0. ハング・オーバー
[2022/04/12 22:18 某所, 路地裏]
「うげぼっ、おえぇ……」
神様は、イメージするよりは平等らしい。少なくとも、今ここでうずくまっているサイケなピンク髪の電波女も、悪酔いで吐き出すものは私と大して変わらないようだ。この期に及んで吐瀉物が服に跳ねないか気になってしまい、服の胸元が弛まないようにする仕草すら身に覚えがあり、妙な笑いが込み上げてくる。
横を歩く事も憚られるようなこの女を、わざわざ水まで手渡して介抱している理由を語るにはまず、私の身の上から語る必要がある。
1. Guide for New"𝕖"s
[2016/08/12 9:56 サイト-8165, 管理官室]
「急に呼び立ててすまないね、鳴瀬博士」
「いえ、特に仕事が立て込んでいた訳ではありませんので」
史上最悪の酷暑が列島を煉獄に仕立てたその夏その日、年寄りにはむしろ酷ではないかと思うような極寒の管理官室。まだ背負うものがそう無かった頃の私は、年寄りのラベルを貼るのが聊か憚られるような行動力の化身たる部屋の主、伊勢山管理官と対峙していた。
「それは何より。早速本題に……と行きたいところだが、その前に。ちょっと君に見て貰いたいものがあってね」
「これですか?かなりボリュームがありそうですが……」
「ああ、ざっと目を通してくれればいい」
伊勢山は私に、角形二号の茶封筒を手渡す。ずっしりとした重みと厚みを感じる。三ツ矢のマークの下には電子データ化厳禁のラベルが張り付けられている。
「『クローン技術確立に伴う消耗職員取り扱い改訂提案』……随分物騒なタイトルですね」
「昨今の技術革新で、人体複製技術はかなりローコストかつ高精度に実現できるようになった。それを利用した方が、今のDクラス運用よりずっとローコストかつコンパクトに人材を消耗できると、そう言いたいらしい。うっかりDクラスの中に異常性保有者が紛れてましたなんて事故も防げるとか、色々謳っているが……」
「あー……倫理観さえ投げ捨てれば論理的に見える提案ですね」
「これは最近、他所のサイトの管理官が上げてきた提案書だ。大上という、ちょいと発想が飛躍しがちな男でな。悪い奴じゃないんだが……」
こんな提案書を上げておいて"悪い奴じゃない"は無理があるのではないか、というツッコミを入れるべきか迷ったが、本人は冗談を言っているように見えないので、ぐっと呑み込んだ。というより、最も重大な問題はそこじゃなかった。
「えーと……本当に今更なのは百も承知なのですが、これは自分の触れていい情報なんですか?機密情報ど真ん中に見えるのですが」
「まだ、触れてはいけない情報だね」
「……聞かなかったことにします」
"まだ"。その意味するところの理解を、頭が自然と回避したのを憶えている。
「それで、この提案書を読んでどう思う?倫理に反していること以外に、何か感じる事はあるかね?」
「そうですね……マルティン・ニーメラーの言葉を思い出しました。Dクラスを効率化の名目の下に排除したなら、次はEクラスを、些細な失敗を犯したCクラスを、あるいは保護施設の子供たちを、効率化の名目の下に排除するでしょう。いずれ自分たちが排除されない為にも、この提案は通してはならないかと」
伊勢山がどういった意図で私にこの問いを投げかけたのか、理解が及んでいなかった私は、素直に自身の意見を述べてしまった。それが、伊勢山に誘導されていることも知らずに。
「うむ、我々は自分たちの居場所を守るためにも、他の職員たちの居場所を率先して守るべきだ。そうだな?」
「ええと、そうですね……?」
唐突な念押し、もはや肯定する他ない状況。私が"利口である必要がないなら、多少愚かなくらいでいるべき"だと学んだのは、まさにこの時からだった。
「そんな志高い君に新しい仕事を振ろうと思うんだ、鳴瀬君」
「……はあ」
「なんだ、露骨に怪訝な顔をして」
「伝わったなら何よりです」
この男は、言葉の端々でこちらに"嫌な予感"を覚えさせるのが余りにも得意だった。例えば私の事を役職ではなく君付けで呼ぶとき、それは研究職としての私に用がない事を暗に示唆している。そしてそれは決まって、並の職員には頼めない厄介事だ。
私が並の職員より突出して優秀か?それは否だ。私に卑下の趣味は無いが、そう胸を張って秀才は名乗れない。
「まあまあ、君と私の仲じゃないか。そう邪険に扱わないでくれたまえ」
「管理官と職員の間柄ですから、断りはしませんが」
単に私は、並の職員よりこの男に気に入られているのだ。まっこと残念なことに、それは現在まで変わらない。何も私だけが彼のお気に入りなわけではないが、どうやら私はその中でもとりわけ無茶ぶりがしやすい相手だと思われているらしい。迷惑極まりない……と言いたいが、彼に振られた仕事を抱えているお蔭で、真にヤバい仕事を回避できている側面もある。一様に恨めないのが実情だ。
「君は、一部の職員が"スモールE"という俗称で呼ばれていることを知っているかい?」
「管理官の口からそんな差別用語が出てくるとは思いもよりませんでしたが、知ってますよ」
𝕖スモールE。一部の職員を指す俗称──いや、蔑称だ。
異常性に暴露した、ないしは先天的に異常性を持っている職員の中でも、特にEクラスとして一時的に職務を離れる必要のない範疇の者の事を指し、そう呼ぶ。より正確なニュアンスを求めるなら、"他愛もない異常性のクセして異常職員手当だけはちゃっかり貰っているいけ好かない連中"のことを、そういう穿った目で見る一部の浅はかな職員たちが陰でそう呼んでいる。そして陰口というのは決まって陰に留まれないもので、𝕖に該当する者たち自身も自虐の文脈でこの呼称を用いることがある。
「なら話は早い。𝕖の中でも特に新人、つまり入職する前から些細な異常性に付き纏われてきた者たちは、その中途半端な立ち位置ゆえのコンプレックスを抱えたままであることが多い。はっきり言ってしまえば在り来たりな悩みばかりだが、それを放置するのは不健全だ。ゆえに新人の𝕖たちに、研修期間の後に"影の研修期間"を設ける事になった」
「影の研修期間、ですか」
「そうだ。本人らには通常職務であるとしたうえで、彼らのバディとして監督およびケアをする非公開の副役職──"新入𝕖職員指導員"、略称"新𝕖導"を導入し、新𝕖導に任命された中堅職員に担当を割り振っていく形で第二の研修を行う。もっとも、まだ試験的に幾つかのサイトで数サンプルを用意する段階だがね」
「……つまり、そのサンプルとして呼ばれたと」
話の途中だというのに席を立っては冷蔵庫を漁っていた伊勢山は、こちらに向き直ることすらせず"利口で助かるよ"とだけ返した。なにも、単にその新𝕖導に任命されるというだけなら眉をひそめる事もなかったのだが。
「このシステムが有用であると証明するために先んじて成果を上げなければならない、という事ですね。正直、いっぱしの研究職には荷が重いのですが」
「君はミルクレープと白桃のレアチーズ、どっちがいい?」
伊勢山は私の苦言に応えることなく、クリーム色のケーキ箱を手に戻ってきた。
「……レアチーズで」
「結構。さて、ともすれば君をまずは𝕖にとって馴染みやすい人物像に仕立て上げる必要があるだろう……ところで君、ロールプレイングは得意かい?」
「……はい?」
ひどく、側頭部が痛んだのを憶えている。
[2022/04/02 10:01 サイト-8165, 管理官室]
「君にまた"新𝕖導"の仕事を振ろうと思うんだ、鳴瀬君」
「……はあ。今更断りはしないが、どういう風の吹き回しだね?」
結論から言うと、サンプルに選ばれた私達は十分な仕事を果たした。当時割り振られた新人𝕖たちのメンタルスコアは、他の新人𝕖と比較して有意に向上を見せ、プロジェクトは無事、正式に運用されることになった。𝕖が順当な成果を挙げるようになったことが職員間での𝕖への蔑視問題の軽減にも繋がり、現在に至るまで、𝕖の総合離職率を低減させる一助になっている……らしい。というのも、私はもうここ数年、新𝕖導としての仕事は割り振られていなかった。それに伴い、関連した情報も入って来づらくなっていたのだ。
「君が適任だと思える指導対象が、近々加入するものでね。それに、君だって"そんな役回り"だけが付き纏うのも不本意だろう?」
「……私は最初から、こんなまどろっこしい事をする必要は無いと再三言っていたんだがな」
私をはじめとする黎明期の新𝕖導は、"新人𝕖からの心理的障壁を低減する"という目的で、ありもしない軽微な異常性を持っている"フリ"を強いられた。つまり悪い言い方をするなら、"𝕖同士の方がよろしくやれるだろう"という企みだ。
それは、異常職員同士で積極的にバディを組ませるのが、諸々のポリシーに抵触するゆえの折衷案だった。しかし存在を騙りやすい異常性というのもレパートリーに限界があり、1年も経たずにこのルールは撤廃された。結果として私たちは、無駄にありもしない異常性に悩まされているフリをさせられながら今に至っている。
演じやすい、或いは意識して振る舞いを変える必要のない異常性を割り当てられた者たちが大半だったが、かくいう私は……
名前: 鳴瀬 九 Naruse kyuu
クリアランス: レベル3
所属: サイト-8165 (JP)
役職: 博士, 渉外担当/Cクラス
専門: 都市科学/広域異常分析学/空間異常学
身体: 身長180cm/体重70kg/1988年8月9日生/男
人物: 鳴瀬博士は某大学にて執筆した論文『███市における異常な人口推移の傾向と予測』で財団が研究中であったアノマリーの発現法則を意図せず解明したことから、その異常存在を研究する適性を評価され財団にスカウトされました。
鳴瀬博士は主に異常の影響が広域に及ぶ異常存在や、空間的な異常を伴う異常存在の研究に携わっており、数件の多次元的異常存在の研究にも関わった経歴があります。
鳴瀬博士は2016年に発生した事件にて異常性に暴露し、自身のことを実年齢より28歳老けていると誤認しています。鳴瀬博士に過去の経歴について問いただす行為は、本来の記憶と異常性によって発現した記憶の混濁による錯乱を誘発するため避けて下さい。当初は記憶処理による修正が予定されていましたが、鳴瀬博士の本来の経歴では修得していない幾つかの専門分野についての学術的な知識を保有していることが判明したため、研究能力の向上に繋がると判断され、記憶処理は保留となっています。
