京都の街並みはやけに複雑で、歪な形をしている。道は格子状とはいえず、想定外の袋小路に度々遭遇する。迷った。歩き慣れない街の風景はどこも似たような形をしていて、記憶の中に定まらない。近代的な建築の隣にいつの時代からあるのかもわからない建物が同居していて、なんだか突然幽霊でも飛び出してきてしまいそうだ。今度こそ、ここの交差点を左に行けば目的地。そう思って足を踏み出したら、薄い布を引き裂くような感触がした。
思わず瞬きをすると、周囲の風景がガラッと変わっていた。全体がほんのりと明るい、白で包まれた単調な空間。混乱している自分を抑えてあたりを歩き回れば、この珍妙な空間は様々なブースが集まった展示会であることが把握できた。下天茶屋即売会なんて題されたそこには、5ページにも満たない短編から文庫本程度の文量まで数多くの本がずらりと並んでいた。即売会なんて題してる割に、活発な様子は殆どない。換気扇の音がよく聞こえるくらいに静かな場所だった。軽く周辺を見渡そうが、Mapアプリを頼りに動こうが出口がなかなか見つからない。周りの人たちに出口を聞くのも何となくはばかられて、取り敢えずどんな本が売られているのか見て回ることにした。
さっそく目に付いたブースで40ページほどの本を手に取る。どんなもんかとぺらぺらめくれば、ぶわり蝶が飛び出してきた。飛び出た蝶は俺の顔面へ飛び込んでくる。すると、情報が頭に入り込んでくる感覚があった。『男は憤る』『最重要課題の提出』『剥製』……順番も何もかもぐちゃぐちゃなまま頭を埋め尽くさんとする情報たち。それらは処理できずにどんどんと頭からこぼれ落ちていく。ふとした瞬間、蝶がきれいだと感じたことだけがやけに鮮明だった。
それが2分も続いただろうか。自分の手元には本の表紙だけが残された。表表紙と裏表紙の間にあったページたちはすべて蝶となって飛び去っていった。その蝶たちは殆ど処理できないまま消えていったのだけれど。情報が蝶になった?自分自身が何を言っているのか、さっきまでの体験が何だったのかを繰り返し脳内で咀嚼を試みようとするたびに訳が分からなくなる。
混乱が頂点に達しようとするころ、いきなり後ろから肩を叩かれた。びゅんと振り返れば、ブースの中にいたオッサンが背後に立っている。
「にいちゃん、1200円ね」
「はい。1200円ですか、1200円」
上擦った声で半分生返事をしながら取り敢えず払うことにした。
本を開いただけで金を払うのはなんだか釈然としないが、同時にすごいところに来てしまったぞと静かな興奮が湧き上がってくるのを感じた。この体験がそれなりの値段で買える事実が純粋な興味を後押ししたのだ。
それからの数十分は何回かの失敗を経験した。不用意に本を開いて光が溢れ出たり、大きな音が突然鳴ったりを繰り返した。するとどうやら即売会の会場内で本を開くことは歓迎されていないことだということも何となくわかってくる。会場の雰囲気にも徐々に慣れてきている。ゆっくりと見て回って、6か7冊くらいの本を買って鞄に押し込んだ。
手元のお金も尽きたころ、出口表示のある階段を見つけた。外に出ると、大通りに出た。ついさっき出てきた階段は振り返ってもそこにない。信じがたい超常現象も一つのスパイスとなって、俄然購入した本へ期待が高まっていった。
用事を済ませ、帰宅してからはずっと買った本を弄り倒していた。どの本も日常に立脚した価値観では十全に鑑賞することすら難しい。蝶の飛び出す本はぺらぺらと一気にページを開くから大量に押し寄せるように蝶が飛び出してくるのだ。表紙から一枚ずつめくってゆけばひらり、ひらりとゆっくり蝶が飛び立つ。蝶がもたらす情報への集中もなかなかコツが掴めず、最初の方はとぎれとぎれの意味しか理解できていなかった。しかし、慣れてくればむしろこの形式で本を鑑賞するほうが遥かに理解しやすいような気さえしてくる。読み返しができないことだけが難点だが、この鑑賞法に強く心をひきつけられていた。
抑えきれない興味のままに買った本を次々に鑑賞していく。読み終わった途端に文字が焼け落ちていく本、ページに印刷されたインクが5mmくらい盛り上がっている本、読み進めていくにつれて来客が訪れ目の前で殺人事件が再現される本。個性的で、些細な物から決して忘れられないものまで。下天茶屋の本たちにどうしようもなく魅入られていった。
