財団日本支部に就職して三年目のエージェント・トンプソンは、緊張した面持ちで、胸元に忍ばせている拳銃を強く握り締めた。狭い路地のコンクリ壁に背中を預け、額から滲み出る汗を素早く払い除ける。生来彼は、臆病な性質を有した人間である。強面の人間に対峙した時は、例えそれが財団の任務上じゃなくとも緊張を隠せなかった。ゆえに仕事の本番前になると、過剰に硬直してしまう。
トンプソンの視線の先……二、三メートル離れた地点に、ある団体がいた。その団体の人員は、腕や背中全体に物々しく仰々しい刺青を彫り入れた粗野な人間……要するにヤクザ者の集団である。一見、トンプソンの張り込みは、暴力団が収入源としている麻薬の密売を見張ってように思えるが、ある一点が異なる。その異なっている点は、「麻薬の密売」ではなく、「オブジェクトの搬送・密売」……内容物が異なるのであった。
彼が現在受け持っている任務は、異常物の押収である。暴力団とって、麻薬の密売より異常物の搬送の方が資金源になっていた。暴力団は精巧なカモフラージュや、技巧を凝らして麻薬を紛れ込ませる手法に、多大な苦労を掛かけている。労力が要するからこそ金になるのであるが、麻薬を誤魔化す手段の大半は見破られ対策が立てられてしまっており、活動の縮小が余儀なくされていた。しかし、異常物の搬送はどうだろう……もしも、他者に目撃されたとしても何も知らない人間は、それが麻薬よりも恐ろしいものだと看破することはほぼない。
暴力団の多くは、漁船に紛れて異常物を密輸密売する方法を主な入手経路としていた。国際空港や船を経由して異常物を運ぶ方法は、財団が国際経路を牛耳り包囲網を形成しているため、すぐに発見される。因みにヤクザに異常物の搬送依頼を行なうのは、金さえ用意すれば何でも行なう代替屋であり、直接要注意団体に繋がっているわけではない。要注意団体やヤクザに仕事を依頼する組織は、直接漁師に受け渡しの依頼をした方がやり良いように思えるが、捜査を攪乱する目的があるため、遠回しな根回しをしておく必要があった。
「ふう……」
待機中、彼は深呼吸を繰り返す度に、恐怖と緊張が高まっていくのが感じ取れた。バクバクと脈打つ心臓の鼓動と、ドクドクと流れる血液の循環が喧しい。足元が貧血のようにフラフラしつつも、頭はキチンと働き、自身がどうすべきか冷静に状況を把握している、このチグハグ……。
「……よし」
トンプソンは、自身に喝を入れるように勢い良く声を出した。耳に装着している無線機で、突撃の意図を知らせる。無線側の返答はOKだった。……というよりも、トンプソン彼自身が、襲撃間近になってうろたえていたのであるが……。
トンプソンは拳銃の充填数を確認するため、中身を取り出した。最大数まで詰められた弾丸は、装填機の僅かな隙間から鈍い光を放っている。銃をセットし直し安全装置を外しながら、彼はなるべく静かに、そうして迅速な行動を心がけた無駄のない動きで、暴力団数名が存在している建物へと近寄った。
その建物は、一見居酒屋と思わしき見た目をした建造物である。トンプソンは突撃前に記憶した、建造物の真取り図を脳内に思い描く。ドアは全部で入り口と裏口を含め二つ……窓はトイレと客席側合わせて合計五つ……。
コンクリ壁と塀から肉体や身体の一部が飛び出さないように身を屈めて、トンプソンは敷地内に入った。裏口に回る時、店内がチラリと垣間見えたのであるが、その中は寂れ廃れた物悲しいものであった。椅子やテーブル等の調度品から推測されるに、数十年前まで繁盛していた店のように思われる。チェーン店の乱立や経済的な煽りを受けたために、真っ当な商売が出来なくなったのだろう。
俄かに外へ洩れ聞こえるのは、屯している暴力団の下品た声である。その中に居酒屋の店長の同調する声が混じっていた。それがもし、強者を持ち上げる太鼓持ちや、諂うコバンザメであれば救いがあったかもしれないが、残念なことにその店主は、無頼漢の中で地位と発言力があるのか、堂々とした振る舞いをしている。
トンプソンは男共の低い忍び笑いを耳にしながら、裏口へ回った。ドアノブに触れ回すと確かな手応えがある。音を立てないように引くと、その戸口は施錠されていなかったのか、自然に開いた。トンプソンは財団から支給された、技師特性のマスターキーを使わずに済んだことを喜ぶ。鍵の構造上どうしても施錠特有の金属音が鳴るため、隠密に行動したい彼にとって、施錠行為は最初の関門であった。
しかし、トンプソンはそこで素直に喜ばなかった。裏口が開いている……それは偶然鍵を閉め忘れ開いていたのかもしれないが、この状況下では誘いや罠としか思えなかった。無線機で鍵が開いていた旨を伝えた数十秒後、上層部から以下の連絡があった。