……とまあ、モロに日常生活に支障を来す異常性が割り当てられてしまった。今では管理官とタメ口で交流するのが常となってしまっている。当時はなぜこんなボロが出やすそうな異常性を割り当てたのか甚だ疑問だったが、いま思い返せばむしろ、"こうして私とまるで上下が無いかのような会話を交わすのが主目的だったのではないか"とさえ勘ぐってしまう。もしそうなら、見かけによらず随分と寂しい老人だ。
「まあ、そう言ってくれるな。この資料を見ればきっと、君も首を縦に振りたくなるさ」
伊勢山はそう言って、私にタブレットを寄越す。新人𝕖の人事ファイルが開かれていた。新人特有の、まだ最低限の情報しか載っていない淡白な人事ファイルだ。
「豆木 薫かおり……なるほど。確かに私が適役だ」
「だろう?今度はケーキも要らないはずだ」
「いいや、有るなら出してくれて構わんよ」
「……鳴瀬君、やっぱりその役はよく似合っているよ」
2. C6H3(OH)(OCH3)CHO
[2022/04/04 13:21 サイト-8165, 個人執務室203]
「本日付けで8165に配属されました、エージェントの豆木です。当面は研究職員の身辺警護を担当します」
「鳴瀬だ。宜しく頼むよ。あー……」
このサイトにおいて、私はそれなりな立ち位置には居て、少なくともオフィスは個室が割り当てられている。だが、それでも部屋に大した広さはない。窓も、辛うじて息が詰まらない程度の些細なものが、やたら高い位置にひとつあるばかりだ。つまり何が言いたいのかと言うと──
「無理に言葉を選んで頂かなくとも、私が悪臭を放っている事は自覚しています」
──彼女が放つ猛烈な甘い香りから、逃れるすべが無いという事だ。
これこそが、彼女の持つ"ささやかな異常性"だ。全身から放つバニラの芳香。それを代償に彼女が持つのは、ほんのささやかな治癒能力だけだった。折れた骨も治せないような、唾をつけとけばじきに治る程度の傷しか治せない異常性だ。
知っての通り、財団にはもっと優れた生存能力を持つ異常職員が腐るほど居る。死んでも死なない奴まで居る始末だ。そんな中で、彼女の異常性が悪目立ちする事こそあれど、特筆すべき物では無いのは明らかだった。
「いやいや、悪臭だなどと卑下する必要は無いさ。素敵な甘い香りだよ、こんな無骨な部屋には不相応な程にね」
「……今後行動を伴にさせていただく手前、あらかじめ断っておきますが。私の悪臭を最も嫌悪しているのは他でもない私です。ご理解いただけるなら、そのヘッタクソなフォローは金輪際避けていただけると幸いです」
数秒間の気まずい沈黙ののち、私がポツンと返した"済まない"という一言で初対面の場は終わりを迎えた。親睦を深めるどころか、私の自己紹介すら叶わなかった。
名前: 豆木 薫 Mameki Kaori
クリアランス: レベル2
所属: サイト-8165 (JP)
役職: エージェント/Cクラス
専門: 追跡調査/暴徒鎮圧/研究員護衛
身体: 身長165cm/体重57kg/1999年8月20日生/女
人物: エージェント・豆木はサイト-8165に在籍する常駐エージェントです。身体機能は敏捷性・瞬発力ともに顕著に高いスコアを示していますが、異常性保持者であるため単独での任務派遣は現時点で認可されていません。スコア詳細は別紙を参照してください。
エージェント・豆木は自身の異常性により緩やかな自己再生能力を持つ代償として自身の皮膚表面からバニリンC6H3(OH)(OCH3)CHOに由来する芳香を常に放っています。これによりエージェント・豆木は隠密行動が必要とされる任務に割り当てられません。
エージェント・豆木は頭髪を薄桃色に染めています。これについて、エージェント・豆木は"体臭との整合性を取るため"であるとしています。
[2022/04/04 15:33 サイト-8165, 第二休憩室]
「どうだ、クセモノだろう?」
「凄まじく、な。流石に面食らったよ……」
サイト-8165には休憩室が2つある。2階の日当たりがよく小広い第一休憩室は、いつ訪れても──それこそ、普通の会社であれば問題になるような時間帯でも──誰かしら利用者が居る。だが、5階に居を構える第二休憩室は平職員には無用な階層なうえ、自販機がポッカサッポロ1台しかないため、基本的に人が寄り付かない。
故に、わざわざ管理官室への招集命令/入室許可を経由する程でもない密談をするにはもってこいだった。私と伊勢山はそれぞれ、絶妙な表情をした男性の顔が描かれた缶コーヒー片手に愚痴話に耽る。
「コンプレックスの種類は在り来たりなものだが、拒絶反応は人一倍だ。周りの人間に恵まれてこなかったと見えるね」
「あれは相当骨が折れるぞ、私の生半可な設定異常性など引き合いに出そうものなら一発アウトだろうな」
交わした会話は少ないが、その中で色濃く感じたのは彼女のもつ拒絶から入るスタンスだ。ハナから他人に理解されていることを諦めている、そんな雰囲気を感じる。
「本職に頼るべき案件なのだろうが、自分でカウンセラーを頼るような柄でもないだろうからな。どうだ、見通しは立っているかい?」
「さてな……あの異常性に何かプラスを見出すのは絶望的だし、本人も諦めている。どうアプローチしたものかな」
話し合うだけ解決が絶望的に思えてくる。そもそも雇用したのが間違いだとすら感じるが、多少の適性不足があっても職員になれてしまうのが現状の雇用制度における𝕖の立ち位置だ。職員になれなかった時のことを考慮すると、やむなしの処遇であることが歯がゆい。
頭を抱えたくなるのを、側頭部を掻くに留め、溜息をつく。
「はぁ……全く、あの兄の妹とは到底思えないな」
3. プラセボ
[2022/04/06 10:34 サイト-8165, 個人執務室203]
「何も起こらない薬、ですか」
「そうだ。それが取引されているのはとある雑居ビル地下1階のカジュアルバー。そこへの不審な客の出入りと、薬物の取引の形跡自体は確認されているが、肝心の薬の正体が掴めない」
豆木はレジュメに視線を落としつつ、淡々と私の説明に耳を傾けている。初対面の際に悪辣な態度を見せていた彼女も、仕事の話になればきちんと切り替えができるようだ。ひとまず、先日の失敗が任務に多大な支障を及ぼす事はなさそうだ。
「実際に薬を購入した人物を捕らえられたんですよね?なら薬の実物ぐらいありそうなものですが」
「薬は持ち帰らず、その場で飲まされるらしい。随分な徹底ぶりだろう?だから捕らえた人間に対して身体検査を行う他なかったんだが……」
「何も検出されなかった、と」
私は、伊勢山から豆木の初任務としてその案件を受け取っていた。"異常薬物取引の実態調査"──普通であればエージェントの職分のそれが研究職の私に回ってきた理由は、大きく分けて3つだ。ひとつは、すでにエージェントによって事前の調査が済んでいて、より踏み入った分析を行うには研究職の介入が必要だと判断されたから。ふたつ、一般客の出入りもある店であり、直接的な武力衝突は考え難いから。みっつ、これはあくまでもエージェント・豆木の任務であり、私はその"おもり"だから。
「そうだ。尋問も失敗続きで、連中はそもそも薬を飲んだことも、ましてや薬を買いに行ったという事実すらも憶えていない」
「……記憶処理、ですか」
私は首肯し、深々と溜息をつく。
記憶処理は財団の専売特許ではない。しかし、他の組織と比べ格段に高度な処理技術を持っているのは確かだ。少なくとも、処理された記憶を復元することはおろか、処理された形跡すら掴めないとなると──他所の組織がやってのけたとは考え難い。
「じゃあ、非異常の線は薄いんでしょうね」
「少なくとも、判別部門はそう判断したな」
「場合によっては、内保案件なのでは?」
「可能性はある。だが私達に話が回ってきたという事は、上はまずそれ以外の線を潰したいのだろう」
──と、深刻そうに語ってみたが、実のところ、新人に回される仕事がそんな厄ネタである筈もなく。既にある程度小粒のネタであると目測がついているのだろう。中が空だと判っている金庫の解錠を任されているようなものだ。もっとも、だからといってこれが安全な任務であるという事にはならないが。
「やることは、バーへの潜入……でいいんですよね?」
「そうだ。私達2人で一般の客として入店し、薬物のオーダー方法を探る」
「オーダー方法?」
「先行調査の結果、薬物を購入する客はメニューにないカクテルを注文しているらしい。それも毎回異なるオーダーだ。どうやってそのオーダーを知り得ているのか、把握できんことには話が進まないだろう?」
「事前に、そのオーダーを知らされて店に来ているのでは?」
「可能性はあるが、その店に通じるインターネット上の情報はキャッチできなかった。ただ、近頃は需要を検知して出現する闇板なんて超常技術も出回っているらしいし、断言はできんな」
「そうですか……」
彼女はやや眉間に皺を寄せる。考えてみれば、彼女たちは入職するまでの保護期間、財団の管理領域内を生活拠点としている都合上、バーなんてものとはおおよそ無縁な生活を送ってきたことだろう。酒が飲める場所など鳥貴族か餃子の王将が関の山だ。ともすれば、はじめてのバーがこんな形になってしまったのは些か不本意かもしれない。
「あー、まあなんだ、ちゃんとしたバーには別口で連れて行こう」
「そういう話ではないのですが……まあ、いいです。実行はいつですか?」
「早速、今夜だ。それで、服装なんだが……」
4. フロマージュ
[2022/04/06 21:43 呉服町通]
愛知県は名古屋市、栄三丁目パチ屋街から錦三丁目風俗街へと続く、通称"プリンセス大通り"は、絵に描いたような繁華街で。時折店先に投げ出されている生ゴミの袋から漂う悪臭と、パチ屋の外で潰れている浮浪者とで、この街がなぜ周辺の再開発から取り残されているのかがよく解る。結局のところ、この街の住人たちがそれを望んでいないのだろう。白河の清きに魚も何とやら。
「……なるほど、確かに、私の体臭ならこれが一番しっくりくるでしょうね」
「言い方が悪いが……そうだな」
モノトーンのミニワンピ、黒マスクに魔改造コンバース……豆木はいわゆる"地雷系"と呼ばれるファッションに身を包んでいた。彼女の芳香や桃髪との整合性を付ける手っ取り早い方法であることは確かだが、驚くべきはこれが財団の装備基準を満たしているという事だ。服飾技師は暇なのか?
