twitterで不定期に開催されている「文体シャッフル企画」関連のやつに出した文章です。
食事というのは娯楽である。フレンチトーストを頬張りながらそんな事を考えた。娯楽というのは楽しくなくてはならないはずだ。その定義からすれば目の前にいるのはこの場にそぐわない人物だった。
「君さあ、回し飲みとか大丈夫なタイプ?」
そう言ったのは親が決めた婚約者だ。人との距離感を一回り間違えているタイプの人で、俺はこの人が少し苦手だった。好きになった方がいいのだとは思うのだが、なかなか上手くいかないものだ。
「ダメだね。みんなで煮物突っつくのとかも嫌かな。食事に関してはかなり潔癖」
そう答えると、ふーんと言って彼女は蜂蜜の瓶に手を伸ばした。
「いるよねえ、そういう人」
彼女は穏やかに笑いながら瓶を傾けた。その姿が予想外に美しくって俺は少しどきりとした。まだ微かに湯気を立てるトーストに琥珀色の水たまりが広がって、皿の上にこぼれ落ちていく。
「私はそういうの分からないけど、あれだ。尊重するよ」
彼女はそう言いながら瓶の縁に指を滑らせ零れかけの蜜をこそいだ。それを見てスッと我に返る。言行不一致。この人を好きになるにはまだ時間がかかりそうだな、なんて思いながら何食わぬ顔でコーヒーを啜った。
帰り道で何かの人形を蹴り飛ばした。女の子の人形だったと思う。道に無造作に転がっていて気付かなかったのだ。あっと思う間もなく人形は通りがかった車に轢かれて粉々になってしまった。
家に帰ると少し空気が淀んでいるような気がして窓を開けた。その瞬間、言い知れない恐怖が湧き上がった。ひやりとした風が首を撫でる刃物のように思えて無意識に首元を手で押さえ——
その手に痛みが走り、ぱしゃりと血液が吹き出した。驚いて後ろに倒れ込んだところに続けて鈍い音が響いた。後ろを見るとドアが中央から横に真っ二つに割れていた。さっき痛んだ手を見てみると赤い傷が走っている。
開いたままの窓から夜の闇がじわりと染み出してくるのを感じた。危険だ。そう理解した後の行動は早かった。立ち上がって、ドアを開けて、脇目も振らず駆け出した。
逃げろ。だがどこに?いつまで?
力の限りに走り続けて、いつしかそんな疑問が浮かんだ。走る速度が落ちて行き、やがて足の動きが止まった。膝に手を当てて荒い息を整えた。それは図らずも首を垂れるのにも似た姿勢で。
自分の首が落ちた音は聞こえなかった。けれど代わりに暗闇から伸びた刃と白い細腕を見た、気がする。
はるか遠くに光が見えた。その光に背を向けて、どちらを向いても青い中を降りていく。
沈んでいく、と言った方がいいだろうか。ついさっきケーブルが切れてしまった。極めて重い潜水服は重力に引かれるままに沈み始めた。人一人の力ではどうにもならない。もはや助かる術は無い。
酸素はしばらく保つだろうが、いずれ俺は死ぬはずだ。それまでこの海を観光するのも良いだろうと思ったが、周りにあるのは濁りきった青だけだった。青の中に独り漂う。だというのに、俺は不思議と落ち着いていた。もしかしたら、それは母なる海に包まれる安心感が故なのだろうか。
どうでもいい、とぼんやり思って上を向いた。見えなくなった海面に向かって青がグラデーションを作っていた。下に向かって濃くなる青の先にあるのは、黒だった。
青が黒に変わろうとしている。きっとすぐに何も見えなくなるだろう。もう既に、前に伸ばした手の先が黒に溶けていきつつあった。
暗がりに広がる青い染み。光の名残が小さくなって去っていく。そして全ては無限の暗闇に包まれた。
何も見えない暗がりの中、呼吸音だけが耳に届く。その音は次第に深く、長くなり、やがて静かに消えていった。
幼い頃から死を身近に感じてきた。それは父の影響だろう。父は病室のベッドの上で私に力強く笑顔を見せて、直後に血を吐き身罷った。私は人が死ぬ事を思い知った。今思えば、父の笑顔は幼子を恐怖させまいとする心遣いだったのだろう。けれど私がそこから得たものは生死の境界の危うさだった。死には確たる前触れなど存在しない。その教訓が私の心を形作る核となった。
