アヤ・ウメダ
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 大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせる瞬間が一番情けない。
 何度も使ってきた魔法の言葉は、いつの間にかボロ切れになっていた。

 いいんだ。私は上手くやった。ここまでは計画通り。しっかり遂行できている。暗闇が広がる小道から、ちらりと後方へ視線をやった。四面の壁を本棚に囲まれ、シャンデリアが白い光を灯した空間。
 アヤ・ウメダはその空間の中央にいて、刃物のように鋭い目でこちらを見ている。魔法に掛かって椅子に座らされた彼女に、できることは何もないはずだ。発信機も壊した。武器も奪った。彼女なんかすぐに殺せる。なのに、彼女はしっかりと視線を向けて、照準を定めているみたい。目を合わせる度に、身体が強張った。
 私は大丈夫。大丈夫だ。私はもう、父親の脚に隠れる子どもじゃない。

 私は、黒の女王なんだから。















黒の女王・レノア。ねぇ、資料忘れてないよね?

黒の女王・ヴォドニークは完璧です、心配ありませんよ。

ああ、こちらも問題なし。黒の女王・フラグメントだ。

それが、大問題が一つあるんだ……エマが到着してないんだよね。レノアは聞いていないのかい? 今日は調査があるから遅れているんだ。それも、今日の議題の調査です。引っ掛ける、と言っていたので時間が掛かるのも仕方ないでしょう。化け物を相手するわけではないので、案ずる必要はないと思います。私、聞いてないんだけど。まぁいいや、先に始めますか!


ベースライン

アヤ・ウメダ。「財団」に所属してる人間の女性。大抵は日本人で「梅田 綾」と書くよ。あ……「財団」について解説した方がいい? 私もヴォドニークも財団が存在するタイムラインの出身だから構わないよ。財団に関心があるのはエマもだけど、事情については重々承知のはずだ。みんなご存知、不可思議な現象を世界から隔離する集団でしょう? どのタイムラインでも変わりませんから、脳の容量を食わずに済みます。彼女が財団に属さないタイムラインもあるけど、決定的な分岐が起こるのは財団に属した後だから今回は割愛するよ。用事があるのは、財団のアヤだからね。彼女の人生にはいくつかの共通点があります。一つ、20歳で偶然事故に遇って、普通じゃない世界の一面を知ること。一つ、6歳で猫を飼うこと。猫? 猫だよ。イエネコ。それと、もう一つ。優しい両親の下で、健康で豊かに育つことです。

必要条件

ここは簡単にまとまりますね。文明と人間、それから異常存在と、猫とペット文化? うん。それさえあればアヤは生まれてくる。本人に異常性はないのに異常存在が必要なんですね。20歳で事件に遭わないとアヤではないからね。それにもっと重要なことがあるんだけど……これはタイムラインの説明で話すよ。何にせよこの条件だと、必然的に財団が存在する確率も高くなるんだよね。はい。猫あるところに財団ありと私のデータが言っています。

実用性

さて、この項目だね。提案なんだけど、エマが到着するまでこの項目は飛ばさない? その心は? えっ……ほら、エマが調べてる内容こそ、ここに一番関係するし。私は賛成します。実用できる可能性がなければ、彼女が我々にとって使い物になるとは思えませんから。なるほど、わかった。合わせて「傷つきやすさ」も飛ばそう。

ただまぁ、遅れるにしても遅いですね、エマ。それほど時間が掛かるんでしょうか。君は君で舐めすぎだよ。発信機やら何やらを取っ払って監禁するのにどれだけ手間が掛かるか知らないんだ。凡人とはいえ、相手は財団のフィールドエージェントなんだぞ。本当に説得できるといいんだけど。

アヤ・ウメダは、私たちに寝返る可能性が高い財団職員の一人なんだから。


 指を鳴らす。本棚と古板の床から構築された廊下は捻じ曲がり、私たちのいる部屋との接続は途切れた。ぷつんと、張った糸が千切れるような感覚が人指し指の腹に残った。眼前には本棚が並ぶだけで、道は消えている。
 私は彼女から預かった拳銃をボトムスと背中の間に挟んで、席に戻った。銃を扱うのは初めてに近くて、魔法を使うときよりも脈拍が速くなる。イギリス風の丸い机が一つ、椅子が二つ。ティーテーブルをイメージして造形して、向かい合うように配置した。こういう場には適さないデザインかもしれない。少し幼かったかも。不安がいくつも浮かんでは、頭に溜まっていく。

「それで、何ですか」

 前から声で叩かれ、私は視線を正面に向ける。反射的に振り向いたから、心の準備がまだできていなかった。鋭い眼光に凍りつきそうになったが、私は飛び跳ねそうになる身体を椅子に沈めて、一旦呼吸をする。ティーポットも一緒に造形して置けば一息つけていたのに、と後悔した。

「私を昏倒させてこの場所に連れて来たのなら、何か話があるんでしょう」

 アヤの声は、冷たい。好奇心も、怒りも恐怖もない。感情を殺した平坦な声。生気は消えかかっていたが、鈍ってもいない。身体のどこでその均一さを保っているのかが掴めず、ただただ不気味だ。
 魔法を用いて彼女の気を失わせ、図書館と同じ世界の隙間に位置するここへと運び込んだ。助けを呼べる発信機はテーブルの上でバラバラになっている。拘束が解けていないなら、抵抗手段は何もない。それなのに、アヤは堂々としている。焦ることはないとでも言いたげに。その態度のせいで、優位な立場にある私の方が追い詰められているような気分になってくる。
 とにかく、話を進めなければいけない。私は椅子を引いた。椅子の背と背中の銃が当たった。背中に走る緊張を感じながら、言葉を発する。

「私、黒の女王・エマと言います。アヤ、私たちに協力してもらえませんか」


実例: タイムライン A-246

財団アヤの基準タイムラインだね。うん。まず、アヤは20歳で秘匿された世界に触れる。大抵は友達や恩師、恋人を失うことになるの。ここは確約された運命のようです。タイムラインごとに場所は異なりますが、モンスターや超常現象に襲われ、彼女以外の人物は死亡します。回避させようと試みたこともありましたけど……不可能だった。まるで彼女を直接狙っているかのように、異常な奴らが湧いてくる。でも何やかんやで彼女は助かって、財団に雇用される。異常なモノの脅威を十分に思い知る工程は完了、というわけだ。多くの場合で財団に雇用されるってことは、ほとんどの宇宙にとって彼女は重要な存在ってこと? いや、全然。アヤは終身、現場で活動するエージェントです。それも世界の危機にトドメを刺すような重大な役割は、どのタイムラインでも果たしたことがない。泥にまみれて、真摯に仕事をする。健気で可愛くないかい? あんな友達いなさそうな性格を可愛いって評するくらいなら、私はまみれる泥の方を褒めますね。


 誘いの言葉を出しても、アヤの顔の皺は動かなかった。

「なぜ、私があなた方に協力しなければならないのですか?」

 こう返すのが常識なのだろうか。何もかも初めての私にはこの返答も初めてで、言葉を詰まらせてしまった。
 当然の疑問ではある。同じ状況なら私だって、そんな理不尽を受け入れるかどうか考えるに決まっている。けど、アヤは最初から私の提案を断るつもりだ。内容すら聞いていない。
 たじろぐ私をよそに、アヤは吊るされた灯りを一瞥した。

