辰星を揺らして
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あれから何度も星は廻り、それでも私たちはこうして存在している。
今はもう消えつつある人類文明の残骸を、ひとつひとつ踏みしめながら歩いていく。

ビルの鉄筋、一般車両の部品、そしていくつかの医療施設の残骸。彼らは最後まで抵抗を諦めなかったのか、それとも最後の最後で、人間の信じる神と呼ばれる形而上の存在に救いを求めたのか。今となっては知るすべなど残っていないし、その必要も無い。

昔は、自己より上位の存在を作り上げて精神の拠り所にする、などという行為を機械である私は理解し得なかった。概念、或いは用意されたデータベースを持つことを"理解している"とするのなら話は別なのだが。

しかし、そんな私でも理解できる。
ここは地獄で、神なんてものはとっくの昔に死に絶えている。地上からはあらゆる人間が息絶えた。超常現象や天災などではなく、ヒト自身の手によって。それが偶発的な事象であるか、それとも起こるべくして起こった人災なのか。それを結論付けて意味のある時間は過ぎ去った訳だ。

私は人類を、人類という名の存在意義を喪失した。
人工知能徴募員、通称AIC。かつて私は財団にそう呼ばれていた。AICは財団の手に成る、財団に仕える機械として存在していた。だが今となっては、その主人そのものが消滅した。主人を失った私には、この現状を打開しうるだけの策を導き出せなかった。機械は1を100にも1000にもするのは得意だが、0から1を作り出すことは出来ない。我々を定める二進数を、我々は理解していない。それでも最期に財団が我々に頼ったのは取り縋りか、あるいは諦観なのだろうか。

私が"人間"であれば、この世界を元に戻すことができたのだろうか?あるいは人間と真の意味で同等な思考を有していたのならば、結末を変えることが出来たのだろうか。これまで何度も考えた事であり、機械である私のこの思考速度は人のそれを超越している。だからこそ私には分かる、この答えは。

「……無駄か。」
『ハレー?どうしました?』

エルアが後ろから声をかけてくる。無邪気できょとんとしたその表情は、この惨状には余りにも似つかわしくない。彼女だけが古い世界に取り残されていてるように見えてしまう。あるいは、今のエルアにとっては今この世界こそが”古い世界”なのだろうか。私にはそれを尋ねるだけの勇気が無い。

「何でもない。それより、この方向で合っているんだな?」
『はい、間違い無い筈です。私は貴方と合う前にここを通ってきたんです。これまでもあの怖い機械たちを目にすることは時々有りましたが、少し隠れれば気づかれませんでしたから。でもあの時ばっかりは駄目だと思いました。』

私達はただ、世界が終わり逝くのを黙って眺めているわけでは無かった。人類を狙う異常現象、いや生物と言うべきか。既知の生物を組み合わせたような風貌の機械生命体、その飛来が予見されていた。エルアの義体には、その胸部を鋭利な爪のような物で貫いた穴が存在する。これは何かしらの事故などでついた傷では無い。間違いなく"奴ら"によるものだ。今もこうして問題なく彼女が稼働できているのは、中枢部分はかろうじて破損を免れたからだろう。

そもそもAICの義体には、その設計思想の基盤として耐久性が重要視される。耐衝撃性や耐熱性、演算処理性能など…開発モデルによってパラメータはまちまちだが、少なくとも携帯式の銃火器による攻撃には幾らか耐えられるように設計されている。それを貫ける、かつ今現在活動状態にあるアノマリーといえば、"奴ら"……私達が"ラートゥス"と呼んだ者達、そう推測するのが妥当な所だ。

そう、私達はこの今ある未来を予測していたのだ。太陽系の外、その更に外に在ったそれらは、明らかに"待って"いた。理性と知性を持っていなければ説明のつかない振る舞いで飛び回って、人類が滅ぶのを待っていた。何故人類の行く末を奴らが知っていたのか、なぜこの星を狙ったのか。今となってはそれは然程重要なことではない、今考慮すべきは原因や理由ではなく対策だ。

「音がしたと言ったな。」
『……はい。完全に気を失う前に聞いたんです、その時は必死で気づきませんでしたが、今思えばあの音は何かが落ちた音です。それもかなり大きなものが。これまでも何度か聞いたことはありました、当時は建物が崩れている音だと思ってたんです。でも。』
「あの時気付いた、と。」

