夜が眠る前に
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 AM4:00。俺は、無二の親友を殺す事を決めた。

生温い風が服の隙間を通り抜ける。ふと目に入った自販機で缶コーヒーを買い、そのまま啜った。不味い。が、それでも無理矢理喉へ流し込む。夜明け前のパーキングエリアには、俺の車以外停まっていない。冷静になれ。一旦自分を落ち着かせる事が重要だ。

スマートフォンの振動を感じ、画面を覗き込む。画面には、もう何回見たかもわからない中央情報センターからの通告が表示されていた。要件は一つ。『戻れ』との事だ。乾いた笑いが出る。缶コーヒーを捨てて、スマートフォンの電源を切った。このペースだと、朝にはGOC極東部門全体に“脱走者”として俺の名前が通達される事だろう。

急がなければ。車に乗り込み、ハンドルを握った。

俺はもう、戻る気はない。

.01


 騒音。

反射で目を開けると、朝の日差しが瞼に容赦なく飛び込んでくる。うぜえ。視覚と聴覚が訴える不快感が、俺を夢から引き戻す。昨夜眠りについたのは、確か3時だ。目覚まし時計を目で掠めると、時刻は6:20を指している。溜息が漏れた。正直、あまりにも起きる気力が足りない。全力で二度寝を決め込みたかったが、精一杯自分を戒めて目覚まし時計を止めた。

ベッドから起き上がるのに気力を振り絞っていると、スマホが震える。

20██/██/██ ██:██
世界オカルト連合極東部門中央情報センターより

#指令
██県██市██地区で異常存在が発生。KTE-████-██としてこれを再分類する。2150 - 排撃班"レインジャケット"は即刻排撃に出向せよ。
詳細については756 - 評価班"細雪"の評価任務記録を閲覧することを推奨する。

二度、溜息が漏れた。朝から気が重くなる事言うんじゃねえ、と思うが、この指令が俺を寝床から出してくれるのもまた事実だ。弾かれたようにベッドから飛び出る。朝の支度にかけられる時間は多く見積もって15分。小走りで洗面所に向かった。

世界オカルト連合極東部門の狭い宿舎で、毎朝行われる光景である。

朝の支度を終えて宿舎の無機質な廊下を歩く。2分オーバー。歯磨きの際に猫の動画なんて見るんじゃなかった。かと言って走る気にもなれず、廊下の無駄に高い天井をぼんやりと眺めながら歩く。すると、視界の先で見慣れた男が扉を開けて出てきた。

「お、おはよう。若干時間やばいから急ぐぞ。つーか、お前隈やばいな。マジで死神みたいになってんぞ」
「いや、仕方ないだろ。昨日のアレが流石にクソすぎた。睡眠時間3時間は流石にきちぃって」


 愚痴を吐いて顔をまじまじと見れば、そう言う彼ーオギノの顔にも、深い隈が出来ている。更に言えば、昨晩の任務の後始末を最後までしていたのは他ならぬ彼である。恐らく俺よりも寝ていないはずだ。にも関わらずなんでこんな朝から元気なんだろうか。つくづく不思議に思う。

「確かに昨日はエグかったけど、んな事ほざいててもなんも始まんねえんだよ。ほら、走るぞ」


 そう言ってオギノは俺の背中を押した。

俺と彼の関係について、語る必要がある。

俺とオギノは幼なじみだった。何故仲良くなったのかはよく覚えていない。家が近かった、のような下らない理由だった気がする。が、理由など正直何でもいい。
一緒に家に帰りながら遊ぶ相手として彼は俺を選び、俺はそんなオギノに引っ張られるように明るくなっていった。そうして俺達は親友となった。只、それだけの話だ。

俺達は中学、高校に上がる頃にはすっかり馬鹿2人として周りに扱われるようになっていた。その頃こそが何も生産性のない、俺達の青春だったと言っていいだろう。そんな日々の積み重ねの中で、阿呆だった俺は彼が生涯の友人である事を確信するまでに至っていた。

その確信は最悪の形で当たった。

俺と彼だけが生き残った。2人の家族ぐるみで近くのレストランに晩飯を食べに向かっていた時の話だ。俺達の家族を貪り食った異常存在は犬の首のような形相をしていて、常に目が燃えていた事を記憶している。その後、犬の首は駆けつけたGOCの排撃班に粛清され、俺達は家族を失った。

俺達は異常存在への復讐を誓った。世界オカルト連合に入り、日々異常存在との戦いに身を置く事を選んだ。その選択が正しかったのかはわからない。だがまぁ、今となってはどうでもいい事だと、俺は思っている。

その復讐の炎は、今もオギノの心の中で猛然と燃えているだろう。彼は誰よりも異常存在を憎んでいた。異常存在を前にした時の彼はいつもとは考えられないぐらいに冷静で冷徹であり、その顔は静かな憎悪を宿していた。普段の快活な顔とはかけ離れた様相をしながらブレードで敵を一閃するその姿は、俺の目には眩しく映った。

世界オカルト連合の排撃班は、彼にとって天職だったのかもしれない。

彼は破竹の勢いで活躍を重ね、地位を上げた。俺はそんなオギノを見ながら、ひたすらに銃声を響かせた。彼に食らいつくように。その甲斐もあってか、俺はオギノと共に排撃班の一員として動く事になったのだ。

……GOC排撃班、"レインジャケット"。数ある排撃班の中でも特に白兵戦に秀でた部隊の1つとして認知されているのが、我らが排撃班である。オギノを班長とした4人で構成された当部隊は、おそらく「個」の武力としてはGOC極東部門でも随一の破壊力を誇るだろう。とは言っても結局はGOCの歯車の1つに過ぎないので、結局今の俺達は日々任務に次ぐ任務に追われる毎日を過ごしている、というワケである。

「お、来たか。君達が時間危ういの珍しいね。何かあったの?」
「普通に体力が限界なんだよ。お前は昨日何時に寝たんだ?」
「確か昨日は…2時くらいだな」
「チッ、よく寝てれてる奴はやっぱ違うなあ」
「いや別に4時間睡眠は少ない方だからね?」


朝から騒がしく絡んでくるのは、班員のスダリだ。ギラギラの金髪が目に優しくない。しかも、その手には購買のメロンパンが2つほど握られている。三度、溜息が漏れた。朝からそれは重いだろ普通に考えて。一方で、奥にいる狙撃手のカダラシは無言でホワイト・スーツのメンテナンスをしている。あいつはあいつで無口すぎて、何を考えているのかがわからない。零か百しかいないのかこの班は。

「あ、今日は市街地だからそれのメンテはいらねえぞ、カダラシ」


カダラシの動きが数秒止まる。その後、何事も無かったかのように武器を持ってきた。どうやら武器のメンテナンスに切り替えたようだ。指摘したやった俺に感謝の言葉は無いのかとも思うが、まあいいだろう。

「カダラシは抜けてるからなぁ」とほざくスダリを横目に支度を進める。ふとスダリの服を見れば、メロンパンの欠片がぽろぽろと付いているのに気がついた。お前が言えた事じゃねえだろ。しかもそのメロンパンの金を出しているのは俺だ。畜生、今週のUNO大会は絶対に俺が勝ってやる。

「君のブラック・スーツマジでだっせえよね」
「おん?お前も大概だろ」


いつもの如くスダリとくだらない言い合いをする。朝日が部屋に差し込んでくる。今日も、なんて事のない、平和な朝の光景が繰り広げられている。

しかし、俺達がそこに留まる事は許されない。

窓の隙間から入ってきた朝の風。それに飛ばされて、何かが足元に流れ着いた事に気づく。ふとそれを拾い上げてみれば、オギノの班員配属証明証である事に気づいた。不用心。少し呆れながら、鏡の前に立つオギノへと呼びかける。

「おいオギノ、お前これ落としてるぞ」
「あぁ、悪ぃ。そこ置いといてくれ」


鏡から振り向いたオギノの左目は、翡翠色に濁っていた。異常存在との後遺症。オギノ本人にとっては名誉の傷でも何でもないようで、普段は黒のカラーコンタクトを着用している。(本人曰く『怖がらせるだろ』との事だ。)排撃班の俺達以外誰にも会わないであろう今朝も付けていた物だから、全く生真面目な事である。

「……わざわざそのカラコン外す事ぁ無えと思うんだけどなぁ」
「いやいや、実用性だよ、実用性。裸眼の方が性に合ってるんだわ」


……そんな彼が戦闘前だけは必ずその黒い仮眼を外す事を、俺は知っている。オギノはそれを実用性だと言う。でもそれだけじゃ無い。それだけじゃ無いだろ。鏡に映った己の眼を睨み付けるオギノの横顔を見ながら、そう言いたくなる瞬間がある。証明証に映った彼の顔と目の前に立つ男をちらと見比べた。かつての誰も彼も許さない荘厳な目つきは大分柔らかくなった一方で、その眼光はずっと冷たく、暗く瞬いている印象を受ける。そう思えばオギノが随分と遠くを見ているような気がして、いやいやそんな事は無いと俺はまた中身の無い冗談を飛ばす。自分が彼に抱いているのであろう、得体の知れない感情を隠す様に。見てみぬ振りをする様に。

「この証明証拾ってやったから貸し1な?なんか奢ってくれや」
「はは、勘弁してくれ」


そう言いながら、オギノはまた快活に笑った。

背後からスダリの口笛が聞こえ、2人して振り返る。見れば、スダリはメロンパンをとっくに食べ終えてブラック・スーツに着替えている様だった。『口笛と犬』を吹きながら、早く行こうよと言った目でこちらを見ている。そうだ、俺達はこんな事をしている場合じゃないのだ。朝は早い。なるべく急がなければと思い直す。日常は続く。俺がオギノに抱く大きな何かも、日々の中で正体が掴める時が来るだろう。きっと。

「朝の時間、もう無いんじゃないの〜?僕はもう待ちくたびれてるよ」
「あぁ、すぐ行く。お前らも準備はできたか?」


カダラシは武器のメンテナンスを終え、俺の後ろで軽く準備運動をしている。

「俺達の準備はもう終わってる。後はお前の指令待ちだ」
「そうみたいだな。よし、今から俺達は異常存在の排撃に向かう」


オギノが微笑んだ。

「行くぞ」


────空気が変わるこの瞬間を、意外と気に入っている自分がいる。

『『了解』』

機械的に異常存在を粛清し続ける。それが俺達の存在意義だ。

今日も、何も変わる事は無い。

筈だった。

排撃任務記録9822-2022/07/04-8

概要: ██県██市██地区で発生した異常存在であるKTE-████-██の粛清。市街戦であるため、参加人員はブラック・スーツを着用している。

参加人員: 2150排撃班"レインジャケット"

  • ロード1"オギノ"
  • ロード2"ガラク"
  • ロード3"スダリ"
  • ロード4"カダラシ"

俺達が奴と対峙した時、奴は肉塊で巨大な人間の顔と両手を形成していた。周りには無数の肉塊が奴の周囲を舞っている。どうやら、自立浮遊する肉塊を操って自分の体を形成しているようだ。

「うわ、これ面倒くさいね。どうする?皆」

スダリが言う。その口調や表情は戦闘時の今も変わる事は無いが、その両手には厳つい改良型トンファーが装備されている。その様が纏う貫禄が、この軽薄な男こそが排撃班"レインジャケット"の副班長であるという事実を思い出させる。呪符が纏われたトンファーによる一撃で敵の土手っ腹に大穴を開けていく様は見ていて爽快だが、どうやら今回はそうも行かない。