「状況は理解しています。しかしどのような内容にしろ、そちらの協力に乗ることはできません。監禁という手段を用いたなら、対等な関係では成立しない契約だと容易に想像できます」

 べぇ。そんな擬音が聞こえてきそうなほど露骨に、アヤは舌を出した。

「私は死ねます。今、ここで」

 アヤの白い歯が舌に食い込んでいく。ゆっくりと、ゆっくりと。彼女は蛇みたく私を凝視したまま、命を絶とうとしている。八重歯が舌の肉を破り、血の泡が立った。

「待ってください、話を聞いてください! お願いですから!」

 一滴の赤。口から垂れた鮮血が顔を伝り、アヤの真っ白なシャツに落ちた。彼女の自殺行為はそこで止まった。
 脅しているのはどっちなんだろう。


実例: タイムライン A-246

財団に所属した後で発生する、分岐後の典型的なタイムライン。ようするに、財団に雇用された後で最初に起こる事件があるの。彼女の飼っている猫が突然、不条理の世界の住人になる。色気を取り除いていうと、異常存在に変化するということです。瞬間移動できるようになって、人の気配に異様に敏感になって、尻尾が二つに分かれる……俗に、何でしたっけ。猫又。日本の妖怪だね。長寿の猫が化けるらしいけど、科学的な現象としては解明されていないからどういう存在かはわかんない。脅威度は低い。財団でいうアノマラスアイテムだ。だが、異常存在であることには変わりない。異常なら、職員としてすることは決まっている。さも仰々しく言いますけど、当たり前のことですからね。財団が異常を収容するなんて。子どもの頃からの家族だったとしても? そんなことでいちいち立ち止まってて、世界が救えるんですか?


 アヤ・ウメダは私たちに寝返る可能性があり、他の人物より勧誘が容易。
 レノアたちからそう聞いている。私も他のタイムラインを覗いてその理屈に賛同していた。実物がこんなにも忠誠心が高いと数秒前まで思えなかったくらいには。
 財団には宇宙を跨って存在する人物が他にもいるが、勧誘の決定打になったのは「どのアヤも重要な役割を果たさない」という点だった。立場や成果は人に自負心を持たせる。何もないアヤなら気も移ろいやすい。それでもし一人でもアヤを落とせれば、他の宇宙のアヤも同じロジックで落ちる。末端といえど、財団の中で私たちに協力してくれる人物がどの宇宙にもできるのは、黒の女王にも大きなアドバンテージになる。情報源として、財団は優秀だ。

 何より、アヤには財団に従属する理由がない。内心では、財団を恨んでいるはずだから。
 私からすれば、眼光の鋭さを維持しているのが不思議なくらいだった。私もアヤに似た苦難を味わったが、その痛みは何年経っても私の内側から消えない。
 口から零れた血の線を目でなぞって、私はアヤの瞳を見た。

「アヤ。あなたにも家族がいますよね」
「家族と呼べるものは、今はいません」
「よかった。人違いじゃなくて」

 気丈にそう発してみたが、変わらず声は震えていた。これから本題を切り出すのに、私は怯えるばかり。
 大丈夫、大丈夫だ。私は上手くやれる。だだっ広い空洞に落とされた小石みたいに、言葉は心を転がっていった。その言葉の効力は最早どこにもない。笑いたくなるくらい無意味。
 自分への呆れから生まれた勢いに任せて、口を開く。

「私と一緒に、家族を取り戻しに行きませんか」


……そういえばさっきの説明、よく見るとタイムラインが変わってなくない? タイムラインの記述を変える意味はありませんって。ほとんどのタイムラインで同じ複数の事件が起こるんですから。発生時期こそ変われど内容自体はそれほど変わらないし、順番の前後が入れ替わってもすべての出来事は完遂される。完遂されるって、誰かが指示を出してるの? すまない、ただの表現だ。でも、そう思わないとやってられないよ。何かの思惑で起きてるんだとしたら、ヴォドニークの言う「確約された運命」とやらの仕業じゃないかな。まるで、私たちみたいじゃないか。そういうことは言わなくていいですよ。本当のことだろう? 私たちだって生まれも育ちも、容姿もタイムラインも違うのに、父親の蒸発が同じだ。フラグメント。前も注意したけど、エマの前でだけは言わないでよね。あの子は立ち直れていない世界の私なんだから。


 提案の意味など察しているだろうに、アヤは質問を投げ返してきた。

「具体的な説明をお願いします」
「は、はい。私なりに計画を話してみます」

 頭の中で語彙を絞り出そうとする。身体の方が何もしないのを堪えられず、私はそっと片手をテーブルの上に置いていた。アヤが何かしてきそうですぐに引っ込めたくなったが、アヤは何もしなかった。両腕は魔法で縛られたも同然だから、当たり前ではあるけれど。
 私が手を置くのに対して、アヤは敵意を発さなかった。目を薄め、伸びる手を見つめていた。木材の持つ、硬いくも温いような触感が私の手の甲に広がる。少し、この空間に安心できるような気がした。
 開いた手に、私は別の手の指を添える。

「アヤ・ウメダさん。あなたは財団に家族を囚われています。それは私も同じで、私の場合は父が財団に囚われてるんです。見ての通り、私は魔法が使えます。……ほら!」

 指先に意識を集中させる。ぽんと小さな爆発が生じて、本棚に囲まれた小部屋をきらきらと輝かせた。指を上に向け、くるくると回す。光の粒が銀河みたいな渦を形成し始めると、アヤもその視線をその銀河の中心へと注いでいた。人差し指を折り曲げ、親指で押し込む。それから一気に指を弾く。粒は花弁みたく広がって、空中を流れる。花が一瞬咲いたけど、あとには何も残らなかった。
 アヤは花が散っていくのを最後まで見届けた。伏せた目で眺めている様子を、私は目に収めておこうと思った。
 私はアヤを、ずっと見守ってきた。彼女はどのタイムラインでも奮闘していた。偽装工作と事件原因の追跡に身を捧げる日々。どの瞬間にも、今のアヤの表情はなかった。財団の職員としての平均値であり続ける彼女はまさしく秘密組織のエージェントで、その役割が彼女の身体を構築している。それ以外の顔はないと思っていた。
 光も音も消え失せると、アヤは視線をこちらに戻す。私は慌ててしまい、話す前に一拍の空白が生まれた。

「えっと……私の魔法は結構便利ですけど、父を救うには障壁が多すぎます。あなたには、財団の内側からその障壁を崩してほしい。あなたの家族を救うためにも、お願いします」
「お断ります」

