天市あまいち 花太郎かたろうは軽薄な男である。
安いピアスの並んだ耳、いついかなる時でも眠たそうな垂れ目、お世辞にも小さいとは言えない唇。
いいように見ればやり手のコメディアンにも似ているが、実際の彼はその日暮らし、何者でもない若者に過ぎない。
今日も日雇いの仕事で稼いだ金を全てスッてしまい、まあなんとかなるだろうと歩き始めたところである。
ダボ付いたズボンの裾は足元の汚水が染みないように雑に折られ、よれたジャンパーが生ぬるい風にたなびいた。
ただ甲高いだけのヘタクソな口笛が上空に浮かぶビル群へと流れていく。
「俺は思うんだよ、この街ってのは高い低いを逆にするべきだって。高い奴が低い、低い奴が高い。……いや、これはただ言葉を入れ替えただけじゃないか?」
誰にあてるでもない独り言。街を歩くときの彼の癖。将来の不安、明日の飯、そういった薄ぼんやりとした不安から逃げるためのルーティン。
そう言い切れればまだマシなのだが、彼の場合はただ単純に、何か手持無沙汰だからそれを続けているだけである。
今が楽しくないから今をやりすごすために、ただ暇潰しで行っているに過ぎない。厚みのない男である。
「とにもかくにも金なんだよなあ。金さえあれば多分心にヨユーができるんだわ。欲しいもんもいっぱいあるしなあ」
半分ボヤきにも聞こえる独白。金が欲しいと言うわりに何処か真剣味はなく、実際今日は家に帰らず仲間の家に行くかと頭の隅で考えている。
そんなことを考えているから、天市はそれに気が付かなかった。
上から落ちてくる影に。こんな腐り切った宇宙に不似合いな、真っ白な羽に。
それは天市の上にドスンと音を立てて落ち、押し潰された形になった天市の肺からぐえっを空気が漏れる。
背中に感じる柔らかく温かい感触からして、腐った資材が落ちてきたわけじゃないようだがと天市は起き上がった。
なんとか上体を起こし、尻をびちゃりと湿る地面へ押し付けると、ようやく天市は落ちてきたものを見て、息をのんだ。
白く磁器を思わせる肌、流れるような金髪、翠玉のような瞳。背からは羽が生えている。元は白かったのだろうが、あちこちに焦げや汚れの浮かんだ羽。奇妙なことにはその羽は片翼であり、完璧さを覚えるシルエットの中でそれだけが異様に均整を崩している。その片翼を除けば人々が思い描く一つの幻想にシルエットは類似している。すなわち、"天使"に。
天市はこんな美しいものを初めて見た。ゴミが散乱し、汚水の流れる路地にそれは似つかわしくなく、だというのにそこにあって当然という雰囲気を湛えている。心臓が鳴っていた、全身に血液が満ちていた、天市は落ちてきたそれに、心を奪われた。
ありていに言えば、天市は一目惚れしてしまった。
呆然と自分を見つめる天市に蔑むような視線を向け、天使はぷいと背を向ける。そのまま去っていこうとする天使へ思わずというように天市は立ち上がり、その肩を掴んだ。
「なあ! 俺は天市花太郎! 気軽にカタローって呼んでくれよ、アンタ誰? ここらへんで見たことないけど何処住んでんの? 今から一緒に飯でもどう?」
相手がどうであれ、上から落ちてきたのである。明らかに触れるべきではないにもかかわらず、天市はその異常にすら警戒せず、それを引き留めた。一方で鬱陶しそうに手を払いのけ、天市を無視して天使はそのまま歩きはじめる。そもそも片翼では困難だろうが、翼が空を飛ぼうと震えることはなく。
「そんな無視しないでくれよぉ、一目惚れってのかな、一緒にお茶でも飲もう? 俺が奢るからさ」
だから、しつこいナンパから飛んで逃げることはできなかった。
「名前何ての? 何でこんな場所に? これからどこ行くの?」
徐々に、徐々に、整った表情に苛立ちが浮かんでいく。どんどん歩く速度が上がり、ほとんど走るようになっているが天市は諦めず付きまとう。ついに業を煮やしたのか、片翼がブルンと大きく振り上げられた直後。複数の足音が二人の背後で水を跳ねる。
「いたぞ! 堕天使だ!」
遠くから様々な仮面を被った制服が姿を現した。六頭体制ヘキサドの私兵は数いれど、仮面を被るのは一つしかない。
「Tttの私兵じゃん!? アンタ、何したの!?」
