『返事をしろ! エージェント・成春なりはる! 成春!』
船の上。イヤホンの先で、オペレーターが叫んでいる。返事をしてやりたいが、マイクはもう外されている。額に突き付けられた銃。顔を伝う雨。海が荒れているせいで海水もかかる。昼だというのに、雲のせいで辺りは暗い。
『何が起きている! 返事を……』
イヤホンも外された。喧しいオペレーターともこれでおさらばだ。揺れる甲板の上で、俺は覚悟した。
──────これから俺は処刑される。
「3キロ痩せたな。」
「ああ。最近忙しかったんだ。だからまあ、その……申し訳ない。」
薄暗い大きな物置のような部屋。暗い部屋だが、差し込む光に埃は映らない。壁に寄りかかったラックには様々な色の生地が収納されている。ナポリにひっそりと佇むこの仕立て屋は、これでも営業中だった。俺は5カ月前に注文したスーツの最終確認のために休暇を使って訪れたのだが、やはりプロには体重の変化が一発で分かってしまう。目の前の老仕立て屋は、俺に着せた完成目前のジャケットのボタンを留める。その横では、跡取り息子が脇や首の辺りの様子をじっと見つめている。
「ビアッジオ、シルエットが崩れてしまってるなら、追加料金は払うから……」
「崩れんよ。どうせ痩せるだろうと思ってそれを前提に設計したからな。」
「そんな兆候があったか?」
「何回も仕事を請けた客の事なら、顔見りゃ大体分かるもんだ。お前は仕立ててやってもすぐ駄目にしちまうからな。『リゾート用が駄目になった』って言われて作って納品した日に『パーティー用が駄目になった』なんて言ってくる客は、余程の馬鹿かお前だけだ。」
「手入れは怠ってないんだが、仕事で使うからな……」
「俺は客の仕事に関して詮索はしないがな、お前はさっさと引退するか転職した方がいい。もう35だろ。1年に4回のペースで注文をくれるのはこっちとしては有難いんだが、二度と注文できなくなっちゃあお終いだ。」
「それを言うなら、そろそろあんただって引退したいって言ってたじゃないか。息子さんも随分良い腕になったしな。」
「いえ。俺は継ぎませんよ。下職で稼いだ分と投機で稼いだ分だけで生活できますから。」
「あ……そう、そうか……合理的だな。」
俺みたいな外国人の訳アリの客に、何も訊かずに服を作ってくれるのはこの仕立て屋だけだった。ビアッジオは俺からジャケットを脱がせながら、この寂寥感を察したらしい。
「倅は昔の俺達と違って馬鹿じゃねえのさ。あの頃は海外からの客も多かったが、今じゃお前だけだ。継がす気も起きねえよ。」
ビアッジオは半ば吐き捨てるような勢いだった。思わず大きく頷く。
「時代の流れに逆らおうなんて気は毛頭ないが、服飾があんまり疎かにされてると心が冷えるな。今の日本じゃ、ちゃんとした仕立てのスーツを見るのは現実より銀幕の中の方が多いくらいだ。」
「今じゃスクリーンって言い方もしねえだろう。昔は映画の影響で注文が増えるなんてこともあったが、画面が小さくなったせいでなかなか服にまで注目もされなくなっちまった……まあ安心しろ。お前が引退するまでは俺も針糸持ってる予定だ。さっさと引退してくれ。」
財団エージェントなんて仕事をしてきたせいで、自分が37まで生き残っていた時の事なんて考えてもいなかった。現場仕事を辞めるには良い頃合なのかもしれない。最近、衰えを指摘される事も増えてきた。ビアッジオの頭越しに見える掛け時計の短針は、昼間だというのに「IV」の文字の辺りを指していた。そういえばこの前訪れた時から、あの時計は壊れたままだ。
「……分かった。次の仕事で終わりにするよ。暫く注文はしなくなるだろうな。」
「そうなるように祈っておく。こいつの仕上がりは3日後だ。」
「分かったよ。3日後戻る。」
重い扉を開けて外に出て、新鮮な空気で深呼吸する。地中海の乾燥した暖かい風が心地良い。夏でもカラッとしていて暑さが酷くないのがイタリアの良い所だ。息を吐きながら顔を上げると、建物と建物の間の狭い青空が一層青く見える。
遠くの教会を眺めながら、俺は坂を下った。滞在しているホテルのカフェで一休みでもしようかと考えていると、アタッシェケースを持った男がこちらに近付いてくるのが見えた。日曜日の昼のイタリア人にしては無難すぎる、チャコールグレーのジャケットと白シャツ。仕立て物で手入れが行き届いているようだが、靴は安物。しかも手入れをしくじって砂利傷ができている。同じ人間の持ち物とはとても思えない。
恐らく、こいつは同職だ。財団エージェント。それもかなり粗忽な。視線に気付いたようで、男はすれ違い様にケースを渡してきた。休暇中の海外でも仕事を押し付けてくるのが財団の悪い所だ。
ホテルの一室でケースを開く。中身を一つ一つ確かめながら柔らかいベッドの上に並べていく。
ワイヤレスのイヤホンと専用端末。服に仕込むマイクとタイピン型カメラ。小型のGPSビーコン。数千ユーロの札束。カラー写真。
大きく息を吐きながらイヤホンとマイクを付け、端末を起動する。すぐに着信があった。応答をタップした途端、聞き慣れた日本語が聞こえてくる。上司だ。
『エージェント・成春。休暇中すまない。悪い知らせだ。』
「休暇中に呼び出される時点で私にとっては悪い知らせなんですがね、管理官殿。何が起きたんです?」
『何が起きたか? それは一切判明していない。ただ、シチリアマフィアが現在アノマリーを保有しているという事だけが分かっている。君に頼みたいのはそれの回収だ。』
「単独でですか? イタリア支部は……」
『もう割ける人的リソースが無いそうだ。組織内部に潜入していたエージェントが既に4名も犠牲になっているらしい。』
「なら、私にも難しいでしょう。外部の人間なら捨て石にしてもいいなんて考えじゃあ……」
『それは違う。我々は君が回収に成功すると判断した。それ以上の結果も出してくれるとな。写真は犠牲になったエージェントの一人が入手したものだ。見て気付く事は?』
カラー写真を手に取る。写っているのは対象のアノマリーらしき木製の立方体。黒い蛇が前面を隙間なく這っているような模様。寄木細工のように見えるが、問題はそこではない。撮られ方が綺麗すぎる。対象を中央に捉えているだけではなく、表面の綺麗な黒いテーブルに載せて撮っている。わざわざこんな綺麗な写真を撮るのは財団か……
