太田守は頑強である。
そういう風に生まれついた。
幼少の頃から、自覚はあった。周りの子どもよりずっと力持ちで、足も速くて、転んでも泣かなかった。
自覚はあった。だから「その生まれが『異常』なのだ」とある日突然言われた時も、驚きこそしたものの、彼はすんなりと受け入れた。
己の知らないところで監視され、場合によっては突然拉致監禁される可能性のある状態で生活するか、いくつかの条件付きで財団の内部人員として生活するか。その選択を委ねられ、半ば当然のように後者を選び、職員として財団に迎え入れられた今となっても、それは彼を形作る個性として現存する。
──太田守は、頑強である。
「お前、すげーな……」
「ん? ああ……どうも」
財団に勤務するエージェントが必ず通過する研修期間──通称・訓練生時代のこと。
財団に"拾われた"太田もその例に従って参加していたある日の訓練の終わりに、その男──鶸倉ひわくらは、疲れ切った体を引きずるように歩み寄りながら、そうして声をかけてきた。
「あれこなしてもう帰る用意できんのかよ」
「……あれそんなきつかった?」
基礎体力訓練から始まり銃火器の扱いを叩きこまれ、おまけに反射訓練までついてきたヘビートレーニングの、終わり。解散の号令の後も、その場にとどまり──場合によってはへたり込み──体力回復に努める同期たちの横を通り去ろうとする足を止めて、声をかけてきた男の方を見た。
「ははは。それ、マジで言ってる?」
「そういう君もだいぶピンピンしてんじゃん」
「おれは鍛えてるんだよ、一応。お前、あー……」
「太田でいいよ」
ラガーマン上がりか何かだろうか、低めの上背に対してがっちりとした体の男は「オッケ、太田ね。……俺は鶸倉」と、乱れた息を整えながらそう名乗り、「よろしく」と軽く太田の背を叩いた。
「おれはほら、見ての通り筋マッスルがあっからよ、多少疲れには強いつもりなんだけど」
「言うよね、鍛えてると体動かすのが負担にならなくなるって」
「でも太田お前、別に鍛えてるってナリでもないだろ、それでこれかよ」
「……みんなよりは体力ある方だと思うよ。なんかそういう体質なんだって」
「はーん、いろんな奴がいるもんだなぁ。にしても、おれだって体力には自信あったんだぜ。凹むわぁ」
そう言って、鶸倉は大げさに振舞って見せた。
荷物を回収するべく歩き出しながら挑発的な笑みを浮かべた太田の顔には、やはり彼らほどの疲労の色は無かった。
「じゃあ次は競争してみるか?」
「はん、いいね。乗った」
頑張れよ、と鶸倉の背を叩いて、「吠え面かくなよー!」という言葉を背に、手をひらひらと振りながら太田はその場を立ち去った。
以降、競り合う2人の男が同期の間で知られるようになったという。
そんな同期2人が正式配属された後の、ある日の任務。
「鶸倉、そっち行ったぞ!」
「っ、了解す!」
「先輩、こっち捕れました!」
「でかした太田!」
小動物型のアノマリーの収容作戦の一環として、サンプル確保と個体数調整のためオブジェクトをかき集める任務――通称"ハンティング"と呼ばれるこのサイト-81██恒例の新人への洗礼でのこと。
「クソ、見てやがれよ太田!」
「はは、喋ってる暇があったら集中しろよ鶸倉!」
「言われるまでもねぇ!」
競い合いながら過酷な"研修"を乗り越えた2人は、同じチームに配属されてなお、こうして競争を続けていた。
・
・
・
「鶸倉が3匹、太田が5匹か」
「ハァ、ハァ……そうみたいっすね」