「建物を観測した結果、異常な熱源反応やヒューム値の変動は見られない。問題なし。遠隔観測には限界があるため、内部に侵入した際の行動は、目視で確認せよ」
「……了解」
指示を受けたトンプソンは数秒だけ両目をシッカリ閉ざし、そして開いた。ドアの側面にピッタリ寄り添いながら、静かにドアを引く。ドア近辺に人間がいることを想定した用心深い所作であったが、首をソッと伸ばして中を窺う限り、すぐ近くに人間の姿はないようである。
次いでトンプソンは、茶色いフローリングの上に靴履きのまま侵入した。通常、靴を履いたままだと人間の体重が圧し掛かるため、気を払っても音が立ってしまう。しかし、トンプソンが着用している靴は、財団支給の特別品であった。見た目は普通の革靴でありながら、特殊なゴムを素材としており、非常に軽く俊敏に動く事が可能だ。トンプソン自身が持つ無音歩行の技術と、靴音が極力静かなことから、肉食獣たる猫のようにほとんど無音の状態で内部に侵入することが出来た。目の前にあるドア一枚を隔てた先には、暴力団共が存在している。
トンプソンは直撃直行することなく、ドアに耳を寄せ全神経を集中させた。内部から聞こえる声を……もしかしたら、要注意団体に関する情報を所持している可能性があることから、諜報活動を行ったのである。この行為の意味は、暴力団に繋がっている外側の存在を推定することだけでなく、人数を大まかに把握し、誰がどの位置に座っているのか把握するためでもあった。建物に入る前、上層部が構造物の大まかな熱源反応等を観測していたが、その技術はまだ未熟であるため、完全に信用することはできない。しかし、未知の物がある程度明るくなることについては、異常物を多く相手にするエージェントにとって、些細な出来事で即死や重症が付き纏う彼らにとって、有益なものであることには変わりない。
「蓄音……だ……」
「……大金……密売……」
「誰……」
「……マーシャル……」
トンプソンが聴き取った言葉は、少数ながらも確かな手ごたえがあった。……蓄音……密売……マーシャル……。これらのワードを繋ぎ紡ぐと、ある要注意団体と異常物と思わしき物品を想定することができる。ここが暴力団の塒である事、漁師から商品を受け取って間もない点から、彼らは多少口が緩くなっている様子である。
トンプソンは更に重要な情報を入手できないか耳を傍立てていたが、彼らはそれ以上情報を口にすることはなかった。仕事内容の話題が尽きたというよりも、あまり情報を知っていないため、自然移り変わったように思える。トンプソンはもうこれ以上学ぶことはないと判断為し為し、ドア板から身を放して真鍮のノブを掴んだ。遮蔽物の向こうで、下品た朗らかな笑い声が一層高く鳴り響いた瞬間、彼は乗り込んだ。
「誰だ……!」
突然の進入者に驚きの声を上げたのは、下っ端と思わしき男性である。目をまん丸に見開いて、戸惑う素振りを見せた。彼が大振りのナイフを取り出そうと身振りを変えた直後、トンプソンは遠慮解釈もなく、弾丸を射出する。爆発するような音が響いたかと思った瞬間、胸元から赤い液体を迸らせながら下っ端は倒れた。トンプソンは休む暇もなく、彼の頭部を撃ち砕いた。
驚愕と戦慄に充ち満ちた響(どよ)めきが起こる。その中で、即時にトンプソンを敵と判断した中年男は、慌てながら拳銃を取り出し構えようとしていたが、彼はその動作を許すことはなかった。一脚の丸椅子を足で器用に引き寄せた後、それを蹴り飛ばす。椅子の放擲は見事中年男の手元に直撃し、その獲物を振り落とすことに成功した。武器を所持することに執着を示すように再び手に取ろうと身を屈めるが、少し前の下っ端と同じように頭部を破壊する。
「ちぃっ! 警察だ! 逃げるぞ!!」
居酒屋の店主は叫びながらカウンターを飛び越え、玄関の方へ逃げ出した。正面玄関のドアを乱暴に開いた瞬間、待ち構えていたように金髪の男が出入り口に立ち塞がる。
「ヨコシマ! ソイツを捕まえろ、捕縛対象だ!」
金髪の男――ヨコシマと呼ばれた彼は、トンプソンの言葉が始まる前に、既に行動を開始していた。店主を室内に強引に押し戻すように、下腹部を蹴り飛ばす。局部には人体の構造上、神経が密集した器官であるため、その部位が打撃されると激痛ゆえ自然蹲る形になる。ヨコシマはほとんど倒れ掛かった店主の両腕を捻るように持ち上げ、素早くゴム製の手錠で縛り上げた。
