揺籃
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ちょうど2年前のこれぐらい暑くなってきた時期に、私は新しいバイトを始めた。


居酒屋でのキッチンを希望していた私は、その時人手が足りていなかったからという理由で急遽ホールスタッフに回されることになった。元々コミュニケーションが苦手だったので初めての接客業には不安もあったが、ホールを統括している店長が自分と同じ女性で、何よりとても物腰柔らかな雰囲気の人だったからすぐに仕事に馴染むことが出来た。30代半ばで独身だと聞いていた店長は、ゆったりとした人物だったが仕事には真面目な姿勢を貫いており、でも人に注意する時も決して語尾を荒げたりすることはない。必然的に「報・連・相」に抵抗のない職場が形成されていて、内気な自分にはそれが何より有り難かった。

仕事内容が身に染み込んできた感覚も備わってきたのが1年前。その頃から店には諸々の小さな変化が起こっていた。
まずはスタッフの顔ぶれの変化。働き始めて1年が経ち、古株のスタッフやフリーターとして働いていた人達も1人また1人と居なくなっていく。それまで店長や先輩のスタッフの指示に従い彼等に教えを乞いていた私は、いつの間にかスタッフの中で一番の歳上として後輩達に指示を出さなければいけない立場になっていた。

次に内装の変化。それまで店では背もたれのない丸椅子を使っていたのだが、ある日を境に椅子は店から全て運び出され、代わりに全てのテーブルにベンチ席が設置された。いわゆるボックスベンチというやつで、座る部分が開くようなっていて、空洞の中に荷物を入れられるようになっている。丸椅子だと足が届かない小さい子供とか、腰を悪くしているお年寄りの方を案内しやすくなったので、以前よりは気楽に店を回せるようになった感覚はあったが、なぜ店長が唐突にそんな改装を行ったのかは分からなかった。

改装が終わったほぼ同時期に、店長から指示が入った。それまでやってきた開店準備に加えてもう一つ、そのボックスベンチについて新しくやっておいて欲しいことがあるとのことだった。


「開店でお客さんが入る前にさ、ベンチの中開けて一応中にいないかだけ確認しといて」


一瞬、言葉の意味がよく分からなくて立ち往生する。


「えっと、中にいないかっていうのは、虫か何かですか?」


「ああ、うん。虫ならまだいいんだけどさ。まあ絶対見とくようにしてよ」


「指示の内容が分かったならそれ以上深く聞くな」。店長の口調が暗にそう告げていて、私はもう押し黙るしかなかった。

最後の変化というのが、その店長のことだった。

店の売り上げが大きく変動したとか、特段問題のようなものが起こった訳ではない。なのにこの頃から少しずつ、でも目に見えて、店長の態度はピリピリし始めていた。バイトの評価について、良かった点を誉めるのではなく悪い点を粗探しする。言葉で教えるのではなく、態度や目線で悟ってもらおうとする。詰まるところ、店長は段々と「良い人」ではなくなっていた。


「どうしてかな?」


苛ついたように俯いて誰にともなく呟く言葉が、いつしか店長の口癖になっていた。

彼女に標的にされたバイトは、ネチネチと続く含みある小言に耐えきれなくなって辞めてしまうか、他のバイトを始めてシフトを殆ど入れなくなる。次第に新人が長続きしなくなっていった。私はと言えば、元々真面目にやってきたつもりではあるし、少なくともそれまでの店長とは良好な関係を築いていたのもあって、彼女に詰られることはそれほど多くなく済んでいた。あの日までは。

一品の仕込みに時間がかかり、準備が整ったのが開店時間ギリギリになってしまった日。そのせいもあってか店長が機嫌を既に少し損ねているのが伺えた。開店とほぼ同時に2名様が来店し、慌ててアルコール消毒をお願いしてから予約の入ってない席に通す。