「私の服装はまあ、いいです。納得しますよ。それで、貴方の服装は一体……?」
「あー、これは……」
意識しないように意識していた話題を突かれ、苦笑で濁す。彼女の隣で私はチャイナ風カジュアルを身に纏っていた。日本人にも中国人にも煙たがられるそのファッションに、とどめを刺すような丸グラサン。胡散臭さの権化のようなその服装は、彼女に負けず劣らず異質だ。
「そういう趣味なんですか?」
「そんなわけがないだろう。君の服を取りに行ったら、押し付けられたんだ。"横をスーツで歩いてた方が浮きますよ"って具合でな」
「……暇なんですか?服飾技師の方って」
錦通りを横断し、より治安の悪いエリアへと踏み入ってまもなく、目的地が見えてくる。そこらのビルと間違えて入りそうな無個性極まりない雑居ビルに立ち入り、そのまま地下へ。テクスチャを貼り付けただけのアンティーク風ドアを押し開けると、思いのほかご機嫌な音楽が充満していた。客層は前情報通り2,30代が多く、軽食をとっている客も散見されるのを見るに、どちらかと言えばバーよりもパブの方が近そうだ。
「随分と……こう、ごちゃついてますね」
「まあ、若者向けのカジュアルな価格帯の店はこんなものだな。ひとまず適当に注文しよう。観察はそれからだ」
テーブル席に案内されたのち、メニューを二種類手渡される。ドリンクメニューとフードメニュー、先にフードメニューを手に取って眺め始めた豆木を前に、"先に飲むものを決めろ"と窘めるも、"任せます"と一蹴されてしまった。
2人揃ってメニューと睨めっこでは格好がつかないので、カウンターに目を遣り、適当に豆木ぐらいの歳の女が飲みそうなものを注文することにした。
「オールド……いや、チャイナブルーにしておこう。こっちにはスプモーニを」
「あと、フライドポテトとチーズボム」
一瞬、自分の酒をいつも通りのノリで注文しそうになり、己が衣装を思い出して注文を改める。正解は判らないが、バーボンに角砂糖を沈めるような柄じゃないのは確かだ。
「……チーズボム?」
「あれです」
店員が去ったのちに豆木が他所のテーブルを指さす。そこにはきつね色をした球体をフォークでつついて砕き、その中からチーズが溢れるさまを撮影している若者の姿があった。
「ここの看板商品のようです、これ目当てで来ている人も多いかと」
「ふむ……単にカモフラージュでバーが存在しているものだと思っていたが、きちんと集客に力を入れているみたいだな。しかも若年層がターゲットか」
思えば、これまでに捕捉した人物は軒並み2,30代だった。"挙動不審の人物が入店する様子"が確認されている以上、事前情報をもとにこの店を訪れているものかと思っていだが、若しかしたらそれに加え、何らかの形の"セールス"がこの場で行われているのかもしれない。
「しかし、これだけガチャついた店で良かったな。思いのほか馴染んでいるぞ、私達」
「あまり、嬉しくありませんが。任務に影響を及ぼさないのは──」
「ねぇ、なんかニオわない?キッツい香水の匂い……」
「だね~、勘弁して欲しいよね。ここは日本だっつの」
「……どうやら、あまり馴染めてもいないようですね」
遠くの席から聞こえてきた言葉に、豆木は顔色を変えず淡々と反応する。他人に不意にコンプレックスを刺激された𝕖が取りがちな対応だ。彼らは激情的になることに疲弊し、大人になっていく。彼女は恐らく、それでいいと思っているのだろう。だが、異常性となあなあで付き合っていった𝕖が望ましい結末を迎える事は、生憎と少ない。
𝕖には、明確なブレイクスルーが必要だ。もっとも、これは克服と訳すより、納得と訳すべきだが。
「心配いらない。映え目当てだろうと、こんな場所に足を踏み入れる時点である程度ネジは外れた連中だ。他人をとやかく言える義理はないし、とやかく言うのを抑えられない程度の連中だ」
「随分な言いようですね。私の目には、普通の人間に見えますが」
「そう、普通の人間だ。わざわざ言葉にして謗られる筋合いはない人間だろう」
「はあ……」
「だがな、人は言葉に出さないだけで、普通の人間に当然のように偏見を浴びせている。さっき私が口にしたことは本当にそう思ったことだし、君も私に、少なからず偏見……ないしは軽蔑を抱いている。そうだろう?」
私達の前にチーズのイラストが描かれたコースターが敷かれ、そこにコリンズグラスとタンブラーが置かれる。そそられない青色をしたそれに、一先ず口をつける──甘い。バーボンとは違う、よりジュースじみた甘さだ。
「ええ。当然のようにずけずけとデリケートな話題に踏み入って来て、説教を垂れる貴方に向ける感情は、偏見ではない根拠ある軽蔑ですね」
「だろうよ、解ってやっている。これまでも再三聞かされたことだろうが、改めて言おう。仮にその異常性がなくとも、君は他の偏見に曝されていた。それはもう、人間に産まれた宿命だ」
私とて、この説教が直接的に豆木の蟠りを解せるとは思っていない。だが、多少強引にでも刺激をしなければ、糸口も掴めないのだ。コンプレックスと一括りに言っても、彼女が何を深刻に捉えているのか。体臭そのものか、それによる他人の視線か、或いは𝕖という特別扱いか。まずはそこを暴く必要がある。
「……知ってます、それくらい。気にしてないので、別に」
彼女はドリンクメニューに目を落とす。既にドリンクは来ている、それを見る必要がないのに意識をそちらに向けるというのはつまり、私への拒絶を意味している。今日はこれ以上踏み込むことは出来なさそうだ。
「何か、面白いメニューでも見つけたか?」
「…………いえ、特に」
少し長い沈黙ののち、淡泊な回答が返ってくる。メニューをそれなりに注視していたように見えたが、覗き込むような真似はおそらく悪手だろう。彼女は私がメニュー表に関心を持ったならばとパタンと閉じて、タンブラーをぐいっと傾ける。勢い任せの、20代らしい飲み方だ。
「……苦い」
「カンパリは女向けの酒とよく言われるが、実際のところ薬草酒だからな。甘い酒が飲みたければ、次からはファジーネーブル辺りにしておけばいい」
「色々、言いたいことはありますが……はぁ」
古典的な性バイアスを晒すのも中々心苦しいが、こっちは私の演じている異常性の辻褄合わせだ。"異常性により老害にさせられた"設定をこのタイミングで押し出すことで、道化としての仲間意識を誘発する試みでもある。それがいい方に影響する保証はないが、試すに越したことは無い。彼女はというと、言いたいことを押し込めるかのようにネグローニを流し込んだ。先ほどから随分かっ飛ばしているが、任務だという事を忘れていやしないだろうか。
「おっと、見てみろ、あの客。カウンターの奥から2番目の奴だ」
「はい……?」
私が小さく指さす先には、挙動不審にきょろきょろと辺りを見渡している20半ばに見える男の姿が。ドリンクメニューを何度も確認し、それからバーテンを呼びつけ……
「ええと……ヴィブラートを、ジェット27からマント・パスティーユに替えてください。それから、オリーブ、ブラックオリーブを、お願いします……」
男はたどたどしいオーダーを通すと、バーテンは何かを男に小声で返した。
「"トイレに入れ"、そう指示されるらしいが……おお、席を立ったな。黒らしい。しかし全く聞いたことのないカクテルだな、ミントリキュールが入ってるという事は、あまり私好みではなさそうだが……豆木、トイレを待つフリして様子を見てきてくれ」
「……」
「……豆木?」
トイレに消えていった男から、返事をしない彼女へ視線を戻す。……真っ赤に蒼ざめた彼女が、苦悶の表情を浮かべ私を睨みつけていた。
5. チェイサー
[2022/04/12 22:18 呉服町通, 路地裏]
「うげぼっ、おえぇ……」
「もう少し静かに吐け、人目を引いたらどうする」
豆木は私が手渡した水を、ペットボトルを軋ませながら握りしめる。それを口に運ぶより先に、胃の中を空にする必要がありそうだ。
「おぶっ……大丈夫、です……」
「日本語を学び直すのと、強がらずさっさと吐き切るのと好きな方を選ぶといい。全く……酒が弱いならなぜ最初からそう言わない?」
組織人らしからぬ報連相の欠如に呆れ返る私をよそに、豆木はある程度落ち着いたのか、手首で口元を拭い、軟水を流し込む。口の端からつうと垂れるのも構わず、半分ほどを飲み下した。それから忙しなく、再び口元を拭う。
「……与えられた仕事、ですから」
「そういう問題じゃないだろう、私は──」
「そういう……話、です……私が、この仕事を引き受けなければ、貴方は他のエージェントに仕事を振るか、あるいは一人でどうにかする。何れにせよ、問題なく仕事を終える。終えてしまう」
「……ふむ」
「ただでさえ、私は𝕖なんです。私の代わりが幾らでも居るんじゃない、私が代わりでしかないんです。𝕖だから雇ってもらえている、そんな現状に甘えたら……私はもはや、一人の財団職員ですらなくなってしまう。ただのお荷物だ」
"評価がマイナスからスタートしている"という思い込みは、𝕖が陥りがちな典型的な思考回路のひとつだが──彼女の場合は、恐らく。
「私は、ただ一人の職員として評価されることを諦めたりしない。……兄さんとは、違うんです」
「やはり、彼か」
「……知っているんですか?」
「ああ、よく知っているさ。……彼は、稔みのるは私の直属の部下だった」
豆木 稔。2017年入職の𝕖であり──私が、新𝕖導から離れる原因となった男だ。
「ああ、なるほど……だから、私と組まされたんですか。私が、兄さんみたいにならないよう、手綱を握るために。それとも罪滅ぼしですか?」
「それは違うぞ豆木──」
「なんでもいいです。何れにせよ、最初から私は特別扱いされてたってことでしょうし。勿論、悪い意味で」
「悲観的に捉え過ぎだ、私と君の間に警戒は必要ない」
「よく言いますよ、コレだってそうだ。私が──あの兄さんの妹が、こうやって独りよがりに先走って、吐き散らすのも想定してたんでしょう?じゃなきゃ、その小さな荷物から狙いすましたようにペットボトルが出てくる訳がないです。兄さんも弱かったんじゃないですか?知りませんけど」
それに関しては邪推でしかないのだが──こればかり否定しても仕方ない。思っていた形ではなかったが、感情の吐露を引き出せている以上、それを遮る事はしないに限る。
