ビッグ“ホレス”その人
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クレフは予定より5分程早く、サイト-17へ到着した。

彼は思わず顔をしかめた。状況は酷いものだ。

腐卵臭と、そこに混じる微かなシンナーの臭い。サイトの外壁はもぬけの殻となっていた。丁寧に施錠されたサイトの窓の隙間からは、ドライアイスのように煙がとめどなく流れ出ており、時折ピンクの光体がまたたいて回廊を通過している。更に、君は最も悪いニュースを授かることになるだろう───チャンバー&27が実在したのだ。

第五教会。クレフは本部の通達より連中の名称が挙げられた時が、最も仕事を辞めようかと苦心した瞬間であるかもしれない。彼が先天的な ミーム対抗を得ているからと知っていて、このようなサイトを訪れさせるという地獄的な処罰を思い付いたのだろうか?

しかし、分からない。もし、もし仮に、第五教会からミームを除外した情報を直視できるとして、一体連中は何が直視されることを望んでいるのか?

何も分からない。

連中は教会ではない。組織ではない。個人ではない。危険ではない。取るに足らない。偽善者でもない。ありとあらゆる思い当たるだけの情報をごった返しにする時のみ、鍋の中の冒涜的な具材たちは自らが第五教会であると見つめ直すのだ。

クレフは溜め息を吐いた。さて、仕事は長くなりそうだ。そう言うのも、これらの惨状に加えて彼の前には異質な男が立っていたからだ。

そいつはパイプを口に咥えた中年の男だ。肌は日に焼けて不健康に浅黒く、頭は禿げかかっていた。黄ばんだポロシャツを着込み、亜麻色のチノパンを履いている。両手の爪までもが酷く黄ばんでおり、一目で何か肝臓病の一種だと判断できる。まるで胡散臭さを擬人化したような身なりだ。

瓦礫の内に置かれた古めかしいラジオから代わりに声が溢れ出た。「ようこそ、旧きカレフハイトの神々よ!」

それで二人の内、どちらか片方の男がこう呟いたらしい。

「うーん、これは意想外だったな」

……………

数分後、クレフはエントランスにいて、男もまたそこにいた。

男が叫んだ。「ようこそ同志よ!嬉しいよ、アンタは斯くして星の輝きへ導かれた」

クレフは一度、そいつが認識できない素振りを見せた。ひょっとしたら。

男は風に溶け込む煙のように、次はクレフの真ん前に現れた。「私にはわかりますぞ! 君は自分を健全だとお思いの人間だろう。しかし、そういった買い被りは止めなさい。私らは元より誰がツケを払うのか存じ上げていましょうね」

クレフは彼のショットガンの残弾に大いに感謝した。「わかった、それなら、お前は何だ?」

クレフは一瞬男が立ち上がったように見えた。

「五番目の枢軸にして、煙の脳髄にも満たない。輩は私を、ビッグ“ホレス”と呼ぶ。タレントと同じようにだ。セレブレーション・ビッグ・アルコン“ホーレス”とね」

男の口角と顎が吊り上げられる。「アンタの由緒を聞かせてもらいましたよ、イットボーイ。君は思わせられるがままに我々のそれに釣られた。しかし事実として私は君から信者と同じやつを感じ取った。そいつはアンタの陳腐なアイデアと同義ではなかろうか?」

「そりゃ違うな」クレフは肩をすくめた。

「これはこれは心地の良い、君は今すぐに臨時政府の掘っ立て小屋を脱する。その上彼らだけの台所の付いた世界を産み落としてしまいそうな勢いだろう。君のような人間を待っていた! 私が知るからには、君は他に多くの名刺を持ち合わせているようだ」

「どうとでも呼べ、クソッたれ」クレフは男を可能な限り視界の隅へと追いやった。

だが……奴の声は既にクレフの背中に張り付けられている。「ジーザス! 兄弟、これはアルコンから授かる供物のようなものですぞ。神聖なる海にして、神をも穿つ! 腐れ落ちたプラタナスのように。何も意義を持たないことよりかは、行儀のよろしいクソだ」