いつ終わるとも知れない死と隣り合わせの生に執着する中で、私は自然と死に惹かれた。道を歩く虫を殺し、緑地に住まう鼠を殺し、ゴミ捨て場を漁る鴉を殺した。もちろんバレないようにこっそりと、時間をかけて少しずつ。そうして初めて人を殺したある日、私の中に一つの考えが芽生えた。
結局のところ人に死の覚悟なんてする暇は無くて、死ぬときは多くの後悔を抱えて、泣き叫んで、あるいは泣き叫ぶことも許されず、理不尽に命を失っていく。なんと無慈悲な事だろう。
私は殺す前に死期を告げる事にした。きっちりと、予告した通りに訪れる死。この世に足りない慈悲を補う。私は死における慈悲となった。今や人は私を死神と呼ぶ。そうだ、私は死神なんだ。
だから君にも慈悲をあげよう。君の死ぬ日は━━
静かに紫煙を燻らせていた。もう何度目になるか分からないルーティーン、自ら定めた儀式の一つだ。目の前には面布を被った死体があった。若い女の死体。骨の形からそういう判定が下されている。短くなった煙草を灰皿に押し付け、面布をそっと取り去った。顔があるはずの場所には乱雑に断たれた髪と毟れられた後の肉、そして白い頭骨が鎮座していた。
顔を顰める。嫌な予感はしていたがまさかここまでとは思わなかった。続けて体の方のシーツも捲るがその状態は似たようなもので、辛うじて人の形を保っているだけという印象を受けた。懐から写真を取り出し見比べる。これがこうなるものなのかと思うとため息が出た。
懐に写真を戻すとき、硬質な紙に指が触れた。いつか渡された一枚の名刺。そこにかかれたシンボルが脳裏をよぎる。この死体に何が起きたのかは定かではない。だが、彼らに頼めば、あるいは。
しばしの逡巡の後、何も握らないまま手を戻す。確かに彼らに連絡すれば事態は解決するだろう。けれどそれに何の意味があるというのだ。彼らは鎮魂も慰めも与えない。ならばそれを与えるためには。
決意を胸に霊安室の暗がりを出る。警察の仕事はまだ、終わっていない。
体に毒だと煙草はやめたが、ライターだけは手放すことができなかった。
そいつの事が好きだった。いつもへらへらとしていて、煙草が好きで、けれど面倒くさがりでライターのオイルをいつも切らしている奴だった。
煙草を吸っていると煙草を咥えて寄ってきて、片眉を上げてライターを取り出す私にそこはシガーキスだろと笑いながら文句を言ってくるような、そんなふざけた奴だった。
お高いライターを何個も買って気分で使う変な女にそう珍しくもないライターをプレゼントして、俺の火はそれで点けてくれ、なんて言う勘違いした奴だった。
毎日煙草に火を点けてやっていたから、あの日も出がけに差し出されたそれに火を点けてやった。オイルが切れていたからと、あいつのくれたライターではなくしまい込んでいたコレクションで。
帰ってこなかった。肉片一つも戻らなかった。あいつの棺は空っぽで、空っぽのまま土に埋まった。何も入っていなければ煙草に釣られてあいつが帰ってくるような気がしたから。
今日も私はあいつが吸った煙草を買って、あいつがくれたライターを手入れして、何に火を点けるでもなく炎を手元で灯している。いつかこの炎が揺れる日を、私はずっと待っている。
A→Alternative
死体が蘇り始めて30年も経てばそれを本当に殺す装置なんてものも生まれる。それに伴って蘇った死人を捕らえる仕事が生まれた。処刑人だ。正式な名前は別にあるが、長ったらしいので誰も呼ばない。当の処刑人でさえも。
処刑人の数は少ない。現状を知った死者は群れ、武装し、抵抗する。それを防ごうにも知己が殺されるのを容認する者は多くなかった。それが人情というものだ。必然的に生きた死者は増え続け、処刑人は少数精鋭、特別な人間の集団になっていった。
最初の処刑人たる彼女はその中でも特別だ。強さもそうだが、彼女は死者でありながら処刑人でもあり、100%の連行率を条件に処分を免れている。
