君がこれを読んでいるということは、君が君自身のことを忘れてしまったということでしょう。おおかた見覚えのない真っ白な部屋で目覚めて、聞き慣れない名を呼ばれて、あぁ初めて封を開かれるヒューマノイドってこんな気持ちなんだろうかなんて考えながら、親切な白衣の誰かに連れられて、この部屋まで辿り着いたのでしょう。私もそうでした。
私は君自身です。凄惨な任務より命からがら生還し、涙も乾かぬうちに記憶処理を受け、自室の爪切りの場所すら思い出せなくなった過去の君です。いえ、いかに記憶処理を受けたとはいえ、あれが私の全部が全部をとって行ったわけではありません。けれどやっぱり、ピースのかけたパズルのような私の記憶は、心地よい日常生活を維持するためには、てんで役に立ちませんでした。
記憶の欠けた日々は不便でした。
なので、此度の私は此度の私が覚えたことを、どうせ忘れてしまうであろういくつかのことを、ここにまとめておくことにしました。これが書かれた以降の君はラッキーです。どうぞ多大なる感謝を以て、自分の身体を労ってください。
君には名前がありません。もっと正確に言うと、君は自身の本当の名前を忘れてしまいました。そしてそのままでは仕事の上であんまり不便なので、君は新たな名を付けられました。
真宵 薔。マヨイ、ショウ。Agt.真宵。それが此処での君の呼称です。「迷い」に通じる響きだなんて、我ながらひどい名前です。君にピッタリ。
君はこれから真宵と呼ばれることが多くなるでしょう。最初のうちは慣れない響きですから、とっさの返事の練習くらいはしておいて損はありません。それと、名前の綴りについて。慢心せずにちゃんと覚えるように。報告書のサインを何十回も書き間違えるのは、哀れみの視線を誘います。
それと、君の過去の名前ですが。
デスクの右手に鍵付きの抽斗があるでしょう。その中の紙束の底に、一枚ハンカチがあるでしょう。刺繍で名が刻まれているでしょう。
財団内のデータベースで、それと一致する名前は見つかりませんでした。おそらくですが、それは過去の私自身の持ち物です。
正 正正正正正正正正
正 正正正正
正正正正正 正███正正█正 正T
↑
最近記録違いがひどいので、
あまり参考にしないように
仕事のことに関しては、ここで説明するまでもなく、記憶処理後に散々聞かされたことでしょう。やれ財団に忠実か、やれベールの内だ外だ、異常だ、正常だ、云々と。
君がそれを信じなくとも、短い休暇はじき明ける。人や、人以外や、そのどちらでもないものやらと撃ち合いへし合いする日々は、すぐ帰ってくる。
それまでに君にできることはただ一つ。感覚を取り戻すこと。撃つこと、逃げること、生きることの。大切な人を見捨てることの。ときに手ずから終わらせることの。けれど、決して慣れないこと。嘆き続けること。劇的な終わりを夢見ないこと。君は生きている。
僕は使い捨ての部品でも、消耗品でも、英雄でもない。死にたくない。この先に良いことがあるかなんて知らない。それでもただ生きていたい。開けたばかりのピアスが痛い。生きているから。
今君は、生きてこれを読んでいる。お帰りなさいエージェント。こうして再び出会えたことを、私は誇りに思います。
2020年12月4日 真宵 薔
EveningRose天本幾万の著者ページです
Tale
▷ (17 Mar 2020 10:04) 或る遺書 (2440字)
評価: 131 コメント: 16
▷ (22 Jul 2020 09:40) 黒の娘の幸福なる生涯 (6325字)
評価: 63 コメント: 5
▷ (03 Dec 2020 10:04) Days of Wine and Roses (8046字)
評価: 32 コメント: 3
▷ (11 Dec 2021 03:32) 姿見ひとつ無い部屋だから (9279字)
評価: 57 コメント: 3
Other
▷ (14 Mar 2020 13:12) 天本幾万のアートワーク
評価: 117 コメント: 11
共著
▷ (22/11/6) 藍色の停滞: ビギニング (31741字)
各作品に関する思い出語りです。
Tale
▼
