濡れた瞳

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Transcend 21/10/24 (日) 01:21:36
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「晴れているのに、どうして傘を差しているんだろう」

貴方は道行く女性を見て、こんな疑問を抱いた過去はあるだろうか。日焼け防止か、お洒落の一環。或いは何か別の理由があるのかもしれない… 今日はそんな日傘に纏わる、私の実体験を話そうと思う。

さて、私の生まれは日本の東北地方にある小さな田舎町だった。周りは山に囲まれた辺鄙な場所で、余所から態々越してくるのは戸籍の無い子供を連れた訳有りの夫婦や、如何にもクスリを売っていそうな怪しい見た目の外国人やら。まあ、これは地方の閉じたコミュニティでは良くある話だ。

そんな奇人変人大集合の吹き溜まりにあって、私が唯一心を許した余所者が1人だけ居る。それが「アリサカさん」だった。

アリサカさんは20代後半ぐらいの髪の長い女性で、どんな時でも日傘を差しているのが印象的な人だった。確か家族は居なかったと思う。普段は仕事をしている様子も無くて、そのせいなのか近所を彷徨く不審者として母親達には煙たがられていた。

「こんにちは、今日は良い天気ね」

或る日の学校の帰り道、私はアリサカさんに声を掛けられた。彼女の顔は傘に隠れて殆ど見えなかったが、その穏やかな声色は、私の彼女に対するイメージとは大きく掛け離れたものだった。

「うん、そうだね」

思わず返事をしてしまう。母親からはアリサカさんとは話しちゃいけないと何度も釘を刺されていた。だけど私は気が弱く、実際彼女を目の前にして、それを無視することなど出来なかった。

「あの、聞いてもいい? 何でお姉さんは雨が降ってないのに傘を差してるの? 」

私はこの時まだ幼くて、日傘のことなど露ほども知らなかった。それは私が彼女を変人扱いしていた理由の、数ある内の一要素でしかなかった。

アリサカさんは肩に掛けた日傘をくるくると廻しながら小さく笑って、こう続ける。

「雨が降っていないから、私は傘を差しているのよ」

「なにそれ、意味分かんない」

「大人になったら分かるかもね」

変なの、と私は笑った。彼女に対する悪感情はすっかり何処かに消え去っていた。この出来事が切っ掛けで、アリサカさんとはそれから外で会う度に良く話すようになった。地元は過疎化で子供が少なく、恥ずかしながら一緒に帰る友人も居なかったので、当時の私は内心1人が寂しかったのかもしれない。

「飴玉、食べる?」

そうして、アリサカさんと親しくなって暫くが経った頃、彼女は私に飴玉をくれるようになった。

それは少しだけ毒々しい感じの虹色をした飴玉で、肝心の味はと言うと子供の舌には複雑過ぎてよく分からなかった。恐らくその色合いと同様に、7つの異なるフレーバーから成る代物だったのだろう。不味くもなければ、美味しくもない。そんな味がした。

「この飴玉をころころ舌で転がすと、心が少し重くなって、それで私は落ち着くの」

アリサカさんは少し悲しそうな声をして、よくそんな事を言っていた。学校近くの公園ベンチに時折2人で並んで座り、その飴玉を舐めて過ごした。手放さなかった日傘のせいか、アリサカさんの横顔は隣に座って見上げているのにはっきり見えたことはなかった。


その日は朝から雨だった。

あっという間に放課後となり、今日も1人で下校する。午前中から比べるとかなり雨脚が強まっていたせいか、親の迎えで車に乗り込み帰宅する生徒が多かった。それもあってか、見える範囲で通学路を歩いているのは、自分しか居ないようだった。

雨は増々強くなり、どこまで行ってもコンクリートを打つ雨音が、辺りを満たして鳴り止まない。

そんな時だった。

「飴玉、食べようか」

後ろから聞き慣れた声がした。驚いて振り返ると、やはりそこにはアリサカさんが居た。だけど、今日はいつもの日傘を持ってはいなかった。私の心臓は早鐘を打つようで、どうやっても収まらない。