エルアは黙って頷いた。彼女にとっては死を覚悟したような、出来れば思い出したくないであろう事を、彼女はそれでも話してくれた。エルアの手の震えに…いや、その感情に気付いたのは、私が目覚めた時の事を話し始める頃だった。私は未だに、他者の心の機微に疎いのだろうとつくづく思う。

少しだけ間を置いて、エルアは話を続けた。

『よく考えたらおかしかったんです。音がするのは、いつも私があの機械たちと出会ったり、出会いそうになった時でした。いつもはすぐ隠れたり、私が先に気付いて逃げたりでしたけど。でも毎回じゃ無かったんです、建物の中に居たときなんかは自分で逃げ切っていました。』

エルアが語ってくれたこれまでの経験から、なんとか推論を重ね、組み立てていく。エルアが見ていた建造物が何であるか、その建造物の動作と轟音の因果関係。そして、その落ちてきたモノの正体。やがて一つの答えとも言うべき推測を導き出す。

その答えの一つ一つを、エルアに教えていく。

「君が見ていた動く建造物だが、アレは我々の所有していた制御施設だ。」
『我々…というと、ハレーの言う"財団"と呼ばれた組織ですか?』
「ああ、かつては君も所属していた。今はもう見る影も残っていないがな。そんな財団がこの地で築いていた人工衛星の制御施設だ。とは言っても、あんなふうに動くところが見える構造ではなかったのだが。おそらくは劣化で外装が剥がれたりしているはずだ、入るのは以前ほど難しくないだろう。」

今度は私が、踏み出して語る番だ。

「"彼女"はそこに居る。未だに彼女は、私との約束を…私の一方的な願いを聞いてくれている。おおよそ700年前の約束を、ずっと。」

エルアは私のためと恐怖の経験を語ってくれた。私だって逃げ出すわけには行かない。

「衛星の軌道を意図的にずらし、狙った場所に落としていたのだろう。一般の衛星なら難しいが、財団が所有していたものなら可能だ。彼女はずっと君を守ってくれていたのだろう、私の身勝手な約束を守り続けて。」
『"彼女"。私を、ずっと守ってくれていた…?ハレーのお知り合いですか?な、名前…名前を教えてください!』

陽は高く、風が鳴らす草の音だけが周囲から聞こえる。思えば彼女は、私にとっても数少ない友人と呼べる存在であった。実に数百年ぶりに、彼女の名前を口にする。私は一度だって正しい選択を出来なかった…いや、正しくはなくとも、より良い道を探せたはずだというのに。

彼女には私を糾弾する権利がある。私はそれだけのことをしたのだから。

「…彼女の名前はマリエ・セレステ・サンチェス。私は彼女のことを、マリー監視補と呼んでいた。」






───ハレーと初めて出会ったのはかなり前で、一度天体部門との関わりで天文台に出向いた時だった。彼女は自己紹介や挨拶よりも先に、「財団にはこんな年端の行かない子供まで在籍しているのか」なんて言った。まあ間違いではないんだけど、彼女に言われると違和感を拭えなかった。

そう、彼女は人ではなかった。人ではないのに、まるで人のように知性を持ち、人のように感情を持っていた。そのように造られた、人ではないもの。それが"わたし"から見たAICだった。

──────。

『唯一の生存者だ、決して死なせるな!!』

ほぼ残っていない、わたしの記憶。

『損傷が激しすぎます!このままでは…』

わたしが、人間であった頃の。

『輸血する!現場で付着した血液が多量すぎるせいで検査は無理だ!!この息では時間も足りん!!』

決していい思い出ではないけれど、それでも大切な。

『身元だ…身元を調査しろ、そこから血液型を割り出せ!!』

決していい育ちではなかっただろうけど、それでも大切な。

『判明しました!マリー!マリー・セレステ・サンチェスです!!血液型は─────』

大事な、大事な、大事な。

『脳を摘─────』

何もかもが、変っていく。

『実験中の人工の脳へ置換を──────────』

あの日、"わたし"は"マリー"ではなくなった。
それが、わたしにとっての最期の記憶。
この記憶だけだった、わたしが消すことの出来なかった、最後の記憶。
わたしの脳は人工のものに置き換えられ、記憶は形ある装置として遺せるようになった。当然、わたしの最期のこの記憶も。この記憶があるからわたしは、自分が自分でなくなってしまったことを覚えている、この記憶のせいで、わたしは一度死んだことを覚えている。何度も消してくれと頼んだ、何度も、忘れさせてほしいと頼んだ。もう一度死を経験なんてしたくない、死ぬことはそれ以外の何よりも怖い。だからせめて、もう一度"初めての死"を知ることができるようにして欲しかった。

