-10 months…
仮面と女
小さい頃から"いい子"にするのは得意だった。静かな場所では騒がない、公共の場所では暴れない。それだけのことで、大人には褒められた。あまり丈夫では無かったという幼少期の私にとって、それはとてもイージーなイメージ戦略で、それ以降も私は人前でお行儀よく振舞った。
もちろん、友達は少なかった。猫を被っているだとか、ぶりっ子だとか、幾度となく囁かれたお決まりの悪口。でも大人が誉めてくれるから平気だった。すっかり無意識に"いい子"として振舞える頃には中学を卒業し、それなりにお行儀のいい高校に入った。そして大学生になって、どうもおかしいということに気付いたのは、当時付き合っていた一つ下の後輩に言われた言葉があったからだ。
「先輩は、仮面を被っているみたいですね」
穏やかで優しく、日頃不満一つ零したことがない、そんな彼が悲しそうに呟いた一言だった。程なくして訪れたお別れの後、ちょっと反省したのを覚えている。一緒にいる人を誰か一人決めておくと、普段の生活に波風が立たなくて楽だった。その分、彼好みの恰好をして、彼にふさわしい彼女として振舞っていたのだけれど、悟らせてはいけなかった。可哀そうなことをしてしまった。
一方で妙な納得もあって。誰かと親しい関係を築けないのは、私が仮面を被っているからなんだ。友人としての仮面、先輩後輩としての仮面、ゼミリーダーとしての仮面、そして恋人としての仮面。私が生きてきたやり方がすっきりと腑に落ちた。
その後は気を付けるようになったから、そこまで露骨に言われることはなかったけれど、やっぱり同じようなことはあって。お付き合いはもう当分いいかな、って気持ちになったりした。学生生活は順調だったのだから。単位を取り、学生団体で活動し、米文学で論文を書き、就活をした。どこに行っても私の振舞いは受けがよく、望み通りの結果が出ないことはなかった。第一志望の企業で働いて、仕事でも認められ。
そして四年目の春、私は一つの転機を迎えることになった。取引先への出向、しばらく職場を離れる辞令を受けたのだ。迷いはあった。だって、何もかも今のままで十分だと思っていたから。身の丈に合った仕事、程々の娯楽、丁寧な暮らし。それでも辞令は辞令だと、流されるままに越えようとしていた境界線を、ある友人との食事に背を押されて、私は前向きな姿勢で越えることになった。
だから、出会えたのかもしれない。あの人を初めて見た時、止まっていた歯車が胸の内で動き出した気がした。私と同じように仮面を着けて生きている人。毎日の振る舞いが全部作られている人。あの人の前でなら、もしかしたら、私は私で居られるのかもしれない。
財団という秘密組織だった出向先、そこで出会ったエージェント。彼の名前は、飯沼結城いいぬま ゆうきといった。
紫紺と金
あの飯沼に交際相手が出来たという噂は四宮 昴しのみや すばるにとっては最初笑い話であり、どうやら真実となると途端に受け入れがたい話となった。優秀だが軽薄な振舞い、少し仲良くなった他部署の女性職員に片端から声を掛け、程々にくっついたり離れたり。過去に黒い事情を抱え、一定のラインを越えて他者との関係性を築こうとしない部下。つまりおよそ恋人などという親密な人間関係を構築し得ない筈の人間。
「絶対に何か事情があるぞ」
「えっと、俺はいいニュースだと思います」
「考えてみろ、あの飯沼だ。あんな、仮面を着けたような奴と付き合うって女、何者だ」
「仮面、ですか。まあ本心の読みにくい奴ではありますが」
たまたま休憩室で一緒になった桂木かつらぎが淹れてくれた緑茶を飲み、四宮は煎餅を齧る。黒縁メガネの奥で金色の瞳が怪しく輝いた。彼は飯沼の『前職』について、ある程度把握していた。勿論裏付けなどは取りようもないが、飯沼は要注意団体と関係していた疑惑がある。ならばその線で命を狙われることもありえるのではないか。例えば、その彼女が粛清の為に放たれた追っ手だとすればどうだ。デート中、飯沼がふと席を外したタイミングで食事に毒を盛って……。
頭脳派である四宮は、益体のない妄想の展開速度も迅速である。作りこまれていく脳内の映像で、飯沼がサンドイッチを食べ鮮血を吐き倒れた辺りで、桂木がのんびりとした言葉でそれを吹き払う。
「お相手は最近入られた事務員さんですよ。俺も何度か報告書の提出でお世話になりました」
事務員。エージェントの上げる報告書や資料をとりまとめて管理を行ったり、配属の手続きをしたり、経理関係の事務を行う職員達は、大規模な組織の御多分に漏れず、財団でも大いに活躍している。四宮は定期的に目を通している人事ファイルの記憶から顔写真を思い浮かべた。ある程度長いリストから付き合いの長い顔を除いて残ったのは、髪をまとめ、ややお固い印象を与える女性職員だった。
確かに四宮も何度かやり取りをしたことがある。仕事が早くて連絡も的確、仕事のできる人物だった。オフィスカジュアルの見本のような服装、平均よりやや高い身長はピンと伸ばした背筋とヒールで強調され、抑揚のない口調には一分の隙もない。印象で決めつけるのはこの業界ではご法度であるが、およそ暗殺者には見えず、脅威度は低いように思われた。人事部のチェックも通っているだろう。先ほどから生き生きと思い描いていた飯沼の死亡予想図が急激に色褪せていく。
「ふん。何となく見当は付いたが、今度はあの二人が一緒にいる状況が想像しにくいな」
「別に四宮さんが想像しなくても、事実として二人は一緒にいるんですから」
悪意なく放たれた台詞に虚を突かれ、結果として自身の性格の悪さに殴られたような顔をする四宮には気付かず、桂木は穏やかな雰囲気で煎餅をもう一袋開封して上司に勧める。
「四宮さん、我々はひょっとすると、挨拶などしてもらえるんでしょうか。服装は何を着て行けばいいのか」
「お前はともかく、上司を紹介するのはちょっと気まずいんじゃないか。ま、一度くらいはデート中のあいつをこっそり見てやりたいが」
