財団納涼祭:幕間 実行委員行動記録
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    • _

     
    「もうだめです」

    力のない、悲痛な声で、調査班の班長は報告を始めた。

    「あの存在は年々、強くなっている。神主はそう言っていました。ええ、私もそう思います。力は年々増している。それこそ、我々だけの力では抑えられなくなるほどに。」

    班長がタブレットを操作する。スクリーンに、いくつかの画像とグラフが映し出された。
    その中のひとつ、真っ赤な線が上に伸びた折れ線グラフを、資料のページと共に班長が示す。

    「ここ5年の、祭りにおける異常現象の発生率です。年々増加しているのが分かりますか。──先代の神主が亡くなってからは、特に。」

    赤いあかい線は右肩上がりに伸びている。
    資料になく会議にもない、当日の惨状が、その裏で悲痛な叫びを上げているようだった。

    「さらに、このようなデータもあります。──佐久野さくのさん、お願いできますか。」
    「はい」

    佐久野、と呼ばれた男が立ち上がる。

    「ここ10年ほどで、サイト8135管轄区域におけるAnomalousアイテム、およびsafe程度のSKiPの発生率は上昇しています。図1をご覧ください────前に回収されていたのは主に催事の道具でしたが、ここ数年で日用品にまで類が及んでいます。例の怪異が土地に及ぼす影響が、大きくなっているのが原因ではないかと。」
    「────その道具を集めるのが、君の部隊の役目だろう?」

    感情のない声で言われた佐久野の言葉に対し、どこからかフン、と鼻を鳴らす音がした。
    なんのために作ったと思っているんだ。聞こえた声に、佐久野が一瞬口をつぐむ。だが、すぐに何事もないような様子で話を続けた。

    「今回の祭りでも、縁日内にて多くの異常物品が回収されました。この数量、危険性、それによる被害もまた増加傾向にあります。」

    ドン、と机を叩く音がする。

    「ならば、我々にどうしろと!まだ研究は進んでいないのか、調査班!」
    「"禁域"が研究において重要な要素となりますが、依然として調査は難航しています。──おそらく、何者も立ち入れないような、いわゆる結界のようなものが張ってあるのかと。」
    「ならば、結界を破れるような者を調査班に組み込むまでだ。来年はそのような人材を寄越してもらうよう、人事部に掛け合うことにする。」

    ペコリと頭を下げた班長に、佐久野が「しかし」と口を開いた。

    「お言葉ですが、班長。そう悠長なことを言っている暇はありません。ここはいっそ、より強硬な対応策を講ずるのもひとつの手かと思います。」
    「強硬策を取り続け、怪異を無理やり押さえつけているのが、今こうしてこぼれてきているんです。そんなことをしても根本的には解決にはなりません。ここはきちんと研究を進め、あの怪異を正しくあるべき姿に祀らねば。」
    「そう言って、あなた方がまともな成果を出したときがありましたか?」
    「適切な収容プロコトルを組むためにも、異常の性質を理解するのは重要なのです!これだから、確保収容の確保しか頭にないような現場職は…」

    班長研究職佐久野現場職による言い争い。祭り終了後の会議において、これはほとんど恒例行事となっていた。
    だが、互いに大人だ。放っておけばすぐに終わる。腕を組んで傍観の体勢を示していた会議メンバーのひとりは、ふと資料からもスクリーンからも目を離した。

    柳沢やなぎさわさん」
    「…なんだ」
    「柳沢さんは、どうお考えですか」
    「そうだな」

    柳沢が、ぱらぱらと資料をめくる。
    各人による報告が始まって以来、ずっと黙っていた会議の長が動いたのを見て、班長も佐久野も傍聴の姿勢を見せた。
     
    「単刀直入に言う。我々にはもう、時間が残されていない。」
     
    柳沢の静かな、しかし力のある声に、会議場がしんと静まりかえる。
     
    「それは、今まで──ここ数年悪化の一途をたどる報告から、皆が知っていることだろう」

    柳沢は続けた。

    「だが、それでも、我々はやらなければいけない。やり遂げなくてはいけない。」
    「なぜなら、我々は財団職員だからだ。」

    紙の擦れる音も、ペンが鳴る音も、呼吸の音さえも、ただ静音のうちに覆い潰されている。
    威圧的なまでの無音の中で、ただ柳沢の声だけが滔々と続いた。

    「来年。来年一年。毎年言っているな。そうして芳しい結果を残せず、我々はまた来年、と時を伸ばす。」
    「しかし、それは」
    「黙れ」

    口を開いた班長の言葉を、柳沢が切り捨てる。

    「努力を認めないわけではない。仕事を貶すわけではない。ただ、結果として、我々は幾度も失敗しているだけだ。」

    声音は落ち着いていた。
    落ち着いていたが、その中にある思いは例年のそれではなかった。

    「決着をつけなければいけない。否、必ず決着をつけるのだ。残された時間は少ない。──おそらくだが、来年しくじれば、我々には今までの分も含めた痛手を負うだろう。そうなれば、このサイトの存続も危うい。」

    だから、と柳沢は言葉を継いだ。
    どうか、覚悟を決めて欲しい、と。

    「いざとなったら、責任は私が負う。だが、どうか一人ひとりが考えて欲しい。我々が相対しているのは何なのか。我々は、一体どんな存在なのか。何を考え、何をすべきか。」
     
    我々は財団職員だ。異常を封ずるのが役目だ。
    その意味を、よく考えていて欲しい。
     
    そう締めくくって、柳沢は再び会議で口を閉ざした。
     


      • _

       
      サイト8135は、どこか落ち着かない空気が満ちていた。
      道ゆく人の足が、なんとなく覚束ない。言葉を掛け合う声もふわふわと宙に揺蕩い、嵌まる居場所を持たない。

