柔らかいベッドに横たわりながら、”人でなし”は右手の写真をぼぉっと見つめていた。
古ぼけた四角形の縁が、やや明るすぎる蛍光灯に照らされて、ちらちらと瞬いている。もう随分と長い間、この場所の他に天井を眺めていなかったが、彼の関心は静かで退屈な現在のこの瞬間にはなく、ただ遠い記憶の縁にあった。写真をベッドの隅に置き、すっと薄い瞼を閉じる。この場所に来てから、あまり良い状態とは言えない精神の健康のために、彼は深い思考を出来るだけ避けていた。答えのない苦悩を巡らせる代わりに、目を閉じて祈る時間が増えた。
「よお、ミスター。ご機嫌いかが?」
痩身の体躯が、一メートルほど後方に飛び上がった。
どしゃん、と音を立てて、ぶつかった本棚からいくつかの書籍が体に落ちてくる。体中に痛みを感じながら、650-JPは自らの機能しないはずの心臓が、地鳴りのような音を立てて鼓動しているのに気づいていた。
「すげーな、寝た姿勢のまま飛び上がったぜ。ショーコー・アサハラのイミテーションか?」
大きく見開いた650-JPの双眸に向けて、男は皮肉っぽい笑みを飛ばした。がっしりした体格の白人の男は、怯え戸惑う650-JPに対し、神父のような同情と慈悲を秘めた茶色の瞳を向けていた。右目の下と首回りの傷跡は、この男が常人では潜れぬ修羅場を経て、この場所に立っていることを想像させた。
「誰ですか、あなたは? 財団の方を呼びますよ」
震える唇を”無意識的に”動かして、埃塗れの650-JPはやっとの思いで脅し文句を吐いた。大凡、この男が普通の人間でないことは、彼にも察しがついていた。職員が予告なしに自身の収容房に入ってくることは有り得ず、またラフなジーンズにシャツという男の風貌は、どう見ても財団のエージェントや研究員の標準的な服装からかけ離れていた。少女のように縮こまる650-JPへ向け、男は大げさにかぶりを振った。
「すまないな、驚かしちまって。見た目の通りのやくざ者なんでね。まあ、そんなところじゃ何だろう? こっちきて座りなよ」
男は、ちょいちょいと650-JPのベッドを指し示す。”でく人形”は従わず、自らの意思で立ち上がった。
「あなたはわたしと同じ”人型SCIP”なのですか? 何のためにここに現れたのか知りませんが、わたしはあなたの仲間ではありませんし、仲間になるつもりもありません」
男を見据えたまま、やっとの思いで喉から言葉を紡ぎ出す。650-JPは、他にも収容されている人間がいることは予想していたが、自分の同類が他にいるとは考えもしていなかった。必死の形相を見た男は一瞬目を丸くしていたが、すぐに嫌らしい笑みを浮かべて、こう言った。
「そう冷たいことを言わないでくれよ、兄弟。あんたがどう思っていようが、俺はあんたの”仲間”の一人なんだ。今から順番に説明するから、とりあえず聞いてくれ」
立ったままの650-JPを尻目に、男はベッドの端に無遠慮に腰掛けた。隅に置かれた写真の存在を気に留めている様子はない。男が腰を下ろしたのを見計らって、650-JPは壁の非常ボタンに駆けた。このボタンを押せば、緊急事態を察知して直ちに機動部隊がやってくるはずである。この男がいかに強大な人型SCIPであろうと、ここは財団の腹の中。たちまち飲み込まれてしまうはずだと、そう考えていた。
壁を見る。
ただただ白く広がるクロスの模様には、どこにもボタンなど存在していないように見えた。場所を間違えたかと思い、慌てて周囲を見回してみる。自身がぶつかった本棚の横、男が座るベッドの近く、どこにもボタンは見つからない。狼狽する650-JPを、男はいたずらっ子を見つめる父親のような目つきで眺めていた。
「捜し物は見つからんよ。そういう風に認識を弄ったからな。英語もちゃんと日本語に翻訳されてるはずだぜ。これで信用してもらえるか?」
思わず、男を睨み付ける。やくざ者は、からかうように右手の人差し指をくるくると回していた。薄暗い部屋、無骨な指のぶれた残像が脳裏を揺らす。650-JPは、姿勢を正して男に向き直る。男は、口元をにたりとつり上げた。
