特別性
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白い部屋だった。

ここで目を覚ますのは何度目だろうか? ふと彼女は疑問に思った。最初ということはないはずだ。純白の内装が挿入記憶の定着を促すことを彼女は知っていた。正面の壁の向こう側に監視室があることを彼女は知っていた。窓の外には何もなく、差し込む陽光が人工照明であることを彼女は知っていた。

彼女は多くのことを知っていた。

では知らないことは?

「気分はどうですか」

声は右隣から聞こえた。いつだって最初はそこに意識が向かない。頭の中でそういうふうに定着するように、あらかじめ記憶の欠片は加工されている。技術者はいつだって安全地帯にいる。そして注意深く作品を見守る。故障しないように、首尾よく動作するように。静かに、息を潜めて、綿密に。

「おはようございます。諸知博士」
「おはようございます、天宮博士。記憶の定着に支障はありませんか?」
「問題ありません。いつもどおりに」
「結構です」

真っ白な部屋によく溶け込む真っ白な博士が頷く。その動作を何度も見たことがある。だから自分は聞く。意図されているかはわからないけれど、おそらくいつもどおりに、ルーチンワークとして。

「何度目の引き継ぎですか?」

諸知博士は首を傾げ、いつものように答える。

「27回目です」

それを検証するすべはない。

静かに頷いて、天宮麗花は起き上がる。

*

白は記憶処理工学の専権事項だと、誰かが言った。

記憶を操作するためには、白が必要不可欠だ。あるいは黒が。重要なのは何もないことだ。余計なものが混じらないように、あるいは余分に壊さないように。人間が知覚できるあらゆる情報が最小限であることが求められる。後は実践の問題で、黒い部屋では人間はまともに作業できないから、記憶処理に使われる部屋は白い。

翻って、ただ病人を寝かせておくだけなら、白い部屋はかえって患者の精神安定に害を成す。

そういうわけで彼女の病室は、財団の標準プロトコルに基づき、薄い黄色のグラデーションに彩られていた。

「調子は戻ってきたかな?」
「お陰様で」

お世辞にも口達者とはいえない天宮は、呟くように一言を返す。訪問者の男は窓枠にもたれかかり、風に煽られながら静かに微笑んでいた。いつの間に窓を開けたのだろう? 自身のエージェントとしての適性を、改めて彼女は疑問に思う。

「君が"51号室"に運ばれたと聞いて、8100から飛んできた。今回も無茶をしたようだね」
「無茶をしたのでしょうか、私は」
「そうでなければ遺体からの記憶の継承に失敗するはずがない。君は君自身が思っているよりも遥かに優秀で、身を護り危機を伝えるすべに長けているのだから」
「そうですか」
「私はどうにも記憶処理が苦手でね。あの感覚は未だに好きになれない。それを幾度も、君は本当によくやっているよ」

特段、嬉しい言葉でもなかった。彼の口に上る言葉がどこまで真実かはわからない──すべて虚偽であったとしても彼女は驚かなかった。倫理委員会とはそういった場所だった。必要性の原則が作り上げた徒花。人間を歯車にするための組織。

そして応神風路という男は、まるでそのために生まれてきたかのように、組織の中枢深くにどっしりと根を下ろしていた。

「風路さん」
「うん?」
「私の任務について、教えていただけますか」

復元された記憶は五日前で止まっていた。最後に抽出した記憶のバックアップから起動した天宮は、自身の端末にアクセスしようとして新たなクリアランス制限に出くわした。自分に与えられた最後の任務を自分で追跡できないことに、彼女は少なからず困惑した。

とはいえ、経験のないことではない。記憶補強剤の副作用でいくらか靄のかかった思考で、彼女は静かに答えを待つ。

「私もそれほどよく知っているわけではないが、構わないかな」
「もちろん」
「感染性の高いミームだったと聞いている。ドローンを用いた遠隔での分析中、対抗制御フィルターの自動更新を貫通した。部屋の中は血まみれだったそうだ」
「損害は?」
「死亡者が一名、それに意識不明が三名。覚醒後も人格が戻るかわからない。職務復帰は絶望的だ」