「君は、彼についてどれほど知っている?」
「兄さんが、離反者だという事だけです」
「君はさっき、"一人の職員として評価されることを諦めない"ことを、稔とは違って、と表現していたが、その意図を聞いてもいいかな?」
「……兄さんは、施設を出ていく時に私に言ったんです。"僕が異常かどうかなんて関係ない。人として活躍してくる"って。でも結局、兄さんは居なくなって──財団の敵になった。これを、志を諦めたと言わず何なんですか」
どうやら、彼女は稔が財団で活躍できないまま挫折し、逃げ出したものだと認識しているらしい。確かに稔が離反するまでの経緯の大半は秘匿されており、公開領域だけではそう推測してしまうのも無理がないかもしれない。だが──
「……彼は、人間の異常性を"治療"する方法を研究していた」
「治療……?異常性の除去という事ですか?とても、異常の保護とはかけ離れたことのように思えますが」
「勿論、それを収容に役立てようという話ではない。あくまでも、彼や、君や、そして私のような、職員でありながら、鼻つまみにされる者たちや──これ以上の研究は必要ない、あまり役に立ちそうにない異常性にも関わらず、自由を奪われたままの施設居住者たち。そういった者たちを治療することを目標としていた」
実際、彼の研究は財団において異色のものであった事は確かだ。一昔前なら決して受け入れられなかった研究だろう。しかし、こと現代の、特にあの変人の管轄下で、彼が異端者として除け者にされることは無かった。それに、そういった研究が認められていた背景には、彼の研究者としての確かな活躍があってこそだった。
「だから、それに挫折したんでしょう?」
「人は、現代の科学を獲得するより前、物が燃えるのは火の元素があるからだと考えた」
「……何の話ですか?」
「結局、それは誤りだったが──異常科学においては、きわめてそれに近しい結論が導かれてしまった。物体が異常性を獲得するのは、保存則の働く異常性の"素"が存在するためだと判ったのだ。陳腐な言葉を用いるなら魔力とでも言おうか」
「わかるように説明してください」
「物体から異常性が失われる事が、新たに何らかの異常を生み出す事でしかないと判ったのだよ。これは専門用語で転生現象と名付けられた。そして財団は、それを治療とは呼ばなかった。むしろ、収容違反とさえ言い換えられる。この事実を見つけたのは、他でもない君の兄だった。彼は、治療法を探す過程で、それが治療ではないことを知ってしまったんだ」
「……なるほど」
「彼は諦めなかった。自身が発見した仮説が、真ではないと証明するべく、むしろより深く研究にのめり込んだ。しかしその足掻きは結局、彼の仮説を、事実に押し上げるだけだった。結果、"治療"研究は凍結。彼は自身の発見を足掛かりとする、新たな収容技術の開発へと転向させられた」
「そのせいで兄さんは、財団を抜け出したんですか」
私はひとつ頷き、一昔前の携帯電話程度の大きさの機械を取り出す。
「そうだ。彼の技術は、もはや己を異常とすら認知していなかった者たちの日常すらも奪う羽目になった。そんな、彼の理想と正反対に位置する結末に、彼は耐えられなかった。彼は無力故に逃げ出したんじゃない。現実が、彼を余りにも強く拒絶したのだよ」
機械のディスプレイには、異常存在の接近を示す警告表示が忙しなく点滅していた。ここ1,2年でFAの標準装備となった探知機であり、彼の技術が生み出してしまった呪物とも言えよう。
「それでも……だとしても、私が焦らない理由にはなりません。人よりハンデを背負っていることに、変わりはないんですから」
「焦りだという自覚はあるんだな」
「そこまで、盲目ではありません」
「なら、君の兄が狂気的な努力の末に沈没した事にも気付くんだな。逃げ場のない尽力は身を亡ぼすぞ」
「……」
矢継ぎ早に反論を続けていた彼女が、ついに沈黙する。そろそろ頃合いだろう。
「兎に角、次はノンアルコールにしておけ。出来ない事を出来ないと言うのも仕事だ」
「……そう言う他ないんでしょうね。私を任務から外せないんでしょうし」
彼女は捨て台詞を吐き捨て、群がってきた羽虫を煩うように早足で路地裏を抜け出す。どのみち、今日はもう帰るだけだ。ある程度彼女が遠ざかってから、私もこの場を後にした。
「先生はそう言うしかないでしょうね!僕を辞めさせる訳にはいかないでしょうから!」
「全く……手厳しいな、誰も彼も」
6. アペリティフ
アイロンに当てた髪が、鬱陶しい芳香を充満させる。それに無感情になって久しいが、今朝に限ってはやけに恨めしい。昨日の今日では仕方ない事だが。
「異常性の治療、か……」
兄さんのやろうとしていた事は、私の想像のずっと外側にあって、そして余りにも壮大だった。兄さんは、力及ばず挫折した腰抜けなんかじゃなくて、ただ本当に、不幸なだけだった。そうだと判って、ほんの少しでも報われた気がした。そのはずなのに。
「兄さんみたいにはならない、なんて息巻いてたのに……馬鹿みたい」
𝕖としてのハンディキャップをものともせずに無二の成果を出した兄さんと、並の任務すら満足に遂行できない私。その埋めがたい乖離を前にした絶望が、僅かばかりの安堵を遥かに上回っていた。
私の幼稚なモチベーションはそもそも前提から履き違えていた。ましてや私が足掻くまでもなく、𝕖の立ち位置はとっくに改善されていて。"一人の人間としての評価"は、勝ち取るものではなく与えられるものになっていた。それは良い事に違いないのに、納得できない私が居た。
兄さんは努力し尽くしたのに爪弾きにされた。なのに初任務から散々な私は、さも当然のように丁重に扱われている。私が誰で、どんな実力を持っているかなんて関係ないのだろう。
「『昨日の酒は残ってないか?厳しいようなら今日の打ち合わせはオンラインで構わない』ね……やっぱり舐められてるのかな、私」
SMSで届いたそれを端的に返し、溜息と共に閉じる。頭ではわかっているのだ、この現状は想像していた扱いに比べればずっとマシで、あの説教臭い男も、可能な限り次善策を択んでいるという事を。なのに、どうしても……気に喰わない。
「"出来ない"なんて、言えるわけないじゃん」
服飾部門から借りた化粧ポーチを開く。この思いを理解されようなんて思わない。でも、ただ押し殺してて堪るものか。
[2022/04/07 22:02 呉服町通]
「おひとりですね、カウンターへどうぞ」
私が案内された席は、奇しくも昨日見た例の男が座っていた席だった。いや、或いは偶然ではないのかもしれない。仮に私が昨日も店に来た事をこの店が把握しているなら、むしろ翌日改めて独りで来た私は"いかにもなお客様"だろう。
私はフードメニューに目もくれず、ドリンクメニューを捲っていく。確か、3ページ目に──
"あなたの奇病、ご相談ください。"
"ボール・パーク (トニック変更)"
"ホットナチョス (ハーフサイズ)"
"カウンター席にてご注文ください"
あった、これだ。恐らく、普通の人間には見えてない……のだろう。何なら疑問を持たせないミーム処置が施してあるかもしれない、対抗ミームを摂取しているので判断はつきがたいが。そういう技術があることは、私も知っている。"ご相談"がどんなものか、想像はつかないが、私達の調査対象が"何も起こらない薬"であることを併せて考えると……おおよそ、全体像は見えてくる。
バーテンの視線を感じる。昨日はこうも意識を向けられた覚えはない、私が異常性を持っていることを察しているのだろう。もはやここで引き返す方が怪しいというものだ。
「ボールパークをトニックウォーターに変えてください。あと、ホットナチョスを……ハーフで」
「かしこまりました。お手洗いはあちらにございます」
「……なるほど、ありがとうございます」
バーテンはさして驚く様子もなく、私をトイレへと誘導する。大人しく従ってトイレに入ると、入った方と反対側にも扉がついている。古い建物にたまにある、従業員が反対側からも入ってこれる個室だ。"使用中は両方のカギをかけてください"という注意書きを無視して、従業員側の扉の鍵を開けたままにしておくと、まもなく扉が開かれた。
ここまで独断専行しておいて、ようやく私の中に躊躇いが生まれる。今更迷っても仕方ないのは解っているのに、いざ懐へ潜り込むとなると冷静になってしまう。アドレナリンが切れていくのを感じる……こんな事なら、ひと口ぐらい飲んでおけばよかった。
「こちらへどうぞ、足元に気を付けて」
如何にもなスーツを着た男が扉の向こうから私を出迎えた。堅気じゃない雰囲気を敢えて出すことで逃げられなくするのはこの手の連中の常套手段らしい。私はそれに、ちゃんと面食らった風にたじろいで、トイレを出る。店内と違い、まるっきり無骨な廊下を進むと、応接室らしき場所に通された。監視カメラが2台、机の下と観葉植物の中に隠されている。今更顔を隠す理由はないが、画角的にスカートの中も映り込みそうなのが癪なので、さりげなくバッグで机の下のカメラは遮っておく。
「ようこそ、お越しくださいました。ワタクシ、責任者の木下と申します。お名前を伺っても?」
「……青山ハル、です」
「青山様ですね、よろしくお願いいたします。早速本題に入りましょう。貴女は、どのような奇病をお持ちなのですか?」
木下と名乗ったロン毛の男は、挨拶もそこそこに話を進める。奇病。表現として不自然ではないが、異常性呼びに慣れているせいで、真顔でそう語られると中々にシュールだ。
「この体臭です。バニラを煮詰めたような、この匂い」
「なるほど、生まれた時からお持ちで?」
「はい……病院に掛かったことは無いのですが」
木下の髪に隠れた耳に、肌色のイヤホンが着けられているのが見える。リアルタイムで連絡を取っているのだろう、あまり適当な事は言えなさそうだ。
「ふむ……貴女は、その奇病をどうしたいとお考えですか?」
「……」
どうしたい。私はこの異常性をどうしたいのだろうか。活かそうとしたことはあったし、とうに諦めた。もはや過剰に反応する事もないが、憎たらしいのも確かだ。しかし、この異常性を仮に"治療"できたとして、それで私に巣食った蟠りは消えてなくなるのか?
兄さんに届かず、人並みも満たせない私が、今更異常から解放されたとして、それは解決を意味するのか?