「GOCが保管していたと?」
『その通り。我々は、対象が一度GOCの手に渡った後にシチリアマフィアが入手したと判断した。本作戦の目標は、対象をイタリア支部へ渡す事のみならず、対象の性質、出処を可能な限り調査する事だ。受けるかどうかは君に任せる。難易度が高いことは確かだからな。この作戦が駄目なら、イタリア支部は機動部隊の投入に方針を切り替えるそうだ。』
この管理官は昔からこうだ。選択肢を潰すように取り計らいながら、判断を任せると言ってくる。確かにかなり難儀な仕事だ。しかしそれだけに、最後の仕事には相応しいと思った。
「この仕事が終わったら現場からは引退、というのはどうです。」
『そうか……分かった。訓練教官はいつでも不足しているからな。そろそろ老いを感じるのか?』
「それは……少し違うんですがね。」
若い頃に比べて、身体の節々が痛くなってきてはいる。ただ、だから辞めたいと思っている訳でもない。
「自分でも説明が難しいところで。」
『まあいい。まずはシチリア島に上陸し、パレルモに向かってくれ。仔細は船内で。』
返事も聞かずに、管理官は通信を終了した。それだけ大事なのは間違いない。マフィアのような「正常な」反社会勢力は、財団にとって最もアノマリーを持たせたくない相手だ。ヴェール崩壊のリスクが高く、規模が大きく、派閥に分かれているせいで組織全体の把握が不可能。アノマリー奪取のために大規模な作戦を行おうにも、地域に根強すぎるため財団が干渉した後の情報の広がりが大きく、後処理が困難になる。極めて厄介な相手だ。
イタリア支部がわざわざ他の支部に頼った理由も理解できる。マフィアにエージェントを潜入させるのは、公的機関に潜入させるよりも数段難しいのだ。余所者は怪しまれるため現地採用でなければならず、しかも各派閥に潜入させなければいけない。年単位の時間と手間を費やした潜入エージェントが4人も死んだとなれば、確かにそれ以上の犠牲は払えない。
そして一番大きな理由は恐らく、イタリア出身の人間を新たに送り込む際、そいつがマフィアと繋がっていないという保証が難しいからだろう。長い期間が使えない以上、身辺調査にも限界がある。
港で財団が用意したクルーザーに乗る。エージェントの移動用には珍しく操縦士付き。おかげでブリーフィングに集中できる。イヤホンを付けると、また管理官の声が聞こえてきた。
「どうして管理官がオペレーターを?」
『これが極秘の作戦だからだ。財団内部の密偵対策だよ。私か君がGOCじゃない限りは大丈夫という訳だ。日本支部の上層部も一部しかこの作戦を関知しないし、記録にも残らない。』
「イタリア支部が掴んでる情報は現状どの程度なんです。」
『主にパレルモ付近でエージェントが処刑された状態で見つかっている事と、連中が厳戒態勢にある事だけだ。どの派閥のどの施設にアノマリーが保管されているのかも分かっていない。』
「処刑というのは?」
『決まって胸に3発の銃弾。その後はとどめを刺さずに川や海に捨てるか、道端にポイだ。死因の大半が失血死で、2番目が溺死。捕まるなよ。』
「ええ。怖気づきましたよ。それで情報は終わりですか。」
『これだけだ。どんな手を使うかは君に任せる。衛星からの監視は行っているが、どの派閥にも大規模な動きは無い。そもそもが小さなアノマリーだ。管理にも特別な施設は必要としないだろう。』
これはかなり困った。現状で分かるのは、パレルモ周辺のシチリアマフィアがアノマリーを保有しているという情報だけだ。多少の無茶が必要になるかもしれないが、まあ、事前情報の欠如は財団エージェントにとってはよくある事だ。情報が手に入らないなら、向こうからアクションを起こさせるしかないだろう。
「ホテルを取ったと言いましたね?」
『ああ。それがどうした?』
「もう一室、同じホテルで構わないので用意してください。名義は別で。違う階だとなお嬉しいんですが……」
『分かった。他には?』
「管理官にやっていただくのはそこまでです。あとは私が。電話をしても?」
『構わない。用があったらまた連絡してくれ。』
管理官はそう言ってすぐ交信を終えた。俺はイヤホンを外して財団支給のスマートフォンを取り出し、ある会社の電話番号を調べた。
翌朝。俺はホテルのロビーのソファに座り、イヤホンを装着した。大きなホテルなだけにロビーは絢爛かつ広い。このソファは入り口の回転扉から見えず、フロントからも柱のせいで手足以外が見えない位置。フロントに顔を覚えさせたくないのは、マフィア兼ホテルマンという可能性がゼロでは無いからだ。
先ほど路上販売店で買った新聞を広げ、下部の広告欄を眺める。どれも5行程度の小さな広告だ。大して金はかからないが、不特定多数への訴求効果は薄い。
地域の電器屋の広告、人探しの広告、そして「黒い蛇をあしらったデザインの寄木細工」を探す広告。届け先はこのホテルの3階、管理官に頼んで取ってもらった部屋だ。小さなたった5行の広告であっても、厳戒態勢にあるマフィアなら必ず見つけるだろう。そして、その反応が友好的な筈は無い。
『成春。本当に連中は来るのか?』
急に砕けた管理官の口調に、俺は一瞬呆気に取られた。ほんの少しだけ懐かしさを感じた。
「記録に残らないからって、昔みたいな呼び方をするのはやめろ。連中は来るさ。」
『極秘作戦なんて、あの頃に戻ったみたいじゃないか。あの時のチームで生き残っているのは私達だけだ。』
「そして、現場で働いてるのは俺だけだ。」
『まあな……成春、監視カメラの映像にホテルに近付く6人組が見える。備えろ。』
便利な時代になったものだと思う。今や、公的に設置されたカメラの殆どは財団の目となっている。衛星映像の精度の向上だの、監視カメラの普及だののおかげで、現場で働くエージェントの数は少なくなってきている。経費を削減したい財団としては、監視社会万歳だ。新聞を置き、身体を入り口とフロントの間に向ける。タイピン型の隠しカメラに奴らの姿を映すためだ。
回転扉の方から現れたのは、とても堅気には見えない男達だった。これから一仕事してやろうという雰囲気を放ち、周囲を威圧している。ポケットの銃に手をかけている者までいた。
その中で唯一スーツを着ていた伊達男が何やら指示を出しているようだった。彼等はスキンヘッドの男一人をロビーに残し、エレベーターに乗る。こういう場合に問題になるのは、誰に注目するかだ。