飯沼に彼女。どことなく面白くないのは事実だったが、それ以上の興味を向ける気はなかった。そう、この時はまだ。
-9 months…
仮面のお茶会
四宮は菓子類を好む。嗜好の対象は主に煎餅などだが、パンケーキにフルーツを盛って食している光景もしばしば目撃されている他、美味しい甘味を出す店を広く把握している。部署の近い財団職員の間では四宮から教わった喫茶店に外れなしとされ、デート前の男性職員が手土産を持って頭を垂れる様子を見下ろすのは彼の楽しみの一つであった。
しかし、四宮は本当に好きな店は徹底的に秘匿する人間でもある。幾ら請われても教えることはない。欺瞞工作さえ厭わない程だ。大切な休息所に知り合いがいては休まらないし、特に一日の提供数に制限があったり、そもそも店自体が小さい場合には奪い合いになってしまう。
そんな隠れ家的な名店の一つとして、シフォンケーキが美味しい喫茶店があった。そろそろ夏に向けた新メニューを出している頃合いである。四宮は休日出勤を早めに切り上げ、持ち出し制限のない参考書籍を数冊携えサイトを後にした。電車に揺られること四駅、駅前から少し離れた場所。決して辺鄙な立地ではないが、それでいて絶妙に表通りの喧騒から隔絶されている小さな楽園。週明けからの職務に向けて英気を養うべく、四宮は意気揚々と入口のベルを鳴らす。
そう、彼は油断していた。どれだけ情報を秘匿しようが、それとなく偽装工作をしようが、知り合いが偶然居合わせる可能性を排除することなど所詮不可能である。背を向けて座っていた男がこちらを向いた。エージェント・飯沼である。
「あれ、四宮さんじゃないですか」
扉を開いて二秒は固まった。それは予期せぬ人物の登場に虚を突かれたというのもあるが、そこに漂う緊迫感故でもある。飯沼の態度はいつも通りヘラヘラしているようで、振り向いた一瞬、あれは臨戦態勢の顔だった。だから四宮が最初に行ったのは、救援要請である。後ろ手に隠した端末のロックを外し、短縮コードで桂木を呼び出す。武装は最低限を指定、現在位置の特定の為にGPS情報へのアクセス権限を付与し、送信。
「お、おう。飯沼、偶然だな」
狭い店内である。今更引き返すことも出来ない。
「偶然、偶然な、近くを通ったら、良さそうな喫茶店があるな、と思ってだな」
賢しらな誤魔化しはマスターにより即座に粉砕される。
「何言ってるのシノちゃん。新作のシフォンケーキあるけど、どうだい。まだ試作メニューなんだけど」
それを聞いて、飯沼の向かいに座っている女性が目を輝かせた。
「じゃあ、このお店は四宮さんおススメのお店なんですか? やったね飯沼くん、入ってよかった!」
「へー、今日はラッキーだったってことだな」
飯沼くんときた。それとなくカウンターを覗き込んで伝票を確認すると、どうやら飲み物の注文のみらしい。
「えっと、じゃあ、シフォンケーキ二つで」
「俺たちに奢ってくれるんですか!?」
「彼女さんの分だよバカ。お前は自分で払え」
「ありがとうございます、頂きます」
頭を下げる女性に手を振り、四宮は二人からはなるべく離れた席に着いた。兎にも角にも観察だ。飯沼が何故ああも緊張しているのか、それを突き止めなければならなかった。
桂木は目標を確認する。間違いない、座標はこの店を示している。四宮からの指定は低武装での援護、詳しい状況は不確定。ならばいつも通りだと胸の内で呟き、突入を決行する。ベルが激しく鳴り、店員らしき初老の男性が怪訝な顔でこちらを見た。
「い、いらっしゃい」
直ぐには答えず、素早く店内を見回す。客は三名、全員見知った顔だ。では脅威は何だろうと考えたところで、四宮がげんなりした顔で手招きをした。
「悪いな、呼び出して。ほらこっち来い、チャレンジメニューのデカいパフェとかどうだ、奢るから」
警戒はそのままに、ひとまず言葉に従う。ついでに、飯沼達に軽く会釈。随分楽しそうに会話をしている所だったので、申し訳ない気分になりながら。
「あれ、桂木まで来たのか。どうしたんだ」
「いや、少し」
「桂木さん、こんにちは」
「お世話になっております。お邪魔して済みません」
「いえいえ」
ふわふわと笑う彼女を見て、随分印象が違うな、と思った。職場で顔を合わせた時はなんというか、もう少し機械的な受け答えをしていたような気がする。それが、今の彼女は別人のような雰囲気だった。遅れて、服装が異なっているからだと気付く。桂木は女性の装いに詳しくはないが、飯沼もまた普段よりも手を掛けているような。
着席して間もなく、パフェが運ばれてきた。四宮の姿が隠れてしまう程のサイズだ。なるほど、遮蔽物としての注文か、と納得して桂木はスプーンを手に取った。怪しまれないよう、なるべく少しずつ食べ進める。
「四宮さん、状況は」
「状況か?状況、状況な……」
パフェと桂木という壁を得て、四宮はようやくといった感じで脱力し、顎をテーブルにつけた。
「今日は朝から映画を見に行ったそうだ。それで食事をして散策。適当に流して休憩場所を探していたところ、俺の大事な大事な隠れ家に偶然辿り着いてお茶をしていたらしい。くそ、なんだってわざわざ」
「四宮さん、敵はいないのですか。脅威目標は」
「あそこのバカをぶん殴りたい以外には、いないな」
「そうですか」
桂木は警戒を解いた。上司には上司の考えがあったのだろう。あとは追加の指示があるまでは現状を維持して問題あるまい。放り出されていた四宮の端末が震える。身を起こして内容を確認する四宮だが、画面をスクロールする間に大した反応も見せず、終わればさっさと上着のポケットに収めてしまった。
「信じがたいことに、あの女性は本気で飯沼が好きらしい」
「結構なことです」
「だが、あの女も仮面だ。何を隠すというわけでもなさそうだが」
「よく分かりませんが、気が合うということでは」
「そう、だな。そうかもしれん。よりによって飯沼か」