クレフは思わず足早に歩き出した。あの男と話していては、まるで頭がどうかしてしまいそうになる。こう、突発的なものじゃないが……言ってみれば、慢性的にやってくる胃もたれみたいなものだ。

彼はカウンターを素早く通り抜け、2階へと向かった。背後にエレベーターのドアが閉まったことで、奴の拘束を振り切ったことを知った。

数分が経ち、彼は耳栓をつけていた感覚を思い出した。

……………

数分後、クレフは不機嫌な様子でカフェテリアにいた。男もまたそこにいた。

カフェテリアも同様に酷い有り様だった。全てのテーブルがひっくり返され、ところどころタイルまでも引き剥がされていた。スプリンクラーが動作した形跡があり、厨房へ通じる空間は防火シャッターで閉ざされていた。

「待ちかねていましたよ、兄弟! さあさ早いとこお座りなさい。アンタもアンタの席も、とっくに私の狂言を聞かぬに堪えられんでしょうからね」

奇妙なことに、中央のテーブル一つだけ来客を予期していたかのように完璧なセッティングがなされていた。グラス、カトラリー、プレート、全ては第五教的に並べられており(それがどういう状態なのかは私も知らない)、思わずクレフに舌を鳴らさせた。

クレフが話すために口を開くより先に、男は一度鼻をすすって何やら叫び始めた。「ふむ、アンタはともかく、第五教会の浸透意識がどうこうについて聞きたかろう。須くここへ招かれた運命とやらは、完全自由主義でも避けえないものだとも!」

クレフは反射的に断って無視しようと努めたが、男はそれをわざと遮って言った。「よろしい? 今、君は理性に毒されている。そしてこうとも思うだろう。早く目と鼻の先の汚泥を拭い去ってしまいたいと。しかし頭のイカれた科学者の考えるだけ悪疫なのですよ、アルト同志」

これ以上は無駄だ。クレフは黙って席に着いた。

ホレスがまくし立て始める。「これまでアンタら看守よろしく灰色コート野郎共は、道化だか異邦人だかと喚いて長い間私ら教会を排斥していた。しかし元より教会はアンタのがなり立てるクソ共の陳列と同じような輩でない。私ら教義の真髄を知ることこそが、第一の追っ立てとなるでしょうね」

クレフはしばらく無言で話を聞き、適当な言葉を選び始めた。「それならおたくらがフェアにならないだろう」

男はクレフの気を引くために首を振った。「教会は祈るとかはあまりしない方でね。我々はアンタの思う通りの偏見と緩やかなる仲間意識の弛みではあるが、何れの型にも合わない哀しい、哀しい連中なのですよ。して、相応の質疑はあるんでしょうね?」

「わかったよ、ビッグマン。幼い頃から一番気になってたやつがある」
クレフは唯一、単純で原点的な質問を用意していた。
「お前たちは、どうして5である必要があるんだ?」

ホレスの心臓は一瞬の間だけ止まったように思えた。「……ハ!クソッたれクレフ、今のアンタはまさに、死んだフクロウが貪った事実に食らいついたような顔じゃねぇか。そしてアンタは今やフクロウそのものに食らいついている。歓迎するよブラザー、要件はこちらのカードに」

クレフはもう一度、強い口調で質問を繰り返した。
「どうして、お前らは、5なんだ?」

「何も何も、全てが5であらせられる必要はない。私ら含め教会全土は、全ての供物に普遍的な愛を注いでいるからね。第五信徒、クソども、ヴィザードロム、クリティックことレザー・クイーン、サーフサイド州辺縁系市内にお住まいのリスナー、ウィルソン、そしてクソどもその2!」ホレスが右手を広げた時、その指は7本に見えた。一度閉じると5本に戻った。「たとえ常識が常識から彼らの命を排除しようが私は、私だけは最後に愛する者としてガリポリに立つでしょうね。私はアガッペ1の名の元、全てが全ての狂い様は等しくもたらされるべきだと罪の果汁は存じておりますから」