 即答だった。何を言えばいいか、急に前が見えなくなった。

「そんなことのために裏切るなら死ぬと、先程示したでしょう」

 ぴしゃりと断られ、私は黙り込むしかできなくなった。
 自分が弱腰になっていくのがわかる。でも、ここで目を逸らすわけにはいかなかった。
 目を合わせ、彼女の顔を見た。しばらく無音の時間が続く。調査のために観察していたときと同じ行動ではあったが、相手の顔を正面から見続けるのは初めてだ。だから気付いたことがあった。
 このアヤの歳は28歳。短く切った髪に無難なスーツ。誰も寄せ付けない、尖った威圧感に覆われていると今までは思っていたけれど、落ち着いていて大人びた雰囲気も持ち合わせている。任務中の彼女とは打って変わって、どこにでもいるような普通の女性の面影が見えた。
 アヤは財団の職員だ。だけど、普通の人間だ。

「どうして、アヤはそんなにも財団のために生きてるんですか」

 思いは口から零れ出ていた。自分の家族を切り捨てられるほど冷徹になれるなんて、私には考えられない。
 猫が家族の中から消えたことで、いくつもの彼女の家族が壊れていくのを私は見てきた。

 何が、アヤの声を冷たくさせたのだろう。


さ、本題に戻りましょうか。タイムラインの編纂を進めますよ。ここからかなり複雑化するからヤダなぁ。飼い猫の猫又変化は20代のどこかって決まってるけど、ここからはアヤが存命かどうかも条件から外れてくるし。標準的なタイムラインから抜き出せばいいんじゃないかな。次のが30代くらいに起こるタイムライン。そうだね、じゃあフラグメントたちの知ってるタイムラインのことを話して。了解しました。じゃあ……これで。

まずは彼女の家庭の崩壊について、だ。

実例: タイムライン C-824

記憶処理の副作用についてはあまり議論されませんが、影響はしっかりとあります。何かの死に目に遭うなんて、特殊な職業でもない限り一生に数回です。何の話? 少なくともこのタイムラインのアヤの両親は誰かの死に際を拝んだりしないよね。逆だよ。財団が使う記憶処理は薬剤としてはほぼ無害だけど、精神面には後遺症が現れることがある。「死を隠す」より「事実を死に隠す」ときに、稀に妙な感覚に憑りつかれる人間が出る。えーと、つまりですね。記憶ってのは主観です。経験していない記憶を無理に植え付けられると不和が生じることがあるんです。アヤの場合、彼女の両親に対して猫の回収を老衰死というカバーストーリーで隠蔽しています。普通は通用するんだけども、猫と密接に関わってきた父親は死への感覚を一定に保てなくなった。死への平衡感覚が崩れるということは、表裏一体の関係にある生の感覚も不安定になる。グラグラになる? そう、生きるための軸がグラグラ。んで、そういう不安定な人物は周りに影響を与えます。眠っている異能を育てることだってあります。あー。このお父さんが、エマの環境でいうママってことね。


「私が財団のために生きる理由?」

 アヤの声は変わらず冷たい。話していれば感情一つ混ざってもおかしくないのに、彼女は統一された声質声量で私に迫り続ける。

「私が財団に所属しているから。他に理由はありません」
「そんなの理由になってませんよ」
「いいえ。この道に生きる上では、それ以上は必要としません」
「私が訊いたことにちゃんと向き合ってください」
「こうしてあなたの質問に応じています。不十分でしょうか」
「十分とか不十分とかじゃないでしょ」

 私はまっすぐアヤと目を合わせ、声を荒げていた。それでも彼女の姿勢に、表情に、瞳の動きに変化はない。不器用な機械を相手しているように思えてきた。煽情的なことは何もされていないのに、私は確かな苛立ちを感じている。
 さっきまで脅威でしかなかったアヤへ、私の身体は堂々と立ち向かっていた。

「あなたが家族にしたことは、全部財団の指示あってのものだと思ってました。他の宇宙のあなただって、優しい両親に育てられながら成長してました。私、ずっと見てましたから」

 彼女はまじまじと私を見ている。というより、観察している。揺れる腕や、形を変えて言葉を発射する口を。言葉に聞き入っているわけではなく、カメラのように監視しているだけ。
 構わなかった。こんなのが交渉として上手くいっていないのは私にもわかる。それでも、私は彼女に言葉をぶつけたかった。

「財団のためなら、あなたは自分の意志で、自分の家族を殺したり閉じ込めたりできるんですか。私はあなたの人生を、全部知ってるんですよ」

 このアヤのいる世界は、他のタイムラインより時間の流れが速い。誕生から現在に至るまで、私はときどきやって来ては眺め、記録を取っていた。
 アヤは日本の地方中枢都市で生まれた。両親は共働きだったが、彼女に時間を注ぐのを忘れなかった。子どもの頃のアヤは何にでも好奇心があって、六歳で捨て猫を雨の中から拾ってくるほどだった。リーダーのような性格ではなかったけど、長い付き合いの友人は多かった。自然と人が近づいてくるような愛嬌を持っていた。
 大学時代の友人を喪失して財団に入った途端、その愛嬌は失われていった。猫の収容で、彼女は人形じみた顔になった。
 そして二十七歳、ちょうど一年前の今日。アヤは壊れかけていた家族を、完璧に壊した。自分の手で。

「あなたが母親を殺して、父親を隔離施設に送り込んだことも」


実例: タイムライン C-824

このタイムラインでアヤの家族が崩壊したのは、アヤが35歳のときだ。アヤは年末に休暇を貰い、帰郷しました。「話したいことがある」というメールが端末に届いたからです。きっと大事なことには違いないので、アヤは疑いもなく実家のドアを開けました。家の中では、黄色い粉がぱらぱらと落ちていた。何かが通った跡みたいに、粉は連なるように散らばっていた。リビングに出ると、彼女の両親が出迎えてくれました。でも、母親の肌は露出していませんでした。いや、覆われていたと言うのが正しいですね。粉を吐いていたのはアヤの母親だったんだよ。肌には大量のフクジュソウ、黄色い花が咲いていて、花が花粉を噴いていたんだ。その隣には父親がいて、状況を簡潔に説明しました。「母さんの身体に花が咲いてしまった。二人で母さんを守るために、このことは内緒にしてほしい」……当然だけど、アヤが財団の職員だとは知らない。アヤはこの二人をどうした? 収容? ご名答。思考パターンからすれば、当たり前ですね。容赦はなかったよ。「守っていこう」と頷いて両親を安心させて、家を出たら即座に財団へ通達した。ものの数十分で、アヤを育てた家は壊れたんだ。


 張り上げた声が、部屋を構築している本棚の隅々まで染み入ったように思えた。こんなにも大きく叫んだのは久々だ。気持ちが音を立てて打ち出されたようでもあり、私は肺に新しい空気が入るのを感じる。
 アヤは相変わらずだった。不快も驚嘆もなく、つまらない映画を観ているみたいに静観を貫き、淡々と発した。

「はい。職務を全うするために必要であれば、可能です」

 幼い頃に笑っていた彼女は、幻だったのだろうか。あの、平凡ながらも幸福そうな笑顔は。
 嘘だったのか。いや、嘘じゃない。このアヤからは、普通の人間の側面が見受けられた。なら、普通ではあるけど認識がおかしいということだ。

