アイリと雪降る聖誕祭
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どこまでも真っ白な雪が、夜の街に静かに降り積む。クリスマスイブ。キリスト降誕の祭。信者でもない子供たちが、プレゼントを心待ちにして眠る夜。

そんな夜のこと。今年の夏に5歳を迎えた娘をどうにか寝せようと、ある母親が苦心していた。もう22時というのに元気にはしゃぎ続ける娘を、半ば呆れながらも愛しそうに見つめる彼女。彼女には、忘れていることがある。

不思議な研究所のような場所で育てられた日々。『ヤドカリさん』が話してくれなくなった日のこと。あの日もちょうど、雪の降るクリスマスイブだったこと。


「メリークリスマスイブ、ヤドカリさん!」

「アイリ。私の名前は『深き海とそびえる山を統べる偉大なる王』だ」

不機嫌そうに名前を訂正するくせに、響きだけはどこまでもやさしかったあの声。恒例になっていたそのやりとりがあんまりおもしろかったので、いつだって『ヤドカリさん』と呼びかけていた。

毎年クリスマスイブにはビデオ通話をして、次の日の朝にもらうプレゼントの話をするのが習慣だった。『ヤドカリさん』は、そのたびにすこしだけ不機嫌になっていた。幼い時分はよく分かっていなかったが、きっとかれは妬いていたのだろう。

そうは言ってもアイリのする話はビデオゲームについてがほとんどで、『ヤドカリさん』も茶々を入れながらそれなりに会話を楽しみ、平凡で暖かなクリスマスイブが毎年のように過ぎ去った。

そんなわけで、アイリが18になったあの年のクリスマスイブ、『ヤドカリさん』の態度は明らかにおかしかったのだ。

「アイリ、」

「なあに、ヤドカリさん?」

アイリが応えたにも関わらず、貝殻は言い淀む。

「何というか、きみは随分大きくなったな。」

「急に改まってどうしたの?きみって呼び方、変よ。いつもはお前って言うのに。」

『ヤドカリさん』はアイリの疑問を無視して、ぽつぽつと話を続けた。

算数があんなに苦手だったのに、今や数学が得意科目なこと。
ついぞ上達しなかったリコーダー、笛の音といっしょに空気の抜ける音も聞こえること。
素直ないい娘に育ったな、と褒めて。
半年前、恋人ができたと聞いたときはほんとうに驚いたと。
アイリのしあわせを、心から願っていると。

「大人になったな。」

「当たり前でしょヤドカリさん。わたし、もう18なんだよ。成人だよ。」

「大人、大人か。なあアイリ、」

「なあに」

「私はいまのきみの中で、どれだけ大切だ?」

「うんとね ──」
このあと、なんて答えたんだっけ。


次の日になってクリスマスの朝、『ヤドカリさん』は話をするのをやめたらしい。

「にゅーとららいずど」
「願望が達成されたのでは」
「とくに大きなことが起きたわけでもないのに?」

研究員たちが何やら小難しい話をしているのが、アイリの耳にも断片的に聞こえてきた。

黙り込んでしまった海と山の王さまは、研究員たちに連れてこられたアイリが直接話しかけたって、もはや応えてはくれなかった。

「不明な要因によって無力化された」。そのような結論が下りた。
SCP-120-JP-2指定の解除された少女に与えられた選択肢はふたつ。

ひとつ、このまま財団に就職すること。アイリが望むのであれば、大学教育までサポートが受けられる。ヴェールのこちら側、異常と共に人生を歩むことになる。

もうひとつ、記憶処理を受けること。財団で幼少期を過ごした記憶にある程度の改変を受けた上で、一般の大学に進学する。異常をきっぱり忘れ去った上で、正常な世界にて普通の人生を送ること。

決断を無理に急ぐ必要はないとは言われていたが、アイリの答えは決まっていた。

普通の、それでいてしあわせな生を望んでもらったから。

それでも、なかったこととして捨て去るにはあまりに愛おしい日々だった。『ヤドカリさん』。わたしの宝物。ともだちのような、おとうさんのような、どちらでもあってどちらでもないような、やさしくてすごかったかつての海の王さま。

記憶処理を受けると宣言したアイリをどこか淋しげな眼で見つめる職員に、無理と覚悟で申し出る。
「── すこしだけ、お願いをしてもいいですか。」




ようやく眠る気になった布団の中、娘は眠そうな声で母親を呼んだ。

「ねえママ、」

「なあに」

「ママのヤドカリさんのおはなし、ききながらねたいな。」

母親は娘に、『深き海とそびえる山を統べる偉大なる王』の話をしてやる。

24800人の臣下がいて、何よりも偉い王さま。王さまは一度ママに、ガラスの宮殿を見せてくれたことがあってね。クジラが好きで、リコーダーの音が嫌いで、『ヤドカリさん』と呼ぶと怒るんだ。

話し疲れた母がふと横を見ると、くうくうと穏やかな寝息が聞こえる。物語に聞き入るうちにいつの間にやら眠ってしまったらしい。少女の夢想のなかではきっと、サンタクロースが冬の夜空を駆け巡っている。

アイリは思う。

『ヤドカリさん』。そう呼んでいた、わたしのイマジナリーフレンド。幼い頃の自分にとっての一番の存在だった『ヤドカリさん』。いま思ってみればただの貝殻なのだが、なぜだか当時は会話できていた。しかし、王を自称する尊大な貝殻だなんて。我ながらたくましい想像力だと彼女は微笑ましく思う。それにしたって、18歳までイマジナリーフレンドがいたというのはかなり珍しいのではないだろうか。

結局のところ彼女は大人になったので、サンタクロースが実在しないことを知っている。彼女は現実を知っているので、貝殻がしゃべりだすことなどないと分かっている。

それでも彼女にとって、幼い頃の夢こそは記憶に燦然と輝く宝物だ。現実と幻の区別が曖昧だった頃に夢みた人語を話す貝殻を、ガラスの宮殿を、いまでも鮮明に思い出せる。

かれがどこかに実在していた気がするから、きっと今もあの貝殻を手放せないのはそのせいだ。何度引っ越したりミニマリズムを志したりしたって、どうしても捨てる気にはなれなかった。いつだって飾り棚の一番上に置いて、興味を示した娘には「昔の友達」と自慢した。いつのまにか『ヤドカリさん』が、寝物語の定番になっていた。

『ヤドカリさん』を羨む娘は、「ママのヤドカリさんみたいなおともだちがほしいです」とサンタに宛てて書いていた。明朝に目を覚まし、父が連れてきたオールドイングリッシュシープドッグの仔犬を見たらどんな反応をするだろうか。心やさしい娘のことだ、きっと友人になれるだろう。

話し疲れて考え疲れ、アイリはいつしか眠りに落ちた。数日ぶりにみた夢の中、彼女は海中の宮殿にいて、手に握り込んだ貝殻は何やら得意げに話していた。星と海が、世界の果てまで続かんばかりに輝く場所だった。

クリスマスイブの夜はこうして更ける。誰もが夢の中にいる。

こんな夜に。ちょうど布団を見下ろす位置にある飾り棚の特等席、静かに佇むクモガイの殻にもしも心があったならば、それはきっと世界で一番幸福な貝殻だっただろう。

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