淡彩
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 なにもかも上手くいかない。よくあることだ。今までも幾度かそういう状態になって、気づけばいつも通りに戻っていた。今回もきっとそう。私が死のうと思って原付バイクを走らせているのは、この繰り返しに疲れたから。今までのそれと何かが違っていたわけじゃない。だからこそ私は死にたくなった。

 退屈は、冷たさによく似ている。

 小さい頃は、神様がいると信じていた。神様はきっと遠いところから私を見守っていて、自分の頑張りに応じて相応の結果をくれる、と。別に、今は信じていないとか、神様なんて存在しないとか、そんなことは思っていない。寧ろ、神様はきっと存在していて、いつも誰かを見守っているのだと思っている。たまたま私のことは見てくれなかっただけ。みずみずしかった私の心はいつしか枯れ、ちぢれて小さくなった。頑張って空気を送り込み、頑張って膨らませる。そして心の中を覗いてみると、神様はいなかった。それ以上でもそれ以下でもない。


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 開けた所に出る。同時に、目の前に湖が広がっていることに気づいた。艶やかな水面。道沿いに列を作る木々。きりりと冷たい風。

 美しい。それは久しくなかった気持ちであった。私の心はあたたかくなり、早く死のうと思えた。美しさは私の背中を押してくれる。

 リュックサックに石を詰め込み、湖の中央へと伸びている船着場のへりに立つ。水面を覗き込むが、底は見えない。
 その水がごうごうと黒っぽくうねっているように見え、思わず後ずさる。ただ、やっぱりこういうのは早い方がいいよな、と、湖に向きなおる。

 ──私を喰ってみろ。

 腕を抱え、背中から水面に倒れ込む。

 湖は私を柔らかく受け止め、私から音を奪った。

 だんだんと遠ざかっていく太陽はそれでも尚眩しくて、それに耐えかねた私は目を瞑った。

◇◈◇◈◇

 気づくと、私は息をしていた。

 助かってしまったのか。慌てて飛び起きる。
 しかし、そこは依然として水の中であった。一体何が起きているのだ。辺りを見回す。街だろうか。建物がまばらに建ち並んでいる。

 なぜ息ができるのか。なぜこんなところに建物があるのか。分からないことだらけだ。もしかしたら、これは死ぬ刹那に見る夢のようなものかもしれない。それでも私は動くことができるから、リュックサックを置き、立ち上がって歩こうと決めた。

 しばらく歩き続け、ここが街であると確信した。古びた商店街のアーケード。破れて中から雑誌がはみ出ているゴミ袋。荷台が開きっぱなしのトラック。そのどれもがまだ息づいているようであり、その一方で完全に死んでいるようでもある。まるで写真のように、世界を過去のまま切り取ってしまったようだ。

 と、何かが聴こえ、立ち止まる。鼻歌のようなものがかすかに聴こえたのだ。
 その方向へと歩く。恐れはなかった。
 覗き込むと、そこはやけに開けた場所だった。その真ん中に、まさにぽつん、といった言葉が似合う様子で駅が建てられている。線路が通っているようには見えない。先程まで建物で隠れていた水面上の太陽が辺りをゆらゆらと淡く照らしている。

 非現実的な光景をぼうっと見つめていた私は水面に小さな影が浮いていることに気づいた。
 影はゆるゆると近づいてきて、ぼやぼやの輪郭は人型に変化していった。
 人型になった影は光を浴びて、「カラット」という単位で表したくなるほどの煌きを纏った。

 それは一人の少女だった。

 少女は独りで遊んでいるようだった。泡を指でなぞるようにして操り、陽の光がそれに呼応するようにきらきらと飛び散る。
 “目が離せない”とはまさしくこれのことを言うのか。私は白昼夢に紛れ込んでとろけたような面持ちでその様子を眺めていた。

 その時、少女がちらりとこちらを見たような気がした。この距離で少女の顔など見えるはずもないが、脳ではなく、身体に訴えかけるものがあった。突然、冷静になる。

 肌に触れる湖がやけに冷ややかに思えた。

 帰らねば。考えが頭をよぎる。すると私の身体はふわり、と浮き上がり、水面に向けて上昇し始めた。

 そこから私が地面に這い上がるのに、それほど時間はかからなかった。

 陸に足をつけると、先程までは全く感じなかった水の重みが背中にのしかかってくる。足元に水溜まりができて、私は着替えを持っていないことに気がついた。
 やはり、こういう時のために着替えは持っておくべきだな、と呑気なことを思う。さっきまで死のうとしていたのに。

 少女は結局、私が見た幻覚だったのだろうか。律儀に揃えられた靴を履きながら考えた。しかし、あまりにも疲れたこの頭では考えがまとまるはずもない。まあ幻覚だろう、と自分の中で結論づけてバイクに跨る。

 私は、風に冷やされながら家に帰ることを選んだ。

◇◈◇◈◇

 どうやら財布を湖の中に落としてきたらしいということに気づいたのは、家でシャワーを浴びている時だった。
 ……現金……クーポン……クレジットカード……社員証……免許証……
 これら全部を失ってしまうのは、まずい。手続きのことを考えただけで吐きそうだ。幸い明日も仕事はない。もう一度湖に潜ろうと思った。
 なぜ私が潜ろうと思ったのかは分からない。ただ、あの湖の底の街、あの少女の姿が脳に焼き付いて離れないのだ。

 夜が明け、私は再び湖にやって来た。晴れ。相変わらず人はいない。湖の周りを探すが、やはり財布は見つからない。湖のへりに立ち、勢いよく飛び込んだ。しかし底は深く、浅いところからではよく見えない。街があるのかさえも。諦めかけた時だった。突然眩しいのを感じて、目を細める。光が伸びる筋は見えないものの、どうやら底の方で何かがきらきらと光を反射させているらしいということは分かった。
 ふと、昨日の少女のひとり遊びを思い出す。彼女は今でも独りぼっちで泡で遊んでいるのか。少し寂しそうな横顔が浮かんでくる。私は、もっと深く潜ってやろうと思った。
 ポケットに石を入れ、入水する。先程よりも幾らか泳ぎやすい。ぐんぐんと潜っていった。