http://scp-jp.wikidot.com/the-posthumous-writings
Agt.真宵とTale書き天本幾万、双方の出発点となる作品です。真宵の方はこのときからずいぶん形が変わりましたが、天本の性根は変わる気配もありません。死の覚悟が無碍に終わる哀れなエージェントが見たいな〜という軽い思いつきから、直前に購入したインクをネタに気ままに書き連ねました。まさかここまで多くの方にお読みいただけるとは…嬉しい誤算です。
記憶処理のあり方についてはIn His Own Imageに多大な影響を受けており、このTaleは言ってしまえば忘れないことを選び続けるAgt.ラメントに対する盛大な逆張りです。忘れないことを選んだ者に誇りがあるように、忘れることを選び続ける者にもまた誇りがある。財団という場は形の違う数多の信念が積み重なって形作られる場所であってほしいなと思います。
余談ですが、主人公がラメントの逆張りであった影響もあり、ガラスペンの先輩はアイスバーグを意識した仕様になっています。IHOIの中では交わらなかった先輩と後輩の人生がどうしても拾いたくなりました。もしかしたら真宵にも、彼らにとってのギアーズに当たる存在がいるのかもしれません。いつか書けたらいいですね。
最後になりましたが、ご批評いただきましたukit様、InsomniaNEMU様、meshiochislash様、本当にありがとうございました。お礼が遅れてしまい申し訳ございません。とくにukit様には、繰り返し丁寧にご批評いただき、投稿時間等のアドバイスもいただきました。重ねがさね御礼申し上げます。
http://scp-jp.wikidot.com/blue-myosotis
通称「黒の娘」、あるいは「幸せアリソンTale(詐欺)」。「失った父を取り戻すため奔走する娘」を前提とした黒の女王の在り方に、べつに父親がいなくたって幸せになって良いじゃん!!とこれまた盛大に逆張りをかけた作品になっております。オチのネタをやりたいがためだけに人ひとりの人生を書き切る熱量、一体どこから来たのやら。
一貫して一人称「あなた」にこだわったのは、主人公の性別をなるべく特定させないことと、「あなた(読み手)もまた黒の女王にならなかったアリソン・チャオなのかもしれない」と思わせること、二つを意識したためです。どれほどの効果を発揮したかは書き手たる自分にはとうていわからないことですが、かつて一人称「あなた」のTaleに情緒をしっちゃかめっちゃかにされた私の二の舞になってくれたらいいのにな、とは真剣に思っています。
また、直前に投稿されたTale「灯点頃」が、「インクの名をタイトルにした」という一点においてものすごく羨ましく、これ以降のTaleのURLはすべて実在のインクの名前から拝借することになりました。記念すべき一本目に選ばれたのはエルバンの勿忘草ブルー。黒の娘なのにブルーとはこれいかに。
灯点頃の著者たるhogechaaan氏ご本人には、後半部分のネタ出しもお手伝いしてもらいました。子どもたちのために本を書くアリソンについてはhogechaaanからの提案です。毎度毎度下書きにすらなりきらない文字の塊を読まされては一緒に頭を抱えてくれるhogechaaanには、この場を借りてお礼申し上げます。
http://scp-jp.wikidot.com/ink-studio-273
アイスバーグが雪に包まれた終末世界を一人旅する話が読みたいな〜、とは以前から思っていたのですが、ひょんなことからSCP-3799の存在を知り。もしやこれはTaleとして成り立つのでは?と考えて下書きページを建てたのが7月。本投稿が12月。まる5ヶ月の熟成期間を経て生まれたTaleです。この雪世界にはずいぶん長々と苦しめられたものですが、その分書き終えたときの感覚はどこか作中のアイスバーグのそれと通ずるところがあり、妙な感慨を覚えたものでした。
当初はもっと多くのTaleを元に書く予定だったのですが、力不足や確認不足が祟り、かなりのネタをカットすることになりました。せっかくなので、そのうちいくつかはこちらで供養させていただきます。
