「カツカツサーン、ここの内容ですが……」
「ん?あぁそこの経理処理ね。ちょっと待ってね」
たどたどしい日本語で話しかけられ、男は答える。そろばんで計算した方が速いのではないか、と文句を言いたくなるような処理速度を行うパソコンから眼を逸らし、黒い肌の青年が差し出した資料を覗き込む。
「ここはね……というか、単語の意味、分かる?」
わかりません。と答える青年に返事をしながら、紙の束を受け取り、端の方に注釈を加えていく。途中、何度か男は自分のパソコンを覗き込むが、うるさい排気音が示す通りいつまでも作業は終わらなそうだ。時折書き込んだ内容について説明を付け足しながら、2人は書類を完成させた。
「だからここは、今回の書類では関係ないかな。もう一個別の申請書類があると思うんだけど、わかる?」
「チョット探してみます」
「オッケー、じゃあそっちで詰まったらまた呼んで」
「わかりました。ありがとうございます。カツカツサン」
そういって自分の席に戻ろうとする青年を男は呼び止める。
「……あのねグウェル君。何度も言ってるけどね」
そうして悲壮な顔をして男は叫んだ。
「俺の名前は柄塚!ツカツカだから!」
「柄塚!」
「カツカツ?」
「違う!」
柄塚は手元の、既に大量の書き込みがしてある古紙を引き寄せ、隅の方に自分の名前を書き殴った。
「柄」
「ツカ」
「塚」
「ツカ」
「柄塚」
「……カツカツ?」
「なんでそうなんだよ!」
「スイマセン、カツカツサン」
「だから違うよ!間違い方がベタなんだよ!」
そう叫びながら手元の古紙を丸めて投げようとして、思い止まる。まだメモをするスペースが残っていそうだ。
男の名前は柄塚 近久(つかつか ちかひさ)。財団日本支部の職員だ。財団の財政崩壊から数年後。転職の機会を逃し続けたために、未だに財団に残り続けている。元はEuclidオブジェクトの研究を担当する研究員だったはずなのだが、逃げ出した他の職員の仕事がいつの間にか積み重なり、今ではこうした事務仕事が大半を占めてしまった。とはいえ、務めている支部の興味深いオブジェクトはあらかたMC&Dに担保として持っていかれてしまったので、研究するようなこともないのだが。
その横で困った顔を浮かべているのは、ベトナムからやってきた技能実習生のグウェルだ。1993年から開発途上国に技術を伝達するために開始された制度が外国人技能実習生というやつらしい。実態としては体のいいバイト……とまでは言わないが、そういう側面も多い制度である。困窮が続く財団がこの制度に飛びついて何とか人材を工面しているわけだ。
グウェルは元は技能実習のため、重機を用いて研究棟の取り壊しや、プレハブ小屋の建設などを行っていたのだが、現場指揮を行っていた柄塚と親しくなった。その際にグウェルからの申し出により、日本語と経理処理を学ぶために柄塚の業務の一部を手伝うようになった。聞くと、他のサイトから来たらしく、実習生としては3年目だそうだ。
柄塚はぬるい水道水を飲みながらグウェルの方に目をやった。都会の水は塩素が聞いていてまずいが、ペットボトルの水を買うわけにもいかないし、煮沸させるにも光熱費がかかる。
外国人技能実習生の地位や立場は良くないと聞くが、グウェルはどうなのだろうか、と柄塚は心配になった。健気な彼の口から金がないとは聞いたことがないが、生活はしっかりと行えているのだろうか。少なくとも世の平均ぐらいは貰っていて欲しいものだが。
ちなみにグウェルにキチンと給料が出ていたら出ていたで、ここ2ヶ月未払いが続いている柄塚的には大問題なのだったりもする。
柄塚の今の権限であればグウェルの給与の状態を確認することも可能だ。だが、それをすると恐ろしいものを目に見てしまうような気がするので、今ところはそれをしていない。
パソコンは未だけたたましい排気音を唸らせながらマクロの実行中だ。席に戻ったグウェルの方は新しい書類の方で困ったことは無いらしく、すらすらとボールペンを走らせている。柄塚は椅子を回転させ、グウェルの方を向いた。