再び脱力した四宮を見て、どうやら本当に危機がないらしいと悟る。しかも友人には気の合う恋人が出来たということも分かった。幸せな気持ちを分けてもらったような気持ちで、桂木は普通の速度でパフェを食べ進めることにする。味をあまり感じないのはいつものことだったが、何やら嬉しいような、くすぐったいような感覚で、なんにせよ、本当に結構なことだと思った。
瞬く間にパフェの背が低くなると、向こうからまた四宮が見えるようになる。それをからかう飯沼と応戦する四宮、笑う彼女。実に、実に結構なことだった。
桂木がパフェを食べ終え、四宮がシフォンケーキを糧にどうにか気力を回復しても、まだ二人は楽しそうに会話をしていた。要するに、飯沼は相手の感情の正体について確定できていないのだろうと四宮は結論する。お相手の人事ファイルを取り寄せて閲覧してみたが、怪しい点など何一つなかった。財団のフロント企業の社員で、諸々ひっくるめて極めて優秀。業務の延長として権限を部分的に付与したうえで数週間前からサイトへ出向している、殆ど一般人。フロント企業に入るより以前の経歴も素性も綺麗なものだ。これで偽装なのだったら只者ではない。その時は笑ってやろう。
むしろ問題だったのは飯沼の行動だった。四宮は、この部下がおよそ他人を好きになれる人間だとは思っていない。軽薄そのものといった感じで月一回の頻度で行われる告白も人間関係調整の一環で、まとまに付き合う等の意図はないと見ていた。ならば何故、あいつは今こうして呑気にお茶などしているのか。あれほど剣呑な表情を垣間見せたのか。まさか相手は本当にかつての"同僚"であるとでもいうのだろうか。
「帰るぞ。マスター、会計をお願いします」
馬鹿馬鹿しい、あの女性はシロだ。素人だ。確かに、一般人にしては素顔をうまく取り繕う術を心得ている。それが一周回って飯沼を警戒させているのなら、いい気味だった。飯沼の権限では人事ファイルへのアクセスは難しい。ならば精々悩みぬくといい。万が一その女が刺客だったとして、やられるようならそれまでだ。
四宮は飯沼の相手に同情を禁じえなかった。斯くも作りこんだ好意を飯沼に向けている女性。勿論、人間にはそういった感情を持つことが必要な場合もある。それを否定する気はない。だが、飯沼が彼女を振り向くことはないだろう。早いところ飯沼の正体に気付けばいいと思った。
「じゃあ、俺たちはお先に」
「ケーキごちそうさまでした。美味しかったです」
「え、ていうか俺だけ奢ってもらえないのズルくないですか」
「じゃあな飯沼、また来週」
「ちょっと、四宮さん!」
情けない叫びを振り捨てて外に出る。桂木が車を運転してきたと言うので、ありがたく乗せてもらうことにした。穏やかな表情でハンドルを握る部下の隣に落ち着き、端末の着信を確認する。明るくなった画面に表示される、人事資料。少し浮かれ過ぎていたようだ。後輩の恋愛事情などという些事に部下を呼び出した上、結果的に必要のないファイルまで請求し閲覧した。全く自分らしくない。メーラーを起動していくつか返信をする内に、思考が切り替わっていく。桂木も心得たもので静かに車両を操る。そのお陰で、四宮はすっかり喫茶店でのことを忘れて作業することが出来た。
サイトに到着し、四宮は桂木に礼を言って自室へと向かう。夕食までの間、もう少しだけ書類を片付けようと端末を取り出し、四宮は先ほど閲覧していた人事ファイルに更新があることに気付く。嫌な予感がした。こうした更新は珍しいものではない。それはセキュリティ審査の都合上、時間差で秘匿情報が追加される類のものだ。ゆっくりと全体をスクロールしていく。一見差異はない。下まで辿ると、先ほどまでなかった補遺。展開する。
『同職員はサイト出向中の6ヵ月間、レベル2クリアランスを付与されますが、これは期間を限定した処置であることに留意してください。なお、出向期間は半年毎に必要に応じて延長を可能とします。』
四宮は咄嗟に出向期間を確認し、今日の日付と照らし合わせた。もうすぐ2ヵ月が経過する。慌てて続きに目を走らせる。
『本職員は規定の職務を遂行後にクリアランスレベルを差し戻され、記憶処理の上フロント企業████での業務へ復帰します。出向中の記録はすべて破棄され、期間中に当人が取得した知識、物品についても例外は認められません』
残りは4ヵ月、最短でこの秋までに、彼女は記憶を消された上でサイトを去る。店での二人の様子が浮かんでくる。楽し気な会話を交わす姿に違和感は全くなかった。あいつらは、どこまで知っている。どこまで知ったうえで、あの二人はあの関係を演じている。詮の無いことと分かっていながら、四宮の脳髄は唸りを上げ処理を始める。情報の取捨選択一つで、仮定一つで、見えてくる光景の解釈が異なる。切り捨てた可能性が不気味に立ち上がる。
仮面同士の恋愛。その不気味さに、思考は空転するばかりだった。
熱の残滓
部屋に置いてあった安物のドライヤーで髪を乾かしながら、私は一日を振り返る。待ち合わせに少し遅れてきた飯沼くん。新しく下したヒール靴を誉めてくれた。仕事の時よりも少しだけ低いヒール。並んでみたらやっぱりこっちの方がいい感じで満足。飯沼くんのアクセサリーに合わせてオレンジ目にしてみた化粧は、ちょっと微妙だったかもしれない。映画館を希望したのは彼で、話題作は一通り観るようにしているらしい。一緒に買ったパンフレットをお揃いだね、って言ってきたのは面白かったな。
飯沼くんは、時として妙に自然なふるまいを重ねていく人だ。自然過ぎるというか、人間味がないというか、人の期待をそのままなぞろうとするというか。そこまでハイレベルには無理だけど、私もそんな風にする事があるから、なんとなく理解できる。それはきっと何かを警戒している時なんだ。今日でいえば、四宮さんが来た後なんかはそう。私といるところを見られたら困る事情でもあったのかな。
見られると言えば、四宮さんの目は怖い。金色で奇麗な目。全部見透かされているんじゃないかと思う目。強い意思を感じさせる目。前から思っていたけど、改めて怖いなって感じた。でも、優しい目なのも今日初めて知った。