うん、わかってる。通信が回復するまで少し間があった。
燃料が底をつきかけたのに強風が続いてな、にっちもさっちも行かなくなったんだ。バイクを荷物にするわけにはいかないから、充電に回す分がなくなって……とはいえ今はこの通り。雪を掘っくり返すのはずいぶん骨が折れたが、久々にランプに灯りを入れられたよ。
心配かけた、と思う。返事がない限り推測に過ぎないけど。今はただジャグジャグしたノイズが聞ければ十分さ。なんたって久しぶりに、風と空耳以外の音が聞けたんだ。
(日付の確認不足によるカット)
3月25日
死ぬかと思った。
探知機に反応があったからさぁ、掘っくり返してみてたんだが。いや吹雪の勢いを見誤ってな。気づけばすっかり埋まってた。結局なんの収穫も得られずじまいだ。クソ、腹が減った。無駄な体力が持ってかれた。無駄に動いたし、無駄に叫んだし……。
なんで僕は、叫んだりなんかしたんだろ。助けて、だの、誰か、だの。どうせこんな場所だ、泣いて喚いたって、誰にも届きゃしないのに。あぁ……最後に他人の顔を見たのって、いつだったかなぁ。
(物語の流れ上カット)
http://scp-jp.wikidot.com/sailor-yorunotobari
前作Day of Wine and Rosesの投稿が2020/12/3、こちらの投稿が2021/12/11。じつに一年以上ぶりの投稿です。元々あまり書く頻度が高い方ではないですが、今回ばかりはあまりにブランクが空きすぎており、Taleの書き方を体が完全に忘れていたり、投稿の際にガチガチに手が震えたりと散々でした。おそらく或る遺書を投稿したときの100倍くらいは緊張していました。空白ってこわい。
名も無き職員の仕事と死にフォーカスする極夜灯カノンは元々かなり好みな舞台ではあったのですが、執筆のために読み込むうちにさらに好きになりました。そんなカノンの原作者たるmeshiochislashさんに下書きお読みいただき早々「最悪シチュ……?」と仰っていただけたのは、いやぁ大変嬉しかったです。時計の同期者が代わってもなお地下室に鎮座し続ける古びた姿見に想いを馳せては、早く新しい極夜灯こないかな〜とソワつく日々を過ごしていますので、書く予定がある方はぜひお知らせください。踊ります。
(追記)
highbriku様主催の個人コンテスト、「キメタマコンテストFinal」の出場作「夜を固めて閉じ込めて」にて、姿見の設定を拾っていただきました!renerdさんの虚数時間とただ一人だけの芸術家たちの記憶処理の解釈にハシャいで姿見に取り入れた過去があったので、返す刀で更なる尊厳チャレンジを打ち込まれた喜びで読んだ後しばらく小躍りしていました。urlも姿見の元ネタの対概念のインクの名前をつけていただいて……本当にありがたい限りです。
もちろん極夜灯の主にして「夜を固めて閉じ込めて」のもう一人の著者たるmeshiochislashさんにも、改めて感謝申し上げます。姿見を使って(?)くれてありがとう!
Artwork
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この絵を描いたのは真夏で、まだwikidotのアカウントすら持っていませんでした。サイト登録後、ページ作成の練習としてアートワーク集を投稿しようと思いつき、真っ先に誰かに見てほしいと思ったのがこのイラストです。アートワーク初投稿の日は地元ではちょうど雪が降っており、雪の日に雪の日の絵をサイトに刻んだぞ〜!とはしゃいだものでした。
アートワーク集の方はCNにも輸出していただいており、こちらのイラストの評判が良いようで嬉しい限りです。
「やりかけの仕事(1の方)」を初めて読んだときは、ふーんこんなもんか、程度の感慨しか抱いておりませんでした。それもそのはず、当時の私は「やりかけの仕事2」の存在に気づいていなかったのですから。物語の一番美味しいところを知らずに過ごした数週間は、我が人生における多大なるロスタイムとなりました。この名作に当初さしたる興味を惹かれなかった自分が本当に恥ずかしく、そして2の存在に気づけたことに本当に嬉しく思います。
やりかけの仕事“2”はいいぞ!