喘ぎ喘ぎ、膝に手を突きながら鶸倉が苦笑いした。
新人への洗礼とあるだけあって、危険度の低さとは裏腹に実はかなり過酷な任務でもまた、あった。財団の仕事は甘くないということだろう──と理解する。
「どうした鶸倉、調子でも悪いのか? 俺の勝ち、ブイ! ってね」
「は、はは……言ってろ……」
汗を拭い、そう笑いながら太田は苦笑する鶸倉にピースサインを向ける。
「で、私たちが合わせて12匹……ちょうどノルマだね。いやまぁそう調節したんだけどさ」
「んー……! 久しぶりにこういうのもいいね。後輩も活きが良くて非常に楽しい。その調子で頑張ってくれ」
小型生物用のボックスにのした獲物を放り込みながら、あるいは伸びをしながら、2人の指導役に当たる先輩が口々にそんなことを口走る。
実際、切磋琢磨しながらここまで来た2人は活気のあるペアだったし、指導役の2人はそのことを快く思うタイプだった。
「いやしかし、2人とも新人にしちゃ優秀だな。俺のときなんて1匹しか仕留められなかったぞ」
「あんときは私らの先輩は手伝ってくれなかったからな……あれで1匹捕れたのもおかしいんだよテメーは」
「まぁそりゃそうだ──鶸倉も太田も、よく休めよ。コイツ、無理して翌日体調崩してたからな」
「うっせ……でもま、無理はしないでね」
片頬を吊り上げ親指で自らのバディを指しながら揶揄し、相方が粗暴に言い返して、いたわる言葉をかけた。
「まま、んじゃ、そういうわけで早くオウチに帰ろうか」と、肩をすくめて先輩が言い放ち、帰投することとなった。
・
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疲れからか、サイトに帰投し先輩らと別れてからは会話も無く鶸倉と並んで歩いていた太田を出迎えたのは能天気な声だった。
「おろ、太田ちゃんじゃん。任務帰り?」
「どもっす、そうなりますね」
白衣の男を連れて歩いていたエージェント・亦好──太田が財団に"就職"するとき世話になった人事課のエージェント──が、そう声をかけてきた。
「そっちは鶸倉ちゃんだっけ。同期の」
「……初めまして、鶸倉っす」
「どーもー。私は人事課の亦好。これから潜入任務の時とかは一緒に仕事することになるかもだし、まぁ憶えといてちょうだいな」
「うす……よろしくお願いします」
「うんうん」と満足げに頷いて、亦好は思い出したように隣に立った男の背を叩く。
「いって……何すんすか亦好さん」
「自己紹介」
「あー……」
首から提げた方位磁針を揺らしながら、崩れた姿勢を戻して、白衣の男が頭を掻いた。
「僕は真北──真北まきた向むかうです。この方位磁針に見覚えがあるかもしれませんが……目立つらしいので……まぁヒラの研究員です、よろしく」
「ん。というわけで太田ちゃん鶸倉ちゃん、この子のとこに回すアイテム運ばなきゃいけないんだけど手伝ってくれない? わりと数と重さあるんだよね」
「いいっすよ。鶸倉は? どうする?」
真北が"え、マジか"と言いたげな顔をしたのに気づいてか気づかずか、即答した太田は鶸倉に問いかけた。
一瞬逡巡して、鶸倉が応える。
「……オッケ、行くよ」
「お、ありがと。お礼にあとでご飯でもご馳走してあげよう」
「マジすか、じゃあさっさと終わらせようぜ太田」
「お前安いよなぁ……」
太田の肩を叩いて倉庫の方へ早足で歩いて行く鶸倉の背中に、「そっちじゃなくて搬入口の方ねー」と亦好が呼びかけた。