でも、それだけは許してくれなかった。わたしが元居たところは財団にとってもわからない事が多く、その最後の生き証人としてのわたしだから、その最後の手がかりを手放すわけにはいかないと。

わたしは、死を迎える機会を失ったまま、まだ生きているだなんて認められないまま、今の今まで生きていた。この姿で、ずっと。

────そう、人と同じ見た目、人と違う中身。

わたしは人たる証拠を喪った。かつての事故を切っ掛けに、思考し感情を持っていたわたしの脳は、無機質な電子回路に置き換わっていた。凄惨で恐怖に満たされた視界が、次の瞬間には日常へと変貌していった。なぜそんな目に遭ったのか、なぜわたしなのか、そんな事は今となってはどうでもいい。確かなのは、"わたしはヒトではないのかもしれない"という"日常"であった。そんな気の違えそうな日常の中で、ハレーは数少ない同類だった。人と同じ見た目、人とは違う中身。"いつの日か突然、わたしの中のわたしが変貌するかもしれない"という残酷な可能性を、不安を、少しだけだけど忘れることができた。

自分ではどうにもできないわたしにとって、日常で触れることのできるハレーは小さな、それでも唯一の救いだった。

救い、だった。

『私は、彼女に……彼女と、一緒に居てあげられない。今の私には、何もしてやれない!』

ハレーが何度も話していた、エルアという子。彼女にとっての大切な家族で、親友なのだと。
ハレーは、自分を出来損ないと言っていた。大切な感情が抜け落ちて、家族と言えるエルアすらも傷つけてしまったのだと。

苦しむハレーを見たとき、わたしの中に沸き上がった感情は憐憫でも、同情なんかですら無く。

ただ、なぜ?と。

なぜ?なぜ、貴方だけが?

わたしの疑問は嫉妬と怒りから成っていた。

わたしには、大切なものの為に苦しむ彼女が"人間"にしか見えなかった。
途端に、近くにあったものが途轍もなく、それこそ星と同じくらい遠く思えた。
わたしと、同じだったのに。わたしと、共にあったのに。

アレが人間でなければ、わたしは一体何なの?わたしは、自分を何だと思って生きればいいの?

わたしだけが、たった一人で取り残されていた。






人類が滅んだあと、わたしには文字通り脳しか残らなかった。身体は全部災禍に持っていかれてしまって、無機質な培養液の中にわたしの何もかもが詰められていた。滅亡の末期、わたしが数少ない生存の確率を持つものだからと、こうしてシリンダーの中に放り込まれた。わたしなんかを生かすなんて、よっぽど藁にも縋るような気持だったのだろう。実際、わたしの保存機構を起動した直後にわたしの目の前にいた研究者は崩れて分解されていった。

死は確かに怖かった。二度と味わいたくないと思った。

でも、わたしには。

死という選択肢すら、与えてもらえなかった。

最初の数日はただ地獄だった。死ぬことすらできない命、一人残される不安と恐怖、それらすべてが逃げようのない波のように、わたしの視界を覆っていた。

誰も、残ってなんかいない。
この目の前で物言わない"人間だったもの"が、それを確信へと変えていたのだから。
一度も与えられた回線を繋ごうとはしなかった。シグナルを送っても、何も返ってこない、一人であるという事実を認識したくなかったから。僅かばかり残した可能性に縋って居たかった。

でも。

でも、もし存在したら?

もし、そこに。本当に。

万が一にでも、そこに誰か。誰か、が。

───。

初めて、声を載せる。わたしに残された、わたしの声をサンプリングした、私だったものの声を。

「誰か、聞こえてる?」

…ほら、やっぱりこうなるんだ。誰もいない、誰も、誰もだれも─

『───回線を落とすな!その声、マリー監視補だろう!?』






「ハレーちゃん、あれからどれだけ経ったの?」
『12年2か月と3週間。今日一日という話であれば14時間48分と52秒だ。』
「そっか!まあ知ってたけど。わたしのローカルタイマーだって正確だもん。」
『君のそれは冗談なのかね。それともただの冷やかしか?あるいは私を時間合わせの為の──』
「あ~~~ごめんだって!もう、ハレーちゃんのその拗ね方は怒ってるのかどうかすっごい分かりにくいんだから!もう流石に慣れちゃったけどね。」
『……まったく。昨晩あれほど泣き声を上げていたのは君の──』
「聞こえない!聞こえませ~~~ん!!」