 ヴェールをくぐる。ときにその行為は、人の価値観を大きく覆してしまう。

 私が彼女に交渉を持ち掛けたのは、どんなに冷徹な財団職員となっていても、本性は変わらないと予想していたからだ。アヤも子どもだった。猫と話し、いたずらを仕掛けてじゃれ合うような。大人になってもその部分がどこかに残っていて、現状を悲惨だと嘆いていると考えていた。
 しかし、子どものアヤはもうどこにもいない。

「アヤは、心の底から変わってしまったんですね」

 変わっていない私とは違う。
 私は消えた父を愛している。父は忽然といなくなったが、消える前日まで私を抱擁して頭を撫でていた。寡黙なその背からは愛情がいつも漏れ出ていて、永遠に私の前にいると思っていた。記憶に見る父の背は暖かそうで、いつもすぐ傍にある。語れるようなエピソードは何も覚えていないけど、与えられたものは大きいと思う。
 私は死んだ母も愛している。母は消えた父の分まで私に愛を注いでくれた。母も小さくはない傷を心に負ったはずだが、私に料理を作り、服を着せ、教育を施した。最後の数年は病気で満足に外を歩けなかった。それでも私に優しく微笑んでくれた。
 20歳で母が死んだとき、私は独りで生きられるようにはなっていた。だけど母の葬儀を終えて半年、何だか泣きたくなって、中古のカブでアパートを飛び出した。そうしたら開いていたマンホールに落ちて、次元の隙間に落っこちて、仲間と出会って……私は、黒の女王になった。

 仲間が謂うに、女王の父のほとんどは財団という組織で勤務しているらしい。危険な場所で父は超常現象と対峙しているという。私はそこへ飛び込んで、父を連れ出したい。なぜ私と母を置き去りにしていったのか、理由を知りたい。
 父にも何か理由がある。私を愛していて、故に財団に籠っているはずだ。知るためには、財団の協力者がいなくてはならない。

 きっと頷いてくれると思っていた。世界に打ちのめされた、このタイムラインのアヤなら。アヤは私と同じだ。財団に振り回されて家族を奪われた、もう一人の私。
 私はアヤに面と向かって会いたくて、震えながらもここに来たのに。

「変わったのではありませんよ」

 魂の違う私が、次々と彼女に置き換えられていく。


ねぇ、見逃す選択肢はなかったわけ? ありませんでしたよ。本当に? 君もしつこいね。教えようか。母親はそれほど危険なオブジェクトではなかったし、父親も自分のことを不幸とは思っていなかった、って。年老いた夫婦二人、静かに暮らす分には差し迫った異常じゃなかったんだよ。冷静に考えてください。肌に花が咲いているからって、何になるんですか。外出さえしなければ人生を平穏に終えられたんです。それに同様のオブジェクトは財団も別個体を回収済みで、低脅威の異常性だと保障されていました。アヤにしても、財団のために回収指示を出す必要はなかったと言えます。じゃあますます見逃さない理由がないじゃん。そもそも猫又だってアヤが表に出さなければよかったんだし……なぜアヤは家族をオブジェクトと見なしたの? 見なす? 異常性があるのは事実だ。正常の維持のため、オブジェクトを回収する。その理念は変えられません。ま、そっか。変えられるわけないか。世界の危機じゃあるまいし。


「黒の女王・エマ、あなたが黒の女王になったのはどうして?」

 唐突な問いに私は口を数回ぱくぱくさせたが、すぐに喉の調子を整えた。

「父を探すため。探し出して、連れ戻して、化け物のいない世界で暮らしてもらうため」
「私も同じ理由です」

 えっ、という声が漏れた。思考が固まっていくのが自分でも分かった。
 アヤの変わらない本性を信じていたのは私自身だ。でも、アヤが私へと距離を詰めたこの瞬間、私の心は愚弄されたような気分になった。

「私は、自分の家族が何者にも脅かされないよう守るために、財団の手を取りました」

 そう発している間も、アヤは感情を露出させない。

「この世界には人間の常識を遥かに超えた存在が犇めいています。私は一度、彼らによって大切な人を失いました。緊張から解放されたとき、頭に浮かんだのは家族の顔でした」

 これ以上、失わせはしない。懇願し、危険な世界へと潜り込んだ。
 私も見知った光景を、アヤは既定の文章を読むように喋った。狂言回しを担う役者みたく、一連を他人事のように話した。本当ならドラマティックなんだろう。私が同情していた箇所を、アヤ本人が価値がないかのように粗雑に扱わなければ。
 
「私は財団職員になりました。異常なオブジェクトの存在を世間から隠蔽するのが主な仕事でした。異常を家族から遠ざけようと、私は使命を果たしました」

 ただ、気付いたんです、とアヤは差し込んだ。

「オブジェクトには男もいます。女もいます。誰かの飼っている動物もいます。私が担当した仕事の中には幼い娘を攫ったり、誰かの父親を殺害したりするようなものもありました。記憶処理をすれば、家族は事実を知らぬまま、その後の人生を送ることになります」

 声が揺れることなく、アヤは話す。彼女は語るそのすべてを傷つけ、縛り、銃で撃ち抜いた。

「戸惑いました。私が家族を守るためには、誰かの家族を壊さなくてはならない。私の目的のため、オブジェクトに家族が存在しようが回収せねばなりません。あるとき、私は思いました」

 戸惑い。彼女の口からそれが出たことに、私は驚いた。
 財団に尽くす理由はないのと同じ。自分の意思で家族を壊したと語ったのはアヤ自身。変わってしまったと改めた私の考えを、アヤは否定する。

「私の家族と他の家族に何の違いがあるのだろう、と」

 私の知らない葛藤と、アヤは闘っていた。
 そんな考えがこれまで私に生まれることはなかったのに。

 やっぱり、アヤと私は同じじゃない。
 理解は追いつかなかった。その感情と、今の彼女の表情は矛盾していた。


実例: タイムライン D-573

ここでタイムラインを変えます。現在、エマが調査に向かっているタイムラインです。このタイムラインはいろいろと速いんだ。時間の流れも、アヤの人生の狂い方も。そんなことがあるの? ありますよ。運命とは気まぐれですので。あまり取り上げられはしませんがね。彼女の猫は25歳で猫又となり、27歳で母親がオブジェクトに。症状は……前のタイムラインと同じ、フクジュソウの狂い咲き。回収されたあとで母親は終了処分に、花粉を浴び続けていた父親は影響下にあるとして人型オブジェクト収容房に。あ、壊れた。そういえば気になったんだけど、エマが説得にこのタイムラインを選んだのは何で?「苦しめられててまだ若く、財団を壊すという考えに納得してくれそうだから」だそうです。ちょっと安易じゃないですか? 普通の人間なら、不条理への抵抗手段として私たちの手も取るだろうさ。今更だけど、「苦しめられてる」って私たちそのままの解釈、間違ってないよね? アヤの思考回路が複雑だったらどうするの? 問題ない。「追い詰められている」という根拠なら、他のタイムラインにある。