「グウェルはさ、国に帰ったらどうするんだっけ」
「工事の会社をはじめます」
書類から眼を逸らさずにグウェルが答える。
「家族は何人いるんだっけ」
「11人です。小さな兄弟が5人います」
「大家族の兄貴だな」
手持ち無沙汰になると必ずする会話だ。内容なんて聞かなくてもわかるのだが、お互いに私生活の情報があまり分かっていないので、自然と話す内容は限られてしまう。
「日本の食べ物には慣れた?」
「あんまりです。この間は納豆に挑戦しましたが、変な味でした……」
「そうかぁ」
事務椅子の背中を精一杯しならせて天井を見上げる。こういう時に飯にでも連れて行ってやれたらいい先輩なんだろうなぁ、と柄塚は深い息を吐いた。残念ながら、今の貯金残高ではそんな粋なことをしてやる余裕もない。
「そういえばカツカツさんのご家族のご話を聞いたことありません。何人ですか?」
「ご家族のお話、だな。俺は……3人だ。父親、母親、弟。お前からしたら少ないだろうな」
「そうですね。私の住んでいるところは大体10人はいます。私は15人です。」
「10なんて考えたこともねぇなぁ……」
柄塚の家は典型的な核家族だった。祖父や祖母は帰省した時に会うぐらいの人物で、家族、と言われてすぐにイメージする人物には入っていない。もちろん、戸籍上は家族の一員なのだろうが。
「カツカツさんは家族と何をしますか?」
何を、とはずいぶん抽象的な質問だ。聞かれたら答えに困る内容だろう。だが、柄塚の答えが淀んだのは別の要因があった。
「俺は……ちょっとな。まぁ、色々あるから」
「イロイロ?」
「うん、まぁ……」
言葉の意味が分からなくとも、表情から何かを察したのだろう。グウェルが質問を切り上げる。質問が止まったのを確認して、柄塚は小さく安堵した。
「決着はまぁ、つけるからさ……」
柄塚は小さく呟く。ふと壁掛け時計に目をやると、既に17時を回っていた。パソコンの方はいつの間にか排気音が止まっていた。どうやらマクロの実行がやっと終わったようだ。
「あー、ゴメン。俺ちょっとこれから用があるから先に帰るね。鍵の場所、わかる?」
「はい、大丈夫です。お疲れさまでした」
「じゃ、戸締りよろしくね」
机の上の荷物をカバンに放り込み、帰り支度をする。使い古したコートを羽織り、パソコンのログアウトをしようとしたところで、柄塚は異変に気が付いた。マウスが動かない。
「終わったんじゃなくて、止まったのか……」
何も見なかったことにして、パソコンを強制終了させた。明日のことは明日の自分がやってくれるはずだ。
「えっと……、お前?」
柄塚が駅の柱の前で立っているとスーツ姿の男が話しかけてきた。
「コンキュー!変わってねぇな!」
「……はは。橋下も変わってないな」
わき腹を肘で小突かれながらの挨拶に、柄塚も同じような行動を返した。スーツ姿の男は橋下。柄塚の大学時代の友人だった。
「……まさかまた会えるなんてな」
「まぁ、その辺の話はおいおい」
「そうだな、とりあえず飯屋に入るか」
2人が入ったのは、よくあるチェーン店の居酒屋だった。店内が騒がしい。どちらかと言えば社会人が通うような店ではない。学生が大騒ぎするために選ぶ店だ。
テーブルの上のメニューを凝視する。安いはずだが、今の柄塚の懐事情は少しまずめだ。覚悟はしていたものの、実際に出ていく金額を考えると少し困る。
「やっぱお前、金ない?」
「いや……いや別に」
メニューから目を外さないままの曖昧な返事に、橋下は眉間の皺を寄せる。
「今日は俺が出すよ。気にしないで好きなもん頼めって」
「それは流石に……」
まごついている柄塚に、橋下が宣言しながら卓上の呼び出しボタンを押した。
「今日はめでたい!だから俺が出す!」
運よく店員の手が空いていたのか、混んでいる割には素早く店員がオーダーを取りに来る。
「とりあえず生2つ!それと唐揚げと、キャベツと軟骨!」