忌むべき損失だ、と風路は沈痛な表情で呟く。たぶん、その感情に嘘はない。未来を閉ざされた同僚の命を"損失"と表現する感性を指弾する者もいるかもしれないが、天宮はそうするつもりはない。

もし意見を求められたなら、天宮だっておそらく同じことを言うだろう。財団にとって手痛い消耗です。彼らの犠牲を無駄にするべきではありません。早急に対策を講じ、次なる事態に備えましょう。

そう、彼女には次がある。奇妙なことに。不運な同僚たちと違って。

彼女だけがそうなのだ。天宮麗花の特別性。

「では、私の復帰はいつになりますか?」

サイト付き現地対応エージェント統括官、それが現在の天宮の肩書だった。初期収容にあたるフィールドエージェントに指示を出し、サイト内から支援する臨時指揮官、三交代制の夜番だ。何代か前の身体から続くこの仕事を、彼女は少しばかり気に入っていた。適度な刺激と緊張感、白衣を着ていられるし、研究者時代の知識を活かす機会も多い。同僚たちは弁えたプロフェッショナルで、私生活に干渉されることはない。

そう、気に入っていたのだが。

「君は……しばらく、ここを離れてもらうことになる」

申し訳無さそうに風路は切り出した。天宮はほんの一瞬だけ眉をひそめた。

「君の献身的な初期対応が、致命的なインシデントからサイト司令部を守り抜いた。いつものように死亡の痕跡を抹消するのは財団全体にとって損失になるという判断だ。君の自己犠牲は名前を変えて、内報に広く表敬されることになる」
「インシデントレポートの公開ですか」
「再発防止策の周知、情報処理スキームの再設計に有用という話でね。現場要員の士気向上も期待できる、非常に意義のある事例だ。既に危機対応委員会から矢のような催促が来ている」

だから君が生きてこのサイトにいるのはまずい──静かに風路は告げる。

じこぎせい、と天宮は呟いた。どうにも奇妙な感覚があった。自分がそのようなことを? 記憶にないのはもちろんのこと、自分がそのような行為に至るかもしれないという実感は彼女にはない。それもある意味では当然のことで、いまの天宮麗花は五日前に倫理委員会が保有する巨大な機材の奥深くに保存された天宮で、同僚を救うために尽力したという天宮麗花は、昨晩遅くに階下の司令部で死んだ。少なくとも脳と脊髄を復元できないような形で。

静かに首を傾げる天宮を、風路は興味深げに眺めている。

「私が本当に、そんなことを?」
「だからいつも言っているだろう。君は優秀なんだ」
「そうですか」

風路は何かにつけ彼女を称賛する。それがどういった思考に基づくものなのか、真実なのか虚偽なのか、ありがとうと言うべきかどうか、彼女は分からずにいる。美辞麗句を素直に受け取れるほど人間ができていないから──あるいは人間ではないから──そしてそれは多分、風路もわかっているのだ。

だから折につけ、こうして婉曲に否定する。

「風路さん」
「うん?」
「財団が保有する人材の幅広さを考えれば、私は特段優秀とは言えないと思います」
「私はそうは思わないが」
「そうですか」
「うむ」

沈黙。何度繰り返したかわからない会話。

自分は優秀ではない。事実だと天宮は思う。それは謙遜や韜晦ではなく、単純な自己評価として。財団の抱える綺羅星のごとき数多の才人たちに比べれば、自分は特筆すべき点もない。異常に取り巻かれる職務の中で、こうして何度も、何度も屍を晒している、そして複製品に記憶を載せて戻ってきて、また同じことを繰り返す。その有り様がまさに証明しているではないか?