「何かを守るために職員になった人物には、二つの選択肢が用意されています。私は選びました」

 私の知らぬ何かに変容していくアヤを、私はただただ見ているしかできなかった。

「オブジェクトとなった存在に家族など関係ない。そう考える道を」
「どうしてですか?」

 思わず訊いた。

「残酷なことって自覚、あるんですよね。できるだけ傷つけないようにすればいいじゃないですか」
「それでは私の目的は達成されません」
「全部が全部、危険な異常じゃないでしょ……危険じゃないなら、収容とかせずに任せても」
「あなたの望みは、父を異常のない世界に連れ出すことでしょう?」

 少しの間、息ができなかった。殺されてしまうのかと錯覚するほどに、言葉は私を刺した。

「異常を許せば、何かの拍子に世間へ露呈してしまうかもしれない。そうなれば、私の家族が過ごしている平穏は崩れる。一つでも異常が漏れ出せば世界は常識で計れないものだと悟られ、恐怖に晒してしまう」

 想像を促され、瞳の奥でその情景を見た。
 天変地異を知らせる報道。私はブラウン管に映し出された都市と黒煙を眺めている。父は私をなだめ、母は私の目を手で覆い隠す。私へと二人は笑いかけるが、顔は強張っている。穏やかな日々はもう戻らない。どこから超常が湧き、私たちの生活を食らい尽くすか。それを考えて、私たちは生きていかなくてはならない。
 怖い。怖いが、それよりも。私の愛する家族が苦められる、そんな状況が永遠に続く。耐えられそうにない。

 私にも理解できるし、同意できる感覚だ。しかし。

「そのために自分の家族に手を掛けたら意味がないでしょ!?」

 アヤは家族を守るために財団職員になった。家族を守るために超常現象に立ち向かい、家族に未知の恐怖が届かないよう尽力した。どんな異常も収容すると心に決めた。
 その結果、家族に発生した異常も収容しなくてはならなくなった。
 守るべきものを砕いてしまった。

「あなたが家族を守りたかったなら、見逃してあげるべきだった!」

 机に手をつき、立ち上がっていた。アヤを見下す姿勢になっていたが、私は気にならなかった。それでもアヤは私から目を離さず、叫びに対して静かに切り返した。

「他の人にだって、家族がいます」

 私は再び黙った。言い返したくて仕方なかったが、アヤの言ったことは事実だ。誰にでも家族がいる。普通の社会を生きる多くの人に帰る家がある。

「私は、最後まで家族に寄り添いたかった。家族がオブジェクトとなった場合の覚悟はしていました。世界にはたくさんの人が暮らしています。私の家族だけを優先することはできません。私の家族も他の家族も平等に扱わなくてはならない。私の家族に、犠牲の上に築かれた暮らしをさせるわけにはいかない」

 職務を隠して家族と会うなら、異常を宿した家族と鉢合わせてしまうかもしれない。それを怖れながらも、彼女は家族との関係を保ち続けた。異常が発現してしまった日には責任を持って職務を果たした。
 アヤは正しい。たぶん、正しい。
 アヤは変わったんじゃない。自分から、道を選んだんだ。

 だけど、どうしてアヤの表情は喜びに満ちていないのだろう。自分で選んだ道を進んでいるはずなのに。私の方も何だからやりきれない気持ちでいっぱいだ。何と声を掛けていいかが分からず、立ち尽くした。
 
「大切な人がオブジェクトとなったら。そんな思いに駆られたくない職員の取る手軽な方法があります」

 長い沈黙を挟んで、アヤが声を発する。視線を正面に向け、虚空へと話す。私を見ていなかった。

「その人から離れ、連絡を絶つ。あなた方の父親のようにね、アリソン・チャオ」


実例: タイムライン B-2RA

このタイムラインのアヤは死亡しています。何かに巻き込まれたの? もっと単純だよ。首吊り自殺さ。よくある感じね。精神的に無理が来たんでしょ。そりゃそうよ。家族の自由を自分の手で奪っておいて、平然としていられるはずがない。それもあるでしょうが、自殺のきっかけはちょっと根が深そうですよ。ここに遺書があります。盗んだの? 失敬な。処分されそうだったから拾ってきたんだ。読むかい? 読まないわけないでしょ? ちゃんとデータベースに貼り付けてよね。全文は長いので、要所抜粋で。

私が財団に志願したのは、異形の怪物に友人たちを惨殺されたからです。目を覆いたくなるような悲劇が20歳の私の頭に植え付けられました。すべてが収まったあとで、怪物に脅かされる父と母、飼い猫の姿を幻視しました。私は、自分の家族が恐怖に震える日々へと引き摺られることがあってはならない。強く、そう思いました。

この人生を、私は財団に捧げました。得たのは、私では何も変えられないという現実でした。

早速不穏になってきた。


 アリソン・チャオ。私の本名だ。アヤは正確に名前を言い当てた。私はエマとしか名乗らなかったはず。
 アヤに抱いていた不気味さが内側から蘇る。後退りしようとする身体を止めようと、私はテーブルの縁を掴んだ。

「どうして私の名前を」
「あなたもアリソンでしたか。私は超常組織の捜査を担当することもありましたから、黒の女王についても基礎知識は押さえています」

 世間話を呟くかのように、アヤはさらりと言ってのけた。

「あなたたちは、世界を跨いで存在する人物の娘。中心人物の一人はアリソン・チャオで、アリソンは複数存在していると確認されている。世界にとって重要であるその人は俗世から姿を消し、あなたたちは置き去りにされた。彼女たちは父親を探し始め、やがて図書館という異空間に辿り着く。そうして黒の女王は集合する」

 その後も、アヤは情報を並べていった。黒の女王にそれ以外の共通点はないこと。「娘」という範疇に入れば、いかなる形でも存在すること。人間であろうがなかろうが、例え機械であろうが女王と成り得ること。父との共生が目的の者もいれば、殺害するのが目的の者もいること。最後に、彼女はボードゲームで王手を宣言するときのように、ぽつりと言った。

「現実改変を最初から扱えるのは、女王でも稀です」

 アヤの視線がこちらへ向いた。求められてはいないのに、私は無言で頷いていた。
 母曰く、幼稚園児の頃の私の手はとても暖かかったそうだ。手を握れば熱が芯まで伝わって、ぽかぽかとした幸せに包まれるのだと。父の大きく厚い手も握ってあげたことがある。変だけど、それが得意技なんだと走り回っていた記憶がある。
 何かを創造するような、本格的な魔法が使えるようになったのは父が消えて数年経ってからのことだ。私に創り出せるものは、何でも創れた。願いを叶える魔法使いみたいに。バレたらマズいと思い、母にも打ち明けなかった。
 それよりも、気になることがあった。私は魔法を見せただけだ。女王になる前から魔法が使えるなんて言ってない。アヤは胸の内を読んだかのように、言葉を継ぐ。

「シリアルキラーを産むのが家庭環境であるように、備え持った能力は幼少期の状況や精神面に左右される。あなたの改変能力はエントロピーの無視、つまり物質の創造。創り出されたものを見れば、精神状態が分析できる」