クレフは落胆した。この男には何の価値もないと知った。この詐欺師もまた不条理に捕らわれて、自身が捕らわれていることすら知らない。

男は軽く肩を叩き、そんな様を勇気付けた。「おお、しかし同志よ。あまねく全てに見合うだけの、それも額のあり得るという一般論だとかは、ちょいと傲慢ではありはしませんか? 現世は非情であるが故に、そいつは何の大義も齎しやしませんよ。そこにはもう、何の意味もない」

「なんだ、それならお前たちは皆信徒であるが故に、何者にも不信であれと言いたいのか?」

「結論を急ぐんじゃない。 私たちが手を伸ばす度に、野ウサギは遠くの方にあるでしょうね。まさに頬肉を噛み契ってまで飢えを凌ぐような強かな夜分でしょうが、私たちは未だ、未だにそのような夜を羨んでやまない不届者になるんですよ。教徒にとって見ることは信じることであるように」

ホレスは自分の胸元に手刀を突き立て、懐からアクアリウムの球体の輝きを取り出した。「さあさ同志よ! これがアンタの求めたい史実とやらであることを私は切に星へと願いますよ」

男はそれを投げて寄越した。奇跡的にクレフはキャッチし、ガラス球はクレフに内側を観察させた。内部には黒い靄に包まれた、小さいヒトデのような……いやクモのような……とにかく触手の塊のようなものが揺蕩っている。

「こいつは?」クレフが訊いた。

だ」男が応えた。

「は?──」クレフは思わず手を滑らせ、それを落とした。

彼はガラス片から飛び出したグロテスクな代物が、頭に寄生するところまで予想できた。それには痛みさえ伴ったが……しかし現実ではなかった。ガラス球は床面を転がる彼をただ見つめていた。

クレフは一度大きく息を吐き、左手で目を覆った。「勘弁してくれ、ビッグチーズ」

男は不気味にほくそ笑んだ。「ええ、アンタの浸透意識はもう始まっている。今に私らは罰当たりのありったけを始末しなくちゃならん。星々に至る階段へようこそ。賛同してもらえるかな、兄弟?」

……………

数分後、クレフは不機嫌な様子で回廊にいた。男もまたそこにいた。吊り下げられた下半身のないモノクロの男性の死体が、闇の目の穴を通してクレフを見ていた。

「こちらはこと'79年の友人、クソッたれ売国奴───」奴のパイプからは、古くさいラジオが流れ出ている。「奴が家の扉を叩いた日のことを覚えているよ! 返り血をあびるほど飲み干した兄弟。いずれは皆還ってくるものだ、母の作る温かいスープに招かれて。サンディ、そいつを裏口の方へ追い払ってくれないか。そいつはいずれ私は……?……」

パターンスクリーマー」クレフの手は神経質にもショットガンに触れられていた。「俺はそいつを知っている。死にたくなけりゃいますぐそれを止めろ」

ホレスは何度か無駄な変身を挟み元の男の形へ戻ると、落胆するように深く息を吐いた。「気負いなさいな。血が昇ることは良くないことだ。憎むべき神どもはアンタが健康的であることさえ望んでいなかろうさ。祈りのための健康習慣なんざ止めちまえ。アンタらがまだ人として病める内にはな」

反対の回廊にはピンク色に明滅して駆け巡る光体が見える。磨りガラス越しに朧気に見えるそれは叫んでいた。クレフはそれが何れ自らの前に到達しないことを祈った。

クレフは言った。「わかったわかった。それなら、どうして5なのかについて話を戻してもらおうじゃないか」

「ええ、話を戻りましょう」光体はサイトの端に突き当たると、来た道を戻り始めた。「第五は星の昇る世紀には常としてただそこにあった。しかしスピリチュアルは常に流動的だ。それは何故かって? そんじょそこらのにわか信者どもは、自分が祈る以外にするべきことを知らない。それを決めるのは教祖、いわばマリオネットなのですよ。それについて我々は本能的に、より精錬された本能的に感じることができる」