Twitterにてフォロイー各位から、山焼け好きそう、白滝好きだろお前、山焼けはいいぞ、と圧をかけられ、意を決して読んでみれば見事情緒を叩き潰され、数日間頭の中で白滝を追い回し、吐き出されたものがこちらになります。山焼けはいいぞ……。
山焼けからAgt.白滝&今田博士研究員およびセクター8105関連を読み漁ったのは完全に自主的な動きなのですが、ちょうどそれらを一通り読み終えたタイミングで納涼祭が始まってしまい、休む間もなく今田白滝文脈を喰らい続けた天本の情緒は綺麗な更地になりました。すごいタイミングで履修しましたね!とは納涼祭の仕掛け人たるDr_Kudo氏の談。ほんとに罠じゃなかったんですか?
著者ページ作成、並びに長らく「遺書の」とばかり呼ばれていた真宵の真名解放を祝してのイラストです。肝心の著者ページ作成日からはずいぶん遅れての投稿にはなりましたがそこはご愛嬌。
ここまで頑張ってきた自分自身へ、そしてこれから一緒に頑張っていくであろう真宵へ。なかなか綺麗に描けてやれたので、本人も喜んでいることでしょう。
色のない迷路および血の通う白(外部サイト)のファンアートです。メルシィに妙なところで共鳴し、凍結された企画案を見、気づいたらApple Pencilを取っておりました。これを描いているときほど絵描きで良かったと思った日はありません。
血の通う白に関しては、オススメを受けて読み始めたこともあり、結構な大所帯でやいのやいのと感想を飛ばし合いながら読み進めたのですが、サリュ氏に理解を示す派閥とメルシィに共感して精神をダメにする派閥で読者が概ね二分されていたのが興味深かったです。未読の方は、創作者のご友人などをお誘い合わせのうえ読書会など開いてみてはいかがでしょうか。
最後に、急な依頼にもかかわらず素晴らしい構文を即座にご用意くださったukwhatn様に多大なる感謝を。これからもよろしくお願いいたします。
共著
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http://scp-jp.wikidot.com/stagnation-in-indigo-beginning/comments/show
highbriku様主催の個人コンテスト、「キメタマコンテストFinal」にご参加させていただきました。
私は原案と本文を担当し、ブレスト相手&プロット係&本文&批評受付や投稿時の手続きを2MeterScaleに、キャラクターデザイン&挿絵をgero_minceに担当してもらいました。こうして書き出すと2mの比重がすごい!
もともと刑事コロンボシリーズや名探偵ポワロのドラマシリーズが好きで、自分でも探偵モノやサスペンスを書いてみたいと思っていたのですが、短文かつキャラ性の薄い文章しか書けない性分ゆえに諦めてました。とはいえせっかくのアイディアを腐らせるのも勿体無いので、探偵人事持ちかつ長編シリーズにも造詣の深い(かつ諸々を押し付けるのに丁度良いサイズ感の)2MeterScaleに脈絡なく原案を浴びせかけたところ、「プロット書くから(当時開催の告知がされたばかりだった)キメタマコンに一緒に出てくれ!!」と言われ、今に至ります。
とはいえキメタマ参加を決めた直後までは、共著とか初めてだし、まして長文とか書ける気しないし、足引っ張ったら嫌だなぁ……などとウジウジ不安がってました。けれど書き始めてみれば、プロットがしっかりしてるので余計なことを考えず執筆だけに打ち込めるし、詰まったら助けてくれる人が常にそばにいるし、何より今までの自分では絶対に書けなかった憧れのモチーフを書けているしと、毎日の執筆がひたすら楽しく感じられました。今まで気づいてなかった自身の適正も発掘できた気がしますし、本当に挑戦してみてよかったです。
ちなみに「藍色の停滞: ビギニング」というタイトルについてですが……ビギニングが来たなら次は当然ダークナイト、ですよね?