 アヤは部屋の数箇所に視線を巡らせる。テーブル、椅子、シャンデリア、本棚……それから、私の手。

「机と椅子は古風な形態で統一され、シャンデリアや壁の棚も雰囲気が合うように構成されている。空間の隙間に、あなたが想像したと考えられます。しかし、細部の作りが甘い。抽象的なまま、理想の部屋のイメージが成長していない。幼少期の記憶を疑わず、曖昧なまま保持している人物の特徴です」

 極めつけは、と彼女は添えた。

「あなたの見せた光。操作に長けていたのを見ると、この部屋より大掛かりなものを創る素質は既に持っている。なのに創り上げたのは典型的な美。私の拘束方法も、恐怖を与えるものではなく魔法で縛り付けるのみ。技術を発展させていくことを、あなたは望んでいない。先程の材料と併せて推理するに───」

 彼女の推理を聞いている間、私の心は疼いていた。細部の作りなんか気にしたこともない。人を閉じ込めるならこの部屋より最良の空間はない。私が良いと思って、全部構築したんだ。光の粒が渦を巻くのは美しい。典型的な美で何が悪い。
 心がやめろ、やめろと叫んでいた。彼女は次々と私にバッテンを付けてくる。やめてよ。急に評論家みたいにならないでよ。私は私が分かっていればいい。私の内側に、メスを入れないで。
 介入しようと口を開きかけたとき、アヤは言い放った。

「あなたは父親を愛していません。幼少期の記憶に依存しているのを、愛と勘違いしているに過ぎない」


実例: タイムライン B-2RA

私は、私にできることをやりました。例えば、私に収容作戦の指揮は取れません。強大な異常存在と戦うことも、人間離れした要注意団体の幹部を捕らえることも。できるのは嘘を貫いてカバーストーリーを流布することや、警察などの組織に紛れ込むことです。私は満足していました。私も世界を、家族を守れるのだと。

しかし、行く先々で苦しみが私に溜まっていきました。私はある人型オブジェクトを表世界では死亡扱いにして、ある家族に本来味わうことのない哀しみを抱えさせました。葬儀社を装って家を尋ねると、家族はひたすら泣いていました。そのオブジェクトは隔離なんかしなくてもいいくらい危険度が低く、服を着れば隠せるような異常でした。

収容は異常存在という概念を隠蔽するために必要だと理解しています。ただ、家族を大切に思う彼らと私の違いを考えるようになってしまいました。守るためなら他を壊してもいいのか。それでも、守るためには壊さなくてはいけない。

私は、冷たい人間になろうと思いました。オブジェクトはオブジェクトとして処理する、冷たい人間に。勿論、切り替えられるようになれればよかったのですが、私には無理でした。他人の人生を破壊した事実は、私に積み上がっていく。それを考えると、私は他の職員たちのやっている、カフェテリアで談笑するという行為ができなくなりました。私なんかが笑っていいのかと、思ってしまった。そうして私は、血も涙もないと評される、冷たく感情の消え失せた人間になりました。

ちょっと思ったんだけどさぁ。何ですか?アヤの性格って本当に同じだよね。基本、どのタイムラインでも。確かにそうだな。財団の規定が緩かったりヴェールの破られたりしているタイムラインを除いては、この遺書のような「冷たい人間」だ。笑いも泣きもせず、目つきも悪い。家族を守ろうとするって環境が揃えられているから、思想も同じように変わっていくんでしょうね。これも「確約された運命」でしょうか。そう考えると、アヤって試されてるみたいじゃない? 誰に、何を? 運命に、財団を崩壊させることを。面白い考えだけど、実現はないな。彼女は普通の人間だ。血統も異能もない。


 私は幼少期の記憶に依存している。それにはいくらか納得できた。この部屋は、昔の家の書斎にあった本棚やダイニングテーブル、リビングの照明を継ぎ接ぎして造られている。第一、黒の女王でのエマという名前は、母から引き継いだものだ。
 もう一方は、アヤの吐いたデタラメにしか聞こえなかった。

「根拠は?」

 一段と低い声が出た。アヤを怯ませるには足りなかったらしく、彼女は瞬きもせずこちらを見つめている。

「説明が不足していましたか」

 その態度が、私の苛立ちを増幅させる。アヤが内面を打ち明け始めたときに感じた苛立ちと種類は同じらしい。貼り付いた無表情が、まともに取り合うつもりはないと示しているように思わせる。

「父親に会い、暮らしたいというあなたの気持ちは幼少期を再現したいという欲求に他なりません。それは愛とは呼ばない」
「気持ちとか愛とか、あなたが語らないで」

 私はアヤを突き放した。怖がりながらも近寄りたいと思っていた彼女を。言葉は衝動的に発していた。
 彼女の大部分は冷たい面が占めているとはっきりした。そんな人に、私の心を踏みにじらせたくない。
 問いが飛んできたのは、そう思った直後だった。

「ならば、あなたは自分の父親が施した愛に気付けていますか?」

 そう問うことができるのは、気付いている人間だけだ。私は今にも崩れ落ちそうだった。
 父の愛。抱擁とか、頭を撫でるとか。それをアヤが知ることはできない。なら、それ以外。父が消えたのは突然だった。置き手紙も、道具を託しもしなかった。特別なことでなくても幸せだったし、特別なことなら私が忘れない。何だろう、父が置いていった愛とは。
 心当たりがない。記憶の入った箱をひっくり返しても、何も出てこない。その間に時間はどんどん過ぎていく。

「記憶は主観。あなたに悪いものは排除される。あなたは、父親が突然消えたことを悪い事象に分類し、父親に関する出来事から排除しています」

 痺れを切らしたのか、アヤが話し始める。
 また、私の内面を荒らしにきた。

「父が───パパが消えたことが、良い出来事のわけがない」
「もしかして、これだけ喋っても父親があなたを置き去りにした理由に気付けていないんですか?」

 反論を待たず、アヤは続ける。

「あなたの父親が消えた理由は、あなたですよ。消息を絶つこと自体があなたへの愛だったんです」

 耳を塞ぎたかった。


実例: タイムライン B-2RA

中途半端な私には、罰が下りました。他の家族を傷つけたことを罪に感じたが故の罰です。私の猫は異形に変異しました。母はある団体の商品を受け取って液体となり、父は悲しみに暮れるあまり地獄往きの看板に誘われてしまいました。罰と受け入れなければ、気がおかしくなってしまいそうでした。どうして私に凶刃が振りかからなかったのか、それだけが不思議です。

私の家族が消えたあとも、私は財団で働き続けました。だけど、私にはもう目的がありませんでした。守ろうと奮起していた私の箱の中には、最早何も入っていませんでした。すべて、超常に奪われた。箱があったから、私は至るところに潜む未知の恐怖に立ち向かえました。私にはもう何もありません。何もないのです。すべてを捧げ、すべてを奪われ、生きる意味すら失いました。

死を恐れない私に価値はあったでしょう。しかし、平凡な私の代わりはいくらでもいるはずです。家族に異常が振りかかるのを止められなかった私の代わりは。

私は何も守れなかった。私は何も変えられなかった。

なるほど。全部を失ったアヤが「追い詰められている」ってのは分かった。そうでしょう? でもさ、「私たちに寝返る」って根拠にはならなくない? 調子乗ってそんなこと言うべきじゃなかったもなぁ……ここじゃ発言、記録されるんだし。