それからいくらか経ったある日の、任務帰り。
「鶸倉、大丈夫か?」
「どう見える?」
「……疲れてるのはわかるよ」
「……そうかよ」
帰還ゲートから連絡通路を出て、サイト内の廊下での会話。
太田と鶸倉はその優秀な身体能力を見込まれて、戦闘を伴う収容活動をメインとするチームに組み込まれていた──必然、その任務は過酷な物であり、疲労からか、所作の一つ一つに不機嫌さを垣間見ることができた。
そんな、鶸倉のぶっきらぼうな声が電気系の駆動音にかき消されて、溶けた。
「……先輩、なんもないといいな」
「……」
新人として配属されてからずっと世話になっている、若手をまとめる先輩2人──負傷して医務室へ向かったのと、それに付き添ったの──の去っていった方を向きながら、そう語りかける。
「なぁ、鶸倉──」
「お前は、怖くないのかよ」
「え?」
とぼとぼと並んで歩きながら反応を伺うように話しかけた太田を睨んで、鶸倉が言う。
「怖くないのかって、言ってんだよ」
「怖くって……何が」
「……お前はそうだろうな」
ため息を吐くように鶸倉が吐き捨てる。
そして鶸倉が立ち止まり、振り返った太田の背が蛍光灯の光を遮って、その顔に影を落とした。
「鶸倉? だから、何が……」
「おれは怖いんだよ、太田」
「……だから」
「お前、自分は死なないと思ってるだろ」
「そんなことは」
「あるだろうが」
「──、──」
正鵠は、射ていた。
彼らの先輩が被った、オブジェクトによる攻撃。それを見て、自分なら躱せると思ったのは、事実で。
だからこそ、その先輩の腕を咄嗟に引き寄せて軽傷で済ますことができたのだが、それでも。いやだからこそ、返す言葉は、無かった。
「おれはな、怖いよ。いつ死ぬかもわからないのが、怖い。あんな風に、気を抜いたら即死だと思うと、怖くてしょうがない」
「それは……」
口をまごつかせる太田を、鶸倉は睨む。
「わかるか!? あの先輩ですらこのザマなんだぞ!? だったらおれたちだって──!」
「……鶸倉、落ち着けって。疲れて気が弱ってるだけだよ、大丈夫だって」
「どうしてそう言い切れる、なあ! どうして……っ!」
「ちょ、マジで一旦落ち着けよ」
喚きながら高ぶった気持ちをぶつけるように太田に詰め寄って、その胸倉を掴んだ手は、怒りか疲れか、痙攣するように震えていた。
息を荒くする鶸倉をどうするべきかと、太田の手が泳ぐ。
「鶸倉! ──大丈夫だって、お前なら」
その手を振りほどいて、そう説く。
「……何が」
「ここまで一緒にやってきたろ。だから──」
「お前に、何がわかる」
「……鶸倉?」
だから、ここからだって、お前なら大丈夫だよ──と、そんな言葉は、音になる前に遮られた。
「おれはお前みたいに強くねぇんだよ」
「そんなの」
「太田、正直いつも思うんだよ。おれたち全員死んでもお前は生き残るんだろうなって」
だから、お前にはわかんねぇよ──そう言い切って歩み去る同期の腕を掴むことは、できなかった。
「そんなこと……」
続く言葉は出ずに、廊下は静寂を保っていた。
太田守は異常である。
「そうでないならおかしい」とまで考えていたのだ、実のところ。むしろ、「そうであってくれ」と思うことさえも、彼にはある。
そうであってくれるなら収容することができるはずだと、そう考えていた。
だからこそ。正式に配属されてから、彼の腕にはその体質を抑制するバングルが、嵌っている。
自主的に、そうした。
何故か?