橋下が素早くオーダーし、店員がそれを繰り返す。以上でよろしいですか?と聞かれ、橋下は明快に返事をした。
「あ、あの!」
立ち去ろうとする店員を柄塚が呼び止める。一卓分離れたところで店員が怪訝そうな顔をして振り返った。
「なんでしょう?」
「……生、やっぱ片方角ハイで」
「生と、角ハイおひとつずつ?」
「それで」
「かしこまりました!」
威勢のいい返事をして店員が厨房に消えていく。橋下の方に振り返ると、ニヤニヤした顔で柄塚を見つめていた。
「奢られる覚悟ができたみたいだな」
「悪い。たかるつもりで呼んだわけじゃないんだが……」
「わぁーってるよ」
橋下が背中を反らしながら答える。すぐにドリンクが運ばれてきて、橋下は慌てて姿勢を戻した。
「じゃあとりあえず、乾杯」
「乾杯」
お互いにグラスに口をつける。ここ最近酒を飲んでいない柄塚は一口だけで頭が重くなるような感覚があった。
沈黙が流れる。騒がしい店内なのに静寂の音が聞こえるようだ。
……実は店に入るまでも気まずい雰囲気があった。それは単に2人が久しぶりに出会った、大学時代の友人だからというわけではなかった。
「しかしなぁ、お前が」
「死んでたお前が生きてたとはなぁ」
財団の入職時、柄塚は大学3年だった。
1年から目当ての研究室に入り浸り、雑用をこなしていた柄塚は偶然にもとあるアノマリーに関連する情報を発見した。数か月後、それが財団の目に留まり、入職を打診されたのだった。
何者かになりたい柄塚にとって、財団の提案はあまりにも魅力的だった。そのまま財団に入職を決定し、研究員補佐として任用された。その地位も、給料も、その他あらゆるものが日本の中ではトップクラスと言ってよかっただろう。
柄塚が問題だったのは、財団の入職時に戸籍を死亡扱いにしていたことだ。
財団に入職する際の個人情報の扱いは様々だが、大まかに分けて2つだ。今まで生きてきた経歴をそのまま受け継ぐか、新たに作り出すか。
既に学会で地位を得ていたり、家族を持っているものは前者を選ぶことが多い。対して、若い職員は入職時に今までの戸籍を死亡扱いし、別人として生きていくものも多い。捨てるに惜しい経歴がなく、また、家族に及ぶ危険を減らせるからだ。
柄塚は後者の道を選んだ。今まで使ってきた「高山」という姓を捨て、柄塚という名前を新たに得たのだった。
「……悪いとは思ってるよ」
「まぁ、仕事が仕事だったんだもんな」
俯いたまま柄塚が返事をする。
「で、今日呼び出したのはメシ食いに来ただけじゃないんだろ?」
橋下が身を乗り出して質問をする。
「あぁ」
柄塚は顔を上げて、橋下に向き直り、そして強く言った。
「家族の居場所を探してほしいんだ」
ヴェールがはがれた後、問題となったのは異常性が社会に暴露されたことだけではない。財団職員のその後の処遇も大きな社会問題となっていた。
非人道的なDクラス職員の扱いなど、それぞれ上げていけばキリはないが、今柄塚を苦しめているのは戸籍の問題だった。
柄塚は財団に入職する際に以前の戸籍を死亡扱いにして新たな戸籍を取得している。そのため、一人の人間として生きていく分には問題は無かった。
だが、以前の戸籍に戻すことができないことが判明したのだ。
ヴェールが剥がれた直後、家族と再会した際に相続権などの法的な権利が得られない問題が発生した。新たな戸籍を作成した財団職員は、戸籍上は家族と全くの他人になってしまっていたのだった。
問題発生直後は財団の働き掛けもあり、財団職員は無条件で以前の戸籍を再取得できるという臨時法案が成立したのだが、財団職員を名乗る詐欺業者による違法な相続権の乗っ取りなどが問題視され、すぐに運用停止されてしまった。その後は、財団の提出した証拠により、現在の戸籍と以前の戸籍を結び付けることができれば、再取得できることになったのだが、財団の事務処理部が壊滅したために、柄塚は戸籍の再取得ができなくなってしまったのだ。
他の財団職員は、最初期に戸籍を再取得できたか、もしくは現在の戸籍で養子縁組を行うなどして対応した。