当たり前のように慌てる天市にチッと舌打ちを返し、天使は走り出そうとする。
だが、その手を掴み天市は傍らの路地へ引っ張り込んだ。
何をする、と今にも刺し殺しそうな目を浮かべる天使の手を引きながら天市は慣れた様子で路地を進んでいく。
「理由は分からないけど追われてるんだろ? ならここら辺は俺の方が慣れてる。Tttはあんまりここら辺は来ないからな、案内するよ」
私兵の追う相手、その逃走を幇助する。判明すれば十分な罰を与えられることが並の人間なら予想できる。だが、今の天市にはそんなこと思いもしなかった。ただ、惚れた相手にいいとこを見せようと、その場しのぎの逃走を始めたにすぎなかった。だから、その行動に少なくとも嘘は存在しなかった。ごみごみとモノが溢れかえる路地裏、どこかから腐敗臭とガソリンの混ざったような匂いが広がっている。その中を滑るように隠れながら二人は進み、徐々に追ってくる足音は少なく、小さくなっていく。
「……私は、グリゴリ、グリゴリの一人だ」
手を引く天市に、天使は少し言い淀みつつ、自らの名前を語る。グリゴリ、神話において人間を見守る立場でありながら番いになり人へ禁じられた知識を与えた堕天使。その一柱が自らであると。
「グリ……? グリコ? ああ、あのデカい看板の! 珍しい名前じゃん、よろしく、グリコ!」
「ぐ、グリコ!?」
しかし天市にはそんなこと気づくよしもない。この軽薄な男の頭にはタロットの"吊られた男"よろしく両手を広げ笑みを浮かべる巨大看板の絵しか浮かんでいなかった。
そうして出会った2人が走るのは、空高くには塔が生え、落ちれば奈落、中心に存在するのは巨大な虚ろ、カチカチと瞬くネオンに充満した重油と鉄錆の匂い。鳥の囀りも葉の擦れる音も聞こえるはずがない。そんな場所に訪れるのは悪党、ごろつき、落伍者に敗残兵。つまりは世の悪徳を全て大鍋で煮込んで生まれた闇鍋。
それが、かつてヴェールのはがれた世界において生み出された人工小宇宙、アウターオーサカであった。
天市 花太郎は低俗な男である。
過去を振り返ることなく、未来を想像することなく、ただ、今と数秒後の僅かな先だけを見ている。
自身の哲学などは持ち合わせず、ただその場の流れに身を任せ、ゆらゆらと淀んでいる。
だがそれは、ことこの宇宙では案外否定されるものでもない。
「さあ、老獪なるミミズクの器に届くは半導体の断末魔! 歌う君の声はアルテミスが懐柔するO/Oの胎盤!」
「楽しんでるとこゴメン!」
ふらふらと夢遊病のように揺らめく電子ドラッグ中毒者ジャンキーの側頭部を軽く蹴っ飛ばし、胸元を探るとしわくちゃになった札を数枚抜き取った。信じられないものを見るような目を向けたグリコへ、天市はどうしたのかと聞こうとして、ふと思いつく。
「グリコ、もしかしてここに来たばっかり?」
「だから私はグリゴリ、……もういい。そうだ。気が付けばこの街にいて、突然あの仮面の群れに追われた」
「そっか、そりゃ呼ばれたんだろうなあ。ところでなんで羽が片方しかないの? そういうファッション?」
明らかにそれは触れるべきところでないだろう、という場所にまで天市はずけずけと踏み込んでいく。
ここに来るまでの短い会話でそれを理解したのかグリコは制することなく、話題を変えた。
「それよりもだ、お前はなんでその金を奪っている?」
「ああ、説明してるんだったっけ、慣れてない奴はビックリするよな。これはO/O圓アウターオーサカ・エンっていって、溜め込むといいことがあるらしい。んで、この街では悪いことをすることがいいことだから、盗んだ方がいいってわけ。ホントは殺すまでした方がいいんだけど、殺そうとすると相手もマジになるからさ、俺はしない。死にたくないし。だからホントはO/O圓もいらないんだけど、今は普通の金もねえからさ」
「悪事をなすことが善であると? 良識を疑うな、まるでソドムだ」
「ソドムって怪獣?」
「違う」
奪ったO/O圓を胸元にねじ込む天市へ、いや、この街そのものへ再度軽蔑の視線を向け、グリコは踵を返す。
しかし、その前に天市は犬を思わせる速さで回り込む。