      人の意識が、言葉が、行為が、寄せては揺れて、浮かんで、そして流されていく。
       
       
      「おはよ、ゴイちゃん」
      「おはようございます葯矢やくやさん。あと、僕の名前は五井いついです。」

      購買に朝食を買いに来た僕は、目的の区画の前で揺れる青い髪に、思わず踵を返しそうになった。
      そんな僕を知ってか知らずか、葯矢さんが先手を打って挨拶をしてくる。逃げられない。

      「何、お前もパン買いにきたの?美味しいよねーここ。俺のおすすめは、少し遅く来るとタダでもらえるパンの耳。」
      「パン食べる気あります?」
      「冗談だよ。2番目のおすすめはカツサンド。」
      「1番目は?」
      「言ったら競争率上がるじゃん」

      それはそうだ。納得した僕の横で、葯矢さんはメロンパンをトレーの上に乗せた。
      「お前は何にするの」うろうろと視線を彷徨わせていた僕を、葯矢さんがせっついてきた。僕はもうしばらく悩んだあと、台の上で冷めかけた照り焼きバーガーを自分のトレーに乗せる。

      「340円です」

      財布の底の1円玉にため息をついて、僕は千円札を出した。

      ひとつ増えた袋を持って椅子に座った僕を見て、葯矢さんも僕と同じテーブルに荷物を置く。
      僕が照り焼きバーガーを口に入れたタイミングで、葯矢さんが「ねえ」と話しかけてきた。

      「ゴイちゃん。もしかして今日って、ヤナギンの集会がある日じゃない?」
      「ふぉふえふ」
      「てことは、今日から祭りの準備」
      「ふぁい」
      「せめて飲み込んでから話そ」
      「──…、そうです」

      照り焼きバーガーが崩れないように気をつけながら、僕はやっと答えた。
      「だーよねえ」自分の記憶が正しかったことを証明した葯矢さんが、あからさまに嫌げな顔をする。

      「あーあーやだなー。ほんっと面倒。」
      「面倒、って言ったって。葯矢さんも僕と同じように、祭りでの大事な仕事があるでしょう。」
      「ねえねえゴイちゃん、俺行かないからさ、話をまとめてあとで教えてくれない?」
      「だめですよそんなこと。葯矢さんの席だってちゃんと準備してあるんですし。それと、僕はゴイではなくイツイです。」
       
      ヤナギン、と葯矢さんが気安く呼んでいるのは、このサイトで行っている特別な収容プロコトルの責任者をしている柳沢さんだろう。
      毎年の慣例だ。毎年、大体この時期になると、柳沢さんを中心とする職員の人たちが、計画の実行に向けて動き出す。

      数ヶ月に及ぶ準備期間を経て、実行するのは8月のたった1日。
      その1日を崩さないために、柳沢さんを始めとする僕たち職員は、入念に、慎重に、着実に、準備と計画を積み上げていく。
       
      どの財団サイトにも役割がある。僕たちに宛てられたのは、このプロコトルの実行だ。
       
      「毎年やってること同じじゃん…あーもーやだ。面倒。帰って寝たい!」
      「帰るってったってアンタ、サイトで寝泊りしてますよね。帰る場所は結局ここでは。」
      「ばっくれたい…」
      「だめです」

      所属の機動部隊は違うはずなのに、葯矢さんはやたらと僕に構ってきた。
      この手の(軽薄そうな!)人間は好きではないので、正直迷惑と言っていいのだけど。なんとなく流され、明確な拒否をできないまま、ずるずると隣の場所を許している。

      力なく首を落とした葯矢さんが、自分の鞄からチルドカップを取り出す。慣れた手つきでストローを差し込むと、僕に縋るような目線を向けてきた。

      「なんとかごまかしといてよ、ゴイちゃん。素敵な先輩の頼みだと思ってさ。」
      「嫌です」
      「くそ…真面目すぎだろゴイちゃん」
      「五井です」

      「なんだ、白昼堂々サボり宣言か?いいご身分だな。」

      突然上から声が降ってきて、僕は危うくバーガーのレタスを全て引きずり出しそうになった。
      テーブルの上にコツ、とコーヒーの缶が置かれるのをちらりと見たあと、僕はおそるおそる声の主を見上げる。

      「おはよう、五井隊員。それに葯矢隊員。新しいことを始めるにはぴったりな、いい朝だ。」言葉は機嫌がいいはずなのに、絶対零度の声音のせいで、朝の挨拶が脅しにしか聞こえない。
      眼鏡の向こうの鋭利な目が、冷たく僕たちを見下ろしている。思わず視線を逸らした僕の横で、葯矢さんが笑った。

      「やっほ、榊原さかきばらサン。やっぱ今の聞こえてた?」
      「聞こえてなかったらこんなことは言っていないな」
      「人がいないからオッケーって思ったのになあ。ね、隊長さんには秘密にしてくんない?」
      「正直毎度の準備がマンネリ化しているのはわかるが、これも仕事だと思って素直に従え。勤務態度の評価を自分から下げに行くのは感心しない。」