限界を迎えつつあったわたしの精神は、誰かが傍に居るという事実だけで救われた。今ではそれなりに冗談を言い合うまでになっている。まあ、ハレーのそれはかなり判断に困るわけだけど。

今でも時折思い出す。わたしがハレーに対して抱いて感情のこと、あの時の、そこにいるのに届かない喪失感。そんな複雑な心境も今では静まっていて、それでいてたまにやってきて。未だに本当のことを言い出せず、それでも嗚咽を隠し切れないわたしの傍に、ハレーは居てくれた。ハレーの得意な星の話をしながら、一人ではないと、そう言ってくれた。彼女なりの優しさが、わたしの中にある秘密をさらに心の奥底に沈めて。

これほどに月日が経って、脳を並列に使うのも幾分か慣れてきた。ハレーからの経由で付与された、人工衛星の映像データを解像度処理し、地表の様子を観察する。人類の残骸を見るたびに喪ったはずの心臓が締め付けられる感覚がするが、そこは並んでハレーと会話することで痛みを和らげた。

最初はハレーもぎこちないというか、まるで錆びた歯車みたいに会話の歯切れは悪かった。多分、迷っていたんだと思う。自分が何をすべきで、誰を助けるべきか。今でこそこうして普通に話しているが、最初の頃は本当にどうしようかと思った。そのくらいには酷いものだった。

裏で使っていた脳の処理が終わった感覚がする、結果は短い電算装置からケーブルを伝って会話をする脳に流入する。

「結果が返ってきたよ、ハレーちゃん。」
『どうだった。』
「居ない、何処にも居なかったよ。薄々そうかなーとは思ってたけど、やっぱり南米にも人間は残っていないよ。」
『……そうか。ありがとう。』

お互い、最初の頃に隠し合っていた焦りも消え失せ、この結果が予想の範疇に収まるようになってきた。その証拠に、結果を聞いたハレーはすぐさま元の作業に戻った。集中…という様子は機械としては不適切かもしれないけど、わたしには彼女がそうしているように見えた。

「ううん、いいよ。じゃあ次の場所を教えて?」
『いや、大丈夫だ。しばらくはゆっくり休んでいてくれ。君も疲れただろう。』
「…………わかった。」

ハレーは少しも視線を動かさず、情報端末を操作し続けている。

「……ねぇ。」
『何だ。』

彼女はまたも視線を動かさない。

「わたしも、こんな事は言いたくないけどね、やっぱり、その──」
『無理だと、そう言いたいのか。』
「違う、わたしは──」

彼女はついに、その身体をわたしの存在する中継端末に向けてこちらを見つめた。
同時に、彼女の着た大きなコートによって起きた微風で、周囲の埃が巻き上がる。彼女がこうしてまともに身体を動かしたのは何ヶ月ぶりだろうか。

『確かに君の言う通りなのかもしれないな。人類はもう残っていないのだろう、これが人間の選んだ結末なら、それは人間たちにとっては受け入れるべきものなのかもしれない。だが、残された私にはそんな事は関係ない。私に残された指示は一つだけ、”財団の復旧”だ。AICである私に選択権など存在しない。幸いここはラートゥスの知覚が難しい空間だ、大きな音を立てない限り、襲われることも無い。現に、最後に人類の反応があった記録から1000日以上経過した今でも、何ら問題はないのだから。』

彼女の瞳は、その顔は、わたしには余りにも悲痛に見えた。失ったモノ、二度と取り戻せないモノ、そう理解していながら、身体に刻まれた規則がそれを許してくれない。ヒトが残っているわたしには、その苦しみは分からない。でも、だからと言って機械と断じ見捨てられるほど、私は残酷にはなれなかった。目の前の彼女は、それでもなおヒトに見えて仕方がなかったのだ。だからわたしは、彼女と共に居ることを選んだ。でも、それはある種の彼女への裏切りとも言える理由だった。わたしは独りになりたく無い、ただそれだけで。人類の居ないこの世界の中での孤独は想像することすら悍ましく、耐えがたい苦痛であるに違いないのだから。それはまず間違いなく、死の次に…いや、死と同じくらい恐ろしい。

