オオカミと暮らすならオオカミのように吠えろ
20██年 ██月 ロシア 西塔 道香
それは単なる文化交流を兼ねた研修の筈だった。ロシア支部の空気を学んで来いなんて大げさな事を言っていたが実際は深みへ沈めるための罠のように思えてならなかった。
発端はちょっとした”ケチ”だった。大したことのないミスを犯してペナルティとして研修を受ける事になり、その中で一番面白そうなものを選んだつもりだったのだ。断じて肝臓の試されるちょっとした旅行などという皮肉に乗ったわけではない。ただ気が付いたらウラジオストックから大型ヘリに乗せられることになり、ノヴォシビルスク1なんていうシベリアの僻地まで飛ばされていた。現地では案内役の男がパイプ煙草をぷかぷかと吹かしながら待っており、到着した私を心底面倒だと言わんばかりの表情で歓迎の意を伝えてきた
「ようこそ、癒着と賄賂にそまった悪徳の地へ。」
案内役の20台中頃から後半に見える男はその鋭すぎる眼光でこちらを射殺さんとばかりに睨みつけた後、そのまま私をあの施設へと誘った。
20██年 冬 コンスタンティ・アレクセイヴィッチ・イヴァノフ
「怖い目つきをした女でしたよ」
そう言って過去のささやかで物騒な思い出に想いを馳せてからしばらくの事だ。今度こそ私は自分が売られたことを確信した。荷物をまとめ本国へと戻るための長い引継ぎを済ませた後、あのロシア支部諜報機関の工作担当監督官が突然訪ねてきて辞令を置いて行ったのだ。
「言っただろう?近いうちにまた会うと。」
そう言って差し出した書類には自身の転属に関する命令書と異動先が記されていた。
サイト-8100、財団日本支部理事会幕僚部 政治局行政監督部
頭を抱える私を見てあの工作担当官はクツクツと笑い
「悪いがこれはある種の贈り物ペナルティだ、しばらくバランサーとして日本と我々との権益を調整するために努力してくれたまえよ。幸いなことに髪の短く、知恵が長いあの女性2と目立たない顔立ちのFSBもどき3も同僚になるそうだ。くれぐれもうまくやれよ、贈られた馬の歯を調べようなんて思うな。」
などと口上を述べてさっさと退場していった。形式上の帰国と第三国を経由した再入国の上で書類上別人として任務に当たれ、という事らしい。売られるのも立場を変えるのも慣れたものだが今まで以上に国と引き離されたうえで国に奉仕せねばならないようだ。
20██年 ██月 ロシア/遺物サイト-215 西塔 道香
あのいけ好かない男は少なくとも仕事だけはまともにするようだ。連れてこられた施設の役割、行われている業務に注意事項、それに宿泊場所や今後のスケジュールなどを滞りなく伝えていく。
どうやら連れてこられた収容施設はSCP-1991-JPという場所に由来するオブジェクトを収容する施設であり、その経緯からロシア政府と財団が共同で管理する国家間の連携のモデルケースのような施設だそうだ。財団がオブジェクトを管理し、財団を国家が監視するという名目の上でロシア政府が財団と交渉を行うためのパイプを作り取引や情報提供を行うためのパイプを作る、その為の大義名分の一つだと言っていた……少なくともコインの裏表を見る限りは……だそうだが。
「まあ、実態はおいおい話すとして今は休んでおけ。明日から見せられる範囲の諜報屋の仕事を見せてやる。」
奴はもったいぶってその先を話そうとせずに私を滞在中の宿泊場所となる士官用の個室に置いて行った。その日はゆっくり休めたと思う。少なくとも部屋の冷蔵庫に入れてあったバルチカの1番から9番までの飲み比べが出来たのは良かっただろうと思う。4
それから数日、イヴァノフと名乗った通訳に政府と支部が普段どのような業務をしているかの見学をさせられた。
