「それは、なに、武者の一人なぞ囲み打てばよいでしょう」

「それよ……三十余名が槍衾にしてなお、その悉くなで斬りにされたそうな」

「それは、なんと……何たる武威か」

「いや武威などというありがたい有様ではなかったようじゃ。首級も取らず、最初に斬られた飯炊き女なぞ目玉をほじくり出され、顎を素手で引きちぎられたとか」

「まことならまさしく鬼よ……」

「おう……」

長倉が語る阿部某の行いを聞きながら、しかし赤井はそれは本当だろうかと疑ってもいた。大戦の前には根も葉もない噂が出回るものだ。火牛の計で牛百頭をもって敵が攻め寄せてくるとか、そういう話をいちいち真に受けてなぞおってはまともな戦働きなどできようはずもない。赤井も弱冠の身ではあるものの主君のおぼえもめでたく、先の戦では殿を務めて戦功を上げている。立身を遂げるなら今、つまらぬ噂に踊らされるわけにはいかぬ。鍋をかき混ぜる長倉に赤井はにやっと笑ってみせる。

「ではその首を穫れば我らも安泰というものですな」

「そうじゃがな、まあ……」

「御免!御免!」

「どうした」

足軽の中でも一等若いものが、詰所に飛び込んでくる。何事かと立ち上がった赤井を横目に、座ったままの長倉がじろりと若い足軽を見る。

「なんじゃ、何ぞあったか」

「北条の陣から、数名がこちらに!」

「数名?」

「大ぶりの楯を持った者前に立てて、その陰にまた数名の兵がおります」

「……なんのつもりじゃ、狂うたか」

赤井と長倉が詰所から出ると、すでに川を越えてその兵たちがこちらに向かっているところであった。然り、敵方の紋をつけた楯を先に立て、じりじりとこちらに近づいてきている様子であった。

「……赤備え」

「なに」

赤井は楯の陰に、てらてらと落日に照らされる朱塗りの具足を身に着けた何者かを見た。その上背、前に立つ楯とくらぶればゆうに六尺は越えているのが、丘の上にある砦からでも見て取れた。

「よしや、あれは例の阿部……」

「まさか」

「阿部……?」

先の噂は本当だった、と思いかけるが赤井も長倉もはっと気を取り直す。相手は数人。このままこちらに来たとて、何ができようか。

「弓じゃ、弓持ちを集めて待たせておけい!合図を待って射掛けよ!」

「応!」

赤井が兵を呼び寄せ、敵方の陣の方面に弓兵を集める。もとより武具は準備してある。この今からでも戦える……だがそこにいた全員、相手の意図が全くわからない。いかな阿部某といえど、わずかの手勢とも呼べぬ兵数で砦へと向かってくるとは、それ自死に同じである。

そしていよいよ、長閑な調子でやってきていたその姿をはっきりと捉えられる距離にまで、彼らが近づいてくる。

「射てい!」

長倉の号令とともに、弓隊から唸りを上げて幾本もの矢が放たれる。いかに楯を構えているとて、こちらは高所に布陣している。楯持ち本人はいざしらず、その後ろにいる阿部某らしき人物と数名に全ての矢弾を防げるはずはない。そのはずであった。

「なんじゃ……あれは……」

阿部某、いつのまにやら抜いた刀をびゅんびゅんと振り回し、飛んでくる矢を斬り落としていた。しかも、その隣の兵に襲い来る矢までも防ぎきっている。近づいてくるにつれ、阿部某の兜、その面頬に張り付いた酷薄な笑みが嫌でも砦兵の目についた。

「射て射て!敵はわずかじゃ射ちつづけて楯持ちを射つぶせい!」

射撃を開始してからしばらく、押し立てられていた楯持ちの一人、その楯がガクリと落ちる。どうと倒れたのを見れば、数本の矢が体に突き立っているのが見えた。しかし、それからしばらく射掛けても阿部某は健在だった。旋風のように両腕を振るいながら、のんびりとした速度で砦の足元に辿り着こうとしている。そんなとき、矢の一本が防ぎきれずに阿部某の兜に命中した。