目の前に積みあがっている絞殺体と刺殺体、そして飛び降りてぐしゃりと変形してしまった死体が読み終わっても残されていることにほとほと困りながら次の本に手を伸ばした。その本には、異常な読書体験を作り出すための実践的な方法について述べられていた。ほとんどの本に仕掛けられていたような特殊な仕掛けは無く、シンプルに文章が記されているだけの本。
本の内容は所謂といった感じの呪術的な儀式からシンプルなトリックまで幅広く扱う初心者向けの指南書といった態だ。中でも目を引くのは人間の死体を用いた召喚術。2体の死体を下限として青天井に文章の再現を担わせることができる術。技術的にさほど難しいものでもないが、材料調達の難しさと登場人物を必ず死なせなければならない展開の制約、そして使う死体に応じた文字数制限のせいであまり好まれるものでもないなんて書かれていた。
好奇心が疼く。この部屋にある死体。幻覚か何かの類かと思っていたが、使えるんじゃないか?
変なことが立て続けに起きているからだろうか。それとも異常な体験を積み重ねすぎたせいだろうか。倫理がぼんやりとして焦点を結ばない。理性は警鐘をうるさく鳴らしているけれど、全く意に介せない。衝動のままに例のページを何度も何度も読み直す。ページの手順をよく読み込み、必要な幾何学模様を紙に書き写した。
きんこーん
突然呼び鈴が鳴る。
「すみません、警察ですけれどもー」
警察?通報、誰が?なんで、もうバレてる?
警察が来た。その事実だけで今まで呆けていた倫理観が途端に働き始める。酔っぱらっているかのようにぽやぽやとしていた雰囲気は一気に刃物の如く冷たくなり、腹の底で強い不安が渦巻き始めた。不味い。この死体は、説明できない。逮捕されるのか?それは嫌だ。
呼び鈴が何度も鳴らされる。その度に冷静さがどんどん失われていく。どうやって隠す?布団は小さすぎる。どこかに隠そうにも玄関から入ってこられたらおしまいだ。そもそもこれは俺が殺したんじゃない、勝手に玄関から入ってきて死んだだけだ。本読んでたら勝手にそうなっただけなんだ。クソ、なんなんだよもう。
いや、本にすればいいんだ。死体を使おう。急ピッチで3人が死ぬ文章を書く。どれだけ汚くたって読めれば問題ないだろ。そう言い聞かせてガリガリと紙に文字を埋めていく。
一人の男は車に轢かれて死んだ。一人の男は心臓発作で死んだ。一人の男は川で溺れて死んだ。
そして、文字の上で3人が死んだ瞬間、死体たちはどこかへ消えた。
死体が消えたのを確認し、紙を放り投げて玄関へ転がるように駆けていった。鍵を開け、扉をガチャンと開くとうんざりとした表情の小さな男と、そのそばに無表情で立っている男の2人組の警察と相対した。
「はい、はい。なんでしょうか」
「お隣からガタガタとこの部屋がうるさいと通報が入りましてね。ちょっと注意しにまいったわけですわ。そんなことで通報するなよとは思いますけどもね。私たちも仕事ですんで、注意に参ったわけでございますわ」
「はあ」
「そんなわけで、お兄さん。ちょっとお部屋拝見させてもらうね。なんや、大声で言い争いまでしてたらしいじゃないですか。抵抗あるんは分かります。でもまあ、しゃーないと思って、ね」
曖昧な笑みを返しながら部屋に警察2人を招き入れる。部屋の中には散乱した本と、紙があるだけだ。小さな男はちょっとごめんね、なんて形式ばった断りを入れながら押し入れやらをチェックする。無表情な男は部屋を見渡してチェックしているようだった。しばらくして、その2人はそのまま玄関へ戻っていった。玄関先でこちらの名前を軽くメモしたりして、もうあまり騒ぎすぎるんじゃないって帰ったお友達にも言っといてなんて言い残して帰っていった。
冷汗が止まらない。一歩間違えていれば。しばらく玄関先から動くことができず、ただ呼吸を鎮めるのに集中した。どれだけの時間が経とうと、この動悸は収まらないのではないかとさえ思えた。その中でふと、あの紙のことを思い出した。あの紙には3人の男が死ぬところは書いたけれど、物語そのものは書いていない。あの本の注意事項には一つの物語を作り出さなければいけないと書いてあった。そうしなかったら?
