海の果てに
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リュウグウノツカイ、という魚がいる。深海魚であり、鬣のように長く伸びた背びれは鮮やかな紅色をしていて、銀白色の体とコントラストを見せている。海中では縦になってゆらゆらと流されるままに泳いでいるとも言われるが、まだ多くの謎が残っている生き物だ。私はこの生き物が好きだった。昔、図鑑でその姿を見たときから、心を奪われた。そのゆらりとした儚げな印象、どこか鮮烈にもかかわらずぎょろりと世界を見回し、かといって関心もないというようなその表情。海の底でゆらゆらと揺れるこの生物の顔を思い浮かべ、あるいは憧れていたのかもしれない。

海の向こうには理想郷がある。いろんな神話で語り謳われているのと同じ、琉球の……、そんなよくある伝説の中には、きっとリュウグウノツカイが泳いでいるんだろう。

そしてできるならば、生贄などという自らの役目で死ぬのではなく。
波の底で、海の果てで、彼等にこの身体を貪られて死にたいのだと。そんなことを願っていた。

それを話したのは、確か、彼女だけだった。


私は修学旅行であの島を訪れた。島を探検したり、海で泳いだり、露天風呂に入ったりして、皆と思い出を築き満喫した。けどその思い出はあの『縁日』で全てが瓦解した。私を人と呼んでいいのなら、私以外の人達はあの日、人ではなくなった。肉は削げ落ち、皮膚は爛れ、腸や胃袋を零し、顔面の半分が消し飛んで眼球と脳が飛びだしている数多の死体。助けを求める仲間だった異形の声に私は何が起こったのかを悟ってしまった。
大きな地鳴りが聞こえた。大地が隆起し、地溝が地獄の底まで口を広げる。その光景はまるで「龍」そのものだった。人々が暮らす物理的世界観も、神霊が漂う神話的世界観も同時に歪め、破壊する自然災害。巨大な咆哮と鼓動。それの正体を私は知っている。私はこれを鎮めるために生きてきた。この長細いものに食われ、地を鎮める、それが私の存在意義であり、私の役目。それはもっと後になるはずで、ここまでの規模ではないはずだった。でも起こってしまったことはしょうがない、生まれたときから言われ続けていたのだ。

大口を開け、この世界ごと自らの体を飲み込まんとする円環の龍。尾に辿り着かせてしまえばこちらの負けだ。仲間の死体を踏み越え、龍の口へ向かう。しょうがない、しょうがない、犠牲も出てしまったし、私が呑気してたのが悪いのかもしれないし、あの人に任せきりだったのもダメだったし、しょうがない、生まれたときからそうなることは決まっていたのだし。隆起した龍の上を走り続ける。ただ、せめて、リュウグウノツカイを見てみたかった。

涙が光を反射した。朝日が登っている、気づかないうちに目の前へ広がっていたのは海だ。ほんの短い時間しか見られない幻想。目覚めたばかりの世界が、欠伸をして、大きな口のなかを見せたように。世界に色が塗り始め、海は青、自然は色濃い緑色、大地の土色も。それは自然への崇敬、もっとも原始的な信仰。私は本能的に見とれ、思わず手をあわせたくなる。

突然龍の体が爆ぜた、隆起した大質量が張り裂ける衝撃で海が割れた。私の体は枯れ葉のように吹っ飛んで、真っ二つにされた「龍」の割れ目に落下し、そのまま海中へ放り込まれた。

引きずり込まれるような水流の中。あぶくが散った、色濃い海のただ中で目を見開いた私は、意外な女性が近くを流されているのに気づいた。それは、まるで魂を抜かれたように、あるいは破壊されたように──目を閉じ、ぐったりと動かない。どこから出てきたのだろうか、まるで、引き裂かれた「龍」の内側から、吐き出されたようにも思える。気になったけど、その時はそれどころじゃなかった。失神している彼女に、私は何も考えず、自分だってどうなるか分からなかったけど──、必死に手を伸ばした。

私たちを、リュウグウノツカイがじっと見つめていた。


私の前に打ち揚げられた彼女の緋袴は破れ、そこからちらりと見える脚は血の気を失っている。白衣は汚れ、長く整っていただろう黒髪はざんばらに乱れ、砂がまとわりついている。どこだか分からない砂浜で、私と彼女は二人、朝日に照らされていた。思ったより無理が重なっていたのか、身体中がだるい。このまま死ぬんではないかと思うほどだけど、まぁ、自業自得である。くしゅん、と寂しくくしゃみをしていると、彼女が呻き、起き上がった。目が合った彼女は心底驚いたようで、慌てて手や足を確認している。

「水は吐かせましたよ」
「……お前は、何故平然としてられるんだ?」

声は掠れ、聴き取りづらい。最初の驚きは徐々に弱まり、今では疲れ切ったという表情で何もかもが面倒だというように水平線の向こうを見ている。私も無言で隣に座り込む。船虫を見るような目で私を睨み、しばらく首をグルグルと回してから焔のように言葉を吐き捨てた。

「少しは警戒したらどうだ。私はお前の友人を“九頭龍“復活のために殺し、生贄として捧げた、言わば殺人者だぞ? 肉食獣と2人きりでいることにまだ分からないのか?」

芝居がかっているな、と思う。最初に会った時からずっとそうだったけど、この人はずっと芝居がかった話し方をしていた。肉食獣だって、安い比喩で笑っちゃう。

「どうですかね……、私には分かりません。だって、私、あなたのこと、まだ知らないのですから」

知らないのだ、何も。生まれたときから巫女として生きてきた私を補佐したこの人のことを。ずっと任せっぱなしで、結局私と一緒に流れ着いたこの人を。もしかしなくても、この人は今回の出来事を引き起こし、多くの人達を犠牲にした、主犯=黒幕と言える人物かもしれない。でもそれは憶測だ。ずっと演技しているんだからそれすら演技であってもおかしくない。そしてもしそうだったとしても、あの龍が目覚めたのは私の責任でもあると言えるのだし、一方的に非難するのはズルいだろう。