 と、街が見えた。やはり昨日のそれは幻覚ではなかったのだ。私は喜ぶ。が、だんだん息が苦しくなってくる。迷った。それでも私は更に潜ることを選んだ。潜る、潜る……意識がぼやける。駄目か……そう思った時、身体がふわり、と軽くなる。まるで大きな手に掴まれたみたいに。その手は私を底へと引きずり込み、私はいつの間にか底に立っていた。息ができる。やはり昨日と同じだ。湖の底には、確かに街がある。あとは、財布を見つけるだけだ。

 その時だった。建物の角から少女がこちらを覗き込んでいるのが見えた。咄嗟に声をかけようとして、躊躇う。こちらから話しかければ、きっと驚いてしまう。少女には気付かないフリをしていた方がいいのかもしれない。私は彼女に背中を向け、財布を探し始める。と、シャツの裾が引っ張られる。振り返ると少女がいた。 ……どうやら驚かされるのは私だったらしい。仰天して何も言えなくなっている私に、少女は財布を差し出した。
 「落し物、探しに来たの?」銀の鈴がころころと転がるような声。

 突然話しかけられ、あたふたしている私を見て、笑う。
 「ふふ、面白い人」

 「そ、そう、落し物。その財布を探しに来たの」
 なんとか返事をすると、少女は「やっぱり面白い」と呟いた。心做しか嬉しそうだ。
 「貴方、“ジサツ”しようとしたんでしょ」

 突然言い当てられ、胸がどきんと縮む。「あ、え、でも今は死ぬつもり、ない……よ?」仮初の言葉で取り繕う。

 「知ってるよ」少女は変わらず笑顔。「だって、わざわざこれを取りに来るなんて、死ぬつもりだとは思えない」

 言われてみれば、確かにそうだ。自分でも気づいていなかった。ただ、なんとなく理由は分かる。私は今まで、「いつも通り」であることに焦っていた。そこから抜け出せない自分に苛立っていたんだ。だから、こう非日常なことが起こったら。
 「死ぬ気は……なくなっちゃったかもね」

 それに。
 「それに、私はもう、2回死んだようなもんだよ」
 私は肌にぶつかる冷たい水面の感触を思い出しながら言った。

 少女はたいそう不思議そうに首を傾げた。

◇◈◇◈◇

 ゴッ
 脳天に一撃。

 思わず飛び起きると、今度は頭痛が遅れてログイン。
 スキの無い二回攻撃に、私は「痛ってぇ……」と呻くことしかできない。

 ニトリのデジタル時計落下事故(及び激しい頭痛)とともに、私の日曜は始まった。
 ここまではいつもの日曜とそう変わらないが、今日はいつもと違って外出の予定がある。言うまでもなく、例の湖に潜るのだ。
 数日ぶりにカーテンを開けて、天気をチェック。
 ……曇り。まあ水中世界に天気は関係ないだろう。

 洗顔、朝食、歯磨き。
 標準的モーニングルーティンを何とか成し遂げた私は、クローゼット(という役割を与えたダンボール箱)を漁りだした。
 寝起き同然の格好であの少女に会いにいくのは流石に憚れる。が、プライベートで人と会う機会があまり無い人種である私の家において、シワや汚れの無い服は絶滅危惧種に近い存在だった。
 いっそのことスーツで行きたいくらいだが、昨晩カレーうどんをぶっかけてしまったせいで無理だ。
 結果として、「土産として貰ったクソダサTシャツ」「ゆるゆるのユニクロジーパン」の2点が選出されることとなった。
 私にとってはこれでも私服の一軍だ。

◇◈◇◈◇

 寒々とした曇天の割に湖は心なしか温かかった。
 街の方は相変わらず静まりかえっていて人の気配は一切感じられない。

 少女はどこにいるのだろうか。今日は家の中にいるのだろうか。

 居場所など分かるはずが無いが、直感に任せて私は街の中へと入っていった。

 レンガのような石畳のような、不思議な質感の路地を縫うように泳ぎ抜けていくと、ちょっとした広場のような場所に出た。
 一種の交差路になっているらしく、広場には3本の細い道が繋がっていた。
 十数メートル程の建物に囲まれたこの空間は決して開放的と呼べるものでは無かったが、闇雲に街を進んだところで少女に会えるとも思えず、私はここで一息つくことにした。

 それにしても暇だ。息ができるとはいえ水中なので、電子機器は恐らく使えない。
 私は無意識にポケットをまさぐり、石ころを取り出してコロコロと弄びだした。
 何もしていないと、ついつい自分の服装に注意が向いてしまう。
 改めて見た自分の服は家で着た時よりも野暮ったく感じて、思わずため息が出た。
 こんなことならまともなTシャツの一枚くらい買っておくべきだった。今日は少女に会えなくてむしろラッキーだったのかもしれない。

 とまあ脳内で臨時反省会を開いていると、不意に何かが指の隙間を抜けて広場の中を飛んでいった。
 100円玉だ。いつの間にかポケットに入っていて、石と一緒に持ってきてしまったらしい。

 手を伸ばして100円玉をつかもうとするが、ギリギリのところで逃げられた。
 今度こそ掴もうとする。が、また手をすり抜けていく。
 また掴み損ねた。また。
 ああ畜生。今のは取れた。
 よし地面に落ちたぞ。今だ。