「何処行くんだよグリコ。一緒に行こうって」
「世話になったがお前と一緒に行くつもりはない。先ほどの仮面たちも撒いたようだしな」
「そんなこと言うなよ、俺はお前に惚れたんだよ、一緒にいてくれよ」
何のてらいもなく好意を伝える天市。鼻白みながらグリコは白い指を眉間へ突きつける。
「お前のような軽薄な男は、きっとろくなものじゃない。付き合っていられるか」
「そんなこと言うなよ、ちょっと待ってて、今なんか買ってくる」
「だから」
「いやなら飛んで逃げてくれよ! 流石に追っかけられないからさ!」
それだけ言うとどこかへドタバタ去っていく天市。その背にため息を吐いて、グリコは僅かに翼を広げた。
「こんな翼で飛べるわけがないだろうが」
本来天使に翼があっただろうか、そう問うもグリコの記憶には確かに翼がある。もっとも、過去は両翼が揃っており、空を縦横無尽に飛べたのだ。視線を上に向けるもそこに空はない、ただどこまでも連なる奇怪な建築物の群れと張り巡らされた電子の網。蜘蛛の巣に絡め取られたイメージ、なるほど、道理でこの街には上を見上げる人間が少ないわけだと呟き、この街が神の臓であると言われても疑うことはないだろう。
「お待たせ、グリコ!」
グリコが視線を元に戻すのと、天市が戻ってくるのはほとんど同時だった。しまった、歩いてでも離れればよかったと毒づきながら、鼻腔をくすぐる匂いに思わず天市が差し出したものを観察する。へにゃっとした柔らかい生地に包まれ、ケミカルな物体が顔を見せている。しばらく眺め透かしつつ、これは何だという疑問をぶつけようとするも既に天市は口に運んでいた。
「食べないのか? イカヤキ」
「……食べ物なのか?」
「そう、美味い」
こうやって食べるんだ、と生地を巻く天市。そのままぽんっと口に押し付けられ思わず条件反射で入れてしまう。口の中に入った途端襲ってくる異物感。蠢く何かが味蕾に直接味を塗りつけてくるような感覚に思わずグリコがえずく。
「ぬえっ」
「あ、ごめん! 食べるの初めてか! ちょっと気持ち悪いかもだけどちゃんと噛めば美味いから!」
このまま吐き出すこともできるだろうが、生真面目さゆえにグリコは躊躇った。しばしの逡巡のあと、口の中で膨らむ違和感を堪え、舌の裏側を狙う何か目掛けて歯を落とす。直後、口の中で味が膨らんだ。直接脳髄に叩き込まれるような味の渦、目まぐるしく変わるその情報量にグリコは思わず口の端から涎を垂らしそうになる。イカヤキ、アウターオーサカの名物にして安い、早い、奇跡の三拍子そろった労働者の強い味方。しかし、少々グリコには強烈すぎたようだった。
「どうだった?」
「……訳が分からん、なんだこれは、雲を食うような、視覚に入り込んでくるような」
「そっか、そりゃよかった。最初に食べたヤツはみんな訳が分からないって言うんだ。で、言った奴はちゃんと馴染める」
涙目のグリコの横で次々にイカヤキを咀嚼していく天市。信じられないような表情を浮かべるグリコへ手を差し出す。
「無理して食べなくてもいいけど。俺は結構好きだしさ」
「……いや、恵んでもらった食べ物を残すのは褒められることではないだろう」
天市の助けを断り、止める間もなくグリコはえいやと意気込んで残るイカヤキを全部口に放り込み咀嚼する。ボスンと音が聞こえ、口腔が明滅するような感覚を訴える。口を抑え、悶えるグリコに天市は腹を抱えて笑っていた。
アウターオーサカは天地逆転の街。吊り下がったその街に地面は存在せず、半ば自己増殖する無数の通路で繋がっている。遠く聳え立つ浄祓塔の影を眺められる欄干に天市とグリコは並んでもたれ掛かっていた。下に広がる虚空へは今日も神聖汚泥が垂れ流され、音もなく最下層の虚空へ消えていく。太陽の光は届かず、青いネオンがグリコの完成された横顔を照らしている。
そうだな、これが多分完成されてるって言うんだ。
天市はいつもの独り言を頭の中で繰り返す。視線に気づいたのか、グリコの眉間にしわが寄る。
「何だ」
怒った顔も綺麗だ。そう言おうとしたがなんだか気障な言葉に躊躇ってしまって。慌てて思いついたことを口走った。
「グリコ、この街をちゃんと見たことあるか?