すっかり長居してしまった喫茶店を後にして、私たちはとても自然にホテルに入った。入浴剤でモコモコにしたお風呂にはしゃいで、取り寄せた軽食をつまんで。それから、飯沼くんはとても愛おしそうな手つきで私の頬に触れ、キスをした。
飯沼くんの手つきはそつがなくて、とても丁寧だ。抱きしめ方も、ベッドの上で姿勢を変えるときも、隅々まで気を使っている。まるで何かを調べる時みたいに、私の服を一枚一枚取り除いていく。ちっとも強引じゃないのに、全部思い通りにされているのは、案外と悪い気分じゃなかった。
バスタオルを巻いたまま洗面所から部屋に戻ると、飯沼くんはベッドに大の字で寝ていた。起こさないように近付く。茶色の癖のある毛も相まって、30歳近いとは思えない子供っぽさがある。行為の最中でも外さなかったオレンジのリストバンドが目を引いた。それとなく由来を聞いたら、支給品だと笑っていた。忠誠の証だよ、かっこいいだろ、とは本人の弁。悪戯心でちょっと髪をかき混ぜてみると、ゴニョゴニョ言って額にしわを寄せた飯沼くんは、寝返りを打って背中を向けてしまった。細いけど意外と筋肉の付いた身体。そっと背中の筋をなぞってみる。少し冷たい。
飯沼くんとお付き合いを始めて三週間、私はまだ上手く仮面を外せてはいなかった。今更、何をどう見せて行けばいいのか、分からない。飯沼くんなら大丈夫だと思うのに、不安で、気が付けば取り繕ってしまっている。だけど、今日は楽しかった。少しだけ近付けたのかもしれない。飯沼くんにも、私自身にも。
手を伸ばして照明を落とす。闇の中、思い切ってその背中に頬を寄せてみる。お風呂上がりで火照った私の体の熱が、飯沼くんの背中で少しずつ冷やされていく。眠っている人を相手に少し気が引けるけど、安心感の方が大きくて、私はそのままゆっくりと眠りに落ちていく。
-8 months…
闇夜に羽搏く翼は
財団でお仕事をする前、少しだけ期待している自分がいた。秘密組織の書類仕事はさぞ自動化されていて、入出力の手間は最低限で、支援AIとかも完備で、書類の締め切りは余裕をもって守られるのだと。そんなことは全くなかった。人類は書類を手放すことが出来ない。私達の仕事が完全に消滅するのは当分先のことだろう。
とは言え、出向でここに来る以前から事務仕事は得意だった。人から依頼される雑多な作業に順位をつけて、リソースを割り振りしながら期日までにこなしていく。不定形な作業と曖昧な領域に対応して、形を与え決裁していく。無秩序を秩序に変えていくのは好きだ。ここで担当するようになったのは、職員たちの勤怠と給与や福祉関係の処理。
さすがに扱う情報は激増したけれど、自分の性能をきっちりと発揮していくのは楽しい。混沌とした未決済書類を崩していくと、自分が巨大なシステムの中で稼働していることが実感できるから。自分自身の状態を一番いいところに保つこと。出力を安定させ、工数の中に自分自身を織り込むこと。進捗の見込みを共有して、部署内でのリソースを調整すること。それにしても財団職員さんたちはすごい。何度もフォローしてもらった。
「それにしても手際がいいね。もう教えることほどんどないわ。優秀優秀」
先輩の古戸さんが褒めてくれる。黒髪を一つまとめにした、さっぱりとした女性。隣の席に座る彼女は、もう随分と長くここに勤めているとのことで、配属から色々とお世話になった。
「ありがとうございます。定常業務はおおよそ把握しましたが、残る大きなところは今月末の処理でしょうか」
「そう、半期締めだから。全くうちは図体がでかいくせに刻みたがるのよね。でも大丈夫、ちゃんと今から段取り付けてやっていきましょう。予定外さえ来なければ大したことない」
古戸さんの表情はすこしだけ苦笑いを含んでいて、私も同じ表情を返す。私たちの仕事は、人を相手にするもの。そこには常に不確定要素が絡んでくるのだ。と、タイムリーな声がかかる。
「あ、あのー、すみません。前の任務で出し忘れた報告書が───」
「来たわね、問題児」
がっくりと肩を落として見せる古戸さんに手を振り、私が対応する。声の主は、機動部隊員の隊員さんだ。名前は、安中翼さん。私の初めて担当することになった人で、何と言ったらいいか、元気いっぱいな方だ。そして、やらかすミスも元気いっぱいというか。でも、私は仕事で関わるいろんな人が好きだ。
「お預かりします。でも、もうすぐ月締めですから、次は気を付けてくださいね」
「はい、すみません!」
手を合わせて拝んでくる安中さんの姿が可愛くて、思わず笑ってしまう。それに照れながら、安中さんは時計をちらりと見た。
「あの、いつもご迷惑おかけしてて。お詫びにお昼行きませんか?」
「えっと、すみません、私作って来てて」
「あ、こっちこそ急ですみません。じゃあお茶でもどうですか!サイト内にいいとこあるんです」
「あー、時間次第ですね……」
そんなやり取りをしていると、事務所に男性が入ってくる。スーツと眼鏡が冷たい印象を与えている。事務や実戦系の人じゃなさそうだ。銀行員のような感じ。それも口先のテクで大口の契約を取るタイプじゃなくて、眼光紙背に徹すといった感じで事業計画とかを木っ端みじんにするタイプの。安中さんがぴょこりと顔を上げて手を上げた。
「へい、伝斗くん!こっちこっち」
歩み寄ってきた不機嫌そうな顔の彼は、引枝さんといったか。二人でよく一緒にいるから、今日も何か約束をしているのだろう。
「お前、またなんかやったのか」
「まあね。でもちゃんとお詫びはしようとしたよ。今日お昼行きましょって」
「いや、いきなり過ぎだろ」
「えー、週明けからしばらく出張だもん。今のうちじゃないと一緒にご飯できないんだもん」
「その出張前の昼に誘われてきたんだよ、僕も。堂々とダブらせてんじゃないよ」
「あ!」
「なんだその、あ! は」
「当然覚えてたよ、三人でいこっかなって、ほら会いたい人はあまりにも多く、財団職員の休みはあまりにも少ない」