 その時。
 突如として視界に自分以外の手が現れ、100円玉を奪った。
 「あっ」と声を漏らすと、手の主は小さな笑い声を返した。

 「はい、どうぞ。もう落とさないようにね。」

 銀の鈴がころころと転がるような声だった。

◇◈◇◈◇

 少女の白く細い手から100円玉を受け取った私は、しばらくそのまま何も言えずに棒立ちとなった。
 急に出会ったというのもあるが、少女との距離が過去イチ近いというのが大きかった。
 文字通り目と鼻の先まで人に近づいたのは学生以来だろうか。
 ほんのり青くてキラキラとした一対の目が私をじっと見つめる。少女の澄んだ眼差しは、私をなかなか離そうとしてくれない。
 なんとか「あ、ありがと。拾ってくれて。」という短い定型感謝フレーズを発声し、私はそっと50cm程後ずさった。

 「あら、ジサツしに来たわけじゃないのね。」
 少女が微笑む。
 「また落とし物かしら。それとも、もしかして私に会いに来てくれてたりして。」
 少女が笑う。全てを見透かすような笑顔を見て、「なんで来たんだったかな」と誤魔化しながら私も笑った。

 幸いなことに少女はそれ以上私の動機を探ろうとせず、先程落とした100円玉に注目が移った。
 「今日の落とし物はその平べったい丸の金属なのね。ねえ、ちょっと見せてよ。」
 言われるがままに手の中の100円玉を手渡した。
 100円玉を受け取った少女は、青い目を今までにないくらい輝かせて一心不乱に模様を観察しだす。
 普段は見れないであろう少女の「素」を見れた気がして、胸の鼓動が少し強まるのを感じた。

 しばらく観察をした後、少女はこちらへパッと顔を向けた。
 「ねえ、この平べったい金属は何て言うの?」

 「100円玉。なんていうか……人間の世界で使う道具の一つだよ。」

 「ふうん、100円玉か。じゃあさ、泡の遊び方を教えるからこの平べったいのくれない?」

 いつもとは全然違う、少女の強い意思に押された私は二つ返事で承諾した。
 それにしても泡の遊び方とは何だろう。
 不思議に思っていると、少女が「ふう」と短く息を吐いた。
 たちまち泡が生成され、少女の付近でまき上がる。
 すかさず少女が腕を伸ばして泡に手をそっと当てる。
 少女が触れた泡はほんの一瞬だけ震えると、まるでボールのようにふわふわと辺りに漂いだした。

 「触ってみて。」

 ささやくような声で少女がこちらに声をかける。
 こわごわと泡に触れてみると、弾力のある感触が手に伝わってきた。
 柔らかさもあるのに弾力もある、形容し難い独特かつ気持ちの良い感覚だ。

 「えいっ」

 突然、少女が泡を投げつけてきた。
 顔で受け止めて無様に倒れたが、倒れた先にある泡がクッションとなって私の体はぼよーんとバウンドした。
 なるほど、そういうことか。
 意図を察した私は、バウンドした先に浮かんでいた泡をとっさに掴んで少女に投げ返す。
 命中。
 少女はぽよんと音を立てて飛んでいった。
 おっしゃ! と思わず声を上げると、すぐさま別の角度から泡が飛んできた。
 今度はキャッチして、また少女に投げつける。
 中学時代の部活経験がまさかこんなところで活きるとは。
 ひたすらボールをかわし、掴み、投げる。投げる。投げる。

 最初こそ遊び感覚のキャッチボールであったが、いつしかお互い本気のバトルになっていき、気づけば30分も無心で戦い続けていた。

 先に音を上げたのは私だった。
 泡の近くに寝転がり、降参を示す。私の負けだ。悔しい。
 少女は平気そうにしているが、明らかに息が上がっていた。水中で息が上がるというのも変な話だが。
 「思ったより頑張るじゃん。」
 少女が私を見下ろすようにして言い放つ。
 勝者の余裕を感じさせる発言だが自分も泡にもたれかかって休んでいる。
 なにか言い返してやろうと思ったが、残念なことに私の喉は呼吸全振りで不毛な言い争いをする余裕などなかった。

 しばらくお互いの息を整えた後、おもむろに少女が口を開いた。
 「湖の外ってさ、どんな感じの場所なんだろう。」
 「……出られないのか、この街から。」
 少女がこくりと頷く。
 人間が水中で生きられないように少女は陸だと生きていけないらしい。
 ということは、私みたいに陸と湖を行き来できる存在は他に存在しないのだろうか。

 「今まで陸のことなんて気にもしなかったし、今も行きたいってわけじゃないけど……ちょっとだけ陸の話を聞きたくて。」
 難しい質問だ。陸の世界を代表して何か紹介できるほど、私は陸に馴染めていない。
 しばらく悩んだが、とりあえず「風が冷たいよ」とだけ言った。
 少女はふーんと気だるく返事を返した。

 しばらくすると少女は急に立ち上がり、「ちょっと待ってて」と言い残して一本の通路に消えていった。

 一体何をしていたのかと私が訝しんでいると、少女はある一台の機械を運んできた。
 それは明らかに年代物のテレビであった。よく見るとDVDプレイヤーもついている。
 かなりボロい代物だったが、水中にも関わらず壊れているようには見えなかった。

 「ねえ、これの使い方知ってる?」

 濡れているから使えないかもしれない。と答えると、少女は「ここなら大丈夫かも」と返事をした。
 試しにDVDプレイヤーをいじってみると、懐かしい動作音を立てながらディスクを吐き出した。

 まさか本当に動くとは、と驚きつつディスクを手に取ってみる。
 ディスクの印刷は掠れてほとんど見えなかったが、私はそれがある映画であるとすぐに分かった。

 改めて少女に使い方を教える。
 少女は私の頬まで顔を近づけてプレイヤーを覗き込み、真剣な表情で説明を聞いていた。
 私はその表情に目が離せないまま、淡々と説明を続けた。