      マンネリ化。
      反論をしようと口を開きかけたはいいが、ここで何か言っても、僕の弁の100倍くらいの言葉で封じられる気しかしない。出しかけた言葉は、バーガーにかぶりついて喉の奥に押し込めた。

      「集会は9時半からだ。忘れずに来い。」
      「はいはい。ああもうやだなあ。ヤナギンももうちょっとさ、茶目っ気とか学べばいいのにね。」
      「アレに茶目っ気か。GOCとインサージェンシーが笑顔で手組むくらいありえないと思うぞ。」
      「うん。俺も同意。」
      「珍しく意見が合ったな」
      「繋げたのがあの面白みのかけらもない仏教面野郎なのが惜しいけどね〜」

      僕が尊敬する上司に対し、好き勝手言い合う2人に、僕は少しムッとする。
      第一、人と世界を背負う財団の仕事に、面白みはそこまで求められないんじゃないだろうか。

      「おふたりとも、もう少し柳沢さんに敬意を払おうとか思わないんですか」
      「「思わない」」
       
      見事に声が揃う。
       
      「…」
       
      ため息まじりに飲み込んだバーガーの最後の一口は、僕の口の中の水分と、2人にかけようとしていた言葉を奪っていった。
       


       
      「初めまして、と言われるべき者もいるだろうか。改めて挨拶をさせてもらう。特殊収容の責任者、柳沢だ。」

      大会議室。壇上に上がった柳沢さんは、毎年変わらない口調と言葉で話し始めた。
       
      恒例の挨拶。僕がこのサイトに初めて来たときと何も変わらない。
      変わったのは、僕の身辺と、あのとき隣にいた人がもうここにはいないことだ。
       

      柔らかな春に覆いかぶさる、静かな夏の気配。
      僕は資料を1枚めくって、沈黙の中を流れる柳沢さんの言葉に耳を傾ける。
       

      かちり。手の中のボールペンが音を立てた。
       


       
      ちりん、と、小さく鈴の音がする。

      賽銭も置かず、祈りの言葉も捧げず、ただ鈴を鳴らしてぱちんと手を合わせるだけの簡単な参拝は、委員会の準備が始まった日に行う風習だった。
       
      いつの時間でも、誰と行ってもいい。ただし必ず、その日のうちに行くように。
       
      サイト管理官から厳命されたこの習慣は、僕たちにとって当たり前のものと化していた。
      ただ、サイトに入ったばかりの職員には、どうにも馴染まないらしい。
      「財団職員が神頼み、ですか」現に、僕の隣に立つ新人も、さっきから首を傾げたままだ。

      「どちらかというと、神を封じる側では?」
      「仕方ない、これがこのサイトの義務だから」
      「雑ですね。みなさんこんな感じで?」
      「疑問を持ってる人は一定数いるけど、特に何も感じなくなってきた人がほとんど」
      「ふーん」
       
      サイトの中心、小さな社。
      正方形に括られた場所は、一辺1メートルもいかない小さな場所だ。台の上に社が置いてあり、その前に平皿。
      平皿の中には、小指の先ほどの大きさの鈴が置いてある。これを鳴らして手を合わせるのが作法だった。
       
      「"動かすな。賽銭を上げるな。縋るな。決して放っておくな。"──ここまで不審点積んどいて、本当に誰も気にしないんですか。」
      「由緒もわからない。理由もわからない。ただ"やれ"と言われたらやるんだよ。それが職員だろ?」
      「ええまあ、それはそうですね」

      新人が黙る。僕も黙った。

      社が何のためにあるのか、僕たちが何のためにこうして祈りを積んでいるのか、僕たちは何も知らされていない。もしかしたら、もう誰も知らないのかもしれない。

      「こんな地域ですから、謂れはあると思うんですけど。どっかで失伝しちゃったりしたんでしょうか。」
      「そうかもしれないな」
      「このサイト、結構長くないですか。蒐集院が財団に併合されるタイミングで出来たんですよね。その頃の資料を探せば、何か出てくるかもしれませんよ。」
      「そうだな」
      「祭り準備開始のタイミングでってのも気になります。もしかしたら、例の怪異と何か関係が、」
      「──そろそろ黙れ、山岸」
      「…はい」

      新人が口を閉じる。そして、社の前で一礼すると、僕を置いてどこかへ去っていった。
       

      冷静に考えてみると、確かにおかしいと思う。
      祭りを始める日、その日に、ここで鈴を鳴らすのだと。ただそれだけ言われている。

      理由もなく。意味などなく。

      それでも、言われただけで、ただそれだけで、もう何年もこの行為を馬鹿正直に行う僕たちも、相当おかしいと思うけれど。
       


        • _

         
        水源の方にあるサイトを出て、歩いて15分ほど。 
        毎回祭り会場になっている広間を通り抜けると、目的地の神社の参道に行き着くことができた。

        「帰り、公民館の方にも寄っていこうか」
        「はい」

        隣を歩く同部隊の先輩に返事をしてから、僕は参道の右端を歩く。
         
        参道の真ん中は、神様が通るところ。人間は歩かない。
        鳥居をくぐるときは、軽く一礼を。
        行事が行事なだけあって、このサイトに来てから、神社のマナーに詳しくなった。
         