「取り消してよ、全部」

 アヤの眼光なんか怖くなかった。声は震えていたが、怯えによるものではなかった。
 彼女は私のすべてを否定してくる。私の幸せな記憶も、生きるための目的も。理由をつけて家族を破壊した人間のくせに。
 私は机を離れ、彼女の前に立つ。手を硬く握ると、思いの高まりのような熱を感じた。

「何も言わずにいなくなるのが愛なんて、歪でしかないでしょ。そんなこと」
「あなた、本当に自分のことしか考えてこなかったんですね。それとも、徹底して思考から排除していたか」

 私の言葉に怒気が籠っても、アヤは焦りもしない。

「おそらく、あなたの父親はその異常性に気付いていた。そのときは異常性と呼べるほど派手な能力ではなかったにしろ、察知した。先天的に異能を持つ人間は、発現するまでの時期に何らかの前兆がある」

 私は握り締めた手を見た。熱。私の血液を巡り、内側を駆ける熱。父も母も暖かいと言ってくれた。まだ私が魔法だと気付かなかった時期に、父はその本質を見抜いた。まさか。

「話を聞くに今回もまた、黒の女王の父親は財団職員。オブジェクトの可能性もありますが、それならもっと自然な離別をしたでしょう。分野にも寄りますが、職員は異常についての専門的な講習を受けています。前兆を見抜くのは造作もないことです」
「そうだとして、私の魔法が出て行った原因には」
「あなたを収容したくなかったんですよ」

 アヤが強引に言葉を差し込んだ。

「まだ、娘は異常存在ではないかもしれない。しかし確率は著しく高い。見て見ぬふりをするなら、そのときしかなかった。そのまま家族として過ごしていれば、異常性を発現させた瞬間を目撃し、収容対象として報告せねばならなくなる」

 だから、あなたの父親は家を出た。
 アヤが告げる。声の届かない場所にいるパパの代弁者でも気取ったように。

「これが、あなたの父親があなたに施した、最後の愛」

 論理としては成立しているのだろう。今度もアヤが正しいのだろう。謎が解かれ、すっとしている自分がいないわけではない。大嵐が過ぎたあとの快晴みたいに、心は澄んでいた。
 しかし、私は固めた拳を、机に叩きつけた。私の創り上げた部屋に乱暴な打撃音が広がる。
 どんなに正しくあっても、認めたくなかった。

「何でそんな回りくどい愛が必要だったの? 私が好きなら、財団を捨てればよかったじゃない」

 複雑怪奇な事情が絡んでいる。それは分かった。私には関係ない。
 どうあれ私は捨てられたんだ。財団の命令ではなく、パパの意思に。勿体ぶった理由をつけて私を置いていくより、隣にいてくれる方が暖かみを感じられるのは承知の上で。
 パパが消えてからは暮らしが劇的に変化した。私が生まれ育った家を引っ越さないと生活できなかったし、ママも働かないといけない日が増えた。私は独り、部屋に籠る日々が続いた。小さな照明が一つだけの狭い部屋。寒くて、私は熱を欲した。独りの時間は魔法へと向き合う時間に変換された。
 私はパパが欲しい。愛していて、戻ってきてほしい。なのに、離れた理由こそが愛?

「教えてよ、アヤ。あなたたちにとって、財団はどれだけ大事なの? 家族よりも大事なの? 妻と娘を置き去りにするのを愛と呼んで誤魔化すくらい、財団に従うことが大事なんでしょ?」

 上からアヤを覗き込む。さも全知全能とばかりに構えている彼女を。
 私の精神を見透かしたような口振りだけど、彼女は何も理解していない。パパがいなくなった私の苦痛が、彼女には分からないはずだ。両親二人と猫一匹に囲まれて成長したアヤには。
 結局彼女は、無理解なまま息を吐く。

「家族を守るために財団に尽くす。財団に尽くせば世界を守れる。世界を守れば、家族を守れる。散々言ったと思いますが」

 と、いうか。彼女はわざわざ一息置いた。

「あなたは父親の愛を求めるのに、父親の持つ世界を守りたいという意思は愛してあげないんですね」

 やはりあなたは父親を愛してなどいませんよ。

 私はその言葉が宣告のように聞こえて、がたんと身体が揺れた。私の目を見続けるアヤの声が、どこか遠くへと逸れていった。
 どうしてあなたにそんなことを言われないといけないの? 私の何を知って言ってるの? 私はずっと、あなたを見てきた。他の宇宙のあなたも見てきた。あなたが私を見返したことはなかった。
 私はね、アヤ。羨ましかった。呼べば届く位置に親のいるあなたが。成長を見届けてくれる親のいるあなたが。喜びを分かち合える親がいるあなたが。あなたと運命を交換できたらどんなにいいだろうと思った。私なら、家族を不幸な目に遭わせはしない。
 
 アヤと面と向かって会って、この寂しさを分かってもらいたい。
 最初の衝動は、それくらい単純だった。だけど彼女は苦い大人の顔をして、私を分かってくれなかった。
 私が否定される。私の愛が嘘にされる。他の黒の女王の誰かじゃなく、彼女と唯一会話をした私が。
 
 ふらりと腕が身体の後ろへと動いたとき、手に硬い感覚が伝わった。

「黙って」

 掠れた声とともに、私はアヤの額に拳銃を突きつけた。
 彼女から預かっていた拳銃。これで、私は彼女の言葉を否定する。


そうかい? 私は「追い詰められている」は「私たちの側に回る」理由になると思うけど。どうかな。だってさ、このアヤはどうにもならなくて死んだんじゃなくて、もう守るものがないから死んだんだよ。助ける方法が見つからなくて死んだのとは違うから、私たちを選ぶかはかなり厳しいんじゃない。渡りに船って言葉があるだろう。私たちほど都合のいい存在もいないはずだ。けど、アヤのことだからね。死に際まで頑固かもしれないよ。

二人とも、ちょっといい? どうしたんだい、ヴォドニーク。丁寧語まで崩して。B-2RAの回収文書、まだ続きがあったみたいで……私の読み取り不足でした。そうか、まだあったのか。どういうこと? あの遺書、回収当時はビリビリに破られた上で封筒に綴じられててね。私たちはゴミ箱から回収したんだ。封筒にまだ紙切れが残ってたみたいです。載せますね。

私が死ぬのは純粋な絶望からです。財団にもこの世界にも不平不満を感じてはいません。最後に迷惑を掛けますが、私は友人を作らないようにしてきましたから、悲しむ人はいないでしょう。