「おお……」

赤井が感嘆の声を漏らした、だが、それはすぐさま恐怖に転じた。兜に矢が当たったのに大してのけぞりもせず、阿部某は悠々と歩き続けていた。あれは、一体何だ。明らかに尋常の有様ではない。まさか本当に、鬼か。そう一瞬思ってから、赤井は頭を振った。

「なんじゃあ……」

長倉がやむを得んと唸りながら、数人の兵に数丁の種子島を持ってこさせる。もとは、ほどなくして起こるだろう本格的な戦のためにとっておきの品であった。

「足軽衆を集めて迎え撃つ、お前はここに残り守りを固めろ。あれは囮かも知らん」

「承知」

長倉がそう言うと慌ただしく兵を集め始める。赤井は、ちょっとの間それを呆然と見ていたが、はっとして詰所に飛び込んで具足の類を身につけ始める。こうまですればあの阿部某らしき武者とて無事には済むまいが、万一のこともあった。

先祖伝来の大太刀を佩いた辺りで、詰所の外に出て長倉が出ていった方向を赤井はみやった。

(……いた)

砦のある丘のすぐ下方、普段は足軽衆が野営している開けた陣地に、長倉他20人ほどの兵がすでに種子島の筒先を敵に向けていた。

赤井に、そばにいた番役の足軽が声をかけてくる。

「いやあ、妙なことになりましたな。でもこの距離で種子島なら、楯もぬけましょう」

「ああ」

「でも北条方、一体なんのつもりで」

番役がそう言いかけたあたりで、長倉指揮の兵の手の中に白い煙が上がり、複数の乾いた音が赤井の耳に届いた。

(はじまった!)

赤井がすでに暗くなりかけている日暮れの薄明かりのなかで始まった戦いの様子に目を凝らす。一射目で、楯持ち、後ろに控えていた兵も含め、一人を除いて全員が倒れ込んでいた。阿部某は平然と歩を進めていたが、唐突に残っていた楯持ちの最後の一人を背中から斬ったのが見えた。

「なんじゃあ!味方を斬りましたぞ!?」

「……俺にもそう見えるな」

落ち着き払ってそう言った赤井であったが、強烈な不安感に襲われていた。

そうしているうちに下方の戦場では、二射目が放たれる。のしのしと迫ってくる阿部某は、弾が当たったときにピクリと反応を見せるばかりで、すでに長倉達のすぐ面前に迫っている。赤井は、その阿部某の手元を見て瞠目する。刀、そう思っていたが、あれは剣に近い。その剣の色、わずかに差しているばかりの夕日の色を受けても何も見えぬ。闇色の何かが、剣の形をなしているようにしか見えないのだ。

そう思ったか否や、阿部某が出し抜けに前方、長倉たちの方に疾駆していた。種子島を抱えていた兵たちがそれを捨て、思い思い武器を抜いたが、手前にいた一人が防ぐまもなく阿部某に斬られる。奥に控えていた長倉は、自慢の片鎌槍を低く構え、じりと退いたようだ。

「……」

その様子を見ていた数人の中に沈黙が広がった。

最初の一人は、胸を具足の上から貫かれたうえ、一刀にて首を落とされた。二人目、上段から袈裟懸けに斬りかかったが右腕を斬り飛ばされ、喉笛に剣を突き込まれ、掻き上げるようにして上に振るわれた剣によって頭を縦に両断される。三人目は不意を打って後ろから襲うが、振り返ることもなく腕を後ろに回した阿部某に片手で刀を防がれ、阿部某はその片手で刀を中程からへし折り、その切っ先を斬りかかった四人目の眉間に投げつけて倒す。腰が抜けて前向きに倒れた三人目は、そのまま頭を踏み潰される。一瞬の出来事だった。

「ひっ!」

番役が低く悲鳴を漏らす。赤井も、自分の喉が意図せずごくりと鳴るのを他人事のように聞いていた。阿部某はそのような調子で、通ったところの兵をめちゃくちゃにし始めた。だが半数が斬られた辺りで、ぱあんという音が響いた。

「おっ!」

「撃ったぞ!」

奥にいた兵の一人が、なんとか装填を済ませて種子島を一発放ったのである。その時阿部某が初めて人のような動きを見せた。片目を手で抑えたのである。その隙に残りの兵が阿部某を押し包み、槍やら刀やらで滅多打ちにしはじめる。