「待て待て。それで、お前らは教会なのか? そうじゃないのか?」

「あの煙ったい北の伝道者団体が形成するものが教会であれど、私ら含め全てものが教会民である必要はありませんよ。出版社、タレント、源泉に訪れぬものもまた多い」ホレスは諦めたように頭を振り、溜め息を吐いた。「しかしだ。しかし、そこらかしこの辺縁系やらに巣食っていたボウフラの集合体、蜜蝋の蛆虫だったり、ともかくアンタの想像するような寄生虫ではなかったのは確かな事実だ。私らの資本を語ろう。謀叛の時代だがね、私はナラカに古い友人を持っている」

「ナラカ?」

「ああ、そうだと言った」奴は低く唸る。ダエーワの低俗な獣のように。「イオン、ことグランドカルキスト・イオン。奇っ怪な手妻遣い。サーティスタ、サーク、サークアイト……ああ、肉剥いだれのイオンめ」

サーク、サーケスト、サーケシズム。奴は発音するのによほどの苦労を強いた。流暢で饒舌だった口が終端に結ばれて、見苦しく非ユークリッド的に捩じ切られるのを興味深そうにクレフは眺めていた。思うに、そのすぼめられた口からどのような発音が飛び出すかを期待していたのかもしれない。

「我々は彼らの教義の何たるかを聞きましたよ。そのどの知識も取るに足らない学びだ。底の抜けたジョッキでは酔っ払いはせんよ。しかしだ、そう演じることはできる。それで、私が奴らの奴隷だかを演じていたのは、ほんの数世紀だけの逸話だ」

男の額に皺が寄った。「奴と私は史実的な、或いは外宇宙的な因果律に巻き込まれたのだろう。隣人程度のもつれ現象だとか、定かなことは何も知らん。しかし今や私らは既に縛られてなどいない。奴らの様にはね。これは大いに祝われたるべきことだ」

クレフは興味本位から言った。「お前もダエーワの奴隷層だったのか」

「その名を呼ぶんじゃねえ。おそらくそいつは学会報告として、私が不機嫌になる近道だろうね、リスナーの皆さん?」そうは言うも、さほど奴が不愉快そうには見えない。「ダエーワは今やくだらん血となっている。あのようなサ、サークティスト共は──畜生、私はあのような血を啜る冒涜をやり込めてやりたい。あの老獪な狂人と手駒共にクソを与えてやれ! 少なくとも、アンタがそう望むのなら」

「星狂い共の説法を聞くのは別の日にしてやるから、今はとにかく説明してくれ、わかるか? より合理的っていうのはこういうことだ」

「私と私の魂は死にゆくまで合理的なのですよ、兄弟。私は常に真実を垂れ流している。世の摂理の皮を持つクソッたれた本当のことをね。身内の異端は早い目に始末しておくに限りますよ。ほら見てみなさい、今に手の届かない」

奴は天井に浮かぶ星一つに手を伸ばして、代わりに煙を掴んだ。煙は蝋となって、開かれた掌から官能的に滑り落ちた。それが滴るインクのように床へ落ちる度に、クレフは嗜虐心を刺激されるように感じた。

「私は親愛なるブマロ卿を、常に愛しております。更に言うなれば、聖ヘパイストスは私らに今に玉虫色に瞬く杯を授けたと思いますよ! 私ら星のアルコンは複雑で神経質でありながら、至極単純なのです。言うなれば、彼らはしたいようにする。つまり何が一番最善なのかを知り得ているのです。これは、正しい法悦への近道でありはしませんか?」