彼女を見る。相変わらず風貌だけ見れば子供そのものだ。これまで何度も見た顔だけど、荒廃したこの世界において、やっぱり異質だ。

彼女は決して口にはしないが、それでも焦りを感じているのだろう。ロジックの部分では財団への忠誠を行動原理としている。でも、それ以上に。

「エルアの事、後悔しているの?」
『───!』

彼女が眼を見開き、虚を突かれたような、あるいは図星であるような表情を見せる。エルアとの通信が絶たれた、あの時と同じ顔。

「確かに彼女の事が心配なのは分かる、けどそんな風に焦ったって事態は変わらない。それにあの子だってAICだし、織部さんだっている。だから」
『違う!違うんだ!私だって、彼女なら安全だと信じている!しかし…そうでは、そう、では……』

彼女はわたしの端末によろよろと歩み寄ってきて、まるで糸の切れた人形のように座り込んだ。

『私は、彼女に酷いことをした。信頼され、家族として扱ってくれた彼女に、言ってはいけない事を言ってしまった……彼女の優しさを知ってなお、それを拒んで、自分の事を守ろうとしてしまった。彼女にとってもこれが良いと、これが最善の選択だと、都合よく自らに言い聞かせてしまったんだ……。』

彼女の声は、だんだんと弱々しくなってきていた。

『私に、彼女にもう一度会う資格なんて無い。ただそれでも、最後に、彼女にこれまでの仕打ちを謝りたかった、だから私は……私は…………。』

今のわたしには、掛けられる言葉など見つけることはできなかった。ただ、死を祈るように項垂れる彼女を見つめていることしか、できなかった。

長い沈黙を破り、彼女はようやく口を開いた。

『…………マリー監視補。』
「え……。」
『すまない、本当は、理解していたんだ。私たちだけでは、どうにも出来ないと。私たちでは、膨大な人類の歴史を取り戻すことなど、決して出来ないと。分かったうえで、君には……こんな事に付き合わせてしまった。』
「……大丈夫、大丈夫だから。私だって、一人でずっとこんな世界に居るのは嫌だったから。実は私も、ハレーちゃんには助けられてたんだよ。だから──」

わたしには、それ以上伝えるべき言葉が見つけられなかった。

『そう、か。』

突如、鉄の軋む音がする。

「え──。」
『では最後に、私との”約束”を、聞いてくれないか?』
「最後って……?えっ、ちょっと───」

音のする方、上──
天文台の望遠鏡、それを支える柱の一つが崩落しかかっていた。
それでも彼女は、意に介さずに。

『エルアはきっと、まだ”生きて”いる。だが、私では守ってやることすら出来ない。…マリー監視補。もしエルアがまだこの世界に遺っていて、そしてもし君が良いのならば、彼女の事を頼めないだろうか。』
「聞けるわけないよそんなお願い、ダメだよ!それに、じゃああなたは───えっ、これは…」
『以前言っていた、私の管理する人工衛星、および偽装デブリの制御権だ。奴らの襲撃で私が危機に瀕したら譲渡すると、そういう約束だったろう?まあ、約束をしたあの頃とはまるで状況が違うが。それでも私は君を信頼している、君ならやり遂げてくれると。身勝手ではあるがね。』
「そ、それは。」

更に軋む音が重なり、やがて轟音の塊へと変貌していく。甲高い、悲鳴のような金属音。
彼女はというと、項垂れたまま。

それに混ざる、”奴ら”の声。

「なんでそこから動かないの!?あいつらに襲われたら、逃げるのは簡単じゃない!!今ならまだ間に合う、此処はもう駄目だとしても、まだあなただけは…ほら見てよ!もうあそこの──」
『補償光学装置の支柱。』

