「トレンド」という言葉は嫌いだ。それに乗っかってしまうと、自分があまりにもちっぽけで凡庸に思えてしまうから。
虫部 和賀が物心ついた時、既に両親はいなかった。唯一の記憶は母親が歌っていた子守唄だけ。それがいつのものなのかは知る由もなかった。
彼は幼少期を思い出していた。森に独り、置き去りにされていた──周りを木々が取り囲み、ただ泣くことしかできなかった頃。彼はそんな自分が大嫌いだった。自分というにはあまりに弱く、情けなかったから。
そんな自分は今、紆余曲折を経て大きくなった。財団に拾われてから4年が経ち、それなりの権力とそれなりの人望を手に入れた。
……だからどうしたというのだ。こんないつ死んでもおかしくないような環境で得た権力や人望なんて、瞬き一つで紙くず以下に成り果てる。それでも彼は、ここに縋り付くほかなかったのだ。
過去については考えないようにしている。自分のこの環境が余計に悪いものに思われてしまうからだ。
「財団のデータベースをもってすれば両親は簡単に見つかるだろう」
財団で働き始め、何度も言われてきたことだ。それは虫部自身がよく分かっていた。
彼が財団に発見される前、森には誰かが出入りした痕跡があったという。恐らく親が息子を捨てに来たのだろう。痕跡があるならば殊更簡単に見つかるはずだ。
それでも、彼は勧められる度に丁重に拒んできた。
別に両親に恨みがあるわけではない。
ただ漫然と、顔を見たくないという思いがあっただけだ。
両親にはひっそりと死んでいてほしいのだ。
彼は内心、怒っていたのかもしれない。自分を逆境に置き去りにした両親のことが許せなかったのかもしれない。しかし、虫部がそれに気付くことは無かった。
──ニュースの時間か。
虫部はリモコンに手を伸ばし、テレビをつける。
するとそこには、タナトマの4文字が大きく映されていた。
◇◈◇◈◇
翌日、彼は食堂でカレーをかっこんでいた。
「……相変わらず食べ方が忙しないな」
話しかけられ、スプーンの動きが止まる。
「松山博士」
松山は隣に座った。
「昨日のニュース、観たか?」
「ええ」
「一般人がちょっと処置をするだけで死ななくなる、そんな超常テクノロジーがポロッとヴェールの外側に溢れ出たんだ。……まあ、それも財団の思惑通りなワケだが、お前はどう思う?」
──タナトマ、正式名称を擬液相性致死的事象という。その名の通り、液体状の「死」だ。体から死因に応じたタナトマを抽出すれば、その死因では死ななくなる。端的に言えば不死身になるのである。また、その逆も然り。タナトマを注入すればその死因で死ぬ。
「私は特に何も思いませんが」
「へえ、そうかい」
松山は意外そうな顔をする。
「ええ、私は別に長生きしたいわけではないので。抽出はしたい人がすればいいですから、私にはあまり関係ないですね」
虫部のその言葉に嘘はなかった。彼は生きることに執着があるわけではない。長い間ジャングルをその身一つで生きてきた彼は、他の人より真摯に「死」と向き合ってきた。「死」は「生」の終着点。あらゆる生き物は死ぬために生きている。そうしてこの惑星は命脈を保ち続けてきたのだ。
タナトマを抽出することは彼のエゴに反する。理由はそれで十分だった。
「……なるほどなあ」
松山は困ったように頭を搔いた。
「俺はやっぱ、人って死にたくないって思うのが普通だからさ、みんな抽出すると思うんだ」
どこからともなく缶コーヒーを取り出し、おもむろにテーブルに置く。
これは長くなりそうだ。虫部はその缶を見つめながら密かに顔を顰めた。
予想していた通りの長話を終え、PCの前に座った。
文字を打ち込みながら考える。タナトマが広がり、世界はどれだけ変化するだろうか。
松山が言っていたことを思い返す。「みんながタナトマを抽出するだろう──」果たして、それはどうなのだろう。死ななくなることが可能になった世の中では、きっと「生きることの価値」なんてものは薄れていく。そうなると次に人は死ぬことに寛容になるだろう。
まとまりのない思考がぐるぐると駆け巡っていく。ひとたび気を抜けば、きっと押しつぶされてしまう。
もっとも、虫部はその出自からヴェールの外側については詳しく知らない。だが、ヴェールの内側のことはよく知っている。「死」の持つべき価値、それを守ることの重要性を。彼は何度もマトモに死ねなかった人を見てきた。
だからこそ危惧しているのだ。それは虫部という人間としてではなく、一人の財団職員としての葛藤であった。
──両親が生きてたら、タナトマ抜いてたんだろうなあ。
そんな言葉が口の端から漏れだしていたことに、彼自身は気づかなかった。
◇◈◇◈◇
日が低くなり、随分と大きく赤くなった頃、虫部はスーパーマーケットに立ち寄っていた。行きつけの店は閉まっていたので、隣町までやって来ている。
その最中であっても、彼の頭はタナトマのことでいっぱいだった。
虫部は両親が利己的な人間であることを確信していたし、そうであってほしいと願っていた。彼の“理想の”両親はタナトマを抽出して然るべきである。そう考えていた。
……もし利己的でないというなら、一体どうして愛する我が子を捨てることができるのだろう!