        参拝をしてもいいのだが、あとの用事もあるので今回は省略。社務所の呼び鈴を鳴らした僕に、扉の向こうの相手は素直に応じてくれた。

        「こんにちは」
        「こんにちは高橋たかはしさん。先だって連絡していた、財団の者です。」
        「はい。どうぞお上がりください。」

        高橋さん──神主が軽く頭を下げ、社務所の奥へと促してくれる。壁に貼ってあるまじないの札をちらりと一瞥して、僕は高橋さんと先輩の背を追った。

        「なんのお構いもできませんが、どうぞ寛いでください」
        「いえいえ」

        少しして、3人分のお茶を持ってきてくれた高橋さんに軽くお礼を言う。
        人の気配がしない。巫女さんたちはみな引き払っているのだろうか。
        高橋さんに見えないよう、先輩が僕を軽くつついたので、僕はあわてて鞄の中の書類を取り出した。

        「今年も、納涼祭にて怪異のご祈祷をお願いしたいと思っています。」
        「…、はい。もうそんな時期になりますか。」
        「手筈や概要は例年の通りとなっていますが、細かい変更や打ち合わせもありますので、お呼び出しにはなるべく応じていただけると幸いです。」
        「わかりました」
        「ご依頼の料金と、今後の日程はこちらに…」
         
        先輩が滑らかに話すのを、僕はどこか漫然とした気持ちで聞いていた。
         
        僕が見られるときの高橋さんは大抵、会場のすみに座っているだけだし、実際の祈祷の際は僕の方が別の仕事にあたっている。
        委員会の中でも、高橋さんに話しかけるのは大抵柳沢さんで、僕がきちんと高橋さんの近くで話すのは初めてだった。
        おおよその見た目の年齢は30代くらい。でもどこか不安定に見えるのは、終始の曖昧な態度と、どこか頼りなげな雰囲気からだろうか。
         
        「────、────」
         
        柳沢さんは、この人のことをあまり快く思っていなかった。馬鹿にしているような節さえあった。

        それも仕方ないかな、と僕は内心思う。

        由緒ある神社を守ろう、とか、きちんと怪異を抑えていこう、とか、そういう気概のようなものが見えない。
        役目を果たす覚悟、といったらいいのだろうか。そういうのが、足りていない気がする。
        今日初めて言動を間近で見た人を、安直に評価付けることはできないけれど。
         
        「───い」
        「…」
        「──い、五井くん」
        「はっ、はい!?」

        ぼんやりしていたせいで、先輩が僕を呼ぶ声に一拍遅れてしまう。
        先輩は「何やってるんだ」という目で僕を見たあと、「話が終わったんだけど」と言った。

        「なにか、聞きたいことはないかな。せっかくの機会だし、知りたいこと確認したいこと、あったら」
        「ええと、そうですね…」

        頭を回しながら、僕はちらりと高橋さんを見る。
        いどころのない曖昧な笑顔を浮かべて、自信なさげに、僕の言葉をじっと待つ姿。
         
        この人に任せていいんだろうか。
        処理速度が上がった脳裏に、そんな思いが暗雲をかけた。
         
        「あの」
        「はい」
        「もしよければ、祭具を見せていただけませんか」
        「祭具、ですか」

        高橋さんが、少し困ったように眉根を寄せる。
        が、少し考えたあと「大丈夫ですよ」とやわらかく言った。

        「お手数でしたら、無視していただいても」
        「いえ。実は、例年ですと財団の方から連絡が来てから出していたのです。手間は変わりません、お気になさらず。──5分ほどお時間いただいても?」

        僕と先輩は、少し顔を見合わせる。
        このあとは、公民館の方で町内の人に挨拶をする用があるのだ。少しゆとりを持って時間をとっているとはいえ、早々遅刻するのはあまりいただけない。

        少しの沈黙ののち、先輩が「お願いします」と軽く頭を下げた。
        はい、と頷いて、神主が衣擦れの音と共に立ち上がる。
         

        「公民館へは、走って行こうか」

        高橋さんが去った空間で、先輩がふと呟いた。

        「実はさ、俺もあんまり見たことなくて。気になるんだよね、祭具。」

        いたずらっぽく笑った先輩が、湯呑みに手を伸ばす。それを見て、僕もお茶をひと口啜った。
         
        「あ、美味しい」

        ふわりと茶葉のいい香りが鼻を抜ける。後味もさわやか。
        思わず口をついて出た言葉に、先輩がああ、と言った。

        「前、町内の人から聞いたことなんだけどね。ここの前の神主さん、お茶が好きだったらしいんだ。」
        「へえ」
        「もしかしたら、手順書とか残しておいたのかもね」
         
        僕はお茶にまったく詳しくないが、きっとこの味を出すには、それなりの手間が必要なんだろう。
        脳内で、高橋さんの評価を書き換える。

        必要な手間を必要と判断して、丁寧な仕事ができる人だ。
        僕の中で少しだけ、高橋さんの株が上がった。
         


         
        しばらくして戻ってきた高橋さんは、手に、白木でできた箱を持っていた。
        丁寧に中を開くと、出てきたのは木製の弓。
        高橋さんが持ち上げると、ちりんと、弓についた鈴が鳴る。
        なんとなく、その鈴の音と見た目に既視感があるのはなぜなんだろう。
         
        「梓弓、というものです」
        「あずさゆみ」
        「神事に使われる弓です。主に、魔除けとして鳴らすのに使われるものですね。」

        高橋さんが軽く弦を鳴らすと、確かに音がする。「これから手入れをして、儀式の際には良い音が鳴るようにします」高橋さんは言った。

        「どうでしょう、これで、もう大丈夫ですか」
        「ああ、はい。ありがとうございます、わざわざ持ってきていただいて。」
        「このくらいなら」