『指示を出していたスーツの男がリーダー格のようだな。あれを追うか?』
「いや、ここで襲いに来た奴だからってアノマリーの情報を知っているとは限らない。何も知らされていない奴の可能性もある。追うならあのスキンヘッドだ。」
『根拠は?』
「あいつだけは指示を受けていなかった。普通、ポケットに銃があればそれを意識して動きがちだが、あいつだけは銃を携帯しつつも自然な立ち振る舞いだ。あの落ち着きようは他と明らかに違う。動揺も、興奮もしていない。」
『あいつが真のリーダーという事か?』
『それも違うだろう。恐らく奴は警察か軍かの出身で……いや、あれは軍だな。警察とは立ち方が違う。つまりあいつは技量を買われて雇われた外部の人間だ。だから指示を受けないし、出さない。外様を嫌うマフィアがわざわざ他所から人を雇うなんて事は珍しい。何か特別な理由があって最近雇われたと見るべきだろう。』
「例のアノマリーか。」
『それ以外に無い。恐らく、奴はアノマリーの警護のために雇われている。今回はアノマリーに関係する仕事だから特別に出張ってきたんだろう。普段はアノマリーの保管施設か、その近くにいる可能性が高い。』
「分かった。君のカメラの映像から奴の顔情報は既に抽出できた。照合を依頼してある。奴がホテルを出たら、衛星映像と監視カメラを駆使して追える限り追ってみよう。」
15分程経って、ロビーのエレベーターから男達が出てくる。伊達男がスキンヘッドに向かって首を横に振り、彼等はホテルを去っていった。一先ずこれで、ある程度の情報は手に入る筈だ。
俺は新聞を丸め、奴らが侵入したであろうダミーの部屋に向かう。何か直接的な情報が残っているとは思わないが、一応カメラとマイクは仕込んでいた。まあ、部屋に侵入する様子から連中の「厳戒態勢」の程度が分かればいいだろう。階段を使って3階まで駆け上がり、一番端の部屋の扉に行き当たる。俺の想像とは異なり、扉にこじ開けられたような形跡は無い。ピッキングの跡も同様だ。マスターキーを使ったという事か。ホテル内部にも連中のメンバーはいるということなのだろう。
ドアノブに手をかける。「掃除不要」の札を掛けている隣の部屋の客を起こさないよう、ゆっくりと扉を……
開けようとしてやめた。マスターキーがあるなら、連中は何の手がかりも無い部屋を漁るのにどうして15分もかけたのか? 室内に何か仕込みを用意したのかもしれない。俺と同じようにカメラか何かを仕込んだ可能性がある。少なくとも、俺はそれに映るべきじゃない。
「管理官……」
言いかけた時、廊下の奥から視線を感じた。振り返ると、掃除をしに来たであろうホテルマンが用具の入ったカートを押していた。不自然な程長い間目が合う。
奴が銃を取り出す。俺は咄嗟に扉を開け、部屋へ飛び込んだ。響く銃声。右脛の辺りに激痛が走るが、まだ脚は動く。すぐに立ち上がって走り、部屋のベランダに出た。目の前には、モダンな噴水のある広場。管理官は映像から状況を理解したらしい。
『撃たれたのか!』
「脚をな! 飛び降りる!」
俺は床を蹴るようにして撃たれた脚を無理矢理上げ、ベランダから鈍臭く飛び降りた。一階のカフェの緑色の庇ひさしは、俺の身体を受け止めた後すぐに破けた。俺はうつ伏せの体勢で落下しそうになったが、庇の骨組みを掴むことに成功し、なんとか足から着地した。瞬間的に増した痛みに思わず膝を突いたが、休んでいる場合ではない。
「付近にエージェント用のセーフハウスはあるか!」
叫ぶ事で力が湧き、立ち上がる。一旦、連中から隠れなければならない。これで恐らく顔はバレてしまった。
どこという目標もなく走り出すと、管理官の叫び声が聞こえてくる。
『成春、そのままずっと走れ! どこで曲がるかは指示を出す! 突き当たりを右だ! 劇場が見えたら左の路地に!』
言われるままにひた走る。振り向く暇も、余裕も無い。
観光客が絶対に通らないような狭く暗い路地から、もっと雰囲気の悪い路地へ。管理官は俺に追手の様子については一切伝えなかった。
都会的と観光地的の中間くらいの街並みを駆け抜けながら、俺は密かに高揚していた。アドレナリンのせいか足の痛みももう無い。聞こえるのは指示と、自分の靴と、息の音だけだ。路地の奥の光が明るく見える。驚いた顔のホームレスの足を飛び越え、錆まみれの室外機を踏み越え、最高速度で路地を駆け抜けた。目の前にはパレルモ中央駅の巨大なロータリーだ。広さの割にバスは少なく、駅舎の荘厳な建築が余計に大きく見える。
『駅が見えるだろう! 電車に乗れ!』
「電車なんて待ってる間に追いつかれる!」
叫びながらも、俺は人でごった返す駅に向かって走る。街の中心地からはやや外れているが、これでも始発駅だ。朝のこの駅はそこそこ混む。一番多いのは学生、次が会社員、その次がホームレス。
『待たなくていい! 今なら乗れる筈だ!』
「この国の時刻表を信用してるのか!? 始発駅だからって……」
『違う! 衛星から電車が見えている! 頭を使え! 撃たれたからって気を失うなよ!』
「そうだったな! 出発まではあと何秒だ!」
縦長の駅構内を走る。横には自動券売機と、まるで銀行の窓口のような券売カウンターが並んでいる。
『25秒! 追手が構内のカメラに映ってるぞ! 連中はもう銃を抜いている! 急げ!』
背後からざわめきが聞こえたような気がしたが、それが足から血を流す俺のせいなのか、銃を抜いて迫ってきている追手のせいなのかは分からなかった。振り向く事なく、券売機の列の隙間を突き抜ける。周囲の目がこちらに向いていようと知った事ではない。どうせ多くは学生だ。
ホームに出ると、管理官の言った通り電車が発車直前だった。背後から叫び声が聞こえる中、緑色の電車に駆け込む。俺が乗り込んですぐに電車の扉は閉まり、動き出した。
座ろうと思ったが、席に座っていた学生達がこちらを見て目を丸くしている。俺はドアの辺りで息を整える事にした。
『よく逃げ切った。』
「よく……逃がしてくれた……認めたくないが、昔に戻った気分だ。」
『そうか……降りるのは2駅先だ。大学と病院があるから、降りる客が多い。流石に君が見つかる事は無いだろう。降りたらセーフハウスまで案内する。』