「とりあえず俺とスダリであの肉塊を片っ端から減らしていく必要があるな。この物量じゃ、周りに被害が出るのも時間の問題だろ」

 俺が愛用している対脅威存在排撃用改良型短機関銃、通称"ERS"に装填できる弾種の一つである遅効性拡散弾は、対象に着弾した後にクラスター弾の様に弾け続け、対象を内部から破壊する。殲滅には打ってつけだ。

「ああ、2人は異常存在の体組織や周囲に漂っている肉塊を減らしてくれ。ある程度減らせたら、俺とカダラシで核を叩く。」

オギノの声が耳に響く。初めて共に戦った時、その冷たさに驚いた記憶がある。でも、今は確かにその冷たさの中に信頼を感じるのだ。トリガーにかかる指に力が入る。

「核が存在せず、無限に肉塊が湧き続けた時は?」
「その時は焼却、冷凍、他あらゆる手段を試すまでだ。とりあえず、やってみないと始まらないだろ。班員、各自位置につけ。あー、"レインジャケット"より各班。これより、既知脅威存在の排撃を開始する」


カダラシの姿はもう無い。今回は狙撃に専念する気だろう。俺達は、俺達の役割を全うする。それだけだ。

一瞬、息が止まる。

「行くぞ」
『『了解』』


両脚の筋肉を躍動させて駆け出した。無数の肉塊にまずは一発、標準弾を放つ。放たれた弾は肉塊の一つへ着弾。一瞬穴が開く。が、直ちに再生した肉塊で穴は塞がれた。標準弾で穴を開けられるならば、充分殲滅は可能だ。弾種を切り替え、銃弾をばら撒きつつ本体へと接近する。肉塊の動きは直線的で読みやすい。遅効性拡散弾を撃ち込めば、その塊は木っ端微塵に崩壊した。肉塊の破片が、霧雨の様に降りかかる。

「このまま全部片付けるぞ!」


スダリがいるであろう方向に叫びながら、迫り来る肉塊へ引き金を引いた。

◇◈◇◈◇

────崩れ落ちていく肉塊を見て、仕事の完了を確信する。

「これ終わったっぽいな。超疲れたわ」
「ったくカダラシ、美味しい所だけ持っていきやがって。僕達の頑張り損みたいじゃんか」


飛び散った肉塊の破片を踏み潰し、深呼吸を一回。変形を繰り返しながら襲いかかってくる肉塊野郎にはかなり粘られてしまった。最終的にオギノの一閃で見えた核をカダラシが撃ち抜いて殲滅は完了したが、朝っぱらからかなりの重労働だ。帰ったら爆睡してやろう。 

「つぅかこの任務、もっと楽に出来る班いたと思うんだけど」
「あ、それ思った。絶対適当に僕らにタスク回してるよね」


スダリと愚痴を言い合いながらもERSをリロードする。完全な死亡確認が済むまで油断は禁物だ。

「油断するなよ。俺が心臓部を確認する。徹底的にやるぞ」

オギノが歩きだしたのを目の端で捉えた。まあ、あいつに任せておけば安心だ。今日の仕事はこれで終わりと考えると気が抜ける。肉塊野郎の心臓部は脈打つ岩石とでも表せるような、奇妙な形をしていた。その脈が今は止まっているからか、いよいよ岩の塊にしか見えない。ほっといてもいずれ崩壊するだろうが、念の為潰して置くのが安泰だろう。心臓部に人影が差す。オギノがブレードを振り上げる。異常存在は死に、俺達は仕事を終える。いつも通り、世界は回っていく。

止まったはずの岩石の脈が再び動いていた。


肉塊。何が起こったのかの理解が遅れる。今この瞬間まで踏みしめていた地面を見失い、体は宙を舞っている。吹き飛ばされた。その事実と共に体が肉塊の濁流に飲み込まれていく。考えるより先に体は引き金を引いていた。零距離射撃。肉が破裂する音が響く。まずは身動きを取らなければ。

「状況確認!!」

喉を使い潰す勢いで叫んだその瞬間、

視界から、肉塊が消える。

「あ……?」


何が起こったんだ。周囲の状況を確認。俺を飲み込んだはずの肉塊は消え去り、耳に静寂が木霊する。まるで、何事も無かったかの様に。呆然と視界を上げた。心臓部があった場所に立つ一人の男。オギノだ。

「いてて…」と背後から弱々しくスダリの声がする。二人の無事を確認し安堵しようとした、その瞬間。強烈な違和感が俺の脳内を駆け巡った。本能が騒いでいる。危険信号。だがその正体は掴めない。

「……オギノ?」


俺の掛け声にオギノが振り返った。その瞳は翡翠色に濁っていて、表情からは感情が感じられない。おかしい。異常存在を前にした時の、この男の、驚く程に冷たいあの表情が、憎しみに満ちた表情が、失われている。

「オギノ、大丈夫か?様子がおかしいぞ」

スダリがオギノへと歩いていく。やめろ、と止めようとするが、その手は動かない。

「 」

オギノが呟いた。その内容は聞き取れない。

だが、俺の名前を呼んでいたように見えた。

オギノの顔が歪む。

瞬間、オギノの頬に穴が空いた。カダラシの狙撃か。止まっていた時間が動き出す。考えるより先に駆け出した。ERSを再び構える。アイアンサイトの先にオギノを捉えた。オギノの体から、肉塊が溢れる。

「──スダリ!一旦下がっ」

ぐきっ。

その音が俺の骨が折れた音だと気づいた時にはもう遅かった。肉塊が無数の触手のように唸り、俺達に襲いかかる。反射で躱したものの、左腕が折れたようだ。歯を噛みしめて痛みを黙殺する。思考が現実に追いつかない。一体何が起こっている?

「走れ!3方向から攻めるんだ!」


スダリの声に弾かれたように足が動く。肉塊の触手を必死で掻い潜れば、視界の真ん中にオギノが見える。先程カダラシが開けた穴は塞がっちゃいないが、体の所々から肉塊が溢れ出すその姿は異形としか形容ができない。標準を合わせるが、折れた左腕のせいで上手く撃てない。横から衝撃。首が飛ぶギリギリで避ける。このままだと間違いなく全滅だ。あぁ、まずはスダリと連携を取らなければ。ふと横を見た。

絶対に顔は見える位置にいるはずなのに、彼の首から上は見えない。

声にならない言葉を叫んだ。視界を黒く染め上げる無力感に必死に抵抗する。左腕を強引に固定し引き金を引く。着弾。動きを止める事はできない。弾種を切り替え乱射しまくる。なにか有効な手段は無いか。クソ、意識が朦朧とする。
 
刹那。

浮遊感に気づく頃には体は回転している。後方から吹き飛ばされた。カダラシは無事だろうか。遠のく意識の中、ぼんやりと思った。目の前の現実が遠くへと離れていく感覚を覚える。
前方から痛みが走り、顔の感覚が鈍る。おそらく地面に激突したのだろう。視覚が機能しなくなる。肉塊が唸る轟音だけが頭に鳴り響く。……詰みか。ふと出てきた言葉をすぐに撤回する。目を見開いた。いや、まだ諦めるな。必死に手探りで落とした武器を探す。視界がようやく回復してきた。吹き出した鼻血を舐め、起き上がる。

────目の前に、絶望が広がっている。

08:34.22 ロード2がロード1による肉塊の飽和攻撃に飲み込まれる。ロード2が遅行性拡散弾を放つものの明確な効果は得られない。この事から、恐らく性質が合体前とは変わっているという仮説が立てられる。

08:34.31 ロード2が放った冷凍弾によりロード1から溢れる肉塊の一部の
動きが止まる。ロード2がロード1の後ろに回り込む。

08:34.35 ロード4によってロード1に狙撃が行われるが、ロード1に届く寸前に肉塊によって妨げられる。

08:34.36 ロード2が吹き飛ばされ、頭を強く殴打し気絶。これにより戦線を離脱する。

08:34.42 ロード4が装備のランスを持ってロード1に接近を試みる。

08:34.51 肉塊による攻撃でロード4の肋骨が折れる。ロード4が吐血しながら投擲攻撃を行うが、肉塊に阻まれそのままロード4が気絶。この時点で残った排撃班の全員が戦闘不能になる。

08:34.57 ロード1の周囲に溢れた肉塊が変形し、翼の様な物を形作る。ロード1の姿は完全に肉塊に覆われて確認する事ができない。

08:35.01 ロード1が不明な手段で飛翔。評価班"細雪"による妨害が試みられるも効果は無く、ロード1の姿をロストする。

[排撃班の状況を踏まえて記録が中断される。人員回収は756-評価班"細雪"が続投した。]

◇◈◇◈◇

頭が割れそうな感覚を覚える。

相変わらず息が詰まりそうになる病室の空気が、俺の肺にじわりと侵食してくる。折れたはずの腕は治っていた。さすがGOC、こういう所だけは賞賛に値する。
俺が目を覚ました時、病室には暴力的な日差しが差し込んでいて、俺のすぐ側には見知らぬ男が立っていた。逆光で顔がよく見えない。恐らく、人員管理官の誰かだろう。男は俺が起きた事に気づくなり、無言で紙束を俺の上に置いて去っていった。全くいけ好かない奴らだ。紙束を手に取る。男が渡してきたのは、今回の排撃記録だった。

今、俺は虚ろな目で排撃記録を眺めている。


部隊の損害について: ロード4、2共に複数箇所の骨折を負うも、命に別状はない。
ロード3が死亡。死因は頭部に強い衝撃が加わった事による頭蓋の破裂だと思われる。遺体は評価班"細雪"によって回収された。

この仕事をやってれば、犠牲は当然のように出る。それは重々と承知しているし、俺も実際に2人程見送ってきた。今更嘆く事じゃないのはわかっている。それでも、俺の端末の画面に無機質に表示される「死亡」のシグナルを見る度に、今週皆で使うはずだったUNOを見る度に、心のどこかに乾きを覚えてしまう。それは俺の弱さであり、超えるべき課題だ。忌々しく思う。

オギノの死亡信号は、まだ届かない。

ロード1がKTE-████-██と一体化。記録より、同化前後で肉塊の性質が変わっている事を考慮し、後天的変異体 Type White/UTE-████-██-Aとして再分類する。UTE-████-██-Aは現在行方不明であり、迅速な位置の特定・破壊が求められる。詳細については別紙を参照。

胃袋がひっくり返ったような吐き気。思わず近くのごみ箱に顔を突っ込む。しかし、出るのは少しの唾液だけで吐瀉物は何も出ない。

控えめに言って、最悪の気分だ。

胃の中に燻り続ける不快感を、注いであった水を飲み干して強引に流し込んだ。病室には、見渡す限り俺以外には人はいない。怪我人の通達は毎日の様に溢れているのに。皆必死で戦っているんだ。痛々しく実感する。そうだ、俺だけがこんな所で立ち止まってる訳にはいかない。ベッドから立ち上がる。

恐らく、もう少ししたらオギノを目標とした排撃班が編成される。うちの評価班の仕事ぶりには毎度目を見張る物があるのだ。その時に、排撃班への参加希望を申し出てみる事にしよう。班長も副班長も消えた今、俺とカダラシは違う班へと再編成されるフリーな状態だ。もしかしたら、受理されるかもしれない。オギノは殺さなければ。世界オカルト連合の排撃班として。

