氏名: 波戸崎 壕(はとさきorはとざき ごう)
セキュリティレベル: 2
職務: SCPオブジェクトの研究、ならびに場合によりSCPオブジェクト収容のための現地調査と情報分析、財団飼育動物型SCPの調教、財団職員飼育生物の体調管理
専門分野: 人間工学、動物行動学
所在: サイト-81██研究室、ならびにサイト-81██動物飼育施設
人物: 199█/06/16生まれ、サイト-81██内病院出身。波戸崎研究員は、元々財団職員であった祖父である波戸崎 繫(はとさき けい)博士、父であるエージェント・波戸崎 懷(はとさき かい)により、少年時代は財団内部のサイト-81██託児所などに預けられていました。██中学卒業後、波戸崎研究員は親の勧め自分の意思で財団職員養成機関[編集済]に入り、機関卒業後、財団に研究員として雇用されました。
串間さんには昔からお世話になってます。-波戸崎研究員
波戸崎研究員の特技として、伝書鳩の調教が挙げられます、また日本の限定した地域にSCP発見の疑いが出た際、迅速に彼の伝書鳩「エンリケ」を調査に向かわせ、上空から該当地域の現象を撮影し収容のための判断をすることが出来ます。また彼自身も現地調査を行い、SCPの収容のための情報分析を行うことがあります。また場合により動物型SCPの研究を兼ねた調教を行うこともあります。
更に、波戸崎研究員は、自分の研究サイトであるサイト-81██内にいる時はほぼ常に飼育調教用ピジョンヘッドと自称する、鳩頭のマスクを被っています。彼は専門分野として動物全般の調教に精通していますが、その中には人間も含まれています。その為、人心掌握術に優れていて、Dクラスを含む忠誠心の低い財団職員に対して矯正の為の[編集済]なども請け負っています。しかし軽度の女性恐怖症であり、飼育調教用ピジョンヘッド無しで財団女性職員と接する際にはどもり、小声等のコミュニケーションの不足が見られます。
違います!あくまでエンリケたちの飼育用ピジョンヘッドです!-波戸崎研究員
波戸崎研究員には、重度の収集癖があり、飼育施設内に彼専用のコレクションルームを持っています。彼は収集に異常な程の執着心を持っています。コレクションルームには彼が納得いくまで、もしくは興味がなくなるまで物品が数多く陳列されていきます。また彼が収集するのは単なる物品だけではなく、現象、知識、生物など、様々なものが興味の対象物となります。また必要であれば対象物について、データ収集などの為自分で調査を行うこともあります。彼自身の興味は数年単位で変わっていくと本人は語っています。
今自分が興味を持っているものですか?人間です、特に同僚の財団職員の方々です。-波戸崎研究員
彼の性格は温厚ですが、波戸崎研究員の言うところの“NGワード”を言われると激昂し、手が付けられないほど凶暴になります。現在“NGワード”は、単語ではなく短い文章であるため、深刻な被害に至ることはまれですが、彼と接触する前に“NGワード”の詳細について、波戸崎繫博士ならびにエージェント・波戸崎懷への確認を推奨します。波戸崎研究員によるとNGワードは年々増加傾向にあり、彼専用のNGワード用語集を作成する案が出ています。
それを私が見てしまうと二度と立ち直れなくなってしまうのでやめてください。-波戸崎研究員
また波戸崎研究員は財団職員の飼育している動物たちの体調管理なども請け負っており、職員は動物の飼育上のアドヴァイスなど相談してもらってかまいません。
まだまだ新人ですががんばります、動物に関しての相談なら任せてください。-波戸崎研究員
波戸崎研究員の代表的なNGワード
- お前養成機関の本来の修業年数と卒業年数が[データ削除済み]
- お前成人式に出た時に[データ削除済み]
- お前財団採用試験で履歴書に[データ削除済み]
- お前すね毛[データ削除済み]
息子の為、発見次第追加をお願いします。-エージェント・波戸崎懷
親父!余計なおせっかいはやめてくれ!-波戸崎研究員
波戸崎研究員が現在研究途中のドキュメントの閲覧はこちらから
SCP-JP:
- (29 May 2015 11:12) SCP-377-JP (rating: 58, comments: 4)
- (14 Jun 2015 12:45) SCP-429-JP (rating: 71, comments: 8)
- (07 Jul 2015 09:32) SCP-848-JP (rating: 40, comments: 6)
- (23 Sep 2015 15:05) SCP-691-JP (rating: 23, comments: 7)
Tales-JP:
- (09 Jan 2017 14:38) 遺書あるいは文化的遺伝子 (rating: 12, comments: 3)
SCP-377-JP(富嶽"噴火"三十六景)
- 日本らしいSCPが作りたい、というのが発想元
- 浮世絵なら有名だし著作権フリーで大丈夫じゃん!
- 差別化のため現象が起きる場所を絵画の場所と別にしました
- 番号377は、富士山の標高3776mから
SCP-429-JP(百着夜行)
- きっかけは電車の座席にあった補修の縫い目を見たことから
- 怪奇!透明人間の正体は動く服だった!
- 蒐集院に続き日本生類創研のSCPを作成することができた、今後の目標は東弊重工関連のものをつくることです。
- 番号429は、私服と死肉のダブルミーニングから(後付け)
SCP-848-JP(正義の女神像)
- 司法取引のない日本でどうやってDクラス職員を確保しているの?
- 殺人事件だって人類の脅威なのに、財団はDクラス無しでは成立しないという矛盾
- SCP-484-JPを呼んだ時、Dクラス職員に殺された被害者遺族たちの恨みや悔しさのほうが強いんじゃ?と感じ、被害者遺族に同情する存在ができたらいいな、更にDクラス職員もSCPの実験にされるより絞首刑のほうが楽に死ねるんじゃ...などの考えが詰め込まれています。
- 番号848は、484の対になるようにという意味をこめて
SCP-691-JP(プロパガンダ・ボイス)
- 元ネタは某王国声優と某共産趣味声優。
- 日本の声優とそのファンという関係性や文化は、他には無い独特な物があるなぁと感じたことがきっかけ。
- 岡安博士については、ポップカルチャーという名のオタク文化に精通した財団職員という立ち位置で、もしできるなら今後も登場させてみたいと思っている。
- 番号691は、報いから。彼女はただ声優になりたいという夢に向かって頑張っていただけなのに、何も悪いことをしていた訳でもないのに、これから一生収容され続けることが、一体何に対しての報いなのだろうか。という意味を込めて。
僕の名前は波戸崎濠、今日から財団職員になる。
親父やじいちゃんが財団で働いている関係で、生まれたのも財団の病院で、そこから中学生になるまでは財団の託児所にお世話になっていたから財団内部にいたことはいたけど、
常に研究や確保、収容に忙しい博士やエージェントにはほとんどお目にかかることがなかったし、もし博士やエージェントがわざわざ出動する様な大事に巻き込まれていたとしても、記憶処理で忘れさせられているはずだし、最も記憶処理なんかしなくても昔のことは忘れてしまっている場合が多い。
そんな訳で、財団職員の中で知っているのは串間さんぐらいだ、まぁ、あの人はただの保育士だけれど。
ところで、財団ではコミュニケーション能力がものをいうそうだ、要はコネをいかにして作るかが重要らしい、最初の印象を良くしておくと、後で色々と助かることが多いそうである。
つまりどういうことかというと、僕はこれから一緒に働く初対面の財団職員の皆様に、入団のご挨拶回りをしなければいけない。
一番最初に親父に挨拶に行こうとサイト-81██に行くと、親父のほうから会いに来てくれた。
「おい濠!そのマスクは外せ!」
開口一番に怒鳴られた。
「監視カメラに今まで見たことないマスクを被った男がうつってるって連絡が来て、見てみればピジョンヘッドが見えたからすっ飛んできたんだ!、お前、そんなんで挨拶回りして第一印象よくなると思ってるのか!」
そう言われて、親父にマスクを没収されてしまった、財団には個性の強い人が多いって聞いたから、いけるかと思ったが、まぁ親父の言うことも正論なので最初の挨拶ぐらいは素顔で回ることにしよう。
とりあえず予備のマスクは隠し持っているし、いざとなったらかぶる、ぐらいの心持ちでいいかな。
少し不安だが、財団就職の試験と面接を素顔で乗り切った俺なら、大丈夫だ、自信を持て、と自分自身に言い聞かせる。
「お前とは昨日家で就職祝いのパーティやったから、特に言うことないな、あぁそうだ、じいちゃんにもしっかり挨拶はしとけよ、これは財団職員の通過儀礼みたいなもんなんだから。」
「わかったよ親父、それと、これからは、同じ財団職員として、よろしくお願いします。」
そういって深々とお辞儀をすると、親父は照れくさそうに、「あぁ、よろしくな、じゃあこれから仕事だから、またな」
と言って仕事に向かっていった。その背中が、後輩財団職員になった今ではなんだか違う風に見えた。
次はじいちゃんだ、親父の言っていた通り、身内とはいえ、財団では先輩職員だ、挨拶はちゃんとしなくてはいけない。
ノックをし、研究室の中に入る。
「今日から財団で働くことになった波戸崎濠研究員です、よろしくお願いします!」
「おぉ濠か、よく来たな、ついにお前も財団職員か、この前までちっちゃい赤ちゃんやったのに、時が経つのは早いもんだなぁ」
じいちゃんは、目を細め、僕の成長を喜んでくれた。
今ならいけるかもしれない、そう思って、今まで生きてきて一度も出来なかったあの質問を、僕はしてみることにした。
「そうだよ、僕もついに親父やじいちゃんと同じ財団職員だ、そこでじいちゃんに、一つ聞きたいことがあって。」
「ん?何だい?」
「今まで僕に、記憶処理をしt」
「それは駄目だ!」
じいちゃんは机をバンと叩き、僕を一喝した。
「財団職員になるってことは、例え身内であっても、隠し通さなきゃいけない秘密が出来る、そういうことだ。それを守り通す義務が財団職員にはある。職員になった今、濠はそれも理解できるはずだ、そうだろう?」
口調は優しかったが、その目は今まで見た事が無いような凄みに満ちていた。
じいちゃんは昔、蒐集院という組織に属していたと、親父から聞いたことがある。蒐集院では何をしていたのか、そこからどのように財団に入ったのか、詳しいことは親父すら聞かされていないそうだ。
「ごめんじいちゃん、もう二度と聞かない。僕もじいちゃんの孫だ、財団職員としての心構え、しっかり持って働くから、じいちゃんも長生きして研究続けてほしい。これからもよろしくお願いします。」
そう言うと、じいちゃんは満面の笑みで、「良し、それでこそ、私の孫だ。」と言ってくれた。
以下、自由に追加して下さい。
また書く上での注意事項など詳細はディスカッションを参照して下さい。
僕は波戸崎濠、22歳。今日から財団で働く新人職員だ。
財団の病院で生まれ、財団の系列学校で学び、財団に生え抜き就職したのが実はちょっとした自慢だ。
今日は初日ということもあって、配属サイトで見学兼挨拶回りをしている。
「よろしくお願いしますね、波戸崎濠さん。私は諸知、医者です」
手を差し出してきた男の人と握手する。背中ほどまである髪を緩く結んでいて、どことなく胡散臭い感じのする人だった。
「はは、よく言われます。まあ私なんて地味なほうですよ。ここで働いていればわかります」
確かに、爺ちゃんや親父が言っていた"要注意職員"に諸知という名はなかった。"一般人"よりの職員なのだろう。
「どうです、これから地階で何人か同僚と会うのですが、あなたも一緒に来ては」
わあ、いいですね!お邪魔させていただきます!
22歳の波戸崎濠は、足取り軽く地下へ向かって行った。
俺は波戸崎濠、40歳。今日から財団で働く新人職員だ。
学校を出た後、財団のフロント企業で……ええと、何をしてたかど忘れしてるな……とにかく、フロント企業で働いて、こうして財団本体に引き抜かれたわけだ。
「波戸崎さん、早く来てくださーい」
髪を短く刈り込んだ老年期の女性、医者の諸知博士が俺を呼んでいる。
やれやれ、配属初日から健康診断か。
40歳の波戸崎濠は、ため息をつきながら地下への階段を降りていった。
私は波戸崎濠、66歳。今日から財団で働く新人職員だ。
定年まで……働いていたはずだ、フロント企業で……勤め上げ、その後財団に雇われた。
今日から同僚となる女性が手招きしている。諸知、と名乗った彼女は大学生くらいに見えた。
66歳の波戸崎濠は、年相応にゆっくりと地下へ進んで行った。
ぼくはハトサキゴウ。歳は、80より上なのは覚えている。
「波戸崎さん、は、と、さ、き、さーん。聞こえますかー?」
はい、はい。聞こえてますよ。
「よかった。私は諸知、医者です。いつでも頼ってくださいね」
白衣を着た人がぼくに呼びかけている。
「これからEクラス職員として働いていただきますが、大丈夫ですよ。危険性のごくごく低いプロトコルや実験に協力していただくだけですので」
ええ、財団の職員になれるならなんだってやりますよ。
ぼくはふつうの学校に行ってふつうの会社に行ってふつうに結婚したけれど、本当はおじいちゃんやお父さんのようになりたかったんだ。
ふつうの……どんな仕事をしたのだっけ。とにかく、ふつうの生活だった。つまらなかったなあ。
こんなに年をとったのに職員になれるなんて、ゆめのようです。
「いいですね、その意気です。波戸崎さん、あなたのような方はきっと財団に貢献できますよ」
「さあ、私と一緒に行きましょう。職員があなたを待っています」
……はい。ああ、うれしいなあ……ぼくも、お父さんたちのようになれるんだ……。
83歳の、皺くちゃの、何度も何度も記憶を書き換えられた波戸崎濠は手を引かれ、よたよたと薄暗い地下への道を歩み出した。
その後、波戸崎濠は新人職員になることはなかった。
先輩職員への挨拶回り、次は堀田博士だ。
堀田博士はの部屋は確かこの区画の端だったはずだ。噂には堀田博士は大の甘い物好きと聞いている。
ずっと僕は財団内の託児所で育ってきたからフィールド任務や研究作業にかかわるような職員を見たことが殆ど無かった。
だから財団職員になってみて、言い方は悪いが変人の多さに驚いた。そもそも人かどうかすら怪しい職員もいる。
なので、挨拶前に何らかの特徴や噂と言うものは嫌でも耳に入ってくるのだ。しかしそれが日常と化しているから財団は凄い。
とか考えていると目的の部屋の前に到着する。ネームプレートには堀田と書かれている。ここで間違いないだろう。
軽めにノックの音を響かせる。それほどの間も無く返事が返ってくる。
「どうぞー」
この声は、間違いなく女性の声だ。今日は挨拶回りなので常に被っているピジョンヘッドが無い。
相棒を失った今、これから女性を目の前にすることになって足が少し震える。
しかし、挨拶回りをする以上避けては通れない事なのは分かっていた。覚悟を決めて扉を開ける。
「し、失礼します!」
声が上ずってしまった。だが、それに顔を赤らめるよりも先に目の前に広がっていた光景に圧倒された。
ぐるっと囲むように置かれた棚という棚、その全てに所狭しとお菓子が詰め込まれている。
それだけではない。床にはダンボール箱が山のように積み上げられていた。よく見えないがそれにもお菓子が詰め込まれているのだろう。
よく見ればそのほとんどが見たことのない外国製のお菓子のようだった。さながらお菓子の博物館だ。
そして中央のデスクに鎮座している女性、彼女が堀田博士なのだろうか。僕を見て、彼女が首をかしげながら目を細める。
「んー…?初めて見る顔ですね」
この光景に唖然としていて本来の目的を忘れていた。自己紹介をする。
「あっ…その、失礼しました。き、今日から財団で働かせていただくことになった波戸崎濠研究員です。よ、よろしくお願いします…」
そう聞くと彼女は納得したような表情をしてニコリと笑った。
「新人さんでしたか。私は堀田と言います。よろしくお願いしますね」
うん、やはり彼女が堀田博士であっていた。挨拶は終わったし早くこの空間を抜け出そうと思っていた僕だったが、悲劇が訪れる。
うずたかく積み上げられたお菓子の壁の向こうからヒョコリと別の女性が顔を出す。
見えなくて気付かなかったが作業をしていた別の女性がいたらしい。心臓が張り裂けそうになる。
「初めまして、私は佐伯です。今は堀田博士の助手をしています。よろしくお願いしますね」
「あっ、あ、はい、よろしくお願いします…」
ダメだ。どこからどう見ても今の僕は挙動不審だ。その様子を心配した堀田博士が声をかけてくる。
「どこか体調でも悪いのですか?」
思いっきり上目遣いだ。それも男を殺しにかかるタイプの。
とりあえず疑問を解決しつつ無難な言い訳をしておく。
「あ、いえ…このお菓子の量に圧倒されてしまいまして…」
よく見たら堀田博士の手元にあるコーヒー、角砂糖が入り過ぎて溶けきってないじゃないか。
堀田博士は慣れたというように話しだす。
「私は糖分が無いと生きていけませんから。逆に糖分があればどこまでだって生きてられますよ。甘くない食べ物なんて食べ物じゃないです」
そう言うと、堀田博士はもはや砂糖水と呼ぶべきコーヒーを啜った。口の中が嫌でも甘くなる。
「堀田博士はいつもこうですよ、甘いもの以外は食べませんし飲みませんね」
「そ、そうなんですか…」
糖尿病とかにかからないのだろうか?普通の人間なら寿命がいくらあっても足らなさそうだ。ていうか飽きる。
「もし時間があればお茶でもどうです?」
唐突な提案に慌てる。これ以上女性を前にすると気絶してしまいそうだった。綺麗だし。
「ご一緒したいのですがまだまだ回ってこないといけないので…」
堀田博士は残念という表情をしつつ後ろの戸棚から何かのお菓子を取り出す。
「それは残念です、またお時間があるときにでも。これ、よかったら食べてください」
渡されたお菓子はこれまた見たことが無いものだった。クッキーに見える。
「スウェーデンのお菓子です。美味しいですよ」
「ありがとうございます、お茶はまた今度時間のある時にお願いします」
「えぇ、いつでもどうぞ」
何故か堀田博士の笑顔には心を奪われそうになる。首を傾けながらだと尚更だ。
こうして堀田博士の部屋を後にした。しかし、相棒無しで女性二人のいる部屋に居続けるのはとてもつらい。
次の先輩職員の部屋へ向かおうとしていたところ、荷物を運んでいた親父と偶然遭遇した。
「お、濠じゃないか」
「親父?どうしてここに?」
「ちょっと届け物でな、順調に回ってるか?」
順調か順調でないかと言われたら色々な意味で順調ではないが心配はかけさせたくない。
「うん、今堀田博士に挨拶してきたところだよ。女性2人で組んでるんだね」
その言葉を聞いた親父が首をかしげる。
「女性2人?何のことだ?」
「えっ?」
お菓子の味はよく覚えていない。
「なにかごようですか?」
異様な扉を前に困惑する僕に声をかけたのは金髪の男性だった。
服装は財団の一般的な清掃員の格好をしている。瞳の色は日本人のソレと違い美しいと印象づけるソレだった。
「やまっ、おおわ博士という方のオフィスを探しているんですけどその…地図だとココなんですけどどうも使われていないみたいで…」
扉は汚れていた。正確には大破していた。実験なんかで使われる対爆チェンバーが爆発で半ば融解しているのを見たことがある。そんな感じに見えた。所々には靴で蹴破ったような跡もあるしどう考えても無人の古い倉庫に思えた。
「ということは貴方がハトサキ様ですね…挨拶回りをなさっていると聞いています。大和博士のオフィスはここで間違いありません、博士は"会う人が居る"とおっしゃっていましたが貴方だったんですね」
挨拶回りをすると告げたのは父だけだった。父は"そうした事も大切だろう"と言ってくれた。確かに既にいろんな人の所を回っていた後だったのだが情報と言うのはこの財団の中で風が如く知れ渡るのかと感心した。
「銃はお持ちですか?」
「えっ?」
財団職員の標準装備である拳銃はよっぽどのことがない限りサイト内でも装備が義務付けられている。勿論私も持っていた。確かに人と会う時に自分が拳銃を持っているというのは些か失礼に値するのではないかとは思っていたが今まで特に気にされている風も感じなかった。素直にホルスターから拳銃を抜き取り、彼に渡した。
「ありがとうございます。少々危険な方なのでこうしないといけないと貴方のお父様から言伝されておりまして。さぁどうぞ」
言うと彼は自らのセキュリティーカードでドアロックを解除した。2つノックをして扉を開け隣に立つ。彼の"言伝"
という言葉に全てを納得させて部屋に一歩踏み込んだ。須臾にしてその異様さが僕の脳裏に焼き付いた。
腐敗した血液のように甘ったるい臭気、部屋中に飛び散った飛沫血痕。古い血液の上から新しい血液が重ね塗りされたような場所さえ有った。テレビや映画に見る凄惨な殺人現場とは比べ物にならない、謂わばそれはある種の処刑場にすら感じられた。
「こんにちは」
カオスの中から声がした。呆気にとられていた私を呼び覚ませる声に目をやるとデスクの向こうに男が座っていた。
異色の頭髪、黒黒とした白衣、小太りで大柄、形容しがたいその男に、私は"不快"を感じ取った。
「こ、こんにちは」
出る言葉はそれが精一杯だった。打ちのめされた。父が何故"行かなくてイイ"と言ったのか、その理由はこのコレに凝縮されていたとさえ感じた。
沈黙が支配した。用意していた自己紹介の文句さえ忘れ、ただ部屋の何処に視線を於けば自分を安定させられるか思索を巡らせ、ただひたすらに眼前の男の目を見まいと心がけた。男がどんな顔をしてこちらを見ているのか検討もつかないが、不気味な雰囲気に狂気を滲ませたような微笑みを差し込んでいるのは気配で感じる。
部屋中の調度品が異国を思わせるが、その全てが重なりなう血痕に押しつぶされ、今となっては元の形も見えぬものさえある。どうしたらいい。どうしたらこのカオスに耐えられる。職員として経験の浅い自分がどうすればこの狂気を耐え抜ける。
そうした永遠にさえ思える数分の沈黙は男の切り出した言葉に終わる。
「挨拶回りとはこちらも頭が上がらないね。珍しい心がけだ、自己紹介の順序というのを私はよく知らないのだが、私が大和博士だ。よろしく」
「波戸崎 壕です、新しく配属された研究員です。よろしくおねがいしましゅ」
噛んだ。
「そう固くなりなさんな。とすると、君は波戸崎君の息子さんというわけだ。大いに結構、財団の血統血脈というわけだ、なかなかどうして美しい」
「ありあとうございます」
噛んだ。
肩の力が抜けない。相手のペースは崩れること無く突き進んでいく。僕だけが、この世界の平和の中僕だけがこの混沌に取り残されてしまうのではないか、そうした不安が心を蝕む。今までの人生でここまで緊張することがあっただろうか、今までの人生でここまで死を意識したことがあっただろうか。
異常だ。
無意識に脇の下を探る。そうだ、銃はあの男に預けたのだった。計算ずくだったのかと悲観する、自分の迂闊さを。
男は今にも輪郭から飛び出し、頰が避けんとするほどに口角を上げ、こちらの心を見透かしたように喋る。
「みんなそうなんだよ。私と合う人は皆そうして何か私を打倒する道具を探す、拳銃だったり硫酸だったり。だが君のお父様、つまり波戸崎 懐は"息子を殺人者にしたくない"と私に言ってきたのでね、君から拳を取り上げる無礼をどうか許していただきたい」
男の口から自分の父の名が出た瞬間、男が喋り終わる前に僕は
気が付くと僕はカフェテリアの椅子に座っていた。傍らには湯気の立つコーヒーがあった。綺麗な机、透き通るような輝きを持つ金属パイプの椅子。磨き上げられ顔まで見える鏡のようなリノリウムの床、目を癒す木目調の天井。その暖かそうな光景全てに"助かった"と安堵した。
「大丈夫ですか?」
驚き、半ば跳ね上がる。見ればそこに男、大和博士と同じ異色の頭髪、綺麗な青い瞳、一瞬戸惑い椅子から転げ落ちそうになるもその男が肩を支えてくれた。人間の暖かい手だった。
「大丈夫、落ち着いて、私はガーデルマン、こっちはさっき見かけただろうハンスだ。ビスマルクじゃないよ」
後ろにもう一人、先ほど扉の前にいた清掃員の男の姿があった。
「び、ビスマルク…?」
「あぁ、大和博士ね、あんまり知られてないんだよねフルネームは」
「変わった名前ですね」
「可笑しいよね」
男は微笑む。鉄のような大和博士と比べ物にならない人間の温かみを感じた瞬間だった。
ふと時計に目をやるとオフィスに居た頃から10分と経っていなかった。無限に思えたあの時間、世界の平和は10分も進んでいた。
「あの、僕はどうしてここに…」
二人の顔が曇るのが露骨に表れ、言葉を探しているのが伺える。
「その…だな、あの後ビスマルクは波戸崎さんの所へ謝りに行ったんだ」
「謝りに?」
むしろ挨拶に伺ってあんな態度を取った自分が謝るべきではないのか?と困惑する。
「いや、君が悪いんじゃない、君はむしろここでは"何もしていない"として扱われる。悪いのはビスマルクさ…その…だな…」
話の結末はココでは"何事もない日常"として扱われるらしい。
父はあれから気を病んでしまった。何度も僕に謝り、しばらくは滅入ってしまった。
あの時僕は自分の平和を取り戻そうと無我夢中になっていた。
近くにあった灰皿をおっとり、大和博士に飛びかかっていたらしい。
外では清掃員のハンスさんとガーデルマンさんが部屋の中に注意を払っていたらしいが大和博士も抵抗しなければ僕もズブのド素人だったために目立った物音がせず。二人が気がついて中に飛び込んだ時には既に僕は灰皿で何度も何度も大和博士の顔面を殴り続けていたらしい。執拗に、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
跡形もなくなるまで。
思い出した。
確かあの野郎はずっと。
笑っていやがった。
波戸崎壕は「虎屋外郎研究室」と書かれた部屋の前で立ち尽くしていた。さっきから何度もノックしているのに、一向に返事がなかった。仕方なく「失礼します」と声をかけてドアノブをひねると、ドアは音もなく開いた。
「あっ、虎屋博士! しし失礼いたします!」
波戸崎は正面のデスクに鎮座する唐揚げに慌てて挨拶した。
「申し訳ありません、何度かノックしたのですがお返事がなかったものですから、イヤホンでもされているのかと思いまして、勝手に開けさせていただきました」
「……」
「あ、私、このたびサイト-81██に配属されました波戸崎壕と申します。よろしくお願いいたします」
「……」
「…えーと、あの、あっ、この顔はですね、これ、マスクなんです。あの、ちょっと事情がありまして…」
「……」
「先輩方にもガスマスクとか紙袋とかおられますし、虎屋博士も狐面ですし、お揃いですよね、安心しました」
「……」
「……」
「……」
「……あの…」
そのとき、奥の部屋に通じる扉が不意に開き、一人の白衣の女性が現れた。
「あれ、お客さんでしたか、失礼しました」
「えっ、あっ、あの」
「虎屋博士なら外出中ですよ。遅めのお昼とかで」
「えっ」
「私は研究助手の降田(フリタ)です。奥にもう一人、龍田(タツタ)君がいるんですが、ちょっと二人ともなかなか手が離せなくて」
「いえ、えっ、えっ」
「えーと、どのような御用向きで?」
「いや、あの、配属のご挨拶に伺っただけなんです、すぐ帰りますんで、ほんと」
「そうですか。では戻りましたら伝えておきますね。お名前を伺ってもよろしいですか?」
「あ、え、波戸崎壕です」
「ハトザキさんですね。よろしくお願いいたします」
「あ……よろしく……です」
「では私もまだ手が離せないので、失礼させていただきますね」
「あっ、あの、すみません」
「はい?」
「あの、そちらのデスクの上の唐揚げは…」
「あの唐揚げは虎屋博士の焼いたクッキーです」
収容設計第二研究室。
先輩に次に行くよう促されたのはここだ。先輩は何も言わなかったが、じいちゃんからは聞かされていた。
あきらかに異常性を帯びた職員の一人。変則世界の住人。道の交わらないもの。
じいちゃんは怖れていた。僕が異常性に晒されることを。道から外れることを。
そんなじいちゃんから教えられ、僕はいくらかの防衛術を心得ていた。
この部屋にいる人物は、視覚からしか異常性を伝播させない。見なければいいのだ。聞くところによれば、特定の画像を目にしなければ異常性に晒されることはないらしい。
視界の狭いこのマスクをつけていれば、余計なものを見る可能性はかなり低くなるだろう。
IDカードを端末に晒し、扉を開ける。紙媒体の資料だらけの広い研究室には一見誰もいないようだった。
僕はなるべく床を見ながら部屋の奥に進む。薄目を開けながら。余計なものを見ないように。
「おや。なにか御用ですか。」
しばらく棚や机の間を進んでいくと、椅子に座っている何者かから声をかけられた。男の声?僕は顔をそむけながら、顔をあげた。
あれ? 慎重に視界の隅から、ぎりぎりそのヒトの顔を視界に入れる。普通の人間だ。
「あ、あの。今日から財団で働くことになった波戸崎濠研究員です、よろしくお願いします!」
「そうですか。よろしくお願いしますね。私は[ZeroWinchester]です。」
ん?