        高橋さんがまた、丁寧な手付きで弓を箱に入れる。
         

        その弓についた古い鈴の既視感の正体が、サイトの社にあるものだと気づいたとき、僕は階段を下りる足を1段踏み外した。
         


          • _

           
          かれこれ20分。スマートフォンの画面を睨んで、僕はぐだぐだと思考を回している。
           
          指を伸ばすのは、ボタンを押すのは、数秒程度かからない。
          時間だって多分、5分足らず。
          その5分のために、僕はさっきからずっと、スマホの前でぐずぐず躊躇っている。

          黒く落ちるスマホを触って光を戻し、ロックがかかった画面を解除し、覚悟を決めてスマホを手に取っては、少しの迷いと共にまた机に置く。
          側から見れば、僕の姿はさぞや不思議か、もしくは滑稽に映っていただろう。
           
          ここ20分間のうちの何度目かの覚悟を決めて、僕はスマホを手に取った。
          煌々と光る画面の真ん中で、控えめに存在を主張するボタン。
           
          息を吸って、吐く。
          目を閉じて、また開く。
          指がかすかに震える。
          下手な任務より緊張する。

          ああ、と微かに。うめきとも嘆きともつかない声をあげて、僕は画面中央、「電話をかける」のボタンを押した。
           
          距離を飛び越えて、音を繋げるための通信音が、永遠のように感じる。
           

          [もしもし]
           

          通話口から流れる懐かしい声に、心臓が跳ね上がるのがわかった。
          呼吸が途切れた魚のように、はくはくと口を開け閉めしてから、僕はやっとの思いで声を絞り出す。
           
          「お久しぶりです、かっ…桂木先輩…!」

          […ああ。久しぶりだな、五井。]
          「先輩もお変わりないですか。あの、今年のお祭りの件で────」
           

          前は毎日のように会っていたのに、電話一本かけるのにあれだけ時間がかかるほど、今はとても遠い。

          随分と久しく聞いていなかった声音は、あいも変わらず平坦で、なにも変わらず優しかった。
           


            • _

             
            「あの」

            大丈夫ですか、と。
             
            その言葉が僕にかけられたものだとわかるまでに、少しの時間を要した。
             
            顔をあげると、隣の男の人の目が合う。
            僕より高い身長と、三白眼。ここの席に座るとなったときに、少し怖い、関わらない方がいいかもしれないと内心で思っていた人だった。
            僕と相手の人の間を、壇上からの挨拶が通り抜け、ふわんと霧散していく。

            「──いえ、あの」
            「お邪魔して申しわけありません。その、何か困っているように見えたので。」

            右から左へ通り抜けていた挨拶の言葉の代わりに、相手の言葉が静かにはいりこんでくる。
            黙ったままの僕に、「何か困りごとでも」と男の人が重ねて言った。僕に手を差し伸べたはずの彼の方がよほど困っているようだと、僕はぼんやりと思う。
            ひとつ、曖昧な笑顔を浮かべてから、僕は「そのですね」と言葉を濁した。

            「筆記用具が、壊れてしまって」
            「壊れて」
            「ボールペンが壊れてしまったんです。けれど、他の筆記用具も特に持ちこんでいなくて。どうしようかと。」
            「それは、大変ですね」

            青年は一度同情するような顔をしてから、そばに置いてあったペンケースから、ボールペンを取り出した。
            「もらってください」そういう青年の書類の上には、きちんと本来のペンが置かれている。

            「えっ、でも」
            「筆記用具にこだわりがあれば申し訳ないですが、お出しできるのがこれしかないので。」
            「こだわりはないですけど…いいんですか」
            「私の分はあるので、どうぞ使ってください。それは差し上げますので。」

            実は、お金を出したものではなく、財団の方からいただいたものなので。
            そう言われてペンを見ると、確かにそこには、見覚えのある三本矢印のマークがプリントされていた。

            「ありがとうございます…。あの、名前は」

            僕が聞きかけたところで、壇上の方から「おい」とこちらに声が飛んできた。

            「────そこの、黒パーカーを着たお前。そう、お前だ。現時点での収容プロコトルはどれが適用されているか、添付資料2を見て答えろ。」

            男の人に、壇上から厳しい声がかかる。だけど、男の人は落ち着いた顔で立ち上がると、「プランCですね」と資料も見ずに答えた。

            「プランC。怪異の性質とより適切な収容を調査しつつ、抑えきれない部分は局所的に制圧し、発生した異常を取り除いていく計画です。」
            「そうだ。──補足をすると、プランAは怪異を調査し、怪異の意向に沿いつつ鎮める方法。財団以前、蒐集院の者たちが行っていた方法だ。」

            座っていい、と、壇上の人物は男の人を促した。

            「プランBは最も強硬な手段だ。怪異を実体化させ、祈祷、調伏と財団の対霊体用装備によって対応する。怪異の消滅も辞さないという策だな。」

            男の人はまた僕の隣に座り、話はまた僕の耳の右から左へと流れる。

            「桂木です」
            「え」
            「かつらぎ、と申します。あの、さっき名前を聞いたでしょう。」

            今度は壇上から見えないように、男の人がなるべく資料を見ながら、僕に小声で話しかけてきた。

            「機動部隊員をしています。あの、二階の奥にある、倉庫を改造した部屋…あそこの部隊です。」
            「"廃品業者"?」
            「そうです」
            「桂木さん。僕は五井といいます。五つの井戸でイツイ。」
            「五井さん、ですか」
            「あ、多分僕の方が若輩なので、敬語は使わないでください。僕も機動部隊員をやっています。要注意団体を見張る類の、」
            「なるほど。では、貴方は私の後輩になるんですね。」

