ない話
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明日の私へ。

今日で世界は終わりました。

この先は、誰も助けてはくれないでしょう。自分だけを信じてください。

角宇野




ミミズのようにのたうつ乱雑なメモに角宇野記録官は嘆息した。
朝目覚めて、真っ先に目に飛び込んできたそれを手に取って、自室のゴミ箱へと彼女は投げ捨てた。カサリ、と音を立ててゴミ箱からメモが地面に転がった。紙屑が山積みになっていた。

彼女は記録官という業務上、複数の情報を記憶、記録する。その過程で、自らのセキュリティクリアランスを超過する情報を目撃する事態も数多く存在し、その度に記憶処理を受けていた。
それ故か、彼女の記憶の強度は非常に曖昧なものとなっていた。記憶処理を受けた覚えのない記憶が消失している、といったこともザラにある。

そういった時、角宇野一四という女性はこのような、意図不明なメモを残す。主にそれは自身の存在意義に関する記憶が揺らいだ時らしい、しかし次の日にはそのメモに関する記憶すらも、大半は忘却している。
「世界が終わる」というのはそういった状態の彼女に見られる文面であり、本当に世界が終わっているわけではない、という事を今日の角宇野一四は冷静に客観視できていた。

パジャマを脱ぎ捨て、買った事実を忘れてしまい、結果として何着もロッカーに存在している同じ型番のスーツに着替える。窓のない地下サイト内の自分の部屋は、朝だというのに薄暗く、記憶にない痣の残る右腕が、先ほど捨てたメモの存在を余計に際立たせていた。



サイト-81██は静まり返っていた。サイト内には確かに人が存在するはずであるのに、彼女の声には話し声すらも届くことは無かった。
彼女が廊下を歩いていると、対面から死んだような顔をした男が歩いてくるのが見えた。瞳の下は煤けたように黒に染まり、肩からずり落ちた白衣と、傾いた眼鏡が彼のずぼらさを表しているようであった。今日の角宇野には見覚えのない相手であった。

「おはようございます」と彼女は一つ、頭を下げて挨拶を交わした。しかし、件の男はその様子を一目見ると、その生気を感じられない足取りのまま歩いて行ってしまった。角宇野は「そこまで面識のある相手ではなかった」と判断し、彼の反応に何を感じるまでもなく、自分の進行方向に向かって歩みを進めた。



彼女の現場に辿り着いた時、彼女以外の人員は既にその場で待機していた。
遅れて— とは言っても時間通りにやってきた彼女に、待機していた男のうちの1人が舌打ちを飛ばした。その音が、収容セル内に反響し、やがて静かになった。
それを誰が叱責するまでもなく、リーダーに割り当てられた初老の男性が、角宇野に記録用のシェルターへと赴くように促した。女性はただ、その指示に従った。記録用のシェルターはやけに埃っぽく、黴臭さが彼女の鼻をつんとついた。

実験はつつがなく終了した。非常に正確に、時間と予想通りに片付けが行われる様を、角宇野はタイムラインに黙々と描写していた。ただ、片付けを行う研究者たちの顔が、先ほどであった男性の顔と重なって見えたことが、彼女にとって不思議であった。



業務を終え、彼女は自室へと戻った。部屋の電気もつけない— いや、つけようと試みたが電球が切れてしまっているのか、部屋の電気はうんともすんとも言わなかった。彼女はベッドへと倒れ込む。本日彼女がしたことは、通常の業務と変わりのない事であったというのに、倦怠感と疲労感が角宇野を包み込んでいた。スマートフォンを取り出して時刻を見る。20時39分。圏外とバッテリー充電残り10%の表示が目に眩しく、角宇野の眠気はどこかへと消え失せてしまっていた。

チカチカとする目元をこすり、彼女はミネラルウォーターを買いに自室を出てようとして、財布を机の上に置き放しいしていたことを思い出した。机の上には同じようにかつての自分が買ってきたのか、半分以上残ったミネラルウォーターがただただ並んでいる。いつ買ってきたのか分からない開封済みに口を付けることに嫌悪感を感じ、角宇野は黒皮の財布を手に取った。



廊下も必要最低限の電気のみで照らされ、薄暗い通路に白い床が不気味に映えていた。角宇野が自販機のボタンを押すと同時、気配を感じ取って彼女はその場で振り向いた。そこにいたのは、昼にすれ違った壮年の男性の姿であった。暫く二人は見つめあっていたが、男のか細い「どいてくれ」という声に、角宇野の体はペットボトルを手に取り、右にずれる事で答えとした。