「そして昼休みもまた短い、だ。ほら、歩け」
「もー、待ってよ伝斗くん」
振り向いた顔が、あまりにも情けなく分かりやすく後ろ髪を引かれている風で、私は思わず声を掛けてしまっていた。
「安中さん、ちょっと待ってください。えっと今日の三時前なら──」
一瞬だけ、後ろの島を振り返る。古戸さんが小さくokサインを出していた。
「三時前なら大丈夫です」
「え、ほんと!」
「でも勤務中だから、面談の予定として入れておきますね」
「おお、できる女だ」
「バカ、失礼だろ」
会釈して去っていく男の人の後ろを、パタパタ走っていく安中さん。背中が見えなくなるのを見つめながら、私は自分でもちょっと意外に思っていた。脳内でいくつかのおすすめの投資銘柄候補を思い浮かべる。最悪時間が余ったら、積み立てでも勧めてみよう。そう心の中にメモをして、私は古戸さんとお昼の準備をした。
破壊検査
事態が混迷した時、四宮は追加情報を取りに行く選択をすることが多い。そして飯沼が知っている情報について聞くには飯沼を問い詰めるのが早い。よって激務の合間の昼休み、なんとか飯沼を捕まえてみたはいいが、さてどう切り出すかで困ってしまった。
「飯沼、お前、あの」
言葉に詰まる。彼女のことで知っていることを話せ、は流石におかしい気がする。ワンクッション置くべきなのだろうが、切り出し方が分からない。妙に神妙な顔で続きを待つ飯沼に腹が立ってくる。半分自棄になり、四宮は古式ゆかしいサインに思い当たった。
「こ、コレとはどうなんだ」
小指を突き出して言った後、四宮は思わず頭を抱えた。どう考えてもコレはない。やはりおかしい、自分が自分でない感覚。苦しむ四宮を見て、飯沼は晴れやかな笑顔を浮かべて言う。
「四宮さん、頭が昭和になってますよ」
「うるさい。どうだ、ちゃんとうまくいってんのか」
「何がちゃんとかは分かりませんが、まあ客観的にはいい感じだと思いますよ」
お似合いでしょ俺たち、と抜かす部下。そうだろう、こいつは相手側がそれでいいなら延々と合わせ続けられる人間だ。延々と、都合が合う限りは付き合いを続けて、関係を深め、結婚して子供を持ったりするのだろうか。家庭に入る、飯沼。その可能性に思い至り、四宮は衝撃を受ける。もう一度頭を抱える四宮を、飯沼は不思議そうな目で見る。
「えっと、それだけならもう行っていいですか?」
「一つだけ聞かせろ。お前、ちゃんと先の事を」
先の事を考えているのか。またしても言葉に詰まる。先など、彼らに限ってそれを互いに問うことなどできないのだから。仕方なく言い換える。
「ちゃんと予定立ててんのか、向こうと会うのに」
「それは、まあ。半期決算の締めが近いとかで、今月はあんまり会えないんですが」
「そうか、じゃあ週明けには泣いても笑っても終わってるはずだな。何でもいいから差し入れをするといい。事務方は修羅場だぞ」
「あ、それはいいですね。ありがとうございます!じゃあ、俺ちょっと呼び出し食らってるんで」
明るい顔をして立ち去る飯沼。あの調子だと、やはり彼女の採用期限のことは知らないのか。意外と順調に付き合っているらしい。だが、本当にそうかなのか。こと今回の件について、もはや四宮は自分の思考に何一つ信頼を置くことが出来なくなっていた。そもそも、先方は飯沼の何を求め、飯沼に何を求めているのか。
いっそ刺客であってくれとさえ思い始めた自分に、四宮は三度頭を抱える。飯沼が珍しく説明用と思しき資料や接続機器をポケットに突っ込んでいるのには、なんと本当に気付いていなかった。
胸に青い薔薇を
「しずりん!来たよ!」
「翼ちゃん、いらっしゃい」
口実となる打ち合わせ用のPCとパンフを持って、安中さんに連れていかれたのは給湯室と共用スペースの一角を上手に利用した喫茶店と思しき場所。迎えてくれたのは、赤茶色の髪と黒色の瞳をした麗人。バリスタの恰好、と言って伝わるだろうか。ブラウスに黒いエプロンをしている。背が高くてヒールを履いているけど、声の調子は快活で低くよく通る感じ。
「はい、お水。ご注文どうぞ」
「ラテ下さい!私のは自由の翼柄で!」
「こら、無茶言わないの。そちらのお姉さん、初めてよね」
「こんにちは。こんなところにお店があるなんて知りませんでした」
「それがね、まだお店じゃないの。一応場所の使用許可は取ってるけど、営業許可が出なくて。あんまり大っぴらにはできないのよねー」
「へへ、だからサボるのには持って来いなんです!」
「ぶっ飛ばすわよアンタ」
でも、道具はかなり本格的だった。湯気と共にコーヒーの香りが静かに漂ってくる。ラテアートの手つきも堂に入っていて、鼻歌交じりに模様が紡がれていく。その人の名前は、三笠さんといった。カウンセラーとして、このサイトに出向してきたらしい。自分の話もすると、お揃いね、と微笑んでくれた。
「ほら、翼ちゃん。頑張ってみたけど、これで満足かしら」
「わーい!飲むのがもったいないですね」
「一期一会、それがラテアートのいい所だから」
私の前に置かれたカップの中には、薔薇が咲き誇っていた。
「自己紹介、ってことで。よろしくね」
「こちらこそ。本当にすごく素敵ですね」
安中さんと話を始めようとして、一応形だけでも、とお手軽な長期投資のパンフを広げておこうとしたら、三笠さんがさらりと話に入ってきた。
「翼ちゃん、出張なんだって?任務?」
「そうなの。でも調査任務ですから、そんなに長くはないはずですよ」
「あら、よかった。翼ちゃんがいないと寂しくなるもの」
「えっへん。常連ですから」
三笠さんが軽くウィンクをしてきた。話題には困らなさそうだと判断して、パンフは鞄にしまい込む。
「あのあの、飯沼さんと付き合ってるって本当ですか?」
安中さんがうずうずといった感じで聞いてくる。
「なにそれ、コイバナ?ちょっと待ってて、アタシも自分用に飲み物取ってくるから」
「えっと、はい」
「エージェントの飯沼といえば、色々聞こえてくるけど、実際どうなの?ほらほら」