「……青山様?」
「あ、ええと……私は、この匂いを無くしたいです」
いずれにせよ、模範解答はこれしかない。私の意志がどうではなく、"異常性に悩まされる一般人"の回答だ。
「なるほど。でしたら、ワタクシ共は貴女のお力になることができます」
木下はにったりと口角を吊り上げ、飾り棚から遮光瓶を手に取った。中に錠剤が入っているのが見える。
「それは……?」
「治療薬です、あなたの奇病を取り除くための。継続して飲み続ける必要もありません、この場でお飲み頂ければ、貴女は明日にも普通の日常を手に入れます」
「彼は、人間の異常性を"治療"する方法を研究していた」
「……なるほど」
否が応でも、昨日の会話を思い出してしまう。異常性の治療、その考えに至ること自体は平凡なものだろう。しかし、本当にそれを完成させた人間が居るのだとしたら……それは兄さんであって欲しかった。
「もちろん、お薬代は頂戴いたしますが……後悔はさせませんよ。ワタクシ共は既に、多くの患者様にお力添えさせて頂いております」
木下は請求書を見せる。概ねフルアルバム10枚分、人生を買うには安すぎるぐらいだ。しかし異常技術が案外呆気ない金額で成立してしまう事もまた、事実だ。
「……考えさせてください。また来ます」
当然、財団職員としては飲むわけにいかない。だが……私は、本当にそれでいいのか。喧噪もピークを過ぎた夜の街を抜けるまでに、その結論が出ることはなかった。
7. アリス・クイーン
[2022/04/08 14:24 サイト-8165, 二類診察室]
「では、これが来週分の安定剤です。飲み方は憶えてますか?」
「朝食後に1錠と就寝前に2錠、でしたよね。少しややこしいので、かえって憶えてました」
異常性の治療は行われない。それはこれからも変わりない事なのだろうが、兄さんの爪痕は確かにそこにあった。
異常性の変質の予防を謳う糖衣錠。私はこれを、この組織に古くから当たり前にあったものだと考えていた。目の前の薬剤師もこれを特別視しているようには見えないし、他の𝕖たちも何の疑問もなくこれを飲むことを日常としていた。だが──
「その通りです。ですけど、これでも簡単になったんですよ?昔は注射だったんですから」
「昔っていうと……」
「4年くらい前だったかしらね。研究職の人が、異常性をもつ人たちの、汎用的な性質を突き止めたとかで。それまでの──正直、眉唾な──注射とは全く異なる、新しい安定剤が開発されたの。実際に皆さんの手に渡るようになったのは2年前だったかしら」
──時期からすれば、兄さんが件の研究を行っていた時期と完全に一致する。そして何より、研究内容も。兄さんが直接的に薬を完成させたわけじゃないにしても、そのきっかけとなっているのは明らかだった。
「……この薬、本当に効果はあるんですか?」
「どうかしらね。そもそも、異常性の変質が頻繁に起こることではないから」
「そう、ですか」
「と、答えるのは薬剤師としてはNGなんですけどね。でも実際、何か事件が起こるまでは、効果がなかったとも判らないですし」
「……なるほど」
兄さんが残した爪痕は決して浅くない。しかし、それが財団に、あるいは異常性を持つ人々にどんな影響をもたらしたのか、その全容はまだ見えてこない。少なくとも、多くの人々の日常を奪ったのは確かだが──それでも、行動に起こさなければ何も起こりえなかったのも事実だろう。
「とにかく、飲み続けてください。飲まないよりはマシでしょうから」
「わかりました……ありがとうございます」
私には、私がどうしたいのか、どうなりたいのか、あるいはどうなれるのか、何も説明できない。だからまずは、あの説教臭い男を利用させて貰うことにした。
[2022/04/08 17:03 サイト-8165, 個人執務室203]
「お時間良いですか、鳴瀬博士」
「ああ、ちょうどいい所に。私も用があったんだ」
このサイトで、目の前の男はそれなりな役職のはずだが、それにしては個室が狭すぎる。立地の限られたサイトな以上ある程度は理解できるが、それに加えて物が取っ散らかりすぎだ。この部屋に来るたび、私の臭いが逃げ場を無くして忽ちに濃くなっていくのを感じる。
そんな部屋の中でも構わず淡々と作業に耽っていた男が、私の入室に気付いて顔を上げた。椅子から立ち上がり、よろよろと足元の障害物を避けながら歩み寄ってくる。
「少しは整理したらどうですか?これでは、どこに何があるか判りませんよ」
「必要だからこうしてるんだ。それに、物の場所はきちんと把握してるとも」
「何の必要があると言うんですか……って、こんな蹴飛ばすような位置に拳銃を置かないでくださいよ。というか何ですかこれ、うちの標準装備じゃありませんよね?」
「H&K P11、西ドイツの開発した銃だな。ラボでしか再装填出来ない代物だが、まあ私には必要なんだ」
ラバーで表面を覆われたその奇妙な拳銃を鳴瀬に手渡すと、そのまま壁のラックに掛けた。流石にこれは床に置いておくべきものではなかったらしい。
「それで、用件というのは?」
「いえ、先に博士からどうぞ」
「構わんさ、どうせ同じ用だからな。話したい事があるんだろう?相応しい場所で話そうか」
[2022/04/08 20:11 市内某所]
8165職場のあるオフィス街からそう歩かない、コンクリート造の建物。あまり年季を感じない2階建てのそれは、昨今の再開発によって増えたシンプル・イズ・ベストの暴走だ。馴染みのない名前のテナントが並ぶその小型商業施設の2階、一番奥の店が目的地らしい。
鳴瀬に続いて店に入ると、ダークブラウンで統一された内装のカウンターバーが私達を出迎えた。落ち着いた店内で、照明付きの飾り棚に飾られた酒瓶が色とりどりの光を纏っている。ごちゃごちゃとやかましいだけの例の潜入先とは大違いだ。
「最近見つけたんだ。料理の種類は少ないが、酒は広く取り揃えてある。とりわけ、カクテルなら作れないのは無いんじゃないかという拘りようだ。後は高価格帯にも力を入れてくれるとベストなんだが……まあ、高い酒はまた他所に連れて行くさ」
「はあ……」
この男は、私が酒に弱い事を忘れてしまったのだろうか?わざわざ相応しい場所と銘打ってここに連れてきたのだ、ともすれば嫌がらせの可能性すら疑ってしまう。鳴瀬という男が説教臭くて鬱陶しい人間である事はこの数日で十分理解できたが、それと同時に外すべきでない常識を外す人間でもない事はある程度信頼できるため、何かしらの意図はあるのだろうが。
「お好きな席にどうぞ」
「じゃあ、奥に失礼するよ」
鳴瀬はそのままカウンターを素通りして、L字の店内の奥に用意されたローテーブル席のシングルソファに座る。まもなくウェイターがメニューを持ってきたが、鳴瀬はそれを見る事なく勝手にオーダーを通した。
「アリス・クイーンとロシアン・コーヒーを。ツマミは……何かオススメはあるかね?」
「最近入ったものだと、クリームチーズの燻製などは如何でしょうか」
「じゃあ、それにしよう」
選ばせてくれてもいいものだが……まあ、適当にノンアルコールでも注文してくれたのだろうか。さておきウェイターがカウンターへ戻っていくのを見届け、鳴瀬は話題を切り出した。
「さて、本題に入ろうか」
「……私からでいいんですか?」
「君からもなにも、私は君の話を聞きに来たのだから」
普通のスーツ姿でも十分胡散臭い男だが、その視線は真っ直ぐ私を捉えている。その眼差しが急かす事はないが、逃げ場も残してはくれないようだ。
「私は……相談をしに来ました」
「ふむ、相談ね」
概ね想定内といった反応か。気にせず続けろと言われている気がする。
「なんというか……私はどうも、目的を見失っているみたいで」
「目的?」
「はい。私が財団に入るのを決めたのは、兄さんの脱走がきっかけだというのは知ってますね?」
「まあ、語り口からしてそうだろうなとは、流石に理解しているよ」
「それはきっかけでもあり、目的でもありました。私は実際に配属されるまで、兄さんが、𝕖であるが故に真っ当な評価を受けられずに爪弾きにされたと思っていたんです」
「妥当な推測だ。そう飛躍した発想ではないな」
「だから、私は兄さんを追いやったそれを、財団の構造そのものを変えたいって、そう志して財団に入ったんです。𝕖というディスアドバンテージも吹き飛ばすくらい評価されて、除け者にしてきた連中を黙らせてやろうと、そう思って」
「……ほう」
鳴瀬がにわかに身を乗り出す。それが無意識の仕草だったのか、私の言葉を止めたのに気づくと間を繋ぐように合いの手を入れてきた。
「でも、実際にはそんな現状はなかったと」
「……はい。情けない兄さんの姿も、私達を虐げうる組織構造も、私の妄想に過ぎなかった。こんな志さえなければ、息苦しさなんて感じずに済むだろう環境でした。だから、後には空っぽの志を抱えた、ろくに並の仕事も熟せない私が残されてしまいました」
「……なるほど。なるほどな」
鳴瀬は、勝手に納得したように何度か頷き、そしてソファに深く腰掛け直した。
「やはり、君たちは兄妹だな。よく似てるよ」
「どういう、意味ですか?」
「君の兄も、ここに入ってすぐの頃は語ってたのさ。"誰しもが同じ人間として活躍できる組織にしたい"ってね。彼は君と違って、財団の現状を理解していたが、それでもなおこう語っていた。結果は前に話した通りだがね」
「……」
「なに、それを悪い事とは言わんさ。むしろ、強く肯定するとも」
おべっかを並べているようには見えないが、表現がややオーバーに聞こえる。
「強く肯定、ですか」
「ああ。私は、変化は如何なる物事よりも優先されるべきだと考えている。流れを喪った川を待つのは、例外なく腐敗と枯渇だけだ。我々が百年先も在り続けるただ一つの方法が、変化し続ける事なのだよ」
「変化……」
「そうだ。時代は絶えず移ろうのに、私達が変わらなくていい道理がどこにある?」
「なる……ほど」
鳴瀬は至って真面目に言ってのける。この男、筋金入りのリベラルらしい。うちの管理官がそうという話は聞いていたが、その管理官に気に入られているこの男もそれに同じという事か。ともあれ、好感を抱かれた事に違いはないらしい。
「だがな、変化が常に良い結果をもたらすと信じてはいけない。それは、望まない結末を迎えた時、それを受け入れる事を困難にする」
「……!」
「現実が、彼を余りにも強く拒絶したのだよ」
あの日の夜に、鳴瀬から語られた言葉が呼び起こされる。つまり──
「兄さんは、自分の正しさを信じ過ぎて、望まない変化に押し潰された。そういうことですか」
「そうだ。人は変化の全てを制御できない。闇雲に変化をもたらすべきでは無いのだよ。私は、財団が未来にも存在する為に。君は……君の兄の名誉の為か、あるいは自分自身の居場所の為か。君にしか分からないことだが、ともあれ、目的を持って、変化をもたらさんとした。それは間違いではないし──その目的が消滅したのなら、無理に変化を求める必要もないだろう。そのエネルギーは、新たな目標に取っておくといい。ま、目標なんてすぐに見つかるさ、君には停滞を許さない素質があるからな」
つまりこの男は、いま私が志を持つ必要は無いと言っているのだろうか。しかし、それでは──
「でも……それじゃあ、人並みの仕事も出来ない私はどうすればいいんですか?」
「ふむ……ところで、豆木君。こないだ行ったバーは、監視カメラが幾つ設置されていた?」
「はい?なんで今、そんな話を……」
「いいから」
一瞬、私が独断専行したのがバレたのかと思い、ぎょっとしたが……冷静に考えて、鳴瀬と一緒に行ったときの事を指しているのだろう。だから、店の表向きのエリアの話をすればいいだろう。
「……店に入るまでに通常のが1つと隠しカメラが1つ、店内はカウンター席を映した隠しカメラが2つありました」
「全部、君が確認したのかい」
「ええ、まあ、目についたんで」
「……やはり、聞いていた評価通りだね。君、どこが人並み以下なんだい?」
「はい……?」
「いいか?普通の人間は店に入って軽く見回したぐらいで、隠しカメラなんて見つけられないんだよ。そもそも君、資料を見る限り、研修時代の身体能力試験でも上から数えた方がずいぶん早いじゃないか。自分では己の異常性にコンプレックスが無いかのように感じているかもしれないが、実際のところはコンプレックスのせいで正常な自己評価が出来なくなっているぞ。傍から見たら、十分な努力と実力が地盤にあるくせに卑下ばっかり上手い嫌味な偏屈ヤローだ」
うまく反論が口をついて出てこない私に、鳴瀬は容赦なく畳みかけてくる。
「君は私が君を稔の妹としか見ていないと思っているんだろう。確かに、君に彼の面影を感じている事を否定はしないさ。だがな、私は間違いなく、君を一人の職員として必要だと認めて傍に置いているのだよ。君の、まだ多くが語られている訳ではない人事ファイルを見て、その少ない情報の中でも、十分に見込みがあると思って君を身辺警護に選んだんだ」
「でも……でも、先日の私の失態が無かったことになる訳では──」
鳴瀬が不意に自身の口元に人指し指を立てる。鳴瀬から見て正面、私の背後からウェイターが酒を持ってきたところだった。
「ありがとう、ロシアンコーヒーが私だ」
「では、ごゆっくり」
アリス・クイーンとか言っていたか。私の前に置かれたサワーグラスには、菫色の液体と、厚い泡の層。その上にレモンスライスとチェリーが飾りに添えられている。甘い香りと共に、確かにアルコールが漂ってくる。
「これって……」
「酒だ。飾りガーニッシュはどかせばいい」
「いや、でも……」
「無理なら一口飲んで止めればいい。一気に飲むなよ」
場所が違えばアルハラど真ん中だが、何の思惑もなく強いているとも思えない。かくいう鳴瀬の視線も些か緊張気味に感じる中、恐る恐る口をつけ、グラスを傾ける……
「……あれ?飲める……」
「ふふ、だろう?」
甘味と酸味の奥に、僅かにアルコールを感じるが、先日のような悪寒は襲ってこない。度数が低かったりするのだろうか?