エージェント用のセーフハウスは、「簡単には見つからない」という条件と、「最低限の設備が整っている」という条件さえ整っていれば、どのような場所にも作られる。アパートの一室だったり、廃ビルの地下室だったり。
そして今回俺が一夜を明かしたのは、放棄されたコンテナ内に作られたセーフハウスだった。見つからない安心感はあるが、居心地はあまり良くない。いや、本音を言うと秘密基地のようで少し好きだ。
セーフハウスたる赤いコンテナの中には、大量の水とカセットコンロ、医薬品、工具、顔写真以外の部分が作成済みの偽身分証が保管されていた。水道とガスは無いが、どこから盗電しているのか電気は通っている。椅子はキャンプ用具のようだが、なかなか座り心地が良い。端末が鳴ったのでイヤホンを装着する。
『気分はどうだ、成春。』
「良くはない。脚に1発貰ったせいで熱が出てるが、まあかすり傷だ。明日には熱も引くだろう。」
これは嘘だ。脚の銃創は大怪我と言えば大袈裟になるが、かすり傷と言ったら大嘘になる程度の傷だった。弾は浅い所で止まっており、処置自体は楽だった。しかし経験から言って、熱はあと3日は続くだろう。おかげでお気に入りのスーツも台無しだ。幸い針と糸があったために街中ではまず気付かれない程度まで補修はできたが、それでも職人の仕事に手を入れているのだから良い気分ではない。
『まさか、まだやる気なのか?』
「俺が最後までやらなかったら、結局機動部隊を投入する事になるんだろ?」
『だろうな。それだけイタリア支部、と言うよりシチリアのサイトは焦っているらしい。だがな、ここまでだ。元々が日本支部の問題じゃない。我々は君を失うつもりで任務に送ってる訳じゃないんだ。分かるだろう。』
「現場最後の仕事がこんな終わり方なら俺はここを辞めて軍にでも民間にでも行く……あんただって、最後の現場の事は今でもよく覚えてるだろ。」
『……何を言っても無駄なのは理解した。死なせないからな。』
「頼りにしてる。例の男が何処を警備してるのかは分かったのか?」
『ああ……それは分かった。そこからそう遠くない所にある造船所だ。漁船やクルーザーを製造している小さな造船所だ。シチリアマフィアが資金源にしている。確認した所、警備は外に居るだけで10人。』
「多すぎるな。ほぼ確定と見ていいだろう。アノマリーは造船所の何処かにある筈だ。例の男は今もそこに?」
『いや……今朝、遺体で発見された。処刑された状態でな。』
「処刑? 一体何が……」
『しかも照合の結果、何処の国のデータベースにも存在しない人間になっていたらしい。どう考えても偶然ではないだろう。』
「あり得ない。マフィアだって、国のデータベースには干渉できないだろう。」
『これから話すのは日本支部上層部の推論だが……恐らくシチリアのサイトの上層部にマフィアかGOCのスパイがいる。我々があの男から情報を辿ろうとしている事を知ってマフィアに処刑させ、データベースに細工を。』
「イタリア支部の人間もあまり信用は出来ないという事か。」
『ああ。気を付けてかかってくれ……それにしても、連中がここまでして秘匿するこのアノマリーは一体何だと思う?』
「余程金になるか、武力になるんだろう。『異常だから』で保管するのは財団ぐらいだ。」
『なるほどな……ちなみに、明日は雨だ。レインコートを着ていけば顔は隠せるだろう。』
「それは好都合だが……雨の中で衛星は役に立つのか?」
『この国の雨だ、そんなに雨雲は濃くないさ。そもそも明日やってもらうのは屋内でのアノマリー奪取だ。衛星や監視カメラが役に立つ事は少ないだろう。それに、君には小型のGPSビーコンを付けて貰っているからな。何処に居ようと、誤差50cm以内で君を追跡してくれる。』
「屋内でもか?」
『勿論。日本支部の技術の全てを注ぎ込んだらしい。内部に移動した距離を感知するセンサーが付いていて、屋内でも君の移動情報を送ってくれる。こんな見た目だが、衝撃や圧力にも強い。一回どこかに取り付けてロックしたら、外し方を知っている人間以外には絶対に外せないそうだ。』
球に3つのアームが付いたようなデザインの黒いビーコンは、確かに高性能らしかった。手の平よりも小さいのに、重量もなかなかだ。アームは物を掴んで固定する事も、指を開いて平面上に吸着する事もできる多機能アームだった。
「何処に行っても俺を監視してやろうと?」
『君は外し方を知っているだろう。君達エージェントが何処に行っても守り、助けるためのビーコンだ。電池は何もしていなければ2ヶ月、吸着機能を使っていても1ヶ月は持つ。他にも機能があるが説明しようか?』
この鬱陶しい説明がずっと続くと思うとうんざりした。
「……あんた、来世では良いエンジニアになれるだろうな。」
『君も、来世では良いエージェントになれるだろう……冗談だ。今日はしっかり休めよ。じゃあな。』
交信が終わっても、俺は少しの間イヤホンを付けたままだった。
朝。小雨の降る街を歩く。スーツの上からレインコートを着ているので、顔で見つかる事は無いだろう。忍び込む予定の造船所は警備に守られながら、堂々と操業しているようだった。塀の外にまで音が聞こえてくる。警備は門に4人、外周の塀に6人。決まって深い青色のレインコートを着ている。彼等を無視して忍び込むのはかなり難しいだろう。
『どうするつもりだ? 塀と建物の間に人はいない。塀を気付かれずに越えてしまえば、造船所には入れるだろう。マフィアの出入りがあるから、スーツ姿の君が入っても従業員にはバレない筈だ。警備は別だが。』
「今考えてる。少し待て。」
中に居るのは普通の従業員ばかりだ。敷地内に入ってしまえば、警備の数は一気に少なくなるだろう。ここさえ突破できてしまえばいいのだ。レンガの塀は助走をつけて飛びつき、少し時間をかければ乗り越えられる程度の高さだが、そんな事をすれば警備に確実に見つかってしまう。周りの建物との距離は離れており、屋上等から飛び込むのも無理だ。周囲の道路には国によって設置された監視カメラがある。道路を監視している風を装っているが、角度からしてどう考えてもこの造船所を見張っている。この造船所をマフィアが経営していることが分かっていても、財団と同じく手を出しにくいのだろう。
造船所を囲む塀は港に向かって開いているコの字型。しかし海から泳いで入るのは見つかるリスクが高すぎて駄目だ。侵入経路が見つからない。