ふと、思考に靄がかかる。

何かが引っかかっている。

その正体がわからず、行き場のない苛立ちが降り積もるのを感じながら病室のドアノブに触れた。瞬間、ポケットの中の端末が震える。何だろうか。病室を出て、端末を取り出した。オギノの引き継ぎ作業の連絡か?疑問に思いながら流れ作業で通知を眺めたのも束の間、「評価班"細雪"より通達」という文字列を見て、俺の体は硬直する。

20██/██/██ ██:██

#756-評価班"細雪"より通達

UTE-████-██-Aの居場所の特定に成功。UTE-███-██-Aの目撃記録や肉塊が含む特定成分の痕跡に基づく追跡を行った結果、UTE-████-██-Aは██県██市██区████に存在する超常組織「財団」の研究施設内にいる事が確認された。UTE-████-██-Aは「財団」に捕獲・収容されたものと思われる。詳細については付属ファイル:評価班記録756-2022/07/08-23を閲覧せよ。


思考がフリーズする。内容が上手く入ってこないまま、最後の一文に目を通す。

#補遺
また、「財団」との協定に基づき、現在計画されているUTE-████-██-Aの排撃計画は全て凍結される。


全身から、血の気が抜けていくのを感じた。

.02


20██/07/10 ██:██
#立案
・UTE-████-██-A排撃作戦-20██/██/██ ██:██

#立案概要
・現在、超常組織『財団』に収容されているUTE-████-██-Aの奪還及び排撃作戦。

#立案理由
・UTE-████-██-Aと共にGOCの所有している標準実地礼装 ブラック・スーツが一着財団の元へと渡っている状態であり、GOCのGen+1技術が財団に奪取される事態をなんとしても防ぐ必要がある為。

詳細については付属ファイル:排撃作戦立案UTE-████-██-Aを参照。

元2150排撃班"レインジャケット"班員-"ガラク"

#返信- 却下

#理由
・世界オカルト連合が保有する技術が財団に奪取される可能性については確かに見過ごす事ができない。しかし、正常維持組織として財団との全面抗争の事態はそれを遥かに上回る危険性を孕んでいる。我々は世界を守る矛として機能し続けなければならない。

総合管理官-"スネイルバスター"

:

20██/07/12 ██:██
#立案
・UTE-████-██-A譲渡要求案-20██/██/██ ██:██

#立案概要
・超常組織『財団』に収容されているUTE-████-██-Aの譲渡を目的とし、財団に交渉する案。

#立案理由
標準実地礼装 ブラック・スーツが財団の手に渡っている事から、UTE-████-██-Aは破壊する必要がある。

詳細については付属ファイル:譲渡要求立案UTE-████-██-Aを参照。

元2150排撃班"レインジャケット"班員-"ガラク"

#返信- 却下

#理由
・世界オカルト連合と財団との理念の違いによる確執は排撃班ならば勿論知っているはずだ。財団がそのような交渉を承諾する筈が無いのは自明である。また、標準実地礼装 ブラック・スーツに搭載されているGen+1レベルの技術は財団も既に持ち合わせている可能性が高く、財団との関係悪化とのリスクとは釣り合わない。我々が余計な事に足を取られ、手を止められる時間は少ない。己の役割を全うすべし。

総合管理官-"スネイルバスター"

:

20██/07/18 ██:██
#立案
UTE-████-██-Aの破壊。

#立案理由
UTE-████-██-Aは破壊する必要があります。

元2150排撃班"レインジャケット"班員-"ガラク"

#返信
・最早承認や却下といった話ではないので私信とさせてもらうが、君はどうやらこの件で少々感情的になっているようだ。君が同じような立案を7件もしている事については自分でも分かっているだろう。君は一旦頭を冷やし、己の有るべきを見つめ直す必要がある。それでも気持ちの整理がつかないのなら、カウンセリングを受けてみてはどうだろう。世界オカルト連合は決して君一人ではない。忘れるなかれ。

総合管理官-"スネイルバスター"

────俺がGOCを脱走したのは、その日の夜の事だ。

.03


新車特有の吐きそうになるビニールの匂い。視界を騒がしく照らす眩い蛍光の明かり。車窓から侵入してくる雨音と混ざりあった不格好なジャズの音。何もかもが雑多としたガラクタの様な空間に揉まれ、しかしその状態によくわからない落ち着きを覚える。


GOCの外出許可を適当に得て車を出してから4時間半。帰宅予定時刻はとうに過ぎている。この時間でなるべく遠くに行かなければならない。GOCの車を捨てた後、電車で30分程移動した後に車を借りて高速に乗った。外からは、暴力的な雨がフロントガラスを叩きつけている。あの状態の俺が脱走したとなれば何処へ向かうかはGOCでも察しがつく事だろう。それを見越して、一先ずはなるべく迂回する事にする。もしも要注意団体へのスパイ行為を警戒されて評価班が駆り出されるような事になればかなり厄介だ。

後ろの席には、脱走する際にかっぱらってきた武装、毒物、武器が積まれている。正直、これだけでも並の異常武装団体なら一人で潰せるだろう。だがそこで慢心する程俺は馬鹿ではない。相手は財団だ。まずは装備を整えなければ。ちらと後ろの席を見る。装備が充分に揃った暁には、コイツと組み合わせて、オギノ1人を殺すくらいなら可能だろう。

マークⅠ 簡易型戦闘強化服 シアン・スーツ。俺がGOCからかっぱらってきた、"とっておき"の武装である。一見奇怪な見た目───機械的な甲冑、とでも言おうか──をしているこの武装だが、その実用性は紛れもなく本物。そこらの有象無象の超常組織ならこれだけで簡単に捻り潰せる強力な代物だ。こいつは元々、年々深刻になっていく戦闘強化服 ホワイト・スーツのコスト問題を緩和するために極東部門で開発されていた物である。プロトタイプとして出された当初はホワイト・スーツよりも低コストで開発できる上に"簡易型"としては十二分な殲滅力で注目されていた。が、時間が経つにつれて「ブラック・スーツで事足りるかホワイト・スーツでなければ太刀打ち出来ない事例が増えてそもそも出る幕が無い事」や「ホワイト・スーツより低コストとはいえ、それでもビルが数個は買えてしまうレベルの金額が軽く飛んでしまう事」といった問題点がじわじわと目立ってきた。結果的に今ではすっかりプロトタイプのままで放置されている、何とも残念な装備である。とは言っても今の俺には心強い存在である事には変わりない。GOCに居場所が無い物同士、地獄行きの相棒とさせて貰う。

雨が止む気配がする。建物の隙間に覗く地平線から、僅かに光が漏れ出している。鬼ごっこはここからだ。
後方に覆面パトカーがいないのを確認して、思いっきりアクセルを踏む。

AM4:30。 雨が晴れ、気晴らしに窓を開ける。世界が起きる前の心地よい風が、俺の眠気を晴らしてくれる。まだ走れそうだ。

AM5:20。 最低限のエネルギーを蓄えにパーキングエリアで車を止めると、男が一人、女が二人、何やら口喧嘩をしているようだった。口喧嘩というより只の主張のぶつけ合いなその様相を笑いながら、朝飯を買いにコンビニへと入った。
 
朝からメロンパンを買ったのは、流石に重かっただろうか。

AM5:50。高速道路を降りて、街に紛れることにした。

空にだらしなく浮かぶ泥の山が、潮風に凄まじい速さで吹流されている。その隙間から差し込む朝日と共に、世界は少しずつ起きていくのかもしれない。頭上に広がる天井知らずの群青に目を細めた。夏の朝の清々しさに置いていかれるような感覚は、これまでもこれからも変わる事は無いのだろう。

海に近い街という物に憧れがあった、という本音を吐き出すのは少し恥ずかしい。しかし結局の所俺は今、海沿いの街の小さな道の駅、その望遠台の柵にもたれ掛かり、キャラメルを1個口に放り捨てている。煙草を買う代わりにキャラメルを買うようになったのは、一体いつからだっただろうか。固形化した甘味を歯でぐにゃりと噛み潰すと、分泌される唾液は甘く穢れ、酷く喉の渇きを覚えた。

それにしても、ここからどうしようか。

他人事のように考える自分に苦笑する。案外こういう時、人は冷静になれる物だ。遅刻が確定した時こそが、一番快適な朝を送ることができるように。行き場の無い左手をポケットに突っ込んだ。キャラメルはあと5個程残っている。これを全部溶かしたら、またあてもなく車を走らせよう。包み紙を一つコロコロと丸めて足元へと放り投げ、間抜けな海鳥の群れを眺めながら、ぼんやりと思う。

武器を調達するとなると、適当な要注意団体にカチコミをかけるのが一番手っ取り早い。が、騒ぎを起こしすぎると評価班に捕捉される。そもそも、俺がこんな所で潮風を浴びている間にもGOCとの鬼ごっこは続いているのだ。いつ捕まるかわかったもんじゃない、と改めて思い直せば、周回遅れの焦りが俺の頭に浸食してきていた。

「……こんな時、オギノならどうしてんだろな」

下らない現実逃避をするのは疲れている時だ。と、いうのは大人なら誰でもわかる事実である。しかし、そんな物よりも遥かに下らない俺の脳みそは、あの大雑把で快活に笑う男、その横顔を思い出していた。咄嗟に首を横に振って頭をリセットする。眼下に見えるテトラポットに石ころを投げると、その小石は海の深蒼へと弾かれ、淡いに波の彼方へと消えていった。オギノの言葉が、残響の様に木霊する。

「俺はもう、戻れないんだ」


……初めて俺を慕ってくれた後輩は、脳漿をぶち撒けて死んだ。彼女が指先から花を咲かせた時、俺は一瞬、彼女を撃てなかった。

「俺は、俺が正しいと思ったことをするよ。例え何を敵にしても」


オギノは言った。花弁と脳漿塗れの脚で立ち尽くしながら、哀しく笑っていた。思えばあの時こそが、彼が覚悟を決めた瞬間だったのかもしれない。俺はそんなオギノに対して、黙って頷く事しか出来なかった。親友としてこれだけは受け入れなければいけない気がした。そうして俺だけが半端な覚悟のまま、2人で突き進んできた。任務に失敗して何班もの排撃班が壊滅しても、それでも俺達は生き残った。

────あれから時間は経ち、今現在。

オギノは、彼自身があれほど憎んでいた異常存在に成り果てた。

残された俺は、どうするのが正しかったのだろうか。

頭を掻きながら欠伸を一つ飲み込んだ。予定変更。2個にまで減っていたキャラメルをポケットにしまい車へと歩き出す。とにかく武装を奪わないと何も始まらないのだ。スマートフォンをスクロールすれば、付近の確認済要注意団体リストは簡単に出てくる。GOCの追手に感知されたくない以上、転々と地域を変えて潰していく事にでもしようか。車の座席へと乗り込み、エンジンを起動する。前進。駐車場を抜け出して、国道を再び走り出す。
 
何かがはらりと車内の床に落ちる。屈んで指でつまみ拾ってみると、それはいつか荷物に紛れ込んだのであろうUNO、その緑の6のカードだった。口の中の苛立ちが心做しか加速したような気がして、カードを車窓の外に捨てる。放り捨てられたカードは暫く宙を舞った後、風に流されて彼方に輝く海岸へと消えていった。

.04


雨が降っている。

夜陰を形作る暗雲が真っ二つに割れ、そこから赤白く輝く空が顔を覗かせている。天気雨だ。大粒の雨が顔に当たるのが、心地良く感じる。太陽が支配する時間は俺達の時間では無い。宵闇に包まれる時間も俺達の時間では無い。世界が起きる少し前、世界が淡く染まる、少しぼやけた時間。この時間こそが、俺達の時間だ。

