白夜夢現
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 口の中を硬い物体が転がり回っている。舌に載せて取り出して、正体を見た。
 蜘蛛。赤い斑点の入った黒い蜘蛛が、舌の上で跳ねていた。

 銃弾みたいに蜘蛛を吐き出して、俺は飛び起きた。喉奥に指を突っ込んだ。蜘蛛の歩いた跡がまだ舌に残っているように思えた。誘発された吐き気に従ってえずく。不審な物体はそれ以上入り込んでいないらしく、口からは何も出なかった。咳と一緒に出るはずの声も。何度試しても唾が垂れ流しになるだけだ。

 咳をして生まれた身体の振動を吸い取って、地面が揺れる。自分がベッドにいるのだとそのとき気付いて、今まで眠っていたことにもようやく気付いた。ベッドから足を下ろし本物の床に足の裏をつける。思考力がだんだんと戻ってくる。
 眠ったのはいつ頃か。思い出せない。昨日だったか、今日のうちなのか。何時間寝ていたのかもよく分からない。そもそも今は何時だ。時計を探す。反射的に左手首を触ってみたが、普段している腕時計はなかった。
 焦りが全身から湧いてくる。目許を触り、頭髪を触った。ない。サングラスもキャップも着けていない。身体が震え始めた。待ってくれ。これじゃ無防備みたいなもんだ。時間をくれ。いつの間にか諸手を上げていた。それではどうにもならない。
 視界の隅が黒く染まり出す。頭の上に圧迫感を覚える。俺は口を歪めて、視界を腕で遮るように頭を抱えた。暗闇。どこから何が来ても対処できない。逼迫する不安が俺を半狂乱にさせて、方向も気に留めず走り出す。すぐに壁にぶつかった。耳障りな金属音が響く。腕をずらして正面を覗く。ロッカーが蓋を開けてこちらを向いている。

 見覚えのあるシルエットが視界に入った。サングラス、キャップ、ジャンパー、パーカー、ジーンズ、破れ目のあるリュックサック。飛びついた。グラスのツルを耳にかけて、帽子が髪を押さえつける感覚を噛み締める。これだ。荒れていた呼吸が整っていく。服も着替え、それまで着ていたスウェットを片付ける傍ら、ロッカーにまだ物がないか探った。
 四角い何かが影に埋もれている。手を突っ込んでみると、紐らしきものに触れた。紐の部分を掴んで影から取り出し顔の前に掲げる。

 一眼レフ。本体のところどころに掠り傷が付いている。それを認識した瞬間、安堵に包まれた。特に探していたわけでもないのに何故こんなに安心するのだろう。紐を使って首からぶら下げてみる。首にかかる負荷が、どうしようもなく腑に落ちた。この安堵すら不気味に思えてくる程に。
 そうした不信も即座に吹き飛んだ。ロッカーから白いバッチが転がり出た。突起のある正円と、その中心に向かう黒い矢印が刻まれている。これは。いや、これも。俺の持ち物だ。
 財団。その言葉が蘇る。

 自分の記憶が曖昧になっていたのだと理解した。寝ぼけていたにしてもあまりにも酷過ぎる。
 バッチを襟元に付け、軽く指でつつく。何も不安がらなくていい。財団は俺が所属している組織。ここは財団は施設で、この部屋は俺の私室だ。部屋を見回す。ベッドも、ロッカーも、デスクも、普段から俺が使っている。かけられた写真の一枚一枚にも、壁のシミにすらも見覚えがあった。
 そうだ。この一眼レフの重みにも覚えがある。俺は撮影技師カメラマンで、撮影を主な職務にしているんだ。

 撮影って何を撮るんだ?

 信じられないかもしれないけど、この世界には人類の叡智を超えた存在がうじゃうじゃいがやるんだ。魑魅魍魎が跋扈ってこと。財団はそいつらを研究して、閉じ込めておく方法を探してる組織。で、調査段階で当然画像とか映像とかが必要になってくる。それを扱うプロの一人が俺。

 誰に話してるんだか。まるで自分に言い聞かせるように、冴えない頭に湧き上がってきた疑問を叩き潰す。ここまで正確に答えられるなら脳に問題はないはずだ。どうしてここまで記憶が安定していないのか、それだけが分からない。記憶処置の術後とかその辺りの理由だろう。何か情報がないか、ジャンパーのポケットを探る。

 クシャ、カシャ。プラスチック包装の擦れる音がポケットで鳴った。

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 緑色の飴。握り込んでから開いた手の中で、包装された棒付き飴が現れた。緑は空気と一緒に黒い蜘蛛の模様を内側に閉じ込めている。琥珀のようだった。厚さ数ミリの飴の世界で、その蜘蛛は静止している。

 喉が渇いてきた。かなり長い時間眠っていたのかもしれない。俺は包装を解いて唇の前に飴を持っていった。草の匂いが鼻を掠める。何の味だろう。果実系とか、ミントとか。
 口に含もうとして、蜘蛛の模様が嫌でも目に入る。気色悪い。食品に刻むもんじゃないだろう。それでも忌避感より渇きの方が強かった。舌も食道も乾燥していて、胃液が水分として逆流してきそうだ。大口を開けて飴を舌に載せた。
 苦味が喉奥を目指して駆け抜けていく。爽やかさを兼ねた濃縮された苦味。棒の先端を軽く摘まんで味を吸い込む。その後、分泌された唾と飴が混ざり合って、甘さが液体になって溶けていった。口に充満した苦い香りと甘い液体を唾と一緒に飲み込んだ。原料は特定できなかった。

 糖分を受けて思考が緩みそうになる。頭を振った。もう一度眠るにはまだ早い。
 依然として眠る前に何をしていたかは分からないままだ。ひとまず自分が何をしていたか、誰かから聞き出さなければ。
 ドアを開ける。ドアが等間隔に並んだ職員宿舎の長い廊下が俺を迎える。ウチの施設らしいモノトーンな内装に気が滅入りそうだ。世の中、もっとカラフルでいいのに。

 廊下に出たとき、俺はなんとなく左手首を見た。何かを忘れている気がする。引っかかりを覚えたが、構ってはいられない。私室のドアを閉めて廊下を進む。
 歯と打ち合って、飴がカラカラと自身の存在を発信していた。


 人と遭遇できない。小一時間歩いても廊下を抜けられない。ドアと床と照明が続く。こんな数の職員を雇っていただろうか。何度か試しにドアノブを捻ってみたが、押しても引いても私室のドアは開かなかった。鍵がかかっているのではなく、単純明快なまでに動かせない。
 こんな状況でも俺の足は疲れない。重みが足に溜まることはなく、永遠と歩いていられそうだ。

 困った。理由をつけて廊下の端に座り込みたい。時間が何とかしてくれないかと、目を瞑るのが最善と信じて神の到来を待っていたい。俺に自分でどうにかやろうなんて冒険心はないのだし。けど、まだ動けるのに動かないのは違う。最もらしい口実もなしに何も行動しないのは。もしも待ち続けて決定的瞬間を見逃したらどうする。

 だから、誰に向かって説明してんだよ。自分の行動理由なんて反芻しなくていい。他人を説得したいならまだしも、自分が動くだけなら自分の思うままで大丈夫だって。

 俺は何を心配しているんだ?