新たな懸念事項に気が付いて、足が自然と本のほうへ向く。確か、見開きに不穏な言葉が書いてあったはずだ。そう、これ。
『そうしなければならないと書いてあるなら、素直に従ったほうが良い。すべてに共通して、2晩以内にそれらを達成することをお勧めする。そうしなかったなら、あまり良くないことも起こる』
具体的に書けよ具体的に。警察が来たって言うのに、これ以上のリスクはあまり負いたくない。書かなければ。こんな書き出しから、あの殺人事件の本と同じくらいの文量の物語を。そして誰かに読ませなきゃ。
2日。書くには短い。余りにタイトな締め切りで強制的に書かなければならない状況に陥った。警察も来て、とてもじゃないがいい加減にしてほしい気持ちが強い。それでも、自分があの下天茶屋と同じ技術で本を書けることにもワクワクもしていた。
"変な話"を聞き逃すなって口酸っぱく言われ続けた。近所の井戸の水の出が悪い。ベランダの洗濯物が減ってる。仕事先の人間の対処が悪い。どんな些細な事でもいいから情報を集めることを怠るなって。徐々に仕事に馴染んでいく中で、変な話をよく聞く方法が段々とつかめてきた。中でも、愚痴の中に含まれている変な話は打率が良い。だからか、随分と他人の愚痴を聞くことが好きな奴なんだなと周囲に思われるようになってきた。
その日は現場から帰ってきた奴がずっと愚痴を吐き続けていた。これはお前の出番だとばかりに同僚がそいつの近くへ行くようにハンドジェスチャーをしてきた。さっさとあいつ黙らせて来いってさ。同僚には眉を寄せて喜んで行きますともと返答し、話を聞きに行った。曰く、つまらん通報で駆けつけて対応してやったのにその通報者がずっと報告内容を信じやがらないとさ。
「なんかさ、そいつ隣の部屋がうるさいって通報してたんだけど、まだ隣の部屋に人がたくさんいるはずだって言ってきかねえのよ。こちとら直接部屋の中に入って様子確認してるんすわ」
「えー?なんでそいつ隣の部屋に何人もいるって確信してたわけ?」
「ボロアパートだから扉開いたらすぐわかるってさ。確かにボロかったし、本当に扉開いてなかったりして」
「どっかに人隠れることできそうなところとかあったん?」
「ないない。わざわざクローゼットとか開けて中身見たんだから」
「案外窓から外に逃げてたりしてな」
はは、あるかもなー。なんて言い放つ。何人にも話を聞かせて段々トーンが落ちてきたみたいだ。ようやく満足したか、かと思いきや少し考えた後にこんなことを言ってきた。
「何よりも許せなかったのはあいつ適当言いやがったことだわ。あいつ、隣で怒号が鳴るわ液体が飛び散る音がするわでかいものが落ちる音がするわで部屋の中が絶対汚れてるはずって言ってた。でも部屋の中は至って綺麗なもんだった。でかい何かが落ちたような跡はもちろん、液体が飛び散ったような様子もなかった。この目で見たんだから間違いない。それをあいつよくもまあぬけぬけと」
一旦落ち着いたはずのテンションがまたしても燃え上がりそうになっている。これ以上一緒にいたら多分同じ話を何回も聞かされる羽目になる。その場を離れることにした。それから、人通りの少ない廊下に足を運び、電話帳に登録していない番号に直接電話を掛けた。
「あー先輩。お元気ですか。今日の分も拾えました。今週の分まとめて後で詳細持ってきますわ。はいはい、はーい。ついでに顔出しに行きますよ。そんじゃ」
スマホの連絡を手早く切り、通話履歴を素早く消去する。そのままオフィスに戻り、早退と明日の有給申請を上司へ提出しに行く。上司はこんな直前に出すなだとか、何のために有休をとるんだだの口うるさく言って来るだろうが、まあ通るだろう。今日はこれから"ダム観光"だ。