 「……それで、このボタンを押せば映像が見れる。ほら。」
 私は少女の手をとりながらリモコンを操作し、DVDを再生する。
 しばらくノイズが映った後、画面に映画の一場面が流れる。
 それは「水の国のリリア」というアニメ映画だった。
 幼い頃の私はこの映画の大ファンで、親にねだって何度もテレビに映してもらっていたのだ。

 あの頃の私はどんな気持ちで見ていたっけ。
 今の私はどんな気持ちで見れるんだろ。

 そういえば家族以外と映画を見たことなかったな。

 「じゃあ一緒に見よっか。」

 口を突いて出た言葉に私は自分でも驚いた。
 少女は少し目を丸くして、小さな首を縦にこくりと振った。

 昔死ぬほど見たはずなのに、私はほとんどストーリーを覚えていなかった。
 おかげで少女と一緒に新鮮な感情を抱けたので、むしろ幸運だったかもしれない。

 月しか見えない夜の海で、一人の少年がボートを漕いでいる。
 少年のかたわらにはもう一人、「リリア」という名の少女が座っている。

 リリアは繊細な目をした美しい人魚で、私の隣にいる少女にどこか似た雰囲気を持っていた。

 リリアは少年の耳元で囁く。「また家出?」

 少女は食い入るような目で目の前の映像を見ている。
 そうか、彼女は「映像」というものすら初めてなのか。

 少年の姿はどこか自分と重なるものがあって、少し息詰まるような感覚がした。
 だとするとリリアはさしずめ隣の少女にあたるだろうか。

 少年はどんどんとリリアへの愛を深めていく。
 幼い頃は単なる純愛として表面的に受け止めていたが、今見ると違った感想が浮かんだ。
 まるで「依存」のような……。

 ある満月の夜、少年はリリアにこう問いかける。
 「リリア、海の世界ってどんな場所?」
 少年はもう家に帰るつもりなどなかった。

 ふと、さっき少女に言われた言葉を思い出した。
 「陸の世界はどんな場所か」という問いだ。

 映画の登場人物は自分より上手く答えを出していて、悔しさで少し胸が痛んだ。

 ある夜、リリアの肌が淡く発光しはじめる。少年はそれに気づくが、構わず抱きしめる。

 少女はそこでふっと暗い表情を浮かべた。
 どうしたのかと声をかけると、きょとんとした表情で振り返る。
 ごまかされているのは分かっても、私は何も言えず画面に視線を戻した。

 リリアは自分を「海を乱すもの」だと告白する。少年は泣きながらリリアを見つめている。
 やがて月が沈みだす。少年はそっとリリアの手をとり、リリアの目を拭った。
 「大丈夫だから」と少年が何度も繰り返して、映画は暗転していく。

 きっとこの時少年は、リリアが「自分とは違う世界の存在」であるという事実に初めて真正面から向き合ったのだろう。

 私はつい少女の表情を伺う。少女は微動だにせず、なんの感情も感じさせない表情を浮かべていた。
 もし彼女が今と違う存在になった時、私は何ができるだろう。
 考えても一切ビジョンが浮かばず、私は自分の想像力のなさを呪った。

 リリアは人の世界を守るため、深い海で一生を過ごすと決断する。
 リリアがボートから飛び降り、海へ潜っていく。
 少年は迷うことなくその後を追い、ボートを飛び降りる。リリアは驚いた表情を見せるが、少年はリリアの手を取って深く深く潜っていく。
 エンドロール。知らない女性歌手が、知らない言語の主題歌を歌っている。

 少女はしばらく黙ってエンドロールを眺めていた。
 私はまた少女の横顔に視線を移した。少女の美しい瞳にエンドロールが反射しているのが見えたが、その瞳の奥で何を考えているのかは何も分からない。
 少女の考えを少しでも知りたくて、私はじっと横顔を見つめ続けた。


 エンドロールも終わり、テレビの画面は完全な暗黒に戻っていた。

 「ねえ。」

 唐突に、少女が目線を動かさないまま話しかけてきた。

 「貴方は私のことどう思う?」

 妙な響きの少女の声。
 予想外の発言に自分の体が硬直するのを感じながら、私はゆっくり言葉を選んで答えた。

 「一緒にそばにいたい人。できればずっといたい人だよ。」

 少女は目を腫らして、上ずった声を出した。

 「私も貴方といたい。でも、どうしてもそっちにはいけないの。」

 少女は口をこわばらせながら言葉を吐き出す。

 「映画を見て気づいたの。私は貴方みたいに、人間とは違う存在。……私、このまま貴方と会っていいのかな。」

 私はそのままの少女が好きで、きっとこれからもそう言える。
 あの映画の2人のような依存的関係でもいい。一緒にいたい気持ちは揺るがない。
 でも私と少女の間には計り知れない溝があって、抱き寄せることすら難しかった。

 映画の中の少年はどんな顔をしてただろう。
 今、私はどんな顔をできているだろう。

 ……考えたって、どうすればいいかなんて分からない。

 直感のままに私は動く。気づけば少女は腕の中だった。

 「人間とは違うとか、そんなことはどうでもいいよ。私はこれからも変わらず、会いに行くから。」

 鈴の音が震えるようなか細い泣き声が腕の中でこもる。

 「ずっとずっと一緒にいようね。」

 止まらない泣き声を耳元で感じながら、私は少女をぎゅっと抱きしめた。

◇◈◇◈◇

「すごい!!ねえ見て、見てよこれ!!」


 ……彼女の声でふと我に返ったのは、遥か上の空の終わり、光の差し込む水面をぼうっと眺めていたからだ。最近はぼんやりと意識が別の所に行っている事が自分でも多い様な気がして、少し治さなきゃなと思う。