 その考えが頭を過った瞬間、施設の壁の一部が抜けた。手のひらより少し大きな欠片が宙を舞って俺の目の前を過ぎていく。欠片は対面の壁に衝突して塵も残さず消え、反対側の壁に穴が生まれた。
 穴の向こうで、照明とは違う明るさがサングラスを通して目に入る。柔らかな雪のような白が一点、空気中を漂っているように映った。
 近づこうとして、迷う。向こうから欠片が押し出されたということは、何かがいるということだ。もし覗き込んだところに爪を立てられたら。壁を突き破って串刺しにされたら。致死性の体表を目にして血を噴き出したら。俺が相手する存在には認識するだけでアウトの奴もいるんだ。
 だけど、たった今現れた穴を調べないと。いつまでも廊下を彷徨っていても状況は改善されない。それに、壁の向こうにいるのは同僚かも。早くそいつを取っ捕まえてこの異常事態から一抜けだ。決定的瞬間を逃すんじゃない。
 理解しろ。何も矛盾していない。この二項は両立する。行動として自然なんだから。

 一歩、足を踏み出した。脳裏に影が浮かぶ。針に似た腕をした、顔面の溶けた人型生物。
 靴と床の摩擦音が響く。壁の裏を幻視する。自律した攻撃意思を保有する記号の集合体。
 緊張感とカメラの負荷。細胞単位での凍え。お前の理外を越えてても不思議じゃないぞ。

 何十もの報告書に相当する危険な存在が俺の頭の中で生まれ、振り払われて消えていく。入れ替わり立ち代わり俺を恐怖に陥れてくる。これで何もなかったらどうしようなんて想像する暇があれば良かった。想像は連続して、途切れる隙も与えてくれない。
 息を吐いた。サングラスから見える白黒の視界、壁に空いた穴。まだ何も起こってない。これから起こることを考えて歯を食いしばる。緑飴の一部が砕け、苦味が広がった。舌の上でじくじくと味覚を刺激してくれる。
 良い味だな。そのとき、初めて思った。

 苦味のきつい飴の汁を吸いながら壁に張りつきしゃがみ込む。情報を得るならやはり穴を覗くしかない。サングラスをしているから眼球の保護はできているがまだ危険ではある。
 狼狽えて俯くと、腹と腿の間で一眼レフが垂れていた。紐を首から外し、レンズを穴に合わせる。レンズは穴にぴったりと収まった。活路を見出した、とはこういう場面を指すのだろう。俺はカメラを手で壁に固定して電源を入れた。

 ブリキらしき缶が最初に画面へ飛び込んだ。テーブルの上に置かれているようで、目を凝らせば板の木目が見えた。光源は画面外に設置されているのか、仄暗い闇が画面のほとんどを占めている。
 安心と同時に、拍子抜けした。ただの缶で終わりか。そう感じてしまっている自分に苛立ちも覚える。いつまでも他人事でいられると思うなよ。自分に自分で脅迫するのも馬鹿らしくなって、さっさとレンズを抜こうとした。

 黒い手が画面を横切る。それから画面いっぱいに指の付け根の部分が映って、しばらく静止した。手はブリキの缶を掴んで画面の奥へと運ぶ。穴を通してコンと硬い音が届く。
 運ばれたブリキ缶は白い手に再度掴まれた。横切った手とは異なる、別方向から伸びた白い手だ。缶の移動を帳消しにするかのように、その手はブリキ缶を元々あった位置に戻した。

 理解しがたい何かが現れる。それだけで俺は硬直して、カメラの前で尻餅をついた。最早、手の挙動や手が行っている物事の意味は気にならない。現れる。それだけでいい。
 この独特な興奮もなんだか懐かしい。ドクンドクンと心臓が熱を生み出している。中毒になってしまいそうだ。

 やがて、手は会話を始めた。壁の向こうから二種類の声が漏れ出てくる。
 聞かせてもらおうか。言葉の群れは頭の中で、定められたフォーマットに記述されていった。

手の会話


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[聴取開始]

黒い手: えー……あの。ええっと……あー、Anteeksiすみません

白い手: 日本語で構わない。君、見たところ日本の旅行者だろう?

黒い手: そうですけど……その感じでめちゃくちゃ流暢ですね、言葉。

白い手: 日本は昔、行ったことがあるからな。フィンランドは住んで十年くらいなんだ。元々ここの生まれじゃないんだよ。

黒い手: はぁ。それで、俺に何の用ですか。テーブルにこんな缶まで置いて。

白い手: なに、簡単な話だよ。現地ガイドを雇わないか。ここは北部だ。ヘルシンキと違って日本語を話せるガイドは都合よく見つからないぞ。

黒い手: そんなことか……。悪いけど、ガイドはいらない。目的地までは一人で行けますよ。森に入っていくわけでもないし。

白い手: そうか。じゃあ、単に友人としてこの場に同席してもいいかい? この向かい、空いてるだろ?

黒い手: まぁ、いいですけど。俺じゃなかったらぶっ飛ばされてますよ。

白い手: 承知してるさ。こっちの気持ちにもなってみろ。地下蔵の跡に作られた暗い酒場でさ、見知らぬ日本人がサングラスもキャップも取らずに明らかにアルコールじゃない飲み物を飲んでいる。俺は君が変人だと理解して話しかけてるんだ。

黒い手: そっちも相当だ。もしかして、ガイド云々じゃなく最初から話を聞きにきたんですか?

白い手: 正解。なぁ、名前は? 何しにこんな土地に来たんだ? 暗い場所でサングラスをかけているのは? 酒場に来てビールを飲まないのは何故? 所謂タメ口で話そうぜ。

黒い手: その所謂の使い方、ちょっと変だぞ。いいけど、質問を絞ってくれないか。

白い手: じゃあまず、名前を頼む。それから仕事。

黒い手: アマナシ。スウィートペアーで、アマナシと読む。仕事は写真だ。ほら、オリンポスの一眼。旧式だけど、澄んだ青がよく撮れるんだ。

白い手: なるほど。カメラマンのアマナシか。ってことはアレを撮りに来たんだな。

黒い手: アレって?

白い手: 白夜だよ。この時期、北極圏じゃ太陽が沈み切らないから観光客も多くてな。夜が来ないで、明け方と昼と夕方を繰り返すんだ。昼寝しちまったら、今が昼なのか夜なのか分からなくなるから気を付けろよ。

黒い手: ああ。うん、そうか。一応、気にかけておくよ。

白い手: 次だ。この酒屋、ムードのために照明が少ないだろ。昔これじゃ手許が見えないってクレームが入って、テーブルにランタンが置かれてやっとこの光の量。どうしてここまで暗い部屋でサングラスをかけてるんだ?

黒い手: んー……説明が難しい。何だろうな。そういう病気だって言えば伝わるか?

白い手: 眼球の病気?

黒い手: 精神の病だ。

白い手: そうか……触れちゃダメな奴だったか?

黒い手: いいんだ。俺も変な病気だと思ってるし。何というか、怖いんだよ。ふとした空間に、自分を殺しに来る化け物が居座ってるような気がしてならないんだ。化け物が俺の頭の中で生まれて、何もない空間に散らばって。俺が油断したそのときを待ってるんじゃないかって。

白い手: クローゼットの怪物とかアンダーベッドマンとかが怖いのか。大変だな、小さい頃からのトラウマが抜けないと。

黒い手: いいや、幼少期は平気だった。いつからこんなに何もない空間が怖くなったんだろうって、自分でも起源を探してるところだ。

白い手: 医者は何て言ってる?

黒い手: その医者の処方箋がサングラスなんだよ。要するに、見なけりゃいいんだとさ。視界を狭くするために帽子も被ってる。アルコールも飲まない。前後不覚になって隙だらけになるのを防ぐためだ。

白い手: でも、それだとおかしくないか?