「良い心がけだ、ミスター……何だっけ。何ちゃら数字-JPじゃ呼び辛いな。”ミスター・死体男デッドボディ”とでも呼べば良いのかね」
”ミスター・デッドボディ”は、不快感に眉を顰める。その顔を見て、男は大げさにかぶりを振った。
「冗談だよ、冗談。こうやって巫山戯てても話が進まんから、そろそろ本題に入るぜ」
ベッドに両の掌を置いて、男は胴体を後ろに少し傾けた。ここまで我が物顔に振る舞われても、650-JPは不思議と不愉快には感じなかった。この部屋が本当の自分の部屋だとは、一度も思ったことがないからかもしれなかった。
「まず自己紹介しておこうか。俺の名はJ、J.Fだ。ジェフでもジョーでも、好きに呼んでくれて構わないよ。あんたと同じ、いわゆる超能力者――財団の連中が言うところの現実改変者って奴だ。昔はこの能力で好き放題暴れてたんだが、今は懲りて、とある組織のスカウトマンのような仕事をしてる」
「組織?」
「そうだ。気質さんは飲み込みが早くて助かるぜ。組織はまあ、大体想像がつくと思うんだが、俺たち”人でなし”の互助組合みたいな感じだ。この人間社会で生き延びていくためのな。マフィアを気取ってるわけでもなく、ましてやXメンもどきでもない、メンバーが全員人外ってとこを除けば、財団と大して変わらないところだよ。ここまで言えば分かると思うんだが、俺はあんたをスカウトしに来たんだ」
男の言葉を聞いた650-JPは、ややたじろぎながら左肩に右手を乗せる。
「訳が分かりません。互助組合ですって? そんなものが存在するはず無いでしょう。あなたは何を言っているんですか」
「あー、そこから説明しなきゃ駄目か。そりゃそうだな。うん。じゃあ、たとえ話だ。一人の愚かな男の昔話をしよう」
大げさに両手を広げて見せながら、Jは宣言する。指先の爪まで、何もかも芝居がかった素振り。650-JPは、どこかの小劇場の、売れてはいないが才能のある舞台役者を連想した。
「むかしむかし、あるところにスーパーパワーを持った坊やがいました。名前をJ.Fと言いました。坊やは何でも出来ました――商店から宝石を盗んでくることも、かわいそうな野良犬どもに一年分のバッファローウィングを恵んでやることも、気に入らない金持ちのガキを存在ごとこの世から消し去ることも。
でも彼はガキなりに賢かったので、他の人間が彼と同じ事を出来ないと知っていましたし、自分の能力をとことん隠し通すのが”穏健な”振る舞いだと分かっていました。好きな女の子に対しても」
Jの口調は熟れていた。何度となく違う場所で同じエピソードを語ってきたのだろうが、650-JPは無警戒にも、素直に男の話に聞き入っていた。
「Jには好きな女の子がいました。名前をエミリー・ナッシュと言いました。頭はあんまり良くありませんが、とびっきり可愛い女の子でした。Jは彼女の全てを手に入れたいと思ったので、彼女を思う存分楽しんだ後で、右目を撃ち抜いて殺しました。
殺したとき、彼女の魂だけがふらふらとどこかへ飛んでいくのが見えたので、Jは彼自身の刻印を彼女に刻みました。彼女が天国か地獄か、それ以外の何処に行くのか興味があったからです」
650-JPの身が強ばり、Jは笑いながらかぶりを振った。
「そんな顔せずに最後まで聞いてくれよ。……Jは彼女が「財団」と呼ばれる組織に捕われているのを発見しました。Jは彼女をもう一度自分のものにするために財団に乗り込み、たっぷり楽しんだ後で殺しました」
淡々と鬼畜の所行を語るこの男は、いったい何者なのだろうか。650-JPの脳裏は疑念と好奇心に支配され、危険を感じつつも男の話に聞き入ってしまっていた。
「幽霊だった彼女を捕らえた財団の研究は、彼にとって幾分か興味深いものだったので、データを頂いた後、時系列や細かい情報を無茶苦茶に改竄して放置しました。エミリーは1920年代に自殺したことになっていました。彼のナイスなハッキングにより、間抜けな財団は彼の悪行を感知できず、彼はインディアナで再び悠々自適な生活に戻りました」
「わたしを不快にさせたいのですか?」気質の男は、静かに怒りを露わにする。
