Food Loss
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誰かの手が見える。握っているものはナイフだろうか。
人工的な光に照らされて、ゆっくり、ゆっくり。私の左胸に近づいてくる。

ちくりとした控えめな感覚と共に、肌がやんわりとへこんでいるのを感じる。その心地の良い痛みは、押しつぶされそうなほどの緊張感を伴う。超えてはならないボーダーの前に立たされているのだと思うと、全身は粟立ち、引きつった笑みが浮かんだ。
あと少しで、それは私の中へ潜り込んでいくことだろう。取り返しのつかなくなるその瞬間まで、満足に息をすることも許されない。抵抗しようという考えは浮かばなかった。ただ、ひたすらその時を待つばかりである。

そして。

ぷつり、と、皮膚が破れてへこんだ肌が元に戻る。ずるり、と、それが少しずつ体内に入り込むのがわかった。体の中で、はっきりと輪郭を認識できる。日常感じることのない異様な感覚に、否応なく意識を集中させられ、それが潜り込む度にぞくりと小さく身を震わせた。

未だに耐えられないような痛みは襲ってこない。
しかし、すぐ先に死が迫っていることを、私は理解していた。




***




「……死ぬかと思った」

夢だったらしい。思い返せば不可解な点はいくらでも見つかろうというものだ。ナイフの痛み、刺さった深さ、異様な感覚……考えても詮無い。

専ら仮眠用として用いられている古いソファから体を起こすと、体にかけていたジャケットが床へ落ちた。その音で誰かがこちらを見る気配がする。薄桃色のカーディガンを羽織ったセーラー服の少女、萌里菻であった。
書類の山と化したデスクの空きスペースに腰掛けて、足をぶらぶらとさせていた。その様子はあたかも教師に呼び出された、素行の悪いJKそのものである。尤も、菻は女子高生ではないし、女子高生と言えるような可愛らしい年齢ですらない異常性持ちなのだが。

……年齢については考えないようにしよう。私こと、津軽みのりは配慮のできる女なのである。

「あー、みのりちゃんやっと起きた。おはよー」

「……なんでここにいるん?」

「暇だったから、みのりちゃんと猫カフェ行きたいなーって思って。でも、その寝ぐせじゃ出られそうにないね」

ちょっとくらい髪とかしなよ、と菻は呟いた。

寝起きなのだから仕方がないだろう、と思った。ソファで寝る私が悪いといえば悪いのだが、かの有名なずぼら女子筆頭、西塔先輩ほどだらけてはいないつもりである。少しくらい見逃してもらいたいものだ。

とは言えそんなに酷いのかと、ソファの横にある等身大の鏡を覗いた。なるほど、ものの見事に茶髪が絡み、あたかも鳥の巣のようである。流石に自分でも引いた。
慌ててブラシを探すが、見つからない。それもそうだ、ここは研究室である。あるのは書類の山と筆記用具ばかりだ。どうにか髪をとかそうと手櫛を通していると、菻が通学鞄から桃色の櫛を取り出した。

「わぁ、流石JK」

「みのりちゃんが女子力無いだけだよ」

「あぁ? 誰が女子力無いって? たまたま連日忙しかっただけだってば」

「そんなことより、編み込みしてもいい? いいよね、やるよ。そこ座ってー」

人の話を聞かないJKである。腕を引っぱられてソファーに座らされると、菻の手腕により髪が器用に束ねられ、5分もしないうちに編み込みが完成した。ついでに何かを結び目あたりに差し込む感触があった。菻のことなので、恐らくアザミか何かだろう。

菻はやり切ったと言わんばかりに隣に座り、両腕を上に挙げて伸びをした。猫みたいだなぁと思って頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。

「りーんー」

「なぁーにー」

ソファに座った菻の髪を指に絡めて弄りながら声をかけると、眠たそうな返事が返ってきた。

「菻はさぁ、私がある日突然死んだらどうする?」

「でた、みのりちゃんお得意の雑な話題振り。えぇ、みのりちゃんが死んだらどうするか? なんでそんなこと気にするの?」

「さっきまで嫌な夢見てたんだよ。ほら、ここで働く限り、いつ死んでもおかしくないわけだし」

なるほど、と菻は考えるそぶりを見せた。菻は私より長く生きているそうだ。恐らく何人も知り合いの死を見届けたことだろう。菻とは程々に仲が良いつもりだが、私が死んだら彼女はどうするだろうか、と、ふと気になったのである。
……逆に、もし彼女が先に死んでしまったら、私はどうするだろうか。