黒い手: 何が?

白い手: 何もない場所が怖いなら、わざわざこんな暗闇に近づくなよ。闇なんて何もないの頂点みたいなもんだろ。もっと他にもパブやバーはあったはずだし、飲食だけならレストランだってたくさんある。どうしてこんな暗い場所にいるんだよ。

黒い手: さぁ、何でだろうな。俺もよく分からない。ただ化け物を想起し続けるうちに、癖になってるのはあるのかもしれないな。

白い手: 癖?

黒い手: 俺をどこかから見てる奴がいるってことは、俺もこの世に確実に実在するってさ。化け物がいてくれれば、俺は正常なまま顔を引きつらせて叫べる。感情をミキサーされて原型ないまでドロドロにされても、そういう外への恐怖が俺の外殻になってくれるんだ。俺が何かなんて考えなくていい。

白い手: すまない、ちょっと意味が分からなかった。そう考えるようになったのはいつからだ?

黒い手: それもよく分からない。でも、癖ってのはいつの間にか身についてるものだ。精神病と同じでさ。原因も特定できないなら、一生これと付き合っていくことになるんじゃないか。

白い手: 存在しない敵に怯える臆病者なのに、ホラーが好きでブルブル震える奴として生きていくの? 変わってるな、お前。

黒い手: 存在しないものを想像して人生を豊かにしてるだけだ。

白い手: 実は損失じゃないのか、それ。……さて、話の種も尽きたし、プレゼントタイムにしようか。サンタクロースからのプレゼント。本来はガイドを担当した観光客にだけ配ってるけど、特別だぞ。君が気になってたこの缶、開けてみてくれ。

黒い手: 分かったよ。……何だこれ。飴?

白い手: アブサン・キャンディーだ。

黒い手: ものすごく緑色だけど……口に入れていいのか、これ。

白い手: ニガヨモギを原料にしてるからな。アブサンは元々アルコールとして醸造されてるんだけど、飲むときにスプーンと角砂糖を使うんだ。アブサンを注いだグラスに角砂糖を入れたスプーンを載せて、水を垂らしていく。そうするとニガヨモギの油分が反応して白濁する。角砂糖にアブサン垂らして火を点ける、なんて方法もある。

黒い手: 面倒くさいな。風情はあるけども。

白い手: そんな人間のためにアブサン・キャンディーはあるのさ。アブサンの成分と糖分を一緒に味わえる。アブサンはクセが強くて甘みを混ぜないと飲みづらいから、飴と相性は悪くないんだ。アルコールは含まれていても酔いはしないし。

黒い手: そうか。じゃあ、一つもらおうか。俺は元々甘党でね。そろそろ何か口に含みたかったんだけど、こっちの商店じゃ何を買えばいいか分からなかったから助かった。

白い手: 缶ごと貰ってくれていいよ。それで、味はどうだ?

黒い手: コーヒーとはまた違った、すっきりした苦味だな。なかなか良い。ありがとうな。

白い手: いやいや。いい夢見ろよ。

黒い手: 夢? 夢の話なんてしなかっただろ。

白い手: あー、説明を抜かしてたか。アブサンには不思議な夢を見るって作用があるんだよ。狂気的か、それとも幻想的か。普段とは違う突飛な夢を見る。あくまで噂でしかないけど。

黒い手: そうなのか。夢か。……俺は、夢を見るのがそんなに好きじゃない。

白い手: どうして?

黒い手: 自分が何をしても疑問を持てないから。夢の俺はいつもそうなんだ。脈略のない展開にも唐突な状況の変化にも、平然とついていく。起きてからその不条理さに気付いて、深層心理で俺はこうなのかって悩むんだ。こんな滅茶苦茶な思考と行動で生きたがってるのか、って。

白い手: なるほど。どうだろう、実は逆だったりしないか? 滅茶苦茶になっている部分はどうだっていい。そんな滅茶苦茶になっている中で疑問を持った数少ない物事こそ、君にとって重要なんじゃないか?

黒い手: 参考にしておくよ。ああ、そうだ。これは興味本位なんだけどさ。

白い手: 何だい?

黒い手: 夢の中でアブサンを摂取してしまったらどうなる?

白い手: 面白い発想だな。だけどアブサンは夢を見せるんであって、相乗効果みたいなものはないと思うよ。んー……でも、夢で眠れば現実に出る。現実で眠れば夢に出る。そのサイクルでずっとアブサンを摂取し続けたとしたら。……ンクッ。

黒い手: どうした?

白い手: 夢と現実の区別がつかなくなったりして、って思っただけ。

黒い手: 嫌な仮説だな。

白い手: 起こりえないと思うけどね。夢にアブサンが生まれなければいい話だ。それじゃ、僕はもう行くよ。ガイドを探してる人間がいないか探してくる。

黒い手: ああ。……なあ。お前、名前は?

白い手: 雇わない相手に名乗りたくないんだけどな。トムテ、とでもしておこうか。この土地の妖精の名前だよ。サンタの助手の。あっ、最後に一ついい?

黒い手: いいよ。

白い手: 足元に落ちてる猟銃、君の?

黒い手: ……何の話だ?

白い手: ごめんごめん。猟師の間で流行ってる冗談だ。また会ったら夢の感想を聞かせてくれ。



黒い手: 何だったんだろうな、本当に。トムテはいきなり話しかけてきて、質問を吹っかけるだけ吹っかけて帰っていった。妖精みたいな奴だ。おかげでこっちも話し過ぎてしまったな。病とか夢とか、個人的な秘密ってベラベラ話すもんじゃないはずなんだけど。話してしまったのは、本当は俺も話したかったからなんだろう。

黒い手: すべてを暴露して解放されたい。深層心理ではそう考えているのかもしれない。でも、今までの癖のせいで秘密は隠してしまう。世界を相手にずっとやってきたんだからな。相手を妖精だと思えば上手く吐き出せたのかもしれないけど、俺はまだ台詞を喋れない。相応しい対話相手がいないから。

黒い手: ほら、これで[聴取終了]だ。いつまでも盗み見するな。盗み聞きするな。

黒い手: いつまでも他人事でいられると思うなよ、カメラマン。

 こちらの目に気付いたんだ。俺は急いでレンズを外そうとしたが、レンズが穴から抜き取れなくなっていた。本体を乱暴に殴っても、回転させても無理だ。下唇を噛み、対策を練ろうと一度カメラから手を離した。
 その隙を狙われる。一眼レフが壁の向こうから引っ張られた。白い壁にめり込み、穴を拡大させていく。拡張された穴は方々へヒビを生じさせ、ヒビは亀裂となって壁全体を這った。今更カメラを掴んで引っ張り返しても遅い。小さな機械が軸となって、壁を今に崩壊させようとしていた。パラパラと粒が舞って床に辿り着く前に消える。
 返してくれ。叫ぼうとして中断する。引きずり込んでいる相手。カメラが奪われる事実より、注意がそちらに向く。身を引き裂かれそうになる思いを感じた手前で、感情は無理やり留め金で一つにまとめられた。

 出てくる。何が。何かが。レンズ越しではなく、俺の目の前に。意識のすべてが目に集中する。瞬き一つできやしない。高まる鼓動を空になった両手で押さえつける。一歩一歩後退し、俺はひっくり返った虫が足を腹に寄せたような姿勢になった。
 崩落音。目を瞑る。痛みは来ない。鋭い刃も圧力も酸も、思考への介入も。まぶたの裏でまとまりのない線が揺れ動いている。輪郭を取ろうとして、そのままぼやけて薄れていった。何も来やしない。立ち上がりながら目を開ける。