Jはノンと指を振ってから、再び香具師の口調に戻った。「しかし、天網恢々疎にして漏らさず。間抜けはJも一緒でした。エミリーが彼の本名――今は改名したので本名ではありませんが――を財団の連中に伝えているインタビューログを、うっかり消し忘れていたのです」
ひとしきり早口で語ると、Jはふぅ、と一呼吸ついた。反応を伺うようなJの目線。650-JPが見つめ返すと、Jはにやりと笑って続けた。
「改竄が発覚してからの財団の動きは、早いものでした。彼らはゲーリー1の安アパートに、GOC……ええと、財団よりももっと過激に人でなしどもをブッ殺したがってる連中と合同で乗り込んできました。Jのママは、事情を説明する間もなく、頭を吹っ飛ばされて死にました。老いぼれるまでひとりぼっちでJを育てたのに、とことん哀れな女でした。
マネキンみたいに転がったママの死体を見て、心底びびった18歳のガキは、小便を漏らしつつアパートの窓から飛び降りました。自分の周りの景色を変えながら彼は必死に走りましたが、どうも彼は何かを物理的に動かしたり、止めたりするのはかなり苦手なようでした。
財団の機動部隊がマシンガンを向けると、何発かが彼の足を掠めました。太股に激痛を感じながら、彼はああ、俺は今日死ぬんだな、とそう思って、曇った空に向かって走り続けました」
収容室の空気は、思った以上に冷え込んでいるように感じられた。春先だというのに、足の爪先がだんだん冷たくなっていくのを、650-JPは感じていた。
「クソガキは路地裏で躓いて、地面に転がりました。この臭い場所で終わるのも自分らしいな、と思っていたところ、目の前に一人の男が立っているのに気づきました。40歳くらいの東洋人の紳士でした。男はガキを見下ろした後、そっと手を地面に重ねました。異常に時空間が歪み、臭い路地裏ではないどこかへガキは連れて行かれました。
そこは古い紙のにおいがする、静かな建物の中でした。男は簡単にガキの足の治療をすると、会わせたい人物がいると言って、入り組んだ迷路のようなその場所の奥へガキを連れて行きました。ガキは女性に会いました――その人は”組織”のボスで、何というか、神でした。神なんか信じていなかったガキも、その存在を信じざるを得ないほどに。彼女は財団やGOCの動きを把握していて、ガキを助けてくれたのでした。
ガキは神の前に傅く、ただのちっぽけなノミでした。ノミは頭を垂れ、神の忠実な下僕になりました――そして、今はここにいるってわけさ」
自分の膝に肘を乗せ、スカウトマンは頬杖をつく。
「ずいぶん長くなっちまったな。この話で俺がミスター、あんたに伝えたかったことは二つだ。
ひとつめ。俺たち”人でなし”にも、外の世界で自由に生きる方法はある。
ふたつめ。財団は俺たち”人でなし”を保護したいなんて思っていない。あくまでも、連中が守りたいのは総体としての人類とその正常性だけだ。
あんたの報告書を読んだよ。”潜在的危険性が極めて高い”って明記してあったぜ。あんたが今後、いくら大人しく木偶人形を演じ続けたところで、連中の本質は変わらない。ひとたび危険だと思えば、奴らは間違いなくあんたを殺す。容赦無い方法で」
「だから、一緒にここから逃げ出せと?」
「それ以外何がある? 俺はあんたに安全と自由を提供できる」
「財団の皆様がそのような酷いことをするとは信じられません」
「まだそんなこと言ってるのか? お袋を殺ったのはGOCかもしれないが、奴らが連れてきたのは事実だぜ」
「わざわざ危険を冒してまで、何故わたしなどのために? 失礼ですが、身の上話をお聞きした限りでは、貴方は善良な人間とは言いがたいと感じました。貴方の本当の目的を教えてくださらないなら、承服することは出来ません」
眉間に皺を寄せつつ、はっきりと答える。回答が意外だったのか、Jは驚いた顔をした。
「あー、確かに、俺たちのメリットも説明しないと納得いかないよな。
