――ヴェルサイユ宮殿。
それはこの世の美と富を結集して生まれた建造物である。
当時にして1万ヘクタールの敷地があったとされ、今もなおその威厳に満ちた姿をかつての王政の地に横たえている。
「宮殿建造には25,000人が動員され、周囲の庭園にはさらに36,000人が関わったとされ…――」
真夏の昼下がり。昼食に食べたトマトとパスタのことを思い出しながら、アイリはリビングでテレビを見ていた。
画面には、豪華な城のような建物が映されている。きっと昔の王様が住んでいた場所なのだろう。
遠い場所、遠い時代、夢のような暮らしがそこにはあったのだ。
「いいなあ。あんなところ行ってみたい。」
「行ってどうする。観光客であふれかえっているぞ。」
戸棚の天辺で貝殻がつぶやいた。
この貝殻はしゃべる。このしゃべる貝殻は、祖母からもらったこの戸棚の天辺が気に入っていた。
テレビとは反対の壁に置かれたこの戸棚も、画面に映る宮殿の時代を思わせる、金の装飾と滑らかな木材で作られていた。
「ヤドカリさんは、テレポーテーションとかできないの?」
「アイリ。私の名前は『深き海とそびえる山を統べる偉大なる王』だ。
偉大なる王でもこの世の理をくつがえすことはできない。
だが、城が見たいのなら今夜見られるぞ。」
「え!?見たい!見たい!」
―その夜。貝殻を握りしめて、アイリは海岸へやってきた。家から歩いて数分のところだ。
手のひらの貝殻は、大仰な調子でアイリに語り始める。
「今宵は、ホドとネザクが合する刹那。落ちる鳥と飛ぶ鳥が羽を広げるよりよき夜。
そら、水と金が弓にひかれて、サソリの足を通り抜けたぞ。イルカはもうすぐそこだ。」
貝殻の語りが響くほどに、夜空の星々は光を増しているようだった。白さと青さが静かな海と波を照らす。
アイリが空を見上げ、星たちのまたたきに気づく前に、大きな水音が再び彼女の目を奪った。
鏡のようにおだやかに、声をなくした海の向こうで、白い霧の柱が立ち上り始めたのだ。
柱はうねり、枝と分れ、視線も追いつかないほどに伸び広がっていった。
やがて霧と波はため息のように色と形を持ち始め、さざなみが声を取り戻す間にガラス状へと留まっていった。
「わー、なんか向こうのほうに、ガラスのお城みたいなのが出てきたよ。」
およそ50mほど沖に出現したガラス質の建物に、アイリは喜びの声をあげた。
その建物は星の光を削り取った彫刻のようでもあり、夏の海面にゆれる幻のようでもあった。
「あれは入り口にすぎない。どれ、車を呼ぼう。」
貝殻から汽笛のような音が鳴った。遠くへ伸びていく音波が、夜の幕に反射し、こだまする。
ほどなくして海中から黒い影が現れた。黒い影は海面を突き破り、静寂を切り裂くように水音を立てる。
飛び散る水滴とともに、夜の色をした馬車のようなものがアイリの前へ歩み出てきた。
馬ではない。植物でもない。生き物かどうかも見てとれない2頭の馬が、白い馬車を引いていた。
馬車のほうは大きな貝殻のような、サンゴのようなものでできている。
「さあ、中央のイスに座るのだ。今日はダレスの機嫌が良いらしい。気が変わらぬうちにやつの屋敷へいこう。」
「濡れない?」
「私の力で水は遠ざけよう。」
アイリは馬車のステップを登り、中央の横長のイスに腰掛けた。
貝殻が再び音色を奏でると、馬のような者たちはひとつ足をあげ、海中へと走り出した。
驚くアイリを避けるように海水が馬車を包み込む。巨大な気泡がガラスの神殿へ駆けていく。
「客は我々だけではないようだな。サメクとクォフのやつらも見える。次の逢瀬はずいぶん先だからな。」
海上の建物から海底に向かって、ガラス状の柱が伸びている。
いや柱ではない。平らで長いガラスの板が、少しずつ下にずれながら、奥に向かって連なっている。
階段だ。ガラスの階段が伸びている。巨大な壁のようにも見えるガラスの階段だ。
階段の向こうを目指し、泳いでいる者たちがいる。
それらと平行するように馬車は進む。
海中は異様に明るい。星の光は今宵、青い太陽のようだ。
イルカ?イルカではない。クジラでもない。黒い管が肌を覆った、大きな生き物だ。目はあるようだ。
大きな生き物たちが階段の先を目指している。あちらの生き物はクラゲのようだが、もっと大きい。
自分たちのように馬車のようなものも見える。駆けている。
乗っている生き物は人間ではない。アイリが手を振ると、静かにゆっくりとそれを返した。
ガラスの壁がすぐ横を流れていく。時折光を反射し、向こうの景色をさえぎり、遊ぶ。
たくさんの目が見える。星のように光っている。
「アイリ。もう見えてくるぞ。あれが今宵招かれた屋敷だ。」
苦悶の表情を浮かべ、宇喜田博士がレコーダーの停止ボタンを押す。
「SCP-120-JP-2。だとすると海中には、その巨大なオブジェクトがまだ残されているのかい?
その…ガラスの神殿が」
ここは彼女の部屋。SCP-120-JP-2と呼ばれた少女の部屋。
異常存在を収容隔離する施設にはめずらしく、ベッドや机、ゲーム機なども置いてある一般的な家庭にもありえそうな部屋だ。
唯一違うとすれば、窓には細い鉄格子が備えてあり、ガラスも厚さ1cm以上ある。その窓から、今は夕日が差し込んでいる。
その部屋の椅子に腰掛け、白衣の宇喜田博士はSCP-120-JP-2に問いかける。
SCP-120-JP-2は、服を着替え、髪の毛を整えながら答える。
「ううん。朝見たときにはもうなくなってた。そのあとも見たことない。」
「でも、たしかにあったんだね?」
「うん。」
SCP-120-JP-2は楽しそうに笑う。その光景を思い出しながら。
「―――SCP-120-JP。その日の夜になにがあったか聞かせてもらえないかな。」
SCP-120-JPと呼ばれる貝殻。
厳重なガラスケースに入れられ、銃器でも破壊不能の水槽でできた部屋に置かれている。
SCP-120-JPは、大仰な調子で話始める。
「聞きたいかね。ウキタ。しかたない。話してやろう。
あれは私が晩餐会に招かれた夜だ。家来が60人ほど迎えに来て…――」
SCP-120-JP聴取記録0011:
SCP-120-JPとSCP-120-JP-2の証言は今回も一致しませんでした。調査部隊への要請は保留とします。――宇喜田博士