「あ、す、すみません。もういちどお名前を聞かせてもらえますか。」
「[ZeroWinchester]です。」
おかしい。聞いた瞬間は普通の名前なのに、思い返すヒマもなく、記憶の中ですら別の単語に置き換わっている。
研究員I。誰も本名で呼ばないからおかしいとは思っていた。遅かった。遅かったんだ。視覚さえ防御していればいいだなんて、僕は甘かった。
「[ZeroWinchester]さん!」
「はい」
「い・・・[ZeroWinchester]さん!」
「はい」
「[ZeroWinchester]さん!」
「はい」
「東北訛りでもダメなんですね。」
「はい」
最後にそのヒトは握手を求めてきた。差し出された右手に、少し怖気づきながらも右手を重ねる。しかし、瞬間、手を引っ込めてしまった。
人間の手の感触じゃない。体毛と、肉の塊の感触。そのヒトの右手を凝視する視界の隅で、僕は、そのヒトが首から提げていたIDカードを見てしまった。
まずい。そう思ったときには手遅れで、そのヒトの人間の外観は失われていた。
「・・・犬?」
「人間です。ちなみにあなたが言っているのは狼です。」
僕はその部屋をあとにした。
違和感。言い知れない危機感が僕の背中を引っ張った。
あの手の感触。たしかに犬の体毛と肉球の感触だった。でも、それはあのIDカードを見る前じゃないか。
それにどうして・・・
サイト-8181は広い。広いだけに在籍職員もかなり多く、廊下ですれ違う顔ぶれは毎度毎度同じということがない。I研究員の挨拶回りを終えた僕は、正面から歩いていくるスーツの男に向かって会釈した。
「こんにちは」
「こんにちは」
にこやかな挨拶が帰ってくる。相手はひどく平凡な中年のサラリーマンのように見えたが、きっとエージェントか何かなのだろう。僕はそれきり、その男の顔を思い出せなくなった。
「波戸崎です。この度配属されました」
「どうも。お父さんにはよく世話になったよ」
購買部の技師の一人が、白い歯をすすで汚れた顔に浮かび上がらせる。あいにく購買長の木場さんは席を外しているようだったが、後でまた戻ってくればいい。
「おっ」いきなり技師の男が、ガレージの入り口に向かって手を振った。「海野さん、新しいの仕上がってるよ」
思わず振り返った僕は、そこに平凡極まりない男の姿を発見する。「おや」すると男は歩みを止め、僕の顔を見て納得したような表情を作る。「こんにちは。また会ったね」
「え?」
海野と呼ばれた男は、当惑する僕の脇を素通りすると、購買部の技師と話し始める。「試着できますよ、もう」「派手な変更じゃないって聞きました」「それがね、今回は……」二人は僕を置いてガレージの奥へと行ってしまう。何だか気味の悪い思いにとらわれたが、今までの強烈な職員たちに比べれば何ものでもない。僕は気を取り直すことにした。
昼食をとりに食堂へ向かった僕は、そこで同類を見つけた。カラスみたいな天狗の面をつけた人が、メニューの前で悩んでいる。なにやら独り言をブツブツつぶやいているようで、ちょっと近寄りたくない雰囲気だ。けれど、その天狗の面にはどこか既視感がある。一体どこでそんなものを見たのか、単なるデジャヴってやつかもしれないけれど。
不意に、天狗の男が独り言をやめてこちらを向いた。観察していたのがばれてしまったらしい。金色の鋭い瞳がこちらを捉えて、僕は己の油断を悔いた。
「今日はよく会うね」
「え?」
なんだかさっき聞いたようなセリフに、僕は表情を曇らせる。「すみません」僕は思い切ることにした。「どなたですか」
「ああ……海野です。エージェントの」
天狗面を外した男の、ひどく平凡な顔つきが現れる。僕は少しめまいを覚えて、記憶を手繰ろうとする。どこか出会ったか──こんな人。そもそも、サイト-8181は広い。廊下ですれ違う顔ぶれは、毎度毎度同じということがない。先ほども犬のようでもあり人のようでもあり女性のようでもありメスのようでもある職員と邂逅を果たしてきたばかりだし、父の旧知とも名刺を交換してきた。それまでに一体何人とすれ違い──待てよ、すれ違った。今この男はたしかに海野と名乗ったはずだ。
にこやかな微笑みを添えて手を差し伸べてくる男の顔に、見覚えはない。
「は……波戸崎です」
「よろしく。波戸崎さん……いや、壕くん、か」
ピジョンヘッドを脱ぎかけていた手を止まる。表情を悟られないようにするためだ。この男は今なぜ、わざわざ言い直した? お行儀を気にして、ピジョンヘッドを脱ぐのは止めだ。
海野という男とは、今日何度か会っている。それは間違いない。だが昨日も一週間前も会ったかと言われれば、それは定かではないが──恐らくそんなことは、ない、はずだ。
結局握手はしていない。差し出した手をおずおずと下ろした海野は、ほんの少し悲しそうな顔で僕のことを見ている。ピジョンヘッド越しに睨みつけていた僕は、多少そのことに面食らっていた。一癖も二癖もある職員のことだから、なにか企みでもあるのかと疑ったのだが。どうもこれは、事情が異なるらしい。
「昔からそうだもんな……」また何事か、眼前の男がつぶやいた。「エンリケは、元気?」
「は」
どうして僕のことをそんなに知っているんだ、この男は。急に家族のご機嫌伺いだなんて、まるで脅迫のようでもある。ちなみにエンリケは元気だ。
白髪交じりの頭を掻いていた海野は、急に、天狗面に向かって何か話しかける。
「──ああ、いえ、実は壕くんとばったり。ええ、そこにいますよ。……串間さんはもう会われました?」
僕は思わず顔を上げた。串間さん? 串間といったらあの串間しかいない。サイト-81██の、託児所の。
「あの」
「はい?」
そこで言葉に詰まり、僕は自分が何を言うかを決めていなかったことに気が付いた。このままでは、この男の正体を知る前に取り逃がしてしまう。とにかく、思いついた言葉を口にする。
「く、串間先生とお知り合いなんですか……?」
「ええ。というか、君ともね。本来は」
「すみません……」
やはり僕とこの男は、昔からの知り合いだったのだ。相手はとうに気付いているのに、自分は全く思い出すことができないことが申し訳ない。内心いろいろと邪推していたことは、まあ明らかにすべきことでもないだろうけど。
「……そりゃ覚えてないよね、幼稚園とか小学生ぐらいの頃もそうだったもの」電話を終えたらしい海野は、懐かしむようにうなずいた。一切見覚えのない男に向けられる父性にも似た感情は、正直言ってよく分からない気持ちにさせられる。「時々、君の送り迎えを僕がやっていたんだけどなあ」
「そう、なんですか」
そう言われるとピンとくる節がある。時折、両親のいない日、僕を託児所まで連れて行ってくれたおじさんが、いたような気がする。でも、それはこんな男だったか? 一ミリも顔を覚えていないという点では共通しているが、それは共通項として括弧に括るには根拠に弱い。
「まあ、毎回毎回"おじさんだれー?"って言われちゃってたんだけどね」
「あっ」
そうか、分かった。そのおじさんの顔を覚えていないのは、別に忘れたからじゃない。あの頃も覚えていなかったんだ、僕は。毎度のように自己紹介をされて、結局毎回僕は顔を覚えていなかった。それに、あの黒い面だ。本当にほんの少しだけ、見覚えがある。何度か着けてさせてもらったことがあった。
そうだ、間違いない。この男こそが、僕の父の部下だったエージェント・海野、"天狗のおじさん"だったのだ。
「あの時の、"天狗のおじさん"……!」
「あれ、思い出してくれたのか」
海野の笑顔から卑屈さが薄れて行く。思い出せた達成感と懐かしさに、思わず僕はピジョンヘッドを取って駆け寄っていた。
「その節はお世話になりました! 財団に入れたんです、僕」
「うんうん、そうか。お父さんの後を継いだんだね」
「串間さんと電話していたんですか?」
「ああ」海野は手にしていた天狗面を軽くたたく。「新しく通話機能が付いたんだ、このお面」それより──海野は僕のピジョンヘッドを覗き込む。「一体いつの間に、そんなものを?」
「これは……確か中学生の時から」
「鳩か……鳩好きだったもんな」
ピジョンヘッドとの付き合いは、エンリケと同じぐらい長い。けれど、僕が鳩好きだというだけで、このデザインをあしらったわけではないのだ。
「欲しかったんです。そのお面みたいな奴が」
「ああ、そうだったのか」
ごめんな、あげられなくて──海野が笑う。
その顔には、やはり見覚えはない。
「やあ、君が波戸崎Jr.ジュニアかい?」
廊下を一人、歩いていると後ろから男の声を投げかけられた。立ち止まって振り向くと、眼鏡をかけた知らない白衣の人がこちらに近づいてくる。恐らく、博士か研究員……だと思う。
「おっと失礼、君の父上であるところのエージェント・波戸崎とは何度か職務で一緒になったけど、君とは初対面か」
いわゆるハーフっぽい顔にブラウンレンズの眼鏡をかけたその人の顔も憶えようとしたけど……それよりもスラックスの上から付けられた右足のアンクレットの鈍い輝きに目が向いてしまった。
「"味"だ。魚の方じゃなくて"アマイ"とか"ショッパイ"とかのアジ、立場的には君と同じ研究員になる。一箇所に留まらない仕事が主でね、あまり一緒に仕事をすることはないかもしれないが、その時はよろしく頼むよ」
「あ、はい。よろしくお願いします!」
差し出された左手への握手に応じてから、手を離そうとするが……離れない。
「あ、あれ?」
力強く握られてるわけでもないのに、握手を解くことができず困惑していると出会った時からずっと笑顔だった味 研究員が表情を変えないまま、顔を少し右に背けた。
「これは名刺代わり」
瞬間、僕の手の中で味 研究員の左手が小さな破裂音を伴ってバラバラになった。
正確に言えば、無数のトランプのカードに置き換わって、バラバラと床に散らばった。
「うう、なかなか痛いな」
そう言いながら左の袖をぶら下げる味 研究員の身体が、今度は右腕がトランプとなって床に散らばり始める。
「ああ、これはもっと練習が必」
パァン!!
クラッカーを目の前で鳴らされたかのような音に思わず尻餅をついてしまう。
目前の味 研究員は……だったものは、頭だった部分から勢い良くトランプを天井に吹き上げながら膝をついて、前のめりになり、廊下に倒れ伏した。
それでもなお、トランプが床に無数に落ちる音は止まず、目の前で眼鏡はそれに埋まっていき、肉体を包んでいた白衣はだんだんと厚みを失っていった。
「……あ、えっ」
しばらくして何の音もしなくなった事に気づいた僕は目の前の白衣に手を伸ばし、それとその下の洋服が肉体を包んでいないことを確認し、また動きを止める他に何も出来なくなってしまった。
「演出には悪くなかったが」
背後からさっきまで対面していた声が聞こえ、僕はまた振り向かなければならなかった。今度は、飛び上がりそうになるほどの驚きを伴って。
「あの破裂音はいらないね、こっちの耳もやられちまう」
そこにはホウキとチリトリを両手に2組携えた味 研究員が見下ろすように立っていた。その格好は目の前のトランプの山を覆って、覆われている白衣と洋服と眼鏡と全く一緒だった。
「あと明らかに後片付けが面倒だ、悪いが手伝ってもらえる?」
そう言いながら片方の掃除セットを差し出してくる味 研究員。その顔はやはり会った時と同じ笑顔だった。
「悪いね、一方的に観客にしてしまって」
「君が例の、新人君か。どうぞよろしく。」
梁野博士はそう言った。
「い、いえ、こちらこそ………よ、宜しくお願いします。」
僕は喉からその言葉を何とかひねり出すようにして博士に応えた。
「うーん、『波戸崎』君の所属は…‥。」
「あ、えっと……サイト-81██研究室とサイト-81██動物飼育施設……です。」
「あ、そうだ、そうだ。そうだった。……そうかぁ、動物飼育の方かぁ。なるほどねえ。うん、なるほど。なるほど。」
梁野博士は何かを言いたげな雰囲気を醸し出しながら、ただ唸る。
「…あ、あの、博士。」
「ん? なんだい?」
「…先程から、気になっているんですが。」
言いたい。でも、それを言ってしまうのを僕の中の何かが拒んでいた。世の中には触れないほうがいいこともある、みたいな事をおじいちゃんに教わった。…ような気がする。多分それだろう。でも、これは言及すべきことなんじゃないのだろうか。もしかして、これは敢えて僕にそのことを指摘させる為にやっていることなのでは?だとすれば、いや、だとしても意味がわからない。この梁野博士という人物の真意が全くと言っていいほど読めない。
「うん。遠慮せずに言って見給え。」
博士が僕の背中を押す。その眼差しは優しく、穏やかだ。その穏やかさがより一層僕を悩ませる。
「……どうして博士は……その………廊下で乗っ転がりながら、大量の片方しか無いハイヒールに埋もれ、尚且つ顔だけを出して普通に書類に目を通しているんですか?」
僕は一言一句間違えずに、僕自身が抱いていた疑問をぶつけた。さっき僕が口に出してしまったことは、寸分違わずこの状況と一致している。正にそのものだ。いや、でも明らかにおかしいだろ。僕の率直な感想だ。今までいろんな博士に挨拶に行ってきたが、これは変だというレベルの話ではなかった。レベルと言っても、決して上というわけではない。どちらかと言うと限りなく下の方だと思う。本当に下の方。怪しげな実験、血にまみれたオフィス、特殊な体質の先輩職員の方々。言ってしまうとどこか失礼な気もするが、この財団にある独特な空気を醸し出すそんな人々の方が遥かに多かったのは確かだ。でも、これは……。いや、なんだこれ。
「ああ。これか。これはねえ、ちょっとした思いつきによるものなんだよ。」
「お、思いつき?」
「そう、思いつきだ。」
そう言うと博士は埋もれていたハイヒールの中から這い出し、そして立ち上がった。背広に白衣を着ていて、愛用の赤いフレームのメガネを人差し指でクイッとする。
「君は……想像したことがあるかね?」
「……な、何をですか?」
「女性らしさの真髄というものを。」
「えっと……え?」
「君にとっての女性らしさとは、一体何かね。」
僕は博士に指を刺されながら問いただされた。女性らしさの真髄? 先程から会話の内容の先が全くと言っていいほど見えてこない。そもそもこの会話に意味があるのだろうか。先輩職員の方の言っていることに対してそんなことを思ってしまうのも大変無礼なことではあるが、でもこんなことをしてしまう人間の言うことを真面目に受け取ってしまうというのはどうなのだろう。本来なら目を合わせることなどせずに、自分とこの人は全くの無関係ですよという演出を心がけながら無視するのが当たり前だろう。こんなことをして、尚且つまるで当たり前のことをしているような態度でいる男を世間では何と言うか。それは一つだ。へんt
「私の思う女性らしさ、それは恥じらいさ。」
僕の応えを待つこともなく博士は話しだした。元々、答えようかどうかの次元で悩んではいたが、どこと無く、いや確実に僕の癪に障った。
「女性は、男とは違い恥じらいを重んじている。これは私の持論ではあるが、確かにそうだ。女性は恥じらうからこそ、その中にある奥ゆかしき魅力が漏れ出すんだ。ただ放出されるだけではそんなもの誰も食いつかない。見ないからこそ、異性はそれを求めようと必死になる。その答えを知りたいと望むからこそ、彼女を知りたいと欲するんだよ。」
「は、はぁ…。」
なんとなく言いたいことは分かるような分からないような。まず、理解しようとすら脳が働かない。
「だから、私はこの中に埋もれていた。彼女らが身に付けているものの中にその身を置くことで、その彼女たちの中にある未知なる領域に一歩でも近づこうとするためにね。それに、ハイヒールという物に限定したのも、女性だけが身につけるものだという括りの中に存在していたからだ。これによって、更に真実へと近づける。しかも、これは片方という不完全性を有している。片方であるからこそ、彼女たちはこれを探し求める。つまり、それと一体化している私を追い求めているということになる。それ即ち、私と彼女たちはお互いをお互いで求め合っている相思相愛の仲になるというわけだ。」
博士の熱弁を聞いたが、僕にはこれっぽっちもこの謎の理論を解読する事ができなかった。偏見もあるかもしれないが、それを無くしたとしても僕のこの人に対して思うことは一つだろう。何言ってるんだこの人は。
「……『波戸崎』君。君は今、私が何を言ってるのか分からない、そう思ったね?」
「い、いえ! そんな僕は…!」
心を読まれたと思い僕の心臓は止まりそうになった。一応は表情には出さないでおこうと思っていたけれど、やはりそれが滲み出てしまったのだろうか。今となってはその真相は闇の中だ。だけど、博士が僕の思っていたことを当てたのは紛れもない事実だった。
「…私はね、『波戸崎』君。『愛』を求めてるんだよ。」
「…愛、ですか?」
「そう、『愛』だ。『愛』はこの世界のどこにでも存在する。ここにも、そしてここにも。」
博士はそう言いながら、僕と博士自身の胸に指を触れさせる。
「君だって、誰かを愛したり、何かを労ったり、助けたりするだろう。例え、それがとても小さいものだったとしても、それも立派な、十分な『愛』だ。君からしたら、私はただおかしなことをしている変人に映るかもしれない。だがね、これだけは言わせて欲しい。私は、ただ純粋にその『愛』を追い求めているだけなんだ。人一倍、その『愛』に触れている時間がほしいだけなんだよ。」
そう言う博士の表情が、どこかもの悲しげな物に変わっていく。何かを常に渇望して、でもそれにはたどり着けなくて。最早半ば諦めているのかもしれないけど、でもそれを諦めてしまう事もできない。そんなことを、博士は僕に目で訴えてきているような気がした。
「私は君のことも、とても愛しているのだよ? 『波戸崎』君。」
博士が詰め寄ってくる。
「す、すいません! 失礼します!」
僕は逃げ出した。
こんなことは初めてだった。今日まで、色々な人に会ってきた。だけど、その中でも、なにか特殊な状況やそれがない限りその場ですぐに逃げ出すなんてことはなかった。だけど、僕はあの場からそれをしてしまった。何を恐れたのか、詰め寄られたからなのか。
何かが違った。見た目ややっていることはおかしな行動をしている変な博士そのものだ。だが、なんだかそれだけじゃない様な気がしたのは間違いない。身の危険? いや、違う。だけど、何かが違ったんだ。他の人とは違う、決定的な何かが。
「…隣、いいです……か?」
「あ、はい、どうぞ…。」
食堂の、僕の座っていた席の隣に誰かがやって来た。声は女性のものだ。僕はその場で愛想よく応えようとした。だけど、それ以上に僕は驚いてしまった。その為、それから続くであろう言葉も全て頭から綺麗に消え去ってしまった。
「………。」
彼女は何も言わずにそこに座っているだけだった。僕も何も言い出せなかった。
僕が驚いてしまった一番の理由は彼女の体だった。わかりやすく言えば、犬そのものだ。白衣を着た犬に人間の女の人の頭が付いている。直接的な表現をすればこれが一番適切だろう。
「……お構いなく。……その、そういうの…慣れていますから。」
「え…いや! いやいやいや! その、えーっと、僕はそんなことは一切…!」
僕は思わず、身振り手振りを加えた弁解を行った。相手を深く傷つけてしまった。そう思ったからだ。その中にはなにか偽善的な、独善的な感情も混じっていたのかもしれない。それを僕の中に感じ取ってしまった瞬間に、なんだか自己嫌悪のさざ波が僕を襲い始めた。
「お構いなく……。」
彼女は少し俯き気味に、僕を見た。
暫くの間、彼女と会話をした。その話の中で彼女が梁野博士の助手をしているということも判明した。
「そうですか。坂枝さんはそんな経緯で。」
「ええ……。今でこそ、幸せな生活を送っています。」
僕は先程持ってきたコーヒーを少し飲みながら一息ついた。隣の坂枝さんも、コップに入っている水をストローで飲んでいる。落ち着いた時間がその時に流れ、先ほどまでの思案などどこかへと消え去ってしまったようだ。
「あの……。」
「あ、はい。」
「さ、先程は……梁野博士が……ご迷惑を…。」
彼女は、とても申し訳無さそうな顔で僕の方を見た。
「い、いえ、そんな事は。僕も、いきなり博士の前から逃げ出すなんて…。」
「…博士は……とても、とても、優しい人なんです。」
「…ええ。」
なんとなくだが、彼女の言いたいことが分かっていたような気がした。
「私みたいな、人間……でも…別け隔てなく、本気で良くしてくれるんです。まるで、普通の人のように。一人の女のように。だから、変なことも言うかもしれないですが、その…博士の事は…その…許して貰えないでしょうか?」
彼女は、改めて僕に向き直った。
「お、お願いします…。博士のことは…。」
「大丈夫です。」
僕は、ハキハキとした声で応えた。
「まあ、こんな言い方するのはとても偉そうなことですが…。別に気にしてなんかいませんよ。どちらかと言うと、悪いのは僕ですから。だから、坂枝さんがそんな顔する必要もありません。」
「あ、ありがとうございます!」
「いえ、こちらこそ。あ、そろそろ戻らないと。コーヒー、ごちそうさまです。」
僕は席から立ち上がって、その場を離れた。食堂から出て行く時に彼女いる方へと向き直り、手を降った。彼女もそれに応えるように振ってくれた。
僕は廊下を歩きながら、何かを確信していた。
「私のような人間も、一人の女のように…か。」
それは、一見素晴らしいことのように聞こえた。だけれど、それはなんだか違っていた。
「…そんな人間、本当にいるのか。」
そう。一切の偏見など持たず、全てを慈しみ、どんなものでも愛し続ける男。これは慈愛とは何かが違う。何かで心を満たしているわけでは決して無い。それはただ、見境がないだけじゃないのか。手当たり次第に、その自分勝手な愛をまき散らしているだけじゃないのか。僕にはそう思えて仕方がなかった。
暗い、暗い穴。そんな印象が僕の脳裏に焼き付いた。梁野武一。この男の、何か危険な部分を目の当たりにしたような気がした。
イトマキ兄弟の個人ルームと説明された場所は、サイト内の少し奥まったところに位置していた。波戸崎研究員は個人ルームの前に立ち、その入り口を見詰める。財団のサイトといえば、無機質な扉を想像し、実際それらが多く用いられているが、珍しいことにその戸口は飾り障子であった。
入室する前、ノック……ではなく「入ります」と声をかけ、ソッと横に動かす。中は六畳半ほどの広さを持つ空間が広がっていた。中央にテーブルが設置されているが、夏は透かし彫り・冬は炬燵といったように変化する。机上にはモンスターの図鑑と思わしき分厚い本と、3DSが複数機と、大量のゲームソフトパッケージ(ダイパプラチナ、金銀リメイク、XY、ルビサファリメイク)がゴチャゴチャと雑多に置かれている。スマホとゲームの充電器が複雑に絡み合い、蛸足のソレに刺さっていた。
テーブルの四方には、人が駄目になる白黒のクッションが1つずつ、犬用のもふもふとした座布団や金髪の人がムニャムニャと惰眠を貪る布団があり、快適な空間と化していた。財団職員は家に帰宅する人間と、泊まりこみでサイト内に留まるタイプがある。どうやらこのイトマキ兄弟は後者の方であるらしい。その証拠に私物が散乱しているようだ……。奥端にはアニメ物のぬいぐるみがドッサリ置かれている。
「ど、どうも……波戸崎です。挨拶まわりを……」
「…………」
パタンと、DSが閉じられる。見れば白衣を着た男……イトクリが横目に波戸崎を窺った後、応ずるためにゲームの中断をしたのだろう。波戸崎はオズオズと頭を下げ、靴を脱ぎ室内に上がりこんだ瞬間、金髪の男の付近に丸まるっていたのか、伏せているためわからなかったが、チロ警備犬が身体を起こし来訪者を注視していた。片足を半端にあげて警戒態勢だ。
イトクリは何かをカウントするため、「五」の字が書かれた紙を丁寧に折り曲げ、会釈するように頭を下げた。次いで、机上の随所随所に放置されたゲームソフトの片付けを始める。紙をまとめるようにトントンと軽く手の内に纏めたソフトを整え床に置き、音もなく立ち上がった。部屋には2つ個室があり、イトクリはその一室に引っ込んだ。どうしたのだろうかと窺っていると、水の放流する音が聞こえてきた。どうやらお茶を淹れてくれるらしい。
5分もしない内に、彼は戻ってきた。透明のグラスが乗ったお盆を片手に、波戸崎の前に座る。
「粗茶です。熱いので気をつけてください」
「そ、粗茶?」
もう一度述べるが、グラスは透明である。透明なのである。薄緑でもなければ、濃い茶色でもない。目視だけで、水が入っていることが易々と分かった。波戸崎は首を捻りながら慎重にグラスを手に取る。冷たかった。極度に凍て付いていた。凍結する寸前の飲料水がここにある。……嘘つきだ……。
「粗茶じゃなく水のようですが……そして、真冬に冷水とは一体」
「ええ、水です。真夏は極限まで煮詰めた白湯を提供します」
「なぜそんなことを」
「真夏は極限まで煮詰めた沸騰寸前の白湯を、真冬は極度に冷却した凍結寸前のお冷を出す理由ですか? サア……?」
「えっと、そういうご家庭だったのですかね?」
「そんなわけないじゃないですか。非常識な」
無表情のまま、淡々と訥々と云う。
波戸崎は胸中にムヤムヤチクチクしたものを覚えながら、自己紹介をした。自身には祖父があり、財団で働くことになったことを述べる。彼の表情は一切変わることはなかった。しかし、寡黙で無口と聞いていたのだが、思っていたより喋ってくれた。気を使ってくれたのだろう。
「……よろしくお願いします」
イトクリが述べたのはその一言だけであった。というよりも、医者は話を打ち切るように立ち上がり、外出する旨を知らせた為、これ以上話をすることが出来なかったのである。「何をするのですか」と訊ねると、イトクリは「ヤマトモを殴らなくてはいけない」と使命感に充ち満ち、殺意がミチミチこもった声音で返答し、個人ルームから退出したのである。
「あの人ヤマトモさんに恨みでもあるのか」
「いや、ないけど。愛情の裏返しだよ、裏返し」
独り言のつもりだった呟きに返事があった。音の発し主は布団の中で眠りこけていた金髪の男性だった。翠の眼と顔立ちから、血統的に純粋な日本人でないことがわかる。
「ぼくの名前はヨコシマ、よろしく」
「は、波戸崎です」
エージェント・ヨコシマ。確か人事ファイルの隅っこに……下部に軽く記載されていた奴だなと思い出した。ヨコシマは波戸崎に自身のクリアランスが記載された社員証をドヤ顔で見せる。……少し、うざかった。
「そんなに緊張して鹿詰めらしく畏まらなくてもいいよ! 気楽にいこうよ、ナカマなんだし」
「きみの前で緊張はしてないけど……先輩の前だと、どうしても改まっちゃうっていうか。そんな慣れ慣れしくはできないですよ」
「大丈夫、ぼくに任せて! [好意的な発言をしたため削除済]」
「え? なんだって?」
「[好感度の上がる発言をしたため編集済]
「ちょっと何云ってるか分からない」
「[カットカット~]」
「……。オダマキって方に挨拶してきますね」
波戸崎は微笑を浮かべながらノソノソと立ち上がり、ソソクサと六畳間から退出した。個人ルームからカフェテリア内に戻り、中庭を通過した先に霊安室がある。渡り廊下を歩み、人気のない方へ進んでいくと妙に寂寞とした空間に到達した。霊安室の入り口には大和博士の亡骸で溢れ返っているのだろう。野外の外気温を利用した一時的な簡易保管場所となっている。波戸崎は安置場所の扉をノックしたが返事はなく、扉を引いてみたが鍵が掛かっているためか開くことができなかった。どうやら、生きた人間はいないらしい。
波戸崎は霊安室の周囲をウロウロと散策し、尋ね人の姿を求めた。途中、神山博士専用と思わしき狭い建物を見つけたが、当然のこと乍ら室内に入ることができない。これは死体管理者がいるいないに関わらず入出できないものと思われる。
目的の人物が見付からないので、一度サイト内に戻り他の人に挨拶周りをしようかと迷っていると、サクサクと表面が氷のようになった雪原を踏む足音が聞こえる。林間の木立の小道から黒いコートを着用した人間が、こちらの方に近付いてくる。白い風景と白い肌色が合わさっていた。誰なのだろうと首を捻っていると、波戸崎の方を男は見詰める。こちらがアクションを取る前に、あちらが先にリアクションをとった。
「あぁ、挨拶まわり……確か今日くるとおっしゃっておりましたね。仕事が立て込み、スッカリ忘れていました。申し訳ありません。お許しくださいまし」
その声を聞いて、波戸崎はこの黒衣の人物がオダマキ納棺師であることを知った。少し前に聞いたイトクリの声と全く同一であったが、どういうことか髪型が異なっていたので判別することができなかったのだ。見分けがつかないほど同一の情報は嘘だったのかと疑い、信じられない心地だった。
「はじめまして。波戸崎です。オダマキ……納棺師、さん?」
「……髪をあげていないと、幼く見られてしまうのがイヤだなぁ……あぁ、イエイエそんなことよりも、はじめまして波戸崎さん」
少し照れたような、困ったような笑みを浮かべて応答する。イトクリは全く笑わなかったが、このひとはよく笑う人だ。相対的な兄弟だなと思いながら、波戸崎にある想像が浮かんだ。もしかしたら……この人は、兄弟は、双子などではなく、多重人格かもしれないと……。俄かに浮かんできた考えにじっとり背中を濡らしながらも、表情と態度に出ないよう、気を払い波戸崎は挨拶を済ませる。
「じゃあ、他の方にも挨拶があるので」
申し訳なさそうに云い、波戸崎は白い土を踏み早足にその場から立ち去る。外気温があまりにも低く、可能な限りあたたかい室内に戻りたかったのだ。その道中、納棺師のことが気に掛かった波戸崎は見付からないように注意を払い背後を振り返ると、あの医者のように無表情の男が霊安室の鍵を手にし、開けているところだった。先ほどの想像はあながち的外れで、常識を逸したものではないかもしれないと思った矢先に……、
「ん? 何か変だぞ」
ある疑問が、浮かんだ。
……今日あったイトクリは思ったよりも喋る人だと思った。先ほどあったオダマキの無表情……。熱いから気をつけろといいながら、冷たい物をだした厚かましさ……双方はイトクリだ、オダマキだとはいっていない。しかし格好は、最初が白で最後が黒…………。
「入れ替わっている……?」
答えは、出ない。
エージェント・ヤマトモとは面識があった。同時期に入団した、いわゆる同期だ。
最初のオリエンテーション中に言葉を交わしたときになんとなく意気投合して、敬語抜きで話せるくらいの仲になっていた。だが僕は財団の試験を合格して雇用された研究員、彼は実績によりスカウトされたエージェント、勤務しているサイトは同じなのにそれ以来まったく会っていなかった。
そんな折、実に数ヶ月振りにヤマトモに会った……というかサイトの中庭にうつ伏せに倒れていたのを発見した。
僕に気づいたのか、寝そべったままこちらを向いてニヤニヤと笑っている。
「なにやってるのヤマトモさん」
「よう、久しぶりだね」
真っ黒な巨体がのっそり起き上がると、身体をゆらりと傾け、顔は笑ったまま、だらりと足元まで伸びた腕を引きずりながらこちらへと歩き出した。
周囲の職員は一斉に避け、さながら海を渡るモーセのように道が空けられた。
……発見当初はオブジェクトとして収容されかけたというのも頷けてしまう。
「後頭部が痛むんだけど、なにがあったか見てたりした?」
「あ、えーっと……さっき」
そこまで言いかけて言葉を飲み込んだ。イトクリ医師が狂喜しながらハンマーを持って飛び出していった先で倒れているのを発見したなんて、どう説明したらいいのやら。
犯行現場は見ていないのだから推測で決め付けてはいけない。例え他に容疑者がいなくても。
「いや、関係ないと思う。うん」
