黒の娘の幸福なる生涯
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 あなたはごくありふれた家庭に生まれた、ごくありふれた才を持つ、ごくありふれた一人の子どもでした。父は不器用ながら誠実な優しさを、母は献身的かつ朗らかな眼差しを、常にあなたに注いできました。そしてあなたは、そんな二人の愛情を、一瞬たりとも疑うことはありませんでした。
 その日、父が消えるまでは。
 ときに学者であった父より聡明にすら見えた母は、毎日誰かに電話をかけては、怒り、叫び、泣き、すっかり参ってしまったようでした。夕食のテーブルには、温まりきらないパイが上ることが多くなりました。あなたはときおり母につられるようにして、一人きりの小さなベッドに潜り込んでは、枕で目元を拭うのでした。
 けれどあなたは幸運でもありました。消えた父は、自身の書斎から一冊たりとも貴重な本を持ち出しはしなかったのですから。汚れた手で本に触れることを叱る父だけが欠けた書斎は、あなたの一生の宝になりました。
 原子の本、宇宙の本、機械の本、人体の本、その他のあらゆる魅力的な本を読むためには、視界を歪ませるばかりの涙は邪魔ものにしかなりません。自身の髪を撫でる優しい掌の感触も忘れ、夜ごと連なる悲痛な言葉の羅列も届かないほどに、あなたは本の世界にのめり込みました。
 父が残し、今ではあなたのものとなった書斎の隅には、魔法の本もありました。ガラクタを寄せ集め、塩と金属で円を描き、多次元とつながり、神の叡智を得る……というような、突拍子のない話ばかりが詰め込まれた古い本が。意外な蔵書だ、などと思えるほど、あなたは父のことを知りません。三日間かけて全てのページに目を通し、書斎の隅の元の場所に押し込んだ後は、本棚にかかった埃を落とすとき以外、その本のことなど二度と気に留めませんでした。あなたにとっては、非科学的で不気味な幻想に囚われるより、頭の中で組み立てたバイクで夜空をツーリングする様を空想する方が、よっぽど興味をそそられたのですから。
 難しい単語につまづいては、それを調べる知恵を身につけ、いつしかあなたは「スクールいちの天才児」、だなんてたいそうなあだ名で呼ばれるようになりました。その頃には、母の涙もすっかり乾いて、ときおり寂しそうに遠くを見つめること以外は、元の明るい女性に戻ったように見えました。近所の人と顔を合わせるたびに、自慢げにあなたの背を撫でる母の笑顔が、あなたは何より好きでした。

 あなたが進学先で素晴らしい成績を修め、行く先々で憧れの言葉を受け止めて、立派な学者になるまでに、それほど時間はかかりませんでした。目元に皺の増えた母は、あなたの姿をしきりに父と重ねましたが、実際のところあなたとあなたの父親は、それほど似ていませんでした。父が機械と人との架け橋であったのに対し、あなたの目は常に宇宙を向いていましたし、孤独に数字と向き合うのを好んだ父に対し、あなたは常に多くの仲間に囲まれていたのですから。そんなあなたの仲間の一人を、あなたはたいへん気に入りました。あなたと歳近く、あなたに劣らず聡明で、誰より美しかったから──肌や、目や、髪の色ではなく、未来を語るその声色が、燃えるような眼差しが、そして何より、その真っ直ぐな精神が。相手も当然、賢いあなたを気に入りました。寄り添い歩く二人のことを、驚きの表情で見つめるものもいましたが、ほとんどの気の良い人々は、祝福をもって迎え入れました。
 あなたが彼女と結ばれたとき、誰より驚き、そして誰より喜んだのは、紛れもなくあなたの母でした。帰宅のたびにあなたの調子を尋ねていた母は、恋人の顔を知った次の日からは、彼女の調子ばかり尋ねるようになったのでした。共に過ごす何度目かのパートナーの誕生日、母はあなたに、一つの鍵を渡しました。あなたから、あの子に渡して欲しいと。もし彼女がそれでいいと言ったなら、一緒にこの家で暮らそうと。ソワソワとした様子そのままに母の言葉を伝えると、パートナーは声を上げて、くすぐったそうに笑いました。あなたたち三人の新生活は、そうして始まったのでした。

 三人での暮らしは、それはそれは賑やかでした。パートナーとあなたの母とはとても良い友人同士になりましたし、彼女が母を手伝うためにキッチンに入った日には、お隣の老夫婦へ持っていくお裾分け用の皿が、いつも足りなくなりかけるのでした。あなたやパートナーは仕事で長い間家を開けることもありましたが、花の増えた庭が、陽気な小鳥たちが、季節を告げる虫たちが、近所の気の良い友人たちが、留守番係の寂しさを、すっかり消してしまうのでした。
 子どもの頃は夢と憧れの具現であった書斎は、その頃にはすっかり、自宅に存在する第二のオフィスになっていました。父の残した本は確かに膨大な数でしたが、今ではあなたの集めた本、あなたの書いた本、あなたのパートナーの本たちに、すっかり隅に追いやられていました。それでもあなたはときどき父の本を開いては、古い紙の触感と匂いを楽しみ、どうしてその本をそんなに大切そうに抱きしめているの?と首を傾げるパートナーに、ちょっと意地悪な返事をするのでした。