しかし風路は、倫理委員会が定めた天宮麗花の身元保証人は、常に彼女を褒め称える。それを当然のものと受け止めている自分がどこかにいて、天宮は混乱する。

彼女は沈黙に沈み、風路はただそれを眺めている。

*

白い部屋だった。

気味の悪い部屋だと思っていた。記憶処理は嫌いで、それはまるで生への冒涜のようで、いまここに生きて座っているすべて、あるいはそれを築き上げてきたこれまでの人々の営みすべてを否定しているかのようで、しかしこれは男の倫理委員会における初仕事だった。怖気を押し殺して、彼は白い椅子に座り、白い机の上に腕を置いた。

対面に手術衣に身を包んだ女が座っていて、男から見て右側に身体の正面を向けていた。

彼女を男は見た。彼女の目はすべてを知っているかのように部屋の中をぐるりと見渡していき、そして男だけを見なかった。静かに、彼女は白い部屋と調和して、まるで空間そのものと一体であるかのように溶け込んでいた。

「右後方は安全地帯です。そのように加工してあります」

諸知は静かに囁いた。自らも白に全身を包み込んだ記憶処理技師は、まるでそれ自体が部屋の機構の一部であるかのように、気配なく男の隣に佇んでいた。

「運用上の問題は?」
「特段は。技術的には完成されていますから、すべて想定通りに」
「記憶は定着しているのか」
「自己認識に問題はないようです。これはクローンの特性というより、彼女生来の気質でしょう」
「では話をさせてくれ。起動鍵はどうなっている」
「気分はどうですか」
「何?」
「それが鍵です」

男は目を丸くし、次に大きく息を吸い込んで、そして深々と嘆息した。消毒薬の臭いがひどく鼻につく。彼は自分の浮かべている表情に自信がなかった。こうして毎日ネクタイを締めるようになる前、考古学部門の研究員であった頃、多くの鉄火場に臨んで散々に鍛え上げられたはずの仮面は、この白い部屋の中では何ら意味を成さないようだった。

女はこちらを見ていた。虹色の瞳。少し戸惑ったように、その口が開いた。

「おはようございます、諸知博士」
「おはようございます、天宮さん。記憶の定着に支障はありませんか?」
「問題ありません。いつもどおりに」
「結構です」
「あの」
「何か?」

完全な無表情で、諸知はクリップボードに留められた書類に何事かを書き込んでいく。天宮はしばらく空中に目を彷徨わせ、それから少しだけ身を起こした。

「そちらの方は?」
「倫理委員会からいらっしゃいました。貴女が基準に足るものかを審査されると」
「はあ」
「エリアAにおける貴女の初期運用は、プロトコルとして事実上完成されていました。エリアAの制圧とともに回収された資料に基づき、我々は問題なく貴女を稼働させ続けることができます。したがって、今後の貴女の処遇は彼と、彼の報告を受けた上級審判委員会が決定します」
「はあ」
「そこまででいい。君は監視室に」

無言で頷いて諸知が退出する。男は小さく深呼吸をし、ネクタイを少しだけ緩めた。そして倫理委員会のロゴマークが入った分厚いバインダーを取り出したところで、最初にかける言葉を考えていないことに気づき、慌てて一言口にした。会話の取っ掛かりを探すためだけの意味のない言葉、まるで彼のまだ幼い息子に対しておっかなびっくり口にするような、何のひねりもない一言──しかし無味乾燥な起動鍵とは違う、少しばかりの労りの気持ちを込めて。

「調子はどうかな?」
「わかりません」

齢四十にしてまるで新人職員のようなひどい体たらくだったと、後に彼は弟に零したという。

*

突然の訪問から、そう時間は経っていなかった。

それでも応神風路という人物はその地位に相応しく多忙であるはずで、そしてそれを証明するかのように、控えめだが確実な三回のノックのあと、引き締まった体つきの男女二人組のエージェントが、病室の扉を音もなく開いた。

「さて、私はそろそろ行くよ」
「ええ」

お疲れさまです、と形ばかりの挨拶を交わす。わざわざ見舞い──という名目の機能確認──に訪れた目上の人間への労いも礼もないことに、エージェントたちは何も言わなかった。話すことを禁じられているのかもしれないし、もしくは天宮のようなまともではない職員を何人も知っているからかもしれなかった。

扉の前で、風路が振り返る。

「君の新しい任地だが、おそらくは8122になるだろう」
「首都圏ですか」
「収容対応からはしばらく離れてもらう。渉外部門はどうだね? まだ体験したことのない分野だろう」
「私の知識が活かせるとは……」
「どんなところでも、君は役に立ってくれると信じているよ」

そうですか、と呟く。

倫理委員会の重鎮がなぜこうも自分を評価するのか、天宮にはわからない。過去になにかあったのかもしれない。記憶処理で忘れたのかもしれないし、継承できなかったのかもしれない。自分には推察できない、何か隠された事情かもしれない。何にせよ、自分がそれほど重要な存在として在れているとは、天宮には思えなかった。

自分はちっぽけな存在だと常に感じていた。数多の代用品が存在する、唯一性の欠片もない、地に足のつかない亡霊のような。燦然と輝く天才たちの影に隠れて、ひたすらに地を這い奉仕する。それが自分には似合っている。

本当に?