サイト-81KKは大阪府箕面山地下に存在する近畿地域におけるコア施設。地上施設はダムの管理施設に偽装されてる。同僚たちは今頃あの小さい男の愚痴を聞かされてるんだろうななんて思いを馳せながら地下へ地下へと車を進めていく。無駄にデカイ駐車場の一角から、目的地へ歩みを進めていく。未詳怪異調査部門だ。
長い長い廊下を歩かなならんのか、とうんざりしながら3つの角を曲がったあたりでにこにことした表情の女が壁に寄りかかりながらこちらに話しかけてきた。
「おー、よう来た後輩。警察は馴染んだかー?」
「ボチボチですね。ほら、持ってきましたよ。今週の変な話」
「どれどれ、検討してあげようじゃないか」
鼻歌でも歌いそうな上機嫌さでまとめてきた変な話の報告書をぺらぺらとめくっていく。
「自動販売機のルーレットが2日連続で当たった、くしゃみがやけにでかくなった、階段の滑り止めがあんまり効いてる感じがしない。なかなかいい感じじゃないか。あるあるだけを持ってくるようなことだけは辞めろって言い聞かせた甲斐があったね」
「自分で言うのも何ですが、いくら何でも雑多すぎませんか?もう変のハードルが低くなりすぎて書くことが段々適当になってきましたよ。」
「いいのいいの。どうせ異常かどうか判断すんのは形式の奴らだから。君が持ってくる情報はどんなに下らなくてもいい。むしろ下らないほうが好みさ!」
廊下を歩きながら彼女は次々と報告書に書き込みをしていく。よくもまあこんなにもありふれた話に書き込む事象を思いつくことができるもんだと毎度のごとく感心させられる。
「これは解析行き。これも解析。これは、病理部かな?」
「そんなんだから解析課からゴミ漁りとか、カラスごっこなんて揶揄されるんですよ。何でもかんでも解析に投げるのは辞めてあげたほうが良いんじゃないですか?」
「何それ。初めて聞いたんだけど。私が顔合わせるときはみんなニコニコしてるんだけどなあ。あ、でも会話すると二言目には休暇よこせって言ってくるね」
肩をすくめる。こんだけ喋ってるのに書き込みのスピードは落ちていない。目的地に着くころには全ての報告書に目を軽く通し終わっている。
「一旦保留するのは今日の分だけかな。後はほぼ全部解析行き」
「今日の分?なんか引っかかることでもありました?」
「いや、君今日の分の報告書入れてないでしょ。聞き取りだよ聞き取り」
そういいながら彼女は部屋の中に入っていった。入れってことだろう。
未詳怪異調査部門のオフィスは途轍もなく雑多だ。サイト近くの地方紙や猥雑な雑誌、良く分からない書類が机の上に山積みになっている。そして、その部屋の雑多さに反して埃っぽさがかけらもない。視覚情報から入る雑多で整頓されていない部屋の姿と部屋に満ちている澄んだ空気のミスマッチさがまさしくサイトの施設って印象がする。
部屋の奥のソファーへと案内されて、そのまま今日の分の変な話を語り始めた。
書き終わった。死体を格納してから28時間ほど経っただろうか。人生で文章を、物語を一つ紡いだのは初めてのことだった。何度か手こそ止まったものの、殆ど突貫で書き上げたその文章はどうにも愛しい。背負っていた重荷が晴れて、息がしやすくなった気さえする。今だったら何だってできるかもしれない。
これを、誰かに読ませてみたい。それも、そこら辺の奴らにじゃない。"分かっている"人にだ。読んでるうちに人が押しかけてきて死ぬなんて、普通の奴に読ませたって混乱が先に来てしまう。俺は幸運にもあの普通じゃない読書体験を段階的に踏んでいけた。別の本を見せたっていいが、どうせなら普段から読み慣れてる人のほうが良い。でも、どこにそんな奴らはいるんだ?