何かの事件に巻き込まれて生き別れに? ……まさか。虫部はその考えをすぐに頭から追い出した。
物心ついた時には森の中に捨てられていたことも、今危険と隣り合わせの状態で仕事をしていることも、親のせいにしなければ折り合いがつかないのだ。親に同情の余地などあってはならない。虫部は言い訳を欲していた。
──確か油を切らしていたな。
サラダ油をカゴに入れる。いつもなら買うもののメモを持っていくのだが、今日はそのことをすっかり忘れていた。タナトマの存在に動揺していることが透けて見え、そんな自分が腹立たしい。
カゴをレジに持っていく。一つ一つバーコードが読み取られていく。
「835円になります」
その声は、いつの日か聞いた子守唄によく似ていた。
思わず顔を上げる。胸元の名札には「たかぎ」と書かれていた。
◇◈◇◈◇
──別に、何かをしようって訳じゃないんだ。ただ気になっただけだ。
虫部はペースト状の思考を何度も捏ね、どうにか自分に言い聞かせていた。
彼はその女──「たかぎ」の後をつけている。
同じ電車に乗り込んだところまではまったくの偶然と言ってよかった。ドラッグストアに寄り、胃薬を買っていた。そして電車に乗った時、「たかぎ」がいたのだ。
横目で見る度に、彼女の顔が自分のそれに似ているような気がするのだ。下衆な行いだと分かってはいたが、それを止めることはしなかった。彼が夕暮れに酔った頭で思考する程、確信は深まっていく。
気づけば、虫部は「たかぎ」と同じ駅で降りていた。
なぜ、死んでいてほしいとまで思っていた親のことを追っているのか。あれほど無関心だったにもかかわらず。
……本当に無関心だったのだろうか?
疑念は大きくなる。膨らんでいく。
目を背けたかっただけなのではないだろうか。
自分の境遇を、存在そのものを正当化するために気づかないふりをしていたのではないだろうか。
「たかぎ」はしばらく歩いたと思うと、不意に四つ角を曲がった。
30mばかり後ろを歩いていた虫部は、恐る恐る角を覗き込む。
そこには、アパートの一室に入っていく「たかぎ」の姿があった。小さなアパートだ。築40、いや、50年経っているだろうか。
ほんの一目、ちらりとだけ見て、虫部はすぐに引き返した。
……どうして、自分はこんなにもやるせない気持ちになっているのだろうか。どうして、自分は腹が立っているのだろうか。
何も分からないまま駅へと戻る。
別に「たかぎ」が自分の母だという確証はどこにもない。ただの直感だ。ボロいアパートに自分が想像していた利己的な母が住んでいるわけがない。あの優しい子守唄を歌う母が、そんなにも利己的であるはずがない。全部憶測じゃないか。利己的な母も、優しい子守唄を歌う母も。どうして、どうしてこんなにも動揺しているのだ。どうして、母とも限らない「たかぎ」にこんなにも苦悩しなければならないのだ。
どうして、自分の母親はタナトマを抽出してなければならないのだ。
今まで考えないようにしていたことが津波のように押し寄せてくる。そのまま自分ごと流されてしまいそうで。
いつしか、虫部は駅のホームに戻ってきていた。アナウンスが抑揚のない声で電車の到着を知らせる。
目の前で口を開けている車両に乗り、元来た方へ帰る。
両親は、自分を捨てた。本当はそうではないのかもしれない。自分がそう願っているだけで。両親が利己的で、自分の子供さえも捨てられるような人間ならば、どうして今あんな所に住んでいるのだろうか。どうして今スーパーのレジ打ちをしているのだろうか。どうして自分よりも見るからに貧しい生活をしているのだろうか。そして何より、どうして死んでいてほしいとまで思っていた母がこんなにも哀れに見えるのだろうか。
自分を一人で置き去りにするような人間には、成功していてほしいのだ。虫部は1つの結論に至った。
息子を捨てるほどのことをして、成功しないなんてことは許せない。虫部は利用されていたかった。親の成功の要因に「息子を捨てる」が含まれていないと、自分の苦労が、存在が、すべて無意味なものに感じられてしまうからだ。