『警備を排除するのは?』
「連中は互いに互いの位置を確認できるように立ってる。何かアクションを起こせばすぐに気付かれる。騒ぎを起こさないための単独作戦だろ。」
『何処か高い所から入るのは?』
「それは無理だ。周りの建物が遠すぎる……いや、違うな。それにする。少し待ってくれ。」
スマートフォンを取り出し、地図アプリを開いた。大きく息を吐く。多少の荒事が必要になるかもしれない。
「シニョール、息子が何をしたのですか?」
玄関先で、偽の警察手帳に騙された老婆は不安気に言った。誂え向きの嘘を捻り出す時間は無い。
「申し訳ありませんが、ご家族には捜査の状況をまだお伝えできないのです。二階へ上がっても?」
「ええ。ええ……」
タイピン型カメラの邪魔になっていたレインコートを脱いで玄関の外へと密かに投げ、老婆の後に続いて階段を上がる。二階は外から見た通り、俺が考えた荒事にピッタリだった。道路に面したバルコニーは、この辺りの家で一番出っ張っている。高さもちょうどいい。
「貴女は一階で待っていてください。ここの捜査が終わり次第、聞き取り調査をさせていただきます。」
厄介払いは済んだ。開閉を繰り返されて擦り減っていたバルコニーの扉を開く。パラパラと雨の音が聞こえる。
「管理官、準備は済んだ。例の車は?」
『もうすぐだ。見えるぞ!』
左のカーブから現れたのはグレーの路線バス。こちらに向かってくるうちに減速する。バス停はここの真下。この時間なら降りる客も乗る客もいるから、確実に止まる。
バスの屋根は、バルコニーの柵より少し高い程度の位置だった。雨で滑らないようにレザーの手袋をはめ、よじ登る。バスは多少揺れたかもしれないが、乗り降りする客の分の揺れだと思われるだろう。俺は周囲から目立たないよう腹ばいになって、バスの屋根に掴まれる場所が無いか探した。しかしバスの屋根は想像以上に平面的で、掴まれる場所がどこにもない。
「管理官! 掴まる場所が見当たらない!」
『無ければ降りろ! 落ちたら後ろの車に轢かれるぞ!』
バスの扉が閉まる音。まずいぞ。
「次のチャンスがあるとは限らない! どうすれば……」
そこで漸く自分の装備の事を思い出した。内ポケットのGPSビーコンを取り出す。バスが発車して、身体が後ろに滑っていく。
『横に転がって降りろ!』
管理官の言葉を無視して、俺はビーコンをバスの屋根に貼り付けた。固定完了。俺の腕に急激に体重が加わったが、ビーコンの球状部をしっかり握っていたので問題は無い。
「ビーコンを貼り付けて踏みとどまったが、周囲を見る余裕が無い! 造船所に近付いたら……」
バスが左に曲がった。身体が大きく右に振られる。踏ん張る事も出来ず、足がバスの上から漏れる。街路樹に当たり、枝で少し脚が切れた。
「クソ! 傷が開いたかもな!」
『どうせ辞めないんだろ!』
「当たり前だ!」
俺は身体を引っ張り、下半身をバスの上に戻した。造船所までに曲がる交差点はもう無かったが、赤信号の際には足が上がって海老反りになった。まるで鯱鉾だ。車高の高いバスだが、もしかすると対向車線の車からは俺の痴態が見えたかもしれない。
2回程停止と発進を繰り返した後、頼んでいた通りに耳元で管理官が怒鳴る。
『造船所はもうすぐだ! 俺が合図したら起き上がれ…………今だ!』
俺はビーコンの固定を外して起き上がり、右に見える造船所の塀に向かって思い切り跳躍した。両足が塀に引っかかったが、走行中のバスに乗っていた分の慣性によって俺の身体は左回転し、左肩を塀の内側にぶつけながら塀の中に落下した。着地の際には右腕で受け身を取れたが、ぶつけた両足と肩の痛みは凄まじかった。銃創による熱も相まって、妙な気分に襲われた。
『大丈夫か成春。』
「まだ俺はできる……」
『動けるのか? おい大丈夫か!』
その声で目が覚めたような感覚があった。少し朦朧としていたようだ。雨音が耳からまた伝わり始める。冷たい空気がまた喉に入ってくる。
「ああ、ああ……大丈夫だ。警備の様子は?」
『変わりない。君の侵入には気付いていないだろう。一旦息を整えてくれ。怪我の状態を確認しろ。本当に大丈夫か?』
「分かった……酷く痛むが問題は無い。ジャケットが濡れて重いし、パンツが街路樹のせいで裂けたが、問題はその程度だ。」
実際には立ち上がるのもしんどかったが、それは関係が無い。何があろうと、俺はこの仕事を終わらせる。すぐに侵入経路の選定を始めた。目の前の壁には小さな室外機。背後には今しがた乗り越えた塀。造船作業のけたたましい音が中から聞こえてくる。
「この格好だ。正面から入っても誤魔化せない。アノマリーが保管されてる可能性が高い所から入りたい。地下室は無いんだな?」
『図面には。』
「なら作ってないだろう。海水が入るリスクや建設業者の出入りというリスクを考えると、地下室を新たに作るのはかなりの手間になる。事務所は別だよな?」
『ああ。この図面には作業場と更衣所、休憩所、トイレしか載ってない。どの部屋も従業員が頻繁に使うだろう……』
「なら連中はアノマリーのために保管部屋を増設したんだろう。従業員立ち入り禁止の部屋として。」
『それは分かる。しかしその部屋がどこに作られたか。』
「……考えるなら話しながらの方がいい。部屋を1つ大至急で外部にバレないように増築するとして、問題になるのは何だ?」
『建築資材が発見される? いや、船の資材と見分けがつかないな。電気か?』
「いや、建物の中での電線の延長は意外と簡単だ。資格を持ってる奴がいれば問題なくできるだろう。造船所なら電気工事士は必ずいる……水道?」
『全ての部屋に水道が必要な訳じゃないだろう。通している可能性は低い。空調か?』
「……空調。そうか、エアコンだ! 付けるには少しの工事が要る。業者抜きでも出来ない事は無いが……」
『なら連中は業者抜きでやるだろう。』
「その通り! しかしその跡は残る。 目の前に!」
目の前では、室外機が沈黙している。
『室外機がどうした?』
「普通、こんな大きな施設の室外機は屋上に巨大なのを付けるか、壁の一箇所にまとめて付ける。ところがこいつは? 一台だけ。しかも小さな家庭用だ。」
『業者に頼めなかったから、エアコンの裏の外壁に穴を空けて設置するしかなかった?』
「つまり、増築された部屋はここの裏だ。」