時として、「強く生まれてしまったという『個性』が、実のところ『逸脱』でしかない」と、感じることがあるからだ。
そう、言われたことがあるからだ。
「あー、太田ちゃん。それなんだけどね」
「はい」
後日。『簡単で負担の軽い仕事を回してほしい』と取り次いでもらうべく、亦好のもとに向かったときのこと。
苦笑いするように、亦好が渋った。
「鶸倉ちゃん、連れ出しちゃ駄目だってさ」
「……それは、どういう」
あれから眉根の影が濃くなる一方の同期──鶸倉に自信を取り戻してもらうべく仕組んだ目論見はしかし崩れたことを、亦好の告げた言葉で、知る。
「療養だってよ。対話部門からドクターストップかかったとか」
「そっすか……」
ああ、そっか──と思った。
あんな状態では、戦えないと判断されたのだろう。
だから、ただ「ああ」と、思った。「ついてこれなかったんだ」と、思った。
「まぁその、なに。太田ちゃんもあまり無理はしないようにね」
「俺は別に、無理してませんけどね……」
まったく本当に。もしも無理していたなら鶸倉のことを──と考えかけて、やめた。
「でもま、懲りずに根気強く接してあげなよ。あの子、食べるの好きだったろ? ご飯でもいっしょに行くといい」
「そう、ですね」
「あいつ、確かツナが好きだったかな」。口の中で、そう呟いた。
それからさらに日を経て。賑わう食堂の片隅に、鶸倉の姿を見つけた。
「ひわく──」
声をかけようとして、やめた。
彼の対面に座る、白衣の女性──カップを挟んで、優し気な笑顔を彼に向ける顔と、そして、弱弱しく笑う鶸倉を見て、振ろうとした手が止まる。
正式に配属されて以降つけるようになった大型のバングルを嵌めた手が、所在なく空中を泳ぐ。
やめよう。あれにはあれなりのやり方がある──自分のように外れたものが、割って入るべきではない。
行き場を失くした手をトレーに添え直して、座る席を探しに行った。
・
・
・
結局、受け取り口から遠いからか空いていたスペースに1人で座って、サンドウィッチを食んでいた。
──まろやかな酸味と魚肉の旨味がパンの風味にくるまれて、じわりと舌に伝う。
「……」
何をどうしたところで──1人で食べたところで、美味いものは美味いのだなと、思う。
複雑なところはあるがそれはそれ、食えるものは食えなきゃなと、飲み物を煽る──緑茶の香りが、鼻を抜けていった。
紅茶にしても良かったな、と考える太田に
「太田さんですよね?」
そう、呼びかける者が、1人。
「え? あ、はい」
視界の端で揺れる白衣と方位磁針を捉え、何だろうと思った。
「ちょっと失礼しますね」と断りながら太田の向かいに腰掛ける白衣の男を──机に置かれたトレーから胸の前で揺れる方位磁針、そして顔に視線を移す。
サイトでたまに見かける顔とアクセサリ──真北研究員だ。
「どうも……真北さん。多分ちゃんとは名乗ってませんけど、よくわかりましたね」
「ん? ああ、名前は聞いてませんでしたっけ……亦好から噂をよく聞いてましてね」
確か名前は名乗ってなかったよな──と訝しがった太田に、一瞬小首をかしげて真北が答えた。
「いただきます」と手を合わせて、真北がパンに手を付ける。
「亦好さんの筋か、なるほど……そういえば、所属は結局どちらなんです?」
「第四研究室ラボです。まぁ他にも手伝い行ったりしてますが」
「四番って言うと確か……心理学でしたっけ」
「はい、臨床と認知系を……って言ってもわかりませんね。認識災害とかを取り扱ってます」
サンドウィッチを齧りながら、真北の顔を盗み見る。
共通の知り合いがいるらしいとはいえど、その怜悧な目はどちらかと言えば積極的に他人と関わろうとするタイプの愛想の良さとはかけ離れた印象がある。
何か用だろうか?