 そこには何もいなかった。代わりに、洞穴の入口のような大穴があった。カメラが引きずり込まれ、穴が広がり切って人間一人通れる大きさになっている。
 洞穴を覗き込んだ。廊下の照明が侵食しても、闇はどす黒い。白い光を入口付近で食らい尽くし、最奥まで光は届かない。入口の近くでは、木のテーブルセットやガラスのグラスが壁の瓦礫と一緒に横倒しになっている。唯一、ランタンが独立した光として黒の中で灯っていた。暗闇に足を踏み入れ、俺はランタンを拾い上げる。掲げ、空間にあるものを確かめた。

 そのうち、カメラが頭で像を結ぶ。はっとして、這いつくばって辺りを探し回った。身を引き裂かれそうになる思い。それが再生され、苦しみになって襲いかかってきた。強迫観念が歯の力を強める。口で息をして、じゅると苦い飴汁が棒をつたって零れ落ちた。汚いなと一瞬冷静になって思考が引き戻される。ロッカーでカメラを見つけて以降、俺はそんなにカメラに執着していただろうか。腑に落ちていた程度だったはずだ。

 奪われることをどうしてそこまで拒絶している?

 呆然として、暗闇の中で固まった。膝立ちで座る格好のまま脱力して、無意識のうちに足が曲がる。カンッと硬い物体を蹴っていた。手を伸ばし、掴んで引き寄せる。ランタンの光に照らされ、カメラが黒い姿を現した。
 肩紐を首にかける。再び、負荷が首に沈んでいく。これだ。元に戻った。首から伸びた紐は下に向かって引っ張られ、緩むことはない。一眼レフのシルエットが胸の内側にある空間を埋め、俺を固定している。抱えていた疑問も溶解していた。心に刻まれた影を奪われたら一大事に決まっている。
 俺の執着は必然だ。俺の構成要素だ。取り外そうものなら大変なことになる。当たり前だ。自分を顧みるな。掘り返したところで、新しい発見は何もないんだから。

 余計な思考を振り払ってランタンを掲げた。さっきまで話していた手はいなくなったようで、横倒しになった家具以外には何も見えない。だだっ広い闇が周辺を包んでいる。
 収穫なしと切り上げようとしたところで、闇の奥が鋭く輝いた。ランタンの光があってようやく見つけられるくらい小さな白が、黒の中で星のように留まっている。あそこに行けば他の人間と出会えるだろうか。足先が白に向いた。このまま廊下を歩き続けるよりは可能性があるだろう。
 しかし、そのためには何もない暗闇を横切らなくてはならない。暗闇に浮かぶ無数の目を想起した。四方八方、どこから奴らが襲いかかって来ても対応できない。突発的に現れてもおかしくないのに、その前兆を察知できない状況がどれほど危険か。

 唾を飲んだ。飴の苦味はまだ残っていた。口内から鼻腔を通り抜け、草の匂いが身体の震えをリセットする。やるしかない。生き抜いていくためには。ゆっくりと深呼吸をして、前を見据えた。口から吐いた息が緑に染まって、煙草の煙のように散る。
 煙が消えないうちに、暗中へその身を突っ込んだ。緑の幕を突き破って闇を駆ける。白い星は一向に大きくならなかった。一秒でもいい。一秒でも、この何もない空間に滞在している時間を減らせられれば。
 走っている最中、ランタンを落とした。足元から砕ける音がしたが、立ち止まる暇はない。俺は生身を晒している。生身を闇に浸しているんだ。何に身体を貫かれても自業自得だ。奴らに気遣いは期待できない。

 鎧があればな。中身を閉じ込めて守ってくれる鎧が、俺の身体にもあれば。
 外殻。黒い手が発した言葉を反芻する。俺の身体の輪郭をなぞるように、乱雑に吐き出した緑の煙が後方へと流れていく。煙に覆われた俺の中心で、心臓が懲りずに熱を放っていた。


 白が、星とは似ても似つかない一本の線へと変化する。目覚めて以降で一番嬉しい出来事と言ってもいいくらい、走り続けるうちにその兆候ははっきりと見えた。側面から潰されたように縦へと伸びていく。ドアの隙間から漏れ出た光だと認識できるくらい、最後には長い線になった。
 あの白が出口だという考えが確実になるにつれ、口から吐き出す緑の煙は薄まっていく。俺を覆っていた厚い緑の層は気付けば見えなくなり、心臓の熱も平時と同等に収まる。暗闇を抜けて出口に出られることをどちらも鬱陶しく感じているように思えた。
 また他人事かよ。いいじゃないか、事態は着実に好転してるだろうに。何が不満なんだ。

 なあ、もしかして、俺はさ。

 問いかけようとしたとき、足裏に異様な感触が伝わった。紙を踏んだ。日常的な感覚だったので震えも飛び退きもせず、一旦走るのをやめてその地点に戻る。罠の可能性も考えたが、ドアの光が微かに届いてくれたおかげですぐに踏んだものが何か知ることができた。俺は落ちていたそれを拾い上げ、光に晒す。
 封筒だった。俺の名前が記された白い封筒が開封された状態になっている。指を差し込み、入っていた書面を表に出す。複数枚の紙に大量の文字が並んでいたが、俺が読み取れたのは文書のタイトルだけだった。

財団の解散、及びそれに伴う記憶処理と業務異動についての案内

 理解が追いつかない。追いつかないはずなのに、俺は文字列の意味を飲み込み始めていた。語彙が身体に染み入って嫌悪感が膨張する。膨らむ嫌悪は印刷された文字を打ち返せるほど強くなく、じりじり押し返されていく。
 何を恐れて、何を嫌っているのか。俺は化け物が怖いんじゃないのか。じゃあ、今抱えているこの嫌な気分は何が発端なんだ。自分でも分からない。分からないし、頭が少しも働いてくれなかった。本体から心だけを抜き取って、暗い部屋に置き去りにされたように感情が沈む。糸がすべて切られた人形を思い浮べた。

 ふらふらと後退りして、背が壁にぶつかって止まる。背後から、白い光の線が俺を照らす。力なく、固く閉ざされたドアにもたれかかった。数秒支えられた後で、俺の身体は後方へと倒れ込む。ドアノブに触れてもいないのに俺の微弱な体重でドアは開いた。
 仰向けに寝転ばされた俺の顔に黄色い光が降り注いだ。何十人もの人間の声が混ざった雑音が一斉に耳を叩く。

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 パーティ会場らしき広い空間に転がり出ていた。大量のシーリングライトが取り付けられた部屋で大勢の人がテーブルを囲んで談笑している。黄色の眩さに目を閉じた。暗い場所から一転してここに出たからか、瞳が光に慣れるのには時間がかかりそうだ。

『やあ。君も招かれたんだね』

 頭上から声がした。顔を上げると、片手にワイングラスを持った男がこちらに手を伸ばす。カジュアルなモノクロのジャケットを羽織った彼の顔は、白い歯以外まったく見えなかった。逆光のせいで白い歯以外はすべてが黒い影になってしまっている。

