ドジャーは毛深い人獣の写真を見て、呆れたように鼻で笑った。「可愛いじゃないか」
人々はそれを蜘蛛熊と呼んできた。息をしているし、調理された肉を食うのだが、明らかにそれの手と頭は哺乳類というよりクモのそれだった。彼らはそれとかなり上手く意思疎通をしすらした。おかげさまで。我々の手で適切に検査させない限り、そいつは早晩死ぬだろう。
「あれは今重要ではない」コーンがぴしゃりと横槍を入れた。彼の顔は現在進行中のビデオ会議の主な焦点、スクリーンの真ん中に配置されていた。信号が暗号化される間に数秒の遅れがあった。GOCの技術、ゆえにセンシティブ過ぎる事はオンラインでは話せない。GOCの耳目から回線を守るために出来ることは何もないのは明白だったが。情報の受け渡しの必要により、多少漏らすことは免れない。コーンとリンズバーグは支部HQ、リャノン・ロックはアフリカへの途上、コルテスはヨーロッパのどこかだった。「あなたのレポートを読み終わった。ありがたいことに、肉が適切に調理されるなら動物に発生している効果は広まらない。唯一のいいニュースだろう。悪い知らせはこれがどこまで広まっているか分からず、制御下におけなければどれだけ事態が悪化するか読めないということだ」
「そもそも問題か?住民には単にE. coliだと言ってしっかり調理させるだけじゃ駄目なのか?少なくとも彼らは食べ物にありつける。私が言いたいのはどうでもいいってことだ。彼らにすれば砂まみれの糞みたいなものを食べるよりは汚染された肉を選ぶだろうし、それか何も無しだ。どん詰まりの第三世界ってやつに住んでるちっぽけなアフリカの小作農なんだ、食う物を取り上げる訳にはいかない」
コーンは激怒しているように見えた。ドジャーは背筋を悪寒が走るのを感じた。やってしまった、終わった。彼女はあまりにも長い間管理職の目の上のこぶだった。どんな些細な発言でも、口に出す前に慎重にチェックする必要があったのだ。丁寧さだとかエチケットだとかいった馬鹿げたことを気にしなかったつけか。彼女は多くの場所から追い出され、多くの職を失ってきたが、管理職の周囲で喋るときのようには、果てなく続く息苦しい節度と被害妄想のようなものを感じたことはなかった。自分の方に問題があるに違いないと彼女は考えた。でも私じゃない。
「ドジャー、」リンズバーグが穏やかな理性の声として介入してきた。「ソマリアから戻ってきたら、少し話しましょう」これだけでコーンの絶叫と罵りよりも不安にさせられた。そしていつもは穏やかで理性的なのはコーンだった。
「ごめん」頬が熱くなるのを感じ、顎を食いしばりながら呟いた。「レポートは最初サンプルと一緒にトレスに提出した。彼が検査している」
「それで?」コーンが辛抱強く訊ねた。
「それは間違いなく何かだが、何なのかは分からない。ここでの私達の装備は何が現に再生を起こしているのか識別できるほど洗練されていない。細菌、ウイルス、プリオン……」
「プリオン?」リャノンがいぶかしげに口をはさんだ。
「私は知らない。私達は知らない。こんな早期なので推測だ」
「分からないねえ」コルテス博士が額に手を当てながら割り込んだ。「説―説明してもらえる?まだレポート読んでないの」
「菌類。ヴ―ヴェスタ寄贈品だ。どうにかして動物が中に入って破片を食べている。どうやったのかは分からない。それが菌の段階でいるときには私達の厳重な監視下にあった。トレスが思うには彼の改造データとヴェスタの人達が入れたオリジナルのコントロールプログラムとの間で干渉があるんじゃないかと。動物に関しては……虫かもしれないし、ネズミかもしれない。あれらがより大きな動物に食べられて、それがさらに大きな動物に食べられて……糞便からも広がったかもしれない、だから糞を食べる犬や猫みたいな動物も感染してしまっている。
それが実際やることは菌類に似ている―基本的に何もないところから何かを作っている。再度どうやってかは分からないが、一旦動物に消費されると、完全に菌の細胞は追跡出来なくなる。発生しだすのは基本的に制御されない細胞の成長」
「癌みたいな?」コルテスが訊ねた。
ドジャーにはその発想はなかった。「おそらく。私の言い間違いもあるかもしれない―制御されない成長じゃない。かなりよく制御されている。それは基本的に全身で素早く細胞を成長させて、余計な皮膚細胞、毛髪細胞、血液細胞といったものを作る。十分に長い間そのままにしておくと、基本的には曖昧に動物に似た、おそらく6つの心臓と30の胆嚢をもつ肉の山になる。フランクは試験したがったが、動物試験は人々に受け入れられない。
純粋に推測だが……もし骨か組織が動物から切り離されたら、成長は失われた骨か組織の再生のみに集中する。穴の開いた船が浸水するようなもので、肉を切り離すことはバケツ1杯の水をかき出すことに似ている」
「それで精神的影響は?」リャノンが口をはさんだ。
