アセンシア
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場所: 東京


運命の日から、2年が経った。

その日、私が僅かな隙間から足を下ろした時、私はすぐに背後を確認した。そこには、彼らの作り上げた奇妙な世界への扉は既に消えていた。代わりに、見慣れた都心のくすんだ空気が私を出迎えた。

しかし、良いニュースがない訳ではなかった。気が付くと、右肩の辺りに瞳と地球儀のマーク──コンペンディウムのロゴが施された白衣を着た数百人(その大部分はフェムトドローンか、ナノ粒子化に成功した動植物だった)が私の目の前に存在していた。

それは当たり前のようにそこにいた。私は漠然と考えた。数人の彼らは我々と大差はなかった。プリムローズは、彼らはホバー戦車や粘着ナパームでやってくるわけではないと言ったが、少なくとも不可視のそれらが私には見えた。彼らは私がその存在について尋ねるより先に、機械的に彼らの行動を開始した。

──それから、正式にその存在が公表されるまでの1年ほど、そして今でも、私は財団と彼らを往復する不安定な存在であり続けている。しかし、私はこれらをSCiP NETにアップロードするようなことはせず、彼らがゆっくりと、そして確実に全ての行政に背後から手を回すまでの工程を鮮明にとらえていた──ただ1人を除いて。

(…)

第一の太陽が沈んだ時、私は沿岸の歩道で、翌日のプランについて考えながら散歩をしていた。左手の沿道には建設途中の新しい構造物が並んでいたが、公道は驚くほど閑散としていた。構造物の外装には、およそ人間と同じサイズの10本の足を持つペンシルの芯のようなワイヤーの数十匹が、まるで角砂糖に集る蟻のように張り付き、彼らの四肢を融解させ建材へと置き換えていた。それらは全てが透過素材で構築されていたが、イモーティゴンらが来店しても手厚く迎え入れられるよう、十分な強度に設計されていた。実際、良識のある数頭のイモーティゴンはそうしていた。

歩道には普遍的な人間も通っていた。しかし、その大部分は、頭頂から爪先にかけての全身が歯車に侵食されたオートマトン、ラベンダー色のゲル状ヒューマノイド、あるいは単に知性と理性と政治的関心を持つマイクロプロセッサが占有していた。これらの景観の変化も、コンペンディウムによる成果だ。私はオートマトンのブロークン・カトリックへの勧誘を振り切り、足を早めた。海沿いに10mごとに設置された街灯は、時々その鉄柱を湾曲させては歩行者を覗き込み、彼らに光の手を振った。

私は歩道に併設された階段から堤防へ上がった。そこは完璧と言えるほどの平面なグラナイトで舗装されていた。右手の方向には5mほど下に、透明な液体に一滴の青色のインクを垂らしたような海が広がり、強化ガラスの海溝からはいくつかの埋設インフラストラクチャーが頭を出していた。私は堤防のエンボス加工が施された縁を伝うように歩いた。そうして1キロメートル余りの距離を瞬間的に渡り終えた時、縁に座る一匹の猫が見えた。それはオレンジ、白、そして茶色の斑点の毛皮と、紫色のブレザーを身にまとい、水平線を眺めていた。猫の首から下げたキャッツアイが反射光の鋭い視線を放った。私は自分が白衣とジーンズを着ていることを再度確認すると、猫に近づいた。

カスピアン: ハロー、プリムローズ

猫はこちらを見た。その目は大きく見開かれた。

プリムローズ: デイビッド……

彼女は堤防の段差を下り、こちらへ歩み寄った。

プリムローズ: あなたも、来ていたのね?

カスピアン: ええと、ご無沙汰していました。

私は堤防に座り、海の方面に足を下ろした。足裏に透明なテトラポットの感触を覚えた。彼女は私の隣に座った。街灯は彼女と私を照らすように、カンデラを調節した。

プリムローズ: また会えて嬉しいわ。デイビッド、まだパリに行ってみたい気はあるかしら?