親の成功の踏み台になっていたい。その思いは自分を正当化するためのものなのか、一人の子としての、最後に残された子心なのか。そこまでは分からなかった。
電車を降りると、もう夜であった。深い黒の空にはいくつかの星が瞬いている。虫部は胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
──最近は吸わないようにしていたんだがな。
上へと伸びていく煙が、遠ざかっていく電車と重なる。その姿はまるで蒸気機関車のようだ。
辺りの暗闇のせいで、すっかり酔いは覚めていた。
◇◈◇◈◇
財団に勤めるというのは、少々暴力的な言い方をすると「いつでも死ぬことができる」ことを意味する。
──死ぬと一口に言っても様々だ。人間だった頃の顔を思い出せなくなり、人間として死んでしまう者。ある日突然皆から忘れ去られ、存在として死んでしまう者。肉体的に死ぬだけではないのだ。
財団は年中優秀な人材にスカウトをかけるが、大抵はこれが原因で拒否される。それは賢明な判断であるだろう。命は惜しいものだ。
実際に財団職員になってみると思い知る。財団はお世辞にも良い労働環境とは言えない。隣のデスクに着いている職員はコロコロ変わる。時には転属で。時には死んで。
しかし、虫部にとってはそれがかえって心地よかった。彼は他人と交友関係を築くことがあまり得意ではない。幼かった頃の彼にとって、他者──もっとも、それが人であるとは限らないのだが──とは敵であり、また餌であった。歳を重ね、表向きは変わったとしても、そういった黒いしがらみは胸の底でとぐろを巻いている。他人と打ち解ける必要がない職場というのは、ある意味で彼の理想とするものだった。
松山は気さくに話しかけてきてくれるが、上手く付き合えているのかどうかさえ分からない。彼の声に応えている中で、虫部は時々松山がいない世界のことを考えていた。
虫部はタナトマに興味がない。しかし、その表現には若干の齟齬がある。
彼はタナトマに「興味を持ちたくない」のだ。世間はタナトマに、不死に視線を釘付けにされ、ファンタジーだと思っていた世界の片鱗を目の当たりにした。
その注目が嫌なのである。
ひとたびタナトマに興味を向けてしまえば、彼は「タナトマに取り憑かれた人 A」となる。それが許せなかった。他人と打ち解けないことがアイデンティティだと思い込んでいるのだ。その拗れた思い込みは彼の心をがんじがらめにし、彼を盲目へと誘った。
◇◈◇◈◇
2年経ち、テレビで「タナトマ」の文字を見ることが少なくなった頃だった。
虫部はいつもと変わらない様子で財団サイトにいた。施設の前に車が停められる。異常絡みの事故が起きたらしい。人かアノマリーでも乗せているのだろう。
いつものことだ。窓の外をちらりと覗く。
果たして、車から運び出されたのは人だった。
そのエプロンには、見覚えがあった。
虫部はしばらくその場で固まり、そして駆け出した。
走る。走る。階段を降りる。降りる。なぜ走っている。なぜ急いでいる。分からなかった。それでも急ぐ他なかったのだ。
虫部はかつてないほど冷静でなかった。
たかが人一人。
たかがエプロン一枚。
たかが母。
されど──。
虫部の目の前に男が立ちはだかる。
「走んな」
松山だった。
「通してくれ」
「ダメだ」
「なぜだ!」
「なぜってなんなんだ、なぜって。事故が起こって被害者を搬入してるんだよ、分かるだろ?」
松山は困惑したように首を傾げる。
「ああ、知ってる、だが今はそういう問題じゃないんだ」
虫部は松山の顔を睨みつける。
松山は手元の書類と虫部の顔を交互に見て、頭をわしわしと掻いた。
「あー……大丈夫だから、ひとまず戻ってくれ。今はダメだ」
宥めるような声だった。
そのたった数秒の仕草は、虫部を冷静にさせるには十分すぎるほどだった。
咳払いをし、軽い会釈をすると、たった今走ってきた道を戻って行く。
少なくとも虫部にとっては、それで十分だったのだ。
◇◈◇◈◇