 今日も会社には行かず、この湖に足を運んだ。連絡はまだしていない。自殺できるのならばそれで良いし、できなくとも人間関係が犇めく箱の中なんかよりこの場所の方が遥かに居心地が良い。そして何より、彼女───この湖に閉じ込められている一人の少女が、私が此処にいる事を望んでいる。それだけで全てが許されるような気がしている私の脳みそは、もうどうしようもなく膿み切っていた。

「……ねぇねぇ、聞いてる?」
「うん、聞いているよ。どうしたの?」


 微笑みながら答えれば、少女はすぐにその可愛らしい笑顔を取り戻した。その真っ白な肌も、瑠璃色に輝く目も、艶めいた唇も、全部が美しい。

「これ、見て。綺麗でしょ?」


 そう言いながら少女がこちらに出した華奢な腕の先、手のひらにそっと包まれている物。まるで繊細な雪の結晶でも見るかのように身を乗り出し、覗き込む。

 そこにあったのは、1枚の鱗だった。

 鱗粉を眩したような、玉虫色というべきだろうか。揺らめく光に反射して、波打つように様々な色に色彩を変える、鮮やかな宝石のような鱗。これは彼女の言う通り、確かに「綺麗」な物だった。何処かで拾ったのだろうか。

「すごいね、これ。どこで拾ったの?」

「ううん、拾ったんじゃないの」

「これ、私の腕にはえてきたんだよ。凄いでしょ?」

 
 …………………えっ?

 一瞬だけ脳がフリーズする。彼女の腕から。その事実を飲み込むのに数秒程時間を要した。それは大丈夫なのか?という間の抜けた疑問が頭に浮かぶ。「彼女が人ならざる物である」という、ずっと前から知っていた事が頭に改めてよぎった。もう一度鱗に目を向ける。燃えるように艶めく鮮やかな色は、確かに彼女によく似ていた。

 ぶはっ。

 ……唐突に顔面にぶつけられた物が泡という事に気がつくまで、これまた数秒程時間を要する。彼女の方を見れば、いたずらな笑顔をこちらの方に向けながらにやにやしている。こいつめ。動きに緩急をつけてから不意打ちで投げ返す。

「わ、ちょ、不意打ちはずるいよ、ねぇ」

「先にやってきたのそっちでしょ、おあいこだよ」


 いいや。今は彼女の笑顔が見られれば、彼女と一緒に居られれば、私はそれでいい。無駄な思考は停止しよう。胸の奥の奥に少しだけ渦巻いた感情に蓋をして、彼女の方へと歩き出した。

◇◈◇◈◇

「最近、少し痩せました?」

「えっ?」


 唐突に聞かれて焦りを隠せない。只でさえ今精神が削れているのに追い討ちをかけるような事をしないでくれ、と心の中で思う。

 数日間仕事を無断で休んだ事に対しては、案の定こっ酷く怒られた。叩きつけるような声の荒らげ方が頭にズキズキと響く。それでも心なしか想定していたよりかは優しく感じたのは気のせいだろうか。まぁ、私の精神のHPが大幅に削れた事は変わらないので過ぎた話なのだけど。散々怒られ終わった後にボロボロの雑巾みたいな足を引きずりながら仕事に戻ろうとしたら、今度は〇〇さんに話しかけられたというわけである。

「いや、その。最近、無断で休んでたじゃないですか。それで久しぶりに顔を出されたから安心したんですけど……。なんか、大丈夫かなって」

「え……いやいや、全然大丈夫ですよ。むしろ前よりも良くなってきたんですから。お心配なさらず」


 言いたい事だけ言って逃げるようにその場を離れる。ああいう親切を押し付けてくるような人間は苦手だ。というか私はそんなにやばいのか?思えば上司も心なしか気を使っていたような気もする。頭痛が加速する。息が詰まっていく。誰にも私を見られたくない。見られて、嘲られたくない。誰にも見られない場所に移動してへたり込む。もう耐えられない。そう思った瞬間、定時を知らせるチャイムが鳴った。

 ───思うに、私は人間社会に向いていないんだ。


 生ぬるい風を掻き分けるようにバイクを走らせる。夕暮れ時の景色がオレンジ色に染まっていくのを眺めながら、猫のように目を細めた。


 でも、私はそれでいい。あの娘がいるから。あの娘がいるなら。


 ゴミだらけの私の部屋。そこから着れる服を掻い摘んで軽く羽織る。部屋の鍵を紛失した事に気づいたが、最早どうでもいいやと扉を閉める。盗まれて困るものなんて、今更無い。再びバイクに跨る。


 彼女に会いたい。ずっとあの笑顔を、飲み込まれそうな美しさを見ていたい。


 湖の水面。背中を向けて飛び込む。プールの授業でも一度あるかないかの海に行った記憶の中でも水中になんて禄に顔をつけられなかったのに、不思議と怖さは全く無い。水中の中でも夕焼けの光が眩しくて、耐えかねた私はいつものように目を瞑った。

 最早歩き慣れてきたコンクリートの道を右折して、目印の錆びたカーブミラーを通り過ぎる。夕焼けの光が水面から差し込み、街は揺らめくオレンジ色に染まっていた。時折感じられる浮遊感。それが、ここが水中であるという事を私に改めて感じさせた。でも私はあの少女の様に悠々と街を泳げはしない。例えここが陸上でも大空でも、私は脚の重い枷を外す事はできないのだろう。

 駅が見える。私達だけの、秘密の遊び場。今日も彼女は此処に居るのだろうか。コツコツと硬い足音が響く。誰もいない改札を通過する。見えた。ちらと目の端に映る。純白の薄いレースを靡かせてふわふわと浮く、1人の少女の姿。少女が私に気づく。表情がぱっと明るくなる。その笑顔が眩しくて、私は軽く手を振った。負けじと少女も大きく手を振る。少女が健気に振る、その華奢な腕──────。