『君も財団の職員だった者だろ? そのバッチで見分けがつくよ』

 手を取ると男は引っ張り上げてくれた。俺のバッチを指さしてから、含み笑いをしてグラスを傾ける。液体を飲む音がして、彼はぷはぁと息を吐いた。アルコールの匂いが漂う。かなり呑んでいるようだ。
 困惑が心に残留していた。記憶の安定しない俺、誰もいない職員宿舎、警告する手、財団解散の通知。暗闇を抜けて辿り着いたのはパーティ会場。脈略がなく、唐突に状況は変化する。
 教えてくれ、と呟きたかった。俺に何が起きているのかそろそろ知ってもいい頃だ。さっきから何かを疑おうとする度に邪魔が入る。ここには人が詰まっていて化け物が現れるような隙間はない。天窓の外すら白で占められていて、不吉な予兆は現れなさそうだ。状況が安定しているこの間にここにいる人間から教えてもらうのがいい。

 しかし、舌を動かしても言葉一つ発せなかった。必死に口を歪めても掠れ声すら出せない。俺は今までどうやって声を出していただろう。思い返せば、俺は起きてから声を一度も発していない。声を出し方を忘れてしまったらしい。
 その様子を眺め、顎に手を添えて男は唸る。それから指をぱちんと弾いた。

『喉が渇いているのか? こっちのテーブルに酒があるぞ』

 片腕を掴み、彼は俺を人混みの中に連れ込もうとする。違う。全力で首を振ってみるが、彼は前を向いて俺を引っ張り続ける。踵でブレーキをかけようとしても、リードを繋がれた犬みたいにずるずると動かされる。彼の善意が俺を人間の集団へと引きずり込んだ。
 人々は笑っている。笑顔以外を忘れたかのように笑うのををやめない。引っ張られながら、俺は視線をぐるぐると巡らせた。この饗宴に参加している人間はどいつもこいつもラフな格好をして、享楽的な雰囲気に浸っている。靴を確認しようと足元を見た。遊び心のない黒服や汚れた白衣が乱雑に捨てられている。役目を終えた衣装たちは踊り狂う人々に蹂躙され、踏みつけられていた。

 また、懐かしさを感じる。俺は黒服や白衣に袖を通すことはなかったけど、輪郭には見覚えがある。後方からその背を追い続けてきた記憶がある。化け物に立ち向かう衣装群、化け物に引き裂かれる衣装群、化け物を制圧する衣装群。いつか覚えた感動が胸に迫る。俺の両隣に、あの衣装を着た人々がいたはずだ。
 今では衣装群は打ち捨てられ、放棄されている。その光景に凍りつく。何もない空間を前にしたような不安が喉奥からせり上がる。吐き気がして、咥えている飴を落としそうになった。

 俺も捨てられてしまうんじゃないか?

『なあ。君、どうしてまだサングラスをしているんだ?』

 先導する男が腕を放し、くるりとこちらを向いた。半笑いを保ったまま、指を突きつけて俺に問いかける。身震いして俺はサングラスを押さえた。そんな俺の様子も気にせず、男はヘラヘラと肩を揺らす。

『化け物はいなくなったんだ。あらゆるオブジェクトも要注意団体も忽然と姿を消した。だから、財団もいらなくなった。嬉しいだろ?』

 男の白い歯が輝く。周囲で笑っていた人々もにじり寄ってきて、笑いながら俺を取り囲んだ。輪になって並び、逃げ出せそうな隙間を密集して潰している。どこを見回しても、黒い人影が俺を覗き込む。珍品貴品を発見したときみたいな間抜けな笑みが張りついていた。

『監視する少数の人員を残して、財団は解散する。悪夢みたいな異常な世界の記憶は整理され、職員は功績を認められて社会の重要なポストに配置される。君も一流新聞社のデスクだ。喜ばしいだろ?』

 徐々に人の群れはその輪を狭める。腕を振れる範囲を越してもまだ詰め寄るのをやめない。人の壁がどんどんこちらへと迫る。不味い。危機感を直感的に覚えた。俺の空間が削られていく。

『俺、私、僕たちは、異常な世界から解放される。もう、部屋の漠然とした空間や暗闇に恐怖しなくてもいいんだ。夜を堂々と闊歩できる。自由だ。自由になれるんだ。欲していたはずだろ?』

 壁になっている人々に俺は殴りかかる。柔らかい反動が拳に返って弾き飛ばされた。身体の間に指を突っ込んでも退いてくれそうにない。首を振って藻掻く。藻掻き続ける。可動域いっぱい腕を振って、壁を押し返そうとした。彼らは一歩も退いてくれない。俺がどんなに拒否しても、俺を逃がすつもりはないらしい。

『化け物は出てこない。視界を不明瞭にして、空間を認識しないようにする必要もない。だって、化け物はいないんだから。出てこないものには恐怖しなくていい』

 彼らの主張は理解できた。けれど、俺の身体はその主張を飲み込んでくれない。
 財団が解散する理由も分かった。化け物がいなくなったから、収容する立場の組織は不要になったんだ。
 その後どうなるのかも分かった。化け物がいなくなったから、その能力は他の人間のために使えるんだ。
 恐怖が無意味なわけも分かった。化け物がいなくなったから、化け物に怖がる意味すらなくなったんだ。

 本当なら嬉しいし、喜ばしいし、欲していたはずだ。この世に巣食っていた化け物がある日突然いなくなってくれたらどんなにいいか。サングラスをしていないときの恐怖が消え去ってくれたら、色のある世界を見ることだって叶うだろう。
 それでも、俺は笑えない。身体に彼らの主張が染みつかなかった。じわじわと上向きな感情が湧いてくることはない。寒気が肌を走って、足の先から冷えていく。
 悪い予感がする。人群れは身体が触れ合うまでに俺に接近していた。

『もう、サングラスはいらないんだ』

 男が両腕を伸ばし、俺のサングラスを掴んだ。抵抗して、グラスごと顔を手で覆う。相反する負荷がかかって、目許で異音がした。身体の一部を奪われる。それくらい重大な事態だと思えた。首を振るい、顔にかかる手に歯を突き立てる。鈍い声が挙がって、力が一瞬弱まった。
 正面の男を突き飛ばし、そいつを踏んで集団から逃げようとする。しかし、背中側から強い力で引っ張られた。ガクンと首が引き戻される。背後を見やった。いくつもの手が頭や肩や鞄を掴んでいる。振り払おうと全身を揺らしても手は指一本も離れてくれない。身体を倒して逃れようと、前を向いた。
 指が俺の眉間を刺し、鼻とサングラスの間に潜り込んだ。突き飛ばした男の白い歯がぎらぎらと光る。手で押さえつけようとしたが、もう遅かった。

 メキメキと音を立てて、サングラスが俺の顔から剥がれていく。瞳をグレーに覆っていた膜が引き離され、視界は鮮明になる。顔の皮膚が剥がされた。肉の層を風が直接撫でたようなこそばゆさを感じる。
 またしても、視界の隅を黒が染めていく。大急ぎで顔を覆い、地面に突っ伏す。小動物みたいに顔を胸に潜らせると何も考えないように息を殺す。口で息をして、飴の苦味が鼻の奥まで充満する。

 それから、長い時間が経った気がした。
 俺の頭の中には何も現れない。脳は想像を産出せず、ただただ目を瞑ったときの暗闇が広がっている。震えも起こらない。ゆっくりと目を開けて空を仰いだ。
 天窓の白い光が俺を見つめている。その空白から覗き込む者は何もない。周囲の黒い人影が、笑みを浮かべて俺を見下ろすばかりだ。
 俺は何を恐れていたのだろう。疲れだけがまぶたに残った。ぼんやりと情景を眺め、緊張感のない空気に自分を泳がせる。自由。俺は化け物どもから、恐怖から解き放たれたんだろうか。
 何も出てきそうにないな。俺を満たしていた恐れは抜き取られ、俺すらも空白になったように思った。