脱走から4日。シアン・スーツは点検が終わっている。要注意団体の野郎共から強奪した武器もしっかりと組み込んだ。出来ることならば武器は全部組み込みたかったが、流石に限度があったので選りすぐった。まぁ、中には「蛙を呼び出す笛」なんて物もあったので当然といえば当然だが。シアン・スーツの下に着る筋力補助繊維で出来た黒い肌着は、やけにぴっちりとして着心地が悪い。慣れるしか無いのだろう。ERSを手に取る。ERSは置いていくか迷った末、持っていくことにした。最後の最後に頼れるのはやはりこいつなのである。バイザーを被ってみれば、搭載されているVERITASの充電が少なくなっている事に気づいた。元々ろくに充電されていなかったのに加えて、超常組織との戦闘で使いすぎたようだ。仕方がないので、重要な局面以外では極力バイザー無しで行く事にする。ポケットの中にキャラメルを一箱突っ込んだ。

AM4:00。俺は、無二の親友を殺しに行く。

オギノがいるサイトの場所は元々粗方の予想はついている。前にも言った通り、GOCの評価班は優秀なのだ。彼らが纏めた評価班記録を何回も何回も眺めた甲斐があった。財団のサイトは、纏われている認識阻害ミームエフェクトさえ突破すれば特定は容易い。シアン・スーツを所持している俺にとって、その工程は既に突破したような物だった。

ではどうやって突入するか。計画無しに正面突破はまずあり得ない。危険な異常存在を収集している組織の防護が薄いわけが無いのだ。数多の防護壁、人海戦術による削り、無数のミームエージェントによって動けなくなるのがオチだろう。そもそも、オギノがサイト内の何処にいるかまではわからない。それを特定するまでは、なるべく騒ぎを起こさない方向で行きたい。となれば、侵入経路はかなり限られてきてしまう。ギリギリまで財団に気づかれず、且つ可能な限り最短でサイトに侵入する方法─────。

欠伸を噛み殺しながら、俺は古ぼけた電波塔、その鉄骨の上に立ち尽くしている。朝焼けを透明に塗りつぶす雨粒に目を瞑れば、錆びた鉄の香りが風と共に流れていく。深く息を吸った。俺の目線の先、その延長線上には、真っ白で巨大な長方形が聳えている。財団のサイトだ。一般人に見えないのをいい事にデザインというデザインを全て削ぎ落としてやがる。奴らの精神性が一発でわかるその様に、少しだけ笑った。

子供の頃から高い所は苦手で、観覧車で泣いたという何とも恥ずかしいエピソードがある。飛行機にも同様の恐怖を抱いていた。飛行機の窓から外を眺めてはしゃぐ家族の事を、当時の俺は意味不明といった顔で見ていたのだろう。そんな俺の高所恐怖症も、GOCに入ってからは徐々に無くなっていった。理由は簡単。そんな甘ったれた事を言ってる暇は無いからである。
……俺の右手が握っている、黒い風呂敷。大人一人がすっぽり包めるような大きさだ。そいつをマントの様に羽織れば、風に靡く風呂敷に一閃、光が走る。バイザーを被り、屈伸をして軽く準備運動をした。

────両腕を広げる。風呂敷が、蝙蝠のような翼を形作る。

思いっきり鉄骨を蹴って体を宙へ投げだした。視界が急速に広がり、暴力的な解放感が全身を包んでいく。しかしそれでも俺を縛る重力に抗うように腕を羽ばたかせれば、落ちる筈の体は朝焼けを切り裂くように飛んでいた。反重力装置を内蔵した特殊繊維の風呂敷は、奪った物資の中でも最大の産物と言って差し支えないだろう。早朝の空を上がっていく。とてつもない風の音に聴力は機能していないが、些細な問題だ。加速を重ねていけ。

空中80m。バイザーを打ち付ける雨粒が高速で流れていくのが視界に入り、子供の頃洗車ではしゃいでいた事を思い出す。150m。天井知らずの雲の隙間から太陽の気配を感じた。まるで弾丸になったようだ、なんて陳腐な感想しか出てこない。まだ加速できる。まだ加速する。280m。これだけ高く昇っている筈なのに、流れる雲にはまだ遠く届かない。声にならない声が口から漏れた。とてつもなく楽しいが、こんな経験は一回だけで腹一杯だ。
 
風圧が、全てを遮っている。

320m。ふと下を見れば、美しくも下らねえ地上がどこまでも広がっている。そして俺の真下には白い長方形。目的地だ。腕をクロスさせて蝙蝠の翼を畳む。徐々に徐々に、加速が止まっていく。景色が止まっていく。そうして遂に加速が止まる刹那、俺の体は空中に静止している。
 
 背中から光が走った。

「ははッ」


急降下。シアン・スーツの背中から展開されたユニットが噴出する衝撃波によって、俺の体は叩きつけられるように地面を目指して落ちていく。止まっていた景色が動き出し、雲が見る見るうちに遠ざかる。雨粒よりも速く落ちていく、不思議な感覚。スリル満点所の話では無い。バラバラに散った風呂敷の破片が宙を舞っていくのを目の端に捉えながら、目を見開いた。

片道切符。地獄への垂直落下だ。

押しのけられた空気がビリビリと揺れる。バイザーに内蔵されたコンピュータは既に動き出し、落下地点を俺に教えてくれていた。2秒。美しい狐の嫁入りの中で、居場所の無い1人の兵士が堕天する。地上が、白い長方形が、途轍もない速さで近づいてくる。6秒。風圧で何も聞こえない状態の中で、登場するタイミングを絶対的に間違えた欠伸が出てきた。いやマジでなんで今出てくんだよ。そんな俺のぼやきは、次の瞬間には遥か頭上に取り残されている。11秒。シアン・スーツの右肩部。最も装甲が分厚い所には、一つの爆弾 グレネードが括り付けられていた。遠隔爆破が可能でそれなりに破壊力が出る、便利な代物である。何に使うかは最早誰でもわかる事だろう。18秒。純白の塊は俺の目下、すぐそこまで来ている。遠隔爆破ユニットを起動し、コンピュータの指示通りに身体を捻った。

この体勢なら、天井をブチ抜ける。

爆風、衝撃、瓦解音。

一瞬、気を失っていた。天地がわからなくなる。が、すぐに体勢を立て直す。シアン・スーツの衝撃吸収力と耐久性を疑っている訳では無いが、それでもこんな体験は二度と御免である。周囲を見渡した。コンピュータが割り出した、最も天井の強度が薄い場所。それでも爆弾 グレネードと衝撃波噴出による加速でギリギリ穴を開けられた辺り、財団の堅牢さは相変わらず凄まじい。ここからはスピード勝負だ。


「……対応が早いな。さすが財団様だ」


俺がブチ抜いた所はどうやら保管庫のような部屋だったらしい。補完食や用備品が敷き詰められた棚の向こうにある出口には、しっかりと防護壁が降りている。…倉庫になり響く警報が耳に障る。恐らく、このままガスなどでジリジリ削っていくつもりだろう。だがこちらもそんな事は予想済みだ。シアン・スーツを舐めてもらっちゃあ困る。

 こんな壁くらいなら、15秒で充分だ。

───ガラガラと崩れる防護壁を一瞥しながら走り出す。とりあえずオギノの場所を特定しなければ。病的なまでの清潔感に包まれた部屋を汚しながら全力疾走しまくるのもそれはそれでオツなものだが、オギノをブッ殺すためになるべく体力は温存しておきたい。そもそもここは収容区じゃ無さそうだし、ぱっぱと移動してしまおう。俺が走っている廊下の出口は既に塞がれているが、知った事ではない。出口が無いなら作ればいい。床に思いっきり穴を開け、下の階層へと飛び込んだ。

◇◈◇◈◇

結論から言うと、どうやら俺は誘われていたらしい。

俺が着地したその先。だだっ広い廊下に立ち尽くす俺の正面に3人、背後に5人。財団のエージェントだ。服装から体格、そして構えている得物まで多種多様な彼らの向こうには、しっかりと防護壁のしまった出口がある。ここに用は無いのでさっさと出ていきたい所だが、こいつらをほっとくわけにもいかないだろう。冷たい殺気が、肌を刺してくる。


「よう、侵入者。見たところGOCの犬のようだが、何の用があるのかな。平和的に行こうぜ、争いはしたくない」


正面の軍服を着ている男が高圧的に話しかけてくる。というか、全員が全員服装に限らず黒づくめだ。なんか面白いな、と鼻で笑いながら、穏やかに答える。

「残念ながら俺はGOCの捨て犬だよ。特に何か言われている訳でもねぇ。大した物は持っていないさ」
「俺達は用事を聞きたいんだけど」
「それについては残念ながら時間の無駄でしかねェな。とりあえずそこ、退いてくれ。俺も争いは嫌いだよ」
「……お前は俺達が言われて素直に従うと思うのか?」
「だろうね」


言い終わる前に重心を下げ、構えた。正面の3人を静かに見据える。右にライフル1丁、正面にライオットシールド、左は…素手か?未だ手札が読めないな、油断は禁物だ。正面に気をつけつつ、後方を確認。短刀 ダガー持ちが2人、槍持ちが1人、ハンマー持ちが1人。最後の1人は、右脚に何か装着している。

「こちら警備班、こちら警備班。侵入者の制圧を開始する。………状況が状況だ、殺しても構わねぇ」
「了解」


黒ずくめの刺客達の脚に体重が掛るのを視線の先に捉えた。迎撃の姿勢を取りながら、今この瞬間、俺に向かって駆け出している刺客達の目を眺める。黒く曇った、それでも確かに輝きを持っている目。自分の中に、確かな正義を宿している目。俺とは大違いだ。俺は俺自身の「正しい」なんてわからないまま、こんな所まで突っ走ってきたってのに。軽く目を瞑る。振りかざされた短刀が、俺の鼻のすぐ先まで来ていた。

───それでも、最後まで走り切る覚悟は出来ている。

直後、黒服の腕が吹っ飛んだ。握られていた短刀が宙を舞う。刹那。黒服の視線が飛んだ自身の腕に向いた瞬間、その頭を全力で蹴り飛ばす。鮮血、衝撃、頭蓋がビキビキと響く音。吹っ飛んだ黒服の体は、壁にぶつかったまま力無く跳ねている。空気が変わるのは一瞬だ。刺客達の足が、一気に止まるのがわかる。

だが、その"動揺"は僅かな隙を生む。

刺客達が気づく頃には俺の体は彼らの横を通り過ぎ、後方の槍持ちに飛びかかっている。その右手には、直前に掠め取った一閃の短刀。黒服が持っていた物だ。勢いのまま双方倒れ込む。一瞬、槍持ちの左手が微かに光を反射する。───暗器か。咄嗟にうつ伏せた状態のまま体をねじり、地面を弾いた。槍持ちの反撃。首元を狙った、鋭い刺突。しかしその一撃を食らわせるべき相手は、既に少し上空で回転している。そのまま回転の勢いを乗せて短刀を槍持ちの首元にぶっ刺し、槍を奪いながら後方に飛び退いた。奪った槍を肩にかけ、奴らを下から睨みつける。

「時間無ェから、手早く済ますぞ」
「……コイツ……!」


流れのまま2人仕留められたのは大きい。だが互いに体勢を整え直した今、同じように複数人殺るのは簡単なことでは無いだろう。シアン・スーツが装備している武器の弾数は限られている。あまり消費しないで行きたいのが本音だ。そして何よりも、この戦闘は監視されている。なるべく手の内は明かしたくない。槍の切っ先を向け、構えた。

