アレックス・ソーリーはベーグルに飢える


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腹が減った。

なんて突飛な考えだ。今までそんな考えを抱いたことあったか? 完全に無作為なもの。何なら不可解でさえある — まるで、ある時点では平常だったのに、唐突にナンセンスな考えが浮かんで、自分がいかに馬鹿げているか気付くまでそれを続けるような。

それが何か意味を成すのか? 私は成すと思いたい。しかし、依然として腹は空いている。極めて空いているくらいだ。今すぐに何か頼むべきだろうか? あるいは…… いや、もう少し待ったほうがいいか? 実のところ、その選択肢は取るべきではない。私が何か、よっぽど重要なことにでも取り組んでいない限りは。

しかし当然ながら、私は全く何にも取り組んでいない。この部屋は私がここに来た時からずっと無人だ。どうしてかは未だによく分からない、何の説明も受けていないからだ。もっとも、たとえ誰かが説明してくれたとしても、私は別に気に掛けない。どこかの清掃用クローゼットに迷い込んだとか、そういうわけでもないしな。サイト-19には大勢の人がいるのだから、もしここが私のいるべき場所でないのなら、今ごろ誰かが何か言ってきているはずだ。

しかしそうではない、これで合っている。そんな感じがする。おっと、感じるといえば、私は腹が減っていたんだった。そろそろ何か頼むべきかもしれない。けど、何を頼んだらいい?

ベーグル

そう — 待て…… 今のは誰が言った? 私の声とは違ったぞ。しかし、それはつまり、私の声がどういうふうに聞こえるか知っているということでもあるんじゃないか。そして、誰がそんなことを知っているというんだろう?

また話が脱線しつつある。電話を掛けなければ。

私は携帯を取り出し、電話番号を入力し始める。しかし、誰に電話を掛けようとしてるのかはよく分かっていない。願わくば、誰に掛けようが問題なければいいんだが。ただひたすらに数字をタップする…… 一つ、また一つと。そして電話が鳴った。

プルルル……! プルルル……! プルルル……! プルルル……!

おいおい — まさかまた電話番号を間違えたんじゃないだろうな。

プルル……!「もしもし? ご用件は?」

「どうも。ベーグルは販売されていますか?」

プツッ!

ああ。ツイてない。もしかして、そもそもベーグルは売ってないのか? もう一度確かめるべきか。

プルルル……! プルル —!「もしもし? 本日はどのようなご用件でしょうか?」

「ベーグルは販売されていますか?」

相手の男がしばらく沈黙する。ベーグルがあるか確認しているのだろうか。

「いいえ、ですがドーナツであれば販売しております。そちらでもよろしいでしょうか?」

「ええ、構いません。すぐに向かいます」

本当は構うのだが、彼は私の名前を尋ね、とにかくここまで立ち寄るよう告げた。そろそろ帰るべきなんだろうか。けど、どうやって帰ったらいいのか分からない。どこにもドアがないんだ。先ほど無くなってしまった。もしかしたら、どこかに代わりとなる窓が見つかるかもしれない。それか天窓が。地上照明って存在すると思うか? 私としては、存在したなら素敵だろうなと思う。きっとどこかで役に立つはずだ。いやまあ、これ以上は私に訊かないでほしい。ただ身近にあったらクールだなって思っただけだ。

私は何とか部屋から抜け出す。出口まではそれほど遠くなかった。仮に徒歩で数分かかったとしてもそう思っていただろうな。

また同じことをしつつある — 本当にそろそろ帰るべきなのかもしれない。


あなたが歩いている時、両足はそのことを知っていると思うだろうか? 少なくとも、幾分かは認識しているはずではないか。片方の足がもう一方の前に出て、どんどんステップを踏んでいく。小さな玩具の兵隊みたいだとも言える。そう考えると幸せに感じる。

私はどこへ歩いているのか分からずにいる。名称が聞き取れなかったんだ。この近くにあると信じたい — そうでなかったら、私はどうすればいいのか想像もつかない。実際、もっと歩く羽目になるかもしれない。それが体に良いことだとは思う。

近くに何人かいる。母親とその子供だ。2人は私の方へ歩いている。

「どうも」

少女が私に微笑み、手を振る。彼女は母親と瓜二つだ。

「こんにちは、知らない人」

私も微笑み、手を振り返す。実際、少しの間私たちはそうしていた。ただ手を振り合っていた。しかし、どうも彼女の母親は私のことをあまり好いていないと見えた。少女はまるで幽霊でも見るかのように、私を見つめ続けている。そういう少女も幽霊のようだ。小さくて、弱々しくて、全身が青白い。少女はまた私に微笑み、母親に促されて去っていった。幸せそうな家族だと思う。

ああいうのは一体どんな感じが…… また電話を掛け直すべきかもしれないな。

おっと、今室内に入った。居心地の良い香りがする。きっとここが正しい場所なのだろう。カウンターの向こうに別の女性が立っている。私と同じ金髪だ。友達になれるだろうか?

「どうも、ご用件は?」

彼女は微笑んでいる。満面の笑み、特別なお客様に見せるような笑顔だ。私はまるで特別なお客様になったかのように感じる。壁にあるものを見て、私は喜びでうずうずした。

「ドーナツを注文した者です」

「そうでしたか、お名前は?」

思い出すのに1秒かかる。何か悪いか? 私としては、人は時々物忘れをしても良いと思う。たとえ、忘れないことが重要であるとしてもだ。そういうのが起こるだけ。物事の仕組みというのは奇妙だが — それでも私は何とか思い出す。

「アレックス・ソーリーです」

「すみません、どなたですか?」

彼女はそんな名義の注文は受けていないと告げた。私は大丈夫だと彼女に伝えてみた。彼女は再び微笑み、ベーグルを1つ差し出した。思うに、それは彼女のベーグルだったのかもしれない。彼女が自分のために取っておいたものだったのかも。私はそれを受け取って彼女に礼を述べたが、彼女は既に私が誰なのかを忘れているようだった。

少なくとも、ベーグルが美味いのは変わりない。

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