とても穏やかな、ある週末
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死んだはずの先輩が、額に風穴をあけて還ってきた。

最期の刻まで彼の中に唯ひとつ残されていたはずの「何か」は、人が感情と呼ぶそれは、全部あの穴から零れてしまったようだった。

生前の彼は、人から命じられて何かをすることが嫌いだった。気に食わない仕事は何かと理由をつけ僕に押し付けてきた。
彼は所謂「あとで面倒くさくなりそうなこと」が嫌いだった。都合が悪くなるとすぐ他人に話を振ってそこから逃げようとしていた。
そのくせ書類事務の類は三度の飯より大好きで、どこからか仕事を分捕ってきては今夜も徹夜だなどと喚いていたものだった。

ああ、確かにある意味においては、彼は生前と何も変わっていなかった。
高位のクリアランスは不要の、しかし財団のなかで最も人手の足りていない仕事のひとつ。それをあろうことか自ら好きこのんでやるような書類狂だった彼は、相も変わらず不機嫌そうにパソコンに向かって、……それでも彼はもう仕事をえり好みすることはなかったし、今までと変わらない、しかしもう二度と同一になることのない生活を、彼等が彼に与えた「役割」を、文句も言わずただ粛々と再現していた。
 
 
彼の心は冷たくなっていた。
 
 
以前の彼は、僕が何か言う事に小馬鹿にしてみたりすこぶる機嫌が悪くなったり満更でもないようなにやけ顔を晒したり、とてもじゃないが「クールで冷静沈着な頼れる財団の研究者」からはかけ離れた、良くも悪くも人間らしい表情を持ったひとだった。

(初めから今みたいな人だったら、昇進も望めたかもしれないのに。残念でしたね)

心にもない嫌味を腹の中で呟く。
仕事が出来て財団に忠実、文句も言わないし他人の邪魔もしない。まさに彼等にとって理想的な人材。

(でもそんなのは……貴方じゃない)
 
 
***
 
 
その日もいつもと変わらない、ありふれた財団の週末だった。
今日はデートなんだとか、早く仕事が上がったら久しぶりに外に飲みに行こう、とか。そんなやや浮足立った言葉達を早足で振り切る。どこか馴れ馴れしくも冷ややかな白衣達。彼らを真っ直ぐ見ることもなく、ぼろのスーツによれた借り物の白衣をひっかけて、僕は自らが配備された場所へと向かう。

おはようございます、と既に仕事を始めている上司や先輩に声をかけて、自分も席に着く。
この部屋には色も温度も存在しない。
 
 
***
 
 
「ねぇアイスバーグ博士、お昼食べに行きませんか?」

数時間近く続いた「だんまり」にとうとう耐えかねて、僕は彼に声をかけた。「お腹すいちゃって」

「私にはまだ昼食は必要ではありません。ですので、貴方のみで先に済ませることを推奨します」

何回も何回も聞いた、テンプレートのような返答。それならこれはどうだ、と次の手を返す。

「……じゃあ貴方の仕事が済むまで待ってますよ」

彼は僕の方を見向きもせず、淡々と答える。

「空腹は作業能率の低下に繋がります。エージェントが食事を摂る必要があると判断したのであれば、そのようにすべきかと」

しばらく笑顔を保ったまま彼の方を見ていたが、彼がこちらに向き直ることはなく、僕の顔から干からびた表情がボロボロと剥がれて落ちていった。
僕は深く溜息をついた。

違うんだ、僕は貴方とランチを過ごしたいんだよ──そんな言葉をすんでのところで飲み込む。

「……わかった、そうするよ」

ようやく捻りだした言葉と笑みを放り捨てて、僕はその場から離れようと席を立つ。
結局、会話の間に彼の手が止まることはなかった。

「ああそれと」

時を奪うように、瞬間に点と点とを繋ぐ直線を凍らせてしまうような声。同時にタイピングの音が止まり、それに反応して僕は後ろを振り返る。モノクロの世界で、黒い傷穴が、じっとこちらを覗いていた。

「私はアイスバーグ“博士”ではありません」

わかってる。
 
 
***
 
 
午後2時半。大抵の職員は既に昼食を済ませて仕事に戻っていて、食堂はすっかり閑古鳥が鳴いている。ギアーズ博士のもとに就いて数年、僕はすっかりこの寂れた食堂の常連客になってしまっていた。

久しぶりにファストフードを買い込んでオフィスで食べようか。購買の前で足が止まる。アイスバーグ博士の、お前またそんなに買ってきたの?と呆れた声が聞こえる。……やめよう。足は再び動き出す。