暫く悩んだ後、思いついた。下天茶屋だ。そもそも俺は下天茶屋からこの世界を知らされたのだ。ならば、その人たちのもとに行くのは1つの道理だ。それに、当然ながらこの読書体験には慣れているはず。変な先入観なしに読んでくれるはずだ。
どこにいるんだ?そいつら。取り敢えず検索してもそれらしき情報は出てこない。本にもそういった情報は書かれていない。僅かな手掛かりに縋るため、再びあの交差点を訪れた。それでも見つからない。当てはここしかないのだから、そう言い聞かせて歩き回っていた。
「そこのお兄さん。もしや下天茶屋をお探しですか?」
声をかけてきたのは妙齢の女性だった。
「ご存知なんですか?下天茶屋のこと」
「ご存じも何も、わたくしは下天茶屋の熱烈なおっかけですのよ。唯一無二って感じがするじゃない」
妙齢の女性に連れられて、近くの建物のバーに入った。
「お兄さんは下天茶屋のことどれくらい知ってるの?」
「私はついこの間まで下天茶屋を知らなかったんです。昨日でしょうか、たまたま下天茶屋の即売会に入場することができましてね。そこから興味を持ったクチです」
「あらホント。運がいいのね。即売会なんて年に2か3度くらいしかないもの。次の予定を把握するだけでも一苦労なのに、よくぞ会場まで入りましたね」
「道理でどれだけ歩き回っても見つからない訳です」
性別も、年齢も違う。しかし、俺とこの人の間には下天茶屋という大きな共通点がある。あまりにニッチな共感はとてつもない連帯感を産む。すっかりこの妙齢の女性に心を許し始めていた。
「それにしても、下天茶屋の作品を何も知らずに見て生きてるなんてよっぽど運がいいわ。下天茶屋の使う異常って千差万別だからね、簡単に人が死んじゃう時もあるのよ」
「死にこそしませんでしたが、不用意に読んだせいで家に死体が3つ積み上がりまして。その処理に今追われてるところなんです」
「あらま、物騒ね。それにしても死体が3つも。あなた、なかなかやり手なのかしら。それで処理はどうしたの?」
「それが、これです」
コピー用紙3枚分くらいに文字がぎっしりと敷き詰められた紙を鞄から取り出す。目の前の女性の顔つきが変わる。
「それ、何?」
いきなりトーンが下がった。一言で空気感が重くなる。
「これは私が書いた短編です。それも、下天茶屋の技術を使って。かなり自信があります」
「あなた、それを宣言するってことは心を決めているのね」
発言の意図が読み取れない。しかし、正面の妙齢の女性は無言で手元の紙を要求してくる。今から他の人を探そうにも、これほど下天茶屋に理解がある人を見つけるのは難しいだろう。意味が分からなくても、結局のところはこの短編を渡すしか道は無い。
コピー用紙を受け取った老婆は、すぐにバーテンダーに注文を始めた。バーテンダーは注文を承ると、後ろへ引っ込みながらガサゴソと準備を始めた。
「三ツ矢のを一本ちょうだい。ぬるいのがいいわ」
それから大きく息を吸い、吐く。老眼鏡を鞄から取り出して短編を読み始めた。
「ここまでが俺の知ってることです」
「どうせ君の知ってることだけじゃ足んないだろうから君の話聞きながら警察の報告書チェックしてたんだよね」
「じゃあ最初から聞かないでくださいよ」
軽口を叩きながら、小さな男がしたであろうやり取りを元に作られた報告書を読んでいた先輩。
「いやあ、入ったまま出てないはずって主張してるにも関わらず1人しかいなかった部屋。変だねー、十分変だよー。取り敢えず周辺の監視カメラチェックしてみたけど、やっぱり何人かは確実に室内に入って行ってるね。でも窓含めて出て行った形跡はなし。部屋ん中トンネルでも掘ってなければおかしい。隣人は神経質な印象を受けるし、多分トンネルも無理だろうね。これはほぼ怪異に片足突っ込んでると見て良さそうだ」
「後輩くん、現地調査だ」
「え、また京都行くんすか。結構遠かったのに」