「そういえばこの前もまた亦好さんに絡まれてました? 食堂で見た気がするんすけど」
「あー、いつの話ですか……?」
「いつの事かわからない頻度で絡まれてるんですか……」
「まぁ、わりと……」
「あはは……」
絡みたがりで有名な共通の知り合いを話題に出した途端顔をしかめた研究員を見て、あぁあの人に困らされてるのはみんな一緒なんだな、と苦笑いしながら、皿の上のサンドウィッチを口元に運ぶ。
──そのまま、知人のお互いだけが知る側面や互いの交友関係の話、今日の仕事の話、サイト規模のイベントの話など、無難な世間話が続く。
サンドウィッチは、順調に減っていく。
・
・
・
「──太田さん。ご飯、おいしいですか?」
「え? まぁ、はい」
急に、サンドウィッチを齧る太田に真北がそう問いかけた。
常日頃から意識することではないが、財団の食事はまぁ間違いなく上質な類である。特に日々の食事に不満を感じない程度には、太田もそう思っている。
「そうですか、それは良かった。ちなみにそれ中身何ですか?」
「ツナマヨです」
「へー、お好きなんです?」
「……同期に『ここのツナマヨめっちゃ美味い』って勧められたの思い出して、今日初めて食べましたね。わりと美味いっすよ」
「へーえ」と興味ありげに相槌を打ちながら、真北もサンドウィッチを齧る。
急に何だと戸惑いもしたが、まぁ食事の場での世間話としては無難なものを選んだのだろうと納得した。
「ん……実は僕あんまツナ好きじゃないんですけど」
「はぁ、そうなんすか?」
真北が口の中の物を呑み込みながらそう打ち明け、太田が相槌を挟んだ。
「パサパサしてて……」と恥ずかし気に付け加えて、真北向が続けるように口を開いた。
「ツナマヨってあれどこが美味しいんですか?」
「何ですかね……マヨネーズの酸味とまろやかさと、ツナの肉がこう、うまい具合に」
「あー、はい、なるほど。理解はできました。鶏肉をマヨネーズで焼くようなものですね」
「ああ、そうですね。近いかも」
真北向が飲み物を煽り、そして口を開いた。
「良かったですね、太田さん」
「はい?」
「あなたはまだ大丈夫です」
「……どういう?」
唐突になされた宣告に、面食らう。
「ああ、ちゃんと名乗らないとですね。さっき職掌は研究員って言いましたけど──今はカウンセラー・真北、対話部門から命を受けたカウンセラーとしてここにいます」
「対話部門……」
対話部門──財団の、職員らへの精神的な処置を担う内部部門。それが果たして、自分に何の用だろう?
「ちょっとしたテストでした。抜き打ちの。すみませんね、お食事中」
「……はぁ」
そう言い切って真北はサンドウィッチを食み、飲み物を仰ぐ。
いや待て、話が呑み込めない──と、太田は疑問を口にする。
「えっと、つまり?」
「ああ、そうですね。説明します。規定でもそう決まってますんで」
うっかりしてた──と指で口元を拭い、ナプキンを擦りながら続ける。
「まず、ストレスレベルについて……まぁこれはあんまり心配してなかったんですが、味覚に心身症は出てないようなので安心して大丈夫です」
「……えぇ、まぁ……おかげさまで健康にやらせてもらってますけど」
「健康なのは良いことですね」
まぁあくまで一般論ですが──と続けて、喉を鳴らし声の調子を整えた。
太田もつられて、唾を飲む。
「で、こっちが僕としては本題なんですけど」
「……はい」
「あなたはまだ、人間ですよ」
「……」
沈黙する。視線を一瞬、手首に嵌めたバングルへ向けた。
「あなたの言葉を僕が理解できて、そしてあなたが僕の言葉を理解できるうちは。あなたは普通の──普遍性を持った、正常な個体です」
「……でも、俺……の体は」
「そうですね、存じています。確かにあなたの体は人並み以上に飛びぬけて強く出来ているかもしれませんが」
一瞬間が空き、真北を盗み見る。
怜悧な目は、その視線を太田に向けてはいなかった。言葉を選んでいるのか、真北は胸元の方位磁針をいじりながら、その怜悧な目をトレーの上の皿──ツナマヨが覗いているサンドウィッチへ向けていた。