 
「無闇に突っ込むと返り討ちにあうだけだ。フォーメーションを整えろ。複数方向から攻めるぞ」
「………やってみろよ」

────前屈し、前脚に体重を掛ける。今度はこっちから攻める番だ。

奴らが動く寸前、駆け出した。まずは先手を取る。刺客達が一斉に動き、俺を取り囲むように旋回していくのを視界に捉える。誰かが囮になった所を詰める気だろう。いいだろう、乗ってやるよ。脚の筋肉を回し、更に世界は加速していく。俺が駆け上がるその先。延長線上には、ライオットシールドを構えた軍服が立ち聳えている。まだ加速しろ。一切の躊躇無しに向かう俺を見て、軍服の目付きが変わった。何が何でも受け止めてやる。そういった気迫をヒシヒシと感じる目だ。

「──来いよ」


槍の切っ先はしっかりと軍服を捉えている。周囲の奴らが援護の構えを取ったのを視界の端に掠めた。矛対盾。瞬間、2人の間にその構図が完璧に完成している。

狙い通り。

腕を急激に曲げて槍の切っ先を変え、別方向へ投げつけた。その先には中華系統の服を着た、素手のスキンヘッド。咄嗟に受け止めるも、油断していたその体勢は大きく崩れる。好機。切り返しつつ左腕に組み込んでおいた煙幕 スモークグレネードを発射する。少しの間だけだが、これで一対一のタイマンに持ち込んだ。地面を蹴る。勢いのまま、両脚を向けて突っ込んだ。ドロップキック。受け止めきれなかったスキンヘッドは、当然の如く数メートル奥の壁に突っ込んでいる。

瞬間、右脚に微かな損傷反応。見れば、シアン・スーツの右脚が1発の銃弾を受け止めている。この煙幕の中当ててくるとはさすが財団のエージェント、中々に鬱陶しい。早急に1人潰す為、一気に距離を詰める。続け様に銃弾が2発飛んでくるが、それでも俺の脚が止まる事はない。立ち上がったスキンヘッドの後ろに回り込み、その背中に右の拳をコツンと当てた。

背骨が砕ける音。微かに腕に伝わる反動。

瞬きをした次の瞬間には、スキンヘッドの体は弾丸のように吹き飛んでいる。

スチームナックル。いや、或いは暗にゼロインチハンマーと言った方が伝わるかもしれない。そもそも、GOCが保有する戦闘強化服 ホワイト・スーツが持つ戦闘力、殲滅力は誰が見ても疑いようが無い物だ。だがそれでも少なからず弱点はある。その明確な一つとしては、ずばり『デカい』事。デカい。ひたすらにデカいのである。GOCの努力の賜物により時代と共に小型化は進んでいるものの、それでも小回りは利きづらいのが現状だ。スチームナックルは、そんなホワイト・スーツの『小回りの利かなさ』を多少なりともカバーしてくれる兵装である。

特筆すべきはその取り回しの容易さ。セミオートで16発作動可能であり、エネルギーパックが切れた場合は予備パックが自動でリロードされる。生身の人間の脳髄にヒビを入れる有効射程1.5mの衝撃波が、指向性を以て一直線に放たれるのだ。これにより、いついかなる体勢からでも強力な寸拳を炸裂させる事を可能にしているのが当兵装である。
まぁ、それでも本来のホワイト・スーツにおける用途は武装を破られた時の咄嗟の反撃や室内戦におけるドアの迅速な破壊等、あくまでサブウェポンに過ぎない。だが、対人戦 こういう時における強さは正しく反則級と言っていいだろう。有難く使わせてもらう。

「…ハッ、マジで無茶苦茶だな」


軍服の呟きが耳に入ってくる。この煙幕の中でも、バイザーに搭載されたVERITASは迫る敵の姿をしっかりと捕捉していた。一瞬の静寂。直後、背後に迫るハンマー持ちの黒服に回し蹴りの不意打ちをお見舞いする。白兵戦特化部隊を舐めてもらっちゃ困る。

シアン・スーツの人工筋による威力増強が上乗せされた、渾身の一撃。当然食らえば只では済まなそうだし、実際目の前の光景を見る限り只で済んでない。崩れ落ちる黒服の頭を踏み抜き、今一度辺りを見渡した。こうなったらもう瓦解はすぐそこだ。間髪を入れずに走り出す。

一人目。煙幕の及んでない場所へ退こうとした短刀持ちの丸眼鏡に飛びかかる。煙幕で視認状況が悪い中、シアン・スーツによる水平方向への瞬発 ギャロップに反応できる者は少ない。丸眼鏡が咄嗟に反撃の姿勢を取るも、惜しい。既に俺の右拳が触れている。

二人目。先程から鬱陶しい援護射撃、その主へとそこらに転がっている黒服を投げつけた。が、宙を迫り来る肉壁は横に飛び退いて回避され、詰めようとする俺を盾持ちの軍服が阻む。一歩引いて軽くステップを踏んだ。さて、こういう相手をどう崩すか。その答えは既に出ている。ステップを踏んだ状態から唐突に動き出せば、軍服は合わせて盾を構えて突っ込んできた。シールドバッシュ。それを待っていた。シールドが当たる寸前、軸足と反対の足を遠心力に任せて回し身体を回転させる。ロールターン。慣れた動きである。突進を受け流して俺と軍服が横並びになった瞬間、回転を加速させて全力で裏拳を放つ。が、既に軍服は盾から腕を離していた。裏拳が止まる。両腕で完璧にガードを決めた軍服がニヤリと笑った。当然である。この状況、普通なら反撃は必至だろう。

だが、俺には2発目がある

スチームナックルによる寸勁がガードの上から直撃した軍服は、割れた風船のように飛んでいった。

三人目。後ろから迫りくる強化脚 サイボーグの反対方向、銃手の元へ全力で詰め寄る。銃手の射撃は俺が奪い取ったライオットシールドに阻まれて届かない。この局面で隙を晒した代償は大きい。そのまま顔面に一発喰らわせれば、銃手の身体はあっけなく地に落ちた。

「ラスト一人……」

振り返った俺の視線のその先。紅く汚れた真っ白い廊下に、ビジネススーツを纏う強化脚が一人立ち構えている。無表情、その冷徹な視線には、人を殺めた地獄行き同士の所作を感じる。右脚に取り付けられた兵装が蒸気と共に「シューッ」というなんとも凶暴な音を立てているのが、少しだけ面白い。

「……もう一度言うぞ。退け」
「……」


無言で構える強化脚を前に、今一度地面を踏み締める。

全身兵装 サイボーグ強化脚 サイボーグ。冷たい緊張が、両者の間を支配している。鳩尾を守るようにして両手を据え、後ろ足を少し浮かせ、構えた。

───気迫。

動き出しはほぼ同時。強化脚の兵装から閃光が走った刹那、俺は拳を放つ予備動作を終えていた。脇を締め、後足を捻る流れのまま腰、腕に伝えていく。強化脚の蹴りが加速する。一方で俺の視界はスローモーションになり、狙いを冷静に定めている。強化脚の一撃が肌を突き刺す寸前、渾身の一発をお見舞いする。


……日本拳法の十八番、直突き。この技を十八番たらしめている要素は主に2つある。最初にその破壊力。前拳だけで相手を倒す意識で放たれる一発は、然るべき部位に当てるだけで勝敗を決する威力を持っている。そして何よりも強力なのが、蹴りなど意に介さない、圧倒的な、

"疾さ"。

粉砕。鮮血と折れた歯が、火花のように宙を舞う。

「……っぱ、俺にはCQCよりも日本拳法 こっちの方が肌に合うわ」


拳についた返り血を払いながら、ゆっくりと出口の方へ振り返った。

:

殺した刺客達の遺体を軽く物色する。武器として有用な物は無いか、何かパスキーのような物は無いか。急ぎの場なのでだいぶ雑になったが、成果物と言えば、何処に使えるかがよくわからない、恐らく何かの鍵であるカードが一枚。あと、何かしらの超常技術で威力が強化されている事を除けば一切が普通のライフル。それくらいだった。

後は、必ずと言っていいほど出てきたキーホルダー、写真、指輪。本当に、それくらいだった。

ライフルを腰に掛け、念の為カメラをぶっ壊す。収納用ポケットから出した小さな立方体の銀紙を剥がし、床に捨てて、バイザーを開けて茶色い本体を口に放り込む。さて、急ごう。あまり時間はかけていられないんだ。まだ物色していない、最後の一人。ライオットシールドの軍服の死体を手早く漁る。小さな女児が写った写真を放り捨てて内部ポケットの中を探れば、おそらく支給された物であろう携帯用端末が一つ床に転がった。

少しだけ頭の痛みを覚える。立ち上がり、端末の電源を押した。目に優しくない光を放ちながら起動した画面を横目に、軍服の頭を掴んでカメラに写す。顔認識のロックは、驚くほど呆気なく解けた。
シアン・スーツを着込んだゴツい男が、走りながら端末の画面を忙しなくスワイプしている絵面は正直少し面白い。だが今はそんな事言ってる場合じゃないのだ。何か有益な情報は無いか。バイザーに搭載された情報管理コンピュータをフル活用しながら高速で情報を流し見る。特殊エージェント宛業務連絡メール。SNS管理班用要注意リスト。対要注意団体用護身武器配給について。どれもいらない情報ばかりだ。防護壁を蹴り壊し、端末を片手にフロアを駆け抜ける。床を壊すのは先程の前例からやめておいた。下手に戦闘をするくらいなら周り込んだ方が早い。スワイプする手は止まない。特殊状況下緊急連絡アプリケーション。サイト避難経路立体マップ。────これは使える。バイザーに画面を読み込ませ、情報をシアン・スーツにダウンロードする。ホワイト・スーツから受け継がれたこの機能は、情報戦において時に武装よりも絶大な効力を発揮するのだ。

フロアを赤く照らす警報灯と共に、気配が空気を揺らして伝わってくる。もう新手が来たのか。漂う静寂が耳鳴りのように張り付いているこの場では、足音もよく響く。大きさからしてかなりの多人数だろう。このまま人海戦術で削られる訳にはいかない。どうせこいつらも捨て駒だ。できれば穏便に逃げ果せたい所だ、が。端末をちらと見る。……限界まで情報は引き出したい。収容棟が近くなっていくにつれ、情報漏洩防止のために超常技術を応用した特殊な電波信号以外は全て遮断するシステムが組み込まれている事は既に知っているのだ。仕方なく曲がり道を右折し、少しだけ周り道をした。その傍らで端末の情報を流していく。食堂改装のお知らせ、ミームエージェント開発部門特別任務概要、認識災害対処演習日付変更連絡。マジでロクなのねぇな。足音は更に大きく、近く、こちらに迫っていく。これ以上は無理か。諦めて端末を投げ捨てる事が頭によぎった瞬間、視界に一つの情報が飛び込んできた。

────クリアランスレベル3用:最近収容された異常存在の基礎情報と収容手順記録。

これだ。目を見開いてファイルを押した。周囲の通路を防護壁が塞いでいく。人影が複数個向こうの曲がり角から走ってくるのにも気にせず、俺は食い入るようにその情報を眺めていた。直近の異常存在。SCP-████-JP。由来不明の肉塊で構成されたSCiPであり、休眠状態と見られる所を発見、収容。その内部には成人男性の身体のような物が確認できる。現在はその危険度から"高脅威度異常存在収容チャンバー024番"に収容済……。