それから2人は病理に少しの、そして解析に大量のデータを押し付けてから駐車場へと向かった。形式の奴らは先輩が退室してからカラスから情報きました、と大きな声で報告がなされていた。
それから数時間後、サイト-81KKから例のボロアパートの近くに着いた。
「それで、現地調査ってどうするんすか?」
「ん?そりゃ張り込みだよ張り込み。住人が出かけるまで待って、それから部屋を物色するのさ。監視カメラの映像見る分にはまだ家から出てないし」
「普通の警察とやってること大して変わんないっすよ」
「まね。記憶処理乱発するなって上からのお達しきてるし、しゃあないのよ」
記憶処理が不足してるなんて話、他サイトじゃほとんど聞かないのにウチのサイトだけは恒常的だ。随分と動ける幅が小さくされている。
「ここは私がしっかり見とくからコンビニであんぱんと牛乳買ってきてよ」
「じゃあコンビニ行くんで先輩車降りてくださいよ」
おっけー、と言いながら先輩は鼻歌混じりに車から降りた。それでいいんだ。
コンビニでついでにある程度の張り込み用のセットを購入していった。コーヒーだとか、体を拭くものだとか、使い切りの化粧水とか。ぱっぱと現場に戻り、先輩を車の中に載せた。
「牛乳とあんぱんなんて随分とベタなことを言いますね。なんか捻くれてるイメージだったので意外でしたよ」
「いや、ベタなのは重要なことだよ。異常を知るには正常をよく知らなければいけないからね。ベタな正常を体験できるなら積極的に頭を突っ込むべきさ」
そんなものか、と自分の分のメロンパンを開けて食べた。どうせなら俺もあんぱんにすればよかっただろうか。
それからは夜が明けても監視対象に動きはなかった。先に動きがあったのは財団側。異常芸術部門からの連絡だった。
“追跡対象がワード『下天茶屋』を検索しました。天下茶屋との検索間違いの可能性もまだありますが、上記ワードに注意を払ってください。”
「下天茶屋ねー。また悪趣味な奴らだ」
「最近は丸くなったって話も聞きますよ」
「いやいや、それって多分一般向けのやつだよ。一般人適当に選んで自分のネクサスに引き摺り込んでるんだよ。そんでライトな異常性の本売り付けて引き摺り込むの。それで魅せられたやつってずっと執着し続けるのよね」
「ハードなやつってどんくらいハードなんですか?」
「聞いちゃう?1冊読もうと思ったら50人くらい必要になるんだよね。直接読んでる人たちはみんな4ページも読んだら死んじゃうから。だから下天茶屋のファンってバカみたいに動かせる人の量が多い人のことがよくあるんだよ。教祖とか」
「理解できないっすね」
「そうだねー。あ、今みたいな説明してるの異常芸術部門とかの奴らに聞かれたら漏れなくキレるから変に話題出すなよ。芸術系の雑語りって1番専門家怒っちゃうんだから」
雑談しながら、集中力を適度に散らす。ずっと同じところを監視し続ける業務に過集中は禁物だ。適度な雑談こそが最重要でさえあった。
しばらく監視していると、対象が小さな荷物を携えてどこかへと出掛けていった。手元にはスマホがあるから位置情報は簡単に把握できるだろう。財団の方に対象のステータスを共有し、部屋の中を探索することにした。
部屋のドアノブに手をかけると、ガチャリとそのまま鍵が開いた。
「先輩、鍵かかってないっすよこれ」
「いや、しっかり鍵はかかってたよ」
「じゃあなんでこんなあっさりとドア開いてるんですか?」
「Need to knowってヤツ。警察からこっちに戻ってきたら教えてもらえるさ」
そんなことを宣いながら部屋に入って行った。底の知れない人だ。
部屋の中には本が乱雑に置かれていた。本の出版本は、下天茶屋。
「ビンゴだね。見た感じ異常性もライトな部類だし、多分昨日一昨日あたりにネクサス入っちゃって買ったんだと思うわ」
「部屋も調べましたが、トンネルとかはなかったっすね。十中八九下天茶屋絡みで確定して良さそうです」
「ウチらの仕事はここまでだね。あとはこれ全部回収して帰ろう。それを異常芸術の奴らにぶん投げておしまい」