「ない、見る必要もないだろう、こんな下賤な場所など」
「そう言わずに見てみろよ、どこが一番かは知らねえけど、街が良く見える高い場所があるからさ」
グリコの手を引き、思い出した場所へ引っ張っていく。少しだけ、グリコの抵抗する力が弱まっている気がした。
アウターオーサカの中心に広がる虚空、そのほど近くを2人は見上げていた。
赤い円に下がるゴンドラ、ぎしりぎしりと動くそれは中空から逆にぶら下っていた。
「観覧車、か?」
「ああ、あんまり人もいないし、他に乗りたがる奴なんていないから」
アウターオーサカ名物"赤い観覧車"。本来は大阪の主要駅近くに立っていたそれは奈落事象における周囲の崩壊後、上下逆の状態で空中を浮かぶ奇妙な建造物に成り果てていた。といっても上下が逆なだけで乗る分には一切の支障はないため、通常の観覧車と異なった点はない。もっとも、わざわざそれに乗り込むモノ好きが少ないのも事実ではあるが。
ゴンドラが下に降りるのを狙って扉を開け、乗り込む。天市が開けたままにしておくとグリコはすんなりと乗り込んだ。
「……食事分の借りがあるからな」
「へへへ、何となくノリが分かってきた。真面目だよな、グリコ」
観覧車は回る。ぎしりぎしりと歯車の音を立てて。上空に存在するかつての大阪、その影から伸びるように浮かぶ観覧車はアウターオーサカの全景を臨む。どこまでも無尽に広がる燎原の火がごとくネオンがきらついている。血漿とスモッグが混じりあい、常に空気は湿り気を帯びている。林立する摩天楼は雨のように僅かな視界を濁らせる。悪徳が栄え、前進する、どこかに繋がり誰かを呼んでくる、例えるならば最善の地獄。
天市はグリコの横顔を追っていた。ゴンドラに乗ってから、グリコは窓の外の光景を見つめ一切喋らなかった。天市は無言が苦手なクチである。だが、今この時は妙な多幸感に包まれていた。ずっと頭の中で紡いでいた独り言も、浮かんではこなかった。そんな時間がしばらく続いて、ゴンドラがかつての終着地点、今の頂点に達した時、グリコが思わずこぼれたとでも言うように口を開いた。
「……さっき、私の翼が何故片方しかないかと聞いたな?」
グリコ自身も何故そんなことを口走ってしまったのか、という表情を浮かべるが、仕方ないとばかりに天市へ向き合った。
「単純なことだ、私の翼は斬り落とされた。二度と飛ぶことはないだろうし飛ぼうとも思うべきでない」
どう返せばいいかわからないだろう、とでもいうようにグリコは目を伏せる。だから天市の表情を見逃した。
「もったいないな、そりゃさあ」
「もったいない?」
「綺麗な羽だと思うから、両方あったらもっと綺麗だろ」
「……お前は」
何かの含みはない。ただ思ったことを口走っただけ。だから少しだけグリコは笑いそうになり。
「私も同意するよ、物事は完全な方がいい」
突如、天井から聞こえてきた声に。いつのまにかゴンドラの上部、かつての座席に座っている一つの影に遮られた。
「……ウリエル!」
天市 花太郎は馬鹿な男である。
思ったことをそのまま口に出してしまうし、何の含みもそこにはない。
裏表がないといえば美点だろうが、あまりにも直情的で先のことを全く考えていない。
だから、有り得ないものを見ればこう叫ぶ。
「何だお前!?」
天井に座る影は筋肉質な身体を窮屈そうに緑のスーツに収めている。オールバックに流した金髪に銀縁のメガネ。
いかにもなそのシルエットは指を組むとまるで商談でもするように落ち着いた声で天市の疑問に答える。
「初めましてだな、天市花太郎。私はウリエル、智天使、あるいは熾天使に数えられる」
「なんで俺の名前を」