            後輩。
            その響きがどこかくすぐったくて、嬉しくて、僕は状況も忘れて「はい」と返事をした。

            「とりあえず、この会議は集中しましょう。そのあとになりますが、良ければ昼食でもご一緒しませんか。」
            「は、はい!」
            「ありがとうございます。ああ、ええと────ありがとう、五井。」
            「いえ、僕こそ、ボールペンありがとうございました」

            僕がそう言うと、桂木さんは小さく笑って、また書類に目を落とす。
            嬉しいような、緊張するような、そんな気持ちをごまかすように、僕は桂木さんにもらったボールペンをかちりと鳴らした。
             
             
            それが、僕と桂木先輩の、はじめての出会い。
             


              • _

               

              [みんなの長野広報 20██年7月号]

              『夏本番!家族で、友達で楽しもう!地元のお祭り特集』より

              禰津地区では、何百年も前から行われる、由緒正しいお祭りがあります!
              鈴鳴(リンメイ)神社という神社を中心に毎年行われる「納涼祭」。その地に伝わる神様を称え、歌や踊り、食べ物などを奉納して楽しませるという行事が最初、だと伝えられています。

              そんな古き良きお祭りですが、屋台や出し物はとても豪華!
              定番の唐揚げやベビーカステラ、焼きそばなどはもちろん取り揃え、長野の美味しい地酒や、地元の方による物産展も充実!
              お祭りの日の特設ステージでは、地元の吹奏楽部や特別ゲストによる演奏、生の巫女さんによる華麗な舞の奉納も!特に巫女さんの奉納は有名で、毎年たくさんの人たちがこれを見にやってくるそうです。

              伝統的な儀式と現代的な楽しみを融合させた、鈴鳴神社のお祭り。
              お友達やご家族を誘って、精一杯楽しんで、素敵な夏の思い出にしちゃいましょう!


               
              波戸崎といいます。参加は始めてなので、至らぬ点も多いかと思いますが、誠心誠意務めます。どうぞよろしくお願いします。」

              ペコリと頭を下げた青年に対し、周囲から拍手が起こる。
              僕もぱちぱちと軽く手を打ってから、側の書類に手を伸ばした。

              今年も新たに招集された、財団所属の職員たち。
              僕たちと活動を共にするのは1ヶ月にも満たないが、自分の居場所に見慣れない人間がいるというのは、それだけで新たな刺激だ。
              良くも悪くも。

              会議室を順繰りに周り、委員たちの挨拶が行われていく。
              今年はなんだか新顔が多い、と僕は思った。そりゃあ一年前に別れた人たちの顔と名前を正確に覚えているほど僕の頭は高性能じゃないが、同じ窯の飯を食べてサイト内で寝泊まりして顔と意見をつつきあわせてきた人だ。顔を見れば、ああ会ったことはあるなとなんとなく思い出せはする。

              そう思っていたら、また見覚えのない人の挨拶が始まった。
              腰までの長い髪に黒いコートをなびかせた少女が、見た目にそぐわない口調で話している。
              ほら。あんな特徴的なのがいたら、一年くらいじゃ忘れないはずだ。

              僕は書類をめくって、その中に載っている名前を眺める。
              81JHの要人に、倫理委員会がやってる特殊運用人事セクター、エトセトラ。怪異に関わりのない表委員会の方なら、特殊人員名簿の中のひとつの代表とか。

              人が増えるのは悪くないけれど、なぜだか毎年どんどんイロモノ職員が増えている気がする。
              せっかく仕事するなら、僕は規律正しい真面目な人と仕事がしたい。なおざりな拍手をしながら、僕は内心で毒づいた。
               
              ───そう。もし、桂木先輩と仕事ができたら、きっと楽しかっただろうな。
               


                • _

                 
                「GOCの襲撃!?」
                「ちょ、声が大きいです!」
                「あ、ごめんね…」

                ハッとした顔で、戸丸とまるさんが口をつぐむ。
                それを確認して、僕は半ばため息まじりに言葉を継いだ。

                「ばれてないはずがないんですよね…。毎年、ここまでの規模のイベントやっといて。奴らも馬鹿じゃない、何かの仕事であることはすぐに勘付いたでしょう。」
                 
                8135、二階奥。本来は物置であっただろう場所を改装して、人間がいられるようにしたところ。
                そこで、僕はなぜか、本来僕がいるところとは違う機動部隊の人たちと仕事の打ち合わせをしていた。

                本当は、僕だって自分の部隊での仕事──虎視眈々と財団を狙う、GoIの奴らの警戒をしていたはずなのに。
                どうやらこっちの部隊の作戦変更で、人が足りなくなってしまったらしい。
                「五井、お前あそこの面々と仲良いでしょ?」押し切られるようにして作業を変更され、僕は釈然としないまま部隊員たちの自己紹介を聞いていた。
                 
                怪異の警戒と、縁日における異常物品の回収?
                本当なら、僕が警戒すべきは人間の方だったはずなのに。
                 
                ────唯一、僕を支えているモチベーションといえば、この部隊がかつて、桂木先輩が所属していたところだということだ。
                もしかしたら、部隊の人から僕の知らない桂木先輩のことを知ることができるかもしれない。そんな思いが、今すぐ踵を返して部屋を出てしまいたい僕の足を留めている。
                 