「当たった!」

「おおお……」

「……」

無邪気に喜ぶ足軽共をよそに、赤井は黙りこくっている。

「どうしやした?」

「種子島をあの距離で目に食らって、倒れもせぬのだぞ……わからないか?」

「……うっ」

阿部某を取り囲んでいた兵たちが、一人また一人と倒れていく。その中から、襤褸のようになりかけている甲冑がぬうっと抜け出てきた。肩口には鎧貫きが突き刺さり、右足は折れているのか妙な向きに曲がり、面皰が割れた無残な姿であったが、まだ歩いている!

もはやおとなしく見ていることは出来ない。赤井は、大太刀を抜くと叫ぶ。

「者ども!長倉殿に加勢する!番役以外は丘下の野営まで打って出るぞ!」

「……応」

その言葉を聞いて少しの間呆けていた兵たちだったが、三々五々武器を手に取り、丘の下に駆けていく赤井のあとに続いた。ややあって野営地の近くまで駆け下りた赤井の鼻を、濃厚な血の臭いが突いた。最後に見たときは数人残っていた兵も、もはや長倉を残すのみであった。その長倉も肩で息をしている様子で、もはや持ちそうもなかった。

(長倉殿!)

長倉は槍の間合いを活かし、阿部某を寄せ付けずにいた。だが家中一の名人と謳われた長倉をもってしても、満身創痍の安倍某に一撃たりと加えられていない様子であった。しいっと鋭く息を吐いて大太刀を阿部某に向かって不意打ち気味に突き出した赤井だったが、難なく避けられてしまった。

(獣がごとき体の柔らかさよ、妖物が……)

一歩退いた赤井のあとを、があと咆哮しながら長倉が槍の穂先で地面を払うように振り抜き、阿部某に巻き上げた土くれをぶつける。それをすでにして見抜いていたのか、阿部某は空いている右手で土くれを振り払うと、長倉の槍の穂先めがけて剣を振り下ろした。それを、長倉が受けるでもなく槍をすっと引いてかわす。

「こやつの剣、尋常に受けてはならぬ!刀だろうが一発で折られるぞ!」

「はっ!」

赤井の抱いた疑問を先読んで答えたかのような長倉の一言を受けて、赤井は歯噛みする。これは、怪物だ。あまりのことに足軽共も、来たはいいがどう加勢したものやら、刀を阿部某に向けたまま呆然としている。赤井は、長倉の攻勢に合わせるように阿部某に向かって刀を振り回すが、片腕の手甲だけでいなされる。阿部某、化け物じみた膂力のみではない。恐ろしいまでの技の冴えだ。

……そんなときだった。先ほど急を知らせた若い足軽が、赤井と長倉が矢面に立っていたところに割り込むようにして前に出る。

(馬鹿め!)

功を焦ったか、と思われたがこの足軽、長倉をいたく尊敬している男であるのを赤井は思い出した。

「おおおおおおおおっ!」

叫びながら阿部某の方に飛び込んでいった若い足軽に、阿部某は雑に剣を一薙ぎする。それを見越していたのか、それとも単なる幸運であるのか、その一撃を辛くも躱した足軽は持っていた刀を手放し、駆けたままの低い姿勢のまま阿部某の脚に抱きついた。阿部某はそれを予期していなかったのか、一瞬硬直したのがその場にいたものには分かった。赤井は思わず叫ぶところだった。

(好機!)

そう思ったのは長倉も同じだった。阿部某が手にしていた剣を足軽に振り下ろしたのと同時、長倉の槍が阿部某の首を狙った。阿部某は、首だけでそれを躱す。だが長倉の狙いは別にあった。片鎌槍の枝、穂先から横に突き出たもう一つの短い刃で甲冑の胴を留める紐を狙っていたのだ。

残っていた紐を切られた重い甲冑の胴がばたりと前に落ち、阿部某は明らかにそれに気を取られていた。長倉は名手である。阿部某の心の臓めがけて繰り出した必殺の突きが、阿部某を逃さず貫いた。