「たかぎ」へのインタビューを頼まれたのはその4日後だ。
松山にとっては親切のつもりなのだろう。半ば押し付けられるようにして担当に入れられてしまった。
もっとも、拒否しなかった虫部も虫部なのだが。
医療棟へ立ち入ることは滅多にない。扉を開くとツンと鼻をつく消毒の匂い、白い廊下。
──あまり好きではない。
ぬるい息を吐き、「たかぎ」のいる部屋へとまっすぐ歩く。
ノック。「はい、」と返事。ドアをスライドさせる。「たかぎ」がベッドから身を起こし、こちらを見ている。
その顔に目を向け、極めて事務的に言い放つ。
「すみません。事件について伺いたいことがあります」
インタビューに先立って、事件の概要は大体把握している。あのスーパーにやって来た客が突然何らかの能力を発現させ、自分もろとも建物を吹き飛ばした──。簡単に言えばそれだけだ。そこまで大規模なものでもなかったため、被害者も少ない。死んだのはその客を含めた2人だけらしい。タナトマ抽出がメジャーになり、こういった事件で人が死ぬこともめっきり少なくなった。タナトマを抽出するために大金を払うなんてことは虫部にとって俄には信じ難いことであったが、人は死を直視しなくていいようにと、こぞって抽出するのだ。
虫部は「たかぎ」の寝ているベッドの横に腰掛けると、静かにインタビューの開始を宣言した。
「爆発が起こった時、何があったかお話しいただけますか。分かる範囲で結構です」
「たかぎ」の顔を覗き込む。記憶を辿っているようだ。彼女の目元が自分のそれとよく似ていると思った。
「ええっと、本当に曖昧なんですけど……確か……30歳くらいの男の人の様子が、何かおかしくて……」
ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。その糸を切ってしまわないように優しく相槌を打つ。声の調子が記憶にあったあの子守唄と重なる。
「たまにいらっしゃるんですよ、こう、突然大声で叫んだり、おかしなことをする人自体は。……ただ、あの人は……どちらかというと体調が悪そうというか……それで急に、その人の身体から火が出て……そこからはよく覚えていません」
その申し訳なさそうな顔から「たかぎ」の人の良さが垣間見えた。
虫部は「たかぎ」の脆い表情を見て、自分がどれほど馬鹿だったかを思い知った。「こんなもの」に動揺していたのか、と。
「なるほど、ありがとうございます」
柔らかい眼差しで、座ったまま軽く礼をする。
固い笑顔を顔面に貼り付けたまま病室を出ると、一体どこから湧いて出たのか、松山がいた。
「……で、どうだったよ。情報は」
「大した情報はなかったです」
大袈裟に首を振ってみせると、松山は軽く鼻で笑った。
「まあ、だろうな。粗方察しはついてた」
続けて、虫部を見上げるような目線で言う。
「だが、お前にとっちゃ大切なイベントだったはずだ。……ちったぁ冷静になったか」
全てを見透かしたような目だ。
虫部は観念したように頭を搔く。
「敵わないなあ、本当に。お陰様で区切りが着きましたよ」
「お前がシャキッとしないと仕事が回らないんだ、しっかりしてくれよ、虫部」
松山が背中を叩く。電流が走るような痛み。それは虫部にとって心地よい喝となった。
彼女の痩せて骨ばった手の甲を思い出しながら、真っ白な医療棟を後にする。いつかの子守唄を口ずさんで。
明日 海を見に行こう
眠らないで二人で行こう
朝一番のバスで行こう
久しぶりに海へ行こう
スピッツ「海を見に行こう」
バスを降りると、先程まで窓枠で四角く区切られていた海が広く虫部を迎えた。
彼の所在しているサイトが内陸部に位置していることもあり、海に来ることは滅多にない。つん、と潮の匂いが虫部の鼻を刺激する。
朝一番のバスではないし、ひとりきりだが、虫部は衝動的に海にやって来た。海開きはまだしばらく先。おそらく水は冷たいし、釣り道具も持っていない。それでも、ただ海面を眺める時間が必要だったのだ。松山に「区切りがついた」と言ったのは、敢えて悪い言い方をするならば──嘘だ。それは今からつける。