「ちなみに、こないだ飲ませたスプモーニよりも度数は高いぞ」
「え……」
「卵白だ、このカクテルには卵白が入っている。卵白はアルコールのアルコールらしさを打ち消して、悪酔いを防いでくれる。まあ、アルコールが消える訳じゃないから、うかつに飲み過ぎるなよ」
「……なるほど」
「まあ、なんだ。あんだけこっぴどく失敗したなら、焦る気持ちはわかる。君の歳なら、余計にな。だがな、ガキの背伸びに付き合ってやるのも私の仕事なのだよ。あの程度の失敗がなんだ、無かったことにする気なんて毛頭ないとも。より利口な背伸びの仕方を教えてやるから、構わず職務を全うしてくれ給えよ」
「でも……わざわざ私を使わなければ、もっと楽が出来たのは確かじゃないですか」
私の反論に対し、鳴瀬は自身の手にしているグラスを私の前にずいっと突き出した。湯気が立っているそれからは、コーヒーの香りと、アルコールの匂い。それから……
「……卵黄?」
「ま、そう言う事さ。私はね、別に完璧な助手を求めている訳じゃないし、君ぐらい、癖がある方がよっぽど性に合っている。喜んで君に合わせてやるさ。改めて明言しておくが、私には君が必要だよ。他に代わりは務まらない」
鳴瀬は恥ずかしげもなく私に上から物を言ってくる。だが、恐らく、こんな高慢ちきなノンデリでも、この男なりの優しさを見せているつもりなのだろう。なら……多少は、鼻につく態度を許してやってもいいかもしれない。
「……ありがとうございます、鳴瀬博士」
「ふふ、構わんよ」
「その……もうひとつ、相談……というか、報告が」
「まあ、だろうね」
だろうね?この男はだろうねと言ったのか?
「昨日、一人分の対抗ミームの摂取履歴があった。申請者は君だった、一人で行ってきたんだろう?聞かせてくれ給えよ、潜入調査の成果を」
「……」
やっぱり、この男には一切の気を許してやらない方がいい気がしてきた。
8. ドライ・デイ
[2022/04/09 10:11 サイト-8165, 第二休憩室]
「なるほど、一歩前進という所かな」
「ああ、向こうから相談を持ち掛けて貰えたのは大きな前進だろうな。それはそれとして、あの独断専行癖はある程度矯正しないとならないが」
翌朝。例の休憩室で伊勢山と落ち合った私は、昨晩の一件を搔い摘んで説明する。一頻り聞き届けた伊勢山は、辛うじて冷え切ってはいない関係値に一先ずの成果を認めた。
「しかし、彼女は気付いていないようだが……それは少しおかしくはないかね」
「そうだな、私も同意見だ。豆木は薬の説明を受け、その場で決断せずに帰ったと言った。だが過去の事例では、取引をしたとみられる連中からは例外なく何も検出されていない。異常性保有者など一人も見つかっていないのだよ」
「彼女の言葉を信じるとすれば、他の人間は全員例外なくその"治療薬"とやらを飲んだという事になるはずだ。だが、彼女のように決断を迷う者、或いは断る者が居てもおかしくはない。そういった者達が確認されていないのはなぜだ?」
加えて言えば、他の連中は例外なく記憶処理を受けていた筈だ。それが彼女だけ何の情報工作も施されずに解放されたというのは、些か説明がつかない。
「……考えつくのは一つだね、鳴瀬君」
「ええ……豆木は、何らかの"特別扱い"を受けている可能性がある」
「そうだね、私も同じ結論に至ったよ」
豆木が、特別扱いを受ける理由。考えられる線はそう幾つもない。何れにせよ──
「はぁ……十中八九誘われてるな」
「だろうね、別の人員に代わらせるかい?」
「いいや、他の連中の方が手ひどく扱われる可能性が高いだろう……最悪、私が対処する」
「それは、"使用許可"の申請と捉えていいかね」
「ああ。豆木は、別に𝕖同士の仲間意識を持つタイプでもなければ、"真っ当に異常"な職員への反感があるタイプでもない。"𝕖職員の鳴瀬博士"の仮面は必要ないだろう」
伊勢山はしばし俯いて考え込み、そして勘定を終えたといった風に視線を合わせ直した。この男がこういうことをしてくるときは大抵、最初から承諾するつもりなのをそれっぽく引き伸ばしているだけだ。あれもこれもホイホイと承諾しては、管理官として示しがつかないのだろう。
「いいだろう、クラスB記憶処理薬による一時的な記憶改竄を許可する。使用形式は溶解錠、使用時間は別途申請すること。いいね?」
「ありがとう、後始末の車はよろしく頼むよ。次は着替えの用意を忘れないでくれ、二人分だぞ」
スカスカのゴミ箱にスチール缶をふたつ放り込み、休憩室を後にする。豆木に次回の潜入の予定を伝え、射撃訓練場に向かうべくエレベーターに乗り込んだ。
9. スノー・スタイル
[2022/04/11 22:31 呉服町通, 路地裏]
「私の正体がバレてる、ですか」
「そうだ。ほぼ間違いない。だからこちらも、相手が"バレてることがバレてる"ことに気付いている想定で用意しているわけだ」
「……ややこしいですね。つまり、武力衝突がありうるってことで良いですか?」
「そう考えてくれて構わない。支援は後方待機しているが、彼らはどちらかと言えば一般客の対処が主目標だ。私達は、私達自身で対処を強いられるものと考えてくれ」
随分な無茶を言ってくれる。武装の如何が判然としていない相手に、生身の──もとい、標準装備の──エージェント1人と非戦闘要員1人で立ち向かわなければならないのだから。
「私達、ですか。例のヘンテコな銃を持ってきたんです?」
「そうだ。まあ、並程度の腕はあるものと思ってくれていい。あと……忘れないうちに」
鳴瀬はそう言って鞄から目薬を取り出し、私に手渡す。その横で、鳴瀬はペットボトルとピルケースを用意していた。
「目薬、ですか?あと、それは……」
「記憶処理薬だ。私の異常性の起動に使う」
「……はい?」
「説明が前後してしまったな。実は私は𝕖じゃないんだ」
「…………はい?」
突然畳みかけられた告白。あたかも最初から今説明するつもりでしたと言わんばかりのそれは、この男の人事ファイルにはこれっぽっちも書かれてはいない事だった。
「年齢の錯誤を起こしているのは、全くのダミーだ。事前に説明しても良かったんだが、今この瞬間にも盗聴されている可能性がある以上、ここが路地裏であれ財団のサイト内であれ話せなかった」
「ちょちょちょ、待ってください。理解が追いつかなくて──」
「詳しい説明は全てが済んでからするさ。今は、向こうさんに聞かれてても問題のない範囲で、君に知っておいてほしい事と、済ませておいてほしい事を伝えるから、集中して聞いてくれ」
「そんな、急に言われても──」
「大丈夫、君は財団のエージェントなんだから。出来るはずだ」
「……」
本当に、ズルい言い方をする。そんな言いぐさをされて、出来ないと言える訳がないだろう。これもある種の信頼なのだろうか、だとしたら憎らしいばかりだ。
「まず、その目薬を点してくれ。君の眼を守る必要がある。次に、君は自分の銃を使えなくなる可能性がある。それを考慮して立ち回ってくれ。最後に、今は……22時34分だな。例のオーダーを通すのは20分後だ、そこから10分きっかりで事が起こる。そのつもりでいてほしい」
鳴瀬は腕時計を確認しながら錠剤を水で流し込んだのち、本当にただ要点だけを私に伝えてきた。それを咀嚼するのに手一杯になっていると、不思議と先程までの──私の正体がバレているという話に由来する──緊張が曖昧になってきた。
「質問は?」
「……させる気もないでしょうに」
「結構。じゃあ、行こうか」
私がありとあらゆる文句を飲み込んだのを、この男はまるで気付いてないかのように飄々と受け流した。財団で生きていくには、これくらい厚かましくならなければならないのだろうか……?