「この本はどうしますか?」
「開かなければただの本!第4水準程度の収容でいいよ」
それから2人は1冊ずつ開かないように第4水準程度の措置紐でぐるぐる巻きを行い、車に搬入した。そして、サイトに帰りながら異常芸術部門へ対象が下天茶屋と接触していること、スマートフォンを携帯しているため現在地の把握が可能であることを伝えた。
運転中、いきなり先輩が笑い出すので何事かと聞いてみた。異常芸術から苦虫を噛み潰したような報告が届いたらしい。曰く、この案件はクソゴミムシの緩和部門預かりとなりました、だそうな。クソゴミムシって部門間のメールで使ってもいい語なんだなと学びを得ながらその日はダムへと帰って行った。
妙齢の女性が短編を読み始めた瞬間、男がバーの扉を開いた。そしてバーの壁から車が突然現れて男を轢く。もう1人の男が現れ、何の脈絡もなく倒れた。最後に体の周りに薄い水の層を纏った男がもがきながら入店し、死んだ。
妙齢の女性は少し驚いた表情をしながら、続きを読み進める。10分ほどで1枚目のページを捲り、2枚目、3枚目をそれぞれ5分ほどで読み終えたようだった。
20分間の間、ワクワクが止まらなかった。あまりの面白さに絶賛されたらどうしよう。下天茶屋に推薦とかしてくれるのか?いや、ただの読者かもしれない。それじゃ繋がりも大してないか。
とんとんと書類を整える音がした。老婆はため息をつき、きれいに整えた紙を机の上に置き、こちらに向き直って口を開く。
「あなた、面白くないわこれ」
「そもそも下天茶屋の技術を使った作品って宣うことの意味分かってんのかしら。あのね、下天茶屋の技術の殆どは読者にとって致命的なことが多いのよ。読んでたらいきなりフラッシュバンが発動して網膜に損傷とか、炎が顔全体を覆って大火傷すら軽傷の部類に入るわ。それでも下天茶屋が読まれるのは面白いから。その異常な体験がその形じゃなきゃ楽しめないからよ。下天茶屋のそれは悪趣味だけれど、命を賭ける価値があると思ってる。それをあなた、異常性を最初の男3人が死ぬだけで使い切った挙句それが後ろの物語に一切活かされていないってのはどういうことなの?何の意味もないじゃない。この死体。それに後ろの文も駄文だわ。国語の基礎がありません。主述の不一致が多すぎるし、文章の視点に一貫性がないから誰が何をいってるのか分からない。起きてることが読者に伝わらないからこの文には物語すらないわ。というか、これ殆ど何も起きてないじゃないの。書かれてる分のほとんどがキャラの設定だけ。しかも最初に死んだ男たちの掘り下げもないのね。本当になんで死んだのかかけらも理解できないわ。はっきり言って私自身を愚弄されてる気分。お前の命はこの文章と同程度だぞって言われてるようなもんですよ。ああ、読んで損をした」
思わず絶句してしまう。目の前のババアが喋り終わるまで何も口を挟むことができなかった。
「いや、男が3人いきなり死ぬのはしょうがないんですよ。だって、すぐに死体を文にする必要があったんですもん。俺のせいじゃない」
「私は別にいきなり死ぬことは批判してないわ。ただ、死んだ後一切触れられなかったことを批判しているの」
「キャラクターだって、設定がなければ何も書けないじゃないか。設定も何もない人間はつまらないし」
「キャラクターに必要なのは設定じゃない。エピソードよ。生まれ落ちた場所、優しいという性格、好きな食べ物がキャラクターを物語るのではなく、どのような状況でどう動いたかが物語るのよ」
「それに、書く時間も無かった。死体を消してから48時間以内に完成させて誰かに読ませなきゃいけなかったんだ」
「百歩譲って物語のつまらなさはそうだったとしましょう。それでも、日本語の拙さの言い訳にはならないわ」