                「ただでさえ、ここ東日本はGOCの力が強いのに。奴ら、いつ行動を起こすか分かりません。毎年あちらこちらで小競り合いも起こっています。怪異だけでなく、人間にも十分に警戒しないと。」
                「それはわかったけど、なんで僕たちにそんなことを?」
                「このサイトで祭りに関わる、エージェントと機動部隊の人たちには全員連絡するようにと通達が出たので。あなた方には僕の口からです。」
                「そうなんだ」

                戸丸さんが、机の上に散らばった書類を手に取る。
                ぱらぱらとめくりながら、誰に言うようでもないように、ぽつりとひとりごちた。

                「お祭り、異常性を持った職員も来るからなあ…。そういう人たちも守れるよう、地元サイト勤務の僕たちが頑張らないと…。」
                「頑張らないと、って。戸丸さん研究員ですよね?」
                「そうだけど!気持ちの問題です。人間への異常性を研究する専門家として、どんな人でも素直にお祭りを楽しめるようサポートしたいのは本当ですし。いざとなったら、がんばって僕も銃抜きますよ。」
                「研究員が銃抜くんじゃ、いよいよ緊急事態ですね」

                冗談めかして言った僕に、戸丸さんが小さく笑う。
                その後ろで、話を聞いているだけだった人が「そういや」と切り出した。
                名前は確か、久賀くがさん。

                「敵組織からの間諜も多いらしいしね。怖いなあ、隣にいる奴が敵だとか考えるの。」久賀さんが笑う。
                その隣に座っていた人が「いや、お前だったら敵ってわかった瞬間友人でも殺しそうだけどな」と冷めた声で言った。

                「失礼だな、反町そりまちくん。ところで聞いてみるけど、お前ってもしかして間諜?」
                「たとえそうだったとしても、そうじゃなかったとしても、結局Noって答えるしかないだろ」
                「よかった。たとえ冗談でもYesって言ったら、私怪異の前にお前のこと叩っ斬ろうと思ってた!」

                にっこりと笑う久賀さんの手元には、黒く鈍く光る日本刀がある。
                銃刀法違反、とか、それ確かAnomalousアイテムに指定されてたはずじゃ、とか、さまざまな考えが僕の頭を巡って、その全て音にはならなかった。

                「とりあえず、これで人不足は解消だ。すまないが、よろしく頼む。」部隊の隊長と名乗る、佐久野という人が僕に言った。

                「本来ならば隊員で回せているはずだったが、この榊原が対策本部の方に呼ばれてしまってな。急遽代役を求めたというわけだ。」

                佐久野さんが座るソファの横、足にガムテープのついた椅子に悠々と座り、榊原さんはコーヒーをすすっていた。僕の方を見ようともしない。

                「五井隊員の了承を得たので、とりあえず柳沢さんの方には書類が出せるな。白井しらいさん、忙しいとは思うが、あとで本部の方に書類を提出しておいてくれ。」
                「了解。いいんですよ、隊長さんにはあれこれ他にやってもらってますからね。たまには副隊長らしいところも見せないと。」
                「毎度のことながら、世話になる」
                「いえいえ」

                白井さんが笑う。
                そのあと、いくつかの事項を確認して、この場はお開きになった。
                 


                  • _

                   
                  作戦中の待機時間は、時間が流れるのが妙に遅く感じる。
                   
                  柳沢さんがプランBへの変更を宣言したときは驚き、そして、それほどまでに怪異は差し迫っているのだと息を呑んだ。
                  それでも、僕は柳沢さんを信じて指針を預けたんだ。この人の命令を、差配を信じて、最後まで戦って見せる。
                   
                  だが。

                  (…おかしいな)

                  右耳のイヤホン。中継される筈のライブの音が途絶えている。

                  後醍醐姉弟のライブ。怪異に対して有効とされるもののひとつ。
                  事前の計画だったら、少女の出現までは流れ続けている手筈だった。
                   
                  会場で何か、トラブルがあったんだろうか。誘導ポイントに連絡を取ると、そちらも同様に中継が途絶えていた。
                  本部からは、通信越しに原因特定を急ぐ慌ただしい様子が伝わってきている。
                   
                  (────桂木先輩、どうしてるかな)

                  通信を切り、無音になったイヤホンを1度耳に嵌め直して、僕はぼんやりと思案を巡らせる。

                  来てくれる、と言ってくれた。
                  ローカルネットで通信も送ってくれた。上司、友人、それと友人の恋人という人と共に、祭りに来てくれているらしい。
                  適当に祭りを手伝うから、もしかしたら会えるかもしれない。添えられた文面に、少しだけ笑いが零れた。
                  もう、このサイトの人ではないのに。どこまでも真面目で、優しい人だ。
                   
                  僕の持ち場は、参道沿いの一帯。飯尾さんとやらの示した、出現予想ポイントの始点。
                  一般客に紛れるために、装備は最低限だった。防刃仕様の浴衣と、帯に仕込んだハンドガン、そして、直径数センチの魔除けの札と、古びた鈴。

                  誘引の肝と目されていたのは、この鈴だった。

                  僕はつばを飲み込んだ。頭の中で、収容手順をもう一度思い浮かべる。
                  怪異の原因である少女の鈴による誘引と、楽曲による行動制限。これまでの情報によると、少女は物理的な干渉手段を持たないとされている。精神汚染の対策をしていれば対処可能というのが、本部の解析だった。