食堂スタッフのおばさんに声をかける。いつもと同じように。やがて、ランチセットの残りをトレーに載せるだけ載せた、「特製残飯処理定食」が手渡される。

誰もいない広い空間にひとり。もぐもぐと口を動かしながら、ぼんやり思考する。

あの日以来、以前に増してギアーズ博士が彼のそばに居る頻度が増えた。
彼があんな姿になって還ってきたというのに、あの人は何も変わらなかった。
おそらく彼は全て識っているのだろう。ギアーズはその背中で、彼を庇うではなく何かを隠すしているように見えた。彼等が遂に手にしてしまった、恐ろしい秘密を隠蔽するかのように。

僕はそれがとても悲しくて、身体の奥底では怒りがマグマのように沸き立っていた。
仕方ないこととは分かっていても、それでもこの理不尽に、心は耐えられない。
彼はこんなこと望んじゃいなかった。
貴方もわかっているはずなのに、どうしてあんなに涼しい顔でいられるんだ。それとも貴方はこの意味をほんとうは理解していないのか?僕は一体何を見せられている?
 
 
「彼は、確かに僕が殺したはずだった」
 
 
自分が死ぬというその瞬間まで、口の減らない先輩は相変わらず「ざまあみろ」と(どこか興奮気味に)棘のある言葉を投げた。
「自分」が喪われる前に心ごと壊してしまいたい、けれど自分ではもうその引き金を引くことはできない、でもギアにだけは頼みたくない、だから仕方なくお前に、と──そんな我儘ばかりの願いを、僕は聞き届けることにした。

何故なら僕も同意見だったから。
感情のままに生きられないなんて、それはその人の人生と言えるのか?外からの刺激に何も反応しない人間を、誰が「彼だ」と理解してくれるのか?

……本当は僕等二人は、ギアーズ博士のことも救いたかった。
けれどその願いが叶うことはなかった。
 
 
***
 
 
氷の溶けきって不味くなったコーラをずるずると飲み干し、重い腰をあげる。ひとりで食事をすることがふえて、意味もなく昼の休憩にかける時間が増えた。
人のいないキッチン、トレイの返却ポストに空っぽの音を響かせて立ち去る。足取りは淡泊、仕事が忙しくて何かに思い悩む暇もないという体で。

実際のところは、破裂しそうな心を掻き毟りながら、喚き声をまき散らして、走り出してしまいたかったけれど。

そうだ救えなかった。僕等には、あの人を救うことは出来なかった。 
いや、ギアーズだけじゃない。
 
僕は彼に「おかえり」と言うことは出来なかった。代わりに「あなたの顔なんて二度と見たくはなかった」と吐いた僕を、ギアーズ博士は無表情のまま見つめていた。

僕はどうすればよかったのか? 彼らは死して尚、「貢献せよ」と耳元で囁き続けてくるらしい。

心臓のリズムに呼応して急いていた足が、緩やかに止まる。廊下の中途、日常の終着点。
僕のIDカードに反応して、オフィスの自動扉が開く。薄暗い世界に、ひとつの光と、それを一心に見つめてキーボードを叩く彼の姿がぽつり。
 
 
僕は今、その境界に立っている。
 
 
……ならば。
僕はそっと、腰に手をまわす。
何かを殺す度に手に馴染んできたその金属物は、今は決意の標のようだった。

ならば僕は、何度でも引き金を引こう。何度でもこの手で。それで彼が望む安らぎが訪れるなら、僕は例えあの声に仇なしてでも、彼を撃ち抜いてみせる。
 
 
 
そう心に誓い、ピストルを握った僕の後頭部に、何かひやりとしたものが触れた。
僕の手の中のものに酷く似ているような。
血の気が引く。僕はその影を知っていた。僕は背後に立つその人のことをよく知っていた。
残念です、と影から発せられる音。
それはあまりにも無機質で、

なにかの機械のようだった。
 
 
***
 
 
正午過ぎ、アルト・クレフは廊下を歩いていた。正面からやって来たギアーズと2人の助手に軽く会釈する。
ひとりは自分の研究についてを、慕う上司に聞き入れてもらおうと早口にまくし立て、もうひとりは仏頂面の禿げた博士を笑わせようとなんどもジョークに挑んでいた。
 
 
そうだ、それはかつての話だ。
 
 
クレフは、沈黙を携え去っていくひとりの男とその部下達の後ろ姿を見やった。今や彼等の中にあるのは、冷たい操り糸の繋がりだけのように見えた。

彼は、10回目の助手解雇を見送ることにした。乳房だけが取り柄の女でも、友人の姿をしたマリオネットに比べればよっぽど可愛く思えたからだ。

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