「!」

槍の穂が体の反対側に突き出た状態で、阿部某が初めて声を発した。驚いたような、気が抜けたような、赤井達には分からぬ妙なものを孕んだ声であった。

「死に腐れ!」

赤井が叫びながら、阿部某の下腹の辺りを突き刺す。これで完全にトドメであると赤井は確信する。しかし、上背のある阿部某の顔を見上げた赤井の目に飛び込んできたのは、こちらを興味深そうに見つめてくる、見たこともないような色の瞳であった。

(な……)

次の瞬間、轟という風切り音とともに兜の上から槌で殴られたかのような衝撃が走り、赤井は吹き飛ばされる。だんと腰から土の上に叩きつけられた赤井の目に、腰の刀を抜く長倉の姿と、自ら自分の胴に突き立った槍を引き抜いて見せる阿部某の姿が映った。見てみれば、甲冑の下から現れた体には、ひどく日焼けしたかのような肌の上に、幾筋もの赤い筋が走っている。それは、どこか目のような意匠をした赤い入れ墨のようであった。

(きゃつめ、まこと、おにであったか)

背中を打ち付けたからか、赤井はその場からすぐには動くことが出来なかった。しかもそこには今しがたまでここで飯でも食っていたのか焚き火の跡があり、赤井の鎧で守られていない皮膚を残り火がじりじりと焼いた。

そんな中、長倉が果敢に阿部某に斬りかかっていくが、長倉の槍を手にした阿部某は先ほどの長倉のマネでもしているかのように、巧みに長倉から距離をとっている。先程と同じく、足軽が捨て身で阿部某に体当たりを試みるが、もはや阿部某はそれに惑わされることはなかった。片鎌槍の穂が軽はずみな足軽の首を裂き、噴き出すように血がほとばしる。足軽はもうその一人が最後であった。ほかは、すでに逃げ去っているようだった。

しばらく長倉は守勢のままだったが、雑に突き出された槍の穂の近くを斬り上げるように刀で一閃し、穂先を打ち落とした。今やほぼあらわになった阿部某の顔が歪んだのが、朦朧とした赤井にも分かった。その顔は不興を示していない。笑っているのだ。

阿部某はそれにも構わず、ただの棒となった槍で長倉を翻弄し始める。それが掠った長倉の手甲が吹き飛び、長倉はざっと飛び退く。前の一撃で腕がやられたのか、しかし片手で刀を握り直し、大上段に構えて阿部某に突っ込んでいく。喉も枯れんばかりの雄叫びを上げながら。

……長倉は、がら空きの胴を深々と斬られ、すっと後ろに回った阿部某の返す刀を背中に受ける。そしてそのまま、どう、とその場に倒れた。

「妖物が……おのれぇ」

赤井が手が焼かれるのも構わず、自分の下に広がる火が残る灰を握った。こんな事があってたまるものか。真に鬼を手なづけて差し向けてくるとは、北条方は一体どんな妖術を使ったというのか。こんな理不尽なことがあって、たまるものか。

そんな赤井の声を聞いたのか、阿部某がぬらりと赤井の前に立った。先ほど見せた凄絶な微笑みをたたえたまま。

「貴様……」

「みごと」

「な、に」

阿部某が、奇妙に癖のある調子で、ぼそりと喋った。

「あれ なは?」

「く、ぬうっ……」

「おまえ なは?」

名は?と聞く阿部某だったが、赤井には答えてやる気もない。無理やり立ち上がろうとした赤井の肩を、阿部某がふわりと踏みつけ、身動きなど全く取れなくなってしまう。血まみれの鬼は、倒れたままぴくりともしない長倉を指差し、再度赤井に問うた。

「あれ」

「長倉、信昌殿だ」

「ながくら、のぶまさどの」

天を仰いだ阿部某がその名を呼ぶと、少し間を空けて今度は赤井に問う。

「おまえ」

「う、ぐお」

肩を踏む力がぐいと強められた。赤井は思わずうめき、また灰を握った。赤井は、直感的に名前を教えればこのまま斬られることを悟る。こんなところで死ぬわけにはいかない。いかないのだ。と赤井はひたすらそれを心中で反芻していた。