 その腕には、艶やかな鱗がびっしりと生えている。


 思わず足が止まった。

 突然立ち止まった私を見て、少女が不思議そうに首を傾げる。

「……?どうしたの……?」

「ぇ………いや、その。腕……大丈夫?」

「あぁ、どう、この腕?とても綺麗でしょ?この前の鱗、気に入ってくれたよね。いっぱいあるよ。ふふふ」

「……」

「貴方がくるの、とても楽しみにしてたんだよ。今日もたくさん遊びましょうよ!」


 変わらない声色。変わらない表情。明るい彼女の姿は昨日と何一つ変わらなくて、でもだからこそ継ぎ接ぎのような"違和感"は私の心に渦巻いていた。咄嗟にその全てに蓋をする。

「………うん、そうだね。今日もたくさん遊んで、一緒にいようね」


 そう言って私が笑えば、彼女も笑った。

 今日も少女と共に映画を見て、歌を教える。私が持ち込むDVDや本の数々は、衣服と同様街の中にある限りは「濡れた」事にはならないようであった。それを良い事に私達は壊れかけのDVDプレーヤーで様々な映画を見た。駅の中には、私が持ち寄った本が積み重なっていった。一緒に映画を見ながら、時折ちらと少女の方を見る。精一杯画面の向こうの美しい世界を吸収しようとしているその瞳を眺めている時、私はつい先程まで抱いていた違和感を忘れそうになるのだ。それが良いか悪いかなんて私はわからない。映画が終わって互いに感想を言い合う時も、その葛藤は続いた。

 ──────戯れ疲れて空を見る。街全体を染めていた薄いオレンジ色はより赤く濃くなり、赤紫色のようになっていた。もうそろそろ帰らなくちゃ、と言いながら立ち上がり、帰る準備をする。次はどういうDVDを持ってきてほしい?、と聞こうと振り返ろうとした瞬間、私の体は硬直する。それが後ろから抱きしめられた事に気づいたのは、彼女の鱗が反射する光が視界の端で煌めいていたからだ。

「暖かいね」


 少女がぼそりと呟く。その声色は普段とは違った無機質な感じで、私はえっ?と聞き返す。
少女は続けた。

「……私、この腕になってから、とても水が冷たいんだ。綺麗な泡も、いつからか出せなくなってるんだよ。どうしてだろう。……だから私とても不安で、でもやっぱり貴方は暖かいね。体温の温もりって素敵」

「……そう、なのかな」

「うん、そうだよ」


 沈黙。先に口を開いたのは、やっぱり彼女の方だ。

「ねぇ、泡、出せなくなっちゃったけど、これからも遊びに来てくれる?……これからも、こうやって抱き締めていい?」


 鳥肌が立った。
 今まで聞いた事も無い、彼女が吐いた弱み。それが私と共有され、私によって解決されるという事実に、私の全細胞が喜び震えるのを感じた。私は彼女に必要とされている。私が彼女に孤独という物を教え、与えている。歪んだ笑みが漏れるのが自分でもわかった。何故彼女が泡を出せなくなっているのか。何故鱗が彼女から生えているのか。そんな違和感に私は目を閉じる。震える声を繕うように、私は言った。

「当たり前だよ」

 彼女と別れ、そのついでに街をぶらつく。まだ私の肌は彼女の腕、その鱗が触れる冷たい感触を覚えていた。もう戻れないのだろう。沸々と湧く確信が頭に煙る。互いの名前も知らないのに、私達は互いがいないとダメになってしまった。

 醜いだろう。邪だろう。
 
 私にはそれが、どうしようもなく快いのだ。

 それでも。

 ポケットから取り出したのは、一枚の鱗。彼女の腕から生えてきた物だ。これを眺めていると、不思議と彼女がどこか遠くへ行ってしまいそうな、そんな予感がする。
 足が浮く。水面に向けて身体が上がっていくのが心地良い。振り返ると、赤紫の街が、徐々に遠ざかっていく。

 揺らめいたその景色が、ふと、燃えるように見えた。

◇◈◇◈◇

 その日も湖に向かう。

 その日もバイクを走らせる。

 その日は少しだけ蒸し暑くて、半袖の中を風が通り抜ける。

 いつもの湖。
 迷わずに飛び込んだ。

 視界を満たす、いつもの水。
 最早慣れてきて目を瞑らずにいられる自分に苦笑する。ぐるりと周りを見渡せば、近くに何か異物がある事に気づく。

 魚の死体。

 鮮血を出しながら浮かんでくるその姿に少しだけ嫌悪感を覚えれば、その次の瞬間に意識は街へと引っ張られていく。

 着地。今日も少女の元を目指す。
 にしても、何故に魚が死んでいるのだろうか。以前もこの湖にはちらほらと魚は見たし、まぁその一匹が死んでても何らおかしくは無い、けど。

 魚の骨が喉に突っかかったような何か。その感覚は、ずっと目を瞑ってきた違和感によく似ていた。

 嫌な予感がする。駅につく。少女がいるか確認する。今までの人生で私は知っているのだ。生活なんて繰り返しの作業でしか無いように。神様なんて私にはいなかったように。


 こういう時の嫌な予感は、往々にして的中するものだ。

 鱗。少女の鱗は脚までを覆い、首元まで侵入していた。そしてその左腕が、肘から上が、……分裂、している。その二つの歪んだ手で魚を掴み、血を啜る少女の姿が、そこにはあった。

「あっ、来た!待ってたんだよ!」


 魚の血を口元につけたまま花が咲いたように笑うその顔は、私が見慣れているそれと全く変わらなかった。只一つ違う事は、その口から見える牙が、水面の光に反射している事だ。