「天使は全能だ、凡そのことは分かる。もっとも、このO/Oでは少々制限をかけているのだが」
それだけを言うと興味を失ったように銀縁の奥にある瞳はグリコを射すくめる。まるで磨き上げた剣の切っ先を突きつけられたような視線へ僅かに震えながら、グリコは気丈にも笑う。
「ウリエル、お前こそ翼はどうした?」
グリコの指摘通り、その背には翼がない。ウリエルが少し目を閉じ忘れていた、とでも言わんばかりに肩をさする。
「翼、翼か。そもそも私がそれを持っていたかどうかの話ではあるまいな」
ゴンドラも徐々に下降し始める。窓の外の景色は徐々に下がり、ウリエルが口を開く。
「この街で翼は必要ないというだけのことだ。空を見上げたとて歪な電網と肉の波、飛んだとて仕方がないだろう?」
「何故ここにお前がいる?」
「質問が多いな、グリゴリ。私はTtt社の一員としてこのアウターオーサカにおける管理を任されている」
Ttt、"トリスメギストス・トランスレーション&トランスポーテーション"。アウターオーサカ誕生初期に宇宙の保全に動いた六大企業、"六頭体制"が一つ。本来の宇宙であれば多くの神格実体が所属する企業団体であるそれは、ここアウターオーサカにおいては複合神にして錬金術師ヘルメス・トリスメギストスの元に、経済基盤たる信仰保全のため諸神の統括を行っている。
「この場所においてH.R.Kへの信仰は、すなわちこの宇宙の保持に繋がる。だというのにO/Oは気まぐれに呼びつける」
無論、その統括とは強硬な手段による他信教者の排除も含むものであり。
「そして、お前という存在はO/Oにおいて異分子である。だからこそ私が動いたのだ、このウリエルが」
地獄の閂を抜く天使として、ウリエルはもっともそれに適した一人だと言えるだろう。
気づけばゴンドラの下には仮面をつけたTttの私兵が集っていた。ゴンドラという完全密室の中ではもはや袋のネズミ。
歯噛みするグリコとまだ状況の分かっていない天市をよそに、動く必要もないというようにウリエルが淡々と言葉を重ねていく。
「お前はO/Oの声を聴いたのだろう?」
「O/Oの声?」
「少々形容しがたいが、O/Oはそれそのものが疑似的な神の身体だ。そしてその体は不特定の世界に指を伸ばし、その先にある者を呼び寄せる」
これを、O/Oに呼ばれる、とアウターオーサカの住人は呼称する。
「だとすれば?」
「O/Oは複数の多元宇宙と結びつき、それらから様々なものを呼ぶ。お前は呼ばれたのだ。傷ついたものとして、流されたものとして」
ウリエルの言葉にグリコの表情は凍り付く。何とか言葉を続けようとするその口元がパクパクと空気を掴む。
「……そうではないとでも言いたげだな。だがここへ呼ばれる者は皆が皆何かを間違えている」
「お前もか? ウリエル」
「無論だ、今の私は堕天使としてのウリエル。そうでなければ錬金術師の小間使いなどする気はないだろう」
心外だと言わんばかりに鼻を鳴らすウリエル。ようやく状況を理解したのだろう、天市がその身体に飛び掛かろうとした瞬間、ウリエルは天井からグリコの前に移動し、腕一本でゴンドラの壁へ押し付けると天市の動きを止める。そのまま何事もなかったかのようにグリコの眼前まで詰め寄った。
「グリゴリ、お前たちの誤りは単純だ。人間に禁じられた知識を与え、堕落せしめた」
瞳の色は服と同じ、くすみ一つない緑色。奇しくも、いや、当然ではあるがグリコと同じ色の虹彩。
「この街を見たか? 此処こそがお前たちの齎した未来だ」