カスピアン: プリムローズ、あなたは以前にお会いした時とお変わりないようですね。

プリムローズ: あなた、は?

カスピアン: 私は変わっていませんが、あなたと私以外の全ては、数値にして4.6プリムローズもの変化がありました。

彼女は笑った。

プリムローズ: ああ!本当に、あなたはデイビッドその人だわ。でも、もうあなたは私と同じ博士ではないのね。

水平線に浮かぶ孤島から、巨大なコンペンディウムのホログラムの瞳がこちらを俯瞰した。そこはコンペンディウムによる都市開発、デベロッパ・プロジェクトに推薦された最初の島だ。郊外は海底のスポットライトによりライトアップされ、近代的とも原始的とも識別されない建造物が大陸の舞台上で照らされていた。しかし、その片鱗は見慣れた街並みに留められ、ノンフィクション映画よりも実在性を持つ光景が一つの窮屈な陸地に集積していた。私はそれをしばらく観賞し、次にプリムローズに質問を投げ掛けた。

カスピアン: プリムローズ、何故あなたはここにいるのです?

プリムローズ: デイビッド、それはあなたも同じでしょう?

プリムローズは猫の短い身長でこちらを見下ろした。

プリムローズ: それはともかく、あなたには良いニュースと悪いニュースが2つあるわ。1つはあなたは私よりも先にコンペンディウムに迎え入れられたことね。

カスピアン: それは…悪いニュースなのでは?

プリムローズ: でも、あなたにはまだこの世界について学ぶべきことがたくさんあるの。これはもう一つのニュースのことね。

私はプリムローズにとっての良否を理解できなかったが、彼女はそれをそれほど気には止めなかった。

プリムローズ: ああ、この言い回しはチープだったわね。言い方を変えましょう──

プリムローズはホログラムの瞳と視線を合わせた。

プリムローズ: あちらの仕事はどうかしら?

私も島を見た。

カスピアン: いえ、以前と比べてそれほど変化が訪れたわけではありません。彼らは大騒ぎPaint the town redで開拓を始めたわけではありませんが、私が聞いたからには、内容は至ってシンプルなものでした。

プリムローズ: シンプル

私は堤防を駆け下り、パステルグリーンの歩道に立った。そこに存在していた歩行者のほとんどは、自身の家へ帰ったか、あるいは光学迷彩バイザーのバイパスモードに手を触れていた。背の高いスポットライトの光と、プリムローズの目がこちらを見下ろした。私は右足で歩道を2回踏み鳴らした。

カスピアン: 彼らはまず、この場所を彩色しました。

プリムローズは歩道を見渡した。

プリムローズ: ええ、本当に

カスピアン: いえ、単なる比喩です。私は傍らで見物していただけですし、染めたのは事実ですが。

私は階段を駆け上がり、彼女の隣に座り直した。スポットライトが彼女に復帰した。

プリムローズ: なるほど。つまり、カタストロフでもなければ、大きな変化は全てに均等に齎されるわけじゃないのね。彼らは最初に、一般的には文字通り大衆の目に付く部分に着手したのね。彼らがこの通りをパステルグリーンに染めたのもその一つだった。私と同じ種に与えられる2つの選択肢が後に回されたのも、ようやく納得できたわ。

カスピアン: はい、彼らは自ら慣例をねじ曲げることができるようです。これらも彼らが改変した現実の一例ですが、私はここへ来るまでに、オートマトン、スライム、プロセッサの横を通りました。プリムローズ、私は少し古い時代の考古学者でもあります。これが、普通に聞こえますか?これが、彼らの目指す正常なのでしょうか?