 現実を飲み込むのが下手くそなのは、今までもこれからも治す事はできないと、私は思っている。

「鱗が、鱗がね、どんどん増えてきちゃって、冷たくて、冷たくてさ、ねぇ。貴方の体温が恋しくて、体温がほしくて、血が暖かいのかなって思ったの」

「ね、ねぇ」

「それで私の腕を切ってみたのに、私の血、透明でさ。ぜんぜんあったかく無いの。面白いよね。……ふふふ。それでまた生えた腕も変になっちゃったし、サカナの血も赤いのに暖かくは無いんだね。だから、だからさ」

「その腕、本当に大丈────」

「私、やっぱり貴方じゃなきゃダメみたい」


 狡いものだ。

 その一言だけで、私は全てを受け入れようとしてしまう。

 ぐちゃぐちゃになった頭が、貴方の笑顔に塗りつぶされてしまう。

 冷たい感触。彼女との抱擁。先に飛び込んだのは、他ならぬ私だ。

「大丈夫。好きだよ」


 ……最早上手く回らない呂律で、何かに言い聞かせるように言う。細く、長く、何かを見失わないように。

 瞬間、痛みが走る。咄嗟の激痛に顔を顰めながら剥き出された私の腕を見れば、歯形から血がぽつぽつと漏れ出していた。

「うん、やっぱり、貴方の血はあったかいね」


 そう言う少女の顔をぎょっとして見ると、その目からぽろぽろと涙が溢れている。
 心が、締め付けられる。

「私がこの街を創った時、私が何を想ってたのか、もうわからないの。きっとむかしは水も暖かくて、心地よくて、街が私の全てだったんだろうな。でも今の私には貴方が私の全てになっちゃって、水が冷たくて、冷たくて、もう堪らないんだ」

「……うん」

「だから体温が恋しくて、血が暖かくて、でも、でも。貴方の事、私傷つけたくなくて。もう私、わかんないよ」


 苦しい。

 こんなにも私を、どうしようもなく好きでいてくれる事が苦しい。涙をぽろぽろと流しながら弱音を吐いている事が苦しい。

 そう言いながら、無意識に私の血を舐めている事が苦しい。


 彼女が私の手を離れる。咄嗟に抱き戻そうとするが、私の手は届かない。ふわふわと水中を泳ぐ彼女と目が合う。少女は私に何か言おうとして、そのまま背中を向けた。あぁ、行ってしまう。去ってしまう。

 少女が、遠ざかっていく。

 追いかける事もできたのに、私の足はまるっきり動かなかった。

 駅に1人へたり込み、ぐちゃぐちゃの頭を必死に回して考える。
 私は彼女を助けたいのに。私は彼女に身を捧げても良い。彼女がそれで救われるのなら。でもそれは彼女が望まない事だ。

 ───私以外なら?

 私の中に出てきたほんの少しばかりの悪意が、水に垂らした血の様に広がっていくのを、肌で感じた。

◇◈◇◈◇

 息切れ。

 ほんのちょっとの出来心だ。出来心で、もうどうしようもない一線を超えてしまった確信が、私の首元を冷やす。いや、私は、直接的には何もしていない。なんて必死に自分に言い聞かせるのは何回目だろう。バイクに流れる夜風が酷く冷たく感じる。

 〇〇さんにこちらから話しかけたのは初めてだったから、結構驚いてくれて、他意は無く何気なくあの湖の事を知ってるか聞いて、家から結構近いみたいな感じになって、

 あれ、聞いてどうしたんだっけ。頭が混乱してる、えっと、えっと、
 それで、私の事を心配してる様で、なんでそんな事を聞いてくるのかって言われて。それでもう会う事もないから大丈夫です、なんて答えたんだっけ。まるで彼が湖に行く事を誘導する様に。

 バイクを降りる。ポケットに突っ込まれたスマホを改めて見返す。ひび割れた画面の向こう側で光るのは、久しぶりに来た業務用のメール。

今夜、あの湖に向かおうと思います。あの湖は私の家から近いですし、これが私の思い過ごしなら放っておいて構いません。でも、妙な真似だけはやめて下さいね。


 最悪の状況が頭に浮かぶ。スマホを放り捨てて湖のへりへと走る。誰かの靴が転がっているのは、見ないフリをする。
 噛まれた痣がじわりと痛む。私は、あの少女を心の底から愛している。そう信じている。


 街を駆け抜ける。駅に辿り着く。

 改札を通り抜ける。貴方の透き通る様な匂いが流れる。

 声。あぁ、貴方の─────────

 泣いていた。

 少女は泣いていた。ソーダ水みたいにぱちぱちと光を反射する鱗の山に鎮座して。人の形をした肉塊を貪りながら、翡翠色の涙を流しながら、泣きながら笑っていた。
その両脚は太ももから千切れた先で分裂し、分裂して、両脚が分裂しきった先で結合している。まるで歪な人魚の様だ。貪る肉塊が誰かなんて、考えたくも無かった。顔にまで侵食した鱗がヒビ割れて、割れた鏡の様に煌めいていた。

「あ、まってたよ、うふふ。あはっ、ねぇ、冷たいよ。なんで?血は暖かい筈なのに、肉も骨も全部暖かくてここちいいのに、つめたくてつめたくてたまらないよ。うふっ、ふふ。あははは。ねぇ、こっち来て、だめ、来ないでよ。たのむから、抱き締めてよ。私はあなたしかいないんだよ。冷たい。つめたいよ」


 少女が私を呼ぶ。私はその様を、どんな表情をして眺めているんだろう。

「ねぇ、たすけて。こわいよ。ひひっ、なんでだろうね。怖くて怖くてつめたいくて堪らないのに、なんでこんなに笑っちゃうんだろうね。はは、ふふふふっ。冷たい、冷たい、冷たいんだ。ねぇ、助けて、なんかおかしいよ。ぁぁ、貴方の顔、もっと見せてよ」