だが──
「結局、親御さんとはまだ連絡ついてないんだっけ」
「ああ、引っ越したみたいで連絡もつかなくて」
柄塚が最初に実家へ向かった時、目の当たりにしたのは売地になっている土地だった。近所の人に聞き込みを行ったが、どうやら引っ越し先を知っている人はいないようだった。ただ、引っ越したのは柄塚が入職した3年後のようだった。そういった対応ができるものは家族と連絡が取れたものに限られる。柄塚は家族と連絡が取れなかった。
「役所で調べてもらったりとかは──」
「試した。でもああいうのは家族じゃないとダメみたいなんだよな」
通常、戸籍から相手の住所を探る方法は家族、もしくは相続問題などのある親族に限られる。この方法でも、戸籍上は他人であるために柄塚は家族の住所を探ることができなかった。
「電話番号とかもわからないんだもんな……」
「財団に入職した時に全部消しちまったんだ。お前だって、偶然思い出せただけだ。」
「それで八方ふさがりってことか……」
橋下が腕を組みながら唸る。ちょうど注文した揚げ物が運ばれてきたところで、目を瞑りながら「どうも」と橋本が返事をした。
「財団は今まともに運用されている状態じゃない。弁護士とか探偵に頼めばいいのかもしれないけど、ちょっと今は……」
「それも金、か……まあとりあえず食えよ」
目を開いて橋下が食事を促す。柄塚は手元にあった引き出しから割りばしを取り出し、橋下に渡した。
「まぁ何年も使わなければそんなものか……俺だって、昔のおまえの電話番号と言われても、思い出せないしな。変わることもあるだろうし」
「何人かに連絡を取ろうとしたんだが……思い出せたのはお前だけだ」
橋下は指をいくつか立てた後、まぁ、そんなものか。と呟いた。
「それで、お前には悪いんだけど俺の家族の連絡先とか引っ越し先とか知ってるやつがいないか昔の知り合いに当たってもらえないかと思って」
「まぁそれぐらいならいいけど……あんまり期待はするなよ?お前も俺の家族の連絡先なんて知らないだろ?」
「まぁそうだけどさ。後輩に祐介の連絡先とか知ってるやつがいるんじゃないか?」
「祐介?」
橋下がゆっくりと確認する。その眼には今までと違う感情が込められていたが、柄塚はそれに気が付くことができなかった。
「祐介って、お前の弟のだよな?」
「? ああ。それ以外に誰がいるんだよ」
橋下は両手で顔を覆ったまま小さく呟いた。
「そうか、そうだよな。しょうがないんだよな。しょうがない……」
そう何度か口の中で続けた後、橋下は柄塚に向き直って、こう言った。
「弟の祐介君さ、亡くなってるんだよ。7年前に」
何者かになりたかった。
学生時代の柄塚はそればかり考えていた。
地元に残ってほしいという両親の要望を振り切り、無理を言って田舎から関東の大学に進学しようとした。田舎では何者にも成れないと、漠然とそうばかり思っていた。何かを手に入れるために、今持っているものを意識的に捨ててきた。
地元の大学でいい。と言っていた弟を軽蔑していた。地元から出ようとしない弟を向上心がないと思っていた。
結局、受験に失敗し、地元の国立高校に後期日程で滑り込んだ。両親は少し安心したような顔をしていた。それを手放したくて手放したくてたまらなかった。
財団に入職した時に今までの経歴を捨てたのは、新しい自分になりたかったからだ。いや、古い自分から眼を逸らしたかったからだ。
「……キュー!コンキュー!」
「あ、あぁ悪い。」
「大丈夫か?いったん外に……」
「いや、いい。メシ食おう」
そう言いながら柄塚は目の前のぬるくなったハイボールを一気に飲み込んだ。一気に目の前がくらくらする。酒は飲んでいないとこんなに弱くなるものか。
食道をアルコールが上がってくるのを感じ、唐揚げの積まれた皿を引き寄せ、無理やり胃の中に押し込んだ。
「おい、吐くなよ?」
「大丈夫、大丈夫だから……」
もう一度口の中の唐揚げを飲み込み、深いため息をついた。
「それより、食べちまおうぜ。冷めてるから」