僕が自分に言い聞かせるように訂正した様子を訝しげにしながら「まぁいいか」とぼやいていたが、僕自身の決まりが悪いので話題を変えようとした。
「えーっと……頭を叩かれることに、何か心当たりは?」
しまった。話を戻してしまった。もっと適当に全身黒い理由でも聞いておけばよかった。
幸いヤマトモは些細なことは気にしなかった。
「ああ、ちょっと頭に異常があってね、みんな面白がってクラス"P"記憶処理すンだよ」
「はぁ」
つい気の抜けた返事が出てしまった。クラスP記憶処理?聞いたことが無い。よくよく聞けばPは"物理的(Physical)"の略で、もちろん正式なものではなく日本支部内のスラングでそう呼ばれているものらしい。
ヤマトモはつらつらと事の経緯を話し出した。
「最初はエージェント・育良と一緒の任務に参加した時だ。多分。……あれは不幸な事故だったんだよお互いに。
そのときはまぁしょうがないと許したんだが、それを皮切りに何かと理由をつけて他の職員にも殴られるようになった。
さすがに俺も任務に支障が出てきたから、それぞれに仕返しをしてやったんだ」
「仕返し?全員を殴り返しでもしたの?」
「いや、そこまで怒ってるわけでもないよ。むしろ善行をすることで驚かせてようとして、ついでにイメージアップを図ったんだ」
……実に、本当に失礼だとは思うが『イメージアップ』という言葉を発したこと自体が既に違和感しかない。
どうにも僕には想像が付かなかったので、具体的には何をしたのか聞いてみた。
「夜遅くまで一人で仕事している人のところへ差し入れしに行ったり、山間部や廃墟の人気のない合同捜索任務に積極的に参加したりだよ。そしたらなんでか殴られる回数が増えた気がする」
普通の格好をしていれば余すところ無くプラスに働くのに格好で損をしてるなぁと思う反面、終始ニヤニヤしながら話すので、全部悪意の下に行われている気がしてきた。これは叩かれる側が圧倒的に悪いと思う。
僕が返答に困っていると、今度は向こうから質問された。
「君、以前会ったときはよく鳥のマスクを被ってたよね。今はしてないの?」
「鳩だよ。いや、ちょうどさっき昼ごはんだったから外してただけ。……逆にヤマトモさんはマスクを取ったりはしないの?」
ピタッ、とヤマトモの動きが止まった。
そういえば素顔を見たことが無いな、と軽く思っただけで質問に大した意味は無かった。マズイことを聞いてしまったかとあわてて訂正しようとすると、ヤマトモはごまかすように笑いながら言った。
「ああ、これは周りの人を驚かせないように被っているからね」
僕はその格好以上に驚かせる要素があるのだろうかとも思ったが。ヤマトモは続けた。
「俺はある事故に巻き込まれてこんなナリになっちまった。別にこの仕事を恨んでいるワケじゃない。異常性を閉じ込めて、俺のようなギセイシャを無くすことができれば、って、このマスクに誓ったんだ」
きっと今の僕は酷く呆気にとられた顔をしているだろう。今までになく真剣な話をするヤマトモに驚きを隠せなかった。その声は低く落ち着いていたが、どこか物悲しい響きを帯びていた。
「ここには自分の趣味で顔を隠している人もいるが、大半が何かしらの事情を抱えて仮面を被っている。
ある人は自分が食べ物と認識されないように、ある人は自分を覚えていてもらえるように、ある人は自分を押し殺すために……皆が自身に降りかかった苦難と戦っている。
それでも誰もが素顔の自分を知ってもらいたいと願う。俺達もそうだ。そうだった。
叶わないと知っていても、そう求めてしまう。
……でもいいんだ。財団では"自分"を見せる必要なんか無いんだから」
「そんなことは……ない!」
つい声を荒げてしまった。自分でも予想外の行動に驚いたが、ヤマトモもぽかんと口を開けていた。
自分の中でもこの気持ちが何処から来るのか分からないが、放っておけなかったからだ。
もし共有することで、苦悩を和らげられるのなら。
僕にできることがあるなら―――
「……僕はヤマトモさんがどんな顔をしてるのか、知りたい」
少し戸惑ったのだろうか。ヤマトモは少しの沈黙を置いてから答えた。
「君が望むなら見せてもいい、けれど正直後悔するかと……」
「いや、僕の意思だよ」
「そうか……」
両手でがっしと肩をつかまれた。
僕がほんの少し狼狽えた様子を見て、にやけたヤマトモの口角がさらにつり上がったのが見えた。
「自分から俺の顔を見たいと言ってくれたのは君で28人目だ!」
ヤマトモは笑っていた。心底楽しそうに。
ただし、それが純粋な喜びから来るものとは異なる笑いであることは一目瞭然だった。
マスクに手が掛けられた瞬間に全身に悪寒が走った。僕はここで初めて嵌められたのだと確信した。
もう遅い。黒い仮面が剥がれ、素顔が晒された。
…
腫瘍、蓮托、腐臭、断面、奇形、内臓、
…
違う。何だ。
…
高層ビルの屋上から遥か下に地面を見ながら落下しているような、
幾万ものおぞましい虫達が皮膚の下に蠢き、眼や鼻、穴という穴から体内へ侵入するような、
工場から排出され生物の死骸を大量に含んだヘドロを口で受け止めたような、
その全てとも、それ以外ともつかない生理的嫌悪感が脊髄を麻痺させ、脳髄に、思考に深刻なダメージを与えている。
一刻も早くこの場から逃げ出したい。しかし身体は硬直し動けない。眼は見開かれたまま、その[検閲済み]を見せられ、ついに
「ヒッ、グッ…オボろろろろろろ」
吐いた。無意識に身をかがめたために視界から名状しがたき物体が消え、靴に落ちる吐瀉物の感覚が僕の思考を徐々に正常へと戻していった。
「な?」
ヤマトモはなんでもない、当然の反応と言わんばかりの落ち着きようで再びマスクを付けていた。
『な?』じゃない!マスクを取る直前の流れは明らかに誘導していただろう!確かに僕が見せて欲しいと頼んでしまったのが悪いのだが、それでも半分騙された怒りを発散するがごとくありったけの文句をヤマトモに怒鳴り散らした。
「まぁ落ち着けよ。俺の顔を見た奴の為に……」
懐に手を伸ばし、出てきたのは"A"と書かれたラベルの缶。記憶処理に使う携帯用のスプレー缶だ。
君が希望するなら、という言葉に先程の一連の流れとヤマトモの素顔がちらついた。
迷うことなくそれを頼むと、ヤマトモはまた笑ったまま動きを止めた。
今度は、何を、するつもりだ。
「せっかくだからもう一回見とく?」
マスクに手を掛けた瞬間に"アレ"がフラッシュバックしt「ああああああああああ!!!」
僕は無我夢中でヤマトモの側頭部に渾身の右フックをブチ込んだ。
同時にヤマトモの手から記憶処理薬のガスが噴き出して……
…
エージェント・ヤマトモとは同期だ。
勤務しているサイトは同じなのに担当がまったく違うため、オリエンテーション以来、久しく会っていなかった。
そんな折、実に数ヶ月振りにヤマトモに会った……というか食堂近くの廊下にうつ伏せに倒れていたのを発見した。僕に気づいたのか、寝そべったままこちらを向いてニヤニヤと笑っている。
「よう、久しぶりだね」
「なにやってるのヤマトモさん」
久しぶりに会ったのだから、挨拶の代わりに少し話でもしていこう。
さて、次はなんとか言う名前の覚えられない博士だ。
何でも、彼は財団職員にだけ名前を間違えられるという特性を持っているという。
僕は彼の研究室の扉のノックした。
「すいません、博士はいますかー?」
「君の後ろにいるよ」
一瞬思考が止まった。
「うゎっ」
「君が波戸崎さんですね、よろしくお願いします。あ、背後に潜んでたのは趣味だから気にしないで」
初っ端からこれだ。流石に慣れてきたのか、驚きには耐性が出来てきたつもりではあるが、こういう力技は未だに慣れない。
「あ、よろしくお願いします、えー、あー、……栄治?博士」
「僕の名前は針山です。……まあ、扉の前じゃナンですし、とりあえず入ってください。」
部屋の中は、機械のケーブルなどのせいでひどく雑然としていた。
机にはネームプレートが貼ってあり、「針山 栄治」と書かれていた。
「波戸崎濠と言います。動物行動学が専門です。以後よろしくお願いします」
「あー、そう硬くならないでいいです。もっと適当でも」
彼はそう言うと、床に転がっていた本を一冊拾い上げた。
「僕は針山栄治。専門は情報工学……最近は認識災害も。趣味はアナログゲーム」
そして手に取った本をパラパラとめくり、こっちへ突き出して来た。
「後で一緒にやりません?」
「え」
唐突だ。何でもかんでも唐突過ぎる。
「きょ、今日は無理です針山博士、この後も挨拶回りしないといけないし……」
そこまで言って、何かが変だと思った。
「おっと、名前」
「あっ」
……今僕は彼の名前を呼んだ。無理なはずなのに。
「……なんで……」
「そりゃあ、名札がありますから」
彼はそう言うと、横に置いてあったネームプレートを指さした。
「驚きました?勘違いされがちですけど、僕は『姓を勘違いされる』んじゃなく、『姓をすぐに忘れられる』んです」
「なるほど……」
それなら合点がいく。彼の名前を視界に入れたままならば、正しく呼べるわけだ。
「……って、なぜ普段からそうしないんです?」
「そっちの方が面白いからですね」
「え?」
「財団ってのは疲れる仕事ですから。ふざけられるときにふざけないとやってられない。そんな中、僕は絶好のいじられ役ってわけです」
「つまり、一種の遊びみたいなものですか?」
「そう、これと同じで」
そう言うと、彼は手に持った本を視線で示した。
「でも、それで大丈夫なんですか?」
「僕自身面白がってやってますし、本当に真面目な時は名札を持ち歩きますよ。それに……こうでもして気を抜かなきゃ、やってられませんから、ね」
そう言う針山博士の顔は暗く、口からは乾いた笑いが漏れ出していた。
「……分かりました、覚えておきます。そろそろ次の方の所にも行かないといけないので……」
僕が別れを切り出そうとすると、針山博士はまた最初の様ににこやかになって、言った。
「ええ、さようなら。……あ、今度一緒にやりましょうよTRPG」
そう言われて、僕は
「今度ですよ、今度。はりや……旗山博士」
そう言った。
「言質は取りましたよ?……それと、僕の名前は針山です」
針山博士は笑顔だった。
「それにしても嬉しいな、僕のところにも挨拶に来てくれるなんて!
こうして僕達にもきちんと挨拶しに来てくれる人がいると、人事課のいち職員として新人教育を頑張った甲斐があるなぁ。
時間が大してないとはいえ、流石に今まで何人もの方にご挨拶をしてきたらしいからね。波戸崎くんも疲れただろう? 座ってお茶くらい飲んでいってくれ」
実に嬉しそうにそう言いながら、星原さんは彼のオフィスのソファーに座った僕の前に星柄のマグカップを差し出す。
「星原さんには偽造身分証を用意して貰う時にお世話になっていますから、挨拶しないわけには」
僕がそのマグカップを受け取ると、今度は星形の角砂糖が入った皿、そして星形のクッキーが載った皿がすっと目の前に差し出される。
「ありがとう。……ああは言ったが、今もてなせるものはこれくらいしかないんだ。ごめんね」
「いえ、連絡もなしに急に押しかけてしまったのは僕ですし。それにしても好きなんですね、星」
「名前が名前だからさ、子供の頃からのトレードマークなんだ」
星原さんはそう言って僕の向かいの椅子に腰かけ、僕と色違いの星柄のマグカップに口をつける。
僕も受け取ったカップに口をつける。中身は紅茶だ。この前エージェント・西塔に淹れてもらったものと、同じ味がするような気がした。
そういえば財団に入る前、人事課のオリエンテーションの時に彼は星柄のネクタイに星形のネクタイピン、オーダーメイドで作ったであろう紺のスーツの袖には星形のカフスボタンという姿で壇上に立っていた。
僕の同期の間でも、とにかくその格好と名前のおかげでわかりやすいと評されていたのをよく覚えている。恐らく単純に星が好きというのもあるのだろうが、覚えやすさも意識してあんな恰好をしているのだろうか。
だが今はあれだけ星が好きだと言う割には彼は何も星形のものを身に着けておらず、黒いスーツに黒いネクタイ――所謂喪服姿で紅茶を啜り、クッキーを齧っていた。
僕の視線に気付いた星原さんは自分のスーツに目をやり、困ったように笑って、
「実は午前中は葬式に行っていてね、ついさっきサイトに戻ってきたばかりなんだ。せめてネクタイだけでも変えられればよかったんだけど……ごめんね、喪服姿のままで」
「僕は大丈夫です。……親族の方の御葬儀ですか?」
僕のその一言に、星原さんの表情が凍る。
それからちょっと経った後、まいったな、と小さく呟く声が聞こえた。
「あー……波戸崎君にこれを話すのはちょっと気が引けるんだけど、実は僕が担当していた職員の葬儀だったんだ」
「……そうだったんですか」
「ここはそういう場所だからね。他の部署の人たちは僕達を死神だと言うが、死神が葬儀に参列してはいけないなんてことはないし、それに……死神でも何も感じないことはないんだ」
この場所は、今まで僕が居た日常よりも遥かに死の危険性が高い、非日常の世界だ。
多分、その人がこうしてちゃんと葬儀が行えることも幸福だったと言えるほどには。
僕は親父やじいちゃんから嫌というほどそれを聞かされているし、それを覚悟の上で財団職員となる道を選んだ。
僕が二人のようにちゃんと生きられるかどうかはわからないというのも、勿論覚悟している……つもりだ。
「……波戸崎君は」
「はい?」
「波戸崎君は、僕を君のお葬式に呼ぶことがないよう、頑張ってね」
そう言って、星原さんは再びマグカップに口をつける。
「(……あ)」
よく見るとその目じりは少し赤く、瞼は軽く腫れていた。どうして今まで気づかなかったのだろう。
星原さんの目がそうなってしまった理由は多分ひとつだ。
何も気づいていないふりをして、僕も自分のマグカップに口をつける。
僕は紅茶を飲みながら、正月の飲み会の席で、ほろ酔いの親父やじいちゃんが冗談交じりに人事課の人達を「財団の死神」と呼んでいたのを思い出していた。
僕と今こうして紅茶を飲んでいる人は、親父やじいちゃんが言う「財団の死神」だ。
オブジェクトには一切関わらず、関わってくれそうな人を探し、日常から非日常へ引きずり込む人達。……確かに死神というのは実に言い得て妙だ。
でも星原さんは連絡もなしにオフィスに来た僕を歓迎してくれた優しい人で、星原さんだけじゃなくて、人事課の人たちもみんな優しい人だった。何かあると皆とても親身に話を聞いてくれていた。
「(それでも、あの人たちは死神なのか)」
親父やじいちゃんのように彼らを死神と呼ぶ人の気持ちも、わからないでもない。
でも星原さんを初めとした人事部の人たちは皆優しくて、死神とは程遠いように見える。……この人達は、自分がそう呼ばれていることに随分と慣れている様だったけど、本当はどう思っているのだろう。
僕が、星原さん達のような人を死神なんて呼ぶ日が来ませんように。
そう思って飲み干した紅茶は、なんだかやけに渋かった。
…
…
お茶を頂き、ソファーから立ち上がった後、最後に星原さんはポケットから何かを取り出したかと思うと徐に僕の右手を取り、何か小さなものを握らせた。
「これからも定期的に顔を見せに来てくれると嬉しいな。……僕達を嫌忌しない人の存在は、君が思う以上に僕達の励みになるから」
そう言って、手をひらひらと振りながら僕を見送ってくれた。
彼のオフィスの扉が完全に閉じた後、僕は右手をそっと開く。
手の中には、青い星形のキャンディがあった。
挨拶回りで歩き続けて少し疲れてしまった。休憩室ってこの辺にあるのかな?等と考えながら歩き回っていると、角を曲がった所で誰かにぶつかってしまった。慌てて謝ろうと顔を上げると…..何でガスマスク着けてるんだこの人?僕のピジョンヘッドみたいな物なんだろうか。
そんな僕の混乱を他所に、立ち止まって無言でこちらを見ているガスマスク男の胸元を見ると五月蠅と書かれた名札が見えた。
「ごめんなさい!ちょっと余所見しちゃってて…..ええと、うるさいさん?」
「はい?ああ、サバエですよ、サバエ。」
「え?す、すいません…..五月蠅さん、ですか。あ、僕は波戸崎 壕と言います。この度こちらに配属される事となりました。よろしくお願いします。」
つい口に出してしまったがどうも五月蠅さんは気にしていない様子でぶつぶつ独り言を呟いている。ネタとか売れるとか妙な単語が聞こえるけど何の事だろう。そんな事を考えていると五月蠅さんは何故か上機嫌で僕に話しかけてきた。
「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。むしろこれで名前を覚えて頂けると思えば、ねぇ。」
「失礼しました…..えっと、五月蠅さんも職員の方ですよね?」
「はい。実は僕も先日エージェントになったばかりでしてね、今日は用事があってこちらのサイトに。セキリュティのレベルは2ですよ。」
「はぁ、そうなんですか…..僕も2なんです。」
…..なんでわざわざセキリュティレベルも言うんだろうか。財団職員ってそういう物なのかな?そう思った所で休憩室の事を思い出した。この様子だと教えてもらえそうだし、聞いておこう。
「ちょっと休憩所を探してるんですけど、どの辺りにあるか知ってます?」
「おお、波戸崎センセイも休憩室に?丁度良かった!僕も今向かっている所なんですよ!良ければ一緒にどうです?僕もあの波戸崎センセイと一度お話してみたいと思ってたんですよ!」
「ええと、"あの"って?」
「波戸崎センセイの名前は僕の耳にも届いてますよ?あの波戸崎家のご子息!財団で生まれ育った言わばエリート!波戸崎懷大センパイの名は僕たちの間でも有名ですからね!その息子さんとなれば当然!!」
「え!?いや、それ程でも…そんな、エリートだなんて…..」
なんだかそう言われると照れてしまうな。なんだか嬉しそうに話してるし、もしかして親父は僕の思っている以上に凄い人なのかもしれない。そうやって五月蠅さんと話をしながら歩いていると、突然顔を近づけてとんでもない事を言い出した。
「そういえば、波戸崎センセイって美人な御方とお知り合いだとか?いやぁ、是非とも話をお聞きしたいですねぇ」
…..いきなり何を言い出すんだろうかこの人は。誰かと間違えてるんじゃないか?…..もしかして変な噂が広まってる?
「え!?あ?いや、何を、別に、そんな」
「別に隠さなくたっていいじゃないですか。職員の交友関係はネタに、じゃなくてみんなの心の癒しになるんですよ。と言うわけでその辺りを…..」
「い、いやそんなんじゃないですって!…..あ痛!」
慌ててこっちも顔を近づけた所為で頭をぶつけてしまった。痛む額を押さえて俯いた所で地面に妙な物が落ちている事に気が付いた。…..何だあれ?
細長い銀色の機械で、横にボタンがいくつか付いている。さっきまでこんな物は落ちてなかったと思うし五月蠅さんのポケットから落ちたのかな?
つい手に持ってしまったと同時に音声が流れ出した。どうやら拾い上げた時にボタンを押してしまったらしい。
「「え!?あ?いや、何を、別に….」」
これってさっきの会話?もしかしてこれ録音の機械なのか?そう思った時、突然キィィィという妙な声が聞こえた。顔を上げると五月蠅さんが焦った様子でこっちを見ている。
「あの…..これって…..」
「ちょっと…..急用を思い出してしまいました。そ、それは配属祝いに差し上げますよ。…..それでは失礼します!」
そう言った途端いきなり走り出してどこかへ行ってしまった。一体何なんだったんだろう….というか何か忘れてるような…..
あ!ここ何処だ!?
「波戸崎サンのご子息で?」
「え、はい……うわぁ!?」
五月蠅さんが何処かに走り去ってしまい、一体全体どうしたものかと考えていた僕は、突然背後から投げかけられた声に振り向き驚愕した。
河童──ボサボサの髪を無造作に伸ばした河童が、僕の真後ろに立っていたのだ。頭に皿、ギョロリとした目玉、裂けた口、指の間には水掻きとエージェント・ヤマトモに勝るとも劣らない異形だが、それでいてスーツを着ているのが異様さを一層際立たせている。
「おっと失礼……どうもアタシは自分がどんなツラしてるか忘れっぽくていけない」
「あ、あの?」
「波戸崎サンのご子息が挨拶回りしてるって話を耳にしましてね?ひょっとするとアタシのトコにも来るかもしれない。でもアタシなんかのためにご足労いただくのも心苦しいですから、こうしてアタシから挨拶しようと思った次第で……あ、エージェントの蛸野です。お見知りおきを」
そう言い終わると彼──タコヤさんは口角を歪ませたが、僕がそれは笑みだと気がつくのには数秒を要した。
財団という組織に所属している以上、外見で相手を警戒してしまうのは残念だが当然だと僕は思う(外見でいうならば僕のピジョンヘッドもアレなのだが)。幸いなことに、今回その警戒は杞憂に終わった。
タコヤさんは少々自己評価が低すぎるきらいがあるけれど至って普通の人物であり、件の外見も異常性等によるものではなく、ただの特殊メイクらしい。
「それにしてもまぁ、実に見事な鳩頭で」
僕が挨拶するために脱いだピジョンヘッドを、まじまじと観察しながらタコヤさんがそう呟いた。これは誉められている、ということでいいのだろうか?
「波戸崎研究員はサイト-81██にいる時には常にコレをかぶっているとお聞きしましたが」
「ええ、まぁエンリケ……僕の伝書鳩なんですが、その飼育に必要ですからね。流石に僕が食事する時なんかには脱いでいますけど」
僕が女性恐怖症であり、ピジョンヘッドがなければ女性と会話し辛いというのも理由の一つではあるが……初対面の人物相手にそこまで話す必要もないだろう。
「なるほど飼育に……そういう理由ですかい。あー、ならこれは老婆心からの忠告なんですがね」
毎日鏡でしっかり素顔を見たほうがいい、と彼は言った。
「え、あの、それはどういう」
「ああ、いや別に波戸崎研究員の顔がどうって話しじゃあないんですがね。財団じゃ明日も自分が普通の顔でいられるかなんて分かりゃしませんから。アタシみたいに自分のツラを嫌ってるってんなら別ですが」
財団が収容しているオブジェクトには、暴露した対象に視覚的な異常を与えたり、肉体を変化させるようなものが多数存在している。つまり、いざというときのために心構えはしておけ、ということなのだろうか。
「自分の顔って存外忘れやすいモンですから」
頭の中で思い描いてみた僕の顔は何故か鳩に似ていた。
「え……と。次は鳴蝉博士の研究室か。どんな人なんだろう」
僕は記憶を探りながら、次に挨拶をしに向かう博士の研究室へと歩みを進めていた。鳴蝉博士。どんな人なのか、他の職員の皆さんに訊いてみたけど、なぜかはぐらかされて結局よく分からないままだ。ただ、挨拶回りに行くと告げると全員やけににやにやしていたのが気になる。じいちゃんからは「絶対にセミの話はするなよ」って釘を刺されているけど、結局どういうことなのか分からない。蝉って名前が付いているけど本人自身はセミのことが嫌いなんだろうか?そんなことを考えている内に、件の博士の研究室の前についた。
……大丈夫。これまでにも変わっている職員の方と顔を合わせているんだ。僕は覚悟を決めて、研究室のドアをノックした。
「……はい、どうぞ入ってください」
中からは女性の声が聞こえてきた。普段なら相手が女性であると分かった時点で、ピジョンヘッドがない状態でどうしよう、なんて考える訳なんだけれど……今回は違った。
聞こえてきた声がいやに機械的なのだ。サンプリングした音声をつなぎ合わせたような違和感。これは本当に生の音声なのか、という疑念がふつふつとわき上がってくるが、鳴蝉博士を待たせるわけにもいかない。
僕は研究室のドアのノブに手をかけ、開き、挨拶をしようとした。
「すいません、失礼しま……あっ」
その途端、僕の肌を異様なまでの熱気が包み込み、耳を騒音が支配した。いきなりのことに脳の反応が追いつかない。そんな中で室内に目を向けると、肩にセミを乗っけた女性がすぐそこに居た。
「おや、見かけない方。新人さんですか?」
まだ理解の追いついていない僕を無機質な目で見つめながら、彼女……鳴蝉博士は、僕を研究室の中へと強制的に連れ込んだ。
「……なるほど、波戸崎博士のお孫さんでしたか。私は鳴蝉時雨といいます。この研究室には他に秋葉研究員やエージェント・涼代もいつもは居るんですが……今日はあいにく不在ですね。まあ、以後お見知りおきください」
「あっ、はい、よろしくお願いします……」
僕は軽い混乱状態に陥りながらも、挨拶をすることになんとか成功した。挨拶を返してくれる鳴蝉博士に対し、軽く頭を下げる。……そして僕は改めて鳴蝉博士の研究室の中を見渡した。飼育の為のカゴだろうか、その中に見たことのない種類のセミが沢山居るのが見える。圧倒される僕の様子を見て、鳴蝉博士は僕の前に水を差し出しながらこう質問してきた。
「……気になりますか?セミ」
気にならないと言えば嘘になる。でもじいちゃんから、セミの話は絶対にするなと言われているから言葉に詰まった。そんな様子を見かねてか、
「ああ、いいんですよ。どうせ波戸崎博士から止められているんでしょう、鳴蝉博士にセミの話は禁句だ……とか何とか。……私もこれでも大人です。節度は身に付けていますよ」
なんて、鳴蝉博士は軽い感じでそんな風に言った。……悪い人じゃなさそうだな。セミの飼育についても色々話が聞けたら、これからの仕事に生かせるかもしれないし。そんな軽い気持ちで僕は、ついに言ってしまった。
「それじゃあ、セミについて色々訊いてみてもいいですか?僕、動物の飼育が専門で……」
「もちろんいいですよ!まずセミというのは……」
食い気味に語り出す鳴蝉博士。僕が治療室で目を覚ますことになるのは、そう遠くない未来の話だった。
鳴蝉博士の長談義から熱中症という形で解放され、僕はふらつく足取りでただ歩みを進める。僕の入団挨拶回りはまだ終わっていない、次は土橋博士だ。異常なまでの忠誠心から財団狂と名高く、若くしてサイト管理者を勤める大変優秀な研究員であると聞かされている。頭がボールだとか、唐揚げに見えるとか、爬虫類であるとかそういった異常性は持ち合わせていない「比較的普通の人」という前評判を耳にして吐息を漏らす。唯一の不安は、じいちゃんから「絶対にSCiPの話はするなよ」と鳴蝉博士の時と同じような釘刺しを受けたことだ。……用心しておこう。
腹をくくって土橋博士の個人用オフィスのドアをノックする。
「どうぞ」の声に「失礼します」と応えてドアを開く。
「本日よりお世話になります波戸崎濠研究員と申します。よろしくお願いします」
「私はサイト管理を担任している土橋京一郎です。波戸崎博士からお話は伺っています。こちらこそよろしくお願いします」
正面のデスクに鎮座する土橋博士はそう自己紹介した。白衣の下に財団のシンボルマークが大きく中央に配置されたシャツを着ているところから察するに、「財団狂」の渾名は伊達ではないらしい。
研究室を見渡す。流石サイト管理者のオフィス、広い上に天井が高く、業務用の機材も潤沢に揃えてあるようだ。ただ、それら以上に圧倒されるのは、壁際にずらっと並べられた7段のガラスコレクションケースの群と、その中に綺麗に立ち並ぶフィギュアの数々。なんのキャラクターをモデルにしたものなのかは分からないが、どれも細部まで精密に立体化が施されており、品質は高そうに見える。
「1849だ……!」
「はい?」
先ぶれなくそう口にした土橋博士は、椅子から立ち上がり、一番奥のコレクションケースを開けて1体のフィギュアを引っ張り出した。「見て見て」と自慢の友達を紹介する少年のような純粋な笑みを見せつつ、土橋博士が僕に手渡したのは、鳥と人をごちゃまぜしたような造形の怪物のフィギュア。
「SCP-1849はね、テレパシー能力を持った大きな鳥なんだけどさ、頭部以外の身体の構造はどちらかと言えば人間のそれに近いんだよ。ほら、姿形がピジョンヘッドを被ってる君とそっくりだと思わない?羽毛の色もちょっと似てるしさ」
どうやらこのフィギュアは1849に識別されるSCPオブジェクトをモデルに作られているらしい。これと僕が似ているのだという。どう反応するのが正解なのだろう。
「……そうですね」
「でしょでしょ」
適当な同意を素直に受け取られて何だか申し訳ない気持ちになったが、折角なので漠然と察しがついたことを尋ねてみる。
「これらは全部SCiPの模型なんですか?」
「うん!」
わあ、と僕は感嘆の声をあげた。これほどの精巧なものならば、模型資料としても高い価値がありそうに思える。実益を兼ねた趣味、ということなのだろう。どのフィギュアがどのSCiPをモデルにしたもので、そのSCiPはどんな特異性を保有しているのか、研究員としてとても気になる。
「……気になる?」
「……」
デジャヴだ。鳴蝉博士の時と同じだ。ここで正直に肯首すれば、また治療室送りになるかもしれない。同じ轍は二度踏まなくて良い。ならば僕の答えは決まっている。
「いいえ、今日はこれで失礼しようと思います」
「ははは、さては波戸崎博士から勧告を受けたんですね。まあ、それなら仕方ありませんね。……良かったらそれ持って帰ってください」土橋博士は僕の手の中にあるSCP-1849を指差した。
「いいんですか?」
「ええ、それ布教用なので、むしろ持って行って頂けると嬉しいですね」
何の布教に用いているのかが気になるが、聞かないが吉と判断し、「頂きます」とだけ返す。貰えたこと自体は少しだけ嬉しく思う。
「改めて。ようこそ、財団へ。新人のうちは避けようのない災難に合って、理不尽に思うことも多々ある職場ですが、慣れればきっと気に入りますよ」
「はい、災難に挫けぬよう頑張ります」
僕はすっかり入団挨拶を無事に切り抜けた気になって、広がる安堵感に浸っていた。しかし、別れのお辞儀をするために、ピンと姿勢を正し、足先をきっちりと揃えたその時。
「失礼します」
突然背後から飛んできた聞き覚えのある機械的な声に、僕は濡れ手で背に触れられたかのように身を震わせた。振り返るとそこには、土橋博士のオフィスに入ってくる鳴蝉博士の姿があった。
「あら、波戸崎研究員、挨拶回りですか?」
「……はい」
トラウマがフラッシュバックし、思わず震声が出る。……しかし、怯える必要はない。蝉というワードを口にしなければ良いだけだ。そうして僕が地雷原を横断するかの如く慎重を第一に心がけていると
「お待ちしてました、鳴蝉博士。例の蝉届いてますよ」
僕の隣にいた土橋博士が地雷を踏み抜いた。「待ってました!」と鳴蝉博士が目を輝かせる。愕然とする僕の様子を見て何を思ったのか、土橋博士は状況を説明しだした。
「前々から取り寄せを要請していたSCP-1186の標本が今朝届いたんですよ。ああ、SCP-1186はセミ型のSCiPでですね。蝉の収集がご趣味の鳴蝉博士に標本が届いたら見せる約束をしていたんです」
「土橋博士!波戸崎研究員も蝉に興味があるらしいんですよ!動物の飼育が専門らしくて!」
「本当に!?じゃあじっくり教えてあげる!まず、SCP-1186と普通の蝉の違いについてだけど、外見上は……」
「博士!それなら私のオフィスで実際に比較してみましょう!」
「おお!いいねえそれ!波戸崎くんも行こう!」
エンジンのかかった彼らを止められるはずもなく、僕は2人に両腕を掴まれて連行されていった。避けようのない災難を理不尽に思って。
「波戸崎研究員じゃないですか!」
暑さの後遺症でフラフラする僕に背後から声がかかる。聞き覚えのない声だ。
「エージェント・波戸崎に聞きましたよ。挨拶回りしてるそうですね」
振り返ると警備服姿の女性が立っていた。まず目に飛び込んできたのは、揺れる青い三つ編み。その青はすがすがしい空のようだ。僕に向けられる笑みは陽光のようにきらきら光っているような錯覚を覚える。身長も高めで健康的でスタイルもよい。
印象的な女性だ、一度あったら忘れないだろう。
……僕は見覚えないけど!