                  僕が入った隊が行うのは、怪異由来のAnomalousアイテムで、怪異を誘導すること。
                  ポイントにまで送ってしまえば、あとは柳沢さん各位の職員たちがなんとかしてくれる。はずだ。

                  ライブの音源がない今、一度少女が現れてしまえば誘導中の交代は望めない。
                  それでも、僕は僕の役目を果たさなければ。
                  軽く拳を握って、僕は決意を胸に描く。
                   

                  その時だ。
                  白い着物姿の少女が、目の前を通り過ぎたのは。
                   

                  「本部、目標と思しき少女を発見!本部!」
                   
                  呼びかけは空しく響いた。返事がない。
                  とっさに、少女を追って参道に出た。鈴を振って気を引こうと試みると、それはひとりでに音を立て始める。

                  少女が立ち止まり、ゆっくりと、僕の方を振り向いた。
                   
                  「お祭り、たのしい?」
                   
                  僕は衝撃を受けた。少女との対話の試みは、これまで全て失敗しているはずだ。

                  落ち着け。僕は念じる。かわいい見た目をしていても、これは怪異。正常性を破るばけもの。
                  それでも、言葉が通じるのなら、少しはできることも増えるかもしれない。僕は深呼吸して、ゆっくりと少女に近づいた。

                  「こっちにおいで。お兄さんとお話ししよう。」

                  少女は首を振った。

                  「君は、ここにいちゃいけないんだ。もっと、あっちへ」

                  少女がん、という顔をする。
                  その場から動こうとしない少女に、僕は必死で愛想笑いを続けた。

                  「ねえ、あのさ」

                  言葉が切れる。
                  少女が、僕に向かってその小さな足を一歩、踏み出したからだ。
                   
                  「ねえ、お兄さん」
                   
                  目を見るな。本能的に思う。
                  だめだ。見ては。
                  これを見ては。

                  目が、離せない。
                   
                  「お祭りはね、たのしまないといけないんだよ?」
                   
                  少女が一歩一歩迫ってくるのを、僕は見つめることしか出来ない。
                  間違えた。ただその思いがぐるぐると巡り、強まっている。
                  少女がたたえた、黒目がちの大きな目。吸い込まれるように、僕の意識はそこに集中していく。
                   
                  何も聞こえない。祭り囃子の喧騒も、何も。
                  少女が土を踏む音しか。

                  何も見えない。後ろに広がる屋台も。
                  少女の黒い髪、白い肌、白い着物、黒い瞳しか。
                   
                  「たのしまないとね。かみさまはね。おこっちゃうの。」
                   
                  何もわからない。
                  何も考えられない。
                   
                  「だから、お祭り楽しめないお兄さんは、ないないするんだよ」
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                  視界が揺れる。
                   
                  何もわからなくなる。
                   
                  間違えた、という絶望感に手を伸ばして、最後に見えた姿は、
                   
                   
                  「桂木、せん、ぱ」
                   
                   


                   
                   
                  なんだ。
                  この人と一緒に行けるなら、こんな祭りだって愉快なものだ。
                   
                  偽物の世界だっていいや。
                  俺、初めて素直に祭り楽しめるんだ。
                   
                   
                   
                  しゃらりと音を立てて、辺りに誰もいない地面に、鈴とイヤホンが落ちた。
                   
                   
                   


                   

                    • _

                    榊原は焦っていた。

                    通信のつながらない誘導ポイント。落ち着いた話などできそうにない対策本部。
                    (柳沢と連絡がつかない)まずい、大変にまずいと思考が積み上がり、ぐちゃぐちゃになって崩れ落ちる。

                    縋るような思いで無音のヘッドホンを耳に当てたとき、どこかから通信が繋がる音がした。

                    (…!五井か!)計画ならば、ここが起点のはずだ。
                    少女が現れたか、もしくは別の何かしらがあったのだろう。「ようやく通信が繋がった。とにかく今の状況を…」高揚した思いで通信を取ろうとした榊原は、どこかから聞こえた、乾いた音に意識を奪われる。
                     
                    (────発砲音?)
                     
                    紛れもなくそれは、榊原が人生において何度も聞いてきた、拳銃から弾が発射されるときの音だった。
                    しかしなぜ、と榊原は意識を取られる。
                    脳が警鐘を鳴らす。首筋に冷や汗が伝う。
                     
                    間違っていたのだ、と。
                    何かが。

                    普段は真っ直ぐに据えた思考の羅針が、焦りと絶望感によって、ぐらぐらとその方位を揺らした。
                     
                    「ああクソ、何がどうなってる!?五井!返事をしろ、五井!」
                     
                    ヘッドホンに向かって叫ぶ。
                    返事はない。
                     
                    「五井、何があったんだ!少女は!怪異は!?」
                     
                    返事はない。
                     
                    「クソが、財団職員なら仕事の責任くらい取れ!おい五井、返事をしろ!報告!」
                     
                    返事はない。
                     
                    「何がどうなってるんだ、至急応答しろ!そっちはどうなってる!?」
                     
                    返事はない。
                     
                    「五井」
                     
                    何も聞こえない。
                     
                    「聞いているのか」
                     
                    祭り囃子の音も。
                     
                    「五井、返事をしろ。…他の人はどうなった、隊は」
                     
                    通信音も。
                     
                    「委員会は」
                     
                    さっきまで聞こえていた、周りの音も。
                     
                    また、────いや、これも、間違えたのか。我々は」
                     
                     
                     
                     
                     
                    もう、何も聞こえない。
                     
                     
                     
                     
                     

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