「関係している。おそらくは。数時間おきに肉を切り離すよりは成長させる方が苦痛かもしれない」
「これはとんだ災害だ」リャノンがぶつくさと言った。
「知らない。住民が調理する限り安全、分かる?ロック、君がいつも言ってることだろう。未知の恐怖は今困っている人達を救わない言い訳にはならないと」
「ドジャー……」リンズバーグが警告した。その口調は再び彼女に圧し掛かった。"優しい脅迫"、以前彼女がそう呼んだものだ。
「私達は封じ込めようとしている」ドジャーは叱責が続く前に差し挟んだ。「動物を根絶している。死骸を燃やしている。しかし片手で草むしりをするようなものだ。そして毎日新しい雑草が生える。これをコントロール下に置くためにもっとリソースが要る」
「ドジャー、よせ」コーンが警告した。彼の声はあまりに低く、ラップトップの安いスピーカー越しに彼の機嫌を知るのは困難だった。「GOCの耳に届いたら、我々が状況のコントロールを失ったと考えることになる」
「我々が状況をコントロール出来ていないみたいに聞こえる」ドジャーが言う前にコルテスが口をはさみ……そしてそのためにどやされた。
「我々はコントロールを失っていない」コーンは堅固に明言した。「ドジャー、引き続き頑張れ。連絡対象を広げて動向を把握しろ。住民がこの肉を食べるのを止めさせるために備蓄食糧を何でも使え。部族の指導者と町の長老との協調関係が確実に続くように、自由になる資源は何でも使えとフランクに伝えてくれ。彼らが必要だ―AMISOMはソマリランドの奪略者に対処するためにラス・アノドから軍を引き揚げている。もし―聞けドジャー。もし食糧が尽きたら……」
来るべき明白な解決策を待ちうけて、ドジャーは歯を食いしばった。
「最悪のシナリオに限る。アナバシスを使え。ロックのデフォルト設定以外では使うな。持ってこられた動物が清浄で可食であることを確認しろ。これより悪いものが住民に感染しだすのは避けたい」
ドジャーはため息をつき、スクリーン上の顔を一瞥した。何ら挑戦はなかったので、彼女は頷いた。「了解。あちら側で会おう」
彼女はウィンドウを終了させ、ラップトップを閉じた。人々が何より嫌うのは基本的な生活必需品を取り上げられることだった。それが英語を喋る健康な西洋人ならば尚更のことだった。
「私の懸念じゃない……」彼女は荷物を脱ぎ落としながら独りごちた。「業務は終了だ」
手術室の前で3人のボランティアが話し合っていた。本来の建物の設計では手洗器を置くことを意図されていた目立たない隅だった。もはやその設備は不要とみなされていた。
「彼女を信じるべきじゃないって思ってるの、私だけ?」ハージが訊ねた。「あの人が来てから、どんどんこの'監査'とかいうのが全部私達をスパイして、何か……下の方で変なものを試しているみたいな感じになってる。物知りの女のことを悪く言いたい訳じゃないよ、特にミーラは、でもあの人たちは多分彼女の立場のせいで目くらましされてる!下の階に来たあれは何?それと連合の将校のあの人にミッション支部に姉妹がいるってどういうこと?」
「ここですることは全部変だよ。彼女がすることがどう違うっていうんだ?俺も連合の工作員だったけどここにいる。それとはまた別に、家族は選べないし……」オランプは疑念を抱いたボランティアにかぶりを振った。「ほら、十分単純じゃないか。フランクの言うことを信じるかどうかさ。俺は信じるよ。ロックは信用してないけど、それでもパラノイドになるような理由は特にないよ」
「それですよ」頭を覆わずに手術室を出て、ニュースを消化する時間すらほとんどなかったライラが言った。「オパールが彼女について何も話さないし、新人看護師の1人との単独作業に割り当てるよう頼んだっていう事実があるじゃないですか。彼女は機嫌が悪い時だけああなります」
オランプは眉をしかめた。「ライラ……」
「私のことは知っているでしょう、フラン」彼女は素早くヘッドスカーフをまとめ、頭と耳を覆った。「彼女が何者であろうと過去に何をしていようと私は逆らいません。私はもうそういう類の女じゃないし、いずれにせよ彼女はパラヘルサー(Parahealther)ではないという確信があります」
「アフェウェルキ、どういうこと?」ハージが好奇心から訊ねた。
「私には私の事情があるんですよ。話は変わりますが、アフマンはどこです?」彼女は上品に答えた。
「フランクが彼と何人かの子供たちにミュータント肉をいくらか燃やすように言ったよ。まあ当然だね!なんとかしてロックの失敗だったりしたらどうかな!」若い男は付け加えた。オランプが眉を片方弧の形にした。
「ジェイコブも彼の失敗だって言うぜ、ハージ。水に流そう」
「ソマリアに向かってます」小鳥からリャノンの声がはっきりと流れた。「また会えてとてもうれしい。いろいろあっと言う間で、お喋りする時間もなかった」
プリスは肩をすくめた。「十分話したけど」