助かった、と思う。糾弾するようなニュアンスは含んでいないのだろう、と安心しさえ、した。
「その体から得られる感覚が、その感覚を反映した言葉が、僕たちの範疇に収まっているのなら、あなたはこちら側です──と、対話部門われわれは定義します」
「……でも、俺」
わからなかった。鶸倉が、何を言っているのか。
思わず、零す。
言葉の意味は理解できれども、彼の言葉の背後にあるものを、共有できなかった。『共感』という意味で、わかることは──できなかった。
だからこそ、ああ言われたんだろうけれど。
「あー……それはですね」
顔を歪める太田に、頬を掻きながら、真北というカウンセラーは言う。
「僕だってわかりませんよ。人の心なんて」
「え?」
「いやだって、ツナマヨ好きな人の味覚とか理解できませんしね。何度食べても好きになれそうにないですね、これ」
『ええ……』とは口に思わないまでも引きつった口元に表れた困惑を返答と受け取ってか、「いやいや」と言葉を繋ぐ。
「人の心をわかれるだなんてのはそもそも思い上がりです。マジで。あんまり思い上がらない方がいいですよ、そうやって足元掬われる人を何人も見てきてるんで」
「……」
これは経験論ですけれど──と付け加えて、ゆるく広げた手を、机の上で組む。
「でもま、だからこそですよ」
「?」
「だからこそ、わかりおうとするんですよ、僕たちは」
「だからこそ……」
傾けた上半身に合わせて、首に提げられた方位磁針が揺れる。
「僕はツナマヨを好きになることはできませんが、あなたがツナマヨのこと好きだって理解して、どうして? どのように? と推測することができます。逆説的に、『わからない』ということが『理解する』ために必要な前提条件だと言ってもいいかもしれませんね」
僕はツナマヨ好きじゃないですけど照り焼きとかマヨネーズ焼きは好きなのでね、と悪戯っぽく笑う。
「……例えばですが」
一拍ほどの沈黙を挟み、真北向の視線が食べかけのサンドウィッチに注がれ、また一瞬考えこんでから、白衣のカウンセラーは語りかけるように口を開いた。
「魚肉を美味しいと感じるってことは、人並みにタンパク質を欲してるってことでしょう。お腹が空くってことは、少なくとも生きてるってことでしょう。そういう共通点から見つけていけばいいんですよ。そうやって、正常への楔を打ち込み続けていくんです」
栄養学だの医学だのには詳しくないので適当ですけど、と嘯いてみせる。
「だから……あなたの精神はまだ、楔でちゃんと縫い留められていると、僕たち対話部門は、そう判断します」
「そう……ですか」
優しげな声音で告げられる言葉に、少し安心感を覚えた。赦されたとさえ、思う。
──「ただ」と、釘を刺すような言葉が続く。
「もしもズレてきたと感じたら、その時は見失う前に対話部門ぼくたちのところに来てくださいね」
「……ええ、その時は、お世話になります」
「想像したくないですけどね」と苦笑いして、手首のバングルを撫でる。
そんな太田を射るように見つめながら、真北向は口を開いた。
「気を付けてくださいね。知らないうちに、コンパスは狂うものですから。常に自問してください──『自分はまだ大丈夫か』って」
「それは……はい。──肝に刻んでおきます」
投げかけられた言葉を、冷やかに抉るような視線と共に刻みこむ。
警告は、聞いておこう。手首の枷は、そのためについているのだから。
「そうですか。それじゃあ、僕はこれで。お邪魔しました」
返答を受けて満足したのか、あるいはカウンセラーとして緊張を解こうとしたのか──怜悧な目を細めて笑う。そして、サンドウィッチを口に詰め込みながら、真北向は方位磁針を揺らして立ち去った。
ケースナンバー: S-AS-811020
対象: 太田 守/Staff
母語: 日本語
担当者: 真北 向/SLC2
区分: Abnormal Staff