「うーん、その時にならないとわからないよ。でもそうだね。折角だから、みのりちゃんが死んだらお肉貰おうかな」

「そして私はJKの糧になるってわけ?」

「そうそう、みのりちゃんは死後も可愛いJKとして生きられるの。ありがたく思ってね」

「馬鹿言え」

菻は人肉を定期的に摂取しないと体が保てないのだという。そのため、定期的にDクラスやらの遺体を提供されていたはずだ。それにも関わらず、どうやらこの人食い娘は私の肉もほしいようだ。物好きなことである。

「そんなに一方的なのが嫌?それなら、私が死んだときはみのりちゃんが食べたらいいじゃん」

みのりちゃんもカニバリズムに興味あるって言ってたよね? とは菻の言葉。

確かに興味はある。
しかし、本当に食べたいのかと言われると、よくわからない。一度は口にしても良いかもしれないが、継続したいというほど執心しているわけではない。あくまでも手が届かないから魅力的に感じているだけであり、手が届いてしまえばそれに抱いていた魅力は失われるだろう。もしそれでも惹かれるのであれば、そいつがただ壊れた人間であるからにすぎない、と、私は考えている。
それでも尚、菻の提案に対して「じゃあそうしよっか」などと返事をした私は、既に壊れかけているのかもしれなかった。

とは言っても、弔いの意味で遺体を食べる風習も世界には存在する。そういう意味でとらえればおかしい話でもないだろう。

それはそうとして。

「でもさ、菻が仮に死んだとして、私が食うまでに肉体残ってると思う? 残ってない気がするんだよな……」

「確かにそうかも。今の身体も人の身体を摂取して維持してるものだし、摂取できなくなった時点で崩れちゃってもおかしくはないね」

「約束する意味無いじゃん」

くすくすと菻が笑った。つられて私も噴き出してしまい、暫く二人で笑っていた。



ところで、菻の本来の目的であったサイト近隣の猫カフェは定休日だったようだ。
自身の情報収集不足にも拘らず機嫌を損ねた菻により、スイーツバイキングに嫌というほど付き合わされたのはまた別の話である。




***




財団に所属する者たちは、常に危険と隣り合わせである。私の場合、研究職という地位に就いている都合上、実験に関する危険が伴う……と、言われている。
実際は、機動部隊やDクラス、下手な実験をやりたがる変わり者以外はそうでもないと思っている。身内の研究員の死因を聞いたところ、寿命だの病気だのといった一般的なものもざらにあるようだ。
私の場合、自身が直接実験を行うわけではないし、被験者になることなんて言わずもがな。もし私が仕事関連で死ぬようなら、それはきっと外部からの襲撃、もしくはどこぞの馬鹿のやらかした収容違反くらいなものだろう。

さて、なぜ私がこんなことについて考えていたかというと、答えは単純明快である。

数歩歩けば二重に足音が聞こえ、立ち止まってみれば静寂が訪れる。ゆっくり振り返ると、電柱に隠れるように黒い人影が見えた。どうやらつけられているらしい。
とある休日の夜、自宅近くの居酒屋で一人日本酒をあおった帰りの出来事である。知らない道ではないし、徒歩で帰ることのできる距離だからと高をくくっていたのが間違いだったらしい。街灯である程度明るいが、人気が少ない道である。しかもアルコールの入った体では逃げるに少々厳しい。
一人で飲んでこうなるくらいならば、奢らされてでも西塔先輩辺りを誘えばよかったかもしれないと、今更ながらに後悔した。

スマホを開いて連絡を取ろうにも、操作がうまくいかない。頭に綿が詰まったようにふわふわとしていて、どうにも手元が遠く感じる。
もたついていると、足音がより近くなっていることに気が付いた。慌ててスマホを鞄にしまう。違うとは思うものの、追手が財団に敵対する何者かだった場合、開きっぱなしで見つかるのは非常にまずい。

小走りをしつつ軽く後ろを振り返ると、すぐ近くにマスクをした男の姿が目に入った。
私など襲って何になろうか。金かレイプか、情報か。はたまた快楽殺人か。何にしても、私にとっては好ましくない。心臓の音がやたらと近い。