私は、私が殺しました。

どうせならこの気持ちと向き合うこともなく、ちょっとした事故で死ねればよかったのに。

これって……。最期まで可愛らしいね。味方にはならなさそうね。この子、思ってたより自殺願望がヤバそう。


 銃を突きつければ何か変わると思った。初めからこの場は私が支配しているはずで、彼女に圧されているのが状況としておかしい。絶対的な力を見せれば、彼女も態度を変えざるを得ない。グリップを握って数秒、常識を軸に考えていた私はそう思っていた。
 私の命令通り、アヤは黙った。黙られると辺りの無音が一気に耳に入ってきた。銃の持ち方はこれで間違いないか。銃で人を脅すときはこうでいいか。アヤへの怒りで封じられていた不安が、ごぽごぽと湧いてくる。構える手は震え、銃口でアヤの額を押さえて安定させるのがやっとだった。
 彼女の額には私の震えが直に伝わっている。それだけ不安定でもあり、普通なら一層安心できない。普通なら。

 アヤはどうなってもアヤだった。無表情をこちらに示し、瞬きもしない。凛とした面持ちで、銃を構えた姿を批評しているかのようだった。
 発言の前に、アヤは大きく息を吸った。

「なぜ銃を使ったんですか。撃てないのに」

 呆れでもなく、牽制でもなく。彼女は感じ取ったそのままを言ったらしい。
 アヤの言葉を聞いて、私の手はさらに震え出した。銃を掴んでいることに必死になって、トリガーに掛けた指の震えを止められずカチャカチャ音が鳴っている。

「現実改変、使えばいいじゃないですか。あなたの言う魔法を」

 余裕のない私を見てか、アヤは提案した。

「魔法を使えば私の頭くらい簡単に捻り潰せるでしょうに。それもあなたの特徴ですよ」
「特徴って、何が」
「魔法を綺麗なものにしておきたいんでしょう?」

 緊張で脈拍が速くなる。口を開ききれない私は、どくどく響く心音と一緒にアヤの声を聞いていた。

「あなたにとっての魔法は小さな頃の綺麗な奇跡から変わらない。これ以上、綺麗な思い出を失いたくない。あなたは魔法で人を殺せないし、あなた自身も人を殺せない。あなたも綺麗ではいられなくなる」

 魔法を人殺しに使うなんて、考えたこともなかった。だって、魔法は銀河を生み出せる。可愛いインテリアも、暇潰しの友達も、絵本で見た世界だって創れる。人を殺さなくたって素敵なものに囲んでくれる。
 言わなくていいことは言わなくていい。魔法が人を殺すのに最適な方法なんて、あなたは何様なんだ。
 苛立ちがまた、再燃する。私の身体が熱を帯び始める。

「喋らないでよ」

 私はグリップから片方の手を放し、安全装置らしき箇所に置いた。映画の見よう見まねで安全装置を外そうとする。押したり引いたりを繰り返す。その度に耳障りな音が鳴る。カチャ、カチャカチャカチャと何度も何度も。やっと装置を解除して、またグリップに手を戻した。焦燥に駆られ、前より力が籠っていた。

「撃つから。本当に、すぐ殺すからね」
「はたして、引き金を引けるでしょうか」

 声量も声質もガタガタになった私の声を、アヤは一言で制した。

「あなたは自分を変えられなかった。変えられないから父親に縋ろうとする。父親の思いも汲むことができず、一方的に駆け寄ろうとする。財団は変われなかった軟弱なあなたなど、すぐに捕縛してしまうでしょう。決心して離れた父親の願いは儚く崩れる」

 アヤが語っているのは私の未来だろうか。嘘に決まってる。でまかせに決まってる。今までもそうやっていろんなものを欺いた。騙されてはいけないと分かってはいるのに、事実になってしまいそうな恐ろしさがある。
 何も言えない。ただ力に任せて、銃を額に押しつけるしかできない。乱暴な力を受けても、彼女は私を凝視するのをやめない。

「守りたいという願いを受け止められないあなたは、無意味に父親を苦しめる」
 
 違う。私はそこにパパがいてくれればよかった。私を裏切ったパパを元いた場所に引き戻すだけ。
 守ってなんて、誰が頼んだ。
 
 あれ。

 私は違和感に包まれて、その瞬間にそれは瓦解した。これだ。アヤへの苛立ちも、パパに訴えたい感情も、全部同じだった。財団はどうして守ろうとする。私からパパを、ママを、家族の時間を奪い取ってまで、この世界を守りたいのか。じゃあ財団は、誰のために世界を守ってやがるんだ。私のパパに会いたいという思いは、小綺麗に包装されていた。
 私は、頼んでもない願いを勝手に私の代わりとして叶えようとしている財団パパを、殺したいんだ。

 叫びたい。私の今までは嘘だった。私が空っぽになっていく。
 私の意識を現実に引き戻したのは、アヤだった。

「あなたは何も変えられないまま、終わる」

 大丈夫、大丈夫。自分に言い聞かせ、私は目を瞑った。
 心の奥底から、暖かい気持ちが湧いてくる。まるで、パパに抱かれたときみたいな。
 震える手が収まっていく。トリガーに人差し指が掛かる。
 言葉に宿っていた魔法は、熱を取り戻していた。

「黙れ、黙れ、黙れ──────!」

 絶叫。自分の声に混ざって、数発の乾いた音が聞こえた。















 目を開く。椅子の上で事切れた彼女は、私を見たまま、口角を上げていた。
 アヤは、笑って死んだらしい。



お、エマが帰ってきたみたいですね。何か成果は────え? 真っ赤じゃないか。返り血でも浴びたのかい? ……そう、殺したのね。

期待に応えられなくてごめんなさい。目録の編纂、進めてもいい?

待ってくださいよ! 一体何があったんですか! エマ本人は苦しんでいないところを見るに、攻撃を受けたわけじゃなさそうだね。んー、どうかな。私はめちゃくちゃ苦しんでるように見える。そんなの、個人の受け取り方次第。エマってこんな淡泊な反応だったっけ。みんなは覚えてる? 私の知ってるエマはもっともっと弱そうだな。どうだっていいでしょ、そんなこと! エマ、何で交渉相手を殺したんですか。ここにアヤの文字が表示されないのは何でなんですか。いいんじゃないかい。私も殺すよ、たまに。あんたもよくないしエマであってもよくないですよ! とりあえず、あとでゆっくり聞くからさ。アヤは交渉決裂の果てに殺したってことで違いはない? そうね。オッケー。じゃあ、編纂戻ろっか。レノアは許すんですか!? 喋ってても何も変わらないからね。過ぎたことでしょ。私としては、エマがこうなってくれたことの方が収穫感あるし。それじゃあエマ、「実用性」から再開してくれる? どうせこのファイルは終わりだ。味方にならないエージェントを追いかけても何にもならない。派手にやってくれ。分かった。

実用性 は、存在しない

彼女が私たちの仲間になることはない。狭い部屋に閉じ込めても、頑固な性格は一貫してた。一番追い詰められているアヤでこうなら、他のもっと状況が良いアヤに交渉しても無駄よ。アヤは跳ね除ける。冷たい顔のまま。もう一度だけ聞くけど、本当に何も起こらなかったんだよね? 私たちと共有すべきことがあなたの身には起こってないんだよね? ええ。彼女は何もしなかった。何もしてない。

私が、変わろうとしているの。

傷つきやすさ

拳銃で簡単に殺せる。あんなに喋っていたのに、簡単に死ぬ。人間だからね。

どうしてこんなに脆いのに、抱え込んでしまうのかしら。



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