「お荷物ベンチの中に入れられますので、宜しければ」


ご利用ください、と言い掛けて心の中で「あっ」と気付く。今日はベンチを開けて確認するのを忘れていた。声を掛ける間も無く、客はそのまま席に座った。ベンチを開ける様子はない。ほっと内心で胸を撫で下ろした、瞬間。


ごとごとっ。


2人の座ったベンチが、確かに振動した。

私は硬直する。客は困惑して「え、地震?」と顔を見合わせていたが、それは私にはどうでも良かった。振動のせいで2人には聞こえなかったかもしれないが、しっかりと私の耳には入っていたのだ。


ベンチの隙間から、人の呻き声のような音が。


それきり何も起こらなかったので、客はそれ以上特に騒ぐことなく、料理とアルコールを注文して2人の会話に没入していった。伝票をハンディで飛ばして席から退がると、待ち構えていた店長にすぐにキッチンへと引っ張られた。


「店開ける前に中、見た?見てないよね?え、何で?」


確認を怠ったことがどうして分かったのか。考える前に、今まで散々目にして来た詰問が、自分に強く突き刺さってきた。


「何でやってないの?簡単なことじゃん、ねえ?時間なかったとかそんなの言い訳にならないから、2、3分あったら終わったことじゃん、ねえ?そもそも開店ギリギリになったのたのも仕込みもう少しちゃんとやってたら起こらなかった問題じゃん、どうしてやれって言われたこともやれないのかな、ねえ?謝るんじゃなくてさ理由を聞きたいんだよこっちは、ねえ?どうするのこれでクレームとか来たら、私あなたのお母さんじゃないんだからあなたを守る筋合いなんかないのに私が店長だから私が怒られるんだよあなたの身代わりになって、ねえ?なに、私の教え方が悪かった?そんな筈ないのにね、私はちゃんとやることやってるもん、私はダメって思ったことはちゃんとダメって言ってるからなのにどうしてあなたたちはいつも私の言うことなんか聞かないで勝手なことばかりするのかな、ねえ?」


怒鳴りつけるのではなく、極めて平坦な口調で、一定のテンポがある言葉の羅列で責め立てられる。それががなり立てられるよりもずっと辛くて、ただ俯いて「すみません」を合間に挟むことしかできない。私だけではない。一方的に投げ付けられる口ぶりからそう思った。店長は私を叱っているように見えて、彼女が気に食わないもの全てに、私を通して文句を飛ばしている。そっと、視線を店長の顔に合わせる。

ぞっとした。彼女は私の方を見ていない。

彼女は私の立ち位置よりもっと下、自分のお臍辺りまで顎を傾け、目線を彷徨わせて時折痙攣するように震えながら、機械のように言葉を紡いでいた。

10分は経っただろうか。説教ではない説教に疲弊した店長から解放され、座っていた客2人もいつの間にか帰っていたのでバッシングを始める。食器を全て流しに運んで、テーブルの拭き上げも終わったところでふと、ベンチを開けて中を覗き込む。


空洞の中には、虫一匹見当たらなかった。



それから約1ヶ月、シフトに入れない期間が続いた。大学の期末試験が近かったこともあったが、何より店長からの詰問が想像以上に精神的負担となって、バイトへの抵抗感が生まれていたことも大きな要因に違いなかった。試験も粗方片付き、流石に店長の熱も冷めただろうと久しぶりに出勤すると、入ってすぐに店長と出会してしまう。


「あの、おはよう御座います」


「……うん」


暫く顔を出せなかったことへの罪悪感と気まずさからおずおずと挨拶をすると、胡乱な眼差しでそう返される。

一月ぶりの店長は、随分とやつれたように見えた。全体的に弛んだ肌が骨に張り付いている。一度内側から限界まで引っ張られた肉から脂肪だけ抜き取ったような、そんな不健康な痩せ方をしていた。

どう話したものか迷っていると、会話はもう済んだかのように店長はふらふらと奥へ戻っていく。制服に着替えるため自分もついて行こうとして、例のボックスベンチが目に入った。

思わず、足が止まる。

荷物を入れる為の、ベンチの開口部。それが全てガムテープを何重にも貼って固められていた。


「故障中。使えないから、荷物は脇に置いてもらって」


私の目線に気付いたのか、店長は事務的にそう告げてスタッフルームへ入って行った。

故障中?何が?このベンチ全部が、どう使えなくなっているのか?