「お、おう。そうだな」
橋下が泡の減ったビールを口に運んだ。
「うん、冷めててもうまいな。他にもなんか頼むか」
「そうだな」
久しぶりの外食は、家で作る質素なおかずより十分にうまく感じた。それがなおの事胸の中の感情を強く掻き立てた。
会計を済ませた2人は店を出て駅に向かっていた。
食事を始めてから、柄塚と橋下は互いの境遇を話し合った。大学をやめてから財団に入職したこと。財団での功績が認められ、かなり早いうちから昇進ができたこと。一般の企業に勤めて社内結婚をしたこと、子供が今一人いること、上の子供が小学校に上がること。
気が付くと2人は駅についていた。駅に着くと、橋下の方がポケットをいじりながらちょっとタバコを吸ってもいいか?と言った。柄塚はいいよ、と言った。
「あれ?お前も吸うの?」
「え?」
「あ、いや、着いてくるから」
「あー、そっか。喫煙所で吸うのか」
柄塚はタバコを吸ったことがない。務めていた支部には管理オブジェクトの影響で喫煙室がなかった。
「5分で帰ってくるから待っててくれ」
そう言って離れていく橋下を引き留める。
「……一本貰えないか?」
「なんだよ、今度はタバコのたかりかよ」
「あーいや、吸ったことがないから、ちょっと気になって」
「なるほどな、じゃあついて来いよ」
2人は駅の、ビニールで仕切られた喫煙所に入った。
箱に入ったタバコを受け取り、まじまじと見つめる。それが心配そうな様子に移ったのか、橋下が声をかけてくる。
「そんな重たい奴じゃないから大丈夫だよ」
「そうなのか」
橋下がタバコに手慣れた動作で火をつける。1つ大きな煙を口から吐き出すと、柄塚にライターを手渡した。
「火が付いたら軽く息を吸って、火の回りをよくするんだ」
「──」
「そうそう、そしたら煙を吐き出す」
「なんか、イメージと違って全然むせないんだな。」
「それは煙を肺に落としてないからだな。まぁ、最初はそんなもんでいいよ。」
お互いに最初のひと吸いを終え、少し手持ち無沙汰になる。
「いつから吸い始めたんだ?」
「20になってすぐかな。ノリで何となく」
「大学にいたら、俺も吸ったのかもな」
「かもな」
橋下が再びタバコを口元に運ぶ。テンポの分からない柄塚もそれに合わせてもう一度煙を吸い込んだ。そして、
「けほっ、けほっ」
「……ベタだよなぁ。反応が」
咳き込んだ柄塚を橋下が笑う。出て言った空気をもう一度取り戻そうとして、大きく息を吸い込んで、また少しむせた。
「空気がよくないな。ここは」
「副流煙ばかりだからな」
「子供がいるけど、よく吸うのか?」
「いや、普段はあんまり吸ってないんだ。色々あるときだけにしてる」
目線を合わせないまま会話をする2人。
「俺さ、お前と会話して、いろんなものを置いてきたんだって実感したよ。10年分、きっかり差がついてる」
「お前はお前で努力してきたんだろ?急に世界が変わって、感傷的になってるだけだ」
柄塚がポツリとこぼした言葉に、橋下が返事をする。その言葉に違うんだ。と返した。
「俺はいろんなものを手放してきた。それを今見せられてるんだよ」
「でも、お前は俺に連絡してくれただろ?」
「それはお前が手を取ってくれたからだ。俺が手を伸ばしたんじゃなくて、お前が手を伸ばしたんだ」
弟の顔を思い出す。
「俺は祐介の手を振り払った」
死んだ人間から手を伸ばしてもらうことはできない。
「手に入れられるかどうかは、俺次第じゃない。俺はもう手放したんだから」
「じゃあ、まぁとりあえず分かったら連絡するから」
帰り際、橋下はそう言った。
自室のベットに横たわり、今日あったことを反芻する。
部屋の中に置いてあるものは、どれも財団に入職してから手に入れたものだ。昔のものは、何もない。経歴を新たに作成した際にすべて捨ててしまった。机の引き出しを眺める。あそこに入っているものは、研究資料。クローゼットに入っているものは、私服。1つとして昔のものはない。
「橋下、あんな顔だったんだな」