『視界を狭めるだけの不便な帽子もいらない』
『所属先は変わるんだからバッチはいらない』
『財団時代に着ていた服なんて今はいらない』

 笑い声があちこちで起こる。嘲笑うような笑いではなく、純粋な歓迎の声色をしていた。
 沈黙して空を見つめる俺に、彼ら彼女らはもう一度掴みかかる。否応なしに俺は床に押しつけられたが、抵抗する気力はなかった。されるがままに、俺の肉体の上を手が踊る。手は俺の持ち物を俺から丁寧に取り外して、別の持ち物を俺に着つける。何も感じない。快も不快も消え失せている。糸がすべて切られた人形を思い浮べた。

 黒い手が退く。野暮ったいジャンパーとジーンズも、壊れかけのリュックサックも装備していなかった。キャップもバッチも外されている。洒落たシャツとベストとボトムスを着込んでいて、靴は革靴に変わっていた。
 前から手が伸びて、俺の咥えていた飴を奪い取る。体内に渦巻く草の匂いと癖のある味が引いていく。舌と鼻先から独特の風味が抜け、侵入してきた無味乾燥な気体が気管と消化管に流れる。無害とはこういうことなんだろう。俺は落ち着いていた。
 深呼吸をする。心臓は無駄な熱を発さず、ただ内臓として機能していた。肺が膨らんで、空洞の中の空気を入れ替える。それ以上何も起こりようがない。

 呼吸を繰り返すうちに、胸の上が重いように感じた。視線をずらす。
 オリンポスの一眼レフが俺の中心に置かれている。それだけが剥がされずに残されていた。

『カメラもいらないだろ』

 人影の一人が手を伸ばす。奴は断りもなくレンズを掴んだ。
 俺は肩紐を握り、力を籠めた。

『君が写真を撮る対象はいなくなった。いらないだろ』

 そうかもしれない。俺がこのカメラに拘る理由なんてもうないのかもしれない。
 それでも、俺はぼんやりとこれを手渡したくないと思った。肩紐が首にかかった状態こそが俺だと思う。不安定な意識のまま、俺は緩く首を振っていた。

『いらないだろ。なあ。いらないだろ』

 レンズを掴む力が強くなる。がちゃがちゃレンズを振って俺の手を振り払おうとしてきた。俺はカメラの本体を自分の胸に押さえつけ、身体に固定する。カメラは俺から離れない。
 これだけは俺から離れてはいけないと思った。正確な根拠は分からない。でも、これを失ってしまった後の俺を、俺は想像できなかった。
 これがなければ。これがなければ、俺はカメラマンではいられない。だから、どんなに剥がそうとしても俺の中心に在り続けるんだ。

『なあ。いつまでもしがみつくなよ』

 人影は俺に笑いかける。俺の手を踏みつけ、蹴りつける。
 分かるよ。お前は善意で、俺から俺の構成要素を奪おうとしているんだろう。だって、化け物がいないなら、化け物を撮るカメラマンはもういらない。カメラに囚われている必要はないから、広い世界に俺を解き放とうとしてくれているんだろう。
 奴がレンズを掴む力はどんどん強くなる。メキメキと、レンズと本体の接合部で異音が鳴った。取扱いに注意がいる物品は力任せに扱っちゃいけないと俺もお前も習ったはずだろ。それも異常な世界と一緒に整理されちまったのかな。

 放っておいてくれればいいのに。どうなっても知らないぞ。俺は人影を睨む。
 奴はレンズを引っ張り続けた。怪音も鳴り続ける。
 突然、レンズは伸びた。硬さを維持したまま細長く伸長して、真ん中には穴が空く。先端が波のように揺れた。波が物質を変える。ゴムは金属に変化して、プラスチックは木材に変化して、一眼レフは───。

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 散弾銃になった。

 人影どもは床に寝かされている俺から少しずつ離れていく。白い歯の向きは逆転していた。顔を引きつらせ、醜い表情でずるずると下がる。
 驚嘆と困惑。銃が現れた現象か、銃そのものか。感情を向けている対象を俺は図ろうとする。影になっていて塗り潰された瞳を覗き込んだ。灰色の中に白目が見えて、それから黒目が見えた。
 奴らは俺を見つめている。なんだ、そうなのか。俺を怖がっているんだな。

 俺は落ち着いていた。
 寝転がったまま、銃口を傾ける。カメラは失くした。俺の手には散弾銃がある。ならば、これを握るしかない。しがみつくにはこれしかないんだ。次の役を務めないといけない。誰が役を寄越したのかは知らないけど、手渡されたならやらないと。
 理解して、身体にも理屈が染みついた。銃の安全装置を外す。冷たい金属の擦れる音が響いた。引き金に手を添える。人差し指でカリカリと撫でた。爪は金属と比べると柔らかい。指先で掻いた程度では引き金は微動だにしなかった。

 懐かしい。カメラのシャッターを押す前もこうだった。ボタンは柔らかいようで、少し力を加えたくらいじゃ動いてくれない。意を決して押し込まなければ作動してくれないものだ。
 心配はいらない。この道理は他人に説明してもきっと納得してくれる。
 俺は前の俺と地続きだ。失っていないということを証明しなくてはいけない。

 被写体が真ん中に来るように本体を構え、ブレがないように身体で支える。息を整えて、決定的瞬間に備える。裸眼で被写体の様子を確認して待つ。
 恐怖に支配され、歪んだ顔で叫ぶ人間。恐怖に慄き、そこから一歩も動けないでいる。
 3、2、1。

 笑えよ。

 乾いた音。発射された銃弾が影を砕き、顔を穴だらけにして吹き飛ばした。黒い雨が俺に降り注いで、身体を暖かく濡らしてくれる。顔に沿って液体が流れ、俺の輪郭をなぞった。
 瞬間を捉えられた人影が動かなくなり、静止する。その様子を目視した周囲の人々が、連鎖的に悲鳴を上げた。一目散に逃げ出して、俺から離れていく。混乱は伝播する。床に伏した人間と散弾銃を握る俺を指さして、曲がった口から覗く歯が俺を向いている。
 やっぱり、俺はまだ実在するんだ。騒ぎの渦の中心で、承認するような視線が俺に集まるのを感じた。

 よろめきながらも立ち上がる。眉間を押し上げ、頭を撫でた。そこには何もなくて、俺は俺に触れただけ。
 いらないよな。確かにな。いらないよな。邪魔でしかない。
 それはお前らもだよな。

 引き金を引く。狼狽えて立ち止まっていた人間の肉体が宙を舞って、その本体も回転して倒れた。
 黒服や白衣を脱いだ財団の職員に存在価値があると思ってんのか。自分でそう考えて、数秒後に吹き出した。笑いが腹の底から湧き上がってくる。
 あるに決まってるだろ。引く手数多だろうよ。それくらい人類の資産を食い潰してきたんだから。俺だってたぶん、将来有望だったりするんだろう。だけど、俺はここにしかいない。ここにしか実在できない。狂った舞台でしか存在を保てない。それなのに俺を置いていくなんて。
 ズルいだろ。