リャノンは笑った。「あなたは話し好きな方じゃなかったよね」
プリスはラップトップをベッドに置き、自分の宿舎で座っていた。彼女はアナバシスから毛深い獣が来て以降、まだ隔離されていた。それは平穏に捕獲され、4日経過して疾病の兆候は一切なかったが、彼らはまだ彼女を隔離するよう力説していた。獣からはまだ潜在的に危険な病原体のサインは見出されていないが、まだは彼女にとっての安全を意味しなかった。
「私は隔離されている」
「聞いたよ」リャノンは明るく微笑み続けていた。「心配しないで、すぐに出られるよ。少なくとも明日には」
他の暴露された者たちは皆すでに解放されていた。彼女が最も長く留められていた。なぜならあなたは余所者だから。プリスはすぐそば、テーブルの上にあるアナバシスを見やった。いつも喋ることが出来たのだろうか?研究者の何人かが話しかけているのを聞いた覚えはあるが、それが正常なことか、それに暴露したことによる何らかの形の精神影響かは思い出せなかった。
「ただあなたと……あなたと話したい。何の話でも。天気でも。あなたの声が恋しい。話したいことは一杯……ええと、あなたが別の宇宙かなにかの存在でも」リャノンはただ話し続けた。あまりにも下らない。彼女にとってそうであるほどにはプリスにとっての慰めにはならなかった。
プリスはこのタイムラインで彼女を家族から引き離すような何かが起きたと理解した。「私がここに来たとき、放棄された学校の地下室にいた。アナバシスが運んできた物は同一のタイムラインにおいては以前目標になったのと同じ場所に現れる傾向がある。何故私は使われなくなった地下室にいたの?」
リャノンはカメラから視線をそらしながらため息をついた。
「私は死んでたの。大丈夫だよ、本当のことだから。おそらく強盗に遭って刺されたんでしょう、ポケットが空だったことに説明がつく」
「違う、あなたは……私たちには分からなかった。あなたは12年くらい前に居なくなった。少し前に法的に死亡宣告された。バスを逃したので学校から歩いて帰ろうとして、そして帰ってこなかった。学校は捜索されたけど、きっと死体を見逃したんだ……」
プリスは静かに唾を呑み下して頷いた。彼女はなんだかんだあったのだろうと思っていた。
「ごめんなさい」リャノンが言った。「あなたには言っておきたかった、でもさっきの通り、あっと言う間に色々起きて……」
プリスは再び肩をすくめた。「あなたのせいじゃないよ」
他のリャノンがドアを開けていきなり鼻で笑って「君は死んだことになっているよ、ハハハ」と言うのとは違う。このリャノンがすぐに本当のことを言うほどあなたのことを尊敬していないのとは違う。あなたはここでは余所者。
「色々な目に遭った人にこんなことはとても言えたものじゃない」
この、「君は死んだことになっているよ、ハハハ」みたいに。
プリスはため息をつき、目に手を押し当てた。
あなたはここでは余所者。
「どうしたの?」リャノンが訊ねた。
プリスは顔を上げて、姉妹がまだオンラインであるのを見た。
「まだここに馴染もうと頑張っているの。私が言おうとしたことが何でもどうかして人種差別的か失礼になっちゃうみたい。露骨な事は言わないようにできるんだけど、小さなところでなんでも余所から来たから分からない差別的な意味に曲解されてしまうみたい。会話しようとするのは止めてる……ただ単純な、短い発言でやっていくの」
リャノンはにやりと笑った。「あなたの得意分野じゃない」
プリスは彼女を見つめ返した。
「ごめん。悪く取らないで。あなたは自分で思うより高評価だよ。それにここで本当にいいことをしてる。他の人達とはうまくやれてる?オパールに、ジェイコブに、フランクと」
プリスは目を閉じ―予定していたより長い間閉じていた―そしてゆっくりと開いた。「オパール。彼女は喋りすぎ。頭が痛くなる」愚痴をぶちまけたい衝動に駆られたが、それは賢明でないと考えた……彼女は陰口よりも面と向かって不平を言うことを好んだ。それとは別に、彼らは彼女のことを信用していた……それが何らかの形で不利に働いたとしても彼女の問題ではない。「財団はアノマリー使いのヒューマノイドとは働かないの。これにはまだ慣れない。夜に戸締りしないみたいな感じ」
「そのことなら心配しないで。きっと慣れるよ。彼女には慣れないかもしれないけど、少なくともお互いフェアプレーに徹する限りはね」
プリスは再び顔を上げ、反対側の施錠されて密閉されたドアを見た。スタッフが隔離を解除する前に警戒解除を待っていた。彼女は隔離された、なぜなら動眼じみた目をした人熊が近くを通ったので、そして作戦全体を指揮するアノマリーであるので。文脈的には意味が通るが、しかし……
彼女の視線はふたたびアナバシスに逸れた。
あなたはここでは余所者。
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