曙はまだ紫にほととぎす
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 その日は暑くはなかったが、空気がべとついていた。梅雨を称えて霧雨がしめやかに降り続き、ブナの木は鬱蒼と生い茂っていた。蝉の声はまだ聞こえなかった。一歩踏み出すごとにぬかるんだ地面が彼の足をねばっこく迎え入れ、清廉な靴を筆の荒びのように染め上げた。風もなく、ただ湿った大気だけが辺りを包んでいた。三十分ほど歩いてようやく、いびつな石畳の参道が彼を迎えた。その時にはもう、風が吹き始めていた。鳥がせわしなく鳴き、急にあたりの空気が冷たくなったように感じた。雨がその勢いを増していた。寺を象徴する三重の塔はもう二、三百メートル先にあるはずだが、いまだ白い靄の向こうにあった。
 彼が門の前に着いたとき、時刻はすでに午後一時を回っていた。低い青銅の門を住職が押し開け、男を招き入れた。寺にはやはり立派な三重の塔があったが、近くで見れば今にも倒れそうなほど傾いていた。境内は広い。しかし、お世辞にもよく手入れされているとは言えない。雑草があちこちに生えているのが目立ち、ひどく寂れていた。それに比べれば本堂は少し古ぼけていたが、きちんと掃除されていて、静謐な雰囲気が漂っている。ちらりと見えた二つの行灯が黄ばんだ光を放っていた。住職は男を連れて堂内に入り、静かに仏像の前で手を合わせた。それから座布団を一枚取り出して男に勧め、熱い茶を一杯持ってきた。
「ひどく降られましたな」と住職が言った。「しかし、悲観することもない。この分ならば、あなたが帰る頃には美しい晴れ空が見える。いつも薄曇りの山でしてね。これはそうそう起こることではありません」
 男の様子を見て、住職は付け加えた。
「要件は伺っています。今日は泊まっていかれるとよろしい」
 濡れた廊下を通って、彼らは素朴な台所へ出た。風雨にさらされて襖がごとごとと音を立てている。玄米と根菜汁、そして少しの和え物を乗せた盆が男に手渡された。竈のしけった薪の上を小さな火が走り回っていた。住職の顔色はどこか蒼褪めている。だが、それも生まれつきのようだった。住職は椅子を指して、そこで食べるよう男に伝えた。
「SCPという言葉に聞き覚えはありますか」と彼が聞いた。
「ええ」と答える。「こうした訪問も、稀にありますからね。ただし詳しくは知りません。遅くとも明日の夜には、あなたは帰られるでしょう」
 彼は手際よく根菜汁を片づけてから、身構えずに答えた。
「今までに八人の職員が派遣されました。あなたは覚えておいででしょうか」
「日焼けした男性が二人いて、片方はまあまあ背が高かったことを覚えてますよ」と住職は答えた。
「確かこの寺の伝承について聞きたがっていました。伝承と言っても、些細なものです。空の色に関する禅問答と、松尾芭蕉の句が一つ。禅問答と言っても他の寺とは毛色が違いますから、期待したようなものではなかったかもしれません。期待通りのものを求めるのは虚しいことです。先代は、期待していた空の色と実際に見た空の色が全く同じなら、我々が空を見る意味はなくなると考えていました。私が教えられたのは真理ではなく、懐疑と忘却です。だから、私は自らの名前も忘れているのです。128代目、とだけ呼ばれていますから」
「伝承について、お聞かせ願えますか」
「もちろんお話しましょう。結局、彼らは何も得るところはなかったようですが」
男は湯飲みを傾けて喉を湿らせた。「それは残念です」
 住職は立ち上がって、部屋の片隅に積んである本の一冊を手に取った。表題がちらりと見えたが、読み取るには時間が短すぎた。鮮明だが入り組んだ文字で、男は絡み合った龍のような印象を受けた。和綴じで古めかしく、台風の湿気が皺と染みを増やしていた。用心深く、住職の指が隅を叩いた。次いで手渡された男は、所々頁が抜け落ちたその本を開いた。男は呟いた。
「俳句が二句しか載っていない」
 そして、奥の細道でさえ六十句載っている、と言った。住職は笑った。
「八人とも、あなたと同じことを言っていました。ですが本当は、二句も載っている、と言うべきなのです。物が二つあれば、そこには無限の関係性が考えられますから。それに、一句でさえ、俳句を味わい尽くせる人間はいません。我々の寺では、大抵のことに対して疑問を持つように教え込まれます。ですが、実のところそれが間違っているのか正しいのかは判断することができません。なぜなら、それは考える前に決まってしまうことだからです。我々は言葉を使って考えます。言葉を疑えば考えられません。我々は記憶をもとに考えます。記憶を疑えば考えられません。そんなわれわれが、なぜ二つの句を理解できるのでしょう?」
 住職は鳥の模様があしらわれた和傘を手に取って、男を外に促した。雨風は強く、遠くで雷鳴がとどろいた。
「あなたの職場には」と住職は言った。「私が見たこともないような、人智の思い及ばぬ存在がひしめいていると聞いています。訪ねてきた方々は、それに比べれば芭蕉の句はまだ理解できると思っていたのでしょう」
「SCPが何かはご存じですか?」男が聞いた。
「奇妙なものの総称だと、五人目の方から伺いました。まあ、要するに、この世界のことでしょうね」