「どうしたの、具合悪いの? 」

アリサカさんの、右目があった筈の場所から何故か瞳が無くなっていた。ぽかりと空いた黒い穴から、色鮮やかな粘液が止め処なく溢れ出していた。

それは異常な光景だった。

右手で抓んだ飴玉は、雨に打たれて溶け出していた。

今でもあれが飴玉だったか、私の中で答えは出ない。

「ねえ、一緒に座って食べようよ」

今まで1度も聞いたことない、若い女の甘ったるい声がした。

「いやだ」

私は言った。

「駄目よ」

そう返された。

「だってあなたは私の物だし、私もちゃんとあなたの物なんだから」

アリサカさんの痩けた顔はすっかり雨で濡れそぼり、同じく濡れた飴玉が、油の浮かんだ水溜まりのように濁った輝きを見せている。大きく歪んだ口元が薄気味悪い笑みとなり、彼女は此方に近付いてくる。私の体は強張って、金縛りにでも遭ったみたいにピクリとも動かなくなっていた。

「ずっと、ずっと一緒だね」

耳元まで来て、アリサカさんは囁いた。

不味くもなければ、美味しくもない。そんないつものあの味が、ゆっくりと口の中に広がっていく。

正直言って、その後何がどうなったのか全く覚えがないままだ。最後に私は絶叫し、気を失ったと記憶にあるが、目覚めた時には自宅のソファで寝かされていた。キッチンからは母親が夕飯の仕度をする音が聞こえてくる。当然、私はこの状況に激しく動揺した。何とか1人で起き上がり、忙しなく準備する母の背中に近付いていく。

すぐ後ろに来た私の気配に気付いたのか、母はそのまま振り返らずにこう言った。

「あの人とは、喋るなって言ったでしょ?」

不機嫌そうに、吐き捨てて。

その後、私は家庭の都合で町を離れた。勿論、アリサカさんとはあれ以来会っていない。彼女が結局どうなったのかは知らないが、地元に残った知り合いの話では、私達が引っ越しをしたあたりからパタリと姿を見せなくなったらしい。家の電気は付いているから、自分の部屋に引きこもっているのでは、という事だった。


ここまで読んだ君達の、言いたいことは分かっている。これは筆者が子供時代の体験談なのに、どうして此処まで事細かく、アリサカさんの一挙手一投足を覚えているのか。過去に交わした会話の内容まで仔細に書き出せているのは些か現実味に欠けると、そう思っているのだろう。

その理由は他でもなく、この私がモニターの前に座っている君達と同様、先の見えない暗闇の中それでも必死に目を凝らす、そんなウォッチャーの一員となった所以でもある。

例えば予報外れの雨が降り、傘を持たない私の体に降り注ぐ。するとその一粒一粒がまるで心の隙間に染み込むように、アリサカさんと過ごした日々が私の思考を浸していくんだ。優しい声色、飴玉の味、そして彼女のあの瞳。こうなると私は何にも出来なくなり、その場にへたり込むしかない。

そして、朧気ながら見えてくる。止まない雨に霞んだ視界のその先で、アリサカさんが傘も差さずに佇む姿が。決して泣いてはいないんだ。ただその滲む瞳から虹色に染められた雨水を垂れ流し、私に向かって微笑んでいる。

今の私は、当時のアリサカさんより一回りも多く年を取った。けれど彼女の姿はあの日のままで、それでも変わらず私の帰りを待ち続けているんだ。

蕩けた虹が混ざりに混ざり、彼女の瞳が底すら見えない漆黒に染まるまで。

ああ、君達に言われるまでもなく、私はこれまで何度も病院の世話になった。それでもあの濡れた瞳は、未だに私の人生を暗く曇らせている。

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