ひとつめ。あんたの潜在能力は、あんた自身が思ってるよりも遙かに強力だ。詳しい説明は追々するが、物理的作用に特化した高レベル現実改変者なんて、今時世界中探してもそうそう見つからないぜ。組織で訓練を重ねれば、あっという間に俺や他のメンバーを追い抜かすだろう。
そうしたら、あんたも組織のために一定の仕事はしてもらいたい。何も暗殺家業やXメンごっこをやってほしいわけじゃない。特性を生かして、情報集めや厄介な施設の破壊をしてくれるだけでも、人手不足のこっちは大助かりだ。
ふたつめ。組織は、日本にも俺たちのような存在を”確保・収容・保護”する拠点を作りたいと思っている。その点、日本人のあんたは何かと都合がいいってわけさ」
ぼさぼさ髪の男は静かに立ち上がり、650-JPに向き直った。獲物を睨む爬虫類の目に触れて、650-JPは思わず後ずさりそうになる。
「どうする? もちろん、協力には見返りがある。少なくとも、財団の追撃からは何が何でもあんたを守る。経済的にも一切不自由させない。あんたは何食わぬ顔で、作家でもフリーターでも、クールな禁治産者を気取ってりゃいい。俺たちがどんな願い事でも叶えてやるよ」
魔法使いに毒林檎を差し出された気分になって、死体は身じろいだ。これを食べればお伽噺の人魚になれると思うほど、彼は幼くはなかった。
「申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
「娘さんが大事なんだろ?」
空気に一瞬、小さな火花が散った。Jは小さく笑った。
「この俺が調べていないとでも思うかよ?」
これはJのハッタリであった。いかに組織が強大といえど、遠い国で財団報告書にも掲載されていない情報を得られるほど、彼らの手はまだ長くなかった。しかし、それを知らない650-JPの脳裏は、周囲の現実子と同じく、動揺に荒れ狂っていた。
永遠に思える膠着の後、死体はかすれた声で呟いた。
「本当に……どんな願い事でも叶えてくれるんですね?」
Jの目に一瞬、黄色い光の粒が舞い込んだように見えたが、虹彩の中でそれはすぐにどす黒い闇へと染まった。
「もちろんだ、ミスター。元の家族、新しい女、何でも用意しよう。顔と名前は変えてもらわなきゃいけないかもしれんが」
Jの夷顔を遮るように、650-JPは小さく笑んだ。
「万能の神とやらに自らを捧げて、物言わぬ人形のように生きられるならさぞかし楽でしょうね。でも、わたしはただの死体に過ぎませんが、死んでいるように生きていきたいとは思いません」
「あ?」
Jが低い声を発するより早く、周囲の現実性が、水を抜いた桶のように希釈される。Jは急いでドアに飛び退く。650-JPの決意は固まっていた。
「わたしの願いは……」
収容室の内部は、静まりかえっていた。
男は、すっかり冷たくなったベッドに腰掛けたまま、壁の一点を見つめている。非常ボタン。何かしら不測の事態が起きた場合、この小さなボタンを押すだけで、職員達が堰を切ったように駆けだしてくるだろう。ここに収容されているのはそういう存在だった。
ため息を吐いた。言葉は何も思い浮かばなかった。写真は伏せたままだ。ゆっくりと立ち上がり、大きく息を吸い込む。
周囲の現実が、男の形に澱んで、雷の如く破砕する。地鳴りのような振動とともに、収容室周囲に配置されたスクラントン現実錨が、哀れっぽいスパーク音を立てながら弾け飛ぶ。歪曲の効果は男の四囲十数メートルに及び、波打つ現実子が音も無く中空を飛び散っていた。
警報音が鳴る。まだ足音は聞こえない。監視カメラの方を見る。誰かに見られているような気がした。
「そのまま待機してください。不審な動きをすれば発砲します」
ドアを跳ね飛ばして、対現実改変者戦闘の訓練を積んだ機動部隊が乗り込んでくる。彼らが向ける多数の銃口はブラフだ。本当の殺意は、彼の頭上、収容室の上辺隅にあった。視認不可能な方向から発射される弾丸は、あらゆるリアリティベンダーの頭蓋を即時に粉砕する筈であった。
「SCP-650-JP、突然で驚かせてしまいましたね? 聞こえたかもしれませんが、貴方の周囲で不審な爆発が起きました。これは貴方が引き起こしたことですか? イエス、ノーで答えてください」