俺のバイザーに表示されたマップと合わせて、頭の中で全てが繋がっていく。その収容チャンバー024とやらの場所を確認。地下12階か。マップを見るに吹き抜けに飛び込めば時短できるな。そこにオギノが、オギノがいる。逢える。逢って、ぶっ殺せる。集中力が極限まで高まっていくのを感じたのも束の間、持っていた端末が音を立てて弾け飛んだ。

振り向けば、俺の後方の廊下に所狭しと黒づくめが犇めいている。少なくとも20人はいるだろう。

「侵入者確認」


背中に背負われたライオットシールド。最前列の5人が、それを前方に構える。この感じ、俺がライオットシールドを受けずに避けたのを見られてたな。

「押し潰せッ!!」


盾を構え、黒づくめ達が一斉に隊列を組んでこちらへと向かってきた。退路は防護壁に塞がれている。オギノはすぐそこにいるんだ。出し惜しみはしない。もう止まらない。脚を引き、両腕の武装を展開し、構えた。

「悪ぃけど、今忙しいんだよ」

銃声。シールドを容易に砕く威力の殺意の雨が、廊下に激しく吹き荒れる。

廊下を埋める鮮血の赤色。それは俺の中に渦巻いて止まらない衝動に黒く流されて、俺の目に届く事は無かった。

.05


夢を見た事がある。

辺りを満たす、真っ暗な闇。その中に俺は一人立っていた。何をすればいいのかも分からず、只々暗闇を歩く。夢だからかまるで身体の実態がある感じがしない。まるで亡霊になったみたいだ。そんな事をぼんやりと思いながら周囲を見渡せば、誰かの気配を不意に捉えた。

小さな人影。泥まみれのスニーカーを履きながら、皺のついたTシャツを着ながら、擦りむいた傷に絆創膏を貼りながら、とぼとぼ歩いている、一人の少年。俺だ。幼少期の俺が、ここにいる。俺は驚きを隠せず、咄嗟に駆け寄った。少年が顔を上げる。過去と現在、俺自身と2人目が合った。少年の目はあまりにも弱い、まだ何も知らない淡い輝きを放っている。少しはにかんだ少年の顔は、今の俺と何も連続性を結ばないかの様に思えた。時間は平等で、有限で、残酷である。でもまだその事をこの少年は知らない。何も知らなかったんだ。そうして途轍もない不快感に、また、目が覚める。

──────あれから何処をどう走ってきたのか、自分でも分からない。

頭がズキズキと痛む。それでも脚の筋肉を動かして地面を蹴り、渾身の飛び蹴りをお見舞いする。肉が削れる音が、静寂を上塗りしていく。あと1人。そこらに転がっている死体の上を駆け、脚が折れて動けなくなっている職員の頭部目掛けて、全力で拳を振るった。

AM4:20。収容棟、地下十二階。

ここまで辿り着くまで、かなりの苦労をした。財団の堅牢さを決して舐めていたわけじゃない。それでも、単身財団に乗り込むという行為は、あまりに多勢に無勢だった。切る羽目になった手札の数は計り知れない。スチームナックル。忍者特製煙幕。ERS。圧縮発射式電撃弾。小型レーザー。フルオート式強化散弾銃。他諸々。切り札として用意していた「電気を媒介に感染する電子ウイルス」も既に使ってしまった。というか使わなかったらここまで来れてない。荒れた息を整える。一度深く深呼吸して、歩き出した。

死体の転がる廊下をひたすらに歩く。こいつらは全員、俺が殺してきた奴らだ。理不尽だろう。突然襲い掛かってきた災厄に轢き殺された彼らに罪は無い。彼らは最後まで自分の使命に忠実で、愚直だった。その様が空っぽな俺の脳裏にこびりつく。俺には使命なんてない。最初っから罰を受けるべきなのは、俺一人だ。

だが、それでも俺は止まれない。止まらない。何故か。俺はまだその解答を持ち合わせていない。人は論理とかけ離れた矛盾を抱く事を感情と言った。でもこれは本当に俺の感情なのだろうか。通路を携帯型遮蔽展開ユニットで塞ぐ。もっと、もっと何か、大きな物が俺を突き動かしている気さえもしてくるのだ。俺が今も「衝動」としか形容できないそれの正体が掴めないまま、全ては終わりへと向かっていた。いや、それで良かったのかもしれない。例え荒波の如く暴れる衝動の中身を暴いた所で、その中にはまた薄暗い虚無が広がっているだけなのかもしれない。考えれば考える程に解答は俺の手から滑り落ち、掬い上げる事は困難になっていた。

サイト全体から騒がしい気配を感じる。増援だろうか。しかしにしては違和感がある。まぁ何にせよ、俺に残された時間が少ないのは明白だ。サイトのやけに高い天井を眺めながら、「←高脅威度異常存在収容チャンバー」と書かれた看板を見つける。もうそろそろ近いな。そう思いながら、ふとその看板に触れる。すると、

「動くな」

 
声をかけられた。
……気づいていた。ずっと気づいていたが、敢えて無視してきた。俺のすぐ横、一丁の銃を俺の頭に向けて構えている、白衣の職員。だがその脚は痙攣したように震え、銃の照準は定まらず、顔には恐怖の表情を浮かべている。そもそも、持っているその銃を俺に撃ったところでシアン・スーツに効くはずが無い。俺の脅威には一切成り得ない。このまま死体のフリをしていれば見逃していた。それは、白衣も既にわかっている事だろう。

それでもこいつは立ち上がる事を選んだ。

無言のまま歩き出す。「動くなと言っているんだ!!」と震えた声で叫ぶ白衣を無視しながらバイザーの充電を確認した。……もうじき切れるな。そう思った瞬間、銃声がフロアに一発。白衣が撃った物だ。震える手を必死に動かしながら決死の思いで放ったのであろうその一発は、俺の頭から大きく外れ、腰の辺りにコツンと弾かれた。気に留めず歩く。すると、今度は白衣が荒い息を剥き出しにしながら走り出してきた。

「待てよ…動くなって……言ってんだろッ……!!」


俺を掴みかかろうとする腕を軽く弾けば、白衣の体は簡単に吹っ飛んだ。それでも白衣はまた起き上がる。でもこいつにできる事は無い。その無力さに俺が想起したのは、他ならぬかつての変貌したオギノを前にした俺自身だった。あの時、俺は何も出来なかった。スダリを見殺しにしておきながら、俺自身は死に損なった。俺は今死に場所を探しているのかもしれない。死ぬ大義名分を探しているのかもしれない。白衣が血を吐きながら、床に這いつくばりながら、必死に叫ぶ。

「お前は……お前は何なんだ!!何のためにこんな事してんだよ!!なぁ!!なんか答えろよ!!」


そのヤケクソとも言える叫びに、俺は自分が納得できる反芻を答えられなかった。口を開き、何か言おうとして、また閉じる。やめてくれよ。心から思う。これ以上その誇り高い様を俺に見せつけないでくれ。自分の中に明確な答えを持っている事を押し付けないでくれ。頼むから、目の前から消えてくれないか。白衣に近づいていく。瞬間、視界が真っ暗になる。バイザーの充電が完全に切れたのだ。コンピュータを内蔵したバイザーは充電が切れると重くて使い物にならなくなってしまう。困惑している白衣を前にして、バイザーを脱いだ。

初めて敵に晒す、俺の素顔。まぁだから何が変わるわけでも無い。俺がやる事は変わらない。白衣と目が合う。

……俺は見た。見逃さなかった。白衣の顔。

その顔には、驚愕と共に、小さな、小さな憐れみの色が、確かに滲んでいた。

俺は今、一体どんな表情をしているのだろう。

白衣が何か言おうと口を開く。その瞬間の事だった。

轟音。

天地がひっくり返ったような揺れが二人を包む。バランスを崩し、思わず壁にもたれ掛かった。蛍光灯が一斉に消え、薄暗い闇が辺りに満ちる。何だ?停電か?いや、財団のサイトでそんな事起こる筈がない。先程まで騒がしい気配が漏れ出していたバリケードの向こう側には、不気味なまでの静寂が広がっていた。再度サイトが揺れる。いや今度は揺れってレベルじゃない。何かが崩壊した、そんな衝撃だ。横をみれば白衣が起き上がれずに転がっている。異様な空気感。何かがおかしい。何が起こったんだ?咄嗟にあらゆる可能性を考える。その中で最も陳腐で、最も単純で、最も簡単に思いつく可能性が、じわじわと確信へと変わってく。

"収容違反"。

次の瞬間、白衣の胸ポケットが震える。咄嗟に胸から奪い取って見れば、中に入っていた端末は以下のような内容を繰り返し垂れ流していた。

『緊迫事態。緊迫事態。収容違反が発生しました。このサイトは直ちに封鎖されます。現場にいる職員は自身のクリアランスレベルに合わせ、適切な避難を行って下さい。繰り返します。緊迫事態。緊迫事───』


無機質な機械音声がノイズを吐いて途絶えるのを眺めながら、俺と白衣は顔を見合わせている。いや、正確には、二人の間の空間にある「空気」が確実に何処かへと流れていくのを、互いに目で追っていた。体の奥底にある魂が直接引き込まれていくような感覚。この感覚は、過去に一度だけ味わったことがある。異常が異常を塗り潰し、喰らい合い、現実がひび割れる。その予兆だ。何が起こったかの把握なんて碌に出来たもんじゃ無いが、これだけはわかる。ヤバい。
どうする、あまりにも不測の事態が過ぎるぞ。まずは地下12階から脱出するべきか、しかし下手に動いたらそのまま異常に飲み込まれて死ぬのは分かりきっている、ならばどうすんのが正解か。思考がパンクしそうになる。落ち着け、まずは俺が何よりもしなきゃいけない事を見極めろ。何よりも、何よりも大事な事──────。

───────オギノ。

気づけば走り出していた。白衣が後方で何か叫んでいるが、その内容は届かない。ブレるな。何のためにここまで突き進んできたと思ってるんだよ。無機質な廊下を駆け抜け、収容チャンバーの出入口へと急ぐ。俺の本懐はまだ達成なんてされてない。最悪の事態になる前に、力の限り足掻くんだ。シアン・スーツの固い足音が響く。動作の停止した防護装置を通過する。分かれ道。どちらへ向かうべきか。焦燥感に侵食された俺の頭は、上手く働いてくれはしない。とりあえず防護壁はぶっ壊そう。短絡的な考えのままに蹴りの構えを取る。崩れる瓦礫。雪崩れ込むように駆け抜けた。

その先には、白衣が先程と同じように這いつくばっている。

思わず足が止まり、思考がストップする。どういう事だ?一周してきたのか?いやそんな事はあり得ない。そもそもサイトの構造からして起こり得ない筈だ。冷たい汗がじわりと背中を刺す。厄介な事になったぞ。これはつまり、既に異常存在の影響下に入っているという事に他ならない。

「何が……起きている……?」


白衣が呟く。その発言には全面的に同意だが、ごちゃごちゃ言わないで何か行動しなければこの状況は打開できないのも事実だ。周囲を調べようとした、次の瞬間だった。

違和感。

思わず振り向く。俺達の奥、廊下の曲がり角に、何かがいる。

武装のロックを解除し、無言で廊下の奥先を睨みつける。現場で何度も味わってきた、理の外にいる存在の気配。収容違反が起きたこのサイトは、只の異常存在の巣窟と化している。それはわかってた事だが、もう来たか。薄暗い闇を凝視し、思考をフル回転させる。シアン・スーツを着てる以上まず問題なく対処できるとは思うが、定石と常識に囚われるのは危険すぎる。なによりも今はバイザーが無い。初見殺しを喰らうと普通に死ねる状況だ。シアン・スーツの対応力を最大限に活かして、後出しジャンケンを仕掛けるのが最適解か。