点滅する街灯の光がちらついて煩わしい。虫眼鏡でも通してみたような景色にめまいがして、うまく足に力が入らない。

「だ、だれか……」

助けて、と言おうとしたその時、腕を男に掴まれた。驚いて手を振り払った拍子にバランスを崩し、体が後ろを向く。男が何かを手に持っているのが見えた。手に握ったそれは、人工的な光に照らされ白く光っている。

それは紛れもなくナイフだった。

男に背を向け再び走ろうとするが、足がもつれて地面へと倒れこむ。全身に鳥肌が立つのを感じる。もう逃げられないことを悟った。

腕を掴まれ男の方を向かされた時、最初に感じたのは遠いいつかの夢で見た、胸に残るあの感触である。刃が体内を撫でる異様な感覚を思い出し、ぞくり、と身を震わせた。恐ろしいはずなのに、訳もなく口元はうっすら笑みを浮かべた。その瞬間。

「あっ……」

腹部への衝撃と同時に、男は走り去る。一瞬遅れて、鋭い痛みと強烈な熱に患部が蝕まれる。助けを呼ぶなどという考えは最早微塵も浮かばなかった。体を動かすたびに、刺さったナイフが肉をえぐる。その熱い痛みにより、あの時見たのは単なる夢でしかなかったのだと思い知らされる。
患部が燃えるように熱いのと対照的に、ゆっくりと、末端から体温が奪われるのを感じる。指を動かそうにも、徐々に感覚が失われていく。じわりと滲んだ赤い液体が服を濡らし、嫌に生暖かい。焦点の定まらない視界には、真っ黒な空ばかりが見える。

「……馬鹿みたい」

実にくだらない死に様だと感じた。これなら収容違反やインシデントの方がましかもしれない。こんな、こんな些細なミスで死ぬか、と。一人死んでいくのが酷く寂しくて泣きそうになった。




菻……あの子は、約束を覚えているだろうか?

死んだ私を、食らってくれるだろうか?




***




萌里菻は一人食堂でココアを飲んでいた。カフェのメニューほどおしゃれでも、美味しいわけでもないけれど、安価で甘いものを飲むにはちょうど良い。

サイト内の食堂は、13時頃には既にピークを越えて、人が減り始める。とはいっても、未だ飲食スペースは混雑している。人混みを意にも介さず通り抜けているのは、多分西塔先輩。

「よぅ」

「あっ、西塔先輩じゃないですか。お疲れ様です」

「飯はもう食ったのか? ……って、そういえば必要ないんだっけか」

「そうですねー。って言っても甘い物好きなんでついつい買っちゃいますけれど」

「ふぅん」

会話が終わってしまった。全く興味なさそうだ。
先輩はお盆も何も持ってる様子が無いし、目の前の座席に座ったとたん腕を枕に寝始めるし、一体この人は何をしに来たのだろうかと首をかしげた。

「あーそうだ、忘れてた。みのりが死んだって話、聞いた?」

「えっ、あ、それを言いに来たんですか? 知ってますよ」

「なんだ、知ってたのか。とんだ無駄足踏んだな」

眠っ、なんて呟く西塔先輩。どうにも気だるげだ。

「そういや、みのりと菻、なんか約束してたって聞いてたけど、それは大丈夫だったん?」

「誰にも話したことないはずなのに、なんで先輩が知ってるんですかね……」

「みのりの奴が何か言ってた。具体的には聞いてないけど。結局どういう約束してたのさ」

そういえば、いつの話だったか忘れたけれども、みのりちゃんと約束をしていた記憶がある。先に死んだ方の肉をもう片方が食べるというものだっただろうか。
もう遺体は葬儀場へ運ばれていることだろう。手に届く範囲に遺体があったなら約束は守りたいところだけれど、葬儀場に行ってまでは世間体的にやりたくない。

「それは内緒です。もう、果たせなくなっちゃいましたし」

「あいつと仲良かっただろ? いいのかよ」

「はい。多分みのりちゃんも仕方がないって言うと思いますから」

西塔先輩の表情を見る限り、どうにも腑に落ちていないようだ。しかし、それ以上に面倒だったようで、それ以上追及されることはなかった。

「今度こそ気が合う人に出会えたと思ったのにね……」

ココアはどうやら冷めてしまったらしく、やたら甘く感じる。カップの底に残った分を一気飲みして、音を立てないよう慎重にテーブルに置く。

両手のひらを合わせて目を瞑った。

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