本当は違ったはずだ。本当は誰よりも、どのような才気ある同僚たちよりも、そう、例えばこうして奇妙な関係が十数年も続いている風路や、昨夜に知らない自分が命と引き換えに助けたというサイト司令部の人々よりも、あるいはそれよりももっと上層、数え切れないほどの危機と陰謀に取り巻かれた評議会のお歴々よりも、自分が優れていたかもしれないのだ。

それだけの能力が、才能が、天宮麗花にはあったはずなのだ。

本当に?

わからない。結局、何が本当か判断するすべは彼女にはないのだ。記憶を引き継ぎ続け、あるいは取りこぼし続け、加工され続けているから、実際のところ、天宮麗花は"最初"の自分を覚えていないし、評価することができない。自分が何回死んだかも覚えていないのに、今更何がわかるというのか?

ただ、現在の自分はさして優秀ではないという実感と、最初の自分は誰にも遅れを取らぬほどに優秀だったはずだという観念があり、それらは矛盾しているものの、同時に彼女の中に存在している。

だから彼女は口下手で、他人による肯定を素直に受け取る能力に欠け、共感性に乏しく、他人に興味がない。誰かのために自己犠牲を試みるほど殊勝ではないし、理想のためにひたすらに奉仕するような博愛精神は持ち合わせない。

しかし。

「風路さん」
「うん?」

この質問は以前にもしただろうか? わからない。しかし、聞いてみる価値があると彼女は知っている。

「貴方は……倫理委員会は……財団は、私を必要としますか?」
「もちろん」

口元の皺を深めるように笑みを浮かべて、風路は断言した。

「君はもう覚えていないかもしれないが──君が最初に私の差し出した書類にサインをしたその時から、我々は常に君を必要としてきた。一瞬たりとも、その方針は覆ったことがない。だから私はここにいるし、君もここにいる」

違うかね?

にんまりと──まるで心中でずっと温めていた決め台詞を口にする機会にようやく恵まれたとでもいうかのように──相好を崩して笑う風路に、微かに脱力した呆れ顔で天宮は応えた。

「では、私はあなた方のものです。引き続き、財団のために尽力します」
「宜しい。期待しているよ、天宮博士」





「そうだ、首都圏での勤務になるとすれば、もしかすると倅に──薙に会うことがあるかもしれない。今年エージェントになったばかりでね。不肖の息子だが、そのときは是非、よくしてくれると嬉しいよ」
「……………………努力します」

最後にひどく難しい任務を言い渡されたように思え、彼女は小さく溜め息をついた。

*

「では、これで審査は終了する。この後は精神鑑定と、改めて財団への帰属審査がある」
「はい」
「審査とはいうが、これは君の意志を確認するものだ。財団への加入を希望しないならば、君は日常に戻る権利がある」
「はい」
「残念ながら、多くの記憶を消去されることになるだろう。君の写し身である多くのクローン個体は凍結し、我々が管理することになる。それでも、君自身は秘密組織に加入することなく、一般人として生活を送る道を有している。倫理委員会としては、あくまでも君の自由意志を尊重する」
「はい」

「……君に希望はないか? したいこと、なりたいもの、夢や欲求。セクターAの蛮行を一度は看過した我々には、君が何かを求めるならば、それに応える倫理的責務がある」
「では……」





「特別になりたいです」

「唯一無二の、誰とも違う……」

「私だけの、特別な存在に」





「それなら簡単だ」

この日、白い部屋に入ってから初めて、応神風路は泰然と、確信をもって微笑んだ。

「もしも財団職員として、我々とともに在るというのなら──君のその力は、きっと多くの人を救う。それは君にしかできないこと、君だけの、特別性だ」





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