これは何の集まりだったっけと思い返す。でもその暇もないほど、二人は色々と話を振ってくる。曖昧に躱しながら適度に応えていくと、話題は段々と二人自身の話にも及ぶ。
「翼ちゃんはどうなの。愛しの引枝君とは」
「ご飯は定期的に行ってますけど、ここから先に進むのが、もう一歩がどうしても出なくて」
「分かるわ。よっく分かるわ。でも翼ちゃんとこは仲良しだからいいじゃないの。こっちはまだまだ道が険しい感じ」
両肘をついて頬を載せる三笠さんの姿は女子会が板についてる。
「元はと言えば、お見合いパーティーで知り合った子に会いたくて、研修にかこつけてこっちまで来たんだけど、まだ他愛のないやり取りばっかよ」
「え、もしかしてまだ会ってないんですか」
「そうよー。忙しいらしくって。次の目標は画面越しにお話ね」
三笠さんが力のこもった眼でこっちを見てくる。
「アタシが言えた話じゃないけど、飯沼くんも引枝君も、正直絶対一筋縄じゃ行かないわ。みんなで頑張りましょうね」
おー、と腕を上げる安中さんを見て、私は少し考えこむ。飯沼くんとの関係を進めるということ。私がどんな人間であるのかを見せて、飯沼くんがどんな人間なのかを見せてもらうこと。随分と遠い目標のように思えた。
「そうだ、また来月位に集まりましょうよ。進捗の報告会しましょう!」
「いえーい!」
「い、いえーい」
来月なら、いいか。そのころには修羅場も落ち着いているだろうし、きっと励みにもなる。ふと、私は引枝氏の顔を思い出して、きっと彼なら報告書も領収書も完璧に期日通りに出すんだろうな、と思う。でも折角任された担当なんだから、しっかり安中さんに付き合いきることを決意した。
そして、安中さんの所属する機動部隊が全滅したことを知らされたのは、この一週間後のことだった。
-7 months…
裏切りのベル
事務職の修羅場は末に来る。月末、年末、期末、年度末。ただ財団はちょっとレベルが違うよ、といろんな人から忠告されていたので、覚悟はしていた。ご飯を作らなくていいように日持ちのするおかずの作り置きは多目にしたし、冷凍食品だって買い込んだ。普段使いの書類は整理し直して閲覧性を上げておいたし、先に処理できる類の雑務は予め全部片付けておいた。それでもなお、その五日間は戦争だった。
もちろん私のところに来るのはほぼ末端のお仕事だけど、関連書類がとにかく多い。タグ付けをして各種情報と照らし合わせ、最終的な処理を確定させていく。一応専門分野だし、処理自体に問題はなかったけれど、もうすぐ終わるはずの仕事の内容が変更になったり、直前になって追加の提出が来ると、心がすこしざらついたりもする訳で、そんな時ほど自分の仮面が役に立つ。それに、隣のデスクでは古戸さんが研究者たちが締め切り当日に出してくる書類を鬼気迫る様子で処理しているのは、ちょっと見るに忍びなかった。
それでも皆でカバーし合い、どうにか無事に一日、一日を終えていく。深夜徒歩で家に帰って、食事をして、数時間眠ったら起きてまた出勤する。洗濯は最低限を手洗いして部屋干しに。小分けにしておいたご飯とおかずが減っていく。これがなくなる頃には仕事が終わるのだと、その目安だと言い聞かせつつ、最低限の家事だけしておく。財団借り上げらしいアパート。きっと普通の家なのだろう。あまり設備が立派とは言えないのが興味深い。浴室乾燥位あればいいのに。
飯沼くんにもしばらく会えていない。これが終わったらみんなで交代して休暇を取るから、その時には会いたいな。まあ無事に終わったらだけどな。そんなことを考えて迎えた四日目のお昼過ぎ、終わりが見えてきた作業を確認してもらうため、軽く資料をまとめて主任さんのデスクまで行く。担当する職員さんたちの考課と給与の計算。任務ごとの要素を追いかけて反映していく作業だった。分厚いファイルを胸に話し掛けると、いつも優しく笑っている主任さんが、珍しく少しだけ申し訳なさそうな顔で言ってきた。
「申し訳ありません。折角やっていただいた作業ですが、いったん中断して頂けますか」
ぞくり、と背筋に悪寒が走った。
「担当してもらっている矢田隊長以下、9名の隊員が全員お亡くなりになられました」
脳裏を安中さんの笑顔が過ぎり、粉々に砕け散る。伝斗くん、と呼びかける声に滲んでいた温度が冷めていく。
「作業としては、死亡処理と殉職に伴う手当の計上、遺産の評価と処理が生じます。担当して頂けますか?」
シンと静まった室内。キーボードを叩く音が十数秒止まる。黙祷の儀式のような時間が流れ、ふと私はその静寂は私の返事を待っているのだと気が付く。新人がここで倒れるのか、踏みとどまるのか、試されている。別の意味で冷や汗をかく。
「やります。でも、少しだけ時間をください」
一斉にタイプ音が復活したのを背に、私はトイレに向かう。顔を洗って、徒労感と喪失感を心の底に押し固めて、深く、深く沈めて重石をつける。情けないことだった。腹立たしかった。席に戻り、PCを引き寄せる。画面をにらみ、指を走らせる。ここにいる人たちは皆、仮面を持っているのだった。私がやってきた場所が、その本性を見せてきた。立ち向かわなければならなかった。
裏切りのベル
全ての作業には始まりと終わりがある。それは時間の制約上訪れた限界かもしれないし、持てる力を尽くし切った勝利かもしれない。少なくとも、私たちが辿り着いた終わりは、期限を守り予定より膨れ上がったタスクを全て片付けたものだった。深夜零時をとうに過ぎて、担当者全員から報告を受けた主任が一つ頷く。
「これにて今期の作業はすべて終了です。皆さん、お疲れさまでした」
力ない控え目な歓声が上がる。打ち上げとかの気分でもないし、片付けをして解散にしましょう、との主任さんの言葉に同意する一同。机に突っ伏していると、古戸さんが心配そうにこちらを見ていた。げっそりとした表情の中に、確かに喜色が混じっているのに、急に嫌悪感が湧いてくる。何とか押し殺して、私は微笑み返す。
「大丈夫?その、仕事増えたでしょ」