入るべき場所は分かった。しかしどうやって入るか? 扉や窓を破るためのドライバーとハンマーは用意しているが、こちら側の壁には窓が付いていない。
「管理官、入る方法が分からない。図面ではどうなってる? 一番近い入口はどこだ?」
『一番近い入り口は……そうだな……目の前だ。』
「目の前は外壁だぞ。窓も無い。どうやって。」
『室外機を外すんだ。そうすれば穴が見つかる。穴にドライバーを当ててハンマーで叩けば、その程度の壁なら簡単に割れる。』
「俺は室外機の外し方なんか知らないぞ。」
『私は知っている。普通にやればなかなか時間がかかるが、壊すつもりでいいなら3分もかからない。』
「……やってみよう。まずは何を?」
『横に付いているカバーがあるだろう? まずはそれを外す。』
「プラスのネジだ。持ってきてるのはマイナスドライバーだぞ。」
『扉と同じだ。こじ開ければいいだろう。』
「ああ……そうか。」
俺は管理官の指示に従って次々壊していった。マイナスドライバーを差し込んでハンマーで叩けば、大抵の物は壊れてくれる。
「指示が慣れてるな。室外機泥棒の経験でも?」
『まあな。実を言うと、姪っ子のDIYを手伝った事が。』
「なるほど……微笑ましい事で。」
室外機と繋がる管を接合部から外し、留め具を破壊していく。音は出るが、造船所から漏れ出す音の方が遥かに大きい。スプレーで何かを噴射するような音や、鈍い金属音。
『よし、最後の管を外したら室外機は蹴ってどかしてしまえ。スカッとするぞ。』
「足には不安があるからな。手でどかすよ。」
室外機をどかすと、その裏にはパイプの通った内径9cm程度の穴が空いていた。俺はパイプをドライバーで押し込む。邪魔な物が無くなった穴の奥にはアルミドアのような物が見える。
『よし、では壁をくり抜け。』
「本当にこれで壁を破れるのか?」
『最低限雨を防ぐための建物だからな、破るのは容易い。この壁の薄さに材質……しかも既に穴があるなら余裕だ。』
「それもDIYの知識か?」
『いや。ブラジルでカルテルに捕まった時に。まあある種のDIYだな。自力で解決した。』
穴の端にマイナスドライバーの先を当てる。ハンマーでその柄を叩くと、壁にヒビが入った。後は同じ事を繰り返す。ドライバーが駄目にならないように慎重に、かつ力強く。
ヒビが増え、どんどん広がっていく。そのヒビに対してドライバーの向きを垂直にしてまた叩くとその部分が脱落していき、穴が大きくなっていく。俺は同じ作業を繰り返し行った。
「しかし、あんたは相変わらず武勇伝が好きだな。」
『お陰で上手くいきそうだろ。メキシコのカルテルから逃げ切った時の話もしてやろうか?』
「……麻薬組織にモテるのか?」
『ああ。一時期私の写真が配られていた事もあったらしい。』
「そしてそこには『彼を捕まえてCATCH HIM』か。モテる男は羨ましいな。」
『君の顔もシチリアマフィアの間で出回っているだろう。君のハートを射抜きたいマフィアが沢山いるぞ。』
「まとめて蹴飛ばしてやりたいが、利き足がこのザマじゃあな。」
10分ほどで、穴は人がぎりぎり通れる程度の大きさになった。俺は工具をポケットにしまい、這うようにして穴に入る。壁は外壁を除いたすべてが塗装も無いセメント。天井はトタン材。雑な造りだがこれで十分なのだろう。右方にはプリンターと安っぽいデスク。左方には書類棚とビニールソファ。頭上ではLED電球が頑張っているが室内にスイッチは見当たらない。
立ち上がると、デスクの上に寄木細工の木箱が載っている事に気が付いた。一辺5cmくらいの立方体で、全面に大量の黒い蛇が這っているようなデザイン。回収対象だ。どうしてデスクの上なんかに放置されているのかは分からない。デスクの上には他にライトと、ルーペのようなものが置かれていた。
「これが対象で合ってるか?」
『恐らくはそうだが……部屋中を探せ。このアノマリーの出所を示す物も保管されているかもしれない。』
俺はまず、静かにデスクの引き出しを開いていった。上から三段目までは手応えもなく、中は空っぽだった。しかし一番下の段に手をやると、そこそこの重量を感じた。ゆっくりと引き出しを引き寄せる。中に入っていたのは何かの計測器具か何かのようだった。サイズ的にはトランシーバー程度。見た目もトランシーバーに少し似てるが、アンテナは付いていない。前面に付いているのは電源ボタンらしき赤いボタンと、デジタル時計で見るようなモノクロの液晶パネル。側面、背面にボタンは無し。
「これは何だ?」
『……私にも分からない。ここにわざわざ保管してあるという事はアノマリー絡みだろう……赤いボタンを押してくれ。罠とは思えん。』
俺は親指でボタンを押した。モノクロの液晶が明るくなり、数字が表示される。その右には単位も。俺は息を呑んだ。
『成春。カメラの角度のせいで数字が判別できない。読み上げてくれ。』
「0.45だ……」
『0.45だな。それで単位は?』
「……ミリシーベルト毎時」
『馬鹿な。』
0.45mSv/hという表示。こんな単位を使うのは放射線だけ。この計器はガイガーカウンターだ。自分の呼吸が早くなっていくのが分かった。この部屋の放射線量は、俺達が日常で浴びる放射線量を遥かに超えている。
『……計器をアノマリーに近づけろ。』
俺は指示通りに計器をアノマリーに向け、近付けていく。ゆっくり近付けているにもかかわらず、画面上の数値は読めない程のスピードで上がっていき、カウンターがアノマリーに接触した時には10.8にまで跳ね上がっていた。
『10.8ミリシーベルト毎時。そのカウンターの正確性は定かではないが、すぐに危険になるほどの線量では無い。長時間ポケットに入れたりしたら問題になるがな。』
「この寄木細工がもし開けられたら……」
『これを遥かに超える線量の放射線が放たれるか、もしくは核爆発でも起こるのか……』
「マフィアが保管するのも納得だな。武力としてあまりに大きすぎる。」
『しかし、マフィアには手に余る代物だ……』
大きさの割に重いアノマリーを内ポケットに入れ、部屋を見回す。ソファやエアコンからして、この部屋は従業員が去ってからマフィアによって使われるのだろう。何に? この部屋は何用だ? 保管するだけの部屋ではない……プリンターは何に使う?