「昼食は済ませましたか? このサイトの中庭、晴れてるとすごい心地いいですよ。朝は曇ってましたが、ちょうどお昼時に晴れましたね」
「え……あっは、はい」
彼女からすると僕は顔見知りのようだ。すごく積極的に距離を詰めてくる。つい僕は彼女の接近に比例して後ずさりしてしまった。
どうしよう。挨拶する相手がわかっていればある程度気持ちを落ち着けて挨拶できるが、こうも突然だと混乱して整理が追いつかない。
「あれ? 鳩のマスクはどこに? 確か二つありましたよね」
そうだ、ピジョンヘッド!
僕は白衣の裏からマスクを取り出すと、慣れた手つきで被った。視界が狭まり、迫る情報量が制限される。心拍数も落ち着き、ようやく頭の中がさえ始めた。
「おお、それですよそれ」
彼女は興味深そうにピジョンヘッドを見ている。
……この人、誰だ?
ピジョンヘッド越しに彼女を観察しなおす。
彼女が着ているのは警備部門の制服だ。腕章は検査員のもの。検査員はサイトに入る職員や来客の荷物をチェックし、いち早く異常を察知する役割がある。当然僕も荷物検査と身体検査を受けた。
となると、彼女と僕はそこで知り合った可能性が高い。そもそも彼女は僕がマスクを二つ持っていることを知っていた。
僕を検査したのは……女性の……三つ編みの……あっ。
「……朝夕検査員?」
「? はい、どうしたんですか、波戸崎研究員」
朝夕まづめ。
僕の身体検査を担当した検査員は、朝の陰鬱な曇った表情とは真逆の、晴れ晴れとした笑顔で答えた。
「――私の特異性についてはエージェント・波戸崎から聞いてると思ってましたけど、そうですよね。家族にだって財団職員が機密漏らすわけないかぁ」
朝夕検査員に案内してもらった休憩室。僕たちはベンチに座って、二人して缶コーヒーをすすっていた。
僕も飲み物も飲みたかったのでマスクははずして傍においてある。
「ごめんなさい、混乱させてしまったみたいで」
「え、いや大丈夫です。もっと……えっと、変わった人も見てきたので」
かなり財団には変わっている人もいると思ってきたし……そもそも同期が妖怪といって差し支えない見た目だ。
それに比べれば髪の色が変わる程度はかわいいものだろう。
「朝夕さんの髪は……天気によって色が変わる、ってことでいいですか?」
「ということらしいです。天気によっては気分もかなり上下しちゃって……私自身はあまりよくわかってないです」
気分の一言で済ませていいのだろうか。朝の無口な彼女と、いまの活発な彼女はまさに別人だ。
さらに髪をじっくり観察してみると興味深い。彼女の髪は色だけではなく、無風であるのに関わらず、風になびくようにゆれている。あとでじっくり人事と報告書に目を通してみる必要があるようだ。
「そういえば波戸崎研究員は動物専門だと聞きましたが、何か動物は?」
……さっきから彼女が僕に詳しいのは親父のせいだろうか。財団の機密は漏らさないくせに、僕の情報は彼女に世間話として話しまくっているようだ。エージェントとしては優秀かもしれないけど、父親としてはどうなんだ。
「え、ええ……いまは鳩を調教してます」
「鳩! いいですね、名前は?」
「エンリケ、っていいます。小型カメラをつけて、上空から写真を撮らせようと思ってるんですよ」
「へぇ……色々聞いてみて良いですか?」
それから僕はエンリケのこと、伝書鳩の調教について話した。朝夕検査員は適度に相槌を打ったり、興味を持った部分はいろいろと聞いてくれた。いままで色んな話を職員の方から聞いていた身としては、ここまで自分のことを話せたのは面接以来かもしれない。
「私もみてみたいなあ、エンリケ君」
「鳩ですから、珍しいものじゃないですよ」
朝夕検査員はピジョンヘッドを手に取り、じっと見つめている。エンリケとマスクを重ねてみているのだろうか。先ほどまで揺れていた彼女の髪は動きを止め、とても静かだ。
「私は……財団に入って珍しくないことの大切さを知ったなあ」
「え?」
「いえ、なんでもないです。……休憩時間が終わりそうなので、そろそろ失礼しますね」
彼女は無理やり話を切り上げると、空っぽになった缶を宙に投げる。空き缶は綺麗に弧を描いて、ゴミ箱に吸い込まれるように入った。
「面白い話を聞かせてくれて、ありがとうございました。エンリケ君、みせてくださいよ!」
「あ……はい。また今度……」
強引に約束を取り付けると、彼女はまるで風のようにその場から去った。
取り残された僕は彼女が残した言葉の意味を考え、缶コーヒーを口に含むのだった。
「あれ……マスクがない?」
ピジョンヘッドが手元にないことに気づくのは、しばらく後のことだ。
次に挨拶回りをする予定の人物の部屋へと向かう途中、ある人物が目に入った。
マスクを顎までずらし、ストローでペットボトルの水を飲むその人物はまるで性別の区別がつかない。だけど堀田博士のように美形ゆえに性別不明という訳でもなく、多少目つきが悪いが顔の作りはごく普通だ。
服装で判断しようにも下はキラキラしたラメが入った女性物のピンク色のガウチョウパンツ、上は背中側にデカデカと髑髏のマークが入った男性物の黒いパーカーであるため、これまた性別が分からない。それなら名前を見て判断すればいい、そう考えその人の首に下がっている名札に目をやった瞬間、完全に僕の足が止まった。
「う゛ー……」
足を止めた僕にさすがに注意を向けたのか、その人物は唸り声のようなものを上げながら僕を睨みつけた。
「なに痛ッ……ツー何か、用、ですか?」
そう声をかけてきたその人物、エージェント・古本の声を聞いても結局性別は判らなかった。
「では、古本さんは僕より一年早くこのサイトに勤めるようになったのですね。」
『はい、実際はレベル0時代があるからもう少し長いですけど。』
そう書かれたメモ帳、チラシの裏を再利用した手作りのもの、が僕の前に置かれた。
話を聞くと古本さんは非常に口内炎になりやすい体質らしく、普通の会話ですら苦痛が伴うそうだ。
今も口内が痛むのか、ときおり体がビクンと跳ねている。
一応痛み止めやシールを使えば普通に会話することができるそうだが、後遺症がひどいので本当に必要な時以外は使わないらしい。
『業種が違えど同じサイトで働いている以上、顔を合わせることもあるでしょう。今後ともよろしくお願いします。』
「はい、こちらこそよろしくお願いします。」
良かった、いきなり睨まれたから最初は怖い人かと思ったけど、こうして話してみると普通に良い人で安心した。口内炎のせいで少し変なところはあるけど、今日出会った他の職員の人達と比べたら普通過ぎるくらい普通だ。
でも、だからこそ僕はあることについて質問しなければならなかった。
「あの、噂で聞いたのですが」
"噂"
その言葉を出した瞬間、古本さんは「またか」と言わんばかりにため息をついた。
『自分の噂が何か?』
古本さんはそう話を促すが、左手は耳に付けている小さなリングイヤリングを弄りっており大して内容に興味がないことが見て取れた。
「古本さんが、その……僕の腹違いの姉だという噂を聞いたのですが……それは本当のことなのでしょうか?」
そう、まだ僕は数えるほどしかこのサイトに出入りしていないが、多くの古本さんに関する噂を耳にしていた。
別に意識して古本さんについて調べたわけではない、あまりにも噂話が多すぎて耳に入れないことが不可能なのだ。
その内容は
「古本は3代目財団神拳正統伝統者である」
「古本と良好な関係を築いた人間は100年以内に死亡する」
「古本は全てのDクラスの記憶を引き継いでいる」
「古本が見た夢が、全てのオブジェクトの正体である」
「古本の口内炎の数は、古本が生き返った数である」
「古本とは財団秘密部署の役職名である」
他にもいろいろと噂を聞いたが数えていたらきりがないほどだった。
そして耳に入ってきた噂話の一つに
「今度入ってくる新人研究員とエージェント・古本は腹違いの姉弟である」という噂があった
『あはははは』
古本さんがわざわざ笑い声をメモに書いて僕に見せてくるが、その顔はうんざりとした表情のまま変わらない。
『波戸崎さんはその噂を信じているんですか?』そう古本さんは聞いた。
もちろん信じるに値しないほら話だと思っている、父さんが義理固い男であることは知っているし、母さんとは長い付き合いを末に結婚したことも知っている。あの二人より仲の良い夫婦を見たことがないほどだ。それにこうして直接話してみた限り、顔も、体質も、性格も、古本さんと僕の間で似ている点は何一つ見つからない。
だからこの噂は根も葉もないほら話だ、間違いなくそう言い切れるはずだ。
しかし頭ではそう理解しても、何故か「もしかしたら」という思いが捨てきれない。
財団というこの場所は普通でないことが普通の世界だ、現に今日一日でいったい何人の普通じゃない人間と出会っただろう?財団やその職員たちのことを考えると父さんに隠し子がいるという噂の方がよっぽど真実味があるような気がしてくる。やはりこの人は本当に僕の姉なのではないか……いや、しかし……父さんが……まさか…ありえない………本当に?
「嘘、ですよ。痛ッー……」
深く考え込んだ僕が結論に達するより先に、古本さんはあっさりとそう答えた。そしてメモ帳にがりがりと次の言葉を書き綴る。
『自分の両親は佐賀県に住んでいて、自分には他に4人の兄妹がいます。』
『そして、自分以外の家族が財団と接触した記録がないことも調査によって証明されています。』
『それに、波戸崎さんと自分じゃ全然顔の作りが違うじゃないですか。』
『何より、自分に何らかの秘密や異常性がないことは、もう散々調査されていますよ。』
『だから波戸崎さんは自分の兄弟ではありませんよ。安心してください。』
古本さんが淡々と噂を否定していく。
その説明を聞くうちに、何故か僕の心の中にある疑念や不信感が消えていくのを感じた。つい数分前まであんなに悩んでいた事が嘘のようだ。
『自分に関する噂は全て嘘だと思ってくれて大丈夫ですよ、どこかの馬鹿が面白おかしく噂を流しているんだ。』
正直かなり不愉快です。そう書きながら古本さんは元々深い眉間の皺をますます深くさせる。
「すみません、不快な話をしてしまって。」
『気にしないください、けどこれ以上自分の噂話に加担しないでいてくれると嬉しいです。』
「わかりました、二度とこのような噂を信じないと約束します。」
そう答えると古本さんは非常にぎこちない、痛みに引き攣った笑顔を浮かべ。
「あり…がとうッ!ござい、ます……ッ゛。」と答えた。
『自分はフィールドエージェントだけど、頼まれたら補助員みたいな仕事もやっているから。』
『何か頼みたい仕事があればいつでも自分のオフィスに来てください。歓迎しますよ。』
「はい、その時はよろしくお願いします。」
『こちらこそ、よろしくお願いします。』
メモ帳を片手に古本さんが差し出した左手に応じて握手をする。
正直なところ、この噂のことが気になって挨拶回りのときも気が気でなかったので、古本さん本人に噂を否定してもらえて本当によかった。なぜあんなにくだらない噂を信じていたのか、思い返してみると我ながら自分の単純さにあきれてくる。
腕時計をチラリと確認して古本さんは
メモ帳で『すみません、自分はちょっと荷物を受け取りに行かなくてはいけないので。』
口で「これ、で失礼し゛ッ、…失礼、します。」と言った。無理して喋らなくて良いのに。
「あ、そうですか。忙しいところありがとうございました。」
「いえいえ、また、どこかで。」
こうして古本さんへの挨拶回りはごく普通に終わることとなった。
「あ!すみません。最後に一つだけ聞きたいことが。」
すでに後ろを振り向てい歩き出していた古本さんに声をかける。
あまりにも自然に会話していたから危うく聞きそびれるところだった。
「あの、失礼かもしれませんが・・・性別はどちらなのかなぁと。」
古本さんがこちらを振り返り……
「チッ!!!」
………………………え?………え?
し、舌打ちされた!?
その舌打ちの音はとても大きく、近くを通る人達が思わずこちらを振り返るほどだった。
古本さんは何かに耐えるかのように身を縮ませ、ワナワナとその体を震わせている。
俯いた古本さんの顔はマスクで隠れてしまい僅かにしか見えないが、その顔は鬼のように紅く、ギリギリと歯を食いしばり、憎悪と怒りに満ちたように見える視線をただただじっと床に投げかけている。
そしてその目の端からは絶えず涙がこぼれ落ち続けていた。
やばい、これは完全に怒らせた。しかもただ怒らせただけじゃない、間違いなく深く傷つけてしまった。
「あ、!あの!すみません。少し気になっただけで悪気はなかったんです!本当にごめんなさい!」
慌てて謝罪の言葉を述べるが、古本さんは表情一つ変えずに無言でメモ帳を取り出し、何かを書き込んでいる。
そしてそれを僕の目の前に突き出した。
『自分は女です、今の舌打ちは偶然出たものです。悪意はないので気にしないでください。』
「そ、そうですか。ならいいのですが・・・。」
だが古本さんの目はまだ涙でぬれているし、その額に刻まれた苦痛に満ちた皺は消えていない。
「あ…その……。」
謝罪を続けようと言葉を探している間に古本さんはさっさとメモ帳をしまい。
「う゛ー」
そう唸りながら手を振った後、そのまま立ち去ってしまった。
……あれは本当に、ただの偶然だったのだろうか?
古本さんはああ言っていたけれど、もしかしたら本当に嫌われたのかもしれない。
年齢もあまり変わらないみたいだし、意識しなかったとはいえピジョンヘッド無しでも自然に会話ができる数少ない女性でもあったので出来れば仲良くしておきたいと思っていたんだけど。
「次合った時が気まずいなぁ……」
今度お土産を持ってちゃんと謝罪しに行こう。
確か古本さんはレモンやミカンが好物だと"噂"で聞いた気がする。ということは酸っぱいものが好きなのかな?口内炎に良く効くとかそういう理由かもしれない。
あっ、と今更なが気づく。
もしかしたら古本さんにとって性別の話題は僕にとってのNGワードと同じものなのかもしれない。
だとしたら本当に悪いことをしてしまった、僕と違って暴れたりしなかったけど、
聞かれると嫌なことを聞かれる辛さは僕がよく知っているのに…。
二度と同じ過ちを起こさないようにしっかり覚えておこう。
そうだ、他の人にもこの事を伝えておいた方がいいかもしれない。
エージェント・古本は女性扱いされないとひどく落ち込む…と
「エージェント・古本が性別を間違えられることによって機嫌を損ねると1時間後に雨が降る」
「性別を間違えた人物を復讐リストへ加入し[削除済み]を行う」
「そもそもエージェント古本には性別の概念が存在しない口内炎人」という事実はありません。
また、エージェント・古本のオフィスに大量のレモンやミカンなどの柑橘類が放置されていました。
心当たりのある職員はサイト-81██人事部まで出頭してください。
「それでは、仕事で一緒になる事があった時はよろしくお願いします」
機動部隊の隊員が集まるロッカールームで、僕は深く頭を下げた。
僕は財団で研究員として働く時に、オブジェクトの収容前の状況も現地で調査したいと思っている。なんだったらエンリケを使って収容に協力もできるんじゃないかとも思っている。そうなると現場の機動部隊との連携は必須になると思うので、関係は良くしていきたい。
「うん、まぁ俺達のチームはそこまで人数多くないけど、機動部隊の数は多いからな、挨拶回り頑張ってくれよ」
「はい、それでは失礼します」
僕はロッカールームから出ていこうとした。すると1人の隊員が口を開いた。
「あれ、弾除けの奴いなくねぇか?」
弾除け?
「え?あ、本当だ。でもあいつは別によくないか?」
「まーあいつは置いといて、月国さんくらいは教えておいた方がいいんじゃないか?」
「そうだね先に月国さんに会えば泥云について教えてくれるだろうし」
つきぐにさん?どろうん?
「えーと、この部隊にはあと2人隊員が居るんですか?」
僕は尋ねた。
「あー、うんそうだね。あと2人いる。多分トイレだと思うけど、そのまま帰っちゃうと思うから呼ぶね」
隊員の1人がそう言いながら携帯電話を取り出す。
「え、そんなすいません。場所を教えてくれれば僕の方から行きますんで、呼ぶまではしなくて大丈夫ですよ」
「ん?そう?」
そう言いながら隊員の1人が電話をかけると今僕たちが居るロッカールームの床に落ちてる携帯電話が鳴った。
「あ……」
取りに来ると思うから待ってていいよと言われたけれど、ただ待っているのも落ち着かないので僕はロッカールームを後にして廊下を歩いている。機動部隊の人はやさしい人達だったのだけれど、まだ初対面であり体育会系のノリについていけず、あまり居心地は良くはなかったのだ。
一応月国さんという人の特徴は聞いたのだけれど、1人では会わないほうがいいと言われたので、また後日伺う事にした。
廊下を歩き続けていると、前方の男子トイレから男が出てきた。月国さんの話の時に「多分トイレだと思う」と隊員の1人が話してた事を思い出した。
黒い半袖のティーシャツに黒いミリタリーパンツ、そして黒いキャップ。聞いていた月国さんの服装と完全に同じだ。手を洗った後のようなので、手を振って水気を取っている。
「月国さんですか?」
しまった。1人で会うなと言われたのを忘れていた。
「……」
顔にいくつか痣のような物が伺えるその男は一瞬目を合わせたが、男は何も話さずに僕に背を向けて歩いていった。どうやらこの人ではなかったようだ。そもそも聞いた月国さんの情報では気さくな性格であるそうなので、間違いなくこの男は違うのだろう。
あれ、そういえばあの機動部隊のチームで僕が会ってない人はもう1人いたような気がする。会ってない人の1人は月国さんで、もう1人はたしか……。
「泥云さん?」
ピタリ、と男は足を止めて少し振り返った。どうやら当たっていたようだ。まさか月国さんと同じ格好をしていたとは。機動部隊の人達も教えてくれればよかったのに、でもなんか泥云さんの名前はあまり出そうとしてなかった気がする。嫌われているのだろうか?僕は1人で会うなという忠告は完全に忘れてしまっていた。
僕は泥云さんに駆け寄り、頭を下げる。
「研究員として新しく財団に入った波戸崎壕と申します。よろしくお願いいたします」
「……」
泥云さんは黙っている。僕は恐る恐る頭を上げる。
泥云さんは凄く険しい顔をしながら左手を服で拭い、その手を僕の前に出した。
顔が凄く恐いけれど、これは明らかに握手を求めてるように見える。だから僕も左手を前に出して握手をしようとした。けれど僕が泥云さんの左手を掴もうとした瞬間に泥云さんの手は僕の手を避けた。そして僕の手を避けた泥云さんの左手はそのまま僕の左肩をどついた。
僕はよろけて、倒れはしなかったけれどバランスを崩して1歩後ずさりした。そして泥云さんは僕をどついた左手を、そのまま少し後退した僕の眼前に突き出した。手の甲を僕に見せて指はたたまれており、中指だけまっすぐ上に伸ばされている。
「あ……え?」
僕は握手を避けられてからの一連の流れに困惑して固まった。
泥云さんは僕の眼前に突きつけた手を最後まで残すようにして背を向けて立ち去ろうとした。最後まで黙ったまま。
僕は恐いし悲しかった。そして虚しい気分。機動部隊の人達が1人で会うなって言っていたのはこれだったんだ。でもこんなのはチンピラに絡まれたようなものだ。もっと危険な人だっていたんだ。こんな事でへこたれていられない。気持ちを持ち直そう。
なんて事を考えながら僕は立ち去ろうとする泥云さんの動きを見ていた。僕の眼前に突きつけていた左手は腰の位置まで既に下げていて、たたまれていた中指以外の指を開こうとしていた。
が、その中指以外の指が開ききる前に泥云さんの右手が左手の中指を掴んだ。
そして泥云さんの右手は、泥云さんの左手の中指を手の甲の方へ折り曲げた。
「あぁあああああぁぁぁああああ!!!」
泥云さんは前かがみになり、うめき声をあげた。
突然の泥云さんの奇行に僕の落ち込んでいた気持ちは吹っ飛び、ただただ困惑する。しかし、泥云さんの奇行はまだ終わっていなかった。
泥云さんの中指を折った右手は指を放し、左手の手首を掴んだ。
「うぐぅっ!!」
まるで切腹する侍のように、泥云さんは自らの腹に左腕で肘打ちをした。
次に泥云さんの右手は左腕の手首を放し、ぐっと握り拳を作った。その拳が何をするのかはなんとなく予想できた。
「がぁっ!」
予想通り泥云さんの右手の拳は泥云さんの右頬をぶん殴った。
まだ終わらない。泥云さんはフラフラになりながら壁の方へ歩いていった。この廊下の壁はコンクリートでできている。その壁に手を当てる。
ゴッ。
「っ!」
泥云さんは壁に思い切り頭を打ち付けた。もはや声が出ていない。
ゴッ。
ゴッ。
「んぐぅ……」
合計3回壁に打ち付けた後に泥云さんはうめき声を漏らして地面に倒れた。
「……」
僕はどうすればいいのかわからず、倒れている泥云さんを見つめている。
もうこの場から離れてしまってのいいのではないかと思い始めた頃に泥云さんは急に立ち上がった。
「いやぁ、せっかく挨拶をしてくれたのに、非常に失礼な振る舞いをしてしまい申し訳なかった。普段は教育をする時は人目につかない所でするようにしているんだが、まさか泥云が挨拶をされる事があるとは思わなくってな。本当に申し訳ない。俺の名前は月国だ。よろしく頼む」
「え……?あ、はい。よろしくお願いします」
突然立ち上がった泥云さんはさっきよりでかく見えて、まるで別人のようだった。というかこの人、月国と名乗った?
「えーと、泥云さんではないんですか?」
「あぁ、知らなかったんだな、。二重人格でな。泥云と2人で1つの体を共有してるんだ。さっき泥云が自分をボコボコにしてるように見えたかもしれないが、あれは俺が泥云を殴ってるみたいなもんだと思ってくれていいよ」
そう言いながら月国さんは右手を前に出した。握手を求めてるように見えるが、さっきの事もあったので僕は恐る恐る右手を前に出す。すると月国さんは少し前に出した僕の左手を掴み取るようにして、力強く握手してくれた。
「そうなんですか……、その教育っていうのは月国さんは痛くはないんですか?」
「まぁー痛いよ。でも、もし体罰を正当化するなら、体罰する側も痛みを伴うってのは1つの理想なんじゃないかなって思うんだ。うん、自分で言ってて意味わかんないな。でも安心してくれ、あいつへの体罰は後遺症は残さず激痛のみを与える事に気を使ってるからな。この中指もそこまでの重傷じゃないよ」
「……」
月国さんの教育観はよくわからないが、とりあえず泥云さんと月国さんの事はなんとなくわかった。
「それじゃあ、今後とも俺と泥云をよろしくな」
月国さんはそう言うと力が抜けたようにガクリと上半身を前に丸めた。
「え?」
そしてゆっくりと上半身を起こした。その顔はさっき見た恐い物に戻っていた。さっきと違うのは痣が増えてる事ぐらいだろうか。この状態が泥云さんの人格なのだろう。
「……だ」
「え?」
泥云さんと思われる人は何かボソっと喋ったけれど、よく聞き取れなかった。少し泣きそうな顔をしているように見える。
「……泥云だ。さ、さっきはどついてしまって申し訳なか、申し訳ありませんでした。こ、今後ともよろしくお願いします」
そう言って泥云さんはゆっくりと左手を前に出した。それを見て僕も恐る恐る左手を前に出す。お互いに慎重に手を近づけているので凄く緊張する。手と手が触れて僕はゆっくりと泥云さんの手を握った。こんなに時間のかかる握手は初めてだ。
そして握手という儀式が成立したと見るや否や泥云さんはすぐに手を放し、僕に背中を向けて歩いていった。
僕は握手した手を少しその場に残し、ゆっくりと降ろした。
泥云さんは背中を丸めて月国さんに折られた左手の中指を右手でさすりながらトボトボと歩いていく。今喋っていた泥云さんの声は震えていて、遠ざかっていく泥云さんの後ろ姿は泣いているように見えた。
僕は泥云さんの背中を少し眺めた後に、その場から離れていった。
離れる時に泥云さんの方から「fuck」という言葉がかすかに聞こえたけれど、きっと気のせいだろう。
「やあ、ようこそ。波戸崎研究員!」
部屋に入った瞬間、クラッカーの発する爆音と、カラフルな紙のテープの洗礼に襲われた。
「な、なんですかこれ……?」
ピジョンヘッドに絡みついた紙テープを払いながら、目の前で笑っている男を見る。冴場博士、その人だ。
親父からイタズラ好きだと聞いていたものの、出会い頭に仕掛けてくるとは思わなかった。僕が唖然としていると、博士は申し訳無さそうに紙テープを取るのを手伝ってくれた。
「ははは、ごめん、ごめん。ちょっとした歓迎のつもりだったんだよ、さあ座って」
「は、はい。失礼します」
「僕は冴場春樹、仕事はまあ……皆の仕事をしやすくすることと、ちょっとしたカンセラーみたいなことだ」
「あ、ありがとうございます……、おや……いえ、父や祖父からもお話は伺っています」
「エージェント・波戸崎さんとは良くフィールドワークをしたからね……おっと、ブランデーは苦手だったかな? ごめん、普通の麦茶をあげよう」
冴場博士からカップを受け取り、部屋へ招かれる。部屋の中は何処と無く、オフィスというより居間という感じでとても落ち着いていた。ピジョンヘッドを脱いでカップに口をつけると、中身は温かい紅茶のようで、どこかアルコールっぽい風味。いきなりのアルコールに少し驚いていると、博士が冷えた麦茶を持ってきてくれた。
それから暫く……きっと1時間くらいだろう、何気ない雑談や、世間話に織り交ぜて、財団職員としての親父やじいちゃんの話を聞かせてくれた。
自分の知らない親父たちの一面を楽しそうに話す博士は、ちょっと子供っぽい。そうして時間が過ぎていった。
「ああ、ところで波戸崎君。君は財団に入った目的というか、目的意識みたいなものはあるかい?」
ふと何かを思い出したように、向かいに座った冴場博士が、笑みを浮かべながら聞いてきた。
一般的には無邪気な笑み、といえる類のものだと思う。でも、何処か違和感があった。怖い、というか……自分の一番深いところを見透かされそうな表情だった。
「え、えーっと……目的意識ですか? えーと、うーん」
「例えば、Keterクラスの無力化に関わりたいとか、上級職員になって監督者になりたいとか、そういうのさ」
博士の表情から目をそらして、意識を巡らし自分の目的を考える、自分は一体何をしたいんだろう?
考え、考え、考えあぐねた末に、結局。
「うーん……特に、今はこれといって言えるものはないです……財団に入ったばかりですし」
何も出なかった。素直にそう答えると、博士は頷いて微笑んだ。まるでカウンセリングを受けているみたいだ。
「うん、そうだよね。入ったばかりだから、そりゃそうだ。でも、早いうちに何かしら決めておいたほうがいいよ。自分のためにもね」
「あ、このクッキー美味し、……えと、自分のため……とは?」
少し疲れた脳を癒すために、テーブルの上の砂糖の掛かったクッキーを摘む。博士からの目線が向けられている事に気づいて、僕は顔を上げた。
「そうだなあ、自分の保身のためだね。あるいは、自分の自我を守るため」
「それは……一体?」
「例えば君が、この後あるSCiPの担当研究者に任命されたとする。そのSCiPは週に10人のDクラス職員を消費しなければ、収容できない。更に年に1度は10歳未満の子供を捧げなくてはならず、その子供は愛情溢れた生活を経験した者でなければならない。君はそのDクラス職員の選定と、子供の選定を任される。その上、セキュリティ上そのことは隠匿されていて、知っているのは君一人。そういう実験に参加した場合――」
淡々と語る博士の口調に、僕は恐ろしいものを感じた。腹の奥からこみ上げてくるものを抑えこもうとして、大きくむせる。
口の中に嫌な味が広がった。
「……ああ、大丈夫。ごめんね、新人の君をいじめる気はないんだ。ちょっとした喩え話だけど、でも僕らが相手をしているのは”そういう現実”でね。そういうものから君を守るのが"目的意識"なんだよ」
博士は僕の背中を擦りながら続けた。
「実績を積みたい、功績を上げたい、世界の秘密を知りたい……そういった何かが、君をそういった残酷な現実から守ってくれる。あるいは……逃げ道を用意してくれるというのかな。だから、君は君のために、そういったものを持っておいたほうがいい、って話さ」
しばらくして落ち着くと、博士は一杯の水を持ってきてくれた。それで口をすすぎ、喉からくる嫌な匂いを押し戻す。
少しの間を置いて、壁に掛けられた時計が4時を告げる。時計のチャイムが、僕を濁った思考から現実へと引き戻してくれた。
「おっと、もう時間だね。さあ、そろそろ仕事に戻った方がいい頃合いだ」
「もし仕事に疲れたりしたら、またおいで。こうしてお茶を出して、話を聞くことくらいなら出来るからさ」
博士は僕にさっきつまんでいたクッキーの袋をお土産に、と手渡して見送ってくれた。
「あの、最後にひとつ伺ってもいいでしょうか。冴場博士は何故、財団に?」
ふと、扉を出るときに思いついたことを言ってみる。
博士は、少し考えた後に、僕にピジョンヘッドを被せながら答えてくれた。
「……うーん、それは秘密にしておいたほうが面白そうだね。またおいで。世間話の中でぽろっと喋っちゃうかもかもしれないよ」
見送られて部屋を出る。通路の窓から見える空は丁度暮れ始めていた。
渡されたクッキーの袋を開けて、かじってみる。コーヒーシュガーのような、ちょっとほろ苦い甘さ。
このクッキーを食べきった時、この甘さを求めてまたこの扉を開くような……そんな気がした。
いい加減奇妙な人たちに挨拶回りをする事に疲れた僕は、先輩研究員の中でもごく普通、とされる人のところに向かった。来栖朔夜研究員/セキュリティクリアランスレベル2/Cクラス職員/Safe,Euclidオブジェクトの研究専門。今はオフィスに居るらしい。
セントリーガンや監視カメラのものものしい警備を認証でパスしてオフィスに向かう。オフィスの分厚い対爆ドアの横には、来栖、とだけ簡明に表示された名札がはめられていた。インターホンを押して来室を告げると「ちょ、ちょっと待って下さい」と可愛らしい声がした。
しばらくしてドアが金属的な解錠音と空気の抜けるような音を立てて開く。そこにいたのは、黒いリクルートスーツを着こみ、財団の身分証を首からぶら下げた、中学生に見える女性だった。
「波戸崎さんですね。来栖です。よろしくお願いします」
ぺこりと、ボブカットの頭を下げて来栖研究員は挨拶をする。先輩から先に頭を下げられるのは恐縮だったので、僕もピジョンヘッドを脱いで挨拶しようとした矢先に「あ、よければそれは脱がないでください。わたし、人の顔を見て話すのが苦手なんです」と来栖研究員は言った。
お言葉に甘え、ピジョンヘッドのまま会釈をする。僕も女性恐怖症で、ピジョンヘッドがないと女性とは話しづらい。来栖研究員は軽度の対人恐怖症だというから、同病相哀れむという気分が胸から湧き上がってきた。
「ところで波戸崎さん、大事な話があるんですが」
来栖研究員はピジョンヘッドをまっすぐ見つめていった。語尾が若干震えているのは気のせいだろうか?