 大勢の人間が壁を叩いている。パーティ会場を取り囲む壁にはいつの間にやらドアが並ぶように設置されていて、みんなして懸命に板を破ろうとしていた。けれども、ドアは開かない。誰も逃げられるものか。
 背中に向けて発砲を繰り返した。その度に人はきりきり舞いをして、群れから一人ずつ剥がれていく。弾丸は尽きそうにない。発砲の振動で身体が揺れた。胃が持ち上がって、無理やり顎を開けさせて息を吐かせる。機械の一部になったように感じたが、相変わらず俺は叫べなかった。何も発さず、何も入ってこない。口の中は空っぽだ。
 俺は何もない空間だ。取り囲むものがなければ存在できない。もう俺は、元の俺には戻れない。元の俺は掻き混ぜられて原型を失った。俺を存在させてくれるものにしがみつかなきゃ、俺は崩れてしまう。

 最初からこうじゃなかった。俺の存在を不安定にさせた誰かがいるはずだ。誰だ、誰なんだ。目を巡らせる。焦点がどこにも合わない。視界がぼやけ、曖昧になる。ショートしそうなくらい眼球が回って、知覚する。

 財団お前らか。

 お前らが俺をこうしたんだ。化け物に向かわせて、怖がって立ち向かえなくなったら道具を与えて。俺のキャラクターはサングラスであって、キャップであって、キャンディーだった。化け物が消えたからもういらない、もう意味がないってのは約束破りじゃないか。
 お前らが与えた俺を否定するな。お前らだって何かの引用だろ。
 しがみつくんだ。心臓は激しく拍動し、熱を取り戻す。生きている実感がした。グリップを握り直して、壁に向き直る。

 誰もいない。
 ドアにたかっていた人々は死体の山に代わっている。重なって蓄積し、喚きもせずに塊として佇む。曲がった状態で硬直した四肢が突起していて、まとまりのない外観になっていた。誰が誰だったか分からない。誰もいない。

 空白が、部屋には生まれていた。俺は直立したままパーティ会場を眺める。あちこちに、何もない空間があった。あの壁に、あの床に。あの机の上に、下に。見通しのいい天井に。裸眼で見つめ、待った。
 恐怖はどこからも湧いてこない。これだけの空白を前にしているのに、少したりとも心は震えてくれなかった。真顔で景色を捉え、真顔で唾を飲んだ。俺は腿を殴りつけた。痛みは身体に伝わったが、心は反応を返さない。
 銃が手から零れ落ちる。硬い音が耳を揺らしても、引っかかりもしなかった。音は空洞を転がっていって、深いどこかへ、底に辿り着かないまま落ちていく。

 本当に、空っぽになってしまった。意識が薄くなり、力なく立ち尽くす。
 化け物は消え、平穏がもたらされる。財団はそれを喜び、人類のために別れを誓う。長い長い夜の時代は遂に終わりを迎え、光に生きる者に夜明けが訪れる。白黒の世界は豊かな色に塗り替えられ、墓石にだって鮮やかな花が添えられるかも。

 だとして、俺はどこに生きればいい?

 誰一人、この舞台には残っていない。置いていかれて、この先ずっとこのままか。演じる役すら捨てられたのなら道化になることも許されない。台詞もなく、全員が捌けた世界で時間が経つのを待つしかない。
 頭を働かせようとした。脳の隙間に呼びかけても、何かが出てくる気配がしない。俺の常識を破壊するような超常は死んだらしい。
 良かったじゃないか。恐怖に震えなくてもよくなった。また他人事か。
 他人事なのはお前だろ。

 叫び声を上げようとした。口からは何も生じない。腹に力を入れ、何度も何度も叫ぼうとした。無音の部屋は維持され、場が乱されることはない。何度だって叫ぼうとして、声を掻き消される。激しく肺の空気が入れ替わって、息切れを起こした。それでも息を吸い込んで、吐き出して、前のめりになって、平衡感覚が乱れて頭から床に突っ込んだ。
 床で息をする。呼吸の音と拍動の音が一緒になって聞こえた。自分が、周りの空間と一体になっていく気がした。空っぽの自分と空白が混ざり合って、境界を失う。境界を失った俺は俺を失って、ただ行き場もなく漂流し続ける。何に感情を動かされることもなく、すべてを透過して生きていく。

 嫌だ。そんな存在になりたくない。外のすべてと入り混じりたくなんかない。俺は俺でありたい。
 外殻。俺に外殻をくれ。流動する俺を、外側に付いた骨格で閉じ込めてくれ。
 怖くて怖くて仕方がないんだ。


 
 その言葉を心で吐き出したとき、何かが俺を覆い尽くした。一瞬だけ暗くなったが、目を開いてみると視界は白に占拠されている。身体を捻じって起き上がると、俺は紙の山に埋め尽くされていた。上では天窓が開いていて、あの窓を埋めていた白が落ちてきたらしい。窓の外は黒が占めていた。
 紙を手に取る。財団の報告書だ。軽く目を通しただけなのに、ぞくぞくと鳥肌が立つ。次々と報告書を読み回していった。人類の叡智を超えた存在が、紙の上でうじゃうじゃと躍動している。
 今となっては空想の産物のように、頭の中でしか生きられない存在たちだ。どんなに厄介な異常性でも、どれほど胸糞が悪くなるような事件の結末でも、どのような人々が巻き込まれていかなる顛末に至っていても、現在では虚無に等しい。

 これらすべてが実在していたら、どれほど恐ろしかっただろう?

 カタン、と部屋の隅で音が鳴った。緩く、俺は音の方向を向く。
 開かなかったはずのドアが、押し開けられていた。それから硬い音が連続する。何かがこちらにやってくる。
 出てくる。悟った瞬間、部屋に並んだドアが続々と震え始めた。ガタンガタンとこじ開けようとする音もあれば、カタカタと刻むような音もある。ドアの向こうまで来ているんだ。何が。何かが。俺の存在を察知して、俺に迫ろうとしている。振り出しに戻された。解放されたと思ったのに。俺は頭を抱え、手の隙間から様子を伺う。

 ああ。恐れていた事態が起こってしまった。
 報告書の中心で、俺は心の底から笑う。

 ドアは一斉に開いた。ようやくご対面だ。
 快楽殺人が趣味の縫いぐるみ。人類を嫌悪して嫌悪して仕方のない恒星。無意味に人を連れ去る魚頭。愛に擬態する怪物。水に帰る街の住人。殺され続ける円環現象。何百種類もの禁忌の儀式。俺たちの起源。
 空間は不条理でいっぱいになった。目がある奴も目がない奴も、俺を睨みつけている。震えて身体がまともに機能しない。心から恐怖が湧き上がり、俺の内側を満たしていく。必要以上に口で息をして何とか震えを抑えようとしたが駄目そうだ。
 俺はこの瞬間を、ずっと待ち望んでいたんだから。

 ふらふらと力が抜けたまま、足を動かす。紙の山で硬いものが右の踵に当たった。さっきの銃だろう。藻掻いてみるか。紙の山に手を入れ、取り出した。
 一眼レフが白の群れから現れる。扱い慣れた道具のはずなのに、俺はその手触りをいつまでも確かめていた。プラスチックの表面はざらついていて、レンズのゴム部分には反発がある。指紋を付けないよう液晶画面を爪の先で撫で、シャッターボタンを円を描くように掻いた。
 傷跡が、黒い外殻に残されている。昔、化け物から命からがら逃げるときに付いた傷だ。抉られた溝に指を這わせ、肉を食い込ませた。大丈夫だ。今の俺は昔の俺から続いている。中身が取り換えられても外殻が変わらなければ、俺は存在し続けている。
 肩紐を持って、首にかけた。重み。この重みだ。これからも何度でも反芻して、何度でも安心しよう。胸の中心にこれがある限り、俺は死んでも俺のままだ。