彼女の死者殺しが仕事になった経緯は知らないが、少なくとも彼女は死者の殺処分が決まる前から死者を殺し続けてきた。死者故に老いず、成長もしない、膂力に劣る17歳の華奢な体で。
死者を殺す理由について彼女はいつもこう語る。
「死人はいくらヤっても増えねェ。歳も取らねェ。どうせいつかは土地が足りなくて死人か生者、どっちか選ぶ事になンのさ。だったらオレは生者を選ぶね」
それだけではないはずだ。彼女が時折眺めている古ぼけた写真には幼い彼女を抱き寄せて笑う男女の姿があるのだから。ほんの少しだけだとしても、死んだ両親との再会を彼女はきっと願っていた。
ある日の巡回の終わり際、彼女は自らを呼ぶ声に振り向いた。僕たちも遅れて振り向き、駆け寄ってくる男女の姿を視認した。写真で見た顔。固まった彼女が再び動き出す前に、部下が彼らを撃ち殺した。
「まァ、そういうこともあらァな」
無線で回収を要請したきり立ち尽くした彼女は、回収班が去った後、か細い声でそう呟いた。
祖父の家に向かう途中で猪を撥ねた。それからずっと変な音を立てながら走っていたジープは到着と同時にめっきり動かなくなってしまって、僕は帰る足を失った。
ため息をつきつつ車を降りると、半開きになった門の間から祖父が顔を覗かせていた。
「キョウか。どうした、こんな夜更けに」
「あー、その、親父が失踪して、ここ電話繋がらないから、それで来た」
「そうか…」
どう言ったものか迷って結局そのままを口にした。顔をやや強張らせはしたものの、祖父が取り乱す事はしかし無かった。
「まあ入れ。その様子だと今日は帰れんだろう」
そう言って祖父は屋敷の中に入っていった。
屋敷には誰もいなかった。
「お手伝いさんは?」
「暇を出した。そろそろ頃合いかと思ってな」
「頃合いって?」
「ああ」
答える気は無いのか祖父はどんどん歩いていく。東の縁側に出ると森のざわめきが一層よく聞こえるようになった。この屋敷は塀に囲まれているが東側だけそれが取り払われていて、庭がそのまま森の暗がりに繋がっている。
「昔からこの家の者はいずれ変じると言われておってな」
祖父は立ち止まってそう言った。
「何にかは分からん。鳥か獣か、ひょっとすると草木かもしれん。ただな、この屋敷を一族が代々受け継いできた事だけは確かだ」
与太話だろうと思った。けれど遠い目で森を見つめる祖父の顔を見て笑おうという気にはなれなかった。
「この屋敷はな、変じた者がいつでも森に帰れるようにできておるのだ」
帰り道のタクシーの中で、案外あやつも何かになって戻ってくるかもしれんぞと冗談めかして笑った祖父の顔と、行きで撥ねた猪の事が頭の中から離れなかった。
辛くなると滝壺に向かう。
そこには何も無い。文明も、喧騒も、自然の煌きすらもほとんど無い。昔からそういう場所だった。とは言え僕が知る程度の事などこの場所のスケールでは瞬きにすら満たないのかもしれないけれど。
この場所はかつて弐つの川が注ぐ巨大な湖の中心だったらしい。今はもうその湖は無いし、当時の記録も残っていない。ただ、都市開発の途切れ目の不自然さだとか、近づくにつれて際限なく柔らかくなっていく底無し沼にも似た地質の分布だとか、そういうものの真ん中を辿ると決まってその滝壺が目に入るから多分そうなんだろうと言われている。とは言えそれも今は昔。僕たちの知るその場所は、穴の中に静かに水が落ちていくだけの風景だ。
どんな辛い事があっても、どんな苦難に襲われても、滝壺には同じような量の水が落ちていく。何か不思議な力で保たれているのではないかと思うほどにその場所はいつまでも変わらなかった。初めて訪れてから何年経ったかも分からないのに懐かしさを感じる事すら無いほどに、ここはいつ来てもいつも通りだ。
だから滝壺に向かう。どうしようもなく苦しくなった時、壊れてしまいたくなった時、その場所が僕が僕である事を確かに思い出させてくれるから。そこに行けばどうにかなるのだと心がはっきり覚えている。
