そこは狭く、満たされない場所だった。
築十数年の、風呂なしトイレ共用の四畳一間の狭いアパート。
強いて言えば家賃が安いことが取り柄か。
そこにはろくな物がなかった。
そこにあるのは安物の、外国製の冷蔵庫に型落ち品の電子レンジ、そしてこれまた安物のカラーボックス2つ。そして必要最低限の生活必需品。
そこには誰もいなかった。
15の息子と7歳の娘は性格の不一致とやらで別れた妻が引き取った。今では年に数度の面会だけだ。
1日3回コンビニ弁当や自分で作ったおにぎりを食べ、元妻に養育費を送る日々。
楽しむ余裕などない、灰色の日々だ。
かつての幸せな家庭は、温かい日々はもはや失われてしまっていた。
「ねえあなた、どうしたの?」
妻の言葉で目が覚めた。そこはあの灰色の四畳一間などではない、夫婦の寝室だった。
「あなた、うなされてたわよ?何か嫌な夢でも見たの?」
「え?ああ、なんだか悪夢を見ていたみたいだけど、細かくは思い出せないな。ハハハ。」
「そうだったの。」
「夢」については適当にごまかして起きる。近所でも有数のオシドリ夫婦と言われているのだ、あんな夢が現実になるなんて事はありえないだろうし、それに妻に夢について言いたくなかった。
あれは、夢だ。現実ではない、ただの悪夢だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「じゃああなた、行ってらっしゃい。」
「おとーさん、いってらっしゃーい!」
「うん、行ってきます。」
妻と娘の見送りを受け、職場…それなりの大きさの証券会社へ向かう。
息子は既に部活で学校に行っている。もうすぐ大会があるらしく、ここのところいつもそうだ。
今日は金曜日。明日は家族全員が休みだ。
明日はみんなで全員の好物である餃子を作る事になっている。ひさびさの一家の共同作業だ。
明日が待ち遠しいな。まだ会社にすら行ってないけども。
翌日、土曜日。今日はずいぶん霧が濃い。まあ1日じゅう家にいる私達には関係のない事だが。
「あれ?」
「どうした?」
「ごめんなさい、このままだと餃子の皮がなくなりそうなの。悪いけど、買ってきてくれない?」
「よし、わかった。じゃあちょっと行ってくるよ。」
「おとーさん、わたしが行ってこようか?」
「駄目だよ、今日は霧が濃いからね、危ないかもしれない。お父さんが行ってくるから家でお母さんとお兄ちゃんのお手伝いをしていなさい。」
「わかったー」
餃子の皮は…近所のスーパーで買うか。
わざわざ車を出すのもなんだ、歩いて行こう。
「想像以上にすごい霧だな…」
正直言って、ここまでひどいとは思わなかった。
さっさと行って、すぐに帰ってこよう。
「…ん?」
何やら様子がおかしい。
霧がさらに濃くなってきている気がする。
急ごう、スーパーはすぐそこだ…
「…え!?」
目の前で、スーパーが消えていった。
霧で隠れたわけではないようだ。いくら濃い霧でもとつぜん店内の照明やスーパーのネオン看板が見えなくなる、なんて事はないはずだ。
急いでスーパーがあるはずの場所へ向かうが、そこには何もない。
「いったいなにが…!?」
一瞬、霧の向こうにこのあたりとは全く違う光景が見えた気がした。
霧のなかに消えていく。
道路標識が、駐車場の車が、街路樹が、街灯が、街が、人々が、私が
直前に消失した被験者:██氏 日本人男性 25歳 一般人 エリア-8190セキュリティ違反事例-██によって進入
メッセージ内容:僕は██ ███。25歳、日本人。██大学経済学部を2年前に卒業して、就職活動に失敗して、今は無職。
夢を見たのはエントリーした企業全部に落ちて就職活動失敗が確定した時が最初。霧の向こうに世界があった。僕がいる世界だった。今、僕が立っている世界だった。
そこは僕が暮らしていたのと同じだけど、全てが順調に行った世界だった。僕は第一志望だった███社に就職して、同期の中でも一番優秀な社員だった。大学時代に僕が思いを寄せていたけど、結局告白できなかったあの子。彼女と僕は付き合っていて、もうすぐ結婚を控えていた。
その世界はもうここにある。ここで、僕はそうしている。霧の中に世界がある。
夢や幻なんかじゃない、本物の世界だ。家族には腫れ物に触るように扱われ、親戚や同級生には公然と馬鹿にされる、あの世界こそが夢だったと信じさせてくれる世界。
僕はここにいる。世界の果ては、ここにある。