「なんとか。あの、ご家族への通知とかは」
「人事の担当だね。大丈夫、あなたの仕事はもう終わったんだよ」
「そう、ですか。終わり」
「片付けはいいよ、やっとく。もう帰りなさい」
はい、と返事をして、私は家路についた。途中のコンビニに寄ってしまう。そうしないと、座り込んでしまいそうだったから。それでも何かを買う気力はなくて、形だけ棚を見回し、バイトの男の子の目線を感じながら店を出る。それでも、少しだけ気力が戻ったようで、私はとぼとぼと誰もいない部屋に帰り着くことが出来た。暗闇にぱっと明かりが灯ると同時に、急に気分がハイになる。
手始めに靴を脱ぎ捨て、勢いのままベルトを外して引っこ抜いた。お気に入りのそれを床に投げ捨てながら廊下を進み、スカートを洗濯籠にシュート。空中で広がったそれは失速して枠を外し、洗面所の床に力なく広がる。洗濯機はご近所迷惑だろうから明日に回すことにして、そのまま冷蔵庫に食料を求める。料理をする気にはとてもなれなかったから、冷凍庫からピザを取り出してレンジに放り込み、ちょっと手荒に扉を閉める。指先で突き刺すように600Wで5分。音を立てて動き始めたレンジに背を向けて、シンクで手と顔を洗う。ブラウスは、食べるときに脱ごう。買いだめした残りの発泡酒のトール缶(糖質70%オフ)を掴んで、幽鬼のような表情で丸テーブルを目指していた時だった。
ピンポーン、と。チャイムが鳴った。同時に薄い扉の向こうに、ずっと会いたかった気配がした。
「あの、飯沼だけど」
心臓が跳ねるとは、こういう時のことを言うのだろう。そんなことをしている場合ではないと分かってはいる。分かってはいるのだが、私用の携帯を取り出す。無慈悲な電池切れ。きっと連絡をくれていたはずなのに、もう何日も見てなかった。落ち着け、何をすればいい。まず散乱している洗濯物は全部まとめて洗濯機に押し込み蓋をする。その後下半身の心許なさに辛うじて気付き、もう一度蓋を開けてスカートを回収する。ベルトが、ベルトが見つからない。もういい手で押さえておこう。見られたら困るものを押し入れに投げ込む。途中で思いっきりテーブルに足をぶつけた。必死に表情を作る。笑顔、笑顔だ。
時間にしてはきっと2分くらいだったはず。ドアを開けると、飯沼くんは嫌な顔一つせず待っていた。
「ごめんなさい、電池切れてて、その」
「大丈夫、今週は大変だったんだろ。それで、これよかったら」
提げていたビニール袋には、私が前に好きだと言ったビールが沢山入っていた。糖質オフの発泡酒なんかじゃない、美味しいお酒。
「既読付かなかったのにごめん、留守でもドアノブに下げて帰ろうと思って」
「ありがとう、あの、良かったら上がっていって」
手を引く。
「ちょうど帰ってきたところでね、ご飯を作るところで」
頭の中で飯沼くんに出せるご飯が何かないかと必死で考える。そうだ、ベーコンとパスタなら。言いかけた瞬間、チーンと、電子レンジのベルが鳴った。
飯沼くん、すっと台所に姿を消す。あ、いい匂い。ピザだ、美味しそう。そんな言葉が聞こえる。自分の中で緊張の糸が切れたような感触がしたと同時に、腰に引っかかっていたフレアスカートがパサリと床に落ちた。戻って来た飯沼くん目掛け、私は棒のように倒れこむ。きっとチャイムが鳴ったあたりで、いやもっと前から、限界だった。
立ったまま泣きじゃくる私を飯沼くんはじっと受け止めてくれる。
「わた、私、途中から、全部数字に見えてた。みんな死んじゃったのに、もう会えないのに!終わらせなきゃって、仕事は本当に多くて、それで」
後はもう、言葉にならなかった。飯沼くんは何も言わずに私の頭を抱いて、じっと傍にいてくれた。落ち着いた辺りでリビングに座らせてくれた。私がもそもそと部屋着に着替えている間にピザをもう一枚温めてくれて、差し入れのビールと一緒に食べた。3枚で398円のピザは彼の手から食べると、この世のどんなものより美味しくて。交代でお風呂に入った後に、髪を梳きながら乾かしてもらった。誰かといて、こんなに無防備になったのはいつ以来だっただろう。甘える私を抱いて、一緒にベッドに倒れこんで。そして私は飯沼くんの腕の感触の中で、微睡の闇に急速に吸い込まれていった。
傷だらけの朝
目を覚ました時、私はいつの間にかきちんと寝間着を上下に来ていて、頭はいつになくすっきりしていた。土曜日のお昼前。飯沼くんは既に起きていて、壁際で本を読んでいた。以前一緒に寝たときもそうだったことを思い出す。この人は寝顔は見せても、人より後で目覚めることはないのかもしれない。寝たふりは出来ても起きたふりは出来ないから。
冷静に部屋を見渡す。中々の惨状だった。昨夜は気付いていなかったけれど、カーテンレールには部屋干しの下着が掛かっているし、テーブルの上にはビール缶とピザの紙皿が残っていて、昨夜出すはずだったゴミが一杯になってゴミ箱から溢れている。でも、もう騒ぎ立てる必要など、一つもなかった。
「おはよう。よく眠れた?」
「うん」
「手伝うよ。片付けしないとな」
天気がとても良かった。洗濯機を回して、その間に朝ご飯を作る。ご飯とインスタントのお味噌汁に卵焼き。ご飯は思い切って鍋で炊く。早い炊きあがりに飯沼くんが少し驚いていた。本当は水にさらす時間をもう少し取りたかったんだけど。
食べ終わって洗濯物を干すと、やることがなくなってしまったら、取り繕うものもなくなって。相手にも同じようなことを期待して、私は前からずっと気になっていたことを聞くことにした。
「飯沼くん、そのリストバンド」
「ん?」
「私もお揃いの、欲しいな」
飯沼くんの顔が、すっと真顔になる。声だけは優しいまま、彼はなぜ、と聞いた。分からない、と答えると、彼はしばらく考えてから、少し出てくるよ、と言い残して出かけて行った。30分もせず戻ってきた彼が持ち帰ったのは、ピアッサーだった。受け取って確認する。ステンレスの針、ファーストピアスは淡いオレンジの石がついているらしかった。