私が水平線の方を向いていると、彼女は突然笑い出し、そして突然叫びだした。

「私はね、私は疲れたんだ、ずっと疲れて、だから世界を壊そうとして! 私には何もなかったから、蒐集院としてお前を補佐し、世界を守る以外に何もない。私のことを分かるはずがない! お前なんかに……、お前と私は対極の存在で、決して相容れない。共感なんてできるはずがない、お前と私は正反対であり、敵なのだ! このまま順調にいって、世界を創り変えて、この世界の現実を変えたら…….もう二度と、名前を呼ばれて、仲間と笑いあったり、仕事したり、手を繋いだりして、一緒に過ごすこともできない。独りになってしまう。そんな当たり前をむしろ望んでいたはずだったのに、怖くなった……」

支離滅裂だ。多分自分でも何を口走ってるのか分かっていないだろう。そしてどうしようもないことだ。私の生まれと同じように、どうしようもないことってのはあるんだ。ただ、その子どものような感情だけはよく分かる。私の家は代々、龍に身を捧げ「人々が望む世界」を長年維持してきた。私も修行に明け暮れ、将来を嘱望され、周囲の期待を一身に背負っていた。努力して、努力して、努力して……。まあ、こうなった。こうする気はなかったし、こうなる前に死ぬはずだったけど。

「羨ましいですね」

私の言葉に、彼女は目を丸くし、頭を掻きむしり、そのまま砂浜に倒れ込んだ。感情を整理できないのか多分泣いている。

「お前は、変だよ」
「よく言われました」

波の音だけが聞こえてくる。倒れ込んだ彼女は海の中で見たときと同じく、リュウグウノツカイに似ている。そういえば、それが陸に打ち上げられたとき地震が起きるのだと聞いた。なら、私たちが打ち上げられたここにも地震がやってくるのだろうか? その疑問が疲れた脳を刺激したのか、彼女と話した記憶を思い出させる。

「リュウグウノツカイの話をしましたね」
「……ああ、幼いころだな。リュウグウノツカイに食われて死にたいとか言い出して、マジで嫌だったのを覚えてる」
「今のあなたはリュウグウノツカイに見えます」
「お前は、変だよ」

初めて心から言われたような気がして少しだけ微笑んだ。それが余計に気味悪かったのか、こっちの方を見ようともしなくなった。でも、そうだ。思い出した、私がリュウグウノツカイを好きになったのは、この人の着ていた緋袴がとても綺麗で、どうしようもない諦めの中で、その美しさだけを覚えていて。ずっと不機嫌でぎょろぎょろと周囲を見回して、私の環境にしょうがないと一言も言わなかった。それが羨ましかった、そんなことのために世界を壊そうとして、でも臆病で意地っ張りだから失敗して、浜に打ち上げられて。

「私たち、死んだんですかね」
「……それはない、"九頭竜"は現実に影響を与える存在だ。私が望んだのは物理的な崩壊ではなく、神秘的な崩壊。だからここはおそらく改変された世界だろう。龍の割れ目にそういった因子が詰まり、私たちを式に組み込んで発生したと考えられる。おそらくお前達の存在はそういった流動的な状態を固定する関数のようなものであり、正確な値を入れずに私という変数が入り込んだ結果、歪な結果が出力されたと考える」

……じゃあ、ここはもう私の生きた世界じゃない。どうしようもない世界ではなく、どうにかなる世界なのかもしれない。私や彼女が何をしたのか、それはもう、因果の向こうに置いてきたのかもしれない。

「海の底には理想郷があると聞いたことがあります」
「典型的な異界信仰だな。竜宮、蓬莱、サルガッソー、ニライカナイ」
「なら、私たちも生きていけるんじゃないですか?」

「はっ」と顔をあげて、彼女がようやく私の方に向き直る。泣いて腫れた目を隠すように強くこすって、人間とはじめて心を交わした動物のように、距離を置こうとするような不器用な言葉を繰りかえした。

「私は、お前と決して相容れない」
「それでいいんじゃないですか? 私たちは結局前の世界で世界を滅ぼしかけた共犯者なんですし、いっそ姉妹ということにでもして生きていきましょうよ」

ふと口を突いて出たが、共犯者、芝居がかっていい言葉だ。もう怒る気力もなくなったのか、心底面倒くさそうに指折り数えだす。

「ここが近い世界なら財団と連合はダメだな、蛇の手……、蒐集院……、エルマ……、ライフラフト……」

リュウグウノツカイが打ち上げられたとき地震が起きる。私たちはこの世界に何かをもたらしてしまうのかもしれない。でもまあ、今は生きている。そうなってしまったことはしょうがないし、彼女と一緒ならしょうがなくないのかもしれない。子どもになり切れなかった私と子どものような彼女だけど、まあ、生きてはいけるかもしれない。その最後が彼女に殺されることになっても、ある意味では願いを叶えたことになる。

「……まあ、どこででも生きてはいけるか、お前と姉妹ってのはお断りだがな」
「『お姉ちゃん』は、意地っぱりだなぁ」

お姉ちゃんは心底嫌そうに、でも体力の限界だったのか倒れ込んだ。私も何だか眠くなってきた。
夕陽が打ち上げられた私達の姿を照らす。

リュウグウノツカイの夢を見る、一緒に深海の理想郷を泳ぐ夢を。海の果てで、私を突き放すように泳ぐ夢を。

────私はその背びれを離さないようにしっかりと握りしめた。

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