一方トンプソンは、数十秒以内で室内に存在する全て暴力員を片付け終っていた。ある者は殴られた勢いで仰臥し、ある者は腹這いに倒れ、ある者は不恰好な姿勢で横長の椅子に腰掛けている。ヨコシマは、圧倒的な強さを誇るトンプソンに調子良く賛美喝采したものの、騒動が収まるにつれて徐々に自覚し出す恐怖心に彼が震えていることに気が付かなかった。
ヨコシマは店主と同じように倒れ臥した暴力員の両手首にゴムの手錠を掛ける最中、トンプソンは無線機を用いて、任務達成の報告を行なう。報告時、咽喉が引き攣ったようにしわがれて、枯れたように痙攣するのはいつものことであるが、トンプソンは少し情けなく感じた。
全ての報告が終わるとトンプソンは、店内をグルリと見回した。視界内に見えるのは、余り掃除のされていない埃に塗れたテーブルと長椅子……窓からは、財団保有のバンが付近の道路に停車しようとしている様子が見えた。カウンターの方に視線を寄越すと、一般的な調理場に、ファーストフードのゴミが溢れたポリバケツがあった。
カウンター内部に入り、小汚い水場の床を注視していると、ミニテーブルの上に一抱え程度の箱があることに気付いた。その箱は安っぽいダンボール紙とは異なり、華美な装丁が施された物である。試しに持ち上げてみると、ズッシリと重たく手の平にその重量が圧し掛かった。箱の蓋の表面にはマーシャル社の社印が印刷されている。云うまでもなく、これ物品こそが件の密品であろう。
トンプソンは、箱の中身が多少気に掛かった。しかし、不用意に開くことなく箱を抱きかかえたまま外に出る。出入り口でヨコシマと入れ違いになった時、店内にまだ商品が残っている可能性があるため探すよう云いつけたが、結果的にトンプソンの持っている箱のみで、他に異常物は見付からなかった。
バンの一台にマーシャル社の異常物を、もう一台の方に数名の暴力団員を乗車させた。捕縛した彼らには、目隠しと耳当てが装着される。エージェント全員がそれぞれの車両に座ると、財団一行はある建物に向けて走り出す。その建物は財団のサイトではなく、フロント企業であった。主に、一般市民の情報収集と尋問を役割とした小規模の施設である。収集した商品は、正式にサイト内へ移送される運びとなっているため、押収品を乗せた一台はフロント企業への道中、分岐した。
目的地に到達した車は、地下の立体駐車場へと姿を消し停車した。目隠しと耳当て、手錠を設置された暴力団はそのまま連行する形で、建物内へ案内する。尋問室へ案内するまでの僅かな時間で実行されるのは、暴力団員の素性の割り当てであった。監視カメラを経由し、パソコンで顔や外見的特徴を照合する。時期が夏季であることから彼らは半袖のシャツを着用していた。腕の刺青の特徴から、照合作業はスムーズに進む。結果、二名がDクラス候補、三名が札付きのゴロツキであることが判明した。
「二名のDクラス候補は正式採用の許可が下り次第、即時雇用されます。精神や肉体面に後遺症が生じないよう、尋問法に注意して下さい」
尋問室に待機する八家に通達されるのは、仕事上の注文である。八家は「了解した」と返事し、黒革のグローブをキツク嵌めながら尋問用の道具を準備する。第一に取り出したのは、オブジェクトの食餌や薬物実験のために使用される昆虫であった。二本の長い髭を細かく動かし、黒光りする鎧を纏った不快害虫である。八家は次に軽度ながらも精神影響を与える記録媒体や、平衡感覚の狂う指輪等の品々を吟味し選別していく。
八家の準備が整ってから数分しないうちに、最初のDクラス候補が尋問室の椅子に座った。まずゴム製の手錠が外され、手摺の拘束具につなげられる。両足は椅子の脚に装着された固定具に繋がれた。耳当てと目隠しが外されると、八家は待っていたかのようにゆったりとした歩調で歩み寄った…………。
マーシャル社の密輸品を暴力団から押収してから、数日後のことである。サイト-81██の上部研究員にエージェント██は居住まいを正しながら、結果報告を行なう。事務机に積重ねられた書類のチェックを中断して、上部職員は冷め切ったコーヒーを啜りながら聴取の姿勢を取った。
「密輸密売の件に関してですが、暴力団は正式な送り主と、正規の受け取り主については何も知りませんでした。商品の密輸方法は、やはり漁船を利用した方法です。博多湾を経由して██████方面に移動、██地点の海域で、商品を受け取ったそうです」
「その辺りは調査不足でしたねえ。██████方面に巡回艦を派遣しましょう」
「エージェント・トンプソンが回収した商品……蓄音機の件はどうなっていますか?」
「研究員から調査書類を預かっております。どうぞ……」
エージェントは、小脇に抱えていた封筒を上部職員に差し出す。職員はとても丁寧丁重な所作で恭しく受け取りながら、中を開いて書類を取り出した。