クレフは頷いた。ひとまず。

「要するに私らの法悦の道と言うべきは、恐ろしい既知の波に呑まれ、窒息し、アンタらは再び何事もなかったように目が覚めるでしょうね。その夜は星の降る限り永劫に、人々は少しずつ古い時代を歩む。そして波の内に目を開くことを知る時、初めてアンタらの島を持ったと宣言できるのだ」

ホレスは彼の周り全てで漂っている。「そして然るべき受難が訪れる日、それは授けてくださる。私らは見えざる音を目にし、聞かざる光を耳にする。ビッグブラザーは消え、私らもまた同様に消える。ダイスクイーンは消える。チャペルは消える。焚書者のゴロツキ共もまた消える」

ホレスの身体はピニャータのように内側から破れ四散し、すぐに隣から現れた。

「ああ、希釈され、拒絶と交接するというのは、私らに許された最も手っ取り早い権義であり、私はそれに愛を注ぐことを止められない。どうです、類いまれない者共と一服やるというのは?」

「あー……」クレフは返答に困った。

ホレスはクレフの頬を一撫でし、彼に葉巻を一本与え上の階へと飛び去った。「ほら見てみなさい、私らは上昇することができる」文字通り。本当のことだ。クレフはいつの間にか煙を吹かしながら、教会と煙と蝋とピンク色と、それ以外の全ての物的な結び付きについて考えていた。そう憑かれていた。

……………

直接的な視認は死か、死よりもっと悍ましい事態に関わる。クレフは慎重に3005の収容室の入口を探り、鍵穴を見つけ、ミームスクリーニングの初期手順を3度頭の中で復唱した。深呼吸、チェック、チェック、鍵穴を覗き見る。収容室の中央には、ピンク色の光が浮かんでいる。

クレフの背後にいつの間にか立っていた男は、軽く咳払いをして厳粛に述べた。「オホン……今は、ライムでもよろしい」

収容室の中央には、ライム色の光が浮かんでいる。

ホレスは言った。「……さて、アンタを今に帰りの寝台車を失っていることだろう。私らはアンタが望まぬ夢の内に望むものを我が手にしたことも、元よりそうすべきではなかったと思い起こして懺悔する姿も知っているでしょう。思うに、我らは常であるから」

気味の悪い説法が鼓膜を突き抜ける横で、クレフは収容室の中に光が浮かぶのを漠然と眺めていた。死んだ光が水中の中に満たされている。それだけだった。至極単純だった。

死んだ光が浮かんでいる。それは収容室の中に? それか、私たちの中に? もっと言うと、 収容室の中こそ私たちだったんじゃないか? 私は少し前まで収容室であった私を助け出すべきではないのか?!

クレフは死んだ光の中に、死んだ光を眺めるクレフの背中を見た。四次元的に。

「あー、なんだ」クレフは収容室の穴から溢れ出る、本能の権利を観察しながら何気なく尋ねた。「もしこれが本当なら、お前らは、どうして5なんだ?」

返答はなかった。クレフが繰り返そうとした時。

「おお、おお。ジーザス。神よ……。この罰当たりの、偶像めときたら……」ホレスは呟き(どうして男がキリストに祈ったかはさておいて)天を仰いだ。「私らは……私は五である必要意義を知らんぞお! 大五教には反吐が出る! 奴らは畜生──ああ、畜生。つまるところ、私は今それに値するカタルシスがまだ十分ではないのだよ。君は、君ならわかってくれるだろう?」

クレフはその変わり様に恐怖を覚え、明らかに動揺していた。「どうしたビッグマン?」

「そうだ、アンタたちなら、アンタらなら、わかってくれる……五神、五柱に拘束される起源……」

次にクレフが冒涜的な穴から顔を背けた時、それはひどく狼狽して後退しつつあった。男は突き当たりの廊下の端から、見えぬ境界から落下することを拒んでいて、現実と超現実との間で絶妙なバランスを維持していた。