俺は恐る恐るプリンターに近付く。オフィス用。見た目からして新しくはない。茶色い飲料の染みまである。事務所かどこかからわざわざこの部屋に持ってきているのだろう。にもかかわらずPCはこの部屋には無い。つまりこのプリンターはコピー用……
俺はプリンターの原稿台カバーを開いた。そこには一枚の紙がセットされている。透けた文字の配置を見て、寒気がした。見覚えのあるフォーマットだ。これ以上無いほど。
「……管理官。悪い知らせだ。」
震える指で裏返す。管理官が息を呑んだのが分かった。一番上の行に「SCP- -IT」という表記。最初に渡された写真が右上に載せられている。このアノマリーの出所はGOCじゃない。財団だ。
報告書を上から下までざっと読む。これは未完だ。それも、まだアイテムが登録されていない段階での下書き。アイテム番号は空欄だし、説明の途中で文が途切れている。常に一定量の放射線を発している事と、破壊耐性がある事までしか書かれておらず、開けたらどうなるのかは書いていない。
「書類棚を確認する……管理官!」
『ああ、ああ、すまない。少し動転していた。もう大丈夫だ。つまりこれは……連中にとっての説明書になってしまっている訳だな。理解した。理解したが……なぜ?』
俺は書類棚の引き出しを開いた。案の定、このアノマリーの報告書のコピーがぎっしりと詰まっている。管理官は大きく息を吐いた。
『考えれば納得がいく。イタリア支部の何者かがアノマリーを失い、それを隠蔽。それがシチリアマフィアの手に渡ったからと慌ててGOCのせいにしようとした……機動部隊の投入によって全てを揉み消そうと。だから我々の作戦にも妨害が入った……』
「俺はどうすればいい……」
『まずはアノマリーを持って脱出してくれ。この事は日本支部上層部にのみ伝える。判断は上に任せよう。』
「そうだな……この報告書の画像は?」
『鮮明に記録されている。脱出を……いや待て、おかしいぞ。警備が急に動き出した。』
「今すぐ脱出する。」
『駄目だ! 連中のうち2人は外から君が空けた穴に向かっている!』
「外からだと!?」
穴からの脱出を諦めて部屋のアルミドアを引いてみたが、僅かにしか開かなかった。隙間から見える鎖。南京錠か何かで鍵がかかっている。
「しかしなぜ今バレた。まさかこの通信を……」
『それは無い。アナログ無線とは訳が違う。内容の傍受は不可能だ……そうか、国の監視カメラだ! 私と同じく、この建物周辺を監視していた奴がいる! そいつが情報を流したんだ!』
俺は先ほど這って潜った穴を振り返った。狭く、低い穴。外から回った奴らは自ら入ろうとはしない筈だ。俺が外に逃げようとしたところを捕まえようと身構えているのだろう。俺はアルミドアのすぐ横に立った。ドアの向こうからガラガラと鎖を弄る音がする。
『どうする気だ!』
「こうなった以上、中から逃げるしかない。」
カチャン、という音。ドアが開き始める。すぐに警備の男の勝ち誇った顔が見えた。俺は即座にその胸倉を掴み、腕の力の限り引っ張った。男の顔面はドア枠に衝突。俺はドアを蹴って開き、飛び出す。
ドアの先にはレインコートを着たままの6人の警備。そしてそれよりも遥かに多い作業員。目の前には何かを噴霧中の吊られた船。奥にも2隻の船が見え、その1隻は吊られず、海に浮かべられていた。甲板の上にも人影がいくつか見える。
俺は全てを無視して走り出した。怯える作業員達の方へ敢えて突っ込む。警備は拳銃を手に持っていたが、誤射を恐れたためか銃声が鳴る事は無かった。
出鱈目には走らず、俺は水に浮かべられている漁船に向かっていた。エンジンの音が鳴っており、固定されていない。操舵室に作業員と、グレーのスーツを着た男が入っている。首に何かをぶら下げているのが辛うじて見えた。ゲスト用のネームプレートか何かだと断定した。
造船所の船に部外者が乗るという事は、恐らく注文者立ち会いの下の試運転だ。だからエンジンが動いている。俺が辿り着く前に、船は目の前の海に向けて発進した。
俺は船が留められていたドックに到達し、船を追って海に向かって走る。発進直後の船は遅い。船との距離はどんどん縮まるが、ドックの端までの距離はそれ以上の速度で縮まる。船尾と横並びになる直前で、もうドックの端まで到達してしまった。2歩先は海。もう跳ぶしかない。
船に向かって踏み切る。船尾の手すりに腕を伸ばす。辛うじて俺の手は手すりを捉えた。俺は足がスクリューに巻き込まれないよう、懸命に足を持ち上げた。身体全体を腕で引っ張り頭から甲板に乗り込む。こうして俺は、警備達から逃れる事に成功したのだった。
船は屋根の下から離れ、海へと出た。操舵室に入ろうと甲板を歩くと、雨にもかかわらず扉が開け放たれているのが見えた。おかしい。いや、おかしいのはその前からだ。どうしてわざわざ雨の日に試運転を? 日本と違って雨の日は少ない。避けようと思えばいくらでも……
俺は操舵室を覗いた。中では作業員3人が倒れている。スーツの男は何処に行ったのか? 俺は操舵室に足を踏み入れた。
その時、真横からカチャリと音がした。こめかみに銃を当てられる。
「マイクとカメラを外せ。」
低い声で脅される。しくじった。逃げおおせたという油断のせいで、深く考えずに行動してしまった。俺はマイクとタイピン型カメラを外し、床に置いて両手を上げる。こちらに銃を突き付ける男は、銃を構えたまま笑顔で俺の目の前に回り、マイクとカメラを踏み潰した。男は自身が着ているグレーのスーツから小型の端末を取り出し、どこかへ何かを送信したようだった。
突き付けられた銃には見覚えがあった。小さい上に分解や折り畳みが容易で、スーツのポケットに入れても違和感なく隠す事ができる設計。財団から支給される銃だ。その大きさ故に殺傷能力と貫通力には難があるが、この距離で頭を撃たれれば即死だろう。
「なるほど。財団エージェントだな。こうなると読んでいたのか?」
「この造船所に入った時から、君にはこの船で逃げてもらう予定だった。アノマリーの回収ご苦労。君の遺体はシチリアマフィア流の処刑を受けた状態で発見され、アノマリーは秘密裏に我々が回収する。素晴らしい計画だろ?」
「そりゃ無理だな。うちの管理官もこの船を衛星から監視してる。俺の死はマフィアの仕業にはならない。」
「今まではな。そろそろじゃないか?」
「何を……」
『成春! 衛星映像へのアクセスが途切れた! そっちのカメラにもさっきから何も映っていない! 応答してくれ!』