それはあるいは、僕が滝壺の力を借りて生きてきたのではなくて、いつの間にか自分の一部になっていた僕を滝壺が離そうとしなかっただけなのかもしれない。それでもいいか、なんて思いながら僕はやはり、滝壺への道を歩くのだ。
「憧れはあくまで憧れだって気づかなかったわけじゃない。夢見た先に輝かしいものがあると信じたかった。最初からそれだけだったんだ」
その言葉をきちんと理解できるほど当時の僕は賢くなかった。大人びていても大人ではない、調子に乗ったクソガキだった。それで良かったのだと思う。もっと理知的で見栄を張らないだけの謙虚さを備えていたら、もっと馬鹿でどんな事でも聞き漁るような不躾さを持っていたなら、そこで何か大切なものを失っていたような気がしてならない。
僕は図らずもその時点における最適解を出したのだろう。けれど今になって思う。その最善は、ここにいる僕にとっての最善ではなかったと。
綺麗だと思っていたものは思ったよりも綺麗じゃなくて、素晴らしく見えていた景色は思ったよりも素晴らしくなくて。諦めてもいいと思えた時には古びた夢をもう手放せなくなっていて。言ってしまえばただの幻滅。よくある話だ。本当に。そしてその「よくある話」に耐えられないような男だってきっとただの「よくいる奴」。もっと早く知っていたなら、なんて本当にありふれた話でしかない。彼が同じ道を歩んだ事が今なら分かる。足跡のついた道がこの先もまだ続いている。
過ぎ行く今日にも、過ぎ去る昨日にも愛着は無い。夢見ていたのはずっと明日だけだった。絶対に来ない明日だけだった。僕はどこに行けばいい。分からなくて、分からなくて、今親戚のガキを前にして叫んでしまいそうだけど。
開きかけた唇を噛む。未来の僕が舐め合う傷を待っているけど、今はまだ夢を見させてくれよ。
不思議がるガキを誤魔化すように笑って撫でて、こいつが僕にならなかったらいつか祝杯を挙げようと胸に誓った。
常日頃から「一人暮らしは大変だ」とこれ見よがしにぼやいていたのに、先輩は終ぞ家を教えてくれなかった。教えてくれれば毎日でも訪ねて家事でも買い出しでも手伝ったというのに。
代わりに先輩は僕の家に来たがった。最初は遠慮がちだった提案はそのうち確認と化して、時々断る素振りを見せると先輩は酷く怯えたような、傷ついたような顔をした。時々彼女のそんな顔が見たくなって理由も無く渋ってみたりした。もちろん最後には了承したが。
だからその日、本当に断らなくてはならなかったのは実に不本意な事だった。先輩は別れるその時まで震える声で本当にダメなのかと何度も尋ねてきて、明日必ず埋め合わせをすると約束をしてようやく帰路についた。小さくなっていく後ろ姿が寂しげに見えた。
数日後、先輩が何日も休んでいる事を知った僕は彼女の家を探し始めた。やれ選挙カーの騒音が酷いだとか、やれスーパーのドリアンが臭かっただとか、そういう苦労話を辿って。
夢に思い描いたような毎日だった。ずっと今が続いていてほしかった。そう思っていたのは僕だけだったのかもしれないと、どうにか探し当てた先輩の家で他ならぬ先輩の死体を目にして初めて気づいた。
物が無かった。ボロボロになった先輩の遺体とベッドくらいしか。そこは明らかにそのためだけの空間で。
なんで、と漏れた僕の声で自分のせいだと遅れて気づく。僕がどれだけ残酷な事をしていたのか、この結末を防ぐ機会がどれだけあったのか。先輩がどんな気持ちで僕の前に立っていたのか。何も分からなかった。何も。
僕の家を先輩が尋ねる事は二度と無い。それだけの事実を受け止めるのに何度胃酸をぶちまけたのか、僕はもう覚えていない。
後語りURL
https://fusetter.com/tw/Skq0iAeD
その夢はどこかに捨てていくといい。ただ足枷になるだけだから。
今更思い出した戯言が僕を地面に縫い付けている。昨日を恥じるような道を歩んだって意味が無いとずっと信じ続けているのに。一体何度追い越されたろう。何度這いつくばっただろう。けれどそれでも這い上がるしかない。這い上がるべきだと思っていた。ずっとそうしてやってきたんだ。