真宵薔、通称「遺書の」の人事ファイル代わりとなる情報です。
【名前】
真宵 薔(まよい しょう)/???(戸籍上の名、抹消済み)
【役職】
フィールドエージェント
【クリアランスレベル】
1、勤務中必要に応じて2以上の情報が開示される
【人物】
若手フィールドエージェント。身体能力自体は高いが、フィールドエージェントとしての平均と比較すれば一般的、あるいは少し劣る程度。
人間関係が希薄な人物と共にいることを好むらしく、当人が死亡した際、その遺品を引き取ることが多い。ことアクセサリー類に関しては身に付けることが弔いに繋がると考えているようで、過剰装飾状態に陥りがち。ピアスは持ち帰るたび穴も増やしているらしい。
美しいもの、特に視覚的に魅力的に感じられるものを好み、万年筆インクへの執着はかなりのもの。好ましいと感じたものを既存の万年筆インクの色に例えて語ることもある。一番のお気に入りは伊東屋横浜元町店のカクテルインクシリーズから、「EveningRose」。
【登場作品】
「或る遺書」
byEveningRose
「広域怪異収容事例 Case1:納涼祭」第二幕及び第四幕
byDr_Kudo、Taga49、Pear_QU
まだ名前も公開していないうちからお祭りの輪に交ぜていただき、本当にありがとうございました。
SCP-2203「ピッタリの人を見つけよう!」
愛にまつわる優しい世界。
人生の冷たさ
財団の日常は非日常。
Mementos
彼らは確かにここにいた。
コグはかせと、プラスチックの幻想
残酷、ではなくても。
SCP-856-JP「あの夕焼けの世界でただ一人」
かつて捨て去った世界でも、分かち合える人がいたのなら。
衛星キス
僕がサイトメンバーになろうと思ったきっかけのTaleです。想いははるか星を縫って。
人型オブジェクト標準収容日程表―あるいは新人と上司の小問答
日常は作るもの。
万年筆インク狂いにして現代詩人のなり損ない、天本 幾万(あまもと いくま)と申します。「極度に洗練された言葉の羅列は物語のフックたり得る」、「その物語が物語られることの意味を常に想う」をモットーに、これからも美しいTaleをばりばり書き上げ、また他の創作者の力にもなれればいいなと思っております。
ブレスト、Tale批評、挿絵、キャラクターデザインなど、本人が面白そうだと思える案件には軽率に乗っかっていきますので、皆さまもぜひ軽率に面白いことにお誘いいただければ幸いにございます。
【連絡先】
Twitter▶︎ @fi_trpg
Discord▶︎ 天本幾万 #4889
【外部サイト】
pixiv▶︎ 天本幾万(イラスト中心)
個人wiki▶︎ 箱庭(文章中心)
【参加させていただいた企画】
(修正版)
猟銃を抱えながら「俺がこの村を守ってやるさ」と笑った父の顔が、何度だって蘇る。僕の父は猟師だった。羊たちの守護者であり、僕たちの導き手であり、狼を屠る英雄だった。
そして、父は昨晩死んだ。
首をひと噛みされた父の体は、見張り台の床に投げ出され、そのすぐ傍に血の文字で、どうして、と刻まれていた。
どうして、どうして?それは僕の言葉です。どうしてあなたの猟銃の弾は、一発も減っていないのですか?どうしてあなたはその銃を以って、あれを撃ち殺さなかったのですか?どうしてあなたは、あの狼を──