コンクリートの地面から一歩。サクり、と砂の小気味良い感触が足を伝う。虫部は導かれるようにして海岸線へ向かった。
砂に足を取られながら前を見る。
漠然と「大きい」と思った。海というものは、こんなにも「大きい」ものなのか、と。
その青色に気圧されるようにして、その場に座り込む。そして上を見ると、またしても青く、大きな空。
上からも圧力を受けたように感じて、その場で大の字になって寝転ぶ。そうすると、地球が丸いと言われる所以がよく分かった。
目を瞑る。
「たかぎ」は母親なのだろうか。その考えは既に霧散していた。彼女が母親なのかどうか、そんなことはもうどうでもいいのかもしれない。
自分の母親は息子を森の中に置いていくような強欲で、傲慢な人間でなければならないと思っていた。今だって母親がそうであることを願っている。
ただ、色々あった。色々あって、一周まわって冷静になった。冷静になってみると、親に振り回されて、動揺している自分が滑稽だった。
母親には成功していてほしい。その気持ちはまだ残っている。それはきっと、自分を正当化するための思い込みだ。それでもいいじゃないか。自分のために今まで必死に生きてきたんだ。これからだって、そうして生きていきたい。もう、タナトマやら両親やらに我を通そうとして、逆らって、振り回されて死んだ目のまま生きる虫部は終わりだ。
両親の件は、「下らないこと」として折り合いをつけるのが1番なのだ。「たかぎ」を見て思った。自分の場合、両親なんて存在は所詮他人にすぎない。自分に、自分の心に「両親」なんて拠り所は必要ないんだ。仲間がいて、財団があるから。
子守唄を思い出しながら、砂を握る。それは砂であり、遺灰のようなものでもあった。立ち上がり、握ったそれを海面へと投げつける。
それが自分の中に巣食う「母親」の葬式だった。虫部は、なぜだか急に可笑しくなって、爽快に笑った。
「他人と打ち解けないことがアイデンティティだ」、自分の心を縛り付けていたものがするすると緩んでいく。
人の注目することには無意識のうちに興味を持たないようにしてきた。幼い頃からの呪縛のようなものだろう。恐らく、一生治ることはない。ただ、そうやって興味を逸らしてきたものに目を向けてみれば、きっと違った自分が見えてくるのだ。「トレンドに釣られる一般人 A」も悪くないだろう。……というより、きっと、それが性に合っている。
人は死からは逃れられないのか?
結局のところ、その答えがハッキリと社会に叩きつけられることはないだろう。人間はみんな馬鹿じゃないから、怖いこと、触れたくないことには上手く折り合いをつけて避けていく。
そこに明確な答えを求める必要は今のところないんじゃないのか。それこそ、タナトマなんて妙ちきりんな技術が突然現れる世の中だ。きっと生死なんてものは宇宙から見ればちっぽけで、ちょっとしたことで考えなんて変わってしまう。答えを求めようとすることが野暮なのだろう。
タナトマを抽出する人の気持ちが少しだけ分かったような気がした。
──悪くない給料。悪くない同僚。境遇だって、そこまで悪くはないじゃないか。
ぼんやりと空が赤く色づいてくるあたりまで、虫部はそのまま眠った。
◇◈◇◈◇
「たかぎ」が死んだという話を小耳に挟んだのはそれから数日が経ったある日の午後だった。
彼女はタナトマを抜いていなかったのだろう。
「たかぎ」はきっとタナトマというトレンドに乗らなかったのではなく、乗れなかった。不死になる目的や、財産がなくて。
しかし、虫部はそれでいいのだと思った。最早生死というものは「生きている」「死んでいる」の単純な二択ではない。時代と共にどんどん複雑になっていく「生きること」の中で、「たかぎ」は彼女らしく、単純な道を選んだ。先日死んだ虫部の母親は文字通り、息子の手の中で醜く死んだ。それでも、「たかぎ」はこれでよかったのだ。
「たかぎ」の住んでいたアパートの部屋には家宅捜索が実施されたという。しかし、その誘いが虫部の元に来ることはなかった。