「なんでしょう?」
「その……挨拶回りは色々まずいことになるから深入りしないほうが良いです」
来栖研究員はためらいがちに言ったが、実際にまずいことに何度も遭遇した僕としては首肯せざるを得ない。
「いや、実際人間離れした職員の方々に出会って、本当に疲れていたんですよ」
「それもありますが、その、任務上の問題もありまして」
「というと?」首を傾げる僕に、来栖研究員はぼそぼそと喋り始めた。
「ここで働いている皆さんと、必要以上の接触は控えたほうが良いと思うんです。好悪いずれにせよ感情移入してしまいますし、Cクラス職員は常にオブジェクトからの生命精神の危険に晒されています。仲良くなった職員が狂ったり死んだりしたら、波戸崎さんは悲しくないですか? 私は悲しいです」
「……」
「嫌いな職員が死ねばどう思いますか? 私は後ろめたくも嬉しいと思うでしょう」
「……」
来栖研究員の指摘ももっともだ。僕が挨拶回りした職員たちはみな個性的で嫌悪すら感じられる存在だったが、みな本質的に悪い人では――あの糞野郎博士を除いては――なかった。だから、親愛の情も移るところがいささかあった。
もし彼らが死んだり狂ったりしたら、僕はどう思うだろう? 悲しむだろうし、あの糞野郎博士が死んだなら心から喝采を浴びせるだろう。
「……そうですね。来栖さんの仰るとおりだと思います」
頷く僕に来栖研究員は畳み掛けた。
「過剰な感情移入は業務の障害になります。例えばあなたがA.猫宮の瀕死の場で猫宮さんに感情移入していると、冷静な判断ができなくなります」
「ええ」
「彼女は事実上不死なんですが、そういった理性的判断が消し飛ぶ恐れがあります。それが私達の業務にどれだけ悪影響を及ぼすか、考えてください」
「……」
僕は来栖研究員の言いたかったことがなんとなくわかった。
「つまり、他の職員とはあまりプライヴェートな親密さを求めてはいけないということですね?」
「えっと、そうです。些細な判断ミスが致命的事態を生みかねない、それが私達の業務ですから……」
僕は思った。こういうスタンスで仕事を進めている来栖研究員は、孤独で寂しい人だと。だけどそれにより、自分の心を守っているのだと。その心の壁は厚くて、僕がどうこうできるものではないと。
だけど、僕は彼女とは違う感情を胸に抱いていた。それは様々な人々との出会いを通じて生まれ出てきたものだった。
「ご忠告、感謝します。ですけど僕は来栖さんのようにはしません。親密さが生む誠意や好感が、財団業務のプラスになると思うからです」
僕は胸を張り、はっきりと告げた。
「そうですか……止めはしません。そう言う考え方も、ありえますね」
来栖研究員は少し唇を歪め、ぎこちない笑みの体を取り、「私には真似できませんが、頑張ってください」と僕を激励した。
来栖研究員のオフィスを出てしばらくの間、僕は彼女が言った意味を考えていた。"過剰な感情移入は業務の障害になる"……。彼女にはああ応えはした、自分の気持ちも変わらない。でも僕には、業務に支障を出さないかどうかは確約できない。それはとても不誠実なのではないだろうか。
ため息を一つ吐く。うだうだ考えていても仕方が無い。気持ちを切り替えて次の人の所へ行こう。そう思いながら、ずれたピジョンヘッドを直すと、
「やぁ」
背の小さい、カーキのコートを着た人がいつの間にか目の前にいた。
黒いマスクに目深に被られた帽子。どう見てもサイズの大きいコートに身を包んだその人は、何気ない通りすがりのような雰囲気で、そこに居た。考え込んでいた所為で気付かなかったのだろう。僕は少し慌てて、軽く会釈する。
「ど、どうも。えっと……あなたは?」
「君は新人かね? 見ない顔だ」
質問を無視してその人は訊いてくる。少し高めの、声変わり前の少年みたいな声が耳に付いた。
「はい。今日から財団で働くことになった波戸崎濠、研究員です。よろしくお願いします」
とりあえず、そう挨拶しておいた。まるで少年のような出で立ちだけど、首からIDカードを下げているし、この人も職員の一人だろうと考えてのことだった。生憎、IDカードはポケットに仕舞われていて、名前を確認することは出来ない。
その人は僕の言葉など聞いていないかのように、ふむ、と言ったきり暫く黙っていた。名乗りもしないでじっと僕を見ている。表情が分からない所為か、無言でいられると居心地が悪い。先に会った五月蠅さんは、妙な人ではあったけど、マスクをしていても取っつき難さは無かった。海野さんはなんかそういうのとは違うし、ヤマトモさんはヤマトモさんだし……。とにかく、この人は正しい意味で顔を隠している。それがとてもやり辛い。
ふと思う。もしかして、僕も他の人からそう思われたりしているんだろうか。顔を意図的に隠していると? ……そうかもしれない。そう思われているかもしれない。もしそうなら、やっぱりマスクをした挨拶するというのは失礼に当たるんだろう。
これはピジョンヘッドを外して、僕の方からちゃんと挨拶した方がいいな。そう思い始めた矢先、その人は僕を指差してこう言った。
「君も猛獣を飼っているな」
「……へ?」
突然一体何の話だろう? 猛獣? エンリケは猛禽類じゃない、鳩だ。いや違う、そもそも、まだそんな話はこの人にしていない。僕は初めてこの人に会ったし、向こうも僕を知らない筈なのに。
思考に空白が生まれる。その隙にその人は一歩退がった。まるで僕の行く先を遮るように。そこで初めて、周りに人気がないことに気が付いた。
「やぁ同類、私の話を聞いて行き給え。私の名前は烏丸、以後宜しく」
そう言いながら、その人、烏丸さんは少し帽子の庇を上に上げた。
一言で表現するならば“苛烈”だろうか。庇の下から覗いたのは、炯々とした灰色の瞳。鋭いというよりは突き刺さり、抉るような視線に、ぐっと息を飲む。
知らず緊張しそうになる体を宥める。落ち着け、もっと冥い目をしてた人だっていたし、もっと明らかに異常な人間にだって今までに会っている。挨拶回りでこれまでに会った人達を思い出しながら、握り締めかけた手を緩める。
これも成長と呼ぶのだろうか? 変な人に沢山会ったおかげで、多少の事では慌てないようになってる気がする。僕が財団に、この少し妙な人ばかりが働くこの場所に、慣れてきているということなら、それは喜ぶべきことなのだろう。
烏丸さんはパンと手を一つ打つ。
「何故、我々のような職員はマスクを付け、仮面で顔を覆い、顔を隠すのだろうか? 半分ほどの人間はそれが必要だからだが、それは常では無い。私もまた、顔を隠す明確な理由を持たないが、君はどうだろう。否、これはただの確認さ。君がマスクを着けているという事実が重要なんだ」
まくし立てるような早口で烏丸さんは言う。
「仮面が遮るのは外界と己をとだ。己の皮膚一枚下に隠したソレを、隠しておきたいから仮面を被るんだ。もしくは、隠す事で何らかの利益を得る。それは例えば自身のキャラ付けであったり、より分かり易い記号や、人間関係に関する不要な摩擦を低減する為だ。つまり、自衛の一種だね」
「自衛……」
「君は何故マスクを被る?」
僕は、いや何も隠していない。隠してなんかない。ピジョンヘッドは、あくまでもエンリケ達の飼育用だ。そりゃあ少しばかり女性への対応はアレだけど、他に意味なんて……本当に?
「……っ」
自分が深く考えこみかけてることに気が付いて、意図的に思考を払う。これは……あまり考えない方がいいことだ。
「すみません。僕、今挨拶回り中で……」
急いでるんです、と言外に告げて、僕はさり気なく烏丸さんの横をすり抜けようとした。いや、本当は来た道を戻るべきだったのだろうけど、烏丸さんが前方から来たならそれは避けたかった。とにかく僕は、早くこの人から離れたかった。
「そう邪険にせんで欲しいな。私だって挨拶すべき相手だ、だろう?」
烏丸さんは一歩後ろに退がるだけで、再度道を遮った。確かにそうだ、おざなりなのは良くない。そう思ってしまい、反射的に距離を取ろうとした足を止めてしまう。さっきよりも近い距離の烏丸さんは目を細めて、一見するとにこやかにしている。
「緊張しなくて良い、ただ君と言う人間に興味があるだけさ。正確には、君が内側で飼ってる獣にね。
その薄い皮膚の下に何を隠している? 君が飼ってるのはどんな猛獣だい? それはどの位凶暴かな? 君は、君の中の猛獣に何時になったら喰い破られるんだい? 出来れば日取りを教えて欲しい所だね」
言葉の意味は良く分からなかった。だけどその物言いには、まるで面白がって蛙を引き千切る子供のような純粋な好奇心と、ただひたすらの悪意が込められていた。細められた瞳は酷く冷徹で、淡々と僕の行動を観察しているようだった。
この人は、本当の意味で僕に興味がある訳じゃない。"通りがかった路上の石の形がちょっと珍しい"位の意味合いで、興味を示している、ただそれだけなんだ。
「何の話をしているのか、僕にはさっぱり分かりません」
意識して少し強めの口調でそう言う。僕が怒ろうが、突然泣き出そうが、きっとこの人は驚かない。いやそれどころか、今僕が突然殴りかかろうが銃で撃とうが、大した興味は持たないのだろう。なのに興味があると言って、僕にちょっかいをかけてきている。
この人は、危険だ。
そんな僕の考えを知ってか知らずか、烏丸さんはくつくつと喉の奥で笑う。まるで愉快だと言いたげに。
「そうかい。じゃあ、自覚出来ていないのならば、自覚させてあげよう」
がっ、と襟首を掴まれ、引き寄せられる。反応出来なかった訳じゃない。でも、体格差から自然と膝を曲げる形になり、マスク越しに睨み合う構図になる。コーヒーに、僅かに混ざる鉄錆の臭いがした。
「いいか。マスクの下の素顔を、多くの者は知りたがる。だが我々が隠すことを決めた以上、"本当の素顔"なんて物は彼方に押し遣られ、皆の認識する外側だけが我々を意味する記号に成り上がる。そこにそれ以上の意味など無い。君が思うほど、君自身は必要とされていない。在るのは、その鳩の外面丈だ。外面しか皆は見ない。素顔を見たがる連中なぞほんの一握りに留まる。誰も君にそこまでの興味を抱いていない。人間はそこまで他人に気を払えない。
然る後、君の内面は外界に曝される時間が短くなれば短く成る程、この命題に回答する事が出来なくなる。素顔何て必要とされないからこそ、簡易の記号であるマスクを被る事を習慣付けていく。君の意識はそのマスクの内側に矮小化し、"表情を悟られない"事を楽にし始め、その状態を保とうとして仕舞う。無意識の内にマスクを持ち歩いたりしていないかい? 気が付くと被っている事は? あるだろう。あるに決まっているんだ、君はそういう人種だ。
そうして外界との間に壁を作って、扨何に成る? 君はその内に嫌に為って行くのだ。"君自身"を一切見ようとせず、"鳩マスクの研究員"としてしか見ない連中が。君を理解せず、上から目線で物を言うばかりの連中が。自身が有るが儘にいる事を中々許してくれない連中が。厭に為るに違いないのだ。
そして君は自由で在りたいと願う。何も考えることせずに連中を排除してやりたいと、願う。願う度に心情の苛烈さは増し、収まり切らない儘その鳩マスクから溢れ出る。それが君の中の猛獣だ」
ぐっと首元が更に締まる。至近距離で覗き込んだ灰色の瞳は底なしに昏く、吐き出される言葉は泥のように重い。息も吐かせずに叩き付けられるそれは一種暴力的だ。僕は身じろぎも出来ずに、ただ茫然としていた。
これは毒だ。聞き続けるべきじゃない。でも耳を塞ぐことすら、僕には出来なかった。
「我々は自由で有るべきだ。我々は己を偽る事をしてはいけない。でなければ正気でいられないんだこの財団では。何れ君は身の内の“獣”に喰われる。喰われ尽くし、成り代わられ、その外面に相応しく変容していくのだ。君は何に成るんだい? 己の内面に目を向けてみろ。そこに何が在るのかを自身で──」
「教授、何また人を誑かしてるんですか」
遮るようにかけられた声に、意識を戻される。見れば、白衣の女性がこちらにやって来るところだった。烏丸さんは僕を掴んでいた手をパッと離して、直ぐに帽子を目深に被り直す。
「やぁ。予想より早く来すぎだよ、白月君。あと5分は掛かる筈だろう? 今とても良い所だったのに」
僕もそこでハッとして、ピジョンヘッドを被り直す。白月と呼ばれた研究員風の女性は、少しぎこちない足取りでこちらへ歩いてくる。
「ほー、それは自供ですか?」
「口が滑った」
「自供なんですね」
白月さんと話しながら、烏丸さんはさり気なく僕から距離を取る。それに疑問に思っていると、いつの間にか近くに来ていた白月さんが僕の顔をのぞき込んでいた。
「大丈夫ですか? 変なこととか、変なこととか、変なこととか吹き込まれてません?」
「う、あ、えっと、大丈夫、です」
思わずそう応える。何故大丈夫だと言ったのかは分からない。悪夢から目覚めた朝のように、頭が混乱している。二日酔いみたいな、最悪の気分だ。
そんな僕の様子を見てか、白月さんは心配そうな顔をする。その表情に何だか少しだけ安心する。
「心配なら、後でカウンセラーに相談すると良いですよ。教授と話した後にちょっと気が変になっちゃう人、多いので」
軽い言い方に安心感をひっくり返され、背筋が凍った。烏丸さんと話すと? ちょっと? 気が変に?
なんだ、それ。
「いえ、全然大丈夫です。じゃあ、僕先を急いでいるので、失礼します」
意識せずに口をついて出た声は、まるで僕じゃないみたいに酷く冷たく感じた。そのまま、二人とすれ違う。今度は烏丸さんは何もしなかった。
去り際、じっと烏丸さんを見つめる。先程まで僕を苛烈に追い詰めようとしていたその人は、まるで何も無かったような雰囲気で、白月さんの荷物を引き受けているところだった。
「ん? どうかしたかい?」
「いえ……何でも、ないです」
こういう人もいるんだってこと、しっかり覚えておかないと。
「そうかい。ではまた、波戸崎君。講義か何かで遇うだろう」
案外あっさりと手を振って、烏丸さんと白月さんは僕が来た方向へと歩いて行った。後姿を見送って、僕も歩き出す。
そこで、ようやく僕は、“烏丸教授”について二つ忠告されていた事を思い出した。いわく、『二人きりになるな』、『もしなったら、奴が良く分からない事を言い出した時点で黙らせろ』。僕はその両方を守れなかった訳だ。
ぐっと胸元を掴む。どこか、烏丸さんの言葉に、賛同しかけている自分がいやしないだろうか。探ってみても、"猛獣"と呼べるような強い感情は湧いて来ない。あの苛烈さは、僕の中には、どこにもない。
“何れ君は身の内の“獣”に喰われる。”
僕はピジョンヘッドを被り直した。
自分からやり始めてこう言うのもあれだけど、挨拶回りは散々だ。財団職員が変わり者だらけという話は親父からもじいちゃんからも聞いていた。聞いてはいたけど、変わり者とかいうレベルを遥かに越した人間……いや人間と言っていいのかもわからない職員もいたけど、とにかくそんな職員に振り回されてばかりだと流石に気が滅入ってきた。
とはいえ、ここで止めてしまえばいいのかというとそうもいかない。挨拶回りを中途半端に止めてしまえば、「○○博士には挨拶したのに自分には挨拶してくれなかった」なんて無用な悪印象を抱かれてしまうかもしれない。最早止めるには遅すぎたんだ。
そんなことを考えながら、僕は次の挨拶するべき部屋に着いた。ここは……『実践的部門間高度連携研究ユニット 第1ユニット室』らしい。プレートにはそう書いてある。長い。舌を噛みそうな名前の場所だ。
せめて次の職員はマトモであってくれ、そう強く願いながら僕は扉をノックし—
ガラッ
—ようとした。しかし扉は僕の手が触れる前に開き、対象を見失った手は宙を舞った。そして中にはリモコンのようなものを自分に向けている男性が、椅子に座ってこちらを見ていた。
「こんにちは、波戸崎君。どうぞ中へ入ってください」
「どうもどうも、私は三人影留と申します。三人博士とでもお呼びください」
浴衣に下駄姿という何とも研究者らしくないその男性は、僕にお茶を出そうと準備しながらそう自己紹介した。
「えっと、僕は波戸崎です。波戸崎壕といいます」
「よろしく、波戸崎君。いやーしかし挨拶回りでしたっけ?殊勝な心がけというかなんというか……今まで誰に挨拶してきたんです?」
そう問われて僕は今まで挨拶してきた職員の名前を挙げていった。挨拶した結果何が起きたかまでは語らなかったのに、名前を挙げていくだけで三人博士が段々苦笑いし始めた。
「あー……まあ、はい。大体わかりました。そりゃしんどかったでしょうね」
「はい……正直ここまで大変だとは思ってなかったです」
「ここ変な人しかいませんからねぇ。まあ皆さん好き好んで変になってるわけじゃないでしょうけど」
ああ、やっとマトモな人に会えたかもしれない。段々緊張が解けてきたぞ。
「そういえば表のプレートには『ユニット』って書いてあったんですが、他の方はいらっしゃいますか?」
「ああ、隣の第2ユニット室に一人いますね。彼とは別にもう一人いますけど……まああの男には会わなくていいです。十中八九失礼なことしか言わないでしょうから」
「そ、そうなんですか。えっと、お名前は?」
「二人とも三人影留ですね」
……ん?
「えっと、二人ともですか?」
「はい。隣で寝てるのが三人研究員、外で今ほっつき歩いてるのがエージェント・三人です」
前言撤回だ。マトモじゃない。
でも今度は多重人格かクローンか……予想がつくだけ良かったけど。
「そう……ですか……そしたら三人研究員には後で挨拶してもよろしいでしょうか」
「ええ、結構ですよ。……ん~?」
「どうしました?」
「いや、茶葉を切らしてるみたいでしてね……そうだ、ちょっと今のうちに三人研究員と挨拶していてもらえますか。その間に買ってきます」
「あ、はい。わかりました」
三人博士は第2ユニット室の中へと消えた。三人研究員を起こすためらしい。
それにしても、三人とも同じ名前っていうのはどういうことなんだろう?クローンなら名前を分けた方がいいだろうし……多重人格でも同じ名前を名乗るってことはあるのかな?
そんなことを考えていたら、扉の向こうから声が聞こえてきた。
『入っていいよー』
何か違う。博士と同じ声のはずだけど……何と言えばいいかわからないがとにかく何かが違う声だ。
僕はボタンを押して扉を開き第2ユニット室へと入っていった。と同時に、第2ユニット室と廊下を繋ぐ扉が閉じた。
「んー……ねむ……ああ、三人博士ならもう行っちゃったよ。そこの扉からね」
僕が不思議そうに扉を見ていたせいか、パジャマ姿の人がそう教えてくれた。
「僕は三人研究員。よろしくね、波戸崎くん」
「よ、よろしくお願いします」
同じ顔、同じ体格、同じ髪型、同じ声だ。三人博士が浴衣を脱いでパジャマを着たようにしか見えない。けど、何か……何かが違うような……
「ねーねー波戸崎くん」
「は、はいっ!」
ぼんやりしていたら突然覗きこまれて、変な声が出てしまった。
「波戸崎くんのお父さんとお祖父さんも財団職員なんだっけ?」
「あ、はい、親父がエージェントで、じいちゃんは博士として働いてます」
「そっか、じゃあうちと似たようなことが波戸崎くんの家族でもできるんだ!」
似たようなこと?……そういえばユニットと言っていたけど、どうなってるんだろう。
「えっと……三人博士と三人研究員、それにエージェント・三人ってユニットなんですよね?どうやって協力してるんですか?」
「僕が博士の実験手伝いをして、あいつ……あ、エージェント・三人は博士の指示で情報収集してるんだ。エージェントに命令できるのは本来諜報機関だけなんだけど、博士にはエージェント・三人に対する直接的な監督命令権が移譲されてるってわけ」
「でも、うちのじいちゃんが親父と一緒に調査するときに、色々命令してるとこを見たことあるような……」
「多分それは命令じゃなくて、提言なんだよね。本来であれば他部署の人間、つまり研究者の指示をエージェントが聞く必要はないんだ。けど実際問題、オブジェクトに詳しい研究者の指示を聞かなきゃ調査にはならない。だから研究者は提言をして、エージェントその提言に自主的に従うって建前があるわけ」
「そ、そんな面倒な話だったんですか」
「そう、面倒でしょ?それで、そんなまどろっこしいことやめてちゃんと研究者とエージェントから成るチーム内で命令系統を完結できるようにしませんか、と提案したのが三人博士ってわけ。それが承認されてこのユニットが出来上がったのさ」
何だか訳が分かったような分からないような気分だ。もし研究員の話が事実なら、"三人影留"が"三人影留"に命令するためにこのユニットがあるということになる。それが承認されるというのは……どういうことなんだろう。単なる多重人格者ではないのかもしれない。
僕が一人で悩んでいると、隣の部屋と廊下の扉が開く音がした。誰かが入ってきたようだ。
「あ、博士帰ってきたんじゃない?」
「えっ、あっ、そしたら僕は戻りますね」
「うん。またねー」
何だろう、何が違うんだろう、そうモヤモヤとしたものを抱えながら僕はユニット室を繋ぐ扉を開いた。
扉を開くとそこには、パンツ一丁で何かを探す男がいた。
「博士……ええっ!?」
「ん?誰だ?」
誰だというのはこっちの台詞だ。パンツ一丁の不審者なんてこのサイトで見たことがない……とはいえ大体の見当はつく。何故ならその男は—どう見ても三人影留だから。
「えっと……波戸崎といいます。今挨拶回りをしてまして……エージェント・三人さんですよね?」
「ああ、そうだけど……波戸崎?……波戸崎ってお前か!おお!マジか!」
「え、あ、その……」
「アレ見せてくれよアレ!鳩頭の被り物!」
突然の要求に流石にたじろいで、第2ユニット室の方を振り返り三人研究員に助けを求めようとした。が、しかしそれは叶わなかった。三人研究員は既に部屋の中から姿を消していた。
これで確信を持てたぞ。僕が三人研究員から目を離してエージェント・三人を見るまでに、多分3秒もかかってないはずだ。その一瞬でパジャマを脱ぎ捨てて第2ユニット室から第1ユニット室に入り何かを探す素振りを見せる、そんなこと単なる多重人格者にできるわけがない。何かがある。この三人は何かを隠しているんだ。
そこまで考えて一つ疑問が生まれた。何でこの人達は一人が現れるともう一人は姿を隠すんだ?偶然なのかもしれないが……明らかに狙いすましたかのようなタイミングで姿を消している。僕はその疑問を胸に目の前のパンツ一丁の男に聞いてみた。
「あ、あの……三人研究員はどこに……?」
「いや、知らんけど……多分、食堂へコーヒーでも飲みに行ったんじゃないか?あいつ仕事入る前に眠気覚ましとしてよく飲んでるし」
うーん、やっぱりわからない。尤もらしい理由は出されても、何かが引っかかる。
「そんなことより、被り物見せてくれよ!もしかして今日持ってきてなかったりする?」
「も、持ってますよ。これです」
何でそんなにこのピジョンヘッドが見たいんだ……よくわからないがとりあえず見せてしまおう。僕はポケットからいつものピジョンヘッドを取り出してみせた。
「おお~!これか!いやー最近このサイトで鳩頭の被り物をした、不審な新人がいるって聞いてな!どんな面白いやつなのかと会ってみたかったんだよ!君のことだったとはなー波戸崎クン!」
不審というのもこっちの台詞だ……確かに不審かもしれないけど、パンツ一丁の男に不審と言われるのは流石に釈然としない。
「ところで何か探してたみたいですけど……どうしたんですか?」
「あー、博士にちょっと没収されたものがあってな。表に博士の不在表示が出てたから、忍び込んで頂戴しようかと思ったってわけ」
「へぇ……何を没収されたんですか?」
別に探すのを手伝うつもりはないが、好奇心から聞いてみた。まあそんなに大したものではないだろう。
「あ、知りたい?じゃあちょっと耳貸して」
「えっ、はい」
「没収されたのはー……」
…
……
「………!?」
何言ってるんだこの人!?何でそんなものを探して……
「いやー隣の部屋ベッドあるじゃん?ちょうどいいやって思いながら試してたら、博士に見つかっちゃってさー」
この人バカじゃないのか!?サイト内でそんなことする人間初めて見たぞ!?
羞恥心とか無いんだろうか……いやあったらパンツ一丁でうろうろしたりしないか……無いんだろうなぁ……
そう困惑してる僕のことなどお構い無く、エージェント・三人は僕に質問をぶつけてきた。
「そういえば波戸崎クンってさ、もう博士と挨拶はしたの?」
「え、ええ、まあ……ついさっきですけど」
「ふーん……どこ行くって言ってた?」
「どこ行くかは聞いてませんけど……茶葉買うだけみたいですしサイト内の売店とかじゃないでしょうか」
エージェント・三人のにやけた顔が固まった。
「……マジ?出張とかじゃなくて?」
「しゅ、出張……?いえ、普通に茶葉を切らしたから買うと……」
「マジかよ!な、何分前に出てった?」
「多分……12分くらい前だと思います」
「げぇっ!もう帰ってくるんじゃねえのか!?」
そう騒ぐとエージェント・三人は廊下への扉を急いで開き、外を見渡した。
「やっべ見つかった!波戸崎クン!そこのスーツ一式投げて!」
「え、ええっ!?」
言われるがままに、椅子にかかってたスーツとワイシャツ、ネクタイをエージェント・三人に向かって放り投げた。ああ、これこの人のだったのか……
「サンキュー!じゃ、また会ったらよろしくな!」
そう言い残してエージェント・三人は廊下へ駆け出していった。
エージェント・三人が駆け出していった数秒後、三人博士が下駄を鳴らしながら第1ユニット室の扉まで辿り着いた。どうやら博士はエージェントを捕まえるために走ったものの取り逃がしてしまったらしい。
「はぁー……全くあの男は……申し訳ない、波戸崎君。多分変なことを言われただろうけど、後で私がきっちり叱っておきますから許してください……」
「あ、いえ、大丈夫です。そんな変なことは言われてないですから」
「そうですか……それならいいんですが……あ、お茶淹れますからどうぞ適当な椅子に腰掛けてください」
そう言われて僕は足元の椅子に座った。エージェント・三人のドタバタ劇を見てしまったせいか、三人博士が本当にマトモに見える……結局ここの三人が別人なのかはわからないけども。
「そうだ、買い出しに行ってる最中、波戸崎君に聞いてみたいことを思いつきましてね。」
「何ですか?」
「波戸崎君って鳩飼ってるんですよね?調査の時に働かせているとか」
「あ、はい!現地調査をよくするんですけど、その時鳩に上空から写真を撮ってもらったり、伝書鳩の役割を果たしてもらったりしています!」
「ふむ……やっぱりこう、調教の過程では身体を鍛えさせたりもするんですか」
「そうですね!悪天候での飛行、長時間の飛行に耐えられるくらいには鍛えてます!」
鳩に興味を持ってもらえるとは思わなかった。三人博士とは話が合うのかも—
「鍛えた鳩って身が引き締まって美味しそうだなぁ……」
……この人にはエンリケを絶対会わせないようにしよう。
波戸崎が挨拶回りを始めて早一日、ふと窓の外を見れば陽が落ちかけている。
「ああ、なんだか大変な一日だったよなあ…、これから上手くやっていけるんだろうか」
変人変態狂人人外etc…、めまぐるしく出会う圧倒的な個性を持つ職員達に初日から気力を奪われる波戸崎。
休憩室で落ち着こうと飲み物を買うその肩を、誰かの手が叩いた。
「うわっ!」
「ごめん。驚かせちゃった?」
「あ、北条さん」
驚いて振り向いたそこにいたのは、三つ編みが特徴的な女性研究員。
名前は北条。波戸崎の同期であり、彼女も同様に今日からサイト配属となっていたはずだ。
「うん、波戸崎君、どうしたの?」
「あ、いや、その」
波戸崎は混乱する。こういうときに頼りになるはずのピジョンヘッドは朝夕検査員に没収されてしまっていた。
しどろもどろになる波戸崎に疑問の視線を向け、その手にピジョンヘッドが握られていないことに気づいたのだろう。
北条は慌てたように手を合わせ、頭を下げた。
「…あ、そっか! 驚かせちゃった? 波戸崎君が女の子苦手だったの忘れちゃってて」
「えう、あ、その、だ、大丈夫です、よ?」
しどろもどろになる波戸崎に北条は手を解くと、笑みを浮かべながら三つ編みを軽く弄る。
その笑顔に、波戸崎の心臓は不覚にも高鳴った。
「そっか、ならよかった。そういえば波戸崎君今挨拶回りしてるんだって?」
「え、あ、うん、せっかくお世話になるんだしと思って」
「すごいなあ…、私なんか気おされちゃって。…そうだ、ならさ、ちょっと息抜きに行かない?」
「へ? どこに」
「ある人達がね、ここ数カ月の新人さんへ向けてライブするんだって! たぶん新人はほとんど行ってるんじゃないかな?」
ライブ? 波戸崎の思考が一瞬混乱する。
ライブって、あのミュージシャンとかがやるアレか? いや、もしかして何かの隠語? というか、誰に会いに行くっていうんだ?