男性は缶コーヒーのボタンを押した。しかし、反応はない。気づけば彼の指の下では、「品切れ」の文字が、赤く輝いていた。ふと見てみれば自販機の殆どのボタンが同様の様相を示し、黒を示しているのはミネラルウォーターとりんごジュースだけであった。数秒の迷いの末、男性はりんごジュースのボタンを押した。ガタン、と音がして、ファンシーなキャラクターのプリントされた小型のペットボトルが、排出口に落下した。

「いいんですか、コーヒーではなくて。連絡をすればこの時間ならまだ対応していただけるかもしれませんよ」

気づけば角宇野はりんごジュースを手に取った男性に話しかけていた。彼はさも美味しくなさそうにそのりんごジュースを一口あおると、弱弱しい笑みを浮かべながら彼女へと返答した。

「いいんだ。これで。対応なんかしちゃもらえないさ」

「今日はよく眠れそうだ」と短く続けると、男性は昼にすれ違った時のような足取りで、ふらふらとその場を立ち去って行った。暗闇に溶けていくその後ろ姿から、何故か角宇野は目を離すことができず、彼の肩からずり落ちた白衣が黒に飲み込まれるまで、その場でただ立ち尽くしていた。



部屋に戻った角宇野は、消えない倦怠感に苛立ちを覚えながら、ベッドに座り込んだ。カサリ、とした音と共に彼女は臀部に違和感を覚えた。立ち上がり、再び目を凝らしてみると、それは丸められたメモであった。角宇野はそれを再びゴミ箱へと投げ捨てる前に、中身を確認する事にした。しわくちゃになったメモを、破けないように丁寧に広げて伸ばしてゆく。

明日の私へ。

今日で世界は終わりました。

この先は、も助けてはくれないでしょう。自分だけを信じてください。

角宇野



それは今朝見たものと変わらないメモであった。なんだ— と彼女がそれを再びゴミ箱へと投げ捨てようとした時、嫌に滲んだインクと、不自然に跳ねられた「誰」の文字に気が付いた。それは常日頃から自分の文字を見慣れている、角宇野であったからこそ、気づくことの出来た違和感。このメモは、朝確認したものとは違う、記録官としての彼女が確信を持っていた。

恐る恐る、ゴミ箱に積みあがった丸められた紙屑を1つ、手に取った。そこには、メモと同じ罫線がぐちゃぐちゃに引かれていた。それを彼女は広げ、伸ばしてゆく。同じ文面、同じ文体、しかしながらそれも、朝に見たものどころか、先ほど確認したものとも違うと彼女の「経験」が告げていた。汗が背中から、額から、毛穴という毛穴から噴き出る。

角宇野はゴミ箱をひっくり返し、ただがむしゃらに積みあがった紙屑を一つ一つ開き、伸ばしていく。そのどれもがやはり同じメモで— そのどれもが、違っていた。彼女から滴り落ちた雫がじんわりとメモを濡らす。そして29個目のメモを開いた時、彼女の瞳に全く違う文面が飛び込んできた。

明日の私へ。

恐らく、今日の私は「本当に」世界が終わった事実に、そして今後、誰もここには助けに来ないという事実に、耐えきれないでしょう。そしてそれは、明日のあなたも同様だと思います。

しかしそれでも、私は生きていたいと思います。あなたも私であるのだから、そう考えると信じています。

これは本当に僅かな可能性ですが、財団にはこういった事態に備えて開発されたオブジェクトも存在すると、276日前の私が覚えていました。昔見た映画のように、諦めたその次の日に世界が元に戻ったなら、それは、諦めた私を更に絶望させると思います。だからこそ、このバトンを絶やさぬように、私はメモを残します。

この先は、誰も助けてはくれないでしょう。自分だけを信じてください。

角宇野



普段以上に身支度のされていない研究員、
実験室での研究員の態度、
既に分かりきったオブジェクトに対する研究、
掃除のされていないシェルター、
異常な倦怠感と疲労感、
付かない電気、
必要最低限の照明、
補充されない自販機。

そのどれもがこの話を角宇野に事実である事を突き付けていた。その時既に、彼女の焦点は空を泳いでいた。
それでも、彼女はふらふらとした足取りで、机へと座り込むと、ペンを手に取り、机面に貼り付けられたメモ用紙を、乱雑に一枚破り取った。

そして、彼女は一枚のメモを書き残した。

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