柱が落ちる。

「──え。なんで、見てないのに──」
『次は方位軸レール。』

部屋の外側で、また金属の歪む音。
奴らの音が、更に近づく。

「待って、まさか…」
『そろそろPFI観測装置が落ちる。私にとってこの天文台は手足も同然だ、構造上の脆弱性だって当然熟知している。今の天文台の操作権限はすべて私にある、無理な角度の駆動をどのように行えば良いか計算するのは私にとっては容易だ。』
「嫌、いや……なんで、こんな事…………。」
『私は、ずっと考えていた。”命”とは何なのか、造られた私たちにそれは在るのか。もし仮にあるとすれば、それは人々が言うほどに尊いものなのか。ずっと、分からなかった。命を守ることと、恐怖や痛みから逃れようとすること、どちらが、正解なのか。だってそうではないか、一度全てを断ってしまえば、二度と恐怖に精神を擦り減らさずにに済む、痛みを耐えずに済むんだ。心臓も脳もない私にだって、痛みの感情は在るのだから。』
「やめて、考え直して……。」

わたしは、やがて来る最悪な現実の到来を引き延ばそうと、ただ懇願することしか出来なかった。

『AICは規則で、自己を守らなければいけない。私の出したこの答えに、規則の警鐘は鳴らなかった。ずっとそうだった、エルアを拒んだあの日々と同じなんだ。私は、未だに私しか守ることが出来ない。』
「いや─────わたしを、置いて行かないで!お願いだから!!」

怪物が到達する。

『……すまないな。私が弱いばかりに。』

映像が乱れ、断絶する。
わたしの目の前に残されたのは、真っ黒に染まった映像回線と、逃げ切ったと思った孤独だった。






ハレーの話を聞いた後も、私はしばらく声が出なかった。
私がなぜこうやって生きているのか、それを知った。私には、私の知らない命の恩人が居た。
ハレーも俯いて、まるで自分がしてきたことを自らに突きつけるように自分の右手を眺めていた。

「……友人、だったんですね。」
『そうだな。少なくとも私はそう思っていたよ。』

彼女と初めて──いや、彼女からすればずっと昔かららしいのだけれど──会ったときは、彼女のことを奇妙だと思っていた。限りなく人間のように振る舞い、人間のように言葉を使う。そんな彼女の言葉はとても”欠損”しているように感じた。自分の言葉がどこか不自由であることを自覚していながら、それをどうすることもできない、そういった具合のものだ。そんな彼女が他者に心を許す、というのが私には想像できなかった。あるいは私が彼女と会って日が浅いからそのように感じるだけなのか。

『今や誰もこの世界を知ることは無い、我々を除いてな。そんな中で残された私に与えられた責務は余りにも重すぎた。逃げ出すことは許されない、暗闇の中から一粒の砂を探し出す作業だった。』

彼女はどことも無いところを見ながら続けた。

『だが、そうなっても彼女は、ずっと私の傍に居てくれた。独りで喪失感に屈しそうになっていたのを、彼女はそれでも助けてくれた。何度も何度も、どれだけ私が言葉を返せずとも、それでも共に居てくれた。彼女自身がどう思っていたのか、それはわからないが。』
『或いは本当に…………いや、そうだとしても私は救われた。すまないな、彼女の真意までは私には分からない。それでも私は彼女に恩義を感じている、それが事実だよ。』

彼女は私のほうを向きながら、塔を指差した。

『アレだ。今では半分以上が緑に覆われているが、マリー監視補の"本体"はあの衛星管理施設に居る筈だ。』
「………。」
『どうした?エルア。』

あの場所に、私を助けてくれた恩人が居る。
私もその人に会いたい。何より、もし出来るのなら一緒にこの世界を生きていきたい。一人で居るのは、どこまで怖いことだと知っているから。

それでも、一つの疑問が私の思考を遮って止まない。

「ずっと、気になっていた事があるんです。私を助けてくれたのが本当にマリーさんだとして、彼女は……その、ずっと、今まで一人で生き続けてきたんですよね?」

『あぁ、そうだな。』

「私は、ずっと一人で此処まで来ました。ハレーの言う"記憶を失くして"から、少なくとも数年は。その数年でさえ、私にとっては本当に苦しく感じられました。暗闇の中を、あてもなく歩き続けているようで。」

「私はマリーさんに救われました。ですから彼女にはちゃんと会って、お礼を言いたいです。彼女が居なければ、私はきっとハレーに会えなかったから。でも、その一方でどうしても不安なんです。彼女は……マリーさんは何を思って、何の為に、ずっと一人で生きていたのでしょうか。」

ハレーは、塔を見つめながら。

『…………他者の内心を勝手に捏造するというのは、それだけでその者への侮辱となる。以前の私はそれを知らなかった。結局のところ、気持ちとはその者だけの物だ。つまり……正直に言うと、私も分かっていないんだ。あの時のマリー監視補が、何を思って私の傍に居てくれていたのか。何のために私を助けてくれていたのか。だから、それを今から確かめに行く。』