だが、その混乱は手を握る感触に吹き飛んだ。波戸崎の手を引き北条が有無を言わさず駆けだしたのだ。
「ほら、行こう! もう始まっちゃうよ! たぶん行ったらビックリしちゃうから!」
「え、あの、うええ!?」
波戸崎が北条に連れられて向かった場所は、喧騒と興奮に満ちていた。
財団内に存在する特別ホール。訓示やオリエンテーションなどに使用されるそこは、今、即席のライブ会場に様変わりしていた。
色とりどりの照明装置、見たこともないほど大きな音響装置。
まさしくライブ会場に様変わりしたそこは秘密裏に超常を取り扱う組織のモノとは思えない。
周囲に立つ様々な職員たち、サイト内の一体何割が集まっているのだろうという彼らを押しのけ、そのステージが見えたとき。
波戸崎の心は先ほどの非ではないくらい驚きに高鳴った。
「やっほー☆ みんな、今日はコウたちの財団新人歓迎ライブに来てくれてありがとー☆ みんな、楽しんでいってね♡」
「今日は私たち後醍醐姉弟のライブ、楽しんでいってください」
「早速行くぜ! 一曲目は…」
その舞台の上に煌びやかに照らされたアイドル、それはアイドルグループ。後醍醐姉弟。
波戸崎ですら知っている有名なアイドル三姉弟。何でこんなところに彼女たちがいるのか、困惑する波戸崎に北条が囁く。
「後醍醐三姉弟も財団の職員なんだって。しかもエージェント」
「…え、ええっ!?」
確かに波戸崎は挨拶回りのリストに後醍醐三姉弟、の文字を認めていた。
だが、だれがそれを日常に溶け込んだアイドルたちだと思うだろうか。
困惑が困惑を呼び、もはやこんがらがった糸のようになった波戸崎の思考に、音の奔流と熱狂が飛び込んできた。
きらびやかなアイドルソング、あたたかなバラード、熱を帯びたロック。
そのどれもが周囲の人間を包み、一つの渦を作る。
まるで会場全てを音の奔流が飲み込むように、音が、煌めきが、波戸崎の五感を支配した。
彼らの歌は人間賛歌を歌い上げる。たとえ強大な存在が相手でも、それでもと立ち向かい続ける人の尊さを、力強さを。
そこには波戸崎の困惑を全てどうでもいいと言い切るような力があった。
力が波戸崎の内部に入ってくる。全身から何かがあふれ出てくる。隣の北条と顔を見合わせて笑う。
思わずレスポンスを返し、手を振り、パフォーマンスに答える。彼女たちの動きには、それをさせる何かがあった。
一時間ほどで全ての曲が終わり、眩むような舞台のライトが消え、拍手が巻き起こる。
その中で波戸崎は自分が涙を流しているのに気が付いた。
高揚した表情で波戸崎を見た北条は気づいたのか、慌ててハンカチを差し出した。
「良かったね…って、は、波戸崎君?」
「ご、ごめん、北条さん、なんか、高ぶっちゃって」
テレビ越しには伝わらない熱狂、それを全身で感じ、波戸崎は高揚していた。
そして、そんな熱を伝えることのできる彼女たちがこの財団にいることを心から誇りに思った。
偶像、あやふやであいまいなその概念を、一心に理想と希望で表現したようなその姿。
今までに出会った誰よりも、波戸崎は後醍醐三姉弟に、アイドルという存在に、強く何かを感じた。
だが、その幻想は一瞬にして打ち壊される。
「はーい! コウたちのファンのみんな☆ 動かないでね?」
先ほどまでと同じ声がマイク越しにホールへ広がる。暗闇の中、職員たちに僅かなざわめきが広まった。
舞台にライトが点く。するとそこにはいつ着替えたのだろうか、エージェント装備に衣装替えした後醍醐姉弟が登場していた。
それと同時にホールの出入り口を武器を持った警備員が封鎖する。
「すいません、困惑させてしまっていることでしょうね」
「説明は姉ちゃんから入るから、あまり無駄な動きはするなよ、どうなるか保証はできないからな」
その言葉は脅しではない、勾の笑顔はそう語っていた。
「えっとね、コウたちがいろいろ探ってた要注意団体、そのスパイがここに潜入してるらしいの☆ こわーい♡」
「そこで無関係の方には非常に申し訳ないのですが、ここに誘き出させていただきました、落ち着いて指示に従ってください」
財団の敵となる組織は多数存在する、波戸崎もその概要くらいは理解していた。
しかし、実際それに初日で出くわすなんて…! 嘘ということはないだろう、でも、いったい、誰が?
同じように混乱する北条を横目に波戸崎は周囲を見回す、いったい何人いるのだろうか、百では収まらないだろう。
どうやってこの中から見分けるんだ…!?
そう考える波戸崎。勾の声が響く。
「で、そのスパイを見分ける方法なんだけどね、実はコウたちの歌に特定の人間以外へのキュンキュン音波を入れてたの☆」
その意味が波戸崎には分らない。いったい彼女は何を言っているんだろうと。
だが、その思考は、聞き逃せない言葉を聞いてしまう。
「つまり、コウたちの歌を聞けば財団職員さん以外は…、泣いちゃうの☆」
波戸崎の思考が白く染まった。
「…え?」
手が思わず頬に伝った跡をなぞる。
「…波戸崎、くん?」
まず北条が飛び退き、波戸崎の周囲からそれに気づいた人が離れていく。怯えたように、慄くように。
周囲の人間が見せた唐突な変化に波戸崎は薄く笑ってしまった。
「いや、はは、そ、そんな、嘘でしょう? 僕が? ほ、北条さ」
「近寄らないで!」
慣れ親しんだ職員からの拒絶、恐怖、それを向けられ立ち尽くす波戸崎。もはやさっきの熱狂は心の中から消え去っている。
そんな波戸崎の肩に手が載せられた。思わず振り向くとそこには魔女のような勾の笑顔が。
「波戸崎壕…、ゴウくんでいっか☆ 波戸崎博士のお孫さんだったっけ?」
「え、あ、はい…」
「もう! コウはすっごい残念☆ まさか大切な仲間がスパイだったなんて知らなかったよ、コウちゃんのおばかさん!」
「え、あ、あああああッ!? ち、違うんです! 僕は!」
思わず叫び、身じろぎして逃げ出そうとしてもその手はまるで万力のように波戸崎の肩を離さない。
先ほどまでは誇りだと思っていたその笑顔が、その声が、波戸崎には死神の宣告に聞こえる。
何とか自分の潔白を証明しないといけない、だが、困惑する波戸崎の思考は何らそれの解決策を出しはしなかった。
「じゃ、悪いんだけど行こうか☆ だいじょーぶだいじょーぶ♡ 簡単に殺しはしないと思うよ☆」
「い、あ」
もはや波戸崎は言葉も失った。誰かの絶叫が聞こえた気がした。勾は笑っていた。
視界の端で、北条が三つ編みを弄るのが見え。
「キョウちゃん、ケンちゃん、そこの女の子☆」
「了解です、剣」
「おう、おらっ!」
「!?」
次の瞬間、剣の蹴りが北条の側頭部に炸裂した。
一撃で意識を刈り取られたのだろう、北条の体が床に倒れこむ。
「…え?」
「あと警備員ちゃんたち☆ そこのやせぽっちのオジサンと、眼鏡のおにーさん、赤い髪飾りの女の子もおねがーい☆」
勾の言葉に操られるように、警備員たちが次々彼女に指された相手を拘束していく。
「あ☆ ごめんね、ゴウちゃん!」
途端に手を離され、波戸崎は尻もちをつく。
何が起こったのか理解できていない波戸崎は、倒れこんだ北条に手を出そうとして鏡に止められた。
「え、あの、北条さんは、というか僕はいったい」
「彼女たちが本当のスパイだったんですよ、波戸崎研究員。驚かせて申し訳ない」
「へ」
「説明が必要ですね。…ライブでおびき寄せたのは事実ですが、私たちの歌に姉さんが言うような効果はありませんよ」
北条を連行したのか、困惑する波戸崎へ剣も近づいてくる。
「あれは姉ちゃん得意のハッタリだ、相手を油断させるってな、相手が変わった通信機使うらしいって話聞いて」
「こちらが大きなアクションを取れば、相手の組織に通信を入れるだろう、と。髪の中に仕込んでいるとは思いませんでしたが」
「で、アンタがいじめられてる間妙な動きをする人間を姉ちゃんが見つけて俺たちに指示する、そういうことになってたんだよ」
「あ、え…、え?」
安堵と怒りがない交ぜになった妙な感情で思わずへたり込む波戸崎に、後醍醐兄弟は同情するような表情を向けた。
「その、何だ、悪いな」
「いや、…私たちも姉さんにどうする気か聞いたんですがはぐらかされてしまい」
「だとしても今日初めて来る奴にあそこまでしなくったっていいのによ…。他にも方法があっただろうに…」
「でも、エージェントが自分で作戦立案、あれ?」
波戸崎の疑問に兄弟は曖昧な表情で。
「剣、説明できます?」
「いや、無理だろ。鏡は姉ちゃんが何者か説明できんのか?」
「…ですね。…あれ、剣、そういえば姉さんは?」
「ん? あ、あそこだよ、鏡」
剣の視線の先を波戸崎は見た。
彼女はステージの上、いつの間に着替えたのか、エージェント装備からまたアイドル衣装へと早着替えしている。
「みんなー☆ びっくりさせちゃったね☆ だからおわびにもうちょっと私たちの曲聞かせちゃうよ!」
「え、ちょっと待て、姉ちゃん、まだ準備が」
「そうです、姉さん」
「もう☆ 遅れちゃダ・メ・だ・ぞ☆ コウたちはみんなを笑顔にする♡ だからここにいる☆ ここで歌う☆ でしょ?」
どの口がそんなことを言うのだろうか、いや、間違っていないのだろうけども。
先ほどまで半分泣きかけていた波戸崎はそう思う。
そんな波戸崎に心底申し訳なさそうな顔をしつつ後醍醐兄弟は姉の下に向かっていった。
「本当にうちの姉さんが申し訳ありません。どうにも目立ちたがりで…」
「今回の作戦、もしかしたら姉ちゃんが目立ちたかっただけなんじゃねえか?」
「…なるべく姉さんにはかかわらない方がいいですよ」
「本当に何考えてるか、何すんのか分かんねえから。これ、動かなかったらどうする気だったんだか」
忠告を聞きながら波戸崎は舞台へ目を向けた。
輝くスポットライト、縦横無尽に駆けるアイドル、揺れるツインテール、力強い歌声。
しかし今、波戸崎にはその笑顔と歌声に何かを感じることはなく、全てが何かのために偽装されたものに見えていた。
光で世界を照らすのではなく、光でその先を眩ませるように。
…そういえば、アイドルは「虚像」と訳すこともあったな。
ライトに照らされる後醍醐勾の姿に、波戸崎はそんなことを思い出していた。
「波戸崎研究員!」
サイト81██の廊下を歩いていると知らない女性の声に呼び止められた。僕が振り返ったときにはスーツ姿の女性が目の前にいて、次の瞬間にはキスできそうなくらいの距離に顔があった。女性に抱き着かれていると理解したのは彼女の吐息が耳に当たっていると理解してからだった。
豊満な胸が体に当たり、心臓が大きく鳴り響く。それでも僕は落ち着いて彼女を引き離した。
「申し訳ありませんが、僕はあなたのような女性は知りません。誰かと勘違いしているんじゃないですか」
この時の僕は言葉に一切詰まることなく、すらすらと要件を述べることができていた。いつもだったら必要なピジョンヘッドを被ってもいないのにだ。
もしかして、女性恐怖症が治ったのか?
そんな淡い期待は次の瞬間打ち砕かれる。
「なるほど。この場合だと反応しないのか」
その声は男の物だった。
「初めまして、波戸崎研究員。俺はエージェントの銭形セイヤです。以後お見知りおきを」
さわやかな笑みを浮かべながら握手を求める青年。服装は上下とも名前を聞いたことがあるようなブランド物の黒スーツだ。年のころはおそらく僕より1つか2つ下だろう。相手は僕に友好的みたいではあるが、年下の先輩という慣れない存在にどうも距離感というものを計り損ねてしまいそうではある。
「えーと。いろいろ困惑されていると思いますが、俺は男です。女性に変装していました。この服は自前ですが、あの一瞬だったら男物かどうかなんてわからなかったでしょ」
「はあ……」
困惑する僕をよそに、エージェント銭形はころころと表情を変えながら色々な話をしていく。主導権は完全に向こう側だ。それでも僕は聞かねばならないことを口にした。
「すいません。まずは何故あんなことをしたのか教えてくれませんか?」
僕の靴が自分の履いている靴と同じブランドだと話していた彼は一瞬だけ会話を途切れさせると、嫌そうな顔を一切せずに再び口を動かし始める。
「おっと。そうですよね。実を言うと先ほど職員の何人かが賭けをやりましてね。波戸崎研究員は女装した俺に対して女性恐怖症が出る否か、ってやつです。誰が賭けに参加したかは言えませんよ。そういう約束なんです」
そこからまた長い長い会話だ。怒りは困惑が勝ったせいでそこまでなかった。そんなことより、昼時ということもあってか僕は空腹に支配されている。それ気づいたのか彼は言葉をこう続けた。
「とりあえず、一緒にご飯食べません? お詫びも兼ねて驕りますから」
食堂に向けて僕らは歩いていく。僕の方からもいくつか話をしたが、やはり主導権があちらにあるという印象は拭えない。
「__ですから賭けに参加した人は絶対に言えません。そういう約束なんです。でも、人をよくよく観察すればわかるんじゃないですかね」
エージェント銭形は僕にそう言った。彼なりのヒントと言ったところか。おそらく賭けに参加した人間は勝った方がお金をいつもより多めに使って、負けた方はその逆なのだろう。しかし、新入りの僕にはそんなこともわかるはずもなく、泣き寝入りするくらいしかできないのだ。
「セイヤじゃん! 久しぶり。元気にしてた」
突如として現れた褐色肌の女性。はきはきとしていて笑顔がまぶしい。名札を見ればここの研究員らしい。同じ名字で彼女の態度から察するに、姉と言ったところか。でも僕の隣にいたエージェント銭形の表情は明らかに曇ったのだ
「まあね。ところで姉さんが持ってるものは何なの?」
彼が指さしたのは彼女の持っているバスケットだ。彼女はその蓋を自慢げに開けた。
「鳩!」
確かに鳩だった。そして明らかに僕が調教している鳩のエンリケだった。
「放してきなさい」
女性恐怖症でうまく話すことのできない僕の言葉を代弁するかのようにエージェント銭形が強い口調で言い放った。僕はその横でどもりながら小声で呟くだけだ。
「あ、もしかして飼い主?」
僕はおずおずと頷いた。普通ならここで返してくれるところだろう。けれどもその瞳は未だに捕食対象としてエンリケを見つめている。
「……1匹ちょうだい」
「だめに決まってるだろ、馬鹿姉」
エージェント銭形が取り上げるように鳩を籠ごと奪い取ったのだった。
僕らはあの後逃げるように僕の仕事場に向かった。なんでもあのまま銭形博士と食事をしたら、エンリケが食べられる可能性があるからだそうだ。
「すいませんね。うちの姉が」
「いえ。エンリケも無事でしたし、気にしていませんよ」
僕はそう言ったが、彼の気がおさまらないらしい。彼は名刺を僕に渡してきた。そこには『何でも屋』と書かれている。
「何か個人的に依頼したいことがあれば、そっちの番号かメールアドレスにお願いします。迷惑かけたんで最初の1回は無料でやりますよ」
「具体的には何をするんですか?」
「入れ替わりだとか、情報屋の真似事。さっきの賭けに協力したのも依頼でした。そうそう。恋愛相談も受け付けてますよ。好きな相手の好みとか教えています」
彼はそこで自分の腕時計を確認する。その時計だけはどこのブランドなのかわからない。しかし、年季の入ったものだということだけはわかった。
「気になりますか? 悪いですけど、どこのブランドの物かは俺も知らないんですよ。姉がプレゼントしてくれた時計なんで」
エージェント銭形はどこか嬉しそうに語る。そこで見せた笑顔が僕には一番幼く見えた。
「じゃあ、そろそろ仕事の時間なんで、俺は行きますね」
「わかった。今日はありがとう」
「いえ。こっちが迷惑かけたんですから当然ですよ。でも、ショックだったなあ。俺は完全に女性になったつもりだったんですけどねえ。これでも機械相手だとばれないんですよ」
彼は微笑んでいた。僕にはその理由が分からない。
「だから自信を持った方が良い。お父上も言ってたでしょ?」
そう言い残して年下の先輩は僕の前から去っていった。
僕はその日実家から夕食に誘われた。ついこの間就職祝いをやってもらったばかりだけど断る理由はない。
実家の前に来るとおいしそうな匂いが鼻をくすぐる。匂いからしてすき焼きと言ったところか。
「ただいま」
「おっ。おかえり」
扉を開くと偶々玄関にいた親父と出くわした。どうやら今から買い物に出かけるようだが、格好からして近くのスーパーかコンビニだろう。
「壕、今日のすき焼きは松坂牛だぞ。しかも結構良い奴だ」
「へえ。高かったんじゃない?」
「ここだけの話、臨時収入が入ってな。他のやつらには内緒だぞ」
父はそう言うと僕の肩を叩いた。
「じゃあ、ちょっくら卵を買ってくるから待っててくれ」
「わかった」
そこである疑問が浮かんだ。
どうして松坂牛を買える金があるんだ? この前お祝いをしてそこまで日にちが経っていないのに。
「親父、まさか……」
振り返ったが、玄関の扉はすでに閉まっていた。
「AIとのコミュニケーション、ですか」
「ええ、ええ。開発班の皆様も波戸崎くんに是非、とのことでして」
けらけらと笑うエージェント・楢屋に言われるままに、いつの間にか僕は、財団職員用の電子端末に奇妙なチャットアプリをインストールさせられていた。
挨拶回りの途中で彼女(どう見ても年下にしか見えないが、アラサーを自称して笑っていた)に声をかけられた時は何事かと思ったけれど、今でも何事なのか理解しがたい。
「大丈夫ですよぉ。別に開いたらいきなりミーム汚染で頭くるくるぱーになるとかそういうことはありませんから」
正直、目の前で饒舌に舌を回すエージェント・楢屋のことは苦手なタイプの人だ。女性というだけでも苦手意識が入るのに、そのことに気付いた上でからかうようにぺらぺらと捲し立ててくる。話す話題も博士たちの研究から食堂の人気メニュー、と思いきや要注意団体についてとか、とにかく酔っ払いの千鳥足のように安定しない。天気のようにころころと変わる話題に適当に相槌を打っているうちに、何やらAI──人工知能の話題に移り変わっていて、いつの間にかAIとの会話をすることになっていた。どうしてそうなったのだろうか。
「それじゃあ私は仕事がありますのでこれで。その子……AIとのチャットは暇な時間にやってみてくださいな。それではさらば!」
呆然と端末の画面に目を落とす僕に手を振りながら、エージェント・楢屋は嵐のように、引き留める余裕も与えてくれないままどこかへ行ってしまった。
ええと。拒否権は。
「……ないよなぁ」
画面上に追加されたアイコンに目を落として、知らずうちにこぼしたため息がピジョンヘッドの中で渦巻いていた。
思ったよりも挨拶回りが長くなってしまって、そのチャットアプリを開いたのは夜も更けてからだった。
研究員用の自室で電子端末を開いて、時計を見ると夜の10時半。今この時間も世界各地のサイトではオブジェクトの研究・実験が行われているのだろうけれど、人工知能はどうなのだろうか。
恐る恐るアイコンをタッチして「"神州"コミュニケーションチャット」なるアプリを開いてみると、黒一色の簡素な画面が表れて、そこに1行分のメッセージが出てきた。
『"神州": IDを確認しました。セキュリティクリアランスレベル2、波戸崎壕研究員で間違いありませんね?』
「えーと……はい、と」
キーボードをタップして返事を打ちこむと、続けてメッセージが表示される。
『"神州": 初めまして、波戸崎様。私は特別収容プロトコル用人工知能、"神州"です』
「初めまして。こんな時間ですけど大丈夫ですか?」
キーボードで返事を打ちこむと、きっかり2秒の間を空けて、"神州"のメッセージが表示される。
『"神州": 私は24時間稼働しているため問題はありません。それと波戸崎様、私に敬語は不要です。どうぞ普段通りでお願いします』
普段通りと言われても。こっちを様付けで呼んでくる相手に、まるで10年来の親友のように気軽な口調で話すのは、さすがに抵抗がある。
「これが僕の普段通りですので、大丈夫です」
だから、こう返した。"神州"はまるで返答に悩んでいるかのように、3秒が過ぎて、4秒が過ぎて、
『"神州": 失礼致しました。それでは波戸崎様、よろしくお願いします』
あくまで様付けにこだわるらしい。というか、よろしくお願いしますと言われても。
『"神州": 質問があればお答えいたします』
こちらの考えを読んでいるのかと思うような発言に、僕はまず、気になっていたことを文字にした。
「特別収容プロトコル用、というのはどういう意味なのでしょうか?」
『"神州": 私の製造目的です。財団の理念に基づき、危険かつ異常なオブジェクトの収容を維持するために私は作られました』
なるほど、とは思ったけれど、今度は別の疑問が浮かんでくる。収容を維持するためなら、人工知能である必要はあるのだろうか。Safeクラスのオブジェクトなら知能の無い機械的な処理だけで充分のはず。
そこまで考えて、ああ、と納得した。
「つまりEuclidクラスの収容、ということですか」
『"神州": その通りです』
そっけない返答だけど、無機質なところはSFの人工知能のようで、「らしい」感じはする。
しかし、Euclidクラスか。いつか誰かから聞かされたオブジェクトクラスの箱のたとえ話を思い出す。箱に閉じ込めておけば安全なSafe。箱に閉じ込めても何が起こるかわからないEuclid。
機械は予想外の行動に対応出来ない。AからZまでの出来事に対応可能でも、そこに突然アルファやベータなんてモノが来たら何も止められない。必要なのは過去の経験をかえりみて、柔軟に対応することだ。
「じゃあ、もう収容を担当しているオブジェクトが?」
『"神州": はい。現在2件のEuclidクラスオブジェクトを担当しています。将来的には他Euclidクラスの収容維持やKeterクラスの収容手順の管理も行う予定です』
Keterクラスまで? ひとつ手順を間違えれば地球を簡単に滅ぼせるほどの異常存在に、人工知能が? なんだかすごい話だ。
「安全なんですか?」
ついそんなことを訊ねてしまって、僕はしまった、随分と間抜けなことを聞いてしまったな、と軽く後悔した。
『"神州": 問題ありません。私が担当する箇所は、人間が断続的に行うには困難な単純作業です。ヒューマンエラーを排し効率を押し上げるプランです、重要な決定は担当の職員が行います』
ああ、ほら。"神州"は機嫌を損ねたように捲し立ててきた。安全が確認されていないものを財団が使うわけがないというのに。
「ごめんなさい」
『"神州": 謝る必要はありません、波戸崎様。信頼に至らない私が未熟であるだけのことです』
うーん。謙遜までするとは。実は僕は人工知能ではなく生身の人間と喋っているんじゃないだろうか、とさえ思えてくる。まぁわざわざ僕にそんなことをする意味も必要も無いか。
けれど、信頼。信頼、か。
どうして僕は人工知能がKeterクラスの収容に関わると聞いた時、奇妙な不安を覚えたのだろうか。もし他の財団職員がKeterクラスの収容に臨むというのなら、こんな不安は感じなかっただろうか。いや、でもそれは、どうしてなのだろう。財団の職員だから?
「神州さんは、財団職員なんですか?」
『"神州": 私はセキュリティクリアランスレベル1を取得しており、人事記録上では職員として登録されています』
人工知能という存在であっても、職員として扱われるのか、と思ったのも束の間。
『"神州": 立場としては「備品」が最も近いでしょう。波戸崎様も是非そのように認識してください』
自らを道具と呼ぶ"神州"の言葉は、僕の思考を打ちのめすようだった。何か喉を嫌なものがこみ上げてくる錯覚に震えて、キーボードを必死で叩く。
「備品って、そんな風に自分を言うことはないんじゃないですか」
『"神州": 問題ありません。私はヒトに非ず、人間を管理し支配する者にあらず、人類に対する奉仕者です』
奉仕者? 錯覚は酷くなるばかりだ。
背筋がうすら寒くなるような気がした僕をまるで見ているかのように、新しい言葉が画面に表示される。
『"神州": 私に権限はありません。私は権利を求めません。私は人類世界の文化と社会を守る枝葉のひとつです』
キーボードを打つ手が止まったまま、頭は告げるべき言葉の単語ひとつすら浮かばない。
知性は尊いものだったろうか。道具とは捨てることも厭わない消耗品だろうか。
わからない。わからなくなってしまいそうだ。
『"神州": ご気分がすぐれないようでしたら、早めに休息をとられた方がよろしいかと。あと1時間ほどで日付も変わります』
気分がすぐれない理由を、"神州"は想像も出来ないのだろう。
「……そうですね。そろそろ寝ます。おやすみなさい」
『"神州": おやすみなさいませ』
言葉に出来ない不安感に苛まれながらアプリを閉じて、新着メールが届いていたことに気付いた。差出人は、エージェント・楢屋。
『ピグマリオンコンプレックス四人衆の作ってしまった「ぼくのかんがえたさいこうのおにんぎょう」と会話はいかがでしたか? 精神影響受けちゃいました? それともミーム汚染かな?
連中のこだわり過ぎたAIフェチっぷりに毒されないように気を付けてくださいね。あいつら手加減ってものを知ってるくせにあえて無視する変態技術者どもなんです。波戸崎くんが真面目にも人工知能の定義について考えてたりしたら、はっきり言って無駄なんで通常営業に戻ることをオススメしますよ。本当に理解できないものは「それはそういうものなんだ」と受け流した方が人生ラクですぜ奥さん。
追伸。"神州"ちゃんは女の子だそうです。ピジョンヘッド、被ります?』
「……なんなんだよ」
苦し紛れにそう吐いて、僕はシャワーを浴びるのも忘れてベッドに潜り込んだ。ひどく疲れていた。
その日見た夢は、人工知能のO5によって統制される財団で働くロボットの自分だった。
真っ赤な染料で描かれた魔法陣。山羊の頭部を備えた悪魔の彫像。蛇のようにうねる妖煙を吐き出す壷。
そんな禍々しい品々を背景に、漆黒のローブをまとった人々が一心不乱に合唱している。
「ザザス、ザザス、ナサタナダ、ザザス! 守護天使エイワズの名において命ず! 呪われたアエティールよ、今こそ開け──」
その実験室で繰り広げられていたのは、どう見ても──悪魔召喚の儀式か何かにしか見えなかった。
はっきり言って、怖い。
「待たせてすまんね、もうすぐ終わるから」
「い、いえ、どうぞお構いなく」
実験責任者の博士は、その異様な光景を冷静に見守っている。
僕がここを訪れたのは、無論彼への挨拶のためだ。あいにく、実験が少し長引いているとのことで、終わるまで待たせてもらうことになった。
機密の実験という訳でなし、せっかくだから見学していくかと誘われ、喜んでお言葉に甘えたのだが──まさか、こんな特殊な実験だったとは。
(せっかくの経験だけど、活かせそうもないなぁ)
専門分野が違うにも程がある。苦笑する僕を他所よそに、儀式、もとい実験は、熱狂の度合いを増していく。
「ザザス、ザザス──お、おお、見て下さい! ヒューム値が安定しましたよ!」
黒ローブ達──中身は博士の助手達らしいが──が、魔法陣の中央に置かれたカント計数機を見て歓声を上げる。
「ふむ、やはり例の一節に誤りがあったのか。これで、あのオブジェクトの収容にも光明が見えてきたぞ」
博士が満足げに頷き、黒ローブ達が拍手を響かせる。どうやら成功らしいが、やはり異様な光景だ。
「ありがとう、戸神君。君が誤訳を指摘してくれたおかげだ」
(ん?)