気づいてはいた。少し慣れてきた頃には自分は立ち止まっていると分かるくらいにはなっていた。けれどそれでも目を逸らしたのは、認めたら終わりだと直感したからに他ならない。夢を追うには夢の追い方を知らなければならない。常識も作法も、禁忌すらも知らぬまま手探りでやっていけるほどこの場所は人に優しくなかった。けれど、今僕が持つこのこだわりを一度粉々にしたならば、それは永遠に失われていたと僕は思う。それを許容できなかった。この形の美しさこそを僕は求めていたからだ。
一体何をしているんだろう。求めた物があるのなら手を伸ばせば良かったのに。夢があるなら見るべきは夢で、誇りや矜持ではなかったのに。誇りや矜持が欲しければ夢など見るべきではなかったのに。そんな事はもう知っているのに僕の足は止まったままだ。
あの日の夢に唾吐く声が頭にこびりついている。尤もらしいアドバイスが僕をここに縛り付ける。それは単なる諦めだと吐き捨てたあの日を僕は未だに諦めきれない。
今宵もフードファイトの幕が開く。3人のデブの隣に立つのはイケてるフェイスの細マッチョ。歪んだ体型を戻していた僕は2大会ぶりの出場となる。結局今日も他の半分ほどのホットドッグを平らげてギブアップして、会場のトイレで吐き戻した。
翼は熱で溶け落ちた。知っていたのだ。近づきすぎればどうなるのかは口酸っぱく言われていたのだから。それでも高く飛ばなければならなかった。彼の神の姿に手を伸ばすほど傲慢にならねばならなかった。
僕が飛び立つ時には父はまだ飛んでいなかった。2つめの翼が準備できないうちに看守の足音が聞こえたのだ。隠れろと父は言った。しかしその通りに隠れてしまえば父が未完成の翼を隠す場所がどこにも無いのは火を見るよりも明らかだった。
だから飛んだ。看守の目を釘付けにするために。その間に父は翼を隠し、あるいは翼を完成させて飛び立つ。父ならばそうする。そうできる。だから高く、極めて高く、極めて劇的な失敗を願った。
ああ神よ。今ほど貴方に感謝した事はありません。僕を焼かないように熱を弱めてくださった事、その逆を望む僕の叫びにすぐさま応えてくださった事。もはや短い命ですが忘れる事はありません。しかし僕の身を焼かなかったのはなぜなのでしょうか。そうすれば看守たちの目は絶対に僕から離れないのに。
そう思って開けた目の先、空と海の境界近くに何か白いものが映る。しばらくそれが何か分からず、そして勢い良く舞い上がってからようやく父が飛んだ事に気づいた。
水面が頭を強かに打つ。光が次第に遠ざかる。彼の偉大なる神と言えどもその恩寵は水底までは届かない。
偉大なりしへリオス神よ。貴方の慈悲深さを伝えられない事をお許しください。父の無事を見られるように目を焼かないでいてくれた感謝を伝えられない不義理をお許しください。
そして聞こえていたのなら父に伝えてはくださいませんか。愚かな息子イカロスをどうか忘れてくださいと。
宇宙ステーションは飛んでいないという話がある。ボールを投げればボールは地面に落ちていく。速く投げればその分ボールは遠くに落ちる。もっともっと速く投げれば落ちる高さは地球の丸みより小さくなる。そうなればボールは地面にぶつかる事はない。宇宙ステーションがやっているのはまさにそれで、ただ落ちているだけなのだという。
踏み切りの回転に捻りを加えて青空を見上げ、天球を横切るISSを眺めながら僕はそんな事を思い出した。海、空、宇宙。夢に満ちたフロンティアは次々と人に開拓され、その度に更新されてきた。きっと宇宙が既知となった時にはまた新しい未知が目の前に聳え立っているのだろう。今飛び越えた高跳びのバーが跳んでも跳んでも高くなるばかりであるように。
必要なのは十分な高さ。落下時間は当然最短。だからこそ僕は思うのだ。この一瞬が永遠となる時、果たしてどんな浮遊感が僕を待ち受けているのだろうか。軌道上を落ちるのはどんな感覚なのだろう。遮る物も抵抗も無く、身一つでひたすら落ちていくのはどんな気分なのだろう。思う間に僕は地面に墜落する。いつもと同じ、五秒にも満たない対空時間。