外渉部門が襲撃された際の生存を重点にした実務訓練、賄賂の渡し方etc……面倒そうな顔で生真面目に説明を行う。どいつもこいつも愛想は悪いが仕事は出来る辺りが気に入らない、まるで機械と仕事をしているようだ。
とはいうものの仕事の後、夕食の席では陽気に国歌を歌い酒を勧めてくる。休暇の職員がノヴォシビルスクで入手してきたペットボトル入りの生ビールは新鮮な経験だったし、1リットルの缶ビールなんて日本じゃお目にかかれないだろう。ロシア風のカツレツと餃子と一緒に飲むのであれば昼間の仕事を忘れるのに十分だ。
滞在最終日、イヴァノフは帰国前にいい思いをさせてやると軍用の武器ケースに詰め込まれたシリアルナンバー付きのウォッカを持ち出してきた。もしも酔いつぶせたら一つロシア支部にコネを用意してやると。
私は奴との勝負に乗った。それが間違いだった。あの不機嫌な男は私を容易に酔いつぶして滞在日数をかさましさせた上、二日酔いの状態で要注意団体にとらわれた際の生存研修を受けさせてきた。最後に頭痛と吐き気のなかで何とか這い出てきた私に愉悦に溢れた顔で『いい経験だったろ?』なんて言い放った奴の鳩尾に蹴りを食らわせたのは別に間違ってはいないはずだ、それでもなお
「いい経験だったろ、次は負けると分かってる勝負はしない事だ。乱数放送なんて聞かされた日には後戻りできなくなる。」
なんて言った奴の悪役のような笑みは形容しがたいものだった。土産に一本の酒も持たせなかった辺りも機が利かない。まったくバカにものを教えるのは、死んだ人間を治療するようなものだ。
20██年 12月 東京都某所 西塔 道香
頭がガンガンする、職場でビールを開けた後に散々飲み明かして海野に送らせたところまでは覚えている。気が付けば適当に脱ぎ散らかした仕事着と空になった缶ビールが転がっており、その中でごみの宮殿の主たる自分が唯一の安全地帯である玉座ベッドに転がっている有様だ。
痛む頭をおさえゴミと服を蹴飛ばしながら部屋の隅に設置した冷蔵庫に近づくとまともな飲み物を探して中身を漁る。買った覚えのないミネラルウォーターが目に入る、後輩が自分をいたわるメモ付きだ。無造作につかんで一息で半分を飲み干すと残りを頭からかぶる。透明な液体が体を伝っていき、わずかに身に着けた肌着が肌に張り付くのを感じる。心地よい冷たさが頭に瞬くあれこれを追い出してくれる気がする。
水が体をそって床に滴り落ちる。体のラインにそってぴちゃぴちゃと跳ねる雫が床に自身の存在をマーキングするかのようにカーペットに侵食する。こんなところで水なんて浴びるものじゃない。
私はゆっくりと歩き出した、これでしばらく休暇だ。少なくとも年が明けて新たな任務に就くまでは平穏に過ごせるだろう。また次がある、鞭で斧は砕けないだろうが巻き取る事は出来るのだ、次もまたうまくやらないといけない。
さもなくば……
私はそこで考えるのをやめ、ひと時の快楽の代償を払うためにシャワー室へと歩を進める事にした。
20██年 1月 サイト-8100 コンスタンティ・アレクセイヴィッチ・イヴァノフ
結局、手を回してはみたものの異動が取り消されることはなかった。唯一譲歩を得られたのは遺物サイト-215の私物と”個人的な”情報の持ち出しくらいなものだった。日本では少ない手札でやりくりをする羽目になる……まったく、とんだ贈り物だ。
「JAGPATO……せめてうちの国よりマシだといいが」
地下へと進むなかぼやくと、案内役の男が怪訝そうな顔でこちらを見つめてくる。適当なかぶりを返してやり過ごすと木目調の扉を押し開き中へと進む……願わくば、自らの進む道が火から炎へ変わらんことを祈りながら。
〈オフィサー、ドクター、ソルジャー、スパイ〉
第二話
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