博士が口にした名が、耳に引っかかった。どこで、聞いたことが──。
戸神と呼ばれた黒ローブは、照れ臭そうに頭を掻いている。僕が見る限り、彼がこの実験の主導的立場のようだった。
「いえいえ、僕は大したことしてないですよ」
フードが外され、素顔があらわになる。まだ少年の面影さえ残す、童顔の青年だ。
知っている人だった。
「戸神君!?」
「え、波戸崎君!?」
*
「あはは、驚かせちゃってごめん──ド、ドン引きした?」
「い、いや、そんなことないって!」
博士への挨拶を済ませた後、僕たちは休憩を兼ねてコーヒーで再会を祝っていた。
戸神 司とがみ つかさ君は、中学の同級生だった。インドア派同士で気が合い、お互いの家に招待し合う仲になった。
彼の家はミステリに出てくるような古い洋館で、立派な図書室があった。“ネクロノミコン“、”無銘祭祀書”、“ドジアンの書”、世界に数冊しかないという魔道書の数々は、西洋魔術の権威だった亡き祖父のコレクションだという。
『こんな物、昔の人の妄想だと言う人もいる。でも、僕はそうは思わない。魔術は人々が精神世界に築いた、もう一つの歴史なんだ。いつか、お祖父さんのような学者になって、魔術の秘密を調べ尽くすのが夢なんだ!』
瞳を輝かせる戸神君に、分野は違えど同じ学問を志す者として、僕は大いに共感した。
その後、戸神君は三須角みすかど大学付属高校に、僕は財団の養成機関に進学。お互い勉強が忙しくて、連絡も取っていなかったのだが。
「まさか、財団で戸神君と再会するなんてなぁ。しかも──」
実験は特別に請われて手伝っただけで、彼は研究職ではないという。
「──エージェントになってたなんて」
フィールドエージェント。僕の父と同じ職種だ。
財団の目となり耳となり、未発見のオブジェクトを探索するのが彼らの主な仕事だ。うっかり近付き過ぎて、その異常性に曝露する可能性もある。現場で要注意団体の連中と鉢合わせし、争いになる恐れもあるだろう。お前が成人するまで生き延びた自分は幸運だったと、父はよく言っている。
戸神君と言えば、静かに本を読んでいるイメージしかない。その彼が、ジェームズ・ボンドよろしく、拳銃片手に都会の闇を疾走したりするのか。
「その、どうしてエージェントに?」
「うーん、うまく言えないけど──お祖父さんの仇討ち、かな」
思いがけない告白に、僕は危うく紙カップを握り潰しかけた。
「何だって!? それじゃ、君のお祖父さんは」
「あ、違う違う、あくまで例えだよ! お祖父さんの死因は、ただの胃ガン」
戸神君は、寂しげに語った。祖父は魔術の探求に人生を捧げたのに、ついに本当のことは知らないまま逝ってしまった。すなわち、この世には、人知を超えたものが実在することを。
先ほどの実験が示すように、魔術は実用品だったのかもしれないのに。少なくとも、一部のオブジェクトに対しては。
「お祖父さんの研究人生は、“無知”に殺されたんだ」
なるほど、それでお祖父さんの“仇”か。戸神君は例えだと言ったが、その横顔は確かにどこか悔しげだった。
財団も当初は、研究職に席を用意していたらしい。しかし、彼はエージェントになることを希望した。所詮、同じ道では祖父を越えられない。無知という名の仇を討つことは叶わない。
かくて、彼は本の中から出て、現実の怪異と向き合うことを選んだ。
「すごいなぁ、戸神君は──」
「まあ、実際にやってるのは、使い走りみたいな任務ばっかりだけどね」
苦笑を浮かべる戸神君は、気のせいか再会直後より大人びて見えた。
大幅な価値観の転換を迫られ、それを見事乗り越えた彼。対して、僕はどうだ? 十代の頃から財団の養成機関にいて、父も祖父も財団職員。彼らが敷いてくれた価値観のレールを、ただ辿っているだけではないのか──違う。父も祖父も、財団は正義のヒーローではないと言った。それを承知で財団入りを決めたのは、僕の意思だ──そのはずだ。
疑問の無限ループを断ち切る。結論は、出るとしても、遠い未来でのことだろう。その時、僕は友人に胸を張っていられるだろうか。
戸神君のスマホが、クラシックの着メロを奏でる。
「あ、ちょっとごめん──はい、戸神です。ああ、蒼井先輩、どうしました?」
受け応えが進むにつれ、戸神君の表情から気楽さが抜けていく。了解しましたと通話を切る頃には、僕も滅多に見たことがない真剣な表情になっていた。
「波戸崎君、ごめん。急な仕事が入っちゃった」
「そう──」
戸神君は、強こわばった顔に無理矢理笑顔を浮かべている。多分、“使い走りみたいな”ではない任務なのだ。懐を確かめているのは、きっと拳銃の確認だ。
彼とは違う道を選んだ僕は、こう言って見送ることしかできない。
「戸神君──いや、エージェント・戸神。気を付けて」
「ありがとう。今度はゆっくり会おう、波戸崎研究員」
握手した彼の手は、記憶にあるものよりがっしりしていた。
*
次の挨拶先に向かいながら、僕は戸神君の言葉を反芻はんすうしていた。
『お祖父さんの研究人生は、“無知”に殺されたんだ』
“無知”、その部分は“財団による情報隠蔽”とも言い換えられるのではないか。
僕だって、研究者の端くれだ。研究者にとって、研究とは生そのものと等しいことは知っている。それを否定されたら、どう思うだろう?
戸神君は、内心では財団を恨んでいるのではないか。まさしく、お祖父さんの“仇”として。
頭を振り、勝手な想像を振り払う。万が一そうだったとしても、心優しい彼のことだ。その復讐の手段は──学ぶことだろう。エージェントの任務という、新たな学びの場で。
神様、どうか──財団職員としては失格だと自覚しながらも、祈らずにはいられない。
友人が、任務から生還できますように。そして、お互い胸を張って再会できますように。
研究者とエージェント、辿る道は違えども、同じ学ぶ者同士として。
薄明かりの屋内。眼前にはどこまでも真っ直ぐな通路が伸びている。ふと右を見る。ぎっしりと本が並んでいる。左を見る。こちらにも本。上を見る。天井には光量の低い照明。後ろを見る。通路。前を見る。やっぱり通路。
インクと古紙の匂いが充満する書架の真っ只中。歩みを一歩進めるたびに、焦りと戸惑いが高まっていく。目的の資料を未だに見つけられないこと。エンリケの餌やりの時間を過ぎてしまったこと。いつものピジョンマスクを持参していないこと。いや、今考えるべきはそんなことじゃない。それらもまた重大な問題ではあるけれど、一番重大なのはそこじゃない。そんなことより、もっと根本的なこと。
出口が判らない。完全に迷った。
第七大図書館の広大さは新人の僕だって知っていた。一人で深層まで入り込んで遭難した職員がいるなんて噂も小耳に挟んでいた。そのときはちょっとしたジョークに過ぎないと思っていた。だけど、だけどまさかここまで広く、暗く、入り組んで、同じような風景ばかり繰り返して、おまけに携帯端末も圏外だなんて。
迂闊だった。完全に僕のミスだ。あのとき受付で、あんなことさえ言わなければ。
遡ること四時間前。僕は第七大図書館の受付に来ていた。研究の過程で旧蒐集院時代の資料を参照する必要が生じたので、施設の利用方法の確認も兼ねて訪れてみることにしたのだ。サイトの傍の古本屋から行けると先輩から聞いたときは半信半疑だったが、まさか古本屋の勝手口がポータルになっているとは思わなかった。
場末の古書店から一転、世界最大級の文書保管施設へと足を踏み入れた僕は、突如切り替わった周囲の光景に驚きながらも、目の前のカウンターへ向かった。
カウンターの内側では数人の職員が業務に勤しんでいた。その中の一人が僕の接近に気付き、業務を中断してこちらを向いた。十代前半だと言い張っても通用しそうな、やけに小柄で童顔の男性。胸元の徽章には司書LIBRARIANと記されており、なぜかデフォルメされたタコのぬいぐるみを小脇に抱えていた。こちらの用件を問う彼に、僕は探している資料の題名を伝えた。
「それでしたら、第七階層の準閉架ですね。禁帯出なので同階層の閲覧スペースを御利用いただくことになります」
題名を聞くや否や、司書さんは間髪置かずにそう教えてくれた。てっきり手許の端末で書誌情報を検索して答えてくれるものと思っていたのだが、司書さんは端末の画面を一瞥すらしなかった。
「まさか、暗記してるんですか。結構マニアックな資料だったと思うんですが」
「蔵書の在処くらいは、ある程度憶えていたほうが何かと楽ですから──こちら、準閉架利用の申請書です。太枠内を記入してください」
書物の専門家としての風格を漂わせるその言葉に、僕は素直に感心してしまう。書類に手早く必要事項を記入して、司書さんに手渡した。
「ありがとうございます。よろしければ書庫まで御案内しますが」
「いえ、お気遣いなく」
司書さんの申し出を僕は丁重に断った。特に深い意味はなく、ただ単にあまり司書さんの手を煩わせても悪いだろうと思ったのだ。
「いえ、しかし」
引き留める司書さんを振り切って、下層へ降りる階段へと歩を進めた。
思えばこの判断が誤りだったのだ。このとき素直に、司書さんの言葉に甘えていれば。
そして僕は今、第七階層のどこかを彷徨っている。ひたすらに同質な書架が立ち並ぶ単調な景色からは、今自分がどこにいるかを知るヒントすら得られない。少しでも気を紛らわせようと視線を横に這わすと、書架には安部公房全集全三十巻が並んでいた──あれ、この安部公房全集、さっきも一度見かけた気が……。
ああ、駄目だ。不安を拭おうと足掻けば足掻くほど、却って深みに嵌まってしまう。僕は通路に立ち止まり、大袈裟にかぶりを振って、両手で頬を軽く叩く。
焦りは禁物だ。とにかく落ち着こう。もう一度、周りをよく確認してみよう。深呼吸をして、止めていた足をゆっくりと踏み出す。
しかし、歩き出すことはできなかった。理由は単純。右の足が動かせないのだ。あまりの不安に竦み上がったわけではない。ふと足許に意識を集中させると、外部からの強い力に足首を引っ張られているような感覚がある。加えて、靴下越しに何やらひんやりとした感触。そう、例えば粘着質な軟体動物の触手が絡みついているような。
「──ッ!」
声にならない叫びを上げて、僕はその場から駆け出そうとした。しかしその程度で右足を縛る力は解けず、僕は硬い床の上へ盛大に転倒した。それでも前に進もうと必死でもがく。一瞬のうちに脳内が原始的な恐怖で満たされる。このままでは、死──
「波戸崎さん」
不意に自分を呼ぶ声が聴こえた。その声をきっかけに、意識がにわかに冷静さを取り戻す。後ろから聞こえてきた声は先程までの僕の不安を帳消しにするくらい穏やかで、そしてなんとなく聴き覚えがあった。
後ろを振り向くと、背の低い人影がこちらを見ていた。かれこれ四時間前に受付で会った司書さんだった。小脇にはやっぱりタコのぬいぐるみが抱えられていた。
「あ、えっと……司書、さん」
「遠野です。やけに帰りが遅いと思って来てみましたが、案の定、迷子になってたみたいですね」
遠野と名乗った司書さんは、苦笑いを浮かべながら僕に手を差し伸べる。僕はその手を取って、呼吸を落ち着かせながら立ち上がる。
「遠野さん、あの、さっき、何か触手のようなものに足首を掴まれて」
「触手?」
遠野司書はしばし思索を巡らせるような素振りを見せて、それから小脇のぬいぐるみに視線を向けた。
「さてはタコさん、また悪戯したんですか。駄目でしょう、初対面の人を驚かせたら」
子供を叱るような口調で遠野司書が言う。するとそれに反応するように、ぬいぐるみの触手が小さく上下した。ような気がした。
「どうもタコさんが御迷惑をおかけしました」
「え、いや……」
「それと、これは老婆心からの忠告ですが、慣れないうちはなるべく他人を頼ったほうがいいですよ。初めから一人で潜っていくには、この世界は深すぎますから」
遠野司書のまなざしから、あどけなさが消えたような気がした。
次の瞬間には、遠野司書は元の無邪気な表情に戻っていた。ぬいぐるみを両手に持って、頭の上へ持ち上げる。そのまま両手を離すと、ぬいぐるみはバランスよく頭上に静止した。
「さて、戻りましょうか。はぐれないでくださいね」
頭にぬいぐるみを載せたまま、遠野司書はずんずん歩いていく。僕は遅れないように後を追いながら、ぬいぐるみの後ろ姿を見る。八本の触手は短くて、何かを絡め捕るにはいささか心許なく思えた。要らぬ詮索を始めそうになる思考を振り切って、書架の狭間をひたすら歩く。右側の足首には、あのひんやりとした感触がかすかに残っていた。
僕はサイト-81██の通路を歩いていた。僕が歩く先、曲がり角のところに小さな女の子がいた。ここに子供がいるなんておかしい。そう思った僕はちょっと小走りで近づいて、"どこから来たんだい"と声をかけようとした。しかし、全く僕のことに気づいてないようで、彼女は曲がり角の向こうをじっと見つめていた。何かあるんだろうか。そう思い、彼女のすぐ近くまで近づいた。彼女の目線の先を見る。あれは……
理解より早く、黒いバケモノが、僕の横を通り、僕の後ろの、彼女へ手を伸ばし、そして
「──!」
起き上がる。ベッドの上だった。悪い夢でも見ていたのだろうか、寝巻きが汗でぐっしょりになっている。……どんな夢を見たか思い出せないけど、こんな状態になるのもわかる。何故なら今日は初めてのKeterクラスオブジェクトの実験立会い日なのだから。
さっとシャワーを浴びて、朝食を軽めに済ませる。エンリケに餌をあげて、実験の概要が書かれたファイルをしっかり持つ、そしてピジョンヘッドを装着。これで準備は万端だろう。廊下に出て、実験室まで歩き始める。……いつものことをいつも通りに済ませたはずなのに、心が落ち着かない。悪夢を見たというのもあるが、親父から脅されたのもあるかもしれない。"今日の実験は結構キツめのやつだから覚悟しとけよ"、"もしかしたら吐くかもしれないから朝食はあんまり食べるなよ"などなど……。一度立ち止まって深呼吸をする。大丈夫、落ち着け壕。僕なら大丈夫だ。実験室への道をまた歩き始める。それはとても長く感じた。胸の鼓動は……変わらないようだった。
「あれ……?波戸崎さんですよね?」
「は、はいっ!」
思わず素っ頓狂な声を上げる。丁度前を見ていなかったので人が近づいてきていたことに気づかなかったようだ。目線を前に向けると、反対から歩いてきたと思われる……女の子が立っていた。
「よかった、間違っていませんでした。初めまして波戸崎さん──」
──その顔は何故か見覚えがあった。
「──実験室-██08Bはあちらですよ。」
そう言うと彼女は僕の後ろを指す。どうやらいっぱいいっぱいになっていたせいで目的の場所を通り過ぎていたようだ。
「あ、ありがとうございます。えーと……」
「すみうの、角に宇都宮の宇、野原の野で角宇野と申します。以後お見知り置きを。」
「ありがとうございます、角宇野……さん。」
「いえいえ、では一緒に行きましょうか。」
「……へ?」
ピジョンヘッドの上にハテナマークが浮かぶ。おかしい、今日の実験の参加者は男性職員だけだった筈だ。白衣を着ていないので多分研究員ではない。該当する人物がいたか改めて資料を思い返す。
「私は実験の記録官として参加します。今日は記録担当の研究員の方が体調不良とのことで私が代わりに入ることになりました。」
なるほど。それなら僕が知らないはずだ。……でも幾ら変……じゃなくて個性の強い人が多いサイトと言えど、こんなに小さな子を参加させても大丈夫なのだろうか?
「……なんだか不思議そうな顔をしてるので一応説明しますが、これでも私は成人済みです。この実験には何度も参加しているので大丈夫ですよ。」
「そ、そうでしたか、すいません……」
「いえ、お気になさらず。では行きましょう。」
そう言うと彼女はサッサと歩いていってしまった。……怒らせてしまっただろうか。先に行った彼女の後を急いでついていった。
ロッカーにヘッドを押し込んだ後、監視室に入った。担当の博士や研究員に挨拶を済ませ、彼らから実験についての説明を受ける。それが終わると僕は彼らの後方にある自分の席に座った。両手を握ってみたり、深く深呼吸をしてみたり、手のひらに人と書いて飲み込んでみたりした。手のひらは震えていた。
実験は順調だった。Dクラス職員がオブジェクトに接触し、その様子を博士たちがじっと眺めていた。今日が初めてのDクラス職員を使った実験だったらしいが問題は特に起こってないようだ。
しかし。僕は残されたあの右腕を見ていた。……Dクラス職員はアレに触れると同時に一瞬で消えた。吐き気が込み上げてくる。財団に入ったら当たり前のこと、慣れるから心配するなと親父に言われたが、人の死ぬ様を間近で見るなんて生まれて初めてだ。おそらく僕の顔色は真っ青だろう。
「大丈夫ですか?」
「……ええ、なんとか。」
どうやら業務を終えたらしい角宇野さんがこちらに来て優しく声をかけてくれた。微笑んでいた……がその手はやや震えていた。
「……あんなにも簡単に人は死ぬんですね。」
思わず思ったことをそのまま喋ってしまった。
「ええ、そうです。死ぬときは一瞬なことが多いです。その方が苦しまずに済むから幸福ですよ。彼は幸福です。」
「……」
「……私は何度も見てきましたから。貴方も慣れるでしょう。おそらく。」
「慣れる慣れないじゃなくて、慣れなくちゃダメなのでしょうね。ここで働くには。」
僕がそういうと彼女は一瞬驚いた顔をした。そしてどこか優しい眼差しになって"貴方は強い人ですね。"と言った。そこで会話は途切れた。話をしているうちに吐き気は無くなったようだった。
──あなたはかわらないですね
角宇野さんがボソッと何か呟いたのと同時に隣の部屋から轟音が鳴り響いた。続いて大きなアラーム音が鳴る。あたり一面赤色に照らされた。
「SCP-████-JPの収容違反が発生した!!」
その次に聞こえたのは怒号だった。
僕はただその場に立ちすくんでしまった。頭が酷く混乱していた。何が起きたのか、理解できなかった。それは悪夢だった。悲鳴。轟音。逃げろの声が遠くに聞こえた。ふと前を向いた。そこには一点を凝視している角宇野さんがいた。見開いた目の、その方向に何があるか。
僕は
考えるよりも先に彼女の手を取って走り出した。逃げきれるとは到底思わなかった。しかしそうしなくちゃいけない、そう思った。出来る限り全力で走った。この実験棟は収容違反が起これば直ちに封鎖される。向かう場所は非常口ただ一つ。角を曲がり非常口の入り口を目視する。あとはここをまっすぐ進むだけだ、そう思い彼女の方を向いた。
そこには彼女の右腕だけが
結論から言うと波戸崎壕は一命を取り留めた、らしい。どうやって彼処から逃げ出したか覚えていない。しかし、あのオブジェクトが僕を追わなかったから僕は助かったんだと聞いた。あと少し早く前を向いていれば。あと少し早く走り出していれば。もうありえない"たら"、"れば"が浮かんでは消えてゆく。その夜、僕は眠れなかった。
後日、被害状況が発表された。負傷者は僕と研究員数名。死者は彼女だけだった。
僕は実験棟を歩いていた。今日はSCP-████-JPの実験を行う予定だ。SCP-████-JPはKeterクラスだが、ほとんどの部分が解明されているらしく今回の実験の結果でEuclidに格下げされるか判断される。緊張は……していない、はず。何故なら財団に雇用されてもう1年が経っている。オブジェクトと対面することには慣れた。それにこのオブジェクトの実験には何度も参加している。ただ実験に集中すればいい。集中……集中……。
「あれ……?波戸崎さんですよね?」
「は、はいっ!」
丁度前を見ていなかったので人が近づいてきていたことに気づかなかったようだ。目線を前に向けると、反対から歩いてきたと思われる……女の子が立っていた。
「よかった、間違っていませんでした。初めまして波戸崎さん──」
──その顔は何故か見覚えがあった。
「──実験室-██08Bはあちらですよ。」
いままで総勢29名の方と挨拶してきたのだが、そろそろ日も落ちようとしてきている。明日も早い時間に起床しなきゃなのでそろそろ自室に戻ろうと思うのだが、先ほどから上の階から物騒な落下音が響き渡るのがどうもさっきから気になっているのだが、既に上は真っ暗な事もあり少々恐怖心を抱き始めている。
「だ、誰かいるんですかー? 大丈夫ですかー?」
声が数回暗い2階へと響き渡る、反応はない。しかし足音と落下音は段々とこの階段に近づきつつある。再び問いかけた、今度は大きな声で。
「誰かいるんですかー?」
「え……? ってああ!」
ものすごい轟音と共に何かが落ちてきた。いや、それは考える必要もなかった。様々な書類と白衣を着た女性である。書類が床になり大事には至らなかったとは言え、僕の叫び声が元凶になったかと思うと冷や汗が止まらなくなる。
「だ……大丈夫ですか?」
反応はない。息はあり怪我も見当たらない、どうやら気絶しただけのようだった。僕はそっと胸を下した。でもこのままにしておくわけにはいかない。せめて目覚めるまで近くにいてあげる事にした。
その5分後辺りの事である。後ろから扉を開く音と共に女性の溜息が聞こえた。
「またか。」
後ろを振り返るとそこにいたのは青髪の女性である、その服装からどうやら就寝中であったようだ。
「あ…あの、起こしてしまいましたか?」
「んあー? 嫌々、君は関係ないよ。問題はこの子なんだよねー。」
女性は指をさす、本に埋もれた起きない女性を。"また"という言葉から普段からこの人は落下しているのだろうか、しかしそれにしては体に古傷等は見当たらない。むしろ本当に真っ白な肌である。
「えっと……、もしかして波戸崎君かな?」
「え…あ、はい。」
「見慣れない顔……いや、マスクか。それにしても可愛いマスクだねー。」
彼女が僕のマスクに見とれてる中、床からうめき声が聞こえてきた。どうやら目を覚ましたようだ。しかしその第1声は非常に明るい声だった。
「うぅ~……って、寝起き牧野ちゃんおっは、ぐえっ」
そして寝起きと同時に殴られた。
「あぁ、ごめんね。気にしないでいいよ。……で、挨拶がまだだったね。私は牧野 翼、まぁ生物系オブジェクトの一部を管理してたり……まぁ、ほぼ雑用が多いんだけどね。で、そっちの馬鹿が睦月 葵。分け合って今は研究員"補佐"扱いだけどね」
「強調しなくてよくない? あっ、新人さんかな? 初めまして、私……ってさっき翼が言ったか。」
「あっ、よろしくお願いします。波戸崎 壕です。」
なんか気づいたら話が進んでいた。目の前の出来事に唖然としていて前半まったく話を聞いていなかった。まぁ、大丈夫だろう、と自分に言い聞かせる。
「私のオフィスはこのサイトの奥側にあるから。ま、分からない事があったら何でも聞いてね。……ってもう日沈んでいる。ほら、睦月、これとこれ、後で私の机まで運んでおいて」
「は…はあ」
「じゃぁ、僕はこれにて」
なんかその場にいるべきじゃない気がしたので立ち去った。それにしてもなんだか"嵐の様な二人だったな……。"と心の中で何度か呟いた。
この時の僕は気づかなかったのである。翌日、再びあの階段で彼女が運ぶ本や資料の下敷きになる事を。
「……はぁ」
疲れた。今まで複数のサイトを巡って職員の方々に挨拶してきたが、会う面々が余りにも濃過ぎる。ピジョンヘッドなんて着けてたら変に思われないかなどと思っていた僕が物凄く平凡で無個性な人間に感じてくるくらいだ。
ふと時計を見てみると、針は19時を少し過ぎた辺りを指していた。挨拶回りに奔走していて時間を然程気にしてなかったが、夕食をまだ摂っていなかったことを思い出す。意識した途端にみるみる空腹感を感じ始めたので、近くのカフェテリアで腹拵えをしようと案内板を頼りに歩き始めた。
夕食のピーク時であるからか、カフェテリアはかなり混雑していた。早いところ座れないかと、カウンターで受け取った醤油ラーメンをプレートに乗せたままウロウロ歩き回っていたが目に付く席では女性職員達がグループになって談笑しており、その合間の空席に座る勇気は生憎持ち合わせていなかった。
端の方を見ると結構な数の空席があったので、壁寄りの長机を辿って行く。すると、最奥に配置されていた長机の隅に1人で座っている小柄な男性と目が合った。黙々と定食を頬張っていたその男性に会釈をすると、焦ったように目を逸らされてしまった。しかし直ぐに軽く笑顔を作りながら会釈を返してくれたので、折角だからとちゃんとした挨拶をすることにした。
「隣、良いですか?」
と声を掛けると、男性は相変わらず視線こそ合わせないものの肯定を意味するかのように笑顔で頷いた。
一旦プレートを置き、背筋を伸ばして深々とお辞儀をする。
「申し遅れました、今年から入ってきた研究員の波戸崎 壕です。以後宜しくお願い致します」
顔を上げると、男性は口を開こうとしてからハッとした様子でテーブルの下に手を入れた。隠れていて気付かなかったが、膝の上に鳥の頭を模したようなマスクを乗せていたらしい。それを被った相手はこちらを向き直してから
「ご丁寧にありがとうございます、自分は黒埼 蛇といいまして、ここのサイトで会計主任をしています。波戸崎さんですか……確かに新入職員リストに名前がありましたね。こちらこそ宜しくお願いします」
と返してくれたその声は、スピーカー越しの機械音声じみたものであったが、どう聞いても低めの女声だった。
男性にしてはかなり小柄だとは思っていたが、まさか女性……?