小さな声で呟く。橋下と会ったのは、単に電話番号を偶然覚えていた。それだけだ。顔すら覚えていなかった。
携帯の電源を入れ、カメラロールを眺める。最初の写真は9年前のもの。この自室を撮影したものだ。真っ白な、何もない自室。それ以上遡ることはできなかった。
家族写真も、家族からのメールも何も残っていない。
消さなくてもよかったはずだ。経歴を消したのは、家族に迷惑をかけないようにするため。そうなら、こうまでして痕跡を消す必要なんてない。
未練を断ち切るためか。心の弱い自分が逃げ出してしまわないように家族の写真を消したのだろうか。
いや、むしろ清々した気分だったはずだ。これで過去から解き放たれると、そう感じていたはずだ。
財団で仕事ができているうちはこんなことは考えなくてもよかった。財団が破綻したのが悪いのだろうか。
ふと思い立って金庫を開けてみる。ダイヤルを回して4桁の暗証番号を入れる。3-3-5-9。
中に入っていた物は、通帳、印鑑。名前の部分は柄塚だった。
しゃがんだまま、目を閉じて家族の顔を思い出す。父親、母親、そして弟。弟は不機嫌な顔をしていた。そしてそれすらおぼろげだった。
小さい頃の記憶が蘇る。
大好きなおもちゃがあった。よく遊んでいた。ずっと無くさないんだろうと思っていた。
いつの間にかそのおもちゃにも飽きてしまって遊ばなくなった。そうして、他のおもちゃを手に入れた代わりに、そのおもちゃを捨ててしまった。
それを忘れた頃、気まぐれに、そのおもちゃでまた遊びたくなった。少し探して、捨てたのを思い出した。
それだけの記憶だった。
それから一週間後の夜、自室に戻る通路を柄塚は歩いていた。
仕事は順調そうだ。グウェルは物覚えがいい。順調というのは書類がさばけている、という程度の意味だが。カネに関する上からの圧はひどくなる一方だが、自分が頑張ったところでどうなるという話でもないので、実はそれほど気負ってもいない。
となると気になるのはやはり家族のことだ。
もし連絡が付いたら、両親はどう言うだろうか。まぁ多分、怒るだろう。10年も家を空け、死んだことになっていたのだから。
その後は、なんと言うだろうか。許してくれるだろうか。許されないだろうか。何とも言えない。どちらでもおかしくない。結局会ってみないと何もわからないのだ。
考えていると、携帯が鳴った。確認してみると、橋下からEメールが来ていた。「家族の連絡先がわかった」という表題だった。
驚いて内容を確認しようとして、思い止まる。
両親に連絡が付くというのはいいことだ、いいことなのだが。
果たして、本当に両親に会うべきか。怒られるのはまだいい。その結果拒絶されたとしても、きっと間違ってはいないのだろう。悪いのは自分なのだから。
きっと怒られるはずだ。そうして、拒絶されるだろう。それが10年という歳月の重みだ。それを考えれば、連絡なんてしない方がいい。見えている破滅ならば、知らない方がいい。またお互いに傷つくだけだ。だから、連絡しない方がいい。
──いや、嘘だ。
家族から逃げた自分には拒絶される資格さえないのではないかと、そう思っているのだ。先に手を振りほどいた自分に、手を伸ばしてもらうのは傲慢ではないかと。
橋下と連絡を取った時にはそれほど深く考えてはいなかった。ただ、橋下に連絡をし、返事をもらった。その程度にしか考えていなかった。
だが、弟の死を知った今は事情が違う。自分は逃げ出した人間なのだ。どれだけ言い訳をしようとも、その事実が重くのしかかる。仮に両親が自分を受け入れてくれたとしても、許してくれたとしても、自分がそれを受け入れられる自信が、ない。
それにきっと、両親はやっぱり許してくれないだろうから──
思考が堂々巡りになっていることに気が付き、携帯をポケットに入れなおして、足早に部屋に戻る。
何度見ても殺風景な部屋だと、そう感じる。今はなおのことだ。どれだけ探しても昔の自分がどこにもいないのだから。出来るだけ携帯を見ていたくなくて、机の上に放り投げてベッドに沈み込む。