「ごめん、俺のと同じって訳にはいかないけど。これでよかったら着けて欲しい」
消毒用具を用意して、飯沼くんはてきぱきと準備をしてくれる。据え膳上げ膳という言葉がふと頭をよぎる。
「あのね、自分じゃ怖いから。やって?」
「いいよ。後ろ向いて」
表情が見えなくなる。飯沼くんは、本当は法律とかでダメなんだけど、と言いながら、私の耳にそっと触れる。アルコールのひんやりした感触がして、そっと針と反対側の面が私の耳たぶにぺたりと添えられた。
ちくりとするのは一瞬。これで、良かったんだ。そのまま、私は飯沼くんにもたれかかる。天井を見上げると、やっと見慣れてきた筈の電灯が妙に眩しく映った。
-6 months…
境界の食事会
「桂木さん、お野菜切り終わりました。人参はこのくらいでよかったでしょうか」
「ありがとうございます。ああ、飾り切りだ。もみじですね」
「少し早いかもしれませんけど」
「いえいえ、もうすぐ夏も終わりですし。ちょうどいいかもしれません」
厨房で繰り広げられる和やかな会話を聞きながら、四宮は飯沼と向き合っていた。以前からたまに三人で桂木の部屋に集まる習慣があった。主に四宮が桂木の料理に舌鼓を打ち、桂木が栄養の偏りを心配して飯沼を呼ぶ形で発足した食事会。久々に開催されたそれに客人が居て、しかも誰かが桂木と一緒に食事の準備をしているのは新鮮味がありながら、どこか奇妙な風景だった。
「お前、行かなくていいのか」
「三人いたら狭くて仕方ないでしょ」
余りにも能天気な部下に、四宮は思わず舌打ちをする。
「え、どうかしましたか、四宮さん」
「お前、あのピアス。オレンジだな」
「よく見てますね。お揃いです、いいでしょ」
手首を振って見せる飯沼。そのリストバンドの詳細は勿論知らないし、知りたくもないが、機能についておおよそ想像は付いている。あれは首輪だ。暴走した子飼いの人員をいざというときに始末する装置の筈だった。それを得意げにお揃いなどどは。
「お前、いい加減にしろよ。あの子とのこと真面目に考える気があるのか」
「なんですか、ちゃんと楽しくやってますよ」
「そうじゃない、この先を一体どう」
言いかけて止まってしまうのは、断じて飯沼の目を見たからではなかった。だが飯沼はへらりと相好を崩し、いつにもなく感情をなくした声を発する。
「大丈夫、大丈夫ですよ。ちゃんと考えてますって」
そこに、桂木が大皿を抱えてやってくる。皿を分けないとすかさず独り占めしようとする四宮対策で長らく使われていなかったはずの品。
「お待たせしました。さすがに四人分の食器となると数が無くて」
「スペースもないしな。運ぶの手伝うよ」
「あ、飯沼くん、こっちもお願い」
四宮と飯沼の間に一瞬流れた空気などなかったかのように、会は進んでいく。
四宮も、まだ知り合って日の浅い相手を前にして露骨に不機嫌を表すことはない。だが、腹に据えかねる感じがあり、珍しく箸の動きを鈍らせていた。非常事態でないからか、平素自身が誇る頭の冴えも影をひそめ、居心地の悪さだけが折り重なっていく。
「ところで、皆さんは財団主催のお祭りがあるのをご存知ですか」
食後のお茶を手にして、桂木がふと切り出す。
「ん?財団夏祭りのことか?」
「いえ、長野のサイトで毎年行われている納涼祭です。昔の後輩から例年誘いが来てたのですが、中々都合が合わず、一度も行けていません。今年こそは是非と思っているのですが、折角だから皆で行きませんか」
四宮は息をのんだ。これは二人の為だ。桂木は本当に心の底から、二人を応援しようとしているのだった。
「すごい、長野のお祭って大きなものも多いんです。行きたいな」
「俺も俺も!あんまり祭りで遊んだ覚えがないんだよな」
三人がじっと四宮を見る。真摯な顔、何を考えているのか分からない顔、そして。
その時、ようやく四宮は正面から彼女の顔を見たのかもしれなかった。そこには仕事中に見た顔でもなければ、あの日喫茶店で見た作ったような顔でもない。今この時を楽しみ、祭りに行くというイベントを楽しみにしている女性の顔があった。柔らかで、明るく、吹っ切れたような雰囲気の女性がそこにいて、その耳にはオレンジのピアスが光っている。
「分かった、俺も行けたら行きたい。だが予定を見てからだぞ、無理ならパスだからな」
長野県、サイト8135の納涼祭。その日起こることを、まだ誰も知らなかった。
薄暮の葬礼
納涼祭へと出発する前に、私は三笠さんと連絡を取り合って、ささやかなお別れの機会をもうけた。遺体は見つからなかったそうで、慣例として共同墓碑に刻まれた安中さんの名前をそっとなぞり、黙祷をささげる。
三笠さんは最初、私のピアスを見て少しギョッとしていたけれど、結局何も言わなかった。ただ、少しだけ憐れみを感じたので、この人には隠し事はできないかもしれないと感じる。でも、もういいと思った。
「しばらくあの場所は閉めるわ。少し気持ちの整理がついたらまた始めると思うけど」
「そうですね。きっとまた、お茶しに行きます」
二人並んで日の下に出て、高くなりつつある空を見上げると、高いところを鷹が舞っているのが見えた。目を赤くした三笠さんと別れて、部屋に戻ろうとした時。サイトの門で、黒づくめのスーツ姿の人が私を待っていた。最初に私をここに連れてきた担当さんだった。
「口頭で申し訳ありませんが、一応意思の確認に参りました。今月末で一旦雇用の期限が来ますが、いかがされますか」
私は、にっこりと笑って答える。
「残ります。ここで、過ごしていきたい理由が出来ました」
予想と異なる答えだったのかもしれない。ほんの少し意外そうにしながら、その人は頷いて、身を翻した。正式な書面はいずれ。そう言い残して。
離れていく背中を見送っていると、背後から名前を呼ばれた。優しい声音で、その人が近付いてくる。無意識のうちにピアスを確認して、それがキチンと自分の耳に付いていることを確認して、私は振り向く。
これが例え偽りの幸せでも構わない。そう思いながら。
(仮面のお茶会 了)