聞きたいことは山積みだったが、到底尋ねられる雰囲気ではない。飲み込んで営業に専念する他なかった。久しぶりにホールに立った店内は、1ヶ月前より明らかに客数が減ってがらんとしたまま閉店した。

締め作業は店長の仕事なので、PCで退勤の打刻をしたスタッフは皆そそくさと店を後にする。一刻も早く彼女から離れたいのが足取りから伝わって来た。そしてその気持ちは自分も同じで店長に「お疲れ様でした」と言い残して足早に駅へと向かう。定期を財布から取り出そうとして、その財布がポケットにないことに気付いた。同時に、閉店後着替える際に棚に置きっぱなしにしていたことを思い出す。不味い、まだ店長はいるだろうか。もう一度顔を合わせるのは気が進まなかったが、まだ締め作業を終えていないことを祈りながら来た道を駆け戻る。出た時と同じ半開きなままのシャッターが見えて、少しホッとした。さっさと財布を取って帰ろうとシャッターを潜ろうとした、その時。



ぼこっ。ぼこぼこぼこっ。



店の中から、大きな泡が爆ぜる音がした。水中で誰かが顔をつけて息を吐いているような、そういう音。それと一緒に。



「何でよ、ねえ何で」



店長の、悲鳴のような声が。



ぶぶっ。ぼばあば。ぼぼっ、ばばじで。



「違う、違うでしょ?私じゃないじゃん、ねえ?いなかったじゃん私にはっ。私は元々無理なんだって、しょうがないねって言ってくれてたじゃん。なのに、ねえ?」



ばばばっ、ぼんばぼびぼぼっ、ぼぶぼばぼびびっべぶんばぼ。



恐る恐る、店内へ顔を入れて中を覗き込んだ。

店長は一番手前のベンチの前にしゃがみ込んでいる。開口部のテープは剥がれて、蓋は全部持ち上がっていた。彼女はベンチの空洞の中に両手を突っ込んで、「何で、何で」とうわ言のように呟きながら、何かを押さえ込んでいる。

私の目が釘付けになったのは、ベンチの中からはみ出ているもの。

店長に押さえつけられ、必死にじたばたもがいているそれは、小さな手足4本だった。

5、6歳児のものに見える小ささの手足は、しかしびっしりと生えた毛によって黒々としており、濡れているのか店内でひとつだけ点けっぱなしのライトの下で、奇妙な光沢を放っている。違和感塗れの蠢く手足の付け根にあるものを、店長は両手で押さえているのだ。



ばばあ。ばばあ。ばばあ。ばばあ。



「私は、反対したじゃん、そんなの拾わないでって。そのまま流しちゃおうって、ねえ?あなたじゃないあなたじゃない、おちてるのが悪いのよ。逃げちゃったから、私だってもういやなのに。ねえ何で?何でこんなところにまだいるの?ねえ?ねえ?」



がたん、とベンチが大きく揺れる。


そこが限界だった。私は店から飛び出して、歩いて帰るしかなかった。家に着いたのは次の日の2時を回るところだったような気がする。8月の半ばに、私は布団を頭まで被って眠りに付いた。



そのバイトには、もうそれっきり顔を出していない。LINEグループも抜けて仲間からの連絡も無視し、他のバイトを始めた。

半年ほど経った頃、久しぶりに連絡して来た友人から、店が潰れたことを教えてもらった。店長が店の中で自殺していたということも。

店長は店で一番奥にあるベンチの中の空洞を流しから汲んできた水でいっぱいにして、そこに顔を突っ込んで溺死していたという。遺書の類は見つからなかった。



彼女が婚約していたというフリーターの男性とは、未だ連絡がつかないそうだ。

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