曲がり角の向こうから漂う匂いが鼻をつつく。何かが焦げた様な、少し甘ったるい匂い。見れば、曲がり角の壁が少しだけ焦げている。足音が静かに近づいて来ていた。

「出たか」


曲がり角、その暗闇から現れたのは、頭部が黒い炎で発火した髑髏の様になっている、財団職員の服を着た人型実体である。その周囲には財団の職員やエージェントと思われる遺体が、首無しの状態で磔の様に浮いていた。まるで悪趣味な宗教画の様な光景だ。骸骨野郎はこちらの事を感知している様で、壁に頭を何度も打ち付けながら少しづつこちらへ近づいてくる。おそらくこいつはオギノと同じ、異常存在にやられちまった奴の成れの果てだろう。対処をミスれば俺も同じ様に首無しの状態で磔にされることになる。白衣が呻く。

「……あんな奴、報告書でも見たこと無いぞ……」
「黙れ。巻き添え喰らいたく無かったら下がってろ」


 骸骨野郎の右手が巨大に膨れ上がり、黒炎に燃え上がった。……来る。骸骨野郎がこちらに走り出したのを確認するのと同時に、俺は武装の展開を始めていた。

──── GOCの技術の中でも特筆すべきものとして、邪径技術という物がある。異常にぶつける為の異常、いわゆる魔法や呪術の類に入るような技術達だ。使い手を選んだり効果や条件が限定的だったりで扱いはかなり難しいものの、その理から外れた技術はGOCの"火力"として絶大な貢献をしている。正しく邪径の力だ。

骸骨野郎はもうすぐそこに迫っている。あの様子だと、視界ではなく何か別の物で俺を感知しているようだ。要するに前が見えていない。奴にとって致命的なタイミングを見極めていけ。

……そんな邪径技術のリソースを、全て反動軽減、取り回しの向上に注ぎ込んだ、武骨の到達点。科学技術による脅威を体現した武装がある。

奴の右手が開き、俺を掴もうと迫り来る。その手が俺に届く寸前、引き金を引いた。

対脅威存在用邪径搭載型重機関銃・乙式。

最も強力で、シンプルな、

暴力そのもの、と言って差し支え無いだろう。


マズルフラッシュが視界を覆ったのと、凶暴な銃声がフロアに響いたのと、骸骨野郎の右手が弾け飛んだのはほぼ同時だった。邪径技術で抑えられているとはいえかなりの反動。必死で照準を抑え込む。専用の強化弾を用いた乱射の破壊力は、個人単位で出すには余りある高さだ。ところで当武装があまり知られていない理由は3つある。1つ目はその破壊力以外の全てをかなぐり捨てた性能。隠密性、展開時間等のリスクを考えると、どうしても使える場面は限られるため出番が少ない。2つ目は搭載されている装備の少なさ。収納にも特殊な邪径技術を組み込むため、ホワイト・スーツの中でもかなりのマニアックな選択肢であるのがこの武器である。そして3つ目。

その殲滅力が高すぎて、姿を見せる秒数が少なすぎる事だ。


俺が撃ち止めたのは射撃開始から数秒も経っていないタイミングだろう。しかしそれでも目の前の異常存在は、充分すぎる程に、物言わぬ肉塊と化していた。この武装は、本来オギノを殺すために取っておくつもりだった切り札だ。が、会う前に死んだら元も子もないのでまぁ致し方なかったと言えるだろう。出し惜しみなんてしてる余裕はこれっぽっちも無いのだ。

通路には、再び静寂が木霊している。

「……流石世界オカルト連合。これくらいなら訳無いって事……ですか」


力無く呟いた白衣に顔を向け、そこで漸く気づく。白衣の脇腹に空いた穴から、真っ赤な血が絶え間なく流れていた。……一目で悟る。こいつは、もうじき死ぬ。恐らく、初めからずっと穴が空いた状態で行動していたのだろう。見慣れた口径。抉る様な傷。こいつを殺したのは異常存在なんかじゃ無い。俺だ。

「……ははっ、自分で殺しておいて、どんな顔してこっち見てるんですか」


白衣が俺に笑いかける。己の死を悟った、全てを諦めた力無い声が、俺の耳にこびりつく。何も言わない俺を前にして、白衣は続けた。

「……最後に、もう一回聞いていいですか。あんた、何のためにこんな事してるんです?答えて下さいよ」


白衣の目を見る。その目は、まだ気高い輝きを失っていなかった。このまま無言で殺されても構わない、確かな覚悟を感じる目だった。オギノの為にあれだけ躊躇なく人を殺してきたのに、こういう時に目の前の死にかけの男を無視する事ができない俺の事を、誰が咎められると言うのだろう。気づけば口が開いていた。


「……親友だったんだよ。ずっと隣で戦ってきた相棒だった。そいつが異常に呑まれて肉塊の化物になった時に、俺は何もできなかった。そいつが財団に捕まった時もだ。だから俺は今ここにいる。それだけだ」


そう。本当に、それだけなんだ。自分に言い聞かせるように吐き捨てた。白衣が少し驚いたような顔をした後、笑顔とも怒りとも取れない顔をして、俺の顔を見る。数秒の沈黙。ニヤリと笑った後、白衣は言った。

「……どうせなら、思いっきり嘲笑って死んでやろうと思ってたんですけどね」

「その肉塊の化物ってやつ、俺の担当SCiPですよ」

◇◈◇◈◇

演目はそろそろ終わりかけている。

そろそろ聞き飽きてきた冷たい足音を響かせながら、俺は現実ごと崩れゆくサイト、その地下通路をひたすらに駆けていた。時に通路の端々が歪み、時に血で描かれた大変風光明媚なクソカルト落書きが壁にこびりつき、時に空間ごと断絶しているとしか形容できない漆黒が道を塞ぐ。視界情報的には全く持って退屈しない環境だ。本当に嬉しくない。

あの後、白衣から現在のオギノについての情報が入ったデータを手渡された。その中でも、特に有用だと感じた情報をここに仔細する事にする。

まずはその肉塊について。前に相対した時は正しく無限かの如く溢れ出していた肉塊だが、財団による実験の結果、何やら生み出せる肉塊の質量には限度があるらしい事が判明した。まぁ、聞いた限りそれでも膨大な質量ではあるのだが。取りあえず肉塊でサイトは疎か日本が覆われるような事態はまず無いという事だ。

次に呑み込まれたオギノの肉体について。オギノの肉体は完全にそれ自体が異常存在と化している為、「引き剥がす」ような事は完全に不可能であるらしい。しかし肉体が完全に消滅している訳でもなく、オギノの「核」として肉塊の中に残り続けているそうだ。思い返せば、あの時オギノの頬にカダラシが開けた穴は再生してはいなかった。つまり、狙うとしたらオギノ本体である事は間違いないだろう。

また、オギノは常に流動的に動き続けていて、その知性がどこまであるかはまだわからないらしい。収容時は何で周囲の物体を感知しているのか等の法則性も一切の不明のままだ。その状態で常に暴れまわっている為、「予測不可能」という意味もあってあんな厳重に収容されていたようだ。だが裏を返せば、核であるオギノの肉体を重点的に守るような事もしていないという事。これは俺にとっていい方向に作用する。

見境なく暴れ回る肉塊の化物。だがその肉塊を生成する質量には限界がある。つまり、流動的に動き回る中で確実にオギノ本体への守りが薄くなる瞬間がある筈だ。その瞬間に、正確に肉体の心臓部へ鉛玉をブチ込めば、

理論上、オギノは一撃で殺せる。という事だ。

あちらこちらから聞こえてくる騒乱の音は時間と共に激しく、おかしくなっている。まずはオギノを見つけなければならない。間に合うか?焦りがジワジワと頭を支配する。異常が異常を呑み込み、喰らい合い、空間が、時間が、音を立てて崩壊していく。現実崩壊。起これば、確実に全てが終わってしまう。せめてその前に、俺の手でオギノを殺すんだ。

別れ際、白衣は言った。「このサイトには現実に干渉する輩も多くいます。この終わったサイトで、せいぜい足掻いてみて下さいよ。そうしないと、殺された俺らが報われないですから」と。

「では、地獄で」

────狭苦しい通路が開け、同時に足が止まる。
俺の視界の先、収容違反の爆心地。おそらく空間が膨張しているのであろう広大な空間が、地下のサイトに広がっていた。歪んだ瓦礫やフロアが入り組み、そこら中に意味不明な異常存在、異常現象が渦巻くこの場所は、まるでかつて遊んでいたRPGの地下遺跡 アビスのようだった。正しく混沌が、目の前に広がっている。

「……クソッ、手遅れか」


こうなると現実崩壊はもう確定で起こると考えたほうが良いだろう。まだ頭が追いつくだけマシな方である。このサイトの現実が崩壊すれば、中にいるオブジェクトも人間も全員終わりを迎えるだろう。勿論、オギノも。

でも俺はそれを了承しない。了承できない。それだけは受け入れられないのだ。何故か。その理由を考えている暇なんて、今はもうない。現実が完全に終わる、それまでがタイムリミット。

上等だ。

背中のユニットを展開し、噴出される衝撃波に任せて思いっ切り跳躍する。目につく異常存在をいちいち排撃している時間も余裕も無い。オギノを探せ。着地に失敗し、地面をゴロゴロと崩れ落ちる。問題なし。状況確認だ。周囲を見渡せば、波打つ地面から濁った水が吹き出し、渦巻きながら形を変えていく。もう出たか。さながら海坊主のような巨大な化物が俺の前に立ち聳えた瞬間、シアン・スーツの両脚の武装を起動する。

「邪魔してんじゃねぇよ」


瞬発。両脚に装備されている脚力促進兵装 ブースターによる空中機動タックル。そのタックルは海坊主の体を貫き、勢いのまま向こうの瓦礫を粉砕する。ホワイト・スーツよりも武装が積みにくい分肉弾戦に特化したシアン・スーツは、機動力という面では最強を誇るかもしれない。綺麗に受け身を取って走り出せば、何かが俺の右脚を掴んだ感覚を覚える。その直後、俺の体は宙に浮き、上下は逆転していた。咄嗟の事に理解が遅れる。見ると、全身が金属製のスプーンで構成された巨大なプテラノドンが、その足で俺をガッチリと掴みながら混沌の空間を飛翔していた。

「………そう簡単には行かないか」


呟きながら全力で爆弾を投げつければ、爆弾はプテラノドン、その右翼へと突き刺さる。この爆弾は俺がサイトに突入する時も使用した小型遠隔起動式爆弾だ。一切の迷いなく起動する。閃光。強烈な爆風と共にプテラノドンの体は爆散し、スプーンによる銀色の雨と共に重力が俺を地へと叩き潰す。落下してばっかりだな、と呆れた笑いが口から零れた次の瞬間には、衝撃が俺の身体を劈いている。内臓がガクガクと揺れ、思わず顔を顰めた。

それでも必死に体勢を立て直そうと手をついた瞬間、視界が大きく傾く。倒れた、いや、地面自体が動いている。そう気付いた直後には、俺の体は地面と平行の向きに吹っ飛んでいる。これじゃあ埒が明かねぇ。そう思いながら受け身を取って顔を上げれば、全身を余裕で覆う程の大きな地盤が、漆黒の壁となって眼前に迫っていた。