同じ色の瞳に見つめられたまま、グリコは後ずさる。下降を続けるゴンドラの窓から広がるアウターオーサカの景色が揺らいでいく。動乱によって齎された戦禍、生きるもののいない荒野。地の上に聞こえる大洪水のうねり。
「名もなきグリゴリ、お前のことをミカエルは憐れんでいたよ。お前はずっと正しかったのだと」
表情一つ変えないウリエルの一方で、グリコの喉は喘ぐように空気を求めている。ミカエル、かつてグリゴリらを地の果てまで追いやった大天使。剣を持った端正な細面を思い出し、失った翼がそこにあったことを訴える。
「私に言わせれば正しすぎたのだよ、名もなきグリゴリ」
そうだ、とグリコは声に出さずに答える。私は正しくあろうと思っていた。ゴンドラが徐々に下降する。
「お前は悪徳の中にあってなお正しさを求めていたのだろうな。皮肉なことだよ、名もなきグリゴリ」
天市の呻く声がする。なんとかグリコに手を伸ばそうともがいている。
だが、その声はウリエルがさらに強く押し付けると苦しげな喘鳴に変わる。
そして、グリコがその手に気付くことはできない。グルグルと炎が、光が、フラッシュバックしていく。
「正しいが故にお前はこの街に呼ばれたのだ。全てが誤った悪徳の園へ。お前の正しさは誤りだったのだ」
グリコの中で何かが折れた。ふう、と息が全身から抜け出ていった。
何故、ここに来てしまったのか、このような悪徳蔓延る巷へ呼ばれてしまったのか。
「そしてその正しさはこの街でも必要はない。名もなきグリゴリ、ここに落ちてくることもまた誤りだったのだ」
それは、自分が"正しい"からだと、グリコは気が付いてしまった。
ゴンドラがかつての頂点へ、最下部へ到着する。
グリコこと堕天使グリゴリの一柱は高慢で、冷徹で、悋気な天使である。
他者を愚かであると断じ、正しき方向に導かねばと思い込み、優れたものを妬み嫉む。
だが、それでも正しくあろうと願っていた。獣のように生きる人々を憐れんでいた。唯々諾々と従わざるを得ない何かに離反した。恋だ愛だ誘惑だと他のグリゴリは語っただろうが、救いたいがために堕ちたのだ。それこそがとあるグリゴリにとっての堕天である。
与えられたものでなく、選び取ることは正しいことである。
自らはその可能性を与えるものだと驕っていたことは認めよう、より良きことになると楽観していたことも認めよう。
しかし、人間は正しさでもって、自ら考えることで悪徳を成した。血で大地を染め、罪が蔓延した。その光景は一人のグリゴリに揺らぎを与えるに十分だった。人間は誤った。与えられた知識を、より良きものとなるはずだった知識を使い、奪い、殺し合った。それはもはや止められるものではなく、ミカエル、ガブリエル、ウリエル、ラファエルら大天使に追いやられ、地の底に向かう戦いの中、グリコは自らに迷いを覚えていた。
悪徳が蔓延る地上において、自らをさらに地の果てへ追いやらんとする大天使。怜悧な表情のミカエルはその迷いを見て憐れむ表情を浮かべ、それでもなお片翼を斬り落とした。
翼を失い、もはや空を飛ぶことはできない。地の底へ堕ちる最中、名もなきグリゴリは考え続けていた。答えなどはない、答えなどは出ない。
そしてその悩みを無数の世界に食指を伸ばす、不倶の赤子たるO/Oが聞き届けた。
顛末はそんなものである。正しいと思うことのために天から墜ち、正しいと思ったことが過ちを引き起こした。
かつて飛んでいた大空は遠く虚空に消え、あとには惨めな残り滓として翼をもがれた私だけが残ったのだ。
へたり込んだグリコはゴンドラの扉が開くのを無感情に見つめていた。周囲を囲んでいたTttの私兵が近づいてくる。
私はどうなるのだろうか、あの地底へ還ることもできず、この地獄で死んでいくのか?