僕が落ちるマットは固く、柔らかい。立ち上がれば踏み抜いてしまいそうに思えるほどにスカスカで、着地の一瞬、自分で落ちたと分かっているのに—あるいは体が止まったからこそ—まだ落ちているように錯覚する。そうして一時僕の精神は空を飛ぶ。だから僕は高跳びが好きだ。実際より長い飛翔が見せる遥か遠い夢のよすが。
マットに沈みながら見上げれば、国際宇宙ステーションはまだ視界の中を飛んでいる。青空の中、それは悠々とバーの上を落ちていった。
自著「虚現葬想」のエピローグのような、おまけ話のようなやつでした。
そう特別な酒じゃない。
それは決して嘘ではなかったのだと思う。けれど、それが最後の一杯になると気付いてボトルを傾けるのをやめた彼女がたった一杯分の赤ワインを大事にしまい込むのを目にした時、ワインセラーに並ぶボトルの中にはどれも一杯分しか中身がないと知った時、僕はそれだけが真実ではないと気付かされた。
異常が疑われつつも明確な証拠が確認されず、機械的に弾き出せなかった職員たち。この職員寮に集められた彼らが監視されている事実を彼ら自身が知る事はない。それは寮の管理者たる僕を含め、このサイトでは5人ほどしか知らない事だ。だから3年もの間使われ続けた彼女の部屋がついに主を失った時にそれを悼んだのは僕だけだったし、同じ名前の別人が入寮者名簿に名を連ねた時、その部屋に住まわせるのを見咎める者もいなかった。
引っ越し祝いと称してかつてのままで押し付けた部屋の、一杯分のボトルが並んだワインセラーは日を追うごとに空に近づき続けている。彼女が封じた栓を破り、たった一杯でベロベロになった君に追い出される度、僕はこれで良いのだと思う。
この財団で彼女の面影を探す君は、その安っぽいベッドの上でいつか彼女が寝たのだと気づくかもしれない。それとも君は気づく事なく、ただ彼女が整えたその場所に安らぎを求めるだけかもしれない。いずれにしてもその部屋は君を温かく迎え入れるだろうし、彼女もそれを願うはずだ。けれどいつか、君が望み通りに知るべきでない事を知った時、君は自分にそれを許せなくなるだろう。
だから願って酒を注ぐ。せめてその棚が空になるまでは、酒精の見せる色鮮やかな夢の中で穏やかに眠っていてほしいと。
月が昇らなくなってから1年が経った。潮汐周期がどうのとか公転軌道がどうのとか、そういう問題は何故か起こらず、月が昇らない事以外何も変わらない日常がずっとずっと続いていた。
「あれは私がやったんだよ」
校庭にテントを設営している時、先輩は唐突にそう言った。いいかげんな事ばかり言う人だった。買い出しの時、誰かがコーヒーのLを頼めば『コーヒーのL5杯ですか?』なんて横から言う。けれど信じそうになったら冗談だよと慌てるような。僕は先輩も、先輩の虚言に付き合うのも嫌いではなかった。
へえと返すと会話が止まった。いつも真面目くさった顔でホラを吹く先輩はそんな気分ではないらしく、全然会話が無くなった。二の句が無い事に驚いたのに僕は口を開かなかった。結局のところ背中を押されて動き出した自転車を漕ぎ出していくような居心地の良さに僕はのめり込みたいだけで、止まった物を動かすつもりは少しも無かった。これと言って雑談も無いまま僕たちはテントの設営を終えた。
「聞いてくれないの?なんで月を消したんですかーって」
夜空に星が瞬き始め、いよいよ星を見ようという時、望遠鏡のピント合わせをする僕の隣で先輩はそんな事を言った。
「じゃあなんでですか」
先輩が望遠鏡を合わせた先に僕が知っている星は無かった。それっぽい星が綺麗に見えるようにのんびりとダイヤルを回す。
「月の後ろの星は綺麗かと思って」
それきり先輩は黙り込んだ。居心地の悪さを感じた僕はピント合わせを切り上げて、言葉を探しながら場所を譲った。
「良いんじゃないすか。ピカピカ光ってて綺麗ですよ」