 少女が私に伸ばした手を、私は握り返せない。抑えきれない程に彼女に触れたいのに、私の体はまるで動かなかった。動け、動けよ。必死に手脚に言い聞かせる。

「鱗が、うろこがさ、剥がしても剥がしても剥がしても私を覆いつづけるんだ。ほら、こんなに」


 彼女は鱗を両の手に掬ってみせた。隙間から絶え間なく鱗が溢れ落ちる。ちょうど、砂時計の砂みたいに。

 
 ふと目線を上げる。私と少女の間に僅かに差し込む月明かりに照らされた、小さな一つの泡が、ふわふわと私達の間を舞い降りる。

「ねぇ、ねぇねぇ、私にはあなたしかいないの。なんでそんな顔してるの、」


 体が押された様に動き出す。あの泡だけは守らなければ。何故そう思ったのかはわからない。只、泡と戯れて無邪気に笑っていたあの少女の笑顔を、私は忘れたく無い。

「だから、もう、どうしようもなくさ、」


 手を伸ばす。だがいつも私の手は一寸届かない。

 泡が、音を立てて弾けた。

「───────冷たいんだ」

 閃光。遅れて伝わる、確かな熱。

 炎だ。

 床から、肉塊から、空間から、溢れる様に噴き出した炎は、叫ぶ余裕も与えず、焦げた匂いと共に辺りを支配していく。少女が狂った様に笑いながら私の頭上を通り過ぎる。その姿を目で追えば、彼女にも炎が燃え移っている。いや違う。彼女から炎が出ているんだ。炎が改札を塞いでいた。熱が私の網膜を嘲笑っていた。最早逃げることすらもできない状況に、力無くへたり込む。

 きゃはははははははははははははははっ。


 少女の嗤い声が響く。彼女の涙は己の炎で燃え落ちて、頬に垂れる事すら叶わない。少女が過ぎ去っていくトラックに、ゴミ袋に、家に、街に、炎が乗り移っていく。炎が噴き出していく。炎が飲み込んでいく。焼け焦げ始めた喉で精一杯叫みながら、ぐちゃぐちゃに歪んだ脚で優雅に水を掻きながら、幻想的に、破滅的に、少女は水中の街を舞っていた。

 手を伸ばす事さえ、もうできやしない。

 あはっ、あったかいねえ、あつくて苦しくて痛くてあったかいや。


 少女の声が透き通る。商店街のアーケードが炎の渦に変わっていく。石畳の路地は炎に支配されてもう見えなかった。交差点から吹き出る焔柱が月明かりを埋め尽くしている。揺らめいたのが水なのか炎なのかなんて、もう私には解らない。

 水中の街が、炎に呑まれていく。

◇◈◇◈◇

 いつから、間違えてしまったのだろう。

 いつから、全てがおかしくなっていたのだろう。

 炎に包まれた駅の中、僅かに空いた炎の隙間から見える、彼女の姿。水中の街の上空で、燃え盛る体で、戯れるように舞っている。

 眩しいな。私は目を細める。

 その鱗に塗れた肌も、ひび割れた目も、剥き出しにされた牙も、全部、全部が、

 うつくしい。


 熱い。最早腐りきったような身体が、炎の熱に今更焦がされようとしている。ここから生き残る方法なんてもう無いのだろう。生き残るつもりも勿論無い。

 私は、貴方と一緒にいたかっただけなのに。

 只、二人でいられたらよかったのに。

 思わず笑みが溢れた。こんな時まで、私は貴方の事しか考えられない。

 

 炎がじわじわと近づいてくる。熱にあてられた皮膚はもう感覚が無くなってきていた。視界がぐらつく。舌がひりひりと痛む。まるで全てが蜃気楼のように、景色が揺らめいて見える。

 何故こんなにも惹かれてしまったのだろう。

 何故こんなにも愛してしまったのだろう。

 人の理を超えた存在だって。近づけばいつかはこうなるって。ずっと気づいてた筈だったんだけどな。

 いや。

 そんな事なんて、ずっと前からわかっている事だ。

 貴方と初めて出会ったあの日。

 貴方を初めて見たあの瞬間。

 水中に沈む街の中で、無邪気に泡と戯れる少女。

 貴方の姿。

 あの光景が、多分、この掃き溜めみたいな世界の中で。

 何よりも、どんな物よりも、一番、淡かった。

 ただ、それだけ。

 ──ポケットから1枚、彼女の鱗が転がり出る。いつも近くで彼女を感じたくてそっと忍ばせておいたもの。いつの間にか燃え移っていて、私の目の前で、音も立てずに塵になった。
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第█次調査概要-未解明領域-108817-JP-202█/█/██

概要: 奈良県██市██区に存在している湖。外見上は一般的な湖と差異は無いが、その湖の中が異常領域と化している。異常領域は湖の本来想定される容積を超過した空間へと膨張しており、その中には一般的な日本の文化系体に近い一つの住宅街が内包されている。

街は水中にも関わらず常に激しく発火しており、一部火柱が上がっている所もある。この異常性によって現状人が近づく事は困難だと思われる。本調査では探査ロボットを使用した街の探索を主に行った。

調査結果: 詳細は別紙-調査記録-UE-108817-JP-202█/█/██を参照。前回の調査記録と大まかな差異や新しい発見は見受けられなかったが、街中心の開けた場所にある駅のような構造をした建造物の中で二人の女性の物と見受けられる遺骨が発見された。

損傷が激しく現調査での回収は断念したが、今後の調査によって異常性の起源等を解き明かす資料になる可能性があるとし、調査は続けられる。

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