──────そうか、そうならば、私が向かうべきは結局同じ場所だ。地下深くから呼び出され、そしてまた還るだけだ。
ついにグリコはそれへ思い至ってしまった。何もかもが間違っているならば、ここで間違っているのは私だけなのだ。それが、私にとってはきっと正しいことなのだ。
「……ならば、ならば、私は!!!」
「おい、何を」
ウリエルの困惑する声を背に、重心を後ろへ思い切り傾ける。一瞬、天市の目が自分を見ていることに気が付いた。
少し、ほんの少し、その男をこの場所に残していくことに心がささくれた。それでも、重力は既にグリコを捕まえていた。
「──────正しさの中に堕ちていくさ!」
そしてグリコはゴンドラから身を投げる。重力に引っ張られ、その華奢な白い身体は虚空へと落ちていく。
Tttの私兵団が慌てて駆け寄る、間に合わない。ウリエルも身を乗り出す、だが彼は翼を失っている。
時は既に遅く、ウリエルは片手を額に当てそこにはない天を仰ぐ。
そしてこのオーサカで起こった堕天使事件は一人の愚かな堕天使が身投げし、虚空に飲まれる悲劇で幕を閉じる。
──────はずだった。
落ちる人間に手を伸ばし、引き上げることができた人間は英雄である。
落ちる人間に手を伸ばし、共に落ちてしまった人間は勇者である。
落ちる人間に手を伸ばし、届かなかった人間は善人である。
この悪徳と頽廃の街、アウターオーサカにはそのいずれも存在しない。
だからこそ。
落ちる人間に手を伸ばすことすら忘れ、共に飛び込む人間は。
「グリコ!」
どうしようもなく軽薄で、救いようがなく低俗で、例えようのない馬鹿である。
グリコの姿が窓の先の奈落へ落ちる瞬間、天市の中で何かが弾けた。
薄っぺらで間抜けなまま、彼は今なすべきことを見定めた。
こんな街に墜ちてきた、あんな綺麗なものが、ただ間違っているという理由で墜ちなければならない。
誰も悪くない、誰にも罪はない、つまりグリコはこの街で進むことができない。
だから、グリコを悪にしてやる。その為の生贄になってやる。
いいや、天市はそんなことを考えてはいない。考えていられるほど遅くはない。
ウリエルの手が離れたと同時にグリコを追って、何も考えずに窓を超えて飛び込んで。
遥か上に消えていくウリエルの驚く顔と赤い観覧車に、ようやく自分が何をしているか気づき。
「なんで!?」
全員を代弁するように叫ぶだけだった。
グリコは浮遊感に包まれていた。グリゴリとして生まれながらに堕ち、ネフィリムすらも届かない闇の中へ堕ちていく。
そうだ、それが正しいことなのだ、本来私は堕ちるものなのだ。だから、あの馬鹿な男と歩いた時間は、悪徳なのだ。
だが、観覧車から眺めたどこまでも続くような景色は。毒々しいネオンと眩暈のするような鉄の香りは。
悪徳によって栄え、誰もが躊躇うことなく生きることを選び取ろうと火を灯すこの街は。
言葉にすることも悍ましいはずの地獄の光景は、少し、ほんの少し、グリコには羨ましく思えてならなかった。
───人間はそれでもって進んでいく。悪徳と狡知を持ち、それでも前進することができる。
────片翼の私はそこにいるべきではない。正しさを中途半端に抱えた故障品は。
だからグリコは微笑み。どんどん遠くなる空の先、無情に見つめるO/Oに、最期の自分が反射するに任せ。
それを邪魔するように何かが飛び込んできたことに気が付いた。
安っぽいピアスがネオンを反射する。その光と、風にたなびく擦り切れたジャンパー。グリコは目を疑った。
「カタロー!?」
なんで、どうして、自分を救うつもりなら飛び込んだってもう遅いのに。混乱し、喉から声を出そうとして。
『なんで!?』
天市の情けない疑問にかき消された。
思わず、自由落下の最中にかかわらず、グリコは腹を抱えて笑う。
ああ、なんて馬鹿な男なのだろう。向う見ずにもこんな奈落まで飛び込んで来たのか。
私はずっと何かを考えていたのに、こんな無思慮に飛び込めるものなのか。過ちを犯せるものなのか。
ああ、笑ってしまう、涙が出るほどに。どうしようか、正直に言ってしまおう。私は今この街が、唾棄すべき悪徳が、愛おしくてたまらない。最初からそうだった。私の与えた選択を、人間はひたすらに行使していた。誤り、誤り、誤って、しかしその道が袋小路に行き着くことはなかったのだ。
「お前たちを救いたいよ、カタロー!」
先ほどまで空っぽだったにもかかわらず、グリコは満ちていた。片翼でバランスを取り、天市の元へ向かう。
この翼で誰が救えるのか、またあの時のようにならないか、ウリエルの言葉が脳裏によぎる。