「わしは……あ……」

「あ?」

赤井の「あ」の字のまま、呆けたように口を開けたままにする。その様子を阿部某は不満げにじつと見ていた。そして踏みつけてきている足が一度離れ、がつりと肩に蹴りを入れてくる。その部分から何かがひしゃげるような音がして、赤井は絶叫する。阿部某は反対側の方に足を置き、再度問うた。

「おまえ、なは、あ?」

「あ……」

今度も同じように、ぽかんと口を開けて、阿呆のような顔を作る。阿部某は、みるみるうちに笑顔から無表情になっていく。そして赤井のもう片方の肩を踏み潰そうと、足を持ち上げる。その瞬間を、赤井は狙った。

「……くらぁ!」

「!」

赤井はいままで握り込んでいた熱い灰、それを阿部某の顔に向かって叩きつける。さしもの阿部某もこれは効いたらしく、わずかに身を引く。そして赤井は立たぬ足腰を無理くりに動かして立ち上がりつつ、その勢いで自分が下腹に突き刺したままになっていた大太刀を、動く片腕だけを使ってぐいと斬り上げて臓腑ことごとくを引き裂いた。

刀を引き抜いた赤井は、数歩後ろによろめいたあと、力を使い果たして再びばったりと倒れる。だが、阿部某だけは視界に捉えたままだ。不死身の化け物なれば、もはやこれまでである。もう日は完全に落ち、月影のみが明かりであった。その月影を遮り、魁偉な形の影が腰砕けになった赤井の上に落ちる。

「く、くっお、おまえ!」

阿部某は、先ほどより更に獰猛な笑みを浮かべて、いまだ立っていた。そしてなにもないところから、ずらりと長い剣を引き抜くとこちらによろよろと近づいてくる。だが月影の中、赤井にはようとして細かい表情は知れなかったが、阿部某が「あれ」というような表情を浮かべたように見えてすぐ、赤井に手が届くかというところでずしん、と音を響かせてその場に倒れた。

赤井は、唯一残された武器の鎧貫きをやっとこさという調子で具足から引き抜き、阿部某に向ける。

(……し、死んだのか!?)

赤井は、そのまま手だけで這いずってその場を少しく離れ、阿部某の様子をじつと見た。見たところ、倒れたまま動く様子はなかった。傍にあった立木のところまでなんとか辿り着くと、赤井はそれによじ登るようにして座り、阿部某の方を見る。肺病病みのようにぜいぜいと息をつきながら、今更のように全身に走る痛み、傷を自覚し赤井は誰にはばかることもなく呻いた。

その時だった。阿部某の方、チラと何かが動いた。頭だ、頭が動いた。赤井は慄然として手の中の鎧貫きを握り直す。誤って刃を握って手に血がにじむが、そんなことはどうでも良かった。

(なんじゃあ、まだ、死なぬのか)

気を失いそうになりながらも、赤井は暗い色のざんばら髪が徐々に持ち上がり、月の影に照らされて、血の気の失せた阿部某の顔が白々と浮かび上がってくるのを見ていた。顔はパクパクと口を動かしている。その口を、赤井は読んでしまった。

(なは、か、まるで一つ覚えじゃのう……)

なぜそんなことが知りたいのか。倒した獲物の勘定のためか、あるいは、自分が負かしたものはせめて名を覚えておいてやろうとでもいうのか。答えるか否か、ここで答えれば相手が妖物ならば祟られよう。しかし、これは……赤井は自棄糞のように阿部某に向かって叫ぶ。

「赤井、有長じゃあ!覚えておけい!わしがとどめを刺したんじゃ!」

「……」

阿部某が、また再びパクパクと口を動かす。赤井の言った己の名を繰り返している様子だった。ふん、と赤井が鼻を鳴らすと、そういえばと思い当たる。かの妖物、阿部の某は家名は明らかであるがその名自体は誰からの口からも聞かれなかった、と。

「貴様はあ!なんというのじゃあ!阿部の、なんだあ!?」

しばらく、阿部某からはなんの返答もなかった。あるいは、と思い赤井が再び喚く。

「名!は!?」

この聞き方ならば分かったのか、阿部某はぴくりと体を震わせる。赤井は、血と汗が流れ込んで霞む目を凝らし、阿部の某の口元を見つめる。阿部某はしばらくぽかんと口を開けていたかと思えば、ニタリと笑った。つまりはそれ、意趣返しであったのだろう。