ああ、クソ。最悪だ。何様なんだ、こいつ。でも言い返せない。言い訳した分、自分がもっと惨めになる。あまりの苦しさに、自分自身がどこか遠くに感じられる。このババア、何なんだ。別に俺はこんなことを言われるために読ませたわけじゃない。面白くない、ってだけいえばいいじゃねえか。ただ下天茶屋のおっかけしてるやつの分際で。クソ。最悪だ。
黙ったまま俯くことしかできない。こんなこと言われる筋合いは何もないのに、言い返せないことが何よりも嫌だった。ババアの言うことに納得してしまっていた。
それからしばらくして、バーテンダーが奥から出てきてババアに飲み物を置く音がした。それから、俺の背後で何かを引き摺る音。そして、しばらく無音が続いた。
ババアが口を開く。
「あなた、ウチの茶会に来なさい。勘違いしないでね。下天茶屋みたいな異常性を使った文学じゃないわ。普通の、普通のよ。でもね、下天茶屋のそれを使いたいならそこらで本出してるような奴に負けるようじゃダメ。下天茶屋の技術を使いたい。異常な読書体験で読むことを次のレベルに引き上げたい。その渇望で自分自身を磨きなさいな」
その言葉に思わず顔を上げてしまった。ババアの表情は想像以上に柔らかかった。
ババアから、次の茶会の会場と日時が書いてあるメモを貰ってその日は解散した。家に帰ると全ての下天茶屋の本は無くなっており、自分の体験と手元にあるメモ以外に下天茶屋と自分自身との繋がりは無くなった。メモを破って全て忘れようと思ったこともあった。しかし、いざメモを見ると不思議とそんな気にはなれなかった。
それからしばらくして、その日が来た。何度も迷ったけれど、メモの場所を訪れてみることにした。
そこはダムの辺りにある小さな教会。そこで、3か4人ぐらいが長椅子でバラバラに座っていた。しばらくすると、壇上にあのババアが横から登壇する。大きく朗らかな声で、お茶会へようこそと響かせた。どうでも良い食事の話をしましょう、つまらない日本語の書き方の話をしましょう、ありきたりな風景の話をしましょう。そして、創作の話も。次書く日のために、明日のために。そして、忘れてしまう過去のために。
「なんで緩和部門はクソゴミムシなんて呼ばれてるんですか?」
「緩和部門は創作者を殺すからだよ」
話を聞きながらぼんやりと外を眺めると、歴史的な建造物が近代建築の間で肩身が狭そうにしているところが目に映った。
「緩和部門は、創作者の牙を抜くための専門家なんだ。原稿用紙とペンの代わりにゲーム機とコントローラー。有意義なブレストの代わりに雑な内輪ネタ。そうやって創作そのものから遠ざけたり、創作物をつまんなくしたりするのさ。つまんない創作を繰り返すやつはコミュニティから爪弾きされるからね。どんどん内輪側へ寄ってくる」
京都の街並みは歪だ。動かすことのできない古い木造の建築物たちに寄り添うようにビルが立ち並ぶ。その風景は、小さな建造物を近代の建築たちが寄ってたかって脅しているようにだって見える。
「そうして、異常芸術コミュニティから隔離する。そして、財団側が用意した内輪に誘引する。記憶処理後の異常芸術再犯は大抵元いたコミュニティからの再勧誘がほとんどだから、効果的だったんだ。ただ、作る作品は本当に見苦しいものがあって。しかも、最近は記憶処理剤の不足が重なってるだろう。すると、記憶処理までの間ずうっとつまんない異常芸術を産み出し続けるんだ。それがじっくりと首を絞めてるように見えるんだろうね。今回の子はそこまで重い処置されるわけでもないだろうけど。異常創作にちょっと触れちゃっただけで、別にアイデンティティがそれだったわけじゃないし。しばらくは用意されたコミュニティでおしゃべりして、数ヶ月後に異常創作の記憶処理で完了だね」
かつてこの地で親しまれ、求められた存在。それらは続々と到来する新しきものたちに埋もれて、いつしかその姿はすっかり矮小化してしまった。
「そうして彼は、昔文を書いたことがある人になる。それでおわり」
街並みは閑散とした郊外に差し掛かった。
「彼は記憶処理されてからも書くでしょうか」
「さあね。知ったこっちゃないな」