隙間風に蝋燭の灯が消える。窓から射す月の光で、部屋はなお明るかった。
──父は、狼に殺された。
がらんと音を立て、壁にかけられた鏡が落ちる。
──僕は、あなたに赦されたかった。
落ちた鏡は床に砕け、欠片の全てに僕を写す。
──あなたは、僕を愛していた。
血に飢えた獣と目が合う。
──僕はあなたを愛せなかった。
鏡写しの獣ぼくと目が合う。
「汝は人狼なりや?」
僕の問いかけは、遠吠えに変わり月夜に溶けた。
link▶︎ http://scp-jp-sandbox3.wikidot.com/draft:3396310-178-e704
(修正版)
「夢が叶ったね、機長さん」
君の微笑みに、私は顔を逸らす。秋の晴れ間に君に語ったあの夢は、半分が真実で、もう半分は嘘であったから。
行き場を失った視線の先は、君によく似た幼児に収まる。ぷにぷにとした腕は頭の高さに伸び、君の手のひらにその先を隠していた。
似合わない、なんて言葉が溢れかけるのを、頭を振って押し留める──蒼穹は誰のものにもならない。誰のものにもなってはならない。そう最後まで信じていたのは、私一人だったというただそれだけのこと。
あの秋晴れを、瞼の裏に呼び起こす。
雨天の後の、冷たい太陽。それを仰ぐ君の瞳に落ちる、手の届きそうな澄んだ青。見惚れそうになるのを誤魔化すために、私はしきりに目を細めた。
君の瞳に飛び込んで、青に包まれ微睡んでいたい。そう真実を口に出せたなら。私にとっての青空は、君の目の中にしか存在しない。そう告白ができたなら。
代わりに口から出た言葉は、掠れるような「ありがとう」、ただの一言だけだった。
一人駆ける空は、今日も、ひどく薄暗い。
列車待つ人の視線を目で追って今宵の月の眩しさを知る
直近の月食の思い出をもとに書きました。この句だと満月らしくなってますが、そこはご愛嬌ということで。
天体現象は同じ空を見上げる人全ての心を等しく動かす力があるので、美しさも相まって惹かれます。
煙草の煙の、鼻の奥にこびりつくような匂いが嫌いだった。だから、それを常に纏っているあんたのことも、嫌い。
やめろと言っても笑うばかりで、早死にするぞと言う僕に上等だとだけ吐き捨てるあんたの笑顔はいつも、吐き出す煙に霞んでいて。
「嘘吐き。そういうところも嫌い」
夏の暑さも、嫌い。コンクリートが帯びた熱に溶ける靴底の感覚が、余計な記憶を呼び起こすから。あんたが煙になったのも、ちょうどこんな夏だったから。
「今ならわかるよ、あんたがこんなもの好いてた理由。心配されたいだけだったんでしょ」
十年めの今日もまた、花のひとつも手向けられることのないその石に、僕は煙を吐きつける。かつてあんたがしてきたみたいに。自分の 呼吸生きてる証 が相手に溶け込むのを、どこかで期待しているみたいに──
煙草よりも、夏よりも、あんたのことよりも嫌いなもの。それは結局、嫌いだった同じ匂いの染みついた、僕自身だ。
文体からタバコが吸えないのが滲み出ている。
ちなみに登場人物の関係は擬似親子を想定してるらしいです。ヘキなので!
僕にだって祈りたくなるときはある。サイコロの音が響く一瞬の間だとか、大切な人が手の届かない場所に行こうとしているだとか、そういうときに。
でも、対象のない祈りって、宙ぶらりんな心地がする。神さまなんていないっていじけた気持ちで結ぶ指先は、一体どこに繋がるんだろう?