 ────損傷反応をガン無視して、地盤を砕き割る。

頭部からドロついた血が垂れるのには気づかないフリをしておく。オギノ。オギノを見つけなければ。痛みを強引に目的で上塗りして地面を踏み締める。装備したERSを乱射しながら、混沌の波に飛び込んだ。発狂しながら酸をばらまくテディベア。周囲に「海岸」の空間を発生させる褪せた長靴。人の腕が中から突き出ている、巨大な虫の卵。鉛玉で破壊できるなら簡単だ。冷静に、しかし迅速に処理しながら駆け抜けていく。大丈夫だ、まだ俺は大丈夫。出くわした人型機械実体にも、しっかりと脳天に一撃ブチ抜いた後、電撃弾を撃ち込んだ。物質が砂糖に置換されていく謎の現象は、周囲の物ごと全部焼き払う事でなんとか鎮圧した。

体には、確実に限界が来ている。

視界が少しだけ薄ら暗くなる。流石に失血は無かったことにはできないのだ。そうしてふらついた瞬間に、俺のは体は呆気なく壁に激突している。クソが。咄嗟に目の前の何かを殴り飛ばそうとするものの、そこには何も居ない。上下の感覚が狂う。天地が逆転し、ぐちゃぐちゃになりながら回転する。ここがどこかもわからない混沌の中で獣のようにに脚を回しながら、衝動の限り叫んだ。

「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ!!!!」

……運命とは、実に悪戯な物だと思う。
喉を使い潰すように叫んだ瞬間、口から吐き散らかされた血反吐を眺めた瞬間、俺の視界の端の端、瓦礫の海のその頂に、ふと何かが写った。

はっとして視界を合わせる。全てを飲み込むような得体のしれない肉塊。その巨大な全体像は、このフロアを飲み込みそうな程だ。流動的、しかし不規則に周囲の瓦礫、異常存在、全てを破壊し、飲み込み、暴れ狂う。その化け物の、まるでバラバラの福笑いのように貼り付けられた、巨大な2つの目。 

片方だけ、翡翠色に濁っている。

────オギノだ。

オギノだ。オギノが、ここにいる。ここにいるんだ。あれだけ駆け回った先に、返り血を浴びた先に、ようやく見つけた。その肉塊の姿からは、人間だった面影なんてまるで残っちゃいない。寒気のように冷たい何かが全身の肌を刺激する。薄らぼやけていた世界が再び速度を取り戻し、破壊された屋上から降り注ぐ雨粒、その一滴さえ鮮明に見える。殺す。殺すことができる。俺を認識した肉塊の触手が俺を捉えたのと同時に、俺は手を伸ばしていた。

だが、運命とは悪戯な物だと、やはり俺は思う。

オギノの体から、白い閃光が走る。

「え」

いや、オギノの体だけじゃない。壁が、空が、空間が、白い閃光を出してひび割れていく。踏み締めている筈だった地面の感覚が無くなり、魂だけが吸い込まれいくような感覚が全身を包む。

現実崩壊。

なんで、なんでこんなタイミングで。必死に手足をバタつかせて何かを手繰り寄せようとするも周囲は白く崩れていく。混沌に塗れていた世界が、今度は純白の白に置き換わっていく。ここから先はもう予測なんて不可能だ。俺には、何もすることができない。結局何もできないまま、指を咥えているだけなのか。必死に叫んでもその声は俺自身に届かない。ジェットコースターのような、破滅的な浮遊感。無力感。絶望感。全てに嘲笑われる感覚を覚えながら、俺の意識は途切れた────。

こんな時、オギノは、どうしていたのだろうか。

真っ黒い暗闇。その渦の中、俺は一人立っている。どこか安心感を感じる様な、底のない烏羽色。立ち尽くしながら遠くをぼんやりと見る中、俺は一人の少年が歩いてきた事に気づく。擦りむいた傷に絆創膏を貼って、とぼとぼと歩いている少年。子供の頃の俺だ。思わず駆け寄った俺を見て、まだ世界を知らない少年は、静かにはにかんだ。

これは前に見た、なんて事の無い夢。その光景だ。だが、これには続きがある。

少年は少しはにかんだ後、俺を一瞥して、反対側へと歩き出した。その事に、俺は少しだけ嬉しさを感じる。そうだ、お前はそれでいいんだ。俺みたいな大人に足を取られる必要なんて、お前には無い。そうして歩き出した少年の背中を見守りながら微笑んだ瞬間、暗闇が、突然開けた。

ぱらぱらとリズムを奏でる雨粒の音。湿ったコンクリートが醸す、独特の匂い。霧がかってシルエットだけが浮かんでいる、錆まみれの歩道橋。俺は、ここがかつて俺が毎日のように通り過ぎた、雨の日の通学路だという事に気づく。生温い風が吹き、はっと振り返る。傘もささずに俯きながら歩く俺の後ろ姿に、俺は只、見ることしかできないでいる。

突然、少年の表情が変わったのが、背中越しでも感じられる。明るく走り出した少年。その向こうには、もう一つの人影がある。快活な笑顔を広げた、もう一人の少年だ。それが誰かなんて、ここに語るまでも無い。

「なぁ、覚えているか?」


聞き覚えのある声に振り返る。俺のすぐ隣には、子供の頃から変わらない快活な、でも少し寂しげな微笑みを浮かべた、一人の男が立っている。

オギノだ。

「俺もお前も、色々あって、すっかり変わっちまったよな」


二人の少年を眺めながら、オギノは穏やかな口調で呟いた。もしかしたら雨音に掻き消されてしまいそうな、独り言のような声。雨音と耳鳴りが木霊する中、俺は、何も言えずに立っている。

「でも、それでもお前は、ずっと、ずっと優しかったよ」


オギノが俺に向き直り、柔らかく笑う。その腰には、幾つもの返り血が染み付いたブレードが掛けられている。

「俺はもう人じゃなくなっちまったけど、お前が俺の事を忘れないでいてくれた事が、嬉しかったよ。本当に」


……オギノが纏う、彼特有の、無邪気で屈託の無いその笑顔。俺の心のささくれが消えていくような安心感。俺は、彼の眼の前に立ち、ふと迷子の様に微笑んで、


 「───死ねよ」


 「化け物が」

 そう言いながら、その額に銃口を向けた。

視界が開ける。

意識の回復。それを認識した瞬間、上半身を起こして周囲を確認した。歪む世界。台風の様に空間が暴れる。捻れる。引き伸ばされている。咄嗟に自分の体を見た。シアン・スーツはもうほぼぶっ壊れているが、自分の体はどこも歪んでいない。まだ走れる。だが、周りの状態は。顔を上げる。竜巻の如くバラバラに断絶しながら混ざり合う空間の中心点。台風の目のように暴力的に爆ぜる肉塊が、俺の視界に映った。

同時に、俺の脚は駆け出している。

碌な足場なんて無い。というか周りの状態なんてわかったもんじゃない。だが俺がいて、オギノがまだこの世界に存在している。それだけで走り出す理由としては充分だ。シアン・スーツはもう武装を展開してくれやしない。いつか腰に掛けたライフルを取り出した。弾は切れている。予備の弾数を確認した。──1発。たった1発だ。思わず乾いた笑いが出る。やってやるよ。もう止まらない。止められない。

最初っから、止まる気なんて更々ないんだ。

日光の差し込む談話室を駆け抜ける。硝子に思いっきり突っ込めば、耳に紅い閃光が走った。無問題。片手に持ったライフル。その安全装置を留める。病室のベッドを蹴り飛ばして先に進む。

瞬発。全身のバネを振り絞って跳躍する。風圧が瞼を押さえつける。静寂が広がるパーキングエリアを通過した。スライドストップによって空いた弾倉に銃弾を1発装入する。

着地。体が濡れる感覚。晴天の下に広がる蒼い海に舌打ちしながら、空を吹き荒れるテトラポットに飛び乗った。泥の様な濁った雲に激突する。雲粒が鼻の奥へと流れ込んでいくのを感じる。髪が激しく靡いている。構わず踏み切った。

暗闇が辺りを満たす。蝉の声が響く路地裏に足音を響かせる。三毛猫が嗤っている。口の中に広がる違和感。毒々しい甘味。いつからか口の中に入っていたキャラメルを噛み潰した。唾液が甘く汚染されていく事が、今は心地良い。ストッパーを外した。これでリロードは完了した。後は撃つだけ。右手に力が入る。

右方からの衝撃。損傷反応。口の中を支配していた甘味が鉄の味に変わる。見れば、瓦礫が、思い出が、これまで俺の人生に映ってきた物の全てが、群を成してどこまでも巨大な触手の様に畝り吠えている。錆びた鉄パイプが泣いていた。真っ赤な消火栓が叫んでいた。飲み込まれる。そう思った瞬間には、体は濁流に流されて、途方も無い質量に押しつぶされている。体が思う様に動かない。とっくに俺の身体に纏わりついていた死の気配が、首元まで忍び寄る。

物語は、まだ終わっちゃいない。

最後の出力を振り絞って背中のユニットから衝撃波を噴出し、同時にシアン・スーツを一気に脱ぎ捨てた。重さから解放された体が加速する。世界が加速する。視界が白く開け、解放感が全身を伝う。着地に思いっきり失敗してゴロゴロと転がったが、その勢いを殺さないままどす黒い触手を駆け上がる。痛みなんてこの際どうでもいい話だ。視界の向こう、超新星爆発の様に煌めく怪物は、肉塊まみれの爆風を纏いながら弾けている。その中心。爆風と肉塊の奥の奥。そこに、微かな人の形が見えた。剥き出しの皮膚で混沌を踏み抜ける。全てを捨て去ったその速さは、限界なんてとうに超えている。見えた。触手の先端。俺がこれまで紡いできた全て、その終着点。その先にオギノがいる。全身の細胞、全てが震える。一瞬、呼吸を止める。ERSを思っ切り踏みつけて、俺は宙へと踏み出した。


 
 体が、空へと投げ出される。

 ───あぁ。

 俺は気付く。俺をここまで連れてきた衝動、その正体に。

 俺は、只、許せなかったんだ。

 あれ程異常を憎み、そして異常に成り果て生き腐っているオギノが。

 それを見ている事しか出来なかった俺が。

 翡翠色に濁った眼球が。

 呆気なく死んだスダリが。只1人前に進んでいたカダラシが。

 カッターで俺の背中を切りながら泣き喚く母親が。 
 そんな家族たちだった肉塊が。 
 燃え盛る目をした犬の生首が。 
 やけに甘ったるいメロンパンが。 
 笑うのが下手くそだった後輩が。 
 そんな彼女が撒き散らした脳漿が。 
 天気雨に照らされた鉄塔が。
 平和の為に使い潰されるGOCが。 
 誰かの名前を呼ぶ事も無く散っていった軍服達が。 
 最後の最後まで気高く笑っていた白衣が。 
 

 そんな全てを許して回っているこの世界が。

 全部、全部、許せなくて、許したくなくて、どうしようも無かったんだ。

加速が緩まっていく。俺の目の前には、爆ぜる肉塊、その本体がある。呼吸も光も到達してないこの一瞬に俺とオギノは存在している。初めて二人で帰ったあの日の、まるで世界に二人きりしかいない様な錯覚を思い出す。今度こそ、俺とお前、本当に二人だけだ。口を開けて快活に笑って見せる。オギノが俺にそうした様に。終わりにしよう。照準を合わせた。

体が重力を思い出す迄の刹那。

俺は、震える手で、引き金を引いた。


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