血の気が引く感じがした。これは本当に……終わりだ。俺の顔を見て、目の前のイタリア人はわざとらしく歓喜の声を上げた。
「無駄な抵抗はやめろ。仮に俺が今突然死したとしても、君は我々によって衛星とカメラによる追跡を受ける。この場を何とかしても、とても生き残れまい。」
「しかし、既にうちの管理官はお前達の企みを知った。」
「無駄だな。我々を特定できる物証は残っていない。我々を捕まえるのは不可能だ、シニョール・ナリハル。あの箱を寄越せ。」
俺は死ぬ。死の覚悟は決まってないが、それは覆しようが無いのだろう。男は口笛を吹き始める。
「俺の遺体はこんな海の上で発見されるか?」
「ビーコンがあるだろう。それさえあれば君の大好きな『管理官』が見つけてくれる筈だ。」
俺は内ポケットからビーコンを取り出し、右手で転がした。日本支部特製のビーコン。こいつの信号をキャッチできるのは日本支部だけ。地球上ならどこに行っても追跡できる……
「なるほど。」
つい声が出てしまった。俺は左手でアノマリーを取り出した。放射線を発する木箱。重い。破壊耐性があると書いてあった……
「ほう。遺体が発見されると知って死の覚悟ができたのか?」
「逆だ。遺体は発見されない。」
俺はビーコンをアノマリーに取り付け、振り返って海へと投げ捨てた。すぐに俺は後頭部を殴られ、操舵室の外へと倒れる。手すりに頭がぶつかって身体が横に転がり、甲板の上に仰向けに倒れる。すぐに男は馬乗りになり、俺の胸倉を掴んだ。雨が心地いい。唄いたい気分だ。
「このクソ野郎! アノマリーを捨てるなんて……」
「捨ててない。『回収』だ。ビーコンの信号によって日本支部はあのアノマリーを必ず見つけるだろう。お前達はどうする? この辺の海底を虱潰しに探してみるか? 放射線は水を通らない。ガイガーカウンターも機能しないぞ。」
奴は俺の顔を叫びと共に銃で殴った。俺は満足していた。これで引退できるなら悪くない。俺は仕事を全うしたんだ。達成感のせいか、どうでもいい所に目が行く。
「そうだ、思い出した、その格好。あんた、ナポリで俺に装備を渡してきたエージェントだな。スーツは財団に作らされて手入れもやって貰ってるんだろうが、自前の靴の手入れくらいちゃんとしたらどうだ。ただでさえ安物……」
安物の靴で蹴られた。口の中が血で一杯になる。吐こうとしても、顎に力が入らない。イヤホンの管理官はまだ叫んでいた。
『返事をしろ! エージェント・成春! 成春!』
返事をしてやりたい所だが、マイクは操舵室の床で駄目になっている。頭に何回も衝撃が加わったせいかぼーっとする。
「何が起きている! 返事を……」
イヤホンも外された。喧しい管理官ともこれでおさらばだ。俺は完全に孤独となった。
これから俺は処刑される。目の前の男は俺の胸に3発撃ち込み、俺を海に捨てるだろう。俺を苦しめて殺すために。怒りに任せて。
甲板から空を見た。遮る物のない、灰色の雨空。どういう訳か俺は、こんなもんかと思ってしまった。
3度の銃声の後、エージェント・成春の身体は海に落下した。
ナポリ。夜10時まで店を開けていたのは、受け取りに来る予定の客を待つビアッジオだけだった。物置兼作業場兼客間の大きな薄暗い部屋で、彼は息子と共に外の扉が開くのを待っていた。
「父さん、もう諦めないか。もう10時だ。あの客はもう来ないよ。」
「あいつが来ると言った日に来なかった事は無い。」
「それなのにまだ来ないのは……そういう事だろ。訳アリの客が二度と来なくなるなんてよくある事じゃないか。そういう客から知らせが無いのは悪い知らせだよ。」
「……」
その時、扉が開いた。雨音と共に、ずぶ濡れの男が飛び込んでくる。明るい色の青のスーツはぐしゃぐしゃになり、パンツの右足部分は裂けている。しかしビアッジオにとっては見間違えようの無い、自分の仕事だった。男はビアッジオに近付く。顔は熱のせいで真っ赤になっていた。
「スーツを受け取りに来た。遅くなって悪い。」
「おい! 一体何があったんだナリハル。」
「少し……死んできた。必要があったんでな。あんたの仕事のおかげで命を拾った。」
成春は濡れたジャケットを脱ぎ、雑にテーブルの上へ置いた。雨水が少し飛び散る。胸元には穴のような物が3つ。しかしそれらはジャケットの裏まで到達していない。青い表地までで止まっている。
「撃たれたのか。」
「ああ。胸に3発。その後海にドボンだ。なんとか泳いで陸に戻った。芯地は1発も貫通しなかったよ。」
「毎度毎度芯地にアラミド繊維を仕込めなんて注文してくるから予想はしてたが、まさか本当に撃たれてくるとはな……」
「衝撃のせいで声が出る程痛かった。まあそのおかげで敵も騙されてくれたよ。これで仕事完了。晴れて現場は引退だ。」
ビアッジオは安堵の表情を見せた。
「そうか。とうとう引退か。これからどうするつもりなんだ?」
「そうだな、手始めに……まずは現場に戻ろうかと思ってる。ブラックだけどな。まだ解決できてない事があるんだ。」
「何だと!」
ビアッジオは成春に詰め寄った。自身よりも大きい成春の胸倉を掴み、乱暴に引き寄せる。
「馬鹿野郎! もしも頭を撃たれたら……」
「胸を撃つと分かってた。」
「同じ場所を2発以上撃たれても終わりだった! なぜそんな現場に戻る! お前はもう37だ!」
普段の成春であればあり得ない事だが、彼はビアッジオの胸倉を掴み返した。熱と疲労で意識が朦朧とするせいか、彼は笑顔で怒鳴る。
「俺はまだ37だ! この仕事を続けるのに老けすぎたと思ったことも、歳のせいで仕事が上手くいかなかったことも無い! 俺はまだやれる! あんたはどうだ! どうして引退を考えてる! 息子に言われたからか! 周りの職人が辞めてるからか! それともくたばってるからか! そんなのはどうでもいい! あんたの老いを実感するのは周りじゃない! あんただ! 俺の老いを実感するのも俺だけだ! 俺のやめ時は俺が決める! あんたのやめ時はあんたが決めろ!」
成春はそこまで叫んで足をふらつかせ、後ろに倒れた。虫の息という言葉がぴったりのその有様を見て、ビアッジオは呆れたように笑い、溜め息をつく。
「お前は馬鹿に戻っちまったな。」
「知ってる。」
「俺も今馬鹿に戻った。」
「それも知ってる。」
「俺も引退はしない。」
「だと思ったよ。じゃあ……」
成春はテーブルを支えにして立ち上がった。腕と足が言う事を聞かずに震えている。
「見ての通りリゾート用が駄目になった。作ってくれるだろ?」
「……死ぬまではな。」