「壊れたレコードを流すと優美優雅な音楽を流し、新品のレコードを流すと異音騒音を立てる蓄音機……ですか。アンティークに丁度良い感じがありますね。しかし、マーシャル社としては聊か商品として不適合な印象があります」
「えぇ。その商品はマーシャル社の物ではありませんでした。蓄音機の底部に、例の博士のメッセージがありましたから」
「博士……、ですか。ということは、彼らはマーシャル社に成りすましていたのでしょうか?」
「恐らく、それでほぼ間違いないかと。██博士いわく、『博士の成りすまし行為は資金集めが目的ではないだろうか』との見解を示しております」
「博士の資金集めの可能性は充分ありえますねえ」
「……因みに蓄音機は、正式オブジェクトを視野に研究員が調査を行なっています。精神汚染と認識災害の効能を持つ事が判明しています」
上部研究員は鷹揚に頷きながら、書類をチェック済みの方へそっと置いた。
「居酒屋の店主と暴力団との関係は分かりましたか?」
「元々居酒屋の店主は、暴力団に借金をしていたのだそうです。暴力団は借金の返済方法として漁船を利用した密輸密売の方法を提案……居酒屋の店主は料理を提供するところですからね。魚介類の仕入れで、一部の漁師とはある程度懇意だったのでしょう。暴力団はそこを狙ったと自白しています」
「ふむ。根っからの悪人じゃなかったのか……」
「そうとは云えますまい。密輸を行なうにつれて、暴力団幹部は店主を重宝するようになった……今ではほとんどヤクザ者と変わりないそうです」
「あぁ……権力に尻尾を振ってしまったのですねえ。店主は今どうなっています」
「Dクラス候補を除いた人員は記憶処理後、監視しています。現在、エージェント・海野が定期的に見張っています。報告は以上です。何か新しいことが発覚され次第、お知らせいたします」
「ご苦労様です、エージェント・██……ところで」
上位職員は椅子をギシと軋ませながら立ち上がった。エージェントはその様子をぼんやり見詰めていると、ある小包を手渡された。
「エージェント・トンプソンにお渡しするよう、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「これは……?」
「エージェント・トンプソンが、日本支部に就職して勤続三年目の記念品です。一般企業の勤続祝いは三年程度じゃ為されませんが、ここ、財団では例外的ですからね。エージェントが十人入って、一年後、半数が生存していれば良いぐらいですから」
財団の目となり足となるエージェントは、Dクラスの次に危険な職業だ。憐憫とも同情とも云えぬ顔が、上部職員の表情に滲み出た。
「私が購入し用意した物ではありませんので、その小包の中に何が入っているのか分かりませんが、財団のことです。役に立つ品でありましょう」
「そうですね。では、責任をもってお渡しいたします」
エージェントは上部職員を安心させるように、しっかりとその小包を手に取り掲示してみせた。職員はその様子を見ながら、エージェント██にある疑問を訊ねる。その質問は、本来なら財団職員としてやるべきものではなかったが、どうしても訊ねずにはいられなかった。
「あなたは、怖くないのですか?」
「何がです?」
「財団の仕事が、です。今回の密輸密売の仕事は、要注意団体に繋がるか分からない半端な仕事じゃないですか。下手を打つ打たないに関わらず、いつ死んでいてもおかしくない任務です。為になって実る保障すらないその業務に、使い捨てのように消費されること……朽ち惜しく、恐ろしくないのでしょうか?」
「…………」
「下らないガラクタに命を捨てる阿漕そのものじゃぁありませんか……?」
「……、正直、割に合わないと思っている点はあります。しかし、エージェントにはエージェントなりの矜持があるのですよ。きっとトンプソンも同じような、似たような考えを持っているのではないでしょうか。奴は臆病者ですが、勇猛果敢でもあります。少なくとも私は平凡な人生を過ごしたり、安楽椅子に座り続けるよりも、こうして行動する方が好きなんです」
「…………」
「アハハ。ちょっと熱くなっちゃいましたね。では……、失礼いたします」
スタスタと大股で歩むエージェントの後ろ姿。その歩調は確かなものであった。上部職員は椅子に座り直りながら、腕を組んで何事かを考える。未処理の書類の山には研究報告や要注意人物のリストが山積みになっているが、その紙束の中にエージェントの死亡報告も含まれている。彼は書類内に見知った顔がいないか祈りつつ、確認作業を再開した。