[2022/04/11 22:54 呉服町通]
月曜日の深夜。幾ら治安の悪いエリアかつ若者向けの店と言えど、流石に客足は芳しくなく。私達が店に入って20分が経つころには、他の客がすっかり掃けてしまった。或いは、何らかの工作があって退店が促されたのかもしれない。いずれにせよ、場は整ったと言えるだろう。
「あー、君、いいかね?」
私の隣でカウンター席に座っていた鳴瀬が、バーテンに声をかける。今日のドリンクメニューに書かれていた例の合言葉は、"カルーア・クランベリーをティア・マリアで"だった筈だが──
「奥へどうぞ、鳴瀬様、豆木様」
「……そうかい」
やはり、私達の正体はバレていたようで──それを、隠す気もないようだ。私が青山を名乗った時、彼らはどんな気持ちでそれを聞いていたのだろうか。ともあれ、今度はトイレなど経由せずに、従業員専用口から真っ直ぐと廊下に通された。こんなおいそれとついていっていいものかと鳴瀬に目配せするも、鳴瀬は構わず歩いていく。撃ち殺す気ならとうに殺されている、とでも言いたいのだろう。まもなく、事務所に辿り着き──
「やっぱり、君か」
「待ってましたよ、鳴瀬先生」
「……兄さん」
──そこに待っていたのは、最初から、頭の片隅にはあった可能性の具現化だった。少し強情な癖っ毛の、眉剃りがへたっぴなタレ目。記憶の中の兄さんと、何ら変わりない姿がそこにあった。
「色々と言いたいことはあるが……変わりないか?」
「ええ、見ての通り。五体満足でやらせてもらってますよ」
最初、鳴瀬は立ったまま兄さんの様子を窺っていたが、兄さんが一人掛けソファに腰かけたのを見て、倣うように二人掛けのソファ……の、平坦で幅広な手摺に座り込んだ。私はそれに続けるほど余裕が持てず、ただ所在なく立っているしかできなかった。
「兄さん……兄さんが、あの薬を作ったの?」
「うん。先生も薫かおりから聞きましたか?僕、完成させたんです。治療薬を」
「ふむ。異常性の転生現象はどう解決させたんだ?」
「異常因子を大気中に放出させれば、よほどの密度にならない限りは新たな異常性として発現しない事が判ったんです。元より、オブジェクトの破壊などに起因する異常性の無力化も、同じように自然界に放出される形で起こるのですから。逆に、自己増殖するタイプの異常存在が因子を吸収する事もあります。それを加味すれば、この治療がもたらす大気中の濃度の変動は微々たるものです」
鳴瀬は兄さんの説明を受けて、暫し咀嚼するように視線を伏せる。学のない私には、2人の言っている事はこれぽっちも理解できなかった。
「理論は……通っているな」
「そう、なんですか?」
「ありがとうございます、先生なら理解してくれると思ってましたよ」
「それで?」
「……はい?」
「それで、なんで私達をここへ呼んだ?」
鳴瀬の視線に穏やかさはない。これが感動の再開などではない事をありありと物語っていた。何年も姿を消していた兄さんが目の前に居るというのに、上手く言葉が出てこないのは、この緊張感のせいだろうか。それとも──
「まず第一に、この薬を飲んでほしいんです。僕はもう、異常性から解き放たれました。二度と煩う事はありません。薫や先生にも、同じように不自由ない生活を過ごしてほしいんです」
兄さんは語りながらに例の薬を取り出して、私たちの前に置く。やはり、こうして見る分にはごく在り来たりな錠剤だ。それを言ったら風邪薬も猛毒も、糖衣で包んでしまえば全部同じに見えるのだが。
「……二つ目は?」
「先生たちにも、僕に協力してほしいんです」
「それは……兄さんは、財団を抜けろって言ってるの?」
「そうさ。僕は確かに、研究能力の面では他の人の助けは要らないかもしれない。でも、それ以外のやりくりがどうもヘタクソでね。だから先生に協力してもらえたらとっても助かるんです。薫とも、もう離れ離れにはなりたくないんだ」
「……それが、いかに現実的じゃないかは君が一番理解しているんじゃないか?自分一人が雲隠れするだけでも、相当な綱渡りだったはずだし──何より、私がそれを良しとする訳が無いだろう?」
鳴瀬は、兄さんの突飛な提案にもいつもの調子で突っぱねる。これじゃ、ろくに会話に入れないままソワソワと見守っている私が余りにも馬鹿らしくなってくるじゃないか。
「そう、ですよね。きっとそんな答えが返ってくると思ってました。薫も行かせてはくれませんよね。大丈夫です、覚悟してましたから。でも……一つ目の頼みだけでも、応えてくれませんか」
「財団を抜けなくていいから、異常性の治療はさせてほしい、ってことなの……?」
「うん。薬を飲むだけなら、無理やり飲まされたってことにしてしまえばいいだけだ。あの管理官なら、それだけで残酷な審判を下す事はないでしょう?薫が匂いを煩っているのはずっと見てきたし、先生だって、普通に話せたらきっともっとかっこいいですよ」
兄さんの言葉は、語気こそ強くないが、どことなく焦ってるようにも聞こえてくる。急かしている、と言った方が正しいだろうか。まるで、私たちに、深く考える時間を与えんとしているかのような、そんな雰囲気を覚えるのは気のせいだろうか。
そんな兄さんを前に、鳴瀬はバッグを漁り、探知機を取り出す。そこに表示された異常存在は、私と鳴瀬しかいなかった。確かに、兄さんは異常性を失っているらしい。
「理には適っている……かもな。ただし……その薬が本物なら、の話だがな」
「鳴瀬博士……?」
「先生、何を言ってるんですか?その装置で確かめたんですよね?僕に異常性が無い事を」
「ああ、お前は非異常だ。オリジナルじゃないから、だろうがな」
「……オリジナル?」
「うちで捕まえた他の連中が、なぜ軒並み異常性を持っていなかったのか。異常性を除去するより、もっと簡単な方法がひとつ存在するだろ、ええ?」
鳴瀬は、両手のひらを合わせ、それを離すジェスチャーをする。左手に着けられたピンキーリングが、右手に移ることはない。
「複製クローン。異常性をもつ人間の複製を作っても、異常性は複製されない。お蔭で、この文明は異常性による支配から逃れている。お前もそれを知らない訳ではあるまい?」
「……確かに、それは知ってますけど、でも僕がクローンを作ってるなんて……」
「そう考えた方が、しっくりくるのだよ。君が、なぜこうもぬけぬけと私達の前に姿を現せたのか。君が代わりの効く複製だと仮定すれば、説明がつく。これまでの連中に飲ませてきたのは睡眠薬ってところか?捕まえた人間をどうしてるかは余り考えたかないが、どうあれ──ほんの一回一錠で異常性が完治するなんていう万能薬が存在する可能性を考えるより、ずっと現実的じゃあないか?なあ、豆木薫。君は、彼を、豆木稔みのるを、君の兄を前にして、どう感じる?」
不意に思い出したのは、私に処方されている安定剤のこと。効き目が定かではない薬でさえ、あの煩わしい服用方法だったのだ。
兄さんは、私に助けを求めるかのような視線を向けてくる。これまでに見た、いつよりも必死に見える。
「私は……目の前に兄さんがいるのに、嬉しいって気持ちが湧いてこないんです。なんだか、再会できた気がしなくて。兄さんが本物じゃないのかも、って……考えてしまいます」
「だ、そうだ。私の御託より、ずっと説得力があるな、ええ?」
兄さん……の姿をした人は、僅かに眉間に皺を寄せ……そして、小さく溜息を吐く。
「……僕の名誉のために言いますが、捕まえた皆さんはちゃんと生きてます。治療法が確立したら、もとの生活に戻れるように」
「そしたら、代わりに生活しているクローンは処分すると?」
「記憶を処理して、別人として生きてもらうつもりです」
「あんまり現実味のない絵空事に見えるが……まあ、いずれにせよ。強引に連中を拐かすような真似をしてまで治療法を研究するそれはエゴイズム極まりない。肯定してやれんな」
鳴瀬は、容赦なく兄さんを突っぱねる。兄さんはそれがよっぽど心外だったのか、右手が中途半端に握られながらわなわなと震えている……兄さんが感情的になった時の仕草にそっくりだ。
「これは……これは必要なことなんです!僕たち𝕖が普通に生きられるために!先生だっていつも言ってたはずです、変化を求めることは何事よりも価値のあるって!僕は変えたいんです、𝕖たちの運命を!」
「違う、違うなぁ、稔よ。確かに、私は変化を重んじている。停滞は唾棄すべき事象だ。だがな……己のもたらした変化に責任が持てない奴は、停滞を甘んじて受け入れる連中未満のクズだ」
「く、クズ……⁉」
「君は財団で、誰よりも変化を求めた。だから私は君を好く思ってたし、他の誰よりも手塩にかけて育てた。だが君は逃げた。望んだ結末に辿り着かなかったからと、全てを放り出して逃げた。そして今、そんな君がまた変化を求めている。また同じことを繰り返す気か?下らんな。全くもって無責任だ。もうお前は、私にとってこれっぽっちも価値がない人間であり──私が雪ぐべき唯一最大の汚点なのだよ、豆木稔」
鳴瀬はどっこらせ、と挑発するかのように緩慢な動きで立ち上がった。そんな鳴瀬に、兄さんは躊躇わず拳銃を引き抜いて、銃口を向けた。握りしめる手はひどく震えているが、そんな彼をサポートするべき仲間は一向に事務所に入ってこない。
「お願いです、先生。僕についてきてください。もう今更後には引けないんですよ」
「君だって判ってるだろう、君のお仲間はとっくにこの部屋の外で確保されている。君は包囲されているんだ、大人しく従ったほうが身のためさ」
「だからこそ、先生たちを人質に取るしかないんです。それに僕はクローンです、命は惜しくありません。」
「やっぱり、そんな価値観の人間がクローンを扱う事を良しとはできんな?」
「撃ったっていいんだぞ!ぼくっ、僕は、クローンだろうと先生や薫を受け入れる心積もりはできてるんです。クローンは死体からでも作れる!死体だけなら、この部屋から出なくたって拠点まで運び出せる用意があります!脅しじゃありません、先生だって、そういう技術があることは知ってるでしょう?」
段々と、兄さんが見せたことのないような語気になっていく。それに対し、鳴瀬は至って一本調子だ。脅迫がまるで効いていないように見える。
「確かに、技術部門が作った小型の転移装置があるのは知っているし、君が逃げ出すときにそれを持ち出した事も知っているさ」
「なら……!」
「だけどな、稔。悪いが、時間切れだ」
視線を壁掛け時計にやる。23時4分──予定の時刻だ。鳴瀬の後ろ手には、立ち上がりざまに取り出した例の奇妙な拳銃が握られている。
「時間……?」
「『十全に今一つ足りず、孤舟は海鳴りに呑まれて消える』」
「何を言って──」
己の芳香に割り込むように、潮の匂いがした。
みしり、部屋が軋むような不快な音が鳴る。
次の瞬間。天井を割くようにして、真っ黒な濁流が部屋を呑み込んだ。
足は床を離れ、前後は不覚になる。何も見えず、聞き取れない。
何が起きたか、理解が及ぶより前に──私の右腕を、掴む手があった。
10. ロシアン・コーヒー
ああ、やっぱりか。船室を突き破り流れ込んできた濁流に、最初に浮かんだ感想は余りにも冷めたものだった。もうこれで何度目か判らないが、いつもこうだといい加減慣れてくる。
問題はない、私の相棒はきちんと手元に収まっている。後は当てるべき的に当てるだけだが、この濁流の中で私と薫、そして稔の座標は絶えず流動する。まずは薫の場所を特定しない事には、誤射をやりかねん。
ドンッ、と背中から壁──いや、天井や床かもしれないが、ともあれ遮蔽物──に激突する。鼻を刺す海水の匂いと、不透明な濁流。いつも通り、五感は機能する見込みがない。しばらくすれば、水が引かずともこの流れだけでも落ち着くだろう。そこからが勝負だ。
……いや、これは──
すっかり鼻に馴染んだ潮の匂いの中に、それを押し退けるような、甘い香りが過り──私は咄嗟に、香りがする方へ左手を伸ばしていた。
掴んだのは腕か、はたまた脚か。ともあれ私より大きな運動エネルギーを伴っていたそれに、私の体は再び漂流を始める。そして──
「そこにいたか」
漂流のさなか、私の体と衝突したのは、明らかに人間の感触。ここに居る人間は、あと一人しか居ない。
いいや、人間とも思わないさ。あれはよく喋る的だ、そうだろう?