それで、ここからは僕の空想なのだけれど。誰かが無為に捧げた祈りに、どこか行き場があったなら。たとえば月の裏側だとか、深海の底のさらに底だとか、想像力でたどり着けるそのちょっと先に、迷子の祈りが流れ着く、すてきな場所があったなら。
祈りはきっと、心の一番濃い部分のかけらだから、きらきらまぶしく光っていて、それでいて一番寂しい部分の凝縮でもあるものだから、どろどろ濁って重たくて、足先でも浸そうものなら、囚われ戻ってこられなくなる。
そんな祈りの泉には一人孤独な守り人がいて、いつも退屈なものだから、一等眩しい祈りのひと雫を探して、ちょうどこんな長さの枝でずっと、泉の底から上澄みまでをぐるぐるかき混ぜてるんだろう。そいつはびっくりしたろうね。いつものように枝で泉を混ぜてたら、君のような綺麗な子が掬いあげられたんだから。
ここは退屈だよ、本当に。君が発つ理由だってわかるのさ。それでも僕には君のことが、どうしたって心配だから。
君が祈りたくなったとき、その心をどこに結べば良いのか悩んだときには、僕のことを思い出して。空想を羽にして、この泉まで飛んでおいで。届いた祈りはちょうど、君に出会ったときのように、僕がかならず見つけ出すから。
そして、最後に。
これからの君の旅路が幸福な出会いで満ちていますように。さようなら。お元気で。
今までの500字企画がパワーアップして帰ってきた700字企画。途中で文字数カウントとったらすごい余裕で逆に慌てた覚えがあります。
全ては火から始まった。
昼夜の界もない時の果て、母なる久遠の混沌より、一塊の火が立ち現れた。明転、そして酩酊ののち、煙を吐き、星を吐き、そして陽を吐き、地を吐いた。
百三十八億年の時を超え、その火は未だ全てに宿り衰えを知らぬ。皆を目覚めさせるのは何だ。あの薔薇を赤く染めたのは何だ。君の心臓を動かすのは何だ。全ては火であり、原初の慈愛である。
地は巡り昼夜を成し、血は巡り 生命いのち となる。生命は巡り地に還り、地はまた新たな君を育む。
生命危ぶまれどもなお、人は火を求める。かつて人造の天使は陽によって羽を失い地に抱かれた。陽の御者もまたそうである。竈門より盗まれた火を賜り、陽の無い刻を第二の昼としたのもまた人であった。火は眠りを忘れさせ、また求めさせもする。
この奇妙なフラクタルは何者をも捉えて離さない。知らないか、或いは忘れてしまっただけで、氷も影も音も鉄もまた火より生まれた。火より逃れる方法もまた火に宿る。眠りを求めた人々がみな冷たい火に身を委ねれば、生命は地を 発た ち混沌へ至る。
安寧、そして暗転ののち、全ては血となり終わるだろう。
気合い入れて2MeterScaleに擬態したのに本人がTwitterでざわついたせいで思ったほど騙し討ちにならなかった力作です。おのれ2m。
ぼくの父親は端的に言ってクズだった。物心ついて初めての記憶は、そんな父の煙越しの下卑た笑顔。幼いぼくの前で煙草を吸うのを母に咎められて、あいつはそれでもヘラヘラと「どうせ俺は早死にだ」「こいつだって恨めるほどに俺のことなんざ覚えちゃないさ」と言い放ち、確かそこで母の怒号が飛んだんだ。ぼくが今でもちょっとしたことで咳風邪に罹るのは、たぶん、あいつのせいだと思っている。
母はその分厳しくて、あんな大人になるなと言って、嫌がるぼくを塾に行かせた。金がない金がないとぼやきながら夕飯の自分のししゃもをぼくに寄越す母に、そんなら塾の月謝が余計だよとよほど言いたくはあったけれど、大学を出て地元も出られた今となっては、その頑固さにも感謝している。そしてそんな母親から、お父さんが危篤だ、という電話が来たのが、丁度二ヶ月前のことになる。
管に繋がれた父は、見る影もないほど痩せていた。なんて声をかければいいのかわからなくて、ようやくただいまと絞り出すと、厚い瞼からちらと覗く濁った黒目がこちらを向いて、数年ぶりの親子の再会はそれで終わった。
病室から出て、母に尋ねた。お父さんいつ死ぬの、って。こんなこと聞いて、叱られるかもな。それでもいいやと母の顔を伺うと、母は声を上げて笑い出した。あんた、覚えてる?5歳の頃お父さんと喧嘩して二人で出てった公園でさ、ブランコの上であんた言ったんだ、お父さんいつ死ぬの、って。
帰り道、夕暮れの雲が赤く染まるだけの重たい空を眺めながら、父の葬式で泣く人はいるんだろうかなんて、ぼんやりと考えていた。