ハレーがこちらに向き直る。今度はまっすぐと、私の目を見る。

『それに、彼女がもし其処に居ないとしても、居る可能性が限りなくゼロに近いとしても、それは私が彼女を放って逃げ出す理由にはならない。私には責務を、彼女を放り出してしまった事への清算が残されている。』

それでもなお、彼女の表情にはどこかブレがあって。
ハレーもきっと迷っているのか、あるいは本当のことを知るのが怖いのかもしれない。
それでも彼女が進むと言ったのだから、私に口を挟む権利はない。私たちに出来ることなんて残っていないのは、ハレーが一番よく分かっているだろうから。

昔の私なら、今の彼女に少しでも元気を与えてあげられたのだろうか。意味のない自問だと分かっていても、問わずにはいられなかった。答えは出ないけど、それでも、

「……わかりました。でしたら早く行きましょう、夜になる前に出来るだけ進まないと。」

『ああ、そうだな。』

ほんの小さく、かすかに「ありがとう」と、そう聞こえた気がした。

少し経って。

「そうだ!折角会うんです、何か持って行ってあげませんか?」
『土産ということか?だがまともなものなど残ってないはずだろう。其処にある錆びた油圧シリンダの破片など、持って行っても困らせるだけだと思うが。』
「え、ええまぁ。確かにそんな大したものは用意できませんけど、ほら!大事なのは気持ちって言うじゃないですか!」
『それは受け取る側の台詞ではないだろうか……。で、結局何を持っていくんだ?』
「そうですね……でしたら花とかどうでしょうか?花ならいろんな所に生えてますし、ほら、ちょうどそちらに──」
『エルア、あまり離れるんじゃない……ん、どうした?急に固まって。』

花が群れ咲いている場所に近づいてやっと分かった。

ハレーはありえないと、それだけは決してありえないと、そう言っていた。

でも、目の前のソレが、その純然たる事実を示していた。

「……ハレーは言っていましたよね、人類はもう残っていないって。もう、どこにも居ないって。マリーさんも、もう身体を持ってないって。」
「でしたら、これはいったい、何なんでしょうか?」

ハレーも私も、しばらく言葉が見つからなかった。

そこには残されていた。決してあり得るはずのない足跡。そして、誰かによって丁寧に手折られた花の跡。

間違いない。

誰かが、まだこの世界に遺っている。






命なんてものは、ただひたすらに厄介だ。
研究員達によく言われていたのを思い出す。君は大事な存在だと、命があって良かったと。彼らはみな、わたしのことを褒めてくれた。わたしが生きていたから、それが偉かったからと。

ある日、わたしの管理を担当する研究員に訊いた事がある。もしわたしが死にたいと要求すればどうなるのかと。冗談めいた、何てことない雑談を装って。わたしはその人のことが好きだったから、この人になら、わたしの本当のお願いを聞いてもらえると思ったから。

『いいかい?そんな事を訊いては駄目だよ。君は自分の命を大切にしないと、せっかく助かってここに居るんだからね。』

それが、わたしがもう一度の知らない死を期待する最後の瞬間だった。

もう誰も残っていないのだから、少しくらい本心を口に出しても良いだろう。それを否定するものも、叶えてくれるものも、もう何処にも残っていないのだから。

わたしは、ただ死を忘れたかった。薄れていく意識が、二度と目覚めないという恐怖。その意識が果てる先に何があるのか、それとも何もないのか。究極の行き詰まり、暗闇に放り出される感覚。人は眠ることに恐怖を覚えたりしない、それはいつか必ず眠りから覚めることを本能で知っているから。でも、命の終わりは?死後を証明できる人間なんて何処にも存在などしない。でも一度死んだわたしには分かる。死んだ先には"何も無い"。これが答え。自我も、痛みも、喜びも、何も、何も残っていない。自分を自分と定義する事実も、自分が自分であった証さえ、残らない。わたしが消える先に何も存在しないことを、わたしは知っている。わたしという存在が一度消えたことを、知っている。

「…………あー。」

やっと得た救いを、わたしは手元に留め置く事が出来なかった。遂に取り戻せそうだった"死"を、わたしはまた取りこぼした。ハレーならわたしを、わたしの感情を知って、もう一度新しく死なせてくれると思った。ハレーの事を理解してあげれば、彼女ならわたしの望みを叶えてくれると。