絞り出された頭の悪い答えにただ『そう』とだけ返して、先輩は望遠鏡を覗き込んだ。
使用可能テーマ「はやぶさ/情報知性体/ヒルコ/[データ削除済]/書き出し指定 - ただ、白い部屋だった。/引用指定 - 青空文庫より文章を引用する/自称カイン/蛍池/依談/金玉/篝火」
tale「原点」のアフター
別にこんな風に生かされた事に恨みなんかがある訳じゃないが、それにしたってどうしてこんなと嘆きたくなってしまうのは、やっぱり私が悪いのだろうか。
残されたボロ炭のようなカスに煙草を落とし、火を念入りに踏み消しながら、繰り返した現実逃避をまた重ねた。ひりつく額が、瘡蓋になれなかった皮膚片の裏側のように痛みを発する接合痕が、強烈な否定を以て私を私から奪おうとしている。
こめかみを揉む。永い付き合いになるというのに彼は一向に私に友好的になってはくれない。その原因が呆けた顔で死んだこいつにあると思うと無性に憎らしく思えてくる。気楽そうで羨ましい。そんな考えを浮かべた途端に強まった疼きに私はたまらず声を上げた。
「そう怒らないでほしいものです。元はと言えばあなたが望んだ事でしょう」
それがどう聞こえたのかは分からないが、責め苛むような苦痛は嘘のように消えた。いつもそうだ。いつだってこいつは身の程を弁える。それがまた癇に障るのだ。分かっているなら最初からやめろという話なのだから。
あるいはそれこそが彼の善性なのだろうか。本当なら今すぐにでも私を食い尽くし、血の通う鼓動など止めて穏やかな静寂に身を置きたいのだろう。にもかかわらずそうしないのはある種譲歩とも言えなくはない。
「なあカイン。一体誰と話していたんだ」
いつの間にかそこにいた機動部隊の顔馴染みに、精一杯にいつも通りの微笑みを向ける。
「独り言です。実際に会えばやはり、抑えきれない思いというものがあったようでして」
嘘ではない。そこから諦念が覗く事は無いだろう。私はカインなのだから。初めから、そしてこれからも、ずっと。
↓
その一言と共に全てが終わった。
「ざまあみろ」
最初から分かっていたはずなのだけど。
これが罪というものなのか。
これが咎というものなのか。
とうに抜け落ちたナイフを眺め、静かに唇から言葉を漏らす。
血溜まりと彼女を見つめて生まれる声は脳裏に浮かぶ言葉そのまま。
「なんで、こうなっちゃったかなあ」
痴情のもつれなんて言葉で片付けてほしくはないけれど、蓋を開ければどうやらそういう結末らしい。
悪かったのは思うに私の二股か、あるいは彼女の三股か。
いくら考えてみようとも結論は何も変わりはしない。
そんなのただの言い訳で、どう取り繕おうと同じ事でしかないのだろう。
「悪気があった訳じゃ、ないんです。あなたの事は大切だった。信じてください。本当です。それだけは絶対に、本当、なんです」
宥めるための言葉なんてもはや意味を持たないのに、まるで言い訳でもするかのように言葉は口からまろび出る。
それは正当化のためだったのだろうか。同意を求めた故なのだろうか。どうしようもなく虚しいのだけど、動く唇が止まらない。
「でも、これで、良かった。そう思います」
一人はただただ立ち尽くし、一人はただただ床に臥す。こんな結末を望んだわけではなかったけれど。
だけど、まあ、過ぎ去ってしまった事なのだ。
無益な言葉が口をつく。間違っていたのは私なのか、彼女なのか。思い返せば分からないままに全てが終わりへと向かっていった。
「さようなら」
結局のところべっとりと血に濡れた掌、貴方が綺麗だと言った白い肌は、きっと最初から貴方が言うほど綺麗なものではなかったのだ。
↑
我らが星は死に瀕していた。なぜこうなってしまったのか。それを説明するに足る事実をあげつらう事ならいくらでもできる。失敗、頓挫したアイデア、単独種が真実を垣間見る事の不可能性。それらが織りなす数えきれないほどの物語を。無知と、そして生きとし生けるものの最大の罪、愚かしさが紡ぐ終わる事の無い物語を。けれどそんなものは何の言い訳にもなりはしないし、私は同情してほしい訳ではない。したがって、我々がどんなに生を渇望していようとも、この状況を説明するには我らが星は死に瀕していたとだけ言えば良いのだ。