───どうでもよかった。今このとき、天市に向かって飛ぶ自分にとっては、どうでもよかった。
意志が落ちることに抗うものなら、正しさに背くものならば、構うものか。私は今、救いたいから救うのだ。
落ちてくる天市を抱きとめ、なんとか片翼で勢いを殺す。だが、グリコ一人ならばともかく二人分の体重を支える力はその翼にはなく。2人まとめて奈落の底へ自由落下は続いていく。どうにか天市だけでも引っ掛けられないかと焦るグリコを、ようやく落下の恐怖から戻ったのだろう天市がきょとんと見ていた。
「……グリコ、マジで死ぬかと思ったよお!!! でもお前飛ばないっていったじゃんかよお! しかもまだ落ちて、死ぬ、死んじゃう!!!」
「ええい、うるさい! もうどうでもよくなったのだ! お前がそうやって落ちてくるから! 一緒に落ちてくるから!」
落下状態が続いている事に気付いたのか、恐慌状態に陥った天市、対照的にグリコは笑う。
「何とかしてくれよグリコ!!!」
「お前なあ! 惚れた何だと言っておきながら情けない! もう少し甲斐性というものはないのか!?」
「ないよお! 何にもないから、お前が来てくれたんだと思ったんだよ!」
顔をくしゃくしゃに歪め、伝う涙は上へ流れていく。涙の流れる先へグリコはふと視線を向ける。
上空に広がる反転した都市。O/Oの声だけが響くその空に、あるいは地の底に。グリコはそれを見た。
グリゴリ、その名は"見張る者"。人々の営む地上を見つめるための目は、この窮地において大地の中心を見た。
アウターオーサカの中心、佇む第二太陽の塔に住まう人造神H.R.Kの目を。
その目は間違いなくグリコを、それに負われる天市を見つめ返した。
そして、宇宙全てに響く音で、笑った。
正しいが故に堕ちた堕天使と軽薄が故に飛び込んだ愚者。確かに観客席から見ればただの喜劇。
手を叩き、腹をよじらせ、最前線のS席で、笑い声が響く。
"Sombody Stole My Gal"のメロディーが、"Because We Can"のリズムが宇宙を震わせる。
蝉の羽音が響く、カワウソの鳴き声が炸裂する、崩れ落ちた東京タワーとワールドトレードセンターの影が踊る。
ここは今、最前の地獄である。
かくしてここに条件はそろってしまった。
"死に直面するようなトラウマを想起する場面で、神格に向き合う"という条件が。
虚空を眺めていたウリエルの表情へ初めて歪みが走る。天上を見上げ、響く神の不協和音に歯を軋らせる。
「これだから地霊ゲニウス・ロキは!」
天市の右肩から紫煙が迸る。形を変え、歪な翼を編み上げる。
子供のおもちゃのように稚拙、弱々しく脆いガラスのようなその影。
タイプ・パープル。エーテル投射を行う現実改変者。天市花太郎は紫の片翼を持つそれとして今目覚めた。
しかしそれは片翼。この虚空そらを飛ぶには頼りなさすぎる翼。
だが、天市の隣にはグリコがいる。誰かを救うという名の罪を有した翼が。
白と紫の翼が大気の粘りを掴む。息を合わせることなく同期した翼がはためき、揚力を産む。
湿り気を含んだ血漿とスモッグの混合気体。切り裂くように翼は一つの生き物として動く。笑い声が、笑い声が高く響く。
高慢は過ちだ、冷徹は過ちだ、悋気は過ちだ。軽薄は悪だ、低俗は悪だ、馬鹿は悪だ。
────だから、だからだ。だからこそ飛ぶのだ。この虚空そらを。
誤ることを恐れるな、悪徳であることを恥じるな、ただ、ただ望むがいい。
より上へ! 上へ! 上へ!!!
「グリコ!? なにこれ、すげえ!?」
「ええい黙れ、舌を噛むぞ! 何がどうなっているか分からんが、今はまず上に飛んで、そしてあのクソったれたウリエルから逃げる! その翼、保てよ、カタロー!」
「そ、そうだな! なあ、グリコ!」
アウターオーサカには空がない。だから飛ぶ者などいない。ウリエルですら飛行の権能を半ば忘れていたのだから。
「俺も一緒に行っていいか?」
「今更何を言っている、こうなれば仕方がないだろう」
ジェット機の如く風を切り、ウリエルですら捉えられない速度で2人は上昇する。
既に虚空は遠く、遥か眼下に飛んでいる。都市の中央に佇む塔を背に、林立する摩天楼の中を上も下もなく飛んでいく。
「グリコ、俺は惚れてるんだぜ」
「知ってるさ、だから何度だって言ってやろう。お前のような軽薄な男は、きっとろくなものじゃない」
ここには今、何もない。2人と、O/Oの笑い声以外には。
「だからまあ、救ってやろう、カタロー」
その日、天使が墜ちてきたその日。
胸のすくような風切り音に、子どものように笑うH.R.Kの声に。
アウターオーサカの住民は久しぶりに上を見上げた。そこに空が無いことを知りながら。