プリムローズ: コンペンディウムが面倒を見る下で、常識は存在しないわ、少なくとも彼らは不適切と指摘するでしょうね。彼らは異常やアノマリーはもちろん、正常という言葉も同様に嫌っているのよ。私の知る彼らの内の一人は、人々のイデオロギーでさえも根絶しようとしていたのよ。彼らは客観的な見解は好むでしょうが、アイディアは求めていないでしょうね。でも、それは悪いことではないわ。

カスピアン: そう言うと、私にはとても彼らがここの主軸には聞こえませんね。

プリムローズ: そうね、そして実際にそうだわ。でもねデイビッド、過去のあなたたちがこれを見れば、きっとここのパラダイムを妬むでしょうね。つまり、それ相応の強い意思が無ければ、会議に出席して他を言いくるめることは疎か、この世界を大々的な議会のように見れば、席を得ることさえ難しいことなの。その良い例が──

私は彼女の言う例を見つけようと、少しの間だけ周りを見渡した。プリムローズは私の視線を捕まえるように、襟から飛び出た一本の針で堤防の縁を軽く叩いた。

プリムローズ: 気が付かなかった?これらは全てアセンブリーによる作品なの。

グラナイトの色と思われる要素は、彼女の前の一点に集合し、それはまるで海面に映る藍色の小さな一匹のイルカを模した。イルカは彼女と私にウインクすると、グラナイトの河川を離れて水面へと移動し、島から降り注ぐ閃光に照らされ海底に消えた。私はその一幕が下りるまでの間、それに魅力された。次のプリムローズの一声は、そこから私の目を覚まさせた。

プリムローズ: シンセティック・バイオニクス。これは見なかったのね?

カスピアン: ウーム、私はその披露パーティーには招待されなかったようです。

プリムローズ: それほど華やかなものではなかったけれどね。

プリムローズは頭を傾けて針を戻し、説明を始めるための準備を始めた。彼女は顔は嬉しそうだ。

プリムローズ: 厳密に言うと、彼らがここで始めに目を付けたのは、あなたたちがアノマリーと呼んでいたものではないの。彼らは財団はもちろん、それに似た機関やコミュニティの監視を始めたわ。彼らはまず、二人の工場長を宥めた。ここでは簡単に言うことができるけれど、もっと時間を必要としたのは確かだったわ。アンダーソンは工場を解放し、一般の人間はもちろん、注目すべきとしてメカニトを招き入れたの。彼らには不平を呟く者もいたでしょうが、彼らの代表は手を結ぶことを決めたわ。それから彼らが一般的になるのは時間の問題に過ぎなかった。もう一人の工場長の認否は確認できていないけれど、新たなユニオンが設立されたことはそれを示唆しているの──それが、

カスピアン: 最高の仕事でしょう、マム?

プリムローズ: そうよ、

プリムローズは誇らしげに目を薄めた。

プリムローズ: どちらも彼らの意思を突き通しただけだわ。でも、最終的に彼らは最後の目的を果たすことができたの。それも何よりも穏便に済ませられる方法を。──それより、ワンダー博士にはお会いしたかしら?

カスピアン: はい、彼は特に目と頭の両方で注目を引く、面白い方でした。彼はまた子供たちを喜ばせることを専門とする人でしたから、慈善財団ともよく気があったでしょう。ついでに言うと、マム。アンダーソンとも既に名刺を交えています。

プリムローズ: ウォッチャーズとも?

カスピアン: 確かに!彼らは愉快な連中でした。

プリムローズは少しの間を置き、次に続く話題を特別なものにして見せた。

プリムローズ: ──それなら、これはあなたの方が専門家なのかもしれないけれど、あなたの勤める財団は今、どうなっているの?

カスピアン: 現在の財団は、例えるならば、角砂糖に蟻が群がっているようなものです。始めに言うと、財団とコンペンディウムはとても仲が良いとは誰も言えませんが、彼らの思念と活動にはかなりの影響が生じたようです。最近になり、評議会の長老達は彼らの終末と、コンペンディウムと彼らに流出するフェノムの存在について話し合ってはいますが──例外も多数ありますが、どれも甘い頭と将来計画をお持ちだったのでしょう。これは失礼な表現だったでしょうか?