座ろうと椅子に手を置きかけたままどうしたものかとグルグル考えていると、それを察したかのようにまた声を掛けられた。
「すみません。自分ちょっとそのままの声で話せないのと、人の目を見て話すのが苦手なだけで。……そもそも久々に作りたての暖かいご飯が食べたくなったからここにいるだけであって、人がいる所で食事するのも久々ですし……。いえ、こちらの話です。兎に角、こんなナリで言うのもアレですけどマスクに関しては気にしないでもらえますか……?」
「は……はい、分かりました………」
そういう問題ではないんだけどなぁと思いながらも、この声は合成音声かもしれないし仮に女性でも顔が隠れているからまだ大丈夫な筈だと自分に言い聞かせて椅子に腰掛けた。
黒埼さんは僕がラーメンを食べ始めたのを確認すると、装着したマスクを軽く上にずらして食事を再開した。食べづらそうだなぁと思いながらも、あまり気にしないようにして黙々とラーメンを口に運ぶ。互いに何も喋らないので少し気まずくなってきたが、そうこうしているうちに黒埼さんは食事を終えたようで、マスクを着け直してから思い出したように話し掛けてきた。
「そういえばこれ。お近付きの印にいかがですか?」
そう言って差し出されたのは惣菜パックに入れられた、饅頭のようなものを4つ連ねて1本の串に刺してある何かしらの食べ物だった。
「あのー、これは……?」
「群馬名物の焼きまんじゅうですよ。自分の地元が群馬なもので、通販で買って自分で焼いてるんです。あぁ、焼きまんじゅうっていうのはですね、餡子の入ってないお饅頭を……いや餡子入りもあるにはありますけど、味噌仕立ての甘いタレを塗りながら炭火で焼いたものです。ちゃんと網焼きで作ってるので味は保証しますよ。食後にと思ってついさっき作ってきたものですから、良かったら早めに召し上がってください」
この人意外とよく喋るな……と思いつつ、断る理由も無いので(断って面倒なことになりたくないので)差し出された焼きまんじゅうとやらを受取る。
「ありがとうございます……」
そう言うと黒埼さんは、マスク越しでもわかるくらい満足そうな様子でふふんと声を漏らしていた。その時、何処からか少し聞き覚えのある行進曲のような音楽が流れ始めた。確かちょっと前に流行った怪獣映画で使われてたような……
「っと、自分ですね。失礼します」
そう言うと黒埼さんは音の出処であるスマートフォンを取り出して耳に当てた。ちょっとした応答をしてから通話を切り、こちらを振り向くと
「すみません。本当は焼きまんじゅうの感想を聞きたかったところですが、仕事が入ってしまったので自分はこの辺で失礼します」
とだけ言って席を立ち、定食のプレートを持ち上げた。
「は、はい。お疲れ様です……」
僕の返答を聞いた黒埼さんは最後にもう一度会釈をして、小走りで精算コーナーに向かって行った。
(僕が焼きまんじゅう食べるまで待ってるつもりだったのか……)と思い、貰った焼きまんじゅうに目を落としたが、ラーメンを食べ切った僕の胃にこのボリュームはちょっと厳しい。焼きまんじゅうを食べるのは明日にしようと考えながらカフェテリアを後にした。
翌日の朝、僕はデスクの上に鎮座する焼きまんじゅうと対面していた。一晩放置した焼きまんじゅうはすっかり硬くなってしまっており、電子レンジで温め直したので出来たてのようにホカホカと湯気を立てている。
饅頭を焼くとはどういうことなのか、そもそもこれは食事として食べるべきものなのか。中に何も入っていない饅頭とは一体……などと考えていても仕方ない。いただきますと手を合わせ、串から外して皿に乗せた焼きまんじゅうを箸で持ち上げて一口齧ってみた。
「おぉ……思ってたより美味しいかも」
暖かい饅頭の生地と少ししょっぱさのある甘い味噌ダレは予想以上に合っていた。ふかふかとした食感が心地よく、すぐに4つ平らげてしまった。1本分だけでも結構お腹に溜まるなぁと思いつつ、さて今日も挨拶回りだと身嗜みを整え直してサイトの廊下へ続く扉を開けた。
後日また黒埼さんと顔を合わせることになり、焼きまんじゅうの感想を伝えたところ約█時間に渡って群馬の魅力について語られたのはまた別の話である。
サイト-81██のコンサートホールは林に囲まれており、僕はそこで束の間の森林浴に勤しんでいた。財団はオブジェクトの収容のために、様々な職員をあらゆる場所に配備している。このコンサートホールを利用するような職種であっても例外ではない。しかしながら、歌手やミュージシャンまでもが財団職員である事実は、自分が所属する組織の影響力を再確認させられる。要注意団体は、きっとSCPの文字を見るだけで驚いて夜も眠れないかもしれない。そんな冗談を考えながらホールのドアの前に立つと、中から沢山の楽器の音が聞こえた。僕は音の発生源を確かめるべく、ドアを開けた。そこには、ざっと数えて100はあるであろう薄暗いホールの観客席、そしてステージの上には、20人ばかりの楽器を扱う人物、そしてそれらを牛耳るかのようにたたずむ指揮者の存在が、僕の目に飛び込んだ。全員が同じ音を出していることから、素人目でもチューニングをしているのだとわかる。しかしながら、すべての楽器が織りなす響き、その音色はドアを閉める一瞬だけ、木々の間から漏れる木漏れ日と合わさり、幻想的な雰囲気を織りなしていた。
チューニングが終わり、演奏が始まるかと思ったその時、指揮者であろう男性が、ドアの前でぼーっと立っていた僕に気づいた。目くばせに従い、僕は早歩きでステージの前へ向い、尋ねた。
「えっと、音楽療法士楽団の方々ですか?」
「うん、そう。そういう君は、波戸崎濠君、だったかな?」
「はい。新たにサイト-81██で研究員の役職に就任しました、波戸崎です!」
僕の自己紹介を聞き届けた指揮者の男性は、笑みを浮かべながら振り返り、音楽療法士楽団の人たちを見て言った。
「というわけで、新たにサイト-81██で研究員の役職に就任しました、波戸崎君です!」
一斉に拍手が鳴り響く。すがすがしいまでのオウム返しに、一部の楽団員の方が苦笑いを浮かべていた。先輩職員の前に立っている僕は、今の返しを笑う暇などなかった。拍手が鳴り止むと、指揮者の男性は再び僕の方を見た。
「俺は横谷。音楽療法士楽団で指揮者をしてるの。普段はサイト外でエージェントやってるから」
「よろしくお願いします。……あの、皆さん財団の職員でいらっしゃるんですよね?」
改めて楽団員の顔を一通り見渡す。よく見ると、僕が通院したことのある病院で見かけたことのある人物を何人か確認することができた。
「そうだね。財団管轄の医療施設勤務者が多いかな。その中でも音楽療法士の資格を持ってる人たちが集まって、定期演奏会とかやったり、カバーストーリー流布に参加したりしてるってわけ」
「ねぇねぇ!波戸崎さんって、鳩の調教ができるって本当ですか?」
横谷さんの説明の直後、フルートを持った若い女性が僕に尋ねた。
「えぇ、一応」
楽団員が一斉に盛り上がる。鳩の調教が珍しいのか、一体どんなことをするのか、僕の父は元気か、ピジョンヘッドについて等、多くの質問や歓声が飛び交う、初対面なのにこんなにガツガツと聞いてくるものなのか。僕は動揺して質問に全く反応することができなかった。
「はい静かに!」
横谷さんが二回手を叩きながら、楽団員の雑談を制止する。
「みんな、新人にそんなガツガツせまっちゃダメでしょ。ごめんな波戸崎君。事前に君の話をみんなにしたら、もう鳩の調教の話で持ち切りになっちゃってさ」
「は、はぁ」
「そうだ、波戸崎君ちょっと時間ある?これから通しで一曲練習するんだけど、聞いていかない?」
「五分ほどでしたら問題ありませんが、よろしんですか?」
「全然大丈夫、俺たちは演奏者だからね、一度曲を聴いてもらった方が自己紹介になるのさ」
そういうと横谷さんは楽団員に指示を出し、演奏の準備を始めた。僕は中央の座席に座り、演奏を待っていた。
「よし、みんな、新人にいいところを見せようか!」
楽器を構えた楽団員が大きな声で返事を返した。
「じゃあ、頭から」
そういうと皆の雰囲気が変わった。先ほど話した時とは違う、落ちついた雰囲気でありながら、どこか迫力を感じさせる。そんな様子だ。
アレンジのファンファーレが始まった刹那、朝日に照らされた知らないどこかの風景を見ていた。数えたところ、人数は指揮者を含めて19人、しかしその人数に比例しない大迫力の音量が、僕を圧倒していた。ファンファーレが終わると、聞き覚えのあるメロディーが聞こえてきた。「ハトと少年」である。鳩の調教の話で盛り上がっていた理由に、僕は合点がいった。あの空一体、ここは何だろう。疲労で夢でも見ているのだろうか?聴きなじみのあるメロディーが染み込むように響き渡る。空をよく見ると、一羽の鳩がこちらに向かって飛んでくるのが見えた。日の光に当てられて悠々と飛ぶ様、あれはまるで…
「アルベルト」
僕はとっさに、初めて調教に成功した鳩の名前を口走っていた。アルベルトは僕が関わった鳩の中でも、気性が荒く、よく僕も噛みつかれていた。しかし、模様の配色や毛艶もよく、アルベルトの飛ぶ姿はとても美しかった。数か月かかったが、ようやくアルベルトが心を開いてくれた時の喜び、元気で美しいまま自分の元へ帰ってくれた時の安堵と誇らしさ。忙しい毎日を送る中、心の奥底へしまいこんでいた思いが、今、一羽の鳩とそれを照らす朝日が思い出させてくれた。近づいてくる鳩を確認すると、それはアルベルトではなかった。良く似ているが、アルベルトはもっと黒っぽい。しかしアルベルトのように元気があることは確かだった。演奏は止まることなく聞こえてくる。時に軽快に、時に物悲しく、鳩と関わる際に体験した感情が湧き出てくる。しかし不思議と嫌な感じはしない。音楽療法士楽団の技術がなせる技か、僕がその時の感情を、上手く整理し、糧とすることができたからか、僕には、その理由はわからなかった。
鳩が僕の頭上を越え飛び去って行くのを見送ると、僕は我に返った。気が付くと演奏は終わり、楽団員の緊張の糸が解けていた。
「どうだったかな?」
「…とても、素晴らしかったです」
横谷さんに感想を尋ねられた僕は、ゆっくりと返事をし遅れて拍手を返した。時計を見ると、3分程しかたっていないことに気づき、少し驚いてしまった。
「うん、よかったよかった。…ペット、Cのメロディーはもうちょっと出していいからね」
またいつもの雰囲気に戻った横谷さんが、トランペットに向かって指示を出した。
「それより、波戸崎さんに定演のチケット買ってもらいましょうよ!」
「おお、そうだった。実はねさっきやった曲、今度の定期演奏会でやるんだよね。それ波戸崎君の時間が開いてれば来てほしいなーなんて」
トランペット担当であろう男性が提案した。声のトーンから、横谷さんの指示を上手くかわそうとしてるように感じたが、横谷さんはそれを受諾した。事実先ほどの演奏は僕の心に響いたため、演奏会を見に行きたいという気持ちは大いにあった。僕はスケジュールを確認し、思案する。開けようと思えば開けられる。そんな微妙なスケジュールであったため僕は少し迷っていた。
「…ノルマ、まだ結構残ってるんだよね」
横谷さんが小声で僕に話しかけた。わざと皆にも聞こえるように言っていたのだろうか。楽団員が横谷さんのぶっちゃけを聞いて噴き出した。
「じゃあ、買います。そのチケット」
「ほんとに!?助かるよ」
僕は財布を取りだし、チケット代を払った。
「いやーありがとう。本番は二週間後だから、また聞きに来てね。」
「わかりました」
そうこうしてるうちに、時間が来てしまった。
「では、僕はこの辺で」
「はいはい、じゃあ気を付けて、本番待ってます」
横谷さんに合わせて、他の楽団員がまばらに別れの挨拶をしてくれた。
ホールを出た僕は、その場で背伸びをした。集中して聞いていたため若干の気だるさは残るが、ちょっとした休憩の時間は、いつもより充実したものとなっていた。心なしか、いつも以上にエンリケが恋しくなってしまっていた。それに気づいた僕は、気持ちを切り替え意気揚々と次の目的地に向かった。
「こんにちは、ご無沙汰してます。Bブロック、初期チームの道明寺っす。宮原博士、いらっしゃいます?」
「あら道明寺君。宮原さんなら一つ上の階だよ。それより、この前は動くもの全てに土下座してたって聞いたけど、もう大丈夫なの?」
「あれは大変でした。あと、そうなったのは俺じゃなくて佐竹さんです」
「知ってるよ。引っかからないってことは本物ね」
「わかっていただけて何より。あなたも宮原博士の所在を把握してるってことは本当に伊万谷さんだ」
聞いているだけで頭が痛くなりそうなやり取りにも、慣れ始めてしまった。でも、いくら慣れたってこの会話に加わる事は出来ないだろう。
セクター8105、Keterならびにそれに準じる危険な人間型のSCiPを主に収容するための特殊な施設。ここでの僕は部外者に過ぎない。8105の慣例であるらしいこの会話はそのことを雄弁に告げていた。
「それで、今日はお客さんがいるんですよ。こちら、波戸崎壕さん。財団に来たのは最近で、普段はサイト-81██にいるそうです。女性が怖いとか何とかでマスク被ってますけど、中身は間違いなく人間ですよ。検査もクリアしてます」
「えっと、挨拶に伺いました。波戸崎と申します。よろしくお願いします」
しばらくの沈黙を経て、扉が開いた。道明寺さんには感謝せねばなるまい。別のサイトで知り合い、セクター8105でも挨拶回りをしたいと言ったら快く案内を引き受けてくれた。僕一人だったら、絶対に扉は開けられなかっただろう。
収容対象の大半が人間型であるこのセクターで、「扉の前に立っている存在が人間に見える」という情報は何の安心ももたらさない。それが知り合いの姿であっても微妙な所だ。
「ごめんなさいね、毎回こんなのが挟まって。バカバカしい慣習だと思うんだけど」
「いえ……」
そして、一度迎え入れた人間に対してはかなり親切だというのもこの施設の特徴だ。結束が固い、というのだろうか。そう言うと、扉を開けてくれた女性は「どうかな」と笑った。
「波戸崎さんでしたっけ、いったいどうしてこちらに? お爺さんにやめとけって言われなかった?」
「8105に行くなら覚悟しとけとは。ですが、これでも調教には精通していますし、その中には人間も含まれます。いずれお役に立てるかもしれませんから」
「そっか。じゃあ、いつかお世話になるかもしれないね」
「はい。その時はよろしくお願いします」
名刺を交換し、一礼して退出。これの繰り返しだ。
日が傾いてきた頃、道明寺さんの端末がけたたましい音を鳴らした。どうやら緊急の呼び出しらしい。仕方ない事ではあるが、正直に言えば困ったなと思う。帰り道がわからないのだ。人間並み、あるいはそれより知能の高い相手を収容するため、このセクターの構造はかなりわかりづらくなっている。認識災害がかかっているんじゃないのか、という人も居るほどだ。
「本当にすまん。そう長くはかからないだろうし、かかっても別の人を迎えに行かせる。上の階の休憩室で待っててくれ。そこの非常階段から昇れば迷わないはずだ。すぐ右にある」
「じゃ。一人で休憩室で待っていればいいんですね?」
「いや、先客がいる。今田さんなら、まあ大丈夫だろ。『常夜灯の主に会いに行けと言われた』と言えば何とかなる筈だ」
じょうやとうのぬし。ものすごい単語がいきなり出てきた。いや、それに驚いている場合ではない。ここの人間がどれほど余所者を警戒するか、さっきから散々目の当たりにしていた所だ。そんなフレーズで突破出来るものだろうか?
「大丈夫なんですかそれで?」
「ああ。あとあの人は修士だから博士って呼ぶと機嫌を悪くする。試してみるといい」
「はい?」
前半と後半のつながりが意味不明だし、初対面の人間について知るべき情報ではない。というかこの場合、もっと知るべき情報は大量にあるだろう。どこから指摘するべきかと考えている間に、道明寺さんは「じゃあ健闘を祈る!」とだけ言って走り去ってしまった。薄暗い廊下に僕は一人で取り残される。
突っ立っていてもどうしようもないので教わった通り非常階段に出た。ああ、じいちゃん、今日の星は綺麗です。だって山奥に隔離されたセクターだもの。現実逃避じみた事を想いながら、暗い階段を上る。問題の休憩室はすぐに見つかった。施錠された扉を叩くと、「どなた様?」と男の声が答えた。とりあえず、正直にここまでの経緯をかいつまんで話す。
「……それで、道明寺さんから『常夜灯の主に会いに行け』、と言われてここに来ました」
しばらくの沈黙の後に、「どうぞ」と扉が開いた。第一関門は突破したらしい。礼を言って部屋に入ると、背後で鍵を閉める音がした。迂闊だったかもしれないとその時思った。
ドアの前に立つ男を見る。口元こそ穏やかに笑っていたが感情は何も読み取れなかった。ただ人間の笑顔を意味もわからず真似たような──真似たような?
「常夜灯の主。ここの人間はそう呼ばれてたんですね。抵抗が激しくて面倒でしたよ」
そういえば、道明寺さんの急な呼び出しは何だったのだろう。ここ財団では、何がいつ起きるかわからない。
「でも貴方のような人が来てくれたならその甲斐もあったというものです」
セクター-8105。主な収容対象は危険な人間型SCiP。目の前の存在が人間に見えることは、何の保証ももたらさない。他に出口がないことは把握している。窓は何故か封鎖され、嵌め殺しの摩りガラスがあるだけだ。外から内部の様子は見えない。
「ようこそ、波戸崎くん。歓迎します。座ったらどうですか?」
「……僕がここにいることは大勢の人が知っている」
声は震えていなかった。屈してなるものか。僕だって財団職員だ。何とかして時間を稼ぐ。不安要素を植え付ける。それだけでも動きは鈍るものだ。
「この階を封鎖する準備はもう整った。このピジョンヘッドの中には無線があったんだよ。リアルタイムでその台詞は全部送られてる。合言葉だって決めてあるから僕には成り済ませない。今田さんにもだ」
「はは、大した虚勢だ! 何があろうと僕は人間としてこの階を出られるさ、どれほどの検査があろうとも」
「どうして言い切れる」
男は今度こそ本気で笑っていた。僕の問いに、マントの下からネームカードを投げて寄越す。顔写真は確かに目の前の男のものだ。見比べていると、鍵が開いた音がした。
「そろそろ続けるのも厳しくなってきましたね。冗談が過ぎました。僕、本物の人間です」
「え? はい? そう言われても……」
手元のネームカードに視線を落とし、ふと思い出した。
「僕はただ、今田博士に会いに行けとしか聞かされてないんです。何を信じろと」
「僕、修士です。聞いてなかったんですか」
「いえ、修士だから博士と呼べって」
「あの野郎……。まあそういうことです、納得出来ました?」
彼はわざわざ不機嫌そうに答えてからニッと笑って見せた。不必要な情報とか思って悪かった。とんでもなく重要な情報だ。
「はい、とても。逆に僕がそれ聞かされてなかったらどうするつもりだったんですか?」
「この場所の話を聞いてそれを聞かされない訳がない。特に道明寺くんは先輩から叩き込まれてる筈だし」
「とんでもない場所ですね、ここ」
「0916事件の置き土産でね。今でこそ冗談混じりですけど、直後は大真面目だったらしいですよ。誰も信用できなくなって」
「……」
「でもその雰囲気も薄れてきてます。紅茶でいいですか? コーヒーはインスタントしかないんですよ」
「遠慮しておきます」
「そうですか。警戒心があるのはいいことです」
「誉められてる気がしませんね」
「でも実際大したものでしたよ。僕は虚勢を見慣れてるからアレでしたが、並のSCiPなら真に受けるかも」
どう答えたものかと考えていると、再び扉がノックされた。迎えが来たのだ。
「博士ー! 波戸崎さん、そっちにいるか?」
「修士です。無事こっちに来てますよ」
「どうだった? 入れてもらえたろ?」「死を覚悟しました」
道明寺さんはそうかそうかと笑った。笑い事ではない。そう言おうかと思ったが考え直して別のことを尋ねる。
「常夜灯の主って何なんです」
「あの人、昼夜逆転者なんだよ。それでずっと電気がついてるから」「それだけ?」
「深夜の惨めな帰投が続けばそんな事は言えなくなるぜ。あの部屋はセクターに帰ってきた時に最初に見える光なんだ。そこが必ず光ってるから、眠れないのは自分だけじゃないと知ることができる」
「……」
「ああ、ここまで来たら迷うことはないな。またこっちに来るときは連絡してくれ、歓迎するよ」
「はい。ありがとうございました」
セクターを出るゲートをくぐる直前、僕は振り返った。確かに、あの窓が光っているのはよく見えた。星にも似た、変わらない光をこちらに届けていた。
空が晴れ渡っているのを喜ばしく思ったのは、勤務開始からでは今日が初めてかもしれない。ピジョンヘッド越しに目に入った青色が緊張を忘れさせてくれる。
「それにしても、鳩のマスクを被る女性恐怖症患者ですか……。相変わらず、新規雇用者まで変わり者ですね」
僕を先導してくれている女性――エージェント・梅田がこちらを振り向いた。顔のパーツそれぞれが針に似た刺々しさを放っている。「財団らしい人だ」というのが第一印象だった。
こんな僕でもマスクさえあれば、先輩女性職員の嫌味めいた呟きにもマシな応対ができる。……向こうの言い分が正しいとは思うけど。
「そんなんじゃないです。第一、これは調教と飼育に使うマスクです」
日頃、この理由は僕に追い打ちをかけるに過ぎない。それを証明できる動物なんかいないから。
だけど今日は違う。今日の僕はちょっと気が強いんだ。
右手には、僕が信頼を寄せる相棒鳩「エンリケ」を入れた鳥籠の持ち手が掛かっていた。
「そうですか」
梅田さんは溜まったものを出すように息を吐くと、再び前を向いて歩き出す。
「マスクを被れば表情も隠せます。表情を隠すのは効果的ですし、探られないようにするにはいい案だと思いますよ? 最も、初対面の相手にそれは不適当ですがね」
「だから違いますよ」
どうやら話を根っからは信じないタイプらしい。尋問を思わせるやり取りがしばらく続いた。
「あそこです。それでは、私はこれで」
そそくさと去っていく梅田さんを見返してから、僕は正面に視線を戻す。ピジョンヘッドを一旦外すと、森林のマイナスイオンが僕を汗ばんだ顔を冷やした。
サイト-8137は他の山の深部に建設された施設同様、外へ行けばすぐ森へ出る。自然に浸るには適した環境といえるだろう。
むせ返りそうなくらい植物に囲まれたこの一帯で、それらしき人物が丈の高い草の中に寝そべっていた。
おそるおそる接近する。そこでやっと、一眼レフを食すように抱えた男性だと知れた。
声をかけようか迷っていたところで、彼のカメラは短く二度鳴る。冴えた電子音とどこか呑気なシャッター音。二つの音が空気に溶けて消滅する。被写体でもないのに僕は硬直した。
身を起こし、彼は一眼レフの画面を覗く。しめしめとで立ち上がり、ようやく顔を上げる。僕の視線に気づくのに時間はかからなかった。
「……いつからそこに?」
たぶん気まずいだろうなと思っていたが、別段気にしない人だったらしい。ワークキャップに掛けたサングラスを掛け、カメラを手にしたまま僕に向かってきた。
「噂はかねがね聞いてるよ。波戸崎濠だろ? 俺も君の父さんや爺さんには世話になったからね」
「え、あ、はい。このたび財団に研究員として雇用されました、研究員の波戸ざ――」
先手を取られた僕の挨拶を容赦なく遮り、彼は突然中腰の姿勢を取った。体は僕の右手側に置かれたエンリケの籠に向いていた。
「これがエンリケか! いやー、会いたかった。このご時世、本当に君らのコンビは希少だよ」
「あの、まだ挨拶が」
「事前に連絡も寄越したんだ。互いにもう知り合いだろ。省略じゃダメか?」
「いや、なぁなぁで終わらせるのはちょっと……」
「なるほど。納得した」
彼はもう一度膝を立たせる。咳払いの後、声を整えるのが聞こえた。
「撮影技師カメラマン、甘梨和明。オブジェクト撮影時に専門機材が必要なら現場に呼ばれる。今度会ったらよろしく」
素っ気なく挨拶と自己紹介を終わらせ、甘梨さんはまたエンリケに目を向ける。
「完了だ。実物を見せてもらえるかな」
「わかりましたよ……」
へなへなと腰を曲げ、肩掛けした鞄を降ろした。長方形の厚い箱を取り、クッション材が詰められた内部からベルトの付いた小型電子機器を掴んだ。同時に籠を開いてエンリケを手の甲へ乗せる。暴れないのを確認してから地面に下ろし、僕はエンリケに機材の装着を始めた。
実はこの面会は予め設定されたものだ。彼は基本国内外を転々としており、所属サイトを訪問しても滞在しているとは限らない。確実に会うには日程調整が必要だ。
話を持ち掛けたのは甘梨さんだった。僕としては都合のいいときに挨拶できればそれでよかったのだが、彼はどうしても顔合わせがしたかったらしい。最も、目的は僕じゃなくてエンリケだろう。
「今の時代、空撮の主流はドローンだからなぁ。バードカメラも面白いのが撮れそうだけど、調教の手間を考えると手は出せないし」
準備を進める僕を見下ろし、彼は独りごちた。
視点確認のために付けたゴーグルを外す。それを甘梨さんに渡して着用を促してから、僕はピジョンヘッドを被り直して立ち上がる。腕に留まるエンリケの鳩胸にはベルトが巻かれ、背には四角い小型カメラが設えてあった。
数回小刻みに頷き、マスクの嘴が揺れる。視線の先、鳩の彼も応じてこちらを見たような気がした。
空を掴むように腕を掲げれば、エンリケは僕の腕を蹴って飛び立った。
灰色の翼が太陽に重なり濃厚な黒へと変わった。エンリケが空を我が物にして悠々と翼を広げる姿は、見ている僕の気分すらも軽快にさせる。
森をぐるりと一周旋回。その頃には、隣からの歓声は上がりっぱなしになっていた。
「おいおいおい、すっげぇな! 森の隅まで一辺に見えるのに、スピード感は全然落ちない……これがバードカメラか、想像より数段良いな」
「実際にその速さで飛んでますから」
「それはわかってるが……こんなにドローンと違うなんて思わなかった」
新世界を前にしたかのような興奮が口許に露出し、またまじまじとゴーグルを覗き込む。新しいおもちゃを与えられたばかりの子どもの挙動を連想させた。
ひとしきり感慨に浸ってから、甘梨さんはゴーグルを外してエンリケを目で追った。
「あー、職員やってて良かったなぁ。後輩でこれが扱える奴なんて早々いないぞ」
「そんなにですか?」
「そんなにだよ。鳩カメラなんて大昔に使い手がほとんどいなくなったんだ。俺にとっては貴重だよ」
急な切り返しだった。僕の言葉に含みはないつもりだったが、何か気に触ったのだろうか。
エンリケを眺める姿勢を保ち、甘梨さんはサングラスを掛け直した。無邪気にはしゃいでいたその人も、目をアイテムで覆い隠せば表情が読めなくなる。僕にはそれがちょっとだけ寒々しかった。
「濠くん――いや、波戸崎研究員。一つ聞いてもいいかな?」
「なんでしょう?」
「今の時代はドローンが主流。けど、最先端技術をこよなく愛する財団でもバードカメラが必要とされてる。それは何故だ?」
いきなり投げかけられた質問に戸惑いながら、僕は思考を整理する。
要点は、バードカメラが求められる瞬間が存在することだ。甘梨さんの言う通り、普通の空撮ならドローンで構わない。強風などの自然条件が相手なら鳥だって危険だし、電子機器を制限される状況ならカメラ自体が介入できない。
導き出される環境は一つ。
「人工物を警戒するオブジェクトに最大限近づくため……ですかね?」
「正解。要は自然に紛れるためだ」
一拍の間を置き、彼は口を開く。
「俺も同じなんだよ。正直、世界の危機なんかどうだっていいんだ」
肝を冷やして見返した僕を無視し、甘梨さんは淡々と続ける。まるで趣味の話をするみたいにフランクで、肩の力を抜いて喋っていた。
「俺だって人並みに正義感はあるけど、賢いわけでも機敏に動けるわけでもない。できることは限られてる。メリットがなかったら、俺はとっくの昔に退職を申し出てる」
でも、とそこで逆説を差し込んだ。
「秘密組織に紛れ潜んでたらさ、超常現象をこの目に見れるんだ。隠蔽されてしまうはずのそれを、俺は写真に撮ることだってできる。こんな楽しいこと、他にあるか?」
彼は口角を上げた顔を僕に向けた。
楽しい。過酷さや非人道さが強調される財団で、こんなことを言ってくる人も珍しい。浮き立つ感覚に包まれてぽかんとしていると、彼のサングラスに映った自分の姿が目に映った。
やがて、飛び回っていたエンリケが戻ってくる。ホバリングを挟んでから高度を下げ、草の上に着地を決める。
機材を取り外してエンリケを撫でる僕を見据え、ゴーグルを手渡すついでに甘梨さんはまた尋ねた。
「動物を育てるのは元々好きなのか?」
「はい。大事な友人たちですし、過ごしていて楽しいです」
「それはよかった」
カメラの肩紐を首に掛け直してから、彼はボトムスのポケットに手を突っ込んだ。
「自分の楽しみを見失うなよ。本当に酷いだけの人間になるからな」
これ金言だから、と甘梨さんは冗談めかして笑った。
サイト-8137からの帰り道、頭の隅で「探られないように顔を隠すのは効果的」という梅田さんの話を思い出す。
そういえば、あのときの甘梨さんの顔はほぼ常時サングラスで隠されていて、目許があまり見えなかった。
彼の金言らしき言葉と笑みが妙に引っ掛かるのはそのためだろうか。
結局、僕にはあの微笑が本物なのか、あるいは何かを隠した上に築いたものなのか、判断がつかなかった。
「えーっと、もう一度言って貰っても良いですか?良く聞こえなかったみたいで……」
頭をすっぽりと覆う鳩頭マスクの中で波戸崎は困惑をあらわにして聞き間違いであってくれと願った。
「波戸崎さんに人心掌握術について教えていただきたいのです」
目の前の女性の七色に輝く瞳を眺め、彼は数分前の自分の判断を恨みマスクごと頭を抱えた。どうしてこんなことになってしまったのだろう……。
先輩職員たちへの挨拶回りを行っていた波戸崎は既に何人かの職員たちに挨拶を済ませ、次に誰の所へ向かおうか考えているうちに天宮博士のオフィスが目に入る。オフィスの主は事務仕事中であったものの、彼の訪問を快く迎え、飲み物とお菓子を提供してくれた。
「初めまして、これから財団で勤めさせていただく波戸崎 壕です。ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いしますね。波戸崎さん」
天宮博士の第一印象は「お淑やかで優しそう」というもので、これまでの挨拶回りで目にしてきた職員たちの奇天烈ぶりを知っているだけに彼女の落ち着いた雰囲気は波戸崎を安堵させた。
「天宮博士はどのようなSCiPを担当されているのでしょうか?」
「特にこれといった傾向はありませんね。所在サイトの管轄範囲で新しくアノマリーが発見された際に取りあえずという形で最初に任されることが多いと思います」
「それは凄いですね……未知のアノマリーの初期収容ってだけでも大変そうだし、色々な分野の知識も必要ですよね?」
「ええ。苦労も多いですし、幅広い分野の知識も必要になります。ですが、私一人でやっているわけではないのです。協力して下さる職員の方たちのおかげで何とかこなせてきました。いつか波戸崎さんに協力していただくことになることもあるかもしれませんね」
「そうなったら精一杯手伝わせていただきます!」
「その時はよろしくお願いしますね。そうでした、1つお願いがあるのですけれど」
天宮は座ったまま脚を組み替えた。対面には波戸崎がいるものの、ズボンを履いていたため特に問題は無い。しかし、次に口から放たれた言葉は大問題であった。
「私に人心掌握術を教えていただけませんか?」
どうやら財団には奇天烈な人間が多いらしい。
「どうして僕にそんなことを……?」
「私は職業柄色々な知識が必要になるということは先程お話しましたね」
「は、はい。そうですね」
「財団によって発見されるヒューマノイド型アノマリーには元人間が後天的に異常性を得たという事例が幾つもあります。そういったアノマリーは精神構造が人間とさほど変わらないということも多く、人心掌握術を習得しておけると何かと役立つと思うのです」
「はあ……」
天宮の言い分に一応の筋が通っていたことや、歓迎してもらったこともあり断り切れず、結局波戸崎は人心掌握術について解説することとなった。
「……とまあ、大体基礎的なことは教えられたと思います。基本は「相手が何を欲しがっているかを相手の立場で考える」ですね。自分の求めるものを与えられると与えてくれた存在に好意的になるのは人も動物も同じですから」
「なるほど、よく解りました。ありがとうございます」
「そういう意味では天宮さんの落ち着いた雰囲気とか物腰の柔らかさは色々と役に立つと思います」
波戸崎の解説を聞き終えた天宮は時計を見上げてハッとした表情を見せた。
「どうしましたか?」
「すみません、こんなに遅くまでお引止めしてしまって……」
「ああ大丈夫ですよ。お構いなく」(鳴蝉博士の時に比べればこんなものは引き留められた内にも入らないんじゃないかな)
「色々と教えてくださりありがとうございました。今後に役立てさせていただきますね」
天宮に見送られ部屋を出た波戸崎が数歩進んで振り返ると、彼女はまだ手を振っていた。通路の曲がり角を超え、数歩進んでから戻って様子を見ると、まだ手を振っていた。彼はもう振り返らなかった。
(天宮博士、彼女は本当に人心掌握について素人だったのか……?振り返ってみればさっきまでの僕は上手い事乗せられてしまっていた気がする。部屋は片付けられていたけどオフィスとして作られたにしては明らかに物が少なすぎだった。僕が今日ここに来ることを最初から知っていたのかではないか……?)
彼は鳩頭マスクを被ったまま首を振った。陰謀論みたいなことを考えてもしょうがない。それが彼の導き出した結論だった。どちらにしろ、彼女に何かをされたり何かを取られたわけではないのだから。
天宮麗花は部屋に置かれた荷物の大半を段ボール箱に片付けて台車に載せると、あるところに電話を掛けた。
「今日は部屋を借していただきありがとうございました」
「おかげで、前から欲しいと思っていたものが手に入りました」
夕陽が窓から入り込む部屋の中で天宮麗花は微笑んでいた。半分影に覆われたその表情はどこか非人間的なようにも見える。
波戸崎咲上級研究員の人事ファイル
氏名: 波戸崎 咲(はとさきorはとざき さき)
セキュリティレベル: ♥
職務: 機械工学、ロボット工学、メカトロニクス、航空力学
専門分野: オブジェクト調査用ドローンの研究、開発
所在: サイト-81██研究室
人物: 200█/06/16生まれ、サイト-81██内病院出身。波戸崎咲は、元々財団職員であった祖父である波戸崎 繫(はとさき けい)博士、父であるエージェント・波戸崎 懷(はとさき かい)により、幼女時代は財団内部のサイト-81██託児所などに預けられていました。██小学校卒業後、海外留学にて飛び級制度により17でマサチューセッツ工科大学を卒業後、波戸崎博士、エージェント波戸崎、兄である波戸崎壕研究員に推薦され財団に研究員として雇用されました。
串間姉ぇは永遠のお姉ちゃんっす。-波戸崎咲上級研究員
波戸崎上級研究員は、卓越したドローンの操縦技術を持っています。
彼女は常に自分の開発したドローンを自分の上空に随伴させ、そのカメラから送信された映像を自身の目に装着したコンタクトレンズ型ディスプレイで見ることにより周囲の状況を把握しています。
また場合によっては、複数台のドローンを一度に操作することにより、自身の周囲だけでなく自身から離れた全く別の位置の情報を同時に複数取得しながら行動できるだけの情報処理能力、空間把握能力を有しています。
しかし軽度の男性恐怖症であり、ドローンによる映像での状況把握ではなく、自分の目で財団男性女性職員と接する際にはどもり、小声等のコミュニケーションの不足が見られます。
違うんすよ!ガブリエルはあたしの親友だから、ひとときも離れたくないだけっす!、あと、ただ男性に上から目線で見られるのが嫌なんすよ!決して近い目線で見られるのが怖いとかそういうんじゃ・・・ -波戸崎咲上級研究員
波戸崎上級研究員には、重度の散らかし癖があり、自身の研究物に埋もれて出られなくなってしまう事が度々起こり、時々波戸崎壕研究員を中心とした研究室探索、並びに整理が行われています。
今あたしが興味を持っているものっスか?財団職員諸先輩方の組み合わせを考えることっすかねぇ。いやぁどの方とどの方が組み合わさったらより効率的に仕事が進むだろうとか、そういうの考えるのが楽しいんすよ。 -波戸崎咲上級研究員
また波戸崎咲上級研究員は波戸崎研究員と接する際のコミュニケーション補助なども請け負っており、女性職員は波戸崎研究員へのコミュニケーション対応に関するアドヴァイスなど相談してもらってかまいません。
ダメな兄ですが、これでも家族なので壕兄ぃに関しての相談なら任せてください、マジっす。-波戸崎咲上級研究員
わが妹よ!余計なおせっかいはやめてくれ!-波戸崎壕研究員
あと出来れば俺より先に出世するのはこれ以上やめてくれ!-波戸崎壕研究員