濁流の中、発砲音は聞き取れない。代わりに、火花が5回、不全の視界を刹那に照らし出した。
11. ジェスティフ
「あー。着替えを2着用意しろと言ったのを忘れてなかったのは、感謝する。だがね……」
回収車両のコンテナの中、ずぶ濡れの私と鳴瀬は、職員に手渡されたタオルに包まりながらも、用意された着替えは手を付けられずにいた。
「着替え場所がここしかないんじゃ、どうにもならんだろう。ええ?」
「は、はぁ……」
鳴瀬に詰められた職員は煮え切らない返事を返す。いかにも仕事が出来ない人間といった感じだ。確かにあれと比べたら、私はマシな方なのかもしれない。
「悪いな、豆木。もう少し辛抱してくれ」
「いえ……私は、大丈夫ですけど。さっきのは……」
「あー……席を外し給え、君」
「あっ、はい、失礼します」
件の職員は言われるままにコンテナから出て、運転席に移っていった。そうして濡れ鼠が二匹、残された。
「さて……まずは済まなかった。あんなのに巻き込んでしまって」
「まあ、他に方法が無かったのかははなはだ疑問ではありますが……」
「君とは長い付き合いにしたい。いずれ何処かで見せるのなら、ここがいい機会だと考えた」
あの濁流は、ちょうど1分の間私達をもみくちゃにしたのち、洗濯機から排水するみたいに忽ち消えていった。大穴が空いた天井には海水が流れ込むルートなど無く、しかし家具や私たちに浸み込んだ海水が、それが幻覚などでないことを示していた。
鳴瀬は濁流が収まると同時に脱力し、その場に座り込んでしまっていた。曰く、記憶処理の副作用だそうで、結局私が肩を貸してあの店から脱することになった。
兄さん……の、クローンは、左肩と右太腿に一発ずつ、弾丸を浴びて──それが直接の原因になったかは定かではないが、暫定的に溺死と判断された。
「私が服用していた記憶処理薬は、服用から30分後に、1分間。私に"誤認識"を植え付けるものだ」
「……誤認識?」
「そうだ。"ここは船の中である"、とな」
船。海水と関わりがありそうな単語が出てきたが、いまいち全容が見えてこない。
「私は以前、職務中に海難事故に遭ってな。鶏が先か卵が先か判らんが、それ以降、船に乗るたび、それが沈むようになった」
「……そういう異常性が発現したってことですか?」
「まあ、そうだ。ともあれ船に乗りさえしなければ問題は無いと判断されたんだが、ある時事件が起きた」
鳴瀬は手元で撃ち尽くした例の拳銃を弄りながら、それに異常が無いか確かめている。そういえば、あれは水中銃と呼ばれるものらしい。
「某日、私は熱中症で倒れて、意識を失った状態で救急搬送された。丁度、財団の救護施設が近くにあったから、そこに運ばれた。目が覚めた時点で処置は終わっていて、私は病室──ではなく、宿舎で目が覚めた。継続した点滴の必要もないと判断されて、そう数のない病室を割いてはもらえなかったんだな。平の職員用の部屋だ、真っ白で狭くて、窓もなく、古臭い空調機が稼働している。そして私はまだ三半規管が弱っていて、少しばかり視界が揺れる。そんな朦朧とした意識の中で、私はふと思ったのだ。"船の中にいるのかな"、と。直後、その宿舎は、その階だけが謎の濁流に呑まれる現象が発生した」
「まさか……"船に乗ると遭難する"んじゃなくて……」
「ああ。"船に乗っていると認識すると、強制的に災害が発生する"が正しい異常性だった。その時は、私が家具に頭を打ち付けて意識を失った時点で濁流は収まった。幸い死者も出なかったよ」
「な、なるほど……?」
「そして、実際に船に乗った際は実にレパートリー豊かな海難事故に見舞われてきたが──そこが船でないにもかかわらず、そう認識した場合は、君も体験したような、あの濁流がどこからともなく生成されることが判った」
随分とややこしい異常性を保有しているようだ。周囲に被害が出うる異常性だというのに、なぜこの男は職員をやれているのだろうか?
「私は平時、常に記憶補強剤を服用している。万が一にも同じような事故が起きないようにな。それを条件に、辛うじて職員を続けさせてもらっていると言いたいところだが──実際のところは、伊勢山の口利きだろうな。お蔭で私はあの管理官には逆らえん」
「……」
平然と言ってのけるあたり、こうした内輪贔屓は横行しているのだろう。この組織にまだまだ変わるべきところがあるのを感じる。
「とはいえ、予想外の奇襲というものは得てして有用だ。特にあの濁流の中で普通の火器は使えんしな。だから一部の作戦に秘密兵器として出張ることもある。ダイビングスーツを着てビルに突入する機動部隊は実にシュールだぞ」
ともあれ、この男は"使える異常性"を持っている側の人間らしい。別に嫉妬はないが、今後もし私に知ったような口をきいてくるようなことがあったなら、それ相応にキレる自信はある。
「で、だ。何が言いたいって、異常性には、正しい付き合い方というものがある。抑圧するだけが、嫌悪するだけが付き合い方ではない。制御し、場合によっては利用することも、真っ当な付き合い方のひとつだ」
「……そんなの、とっくに考えましたよ。でも、諦めました」
「まあ、確かに平場でそれを活用するのは難しいかもしれん。だがな、さっきあの濁流の中で君の手を取れたのはなぜだと思う?」
「偶然じゃないんですか?いや、今それを聞くということは──」
「そうだ。あの潮の匂いを掻き分けるほどに、バニラの香りが届いていたんだ。お蔭で助かったよ、君を誤射しかねんリスクを排除することができた。さっき見て貰ったとおり、私はあれを起動した後は暫く動けんからな、同伴者は必須なんだ。間違いなく、君とその異常性は私に必要な人間だよ」
「……」
「……あー、変な意味は無いんだが……」
「いえ、そう言う事ではなくて……」
この男が、私を必要としているのは理解できたし、納得もしている。それが最初から狙ったシナジーではない事も解る。だが……
「ごめんなさい、どうしても……貴方を、信用しきれないんです」
この男は、兄さんを撃った。兄さんは本物じゃないし、向こうもこの男に銃口を向けていたし、職務としても撃つべきだったのは、理解している。だけど、この男が、躊躇いなくトリガーを引いたという事実が、心のどこかに小さな引っかかりを与えている。これが感情論であり、まるで論理的でない事は理解しているが……それでも、いつかどこかで、裏切られるんじゃないか。そんな妄想をしてしまう。
「何かを、少しでもこの不安をぬぐい取る何かをください」
「ふむ。君が私を信用するための後押し、か……確かに、私がここに至るまで𝕖であるかのように振舞っていたのは確かだし、伊勢山あの男の胡散臭さが伝染りつつあるのも否定できんが……私の言葉で、信用させるというのは中々難しいだろうな……あー……そうだ、こんなのはどうだろう?」
しばし唸っていた鳴瀬が、何か閃いたのか俯かせていた視線をこちらに向け直した。
「君といるときは"実年齢より老けているというロールプレイング"をやめる、というのはどうだろう。俺は普通に、素のままの自分として君に接する。……一応、俺なりに考えてみたんだけど」
「……」
「あー、的外れ、だったか……?」
「いえ、その……気持ち悪いなーって」
「ぐ……う、すまない」
「ええ、反省してください。でも……いいですよ、それで。何と言うか、精一杯って感じがして、好感持てたんで」
鳴瀬の提案は、ハッキリ言ってしまえば何の信用の足しにもならないものだった。それでも、"いかにも絞り出した答え"という感じがとても滑稽なので、許してやることにした。まあ結局のところ、財団でやっていくには、或いは兄さんに辿り着くには、この男を信用していくほかないのだ。ならば、少しでも恥をかかせるに限る。
「あー……ありがとう?」
「どういたしまして。説教臭いのは素の貴方じゃないことを祈ってますよ、鳴瀬さん」
「くれぐれも気を付けるよ……これからよろしく、豆木」
鳴瀬は銃を傍らに置き、こちらへ手を差し出す。私が握り返した手のひらが、水の擦れる嫌な音を立てた。
12. オールド・ファッションド
[2022/04/12 21:03 市内某所]
「まったく悪い奴だね、鳴瀬君」
「やれやれ、誰に似たんだろうな?」
ロックグラスの底にとこった砂糖のゆらめきを、氷で掻きまわして霧散させる。私は久々に自分の趣味の酒にありつけていた。後は横に、伊勢山が居なければベストだったのだが……
「言ってくれるじゃないか。しかし……"素の自分を見せる"を信頼獲得の常套手段にするのはお勧めできないな。そもそも、君の"素"なんて曖昧なものじゃないか」
「お蔭様でな……私なんて一人称が染み付くとは思わなんだ。あれじゃ、素の自分というより、元の自分を再現してるって方が正しいさ」
実際のところ、私は豆木の前で、過去の自分がどう振舞っていたかを引っ張り出すのにそれなりに苦労したし、あれが正しかったかどうかも自信が無い。だが、もはや過去の自分をちゃんと憶えている人間などそう居ないし、何より豆木には答え合わせの手段がないので、まあ大丈夫だろう。
「とはいえ……本音を隠して生きてるのは違いないだろう?」
「それは、誰にだって同じことが言えるだろうに」
「私が言っているのは、豆木稔のことだよ、鳴瀬君。君は、彼を随分こっぴどく突っぱねたみたいだが……」
「……あのねぇ、管理官殿。そりゃあ……」
「そりゃあ?」
手にしていたグラスをコースターに戻す。ついその手が力んで、ロックアイスがガチャンと品のない音を立てた。
「……そりゃあ当然、堪えてるに決まってるだろう。あれだけ手塩にかけた男があんなザマだぞ?あいつはもっと大きくなるはずだったんだ。あんなところで折れていい奴じゃなかったんだ……でも、ああして完全に財団と対立するなら、もう連れ戻してやる事も出来ん……」
「ふふ、君はむしろ、そういう所を彼女に見せてやるべきじゃあないのか?」
「冗談ではない!新𝕖導として割り当てられた以上、私はあいつに一切の弱みは見せてならんのだよ。灯台なしに船は港に着けないのだ、二隻も沈めて堪るものか」
口を吐いて出た喩えが船というのは、我ながらなんとも自惚れ甚だしい。しかし、薫に正しい道を歩んでほしいという願いだって、傍から見ればただの自己愛エゴだろう、構うものか。
「でも、何が彼女にとっての標しるべになるかは君が決められるものじゃあないさ」
「……いいや、私が決める。あいつは、薫は必ず、兄の行方を追うだろう。私がどんな手綱をとったとしてもな。そして、万が一にも、私の制御の外で稔に辿り着いたのなら……薫もまた、道を踏み外しかねん。だから……」
「だから?」
摘まみ上げたピーナッツが、指の間で二つに割れる。戯れに、その片割れだけを口に放り込んだ。
「その前に、私が稔を見つけ出して、始末をつける。これ以上あの二人が交わる前に、薫の未来を修正せねばならん。仮に薫が、もう居ない幻を追い続けることになるとしても、な」
グラスに半分の残りを、一思いに飲み干す。アンゴスチュラがいやに苦く感じた。