すぐに携帯が再び振動した。机と携帯がぶつかり合って、けたたましい音が響く。柄塚は傍にあったタオルを取って、携帯をぐるぐる巻きにした。そして、金庫の中に放り込んで鍵を閉めた。
今は少しでも早く眠りたかった。その一心だった。
「じゃあ次はそっちの柱をお願いします。」
翌日、柄塚はグウェルの操縦する重機に無線で指示を出していた。
「このまま崩しますか?」
「うん。崩しちゃって」
豪快な音を立てて研究室等の壁が崩れていく。耐酸構造を持った特殊研究室だったが、すでに収容するオブジェクトはなく、維持費もバカにならないため取り壊すことになった。
腕時計で時間を確認する。作業は順調に進んでいる。もとより時間に余裕のある作業だ。柄塚は早めに休憩を取ることにした。
「よし、そこ片付けたら休憩にしようか」
「少し早いです」
「いいよ、とりあえず昼を取ろう」
「車はこのままでいいですか?」
「大丈夫」
グウェルが重機から降りてこちらに歩いてくる。2人は柄塚の仕事場まで戻って、休憩を取ることにした。
「今日も手作り?」
塚津がグウェルに問いかける。
「はい」
グウェルの弁当箱はベトナム料理と日本の総菜が混ざった奇妙な物だった。言葉にするとキワモノのようだが、意外と彩がよく、おいしそうにも見える。
「カツカツさんはきょうはカップ麺ですか?」
「つか……まぁね」
「良いものを食べないと、精が付きません」
「変な言葉を覚えて来るな……昨日ちょっと、飲みすぎちゃってさ。あんまり食欲がないから」
その言葉にグウェルが怪訝な顔をした。
「もしかして……オゴリですか?」
「そこ?」
「ワリカンですか?」
「なんでそんな言葉ばっかり覚えてくるんだ……」
呆れた顔でため息をつく。まぁ、実際に奢られたわけなので何も言えないのだが。
「ちょっといろいろ考えることがあってな。一人で飲んでたんだ」
「ワリカンとオゴリいがいですか?」
「そこはもうよくてさ」
ポットのお湯が沸いた音がする。柄塚はそれに手を伸ばし、お湯を注ぎながら話をつづけた。
「それでまぁ、お酒を飲んできたわけ。」
「それはいいですね」
グウェルがそう言って笑う。──そういえばグウェルはもうこちらに来て数年経つわけだが、故郷の友人とはどうしているのだろうか。いや、家族とはどうしているのだろうか。
「家族は何人いるんだっけ」
ついいつもの質問をしてしまった。
「11人です。小さな兄弟が5人います」
いつも通りの返事だ。何となく、続きを質問する。
「例えばさ、グウェルが日本にいる間に、家族の誰かが亡くなったりしていたらどうする?」
変な質問をしてしまったとハッとする。だが、考える姿勢を取ったグウェルはそんな柄塚の顔を見ず答える。
「とても悲しいと思います。それを知れないのは」
「死んでしまっていたら、悲しい?」
「それよりも、知らなかったことの方が悲しいです」
「知らないことの方が、か……」
柄塚は小さく唸る。
「……実はさ、なんというか、俺はずっと家族に会ってなくて。そうしたらいつの間にか弟が亡くなってたんだ」
「弟さんがいたんですね」
「言ってなかったけどね」
家族の話はグウェルだけでなく、ずっとしてこなかった。同僚の誰にも。
「だから、家族に恨まれてるかもしれない。それが怖い」
「……」
「俺が帰ってないのが悪いんだけどね」
そう言って柄塚は苦笑いする。
「でも、私だったらそれでも家族に会いたいです」
「嫌われてるかもしれなくても?」
「それでも会いたいです」
「……絶対に嫌われているってわかっていたとしても?」
「そうしたら、愛していることだけでも伝えたいです」
グウェルの真っすぐな瞳、それに気圧されて柄塚は黙ってしまった。
話はそれほど単純じゃない。グウェルにもわかるように説明しただけで、話はもっとこじれている。ずっと昔から家族をないがしろにして、そこから逃げてきたのだ。グウェルの話はあまりにも楽観的で、ハッピーエンドのために作られた映画みたいだ。