「貴様あっ!ぶち殺す!!」

激昂した赤井の有長であったが、立ち上がってその場に駆け出していくことも叶わず、その場で覚えておれよとかと散々ぱらに喚き散らした。そしてそうこうしているうちに、阿部某の顔がガクリと落ち、事切れたようであるのを赤井は見てとった。

「おのれえ!まだ死ぬな!名は!?おい……」

最初は叫んでいた赤井であったが、阿部某の様子がおかしいのに気がついて黙りこくった。阿部某と呼ばれていた男の死骸は、最初くつくつと煮える粥のようにうごめいたかと思えば、内側から崩れるようにして消え去っていった。あわてて赤井が立木を支えにして立ち上がると、阿部某のいたところには、死血じみた色をした一山の塊……あたかも血に浸した灰の如きものがうず高く残っているばかりであった。


「おお」

「どうしたの」

「私は彼らを見たことがある、いつだったかも覚えていないのだが」

「彼らって、三船敏郎?」

「違う。それはこの劇の演者だろう」

「えーじゃあサムライを見たことがあるってことかな」

「なるほど、そういう戦士たちがいるのだな」

「すごいね、じゃあ日本に行ったことがあるんだ」

「日本、それが彼らの国ならばそうなるだろう」

「なんか覚えてることある?サムライと戦ったとか」

「まあ心地の良い戦いではなかった。さまよっていた私は、こういう目をした呪術師に呪縛され、船に乗せられた」

「だめだよ、そういうジェスチャー……」

「聞け。そしてたどり着いた城で、王のような男に引き合わされ、この男のために戦えとさらに呪いをかけられたのだ」

「うわー面倒くさそう」

「実際面倒だった。女子供まで殺させられた。なんの益もない。せいぜい楽しみのためにちょっと……」

「あーそこはスキップで」

「とにかくそれから私は便利なおもちゃ扱いだ。村をナデギリにし、城をナデギリにした」

「ナデギリ?」

「ああ『皆殺し』ということだ。私に奴らがナデギリじゃ、と頻繁に命令していた」

「じゃあ日本語だそれ」

「ふうむ……『おまえ』『名は』『あれ』少しだが覚えたものだ」

「すごいじゃん!」

「体の自由は効かなかったから、そのくらいしかやることがなかったというばかりのことだ」

「それはひどいねえ」

「名前も適当にあてがわれた。王に仕えていた家臣の名を借りてアベのなんとかと。くだらん」

「おっなんか偶然……」

「つまらん偶然だ。ただの。それでやる気もなくただ人間を殺していたら……殺された」

「ああ、サムライに?」

「あれは私にやる気がなかったから……まあそれなりにやる奴らだったが」

「サムライ、やっぱ強かったんだ。あなたがそう言うってことは!」

「だからただ本気でなくて……もういい。とにかく財団がやるように集団で取り囲まれて殺された」

「……ああ、うう。そっか……で、どんな感じだった?サムライ」

「大抵は弱者だったが、見事な戦士もいた。一人相手にかなり手こずっているうち、加勢が来てな」

「へー一騎打ち……」

「ああ、それでようやくそいつを打ち倒したら、若造に不意を打たれた。私相手にはそうするのも仕方ないがな」

「不意打ち……ニンジャ?」

「多分、サムライの方だな。ニンジャが何かしらないが」

「知らないの!?」

「知らん。そいつに腹を掻っ捌かれた。まあ悪くなかった。あの刃はよく切れたからそこまで痛くなかった」

「ちょっとよくわからない感覚ね」

「おかげで呪縛も解け、元通りというわけだ。ある意味恩人だ」

「ちょっとそれは違うんじゃないの、恩人じゃなくて仇……」

「いや、その二つは同じ意味だ。だが、かなり経っているし流石にアリナガも死んだろうな。私の勝ちだ」

「アリナガ?」

「私を殺した男の名だ。アカイ・アリナガ」

「知らないサムライね」

「そうか、残念だ」

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