- 先天性の身体機能過剰体質。主に身体強度において「外れ値」。
- 予想される症状: 肉体的負荷への耐性によるストレス耐性、肉体感覚の普遍性欠如、それらに由来する共感性・社会性にまつわる障害及び精神構造の"異常"
対応方針: Observation
- 会話により対象を観察。ストレスレベル、感覚・感情の一般性をテスト。
- ミュータティック・PD1の疑いがある場合は各機関に報告のうえ追ってテストを行う。
概要: S-S-811009 エージェント・鶸倉と親密な関係にあった職員の1人として氏に関する件についてのフォローを行うと同時に、異常性保持職員への観察手順も兼ねる。監査任務を兼ねるため、別途結果を倫理委員会・人事部に報告。
対話結果: 異常なし。継続的な観察を推奨。
対象も自身の体質やそれに関する諸問題について思うところがある様子。穿った視点に立てば軽度のミュータティック・PDとして見れなくもありませんが、一般的なコンプレックスの範疇として理解できるものと思われます。
対話中バングルとして身に着けている抑制機器を意識するような振る舞いが見られ、これが本人にとって規範意識の象徴として機能しているであろうことは特筆すべきです。上記のコンプレックスもこの振る舞いに現れているような規範意識の強さや気の弱さといった気質的な部分に由来すると推測でき、また今回に関しては鶸倉氏の件が響いていると思しき点が多分に見られるため、身体的異常から来る異常性の積極性を含んだ異常精神構造として理解されるミュータティック・サイコパシーに発展する可能性は低く対話関係による制御下に置くことは容易であると結論します。
上記のコンプレックスへのケアも含めて、今後の状況によっては心療プロセス等の対応も必要になるかもしれません。対話時に対象へ対話部門への案内を行ってはいますが、本件の発令意図も考慮すると継続的観察処置がベターであると考えます。
[倫理委員会 承][人事部 承]
「太田、あんときはその、助かった」
「ああ、先輩──いいんすよ、お役に立てるなら、何度でも手差し出しますって」
「そいつは頼もしいな……じゃあ、俺たちはゲート出たところで待ってっから。十為とおいくん連れてきてくれ」
「わかりました」
ある日、出撃ゲートにて。
回復した先輩に、そう声をかけられた。
役に立てるなら、良かった。少なくともそうであれば、まだ人の輪の中にいてもいいのだろうかと──そう思える。
「先輩。準備、できました」
「オッケ。行こうか、十為とおい」
あれから、鶸倉の代替人員として派遣されてきた後輩──エージェント・十為が間をおいてから、「行けます」というように声を上げた。
──ゲートを、歩く。
「なぁ、十為」
バングルのロックを確かめながら、何となくを装って、太田は後輩に話しかけた。
「なんすか」
「もし俺が変なこと言い出したら、そん時は俺を──」
「はぁ。『殺してくれ』とでも?」
組むようになってしばらく経つ後輩は殺気立った性質タチで、いちいち物騒な物言いをする癖がある。何やら事情があるようだと聞かされてはいるが、深くは知らなくてもいいだろう。
とりあえずは、そうやってわかりあえるならそれでいい。
「そこまでは言ってないけど……でも、頼む」
「ふぅん……ま、言われるまでもありませんよ。そもそも、財団の外で出会っていたらアンタのことは敵だと思っていたでしょうから」
「ああ──そうだね。頼んだよ」
後輩の頭に手を置く。服の裾から覗く手首には、しっかりとバングルが嵌っていた。
この手枷に鎖はついていないけれど、もしもついていたならお前に握っていてほしいと、声に出さないまでも、思った。
太田守にとってそれは、人と繋がるということだから。そうしているうちは大丈夫だと、思うから。
「髪崩れるんすけど」
「どうせ任務なんだからいいだろ」
「よくはないっす」
「ははは、ごめんよ」
「あーもう……」
だから。
──太田守は人間である。
今のところは。