私はとある科学会議に籍を置いていた。数年前、我々は当代において比類するものなき叡智をその席に並べ、置かれた状況を整理した。危険度を評価し、危機的、極めて危機的だという結論を出し、そしてもっと重要な事だが、その解決のために必要な方策を議論した。30年計画と呼ばれたものだ。一般人はこれを、我々が今後30年において行おうとしている問題解決に向けた取り組みを指す言葉だと捉えた。実のところそれは文明崩壊までに残された計算上の最長期間と、それを引き伸ばせる可能性のある方法の羅列でしかなかったのだが。
土地、食料、燃料。我々には必要とするものを手に入れるためのリソースが無かった。我々にあったものといえば、そう、旧型の宇宙船は使える状態で持っていた。それは数多くの明かりを何年もの間灯し続けるに足るエネルギーを有していたのだが、都市を運べるようなものではなかったし、その上解体して熱源や食料、その他著しく必要とされている物資を生産するためのエネルギー源として利用するという話が既に持ち上がっていた。我らが星は死に瀕していた。我らが民は飢餓に瀕していた。我々には希望が必要だった。
そんな時だ。星々の彼方からそれは訪れた。まるであたかも我々が糾弾した神々が下賜して寄越したかのように。地表に到達するより遥か前、大気圏にある段階でそれを発見した我々は、軌道上から取り除くためにロケットを発射した。無人の砂漠に落下したそれは正体不明のバンにより持ち去られた。我々には人々を期待させてやる余裕など無かったのだ。
私は幸運にもかの遺物の研究補助員に選ばれた。遺物の大部分はへこみや汚れが酷く、おまけに明らかに異質だった。それは何者かの手によって作られていた。我々のそれとは異なる手によって。
内部には何らかの電子機器が配置されていたが、どれもこれもが溶け落ちて灰色のロープと化していた。我々が唯一回収できた物は美しい黄金の円盤だ。その片面には円形状の小さな突起が並び、もう片方の面にはびっしりと彫り込みが入っていた。それらの模様を我々は皆食い入るように見つめた。我々がこれまで見てきたどんなものとも全くもって違っていたのだ。
「もしかしてこれは幻覚なのでは?ボブは訝しんだ」
「『ボブ』エルフの剣士は光った」
「エルフのせんし」
「はい。『ボブ』エルフのせんしは光った」
長谷川はそこで言葉に詰まった。次の言葉はエルフのせんしの台詞。だが内容が思い出せない。
困って台本に目を落としたところで中川のため息が聞こえた。
「長谷川くん。顔を上げるのは確かに大事よ。声を届けるという意味でも、自信を感じさせるという意味でもやるべき事。でもね、そのせいで台詞を間違えたり言葉が澱んだりするのは本末転倒。そうなるくらいなら台本に齧り付いて話す方がずっと良いわ」
「はい」
「アッハイ」
「……アッハイ。『ボブ』エルフのせんしは光った。『そんなことはない。いいね?』」
「アッハイ。これは幻覚ではありません」
今のは返事だったんだけどな。長谷川はそう思いながら朗読に戻った。『幻とボブとエルフのせんし』はボブシリーズでも最長で、台本はまだ数十ページも先があった。長谷川は目の前に座るメガネワンレングスお淑やか美少女先輩の中川とペアを組み、夏の高文連に向けて23ヶ月間この台本で練習している。
だが何かおかしい。長谷川は気付く。ここは男子校のはずだ。
「先輩。先輩は美少女ですか?」
「……?そうだけど」
中川は実際美少女だった。やはりおかしい。普段の中川なら朗読を止めた事を真っ先に咎めてくるはずだ。もしかしてこれは幻覚なのでは?長谷川は訝しんだ。
「長谷川くん」
中川は光った。
「そんなことはない。いいね?」
「アッハイ。これは幻覚ではありません」
そう言って台本に目を落とす長谷川を見て中川は満足げに微笑んだ。