 取り囲む不条理たちに向き直った。すべての方向から恐怖を俺を貫き、押し潰されそうになる。でも、この感覚がいい。この震えが、俺を形作る。失えば俺じゃない。硬質な殻の中身が満たされて溢れそうになる。カメラを構え、ファインダーから化け物を覗き込む。ズームで視認した化け物は想像の何倍も恐ろしかった。
 撮影者であるためには、被写体が必要だ。
 叫びたくて、大きく口を開いた。喉の奥から何かがせり上がろうとしている。
 出てくる。出てくるぞ。顔を引きつらせて叫ぶ用意はとうの昔からできていた。俺はやっと、正常になれる。
 けれど、出てきたのは声ではなかった。 

 口の中を硬い物体が転がり回っている。舌に載せて取り出して、正体を見た。
 蜘蛛。赤い斑点の入った黒い蜘蛛が、舌の上で跳ねていた。

 弾丸のように蜘蛛を吐き出したが、口はすぐに蜘蛛でいっぱいになる。小さな蜘蛛の大群を嘔吐して、白い報告書の山は黒に染まっていく。蜘蛛は絶えない。濁流みたいに内臓から押し寄せ、外へと排出される。俺から吐かれた蜘蛛は俺に群がり、よじ登って俺の表面を埋め尽くす。足がもつれ、仰向けに倒れた。その間も蜘蛛を吐き続け、俺は蜘蛛に沈む。黒が覆い尽くし、硬い外殻が構築されていく。
 脈略のない展開、唐突な状況の変化。油断した隙を奴らは狙っている。
 痛み、触感、蠢き、無間地獄。思考する暇を食らい尽くして、襲いかかってくる。
 
 どうやら、何もない空間は目覚めた瞬間から持っていたらしい。空っぽの胃から蜘蛛が出てくるような簡単な想像で良かったんだ。常識を疑って、探し求めれば、きっと現れてくれる。
 見上げた天窓の黒い外は、まだまだ夜だ。蜘蛛の大群を沈降しながら、俺はゆっくりと目を閉じた。

 俺は恐怖から逃れられない。その事実をいつになく抱き締めていた。




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 寝袋の上で俺は目覚めた。風が俺の顔を撫でる。起床完了。寝袋から跳び、軽く屈伸して伸びをした。
 正面には三脚に載せた一眼レフがセットしてある。オリンポス、E-410。液晶画面を見たところ、電池残量に問題はない。このまま仕事を続けよう。

 辺りは一面、白黒だ。何故だろうと目許を触ろうとしたらサングラスに手がぶつかった。グラスをかけたまま寝たようだ。変な日焼けができかねないからできるだけ避けたいのに。恥ずかしさから頭を掻こうとして、今度はキャップと手が当たる。帽子もか。
 仮眠前は余程眠かったんだろう。眠る前の安定した記憶も、どこかに消えてしまっていた。でも、俺の今日の仕事内容は決まっている。

 白夜に乗じて現れる空棲オブジェクトの撮影だ。毎年、フィンランド北部の特定地点で異常性不明の飛行実体が観測されている。これまでは違う担当者がいたが、回り回って今年から俺が定点観測任務を行うことになった。
 せっかくフィンランドまで公費で来られるのに、北部ともなれば観光地もないので気落ちする。たまたま入った地下蔵のバーでは妙な現地人に絡まれるし、あまり良い思いをしていない。
 不幸中の幸いとはまた違うのだろうが、トムテと名乗った現地人からは飴を貰った。俺は椅子の隣にある缶を手に取る。複数の女性が描かれている缶の蓋を開けた。中には緑色の棒付き飴が詰まっている。この飴が、奇妙な味わいながら俺の好みには合っていた。

 アブサン・キャンディー。トムテはそう紹介した。摩訶不思議な夢を見せる酒を甘く固めたものらしい。別に、変な夢を見る前でなくても趣向品としては楽しめる。一本取り出して、包装を剥いて口に入れる。
 苦味が喉奥を目指して駆け抜けていく。爽やかさを兼ねた、濃縮された苦味。棒の先端を軽く摘まんで、味を吸い込む。
 何故か、懐かしい味に思えた。おかしい、俺がこの飴を口に含んだのは昨日の今日のはずなのに、新鮮味をもう感じなくなったのか。この飴を舐めて過ごしていたような覚えはない。
 なんとなく飴の本数を確認すると、最後に食べたときから一本消えている。いや、これは単に数え間違いかもしれないな。

 飴を舐めながら考える。夢。そういえば、どうにも変な夢を見た気がする。
 俺の私室で目覚めて、誰もいない職員宿舎の廊下を歩いて、手の会話を聞いて、広がった穴から暗闇を走る。通知で財団の解散を知らされて、解散パーティに参加して、サングラスやキャップから正装に着替えさせられて、カメラがショットガンになって、全員撃ち殺した。
 化け物を怖がって、かと思ったら化け物を望んで。最後は蜘蛛の群れに沈む。一貫性も何もない。不自然な出来事にも疑問は抱かず、どうしようもないことを気にして病み続ける。

 息を吐くと、草の匂いが辺りに充満した。ただただ落胆する。
 ありえないことばかりだ。オブジェクトがこの世から消え去るわけがない。はいそうですかと財団が素直に解散するのも、俺みたいな弱い技術者が職員を虐殺するのもありえない。可能性の一端すら存在しない。ありえないんだ。首を振るって馬鹿な考えを追い出し、白夜を見上げた。

 今は何時だろう。空模様からでは特定できそうにない。昼なのか、夜なのか。
 サングラスを外せばすぐにでも分かるかもしれないが、できなかった。はっきりと隙間を認識してしまったら、そこから何かが出てきかねない。任務で指定されたオブジェクトの出現時刻にはまだまだ余裕がある。しばらくまどろんだ時間を過ごしてもいいだろう。
 何も考えないようにぼうっとしようとしても、思考はだんだんと夢に向いた。左手首の腕時計。少しだけ、そのワードを思い浮べていた気がする。俺は左手首を見た。何も縛り付けていないし、ここ最近で腕時計を付けていた記憶はない。デジャヴ現象。それで説明できる。夢は何が起きてもおかしくないんだ。なら、オブジェクトの出現するここだって夢じゃないのか。いやいや、そういう話じゃないっての。

 俺が左手首に腕時計をしていたのはいつの話だ、疑問に思おうとしてやめる。考えたって仕方がない。夢で些細な疑問が重要なら、現実では見えているすべてのものが重要だ。どんなに支離滅裂でも受け入れなくてはいけない。

 現在は昼か、夜か。
 異常は消えたのか、消えていないのか。
 そもそも最初から存在するのか、存在しないのか。
 財団は今もなお存続しているのか、解散したのか。
 あの怪しいトムテは本当に人間なのか、人間じゃないのか。

 自分は適応しているのか、適応していないのか。
 狂っているのか、狂っていないのか。
 ここは夢か、現実か。

 どんな疑問も抱えるだけ無駄だ。考えるべき疑問は一つでいい。

「俺はいつまで待てばいい?」

 夜にしか動けない生物も存在する。夜行性の蜘蛛のように。そんな生物にとって白夜は夜が明けるのを恐れなくていい現象だ。昼も夜も曖昧になってしまえば、ずっと夜だとも思えるだろう。
 白夜に輝く太陽を見つめ、俺は咥えていた飴を太陽に重ねる。

 太陽を邪魔するような蜘蛛は、飴に閉じ込められてはいなかった。

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