私は少し戯けるように声の抑揚を変えたが、プリムローズの反応はあまり良いものではなかった。彼女は悲しげに頷き、水平線に横たわる街を眺めた。彼女の背後からは第二の太陽が昇り、私を照らした。

プリムローズ: デイビッド──

彼女は私の方を向いた。

プリムローズ: もしこれらの仕事が全て終わったら、デイビッド。あなたは、どうするつもりなの?

カスピアン: また次に現れる、フェノム-6001を調査します。

プリムローズ: そう、

彼女はこちらへ寄って来た。

プリムローズ: あなたは、何故?どうして、あれを覗き込もうと考えるの?

カスピアン: プリムローズ、同じ博士なら、あなたほどの良き理解者はいないでしょう。

プリムローズ: 好奇心は身を滅ぼすCuriosity killed the catわ、デイビッド。これは酷いことなのかもしれないけれど、あなたはきっとパイオニアとは違うのよ。コンペンディウムの大使なのよ。誰もあなたが消えることを望んではいないわ。

彼女は私に近付いた。

プリムローズ: それに、もっと科学的にも考えてみて。あなたなら分かるでしょう?通常の人間は、ワームホール転移時に無意識にエゴを保つことは不可能なのよ。彼らはもう既にその結果を得ているわ。

彼女は更に近付いた。

プリムローズ: デイビッド──

カスピアン: プリムローズ、あなたは普段の主張をどうするつもりですか?

プリムローズ: 違うわ、デイビッド。私は単に──

彼女は顔を顰め、暫く言葉を渋る時間を必要とした。私には今の彼女からは、嘗ての威勢を持つ彼女を連想することはできなかった。

カスピアン: 私には既に理解できています。この世界のデイビッド・カスピアン。彼があなたの前から姿を消した理由も。コンペンディウムが広漠とした次元で、A6Kを見出だすことが可能だったことも、ただ運の良かったことではなかったと。

プリムローズは頭を垂れ、その耳も後に続いた。

プリムローズ: ……デイビッド、あなたは彼らの大成を見守ることはできないのね。

私は縁の上に立ち上がった。彼女は顔を上げた。

カスピアン: ですが、コンペンディウムなら──

遥か遠くのホログラムは回転を止めた。私はそれを見た。瞳は私と彼女を見た。デイビッド・カスピアンを見た。

カスピアン: ──彼らなら、この状況を打開する方法を見つけ出すことができるでしょう。このことを、次の投票に賭けては見ませんか?

彼女は何も言わなかった。私は彼女を横目に堤防を下り、歩道に大股で踏み出して、大きく腕を前に突き伸ばした。その空間には、偶然にも透明のボタンらしきものがあり、側面にコンペンディウムのマークが大きくプリントされた、パール型の転送カプセルのバイパスが解除された。そして、その扉がスライドして私を迎えた。

カスピアン: 私はコンペンディウムへ戻りますが、あなたはどうしますか?

私は手で軽く合図で促すと、彼女は無言で堤防を飛び降り、こちらに歩み寄った。私は彼女へ最初の問いをぶつけることにした。

カスピアン: まだあなたが1つだけ答えていないことがありました。プリムローズ、何故あなたはあそこにいたのですか?

プリムローズ: (…)単に、猫のきまぐれよ。

彼女の返答は私を十分に納得させた。彼女が猫用の座席に座った時、次は私がインタビュイーになる番だった。

プリムローズ: それで、私達の感動の再開は、これで何回目になるのかしら?

私はその質問には無言で答えることにした。遅れて私が乗り込むと扉は閉まり、フロントガラスに沈む第二の太陽が反射して映った。最後に小さな閃光の残像の合図を残すと、第二の夜景に溶けるように、消えた。


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