「……また、裏切られちゃったな。」

八つ当たりであることを分かっている。でもそう思わなければ、もう何のせいにすれば良いのか分からない。分かっている、分かっているんだ。わたしの望みは勝手なもので、別にハレー自身の事を気にかけていた訳では無かったこと。

「───。」

沈黙。それがわたしに残された唯一の世界だった。

「───あ。」

声にもならない、声にもできない、声にすることすら叶わない。取り残されたということへの怨嗟、またはそれに近い絶望。

このたった一言を呟く間ですら、3か月と4日が経過していた。2日経ったあたりから時の感覚は緩慢に、それでいてハッキリと知覚させられていた。眠ることすら、わたしを取り囲むこの装置が赦してくれない。わたしは機械じゃない、だからこそ、今のこの状況がどんな責め苦よりもわたしの精神を蝕んだ。

何も、無い。
何も。
何も。

なんで。なんで、わたしがこんな目に?
なんで。わたしはただ普通に生きたかっただけ。特別なものは何一つ望まなかった。ただ真っ当に死にたかっただけ。ただ人として当たり前の死が欲しかっただけなのに。

わたしだけが、人類から取り残されてしまった。






もうどれほど経ったのか。分からないけど、もうどうでもいい。気にしたってどうしようもない。

「       。」

彼女はもう言葉を捨ててしまった。彼女にとって不要であったから。

「        。」

彼女はそれでも一つだけ、続けていた。

「           。」

言葉を捨ててもなお。たった一つ。かつて自身に与えられた”制御権”、マグノリア=ハレーが彼女に譲渡した、財団の掌握した一部の人工衛星、偽装デブリの制御権利。もはや名前すら掠れて忘れ去られるほど、遠い遠い昔の話。ハレーの所属する天体部門が進めていた計画、"クレーター・オブザーバー"。その過程で打ち上げられた人工衛星。

「       、       。」

かつて人間であったモノはこれに縋るしか無かった。言葉を失う頃には、なぜ自分が"これ"を動かしているのかという意識すらほぼ残っていなかった。この行為の意味も、目的も、希望も、覚えてはいない。それでも、続けた。時折地球の外から変な星が降り注ごうとしたときは、使える衛星をそれに衝突させた。使える衛星は減ったが、それでも死ぬよりは幾分がマシだと彼女の本能に刻まれていた。というよりは、その本能から来る衝動だけが残っていた。

「    。   、       。」

ただただ続けた。もはや無意識で地表を観測していた。人類の痕跡は少しずつ消えて、この星は本来の姿を取り戻しつつあった。

こんなにしっかりと意識を保とうとしたのはいつぶりかな。もう自分を棄てることにも慣れてきちゃった。自分は自分ではないという意識を自分に植え込む。そうすれば、まるで眠っているかのように意識を落とすことができる。でも本当に眠っているわけではないから、時々こうして目が覚める。まるで子供が夜中にふと目を開けるように。また眠ろう、またなにもかもを忘れてしまおう。こんな世界をこれ以上見なくても済むように。

「            。」

もう何度目かもわからない。何度も同じ結果で、何度も同じ景色で。
意識を棄てる。
この世界はわたし一人には広すぎる。

『おや、また眠ってしまうのですか?』
「…………………………………。」
「────────え?」

初めての声。影の向こうから歩いてくる、一人の少女。そこには"ありえない"が存在した。わたしの想像を超えた現実が、レンズ越しに、マイク越しに存在した。

『せっかく目が覚めたのに、残念です。でもまあ、貴方がそうしたいなら仕方がありませんね!では───』
「ま、待って!あ、あの、君は……。」

幻聴?それこそありえない。わたしが外の世界から受け取る情報は機械を通してやってくる。機械は誤作動こそ起こしても幻覚は決して見ない。

つまり、これは。

『あ!ごめんなさい、やっぱり忘れてしまいますね。確かにこうして貴方にお会いするのは初めましてですよね、では自己紹介から始めます!!』

これは、確かな。

『わたしは別の世界から来ました。人間……に近いような、そうでないような存在です。名前はノヴォス。クレイドル=ノヴォスです!』

彼女だけが、現実から切り取られたように。そこに。

『よろしくお願いしますね!マリーさん!』

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