担当する女性博士の声が響く。普段通りに優しいが、冷たい棘を孕んだ音階。恐れと不信、怪物に対処する人間の言葉。
銃砲を突きつけられながら、木偶人形は何かを呟いた。
「ああ、そうだよ。見事に失敗だ」
総武線の喧噪が、携帯片手に闊歩する白人男性の存在をそう珍しくもないものとして包み込んでいる。東京の空は晴れ渡っていた。ニューヨークの温度は気に入らなかったが、Jはこのゴミゴミした街が、意外なほど自分に合っていると思い始めていた。
「理由? 単純に使い物になんねえんだよ。戦闘員どころか司書もムリだと思うぜ。あれは――なんというか、”人間”だったよ。悪い意味でな。収容された時にタマまで抜かれたんじゃねえか? あ、そこは問題ない。俺の記憶は完全に頭から蒸発してるはずだ。感情的な部分だけは残ってるかもしれないけどな」
不機嫌さを隠そうともせずに、Jは大股で人混みの中を闊歩する。季節は春だが、故郷のテネシーに比べても、ちょっと蒸し暑いと感じられていた。
「ともかく、組織の日本進出大作戦は計画の見直しをしなきゃならないだろうな。日本はオブジェクトが桁違いに多いと聞いちゃいたが、各サイトの規模も、実際見た感じじゃ想定以上だ。入り口ももっと作る必要がある。マムには悪いが――何? おいおい、マジであのジジイにも会いに行けって言うのか? お前、俺の名前が”99”ニッポンのコメディアンみたいになったら責任は取ってくれるんだろうな?」
ぎらつく太陽の下、男の存在は徐々に希薄になり、誰からも見えなくなっていった。
650-JPは、サイト内の運動場を駆けていた。無数の現実改変を起こしながら、彼の四肢は人工芝を駆け回り、白黒のボールを追いかけ回していた。
「よく許可が下りましたね。特例中の特例でしょう?」
「まあ、理事会もわかってるんじゃないの。ユークリッドをケテルにするよりマシだって事」
煙草を咥えながら、九里浜博士は呟いた。彼女はかれこれ数時間ほど、モニタに映る650-JPを眺めていた。
650-JPが彼女に聞かせた言い分は、以下のようなものだった――内心に抱えた願望が、夢に見るまで肥大化していた。彼女に重大な危機が迫る夢を見たせいで、自分でも衝動が抑えられなくなるのが分かり、周囲の現実に対し、何かをしてしまったのも認識出来た。出来ることなら、強力な記憶処理を施すか、更なる厳重な収容を行って欲しいと、そう申し出た。しかし、彼の特性を考えると、両者ともあまりに危険な措置であった。そして、彼の”願望”は、財団なら大した予算も対策もなしに実現可能なものだったのだ。
「だからといって、オブジェクトの要求を呑むなんて……財団の理念に反します。はっきり言って不愉快です」
「まあ、私だって、単なる同情ならわざわざ管理に根回しまでしないよ。あくまでも、その方がアレの危険性を制御するのに役立ちそうだから、そうしたってだけ。テロリストが身代金を求めてきたなら突っぱねるけど、アル中が”酒があれば大人しく出来る”って言うんなら、ワンカップを与えても良いでしょう? 私らの願いは、アレの治療じゃなくて、大人しくさせて閉じ込めておくことなんだから。財団がより大きな悪を防ぐために小さな罪を犯すのは、これが最初のことじゃないよ」
「……」
二つの笑顔が、ボールの周りをくるくると取り囲んでいる。運動場には、新たにSRAパネルと機関銃が装備された。その気になれば、九里浜博士の一言で、二つの――正確には一つの――命は泡のように消える。二個目のケースに手をつける前に、女性は小さくため息をついた。
「まったく、どっちが”人でなし”だか」
「私たちは……人類のためにこれを行っています。博士は間違ってません」
「あら、早速訂正? 百ちゃんも、あんまり気ぃ張りすぎないことだよ。この仕事ではね」
エージェント・百瀬が恥ずかしそうに顔を赤らめたのを見て、女性は素朴な笑みを浮かべた。
650-JPの大きな手が、少女の髪をくしゃくしゃにする。二つの頬がくっついて、柔らかに形を変えていた。
今日は、娘の10歳の誕生日だった。