もうすぐカップ麺が伸びてしまいそうなことに気が付き、ふたを開ける。グウェルにも食べることを促す。
「変な話をしたね。ご飯食べようか」
グウェルは頷いた。そして橋を取り上げようとして、それをやめ、柄塚の方を向いて言った。
「愛していなかったことは、絶対にないと思います」
翌朝。
結局よく眠れないまま、目を覚ました。瞼を擦っていると、昨日のことを思い出す。
「愛していたことを伝えたい」とグウェルはそう言ったが、今の自分ではその痕跡を見つけることができない。
「そう言えばメールが来てるんだった……」
先日は逃げるようにして眠ってしまったが、思い返すとまずいことをした。2日も放置してしまっている。少なくとも人に仕事を頼んでおいて、それをそのまま放置というのはまずい。というか携帯が使えないのは何かと困る。
橋下に返信ぐらいはしなければならない。携帯はどこにやったのだったか。金庫の中に放り込んだのだった。苦い顔をしながら、ダイヤルを回す。
3-3-5-9。
そういえば。
何故この番号にしたのだったか。
他の暗証番号もこれだ。自分の誕生日というわけでもない。何か関連した数字だった記憶もない。この番号は──
「ああ、そっか」
最初は自分の誕生日にしていたんだけど、両親に変えろと言われて──
「家族の誕生日を足したんだっけか」
「兄貴、チャリ借りていい?こないだ雨降ったから学校に置き忘れてきちゃって」
「買い物?」
「コンビニまで」
「あっそ」
弟の言葉に、リビングの床に寝転がったまま乱雑に返事をする。それからふと思い出して体を起こしながら話をつづけた。
「ちょっとまて。ワイヤー外してくる」
「いいよどうせ。わかるから」
「は?」
「誕生日だろ?どうせ」
むすっとした表情で返事をする。
「……まぁ、そうだけど」
「兄貴、全部誕生日にしてるから筒抜けだよ」
「盗むなよ」
「盗まないよ。家族以外にバレないようにしとけって話」
呆れた顔で弟が呟く。
「じゃ、行ってくるから」
「待て、コンビニ行くならポテチ買ってこい。ポテチ」
「あとで金渡してよ」
靴を履きながら面倒くさそうな声で弟が返事する。多分、顔もそうだろう。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
そうして、ドアの開く音がして
子供らしい屁理屈だ。自分の誕生日が駄目なら、みんなの誕生日ならいいはずだと。
「なんだ、まだあるじゃん」
家族を愛していた痕跡が、生活のどこかに残されていた。
携帯を取り出す。すぐに連絡したい。今までの親不孝を謝って、せめて愛していたことを伝えたい。たとえそれが最後の会話になったとしても。
携帯が鳴った。今度は電話だった。相手は橋下だ。慌てて通話ボタンを押す。
「悪い!今暇か!?昨日の夜メールしたんだけど全然返信がないから……」
「すまん。で要件は……」
「見つかったんだよ!お前の親御さん!」
そういえばかなり早い仕事だ。運が良かったのか、橋下が頑張ってくれたのか。多分後者だ。
「……ありがとうな。返事も遅くなって悪かった。正直、お前に頼んだ時は大分迷ってたんだが……」
「あ!悪い!それ後でいい?もうちょっと大事な用があってさ」
感謝の言葉を伝えようとする柄塚の言葉を橋下が遮る。今この件より大事な話とは何だろうか。
「あの、弟の祐介君が亡くなったって話しただろ?」
「……ああ」
「あの件な、俺が悪いってわけじゃないんだが……その……」
「その?」
「事情がお前と同じらしい」
「は」
乾いた笑いが漏れる。ということはどういうことだろうか。自分と同じということは──
「ちょうど戸籍を再取得したところなんだと。たまたま官報で見つけた知り合いがいてな」
なんと親不孝な兄弟か。兄だけではなく、弟まで失踪していたとは。
多分こってりと叱られているところだろう。そうなら、自分が助けに入らないといけない。もちろん自分も叱られるだろうが。それはそれとして不出来なりにも兄なのだから。