Op. シュガーサン 前篇
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幻妖

西暦二〇一三年 九月三日

 始まりはいつも夜だった。「始まり」という言葉がこの状態を表すのに適切かどうかを知ることはできないが、とにかく夜にいつも始まるのだ。サイト-8115付属の大図書館「天ノ川」はその名の通りに、夜には天井に魔法の城のように天の川がちりばめられるのだ。すべてが地下にあるこのサイトにおいて、大図書館は知を集める場だけではなく、同時に気が安らぐ場でもあるのである。いつもならば数人の職員が各々の方法で気を休めているのだが、この日に限ってはほのかに星の照らすこの場に人の気配はなかった。前任の司書が定年退職してから、その穴を埋めるようにしてここに配置された彼女は、ただ一人かすれた墨汁のような空を見上げていた。どこからか、踏切の音がしたような気がした。

「……どこだっけ」

 品質の悪い消しゴムで無理に擦ったみたいな記憶のみが彼女の頭蓋には貼りついていたのだ。茹だるような夏。渋谷のスクランブル交差点。静寂。踏切のFとF#の音。蒸し器に放り込まれたかと錯覚するほど暑いコンバットスーツ。知らない断末魔。はるか遠くへと行く愛しい記憶。きみ。わたし。本来これらが持つべき意味は別のおぞましい何かにすり替えられてしまった。自身の記憶喪失に説明をつけるために、いくらか読み漁った精神分析の本にもそうあった。

「次は、どこだっけ?」

 まるで何者かに言わされているかのような錯覚を得て、彼女の意識は再び下の方へともぐりこんだ。真昼だというのに、月の灯が煌々と誘導灯めいて輝いていた。

欠落

 わざとだろうな。応神薙は同居をはじめて二年かそこらになる谷崎翔一が作ったであろうクッキーと、自分の左腕を交互に見てそう思った。クッキーには「封」の文字や応神家の家紋などの図柄がカルメ焼きの型抜きめいて刻み込まれていた。横には爪楊枝が置かれている。彼の左腕は、応神の嫡男が一人前であると証明するための儀式で失われた。事故だったそうだ。
 だから、普段彼は財団謹製の軍用レベルの義手を着用している。しかし、いまはその同居人が義手をメンテナンスしている。本来は業者に任せるのだが、谷崎が「昔とった杵柄だ」と財団認可の免許証と、一時期装備開発部門に出入りしてこの義手のデザインにも一部関わったという職歴書を薙に見せ、渋々ながらも了承した結果がこれだ。予備の義手は動