 二人は傾いた三重塔の中に入った。屋根の瓦が落ち、床には木屑が散らばり、壁の一部が崩れている。壁際には何ともつかない動物の像が置かれていて、それらは全て風に震えていた。掃除はされていないことは一目で分かったが、幸い激しい雨によって埃が舞うこともなかった。吹き荒ぶ風に耐えながら、男は三重の塔の最も高い部屋に向かった。部屋には小さな窓と二つの畳、掠れた屏風が置かれていた。辛うじて鳥だとわかる生き物が描かれているその屏風を前に、男は言った。
「伝承とはいったいどのような内容なのですか?」
「あなたがそれを知るに相応しければ」と住職は言った。「明日の朝、この部屋に一羽の鳥がやってきて、夜明けまでに何か話すでしょう。私が知る伝承とはそれだけです。なにせそれが書いてある文書は秘匿されていて、誰も読んではいけないということになっている。鳥が何が話すのかも、その鳥が何なのかも、何が起こるのかも分からない。知りすぎてはいけないこともありますから」
 男は畳の上で右腕を枕に眠った。初めは寒さが応えたが、徐々に風は和らぎ、その内太陽に天上の座を譲り渡した。奔流のような雨が次なる獲物を探しに旅立ち、後には沼の光のような微かな霧が立ち上る、そんな夜に男は眠った。
 朝の四時頃に誰かの声を聞いた。ホトトギスだ、と思った。その鳥は、いまは男に背を向けて、窓外を眺めていた。外には、無言の霧と顔出さぬ朝日に映えて、闇がその姿を変えようとしていた。
「蒐集院からのお客人ですか」
ホトトギスのさえずりが、形を変えて男の耳に届いた。男は答えた。
「その系列の組織ですが、今は名前を変えています」
「あれもまあ、悪くない組織でした。ここに来る理由は、たぶん、この空のことでしょう。あれをあなた方がなんと呼んでいるのかは分かりませんが……」
 ホトトギスはぴょこぴょこと部屋を歩き回ってから、ちいさな嘴を開いた。
「この空の色に関して一般に知られていることは、世界は元々この色だったというものです。でも、あなた方が知っていることは違う。世界は元々この色ではなかった。認識が何者かによって改竄され、この色に見えるようになる。それを抑制できなかったために、あなた方は世界は元々この色だったという認識を人類に植え付けた」
 男は静かに頷き、続きを促した。
「私が知っているのは、次のようなことです。つまり、世界は元々この色彩だった。それはあなたが見ている景色ではあるが、あなたが信じているような意味でではない。信じられぬのも無理のないことですが、私の記憶では、二度の変革が起きています。あなた方が抑え込めなかったと思っているものは、二度目の認識災害なのです。そして、本当は、あれは災害ではありません。一度目の災害に、解毒薬を打っただけだ。本当の一度目が起こったのは、私たちが絵を描くことを知った時でした。あのラスコーと、アルタミラを」
男は尋ねた。「それは、いつ頃の話ですか?」
「一万五千年前。それから写真が生まれるまで、我々はずっと偽りの色の中にいたのですよ」とホトトギスは言った。「もう少し話したいことはありますが、そろそろ時間です。あの屏風はご覧になりましたか?写真が発明されるまでは、他の絵が見えていたんですよ。まやかしの、もはや我々の目に見えない色で」
 その理屈で行けば、と男は思った。さらに遡れば、また色が変わった瞬間があったかもしれない。
 本当の空の色はあるのですか。男はそう聞きかけて、やめた。ホトトギスは既に飛び上がって、窓のへりに足をかけていた。
「よければ、あなたも曙光をご覧になってください。芭蕉がついぞ見ることのなかった、真実の紫を」
 次の瞬間、空が鮮やかな紫色に変化した。空を覆い尽くしていた雲は消え去り、その下でがブナたちの息が煙のようにたゆたう。水溜まりには光が滲み、空の紫色を鏡のように反射して、全てのものを照らしていた。ホトトギスの小さな影が、山の端から顔を出した太陽に向かって飛んで行った。傾いた窓から美しい世界が目の中に渦巻いて、それは彼の脳の一部にアクセスした。
 折しも、塔の扉が開く音が聞こえた。住職がお茶漬けを持って入ってきたのだ。降りてきた男を台所まで先導し、話しかけた。
「鳥のお喋りは聞けましたかな?」
「正直、殆ど記憶にありません。ですが、とても美しい景色を見たことは覚えています。早朝のことでした。右田の山の端から太陽の光が差し、木々たちの息吹が靄に変わって東雲と曙の狭間に染まる景色です。風に流れて細い雲が窓の隅を横切り、その下でホトトギスの小さな影が夏の訪れを告げる景色です。その景色以外、私の記憶には残りませんでした
「お褒めに預かり光栄ですが……どうも、この寺は近々十人目を迎えねばならぬようだ」
 住職は箸を置き、腰をさすりながら立ち上がった。湿った草が伸び行く境内を眺めつつ、二人の男は青銅の門の前へたどり着いた。
「曙はまだ紫にほととぎす」と、住職は言った。「三百年前、彼はどんな景色を見ていたのでしょうね」
 青銅の門が開き、石畳の隙間に水が溜まっているのが見えた。男と住職は二言三言、小声で話をした。男は手を合わせ、門の前で静かに礼をした。一羽の鳥が鋭く鳴いた。
 我々は今、空を見ている。何億もの死者が、空を見てきた。幾千年の後、地球上の誰かが、我々の残した何かとともに、本当の空を見るだろうか。

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