ホレスがその脂ぎった顔を両手で覆った。「──かろう、かろう。私をおわかりで──」唐突な沈黙はクレフの興味を引いた。演説は驚きから囁きへ、また舌打ちの羅列になり、最終的には風になった。助けて、私を助けてくれ。

私は、一番奥の底にいる。ホレスは胎児のように踞り、この世のあらゆる悲嘆について危惧し、敬遠のために呻いた。ベルベット“ゴール”・ヘイマンとアレクソン・ダイアレーによるタレント紛い的物語放送がラジオより滲み出る狂気。ABCで放映された全てのヒトデが五本足のリスに入れ替わって誰も気付かない可能性。ジョン・カーライルが人類の最高支配種になるであろう週末の一時。呻くのは、これ以上哀しまぬために。私を救ってくれ……  

男は黒い靄へと変換され、もがき苦しむディメンターの如く大気中を漂っていた。人々はそれを目に入れることさえ、哀れで、重荷に耐えられなくなり押し寄せる快感によって破裂するだろう。ホレスが冗談めいて吐いた所感は確かに的を得ていた。実際クレフは一度は破裂し、気付かぬ内に再生したのだ。私を助けて。

クレフは一瞬だけ、手を伸ばすことを考えた。

「馬鹿め」避けられた両手の後ろに現れたホレスの不気味な口角は、もう少しで両耳を貫くように思えた。それによりホレスは流れない血によって呻き、痛みのない裂傷にのた打ち回るふりをした。

「私らはアンタの気を許す限り──アンタらが脱け殻の形をした穴への通行手形を市街中へばら撒くのを許す限りだ、私らは何にでもなれましょうね。それでいて、どこにでも漂う煙ったい奴らであると言えるとも。それこそ、あのロンドンエンドことクソ街通りを跳んでるでしょう煙みてえにだ」ホレスは荒く呼吸をして、両目を突き出した。「私らは、何にでもなれる」

ホレスは酷く緊張し、恐ろしいことを諭すように言った。「私らは、アンタの中にいる」

そういって、男たちは濁流が押し寄せるサイトの天井の方へ上昇を始めた。それは吹き抜けのバルコニーの角に突き刺さって爆散し、クレフが次に向かうべき場所について賭け合いながら昇天した。

……………

数時間が経ち、クレフは外にいて、既に日は沈んでいた。彼はすっかり瓦礫に化けたサイトの上を大股で歩き、辺りを見回した。そうせずとも、男はそこにいた。

「勤しんでもらえたかな?」男は言った。男は、かつてクレフの友人だったと思う。

「私は一介の漂う煙に過ぎないが、我々は一つには留まらない。私はこの矛盾が如何にして世のしみったれた自由の四肢をもいでいるのか、至らしめてやりたいだけなのだよ」

クレフは投げやりに言った。「お前の垂れ流すクソッたれが何とかなるような日は来ないのか?」

「残念ながら、信者は教会の権限ではない。信者の矛先やら牙やらがどこへ歯向かうか、決めてやるのが仕事ではない。ただ私はそいつに賭けてやりたいと思っているのですよ、兄弟。今日はきっと素晴らしい夜になる」

クレフは内心頷いてしまったことを認めざるを負えなかった。次に歩き出し、振り返り、ピンクの夕陽が消えゆくのを見た。夕陽もまた彼を見た。去り際に、クレフは言った。「一つ、尋ねておきたいことがあったんだった」

男は不気味に薄ら笑う。「信者の権限だ。好きなように答えよう」

「どうして、“5”なんだ?」

クレフは内心、意味のある返答を少しなりとも期待していた。今までの不条理やしがらみをすっかり解決してくれる。が、その予感は確実に外れた。いや、端から外れるべきものだったのかもしれない。

ホレスは適当に答えた。「そいつは多分、私が今までに吸った葉巻の数だ」

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