 この頃、母の体調は思わしくありませんでした。毎日のようにしていた散歩も、今では週に二、三度の楽しみでしたし、食もすっかり細くなり、目に見えて痩せていきました。それでも、母はいつも笑顔でした。足が動かなくても、この家には私の全てがある。いつだって花でいっぱいの庭がある。ときどきお隣からこぼれてくるピアノの音がある。美味しい夕食の匂いがある。最愛の娘がいる。あなたの可愛いパートナーがいる。あなたたちの笑い声がする。だから私は幸せなの。そんな話をあなたは毎日聞かされては、ありがとうと、愛してるよお母さんと、笑って返事をしたのでした。花散らす春の嵐が夜じゅう窓をかたかた叩いた次の朝、母を起こしに部屋を訪ねたその日まで。
 愛する人との別れは、あなたにとって初めてのことではありませんでした。それでもあなたは泣きました。死亡広告に刻まれた母の名を読み泣きました。それを見て駆けつけた人々の優しい声に泣きました。母の体が花の種のようにして土に包まれるのを見て泣きました。パートナーがあなたを抱きしめ、彼女の涙で肩が濡れる感覚に、また泣きました。
 泣いて、泣いて、泣いて、あなたはふと、ジャム棚から母が一番好きだった杏のジャムを取り出しました。その瓶は一番新しくて、それでも一番くたびれていて、金属の蓋は母の指の形に沿って凹んでいるようでした。
 あなたはそれを見て笑いました。他のどのジャムを舐めても「杏の次に美味しい」と笑う母が、思い出されたからでした。
 あなたは庭の花に母を見出し笑いました。
 母の椅子のすり減った座板を見て笑いました。
 古いレコードを取り出して笑いました。
 この家は、母の思い出で満ちていました。そして思い出の中の母は、いつだって朗らかに笑っていたのでした。

 あなたは自身の研究の軌跡が詰まった本棚を眺めることが好きでしたが、同時に少しの不満もありました。ここにある本は、みな難しく、重すぎるように思えたからです。
 もちろんあなたにとってではありません。けれどあなたの中の過去のあなたが、宝の山に憧れを抱いた幼い子どもが、私も同じことが知りたい、同じものを読みたいのに、ずるいずるい、としきりに駄々をこねたのです。
 ふと思い立ち、あなたはペンをとりました。空のこと、星のこと、その隙間を縫って飛ぶ鉄の船のことを、まっさらな紙の上に綴っていきました。難しい言葉は、なるべく使わずに。どうしても必要なときは、噛み砕いて。そして、なるべく簡潔に。親が子に絵本を読み聞かせるようにして書かれたそれは、少しして、本物の絵本になりました。
 あなたのもとにはよく手紙が届いたものでしたが、それからというもの、たくさんの手紙のほとんどは、幼い筆跡で一生懸命綴られたものになりました。難しかったけれど面白かっただとか、親にせがんでもっと難しい本を買ってもらっただとか、そんな感謝と喜びで満たされた手紙の中に、ときおりあなたへの質問が交ざるのでした。その答えを書き綴るうちに、それがまた新しい本になり、手紙が増えて、質問に答え、それを束ねてまた本にして、いつしかあなたの新しい方の書斎──かつて母の寝室であった場所──は、カラフルな絵本でいっぱいになりました。
 あるとき、あなたは一人の若き研究者に会いました。握手をし、名を尋ねると、彼の口から出た名前に、不思議な懐かしさを覚えました。記憶の糸を辿り、ようやく終端まで来ると、あなたは目を見開かされました。手紙の子、最初に私に質問をくれた賢いあの子。あなたがそう口にすると、かつてベッドに入るたびにあなたの絵本を読み聞かせてと父親にせがんでいたその研究者は、恥ずかしそうに、誇らしそうにはにかんだのでした。
 気づけばあなたの周りの研究者たちは、あなたより若い人ばかりになっていました。むかし共に夢を語った仲間たちの子どもや孫という研究者にも多く出会いました。あなたはほとんど、彼らのおばあちゃんのようになっていました。そしてそれは、あなたがもうじきここから去らなければならないことを意味していました。
 あなたは少しの寂しさを覚えました。けれど、それより何よりあなたはあなたの新しい仕事のことで頭がいっぱいなのでした。次はどんな本を書こう、どうやって子どもたちに届けよう。パートナーと二人きりの食卓は、いつだってそんな会話で賑わっていました。

 この頃、あなたの体調は思わしくありませんでした。
 散歩に出るにも休み休みで、食事の量もずいぶん減り、あなたのパートナーは度々あなたに心配そうに声をかけました。それでも、あなたはいつも幸せでした。あなたは長く生き、多くを失いました。けれど、日課の散歩の代わりにあなたを訪ねたがる友人たちが、霞む目の代わりに鳥の声が、失ったものの代わりに数え切れないほどの幸福が、絶えずあなたを包み込んでいたのでした。愛する人の瞳を見つめていると、私は幸せ者、という心からの言葉が、いつも唇の端から溢れるのでした。
 あなたがもう長くは生きられないことを、あなた自身が一番よくわかっていました。もしかしたら、あなたはあなたに課せられた生涯の使命を果たせていないのかもしれません。たくさんのやり残したことが、あなたにしかできなかったはずのことが、未だにあなたを待ち続けているのかもしれません。それでもあなたは満たされていました。私がたとえ明日死んでも、愛する彼女はきっと笑顔で送り出してくれるから。遠い昔の春の嵐を思いながら、あなたは最後の原稿に、しっかりとピリオドを打ったのでした。

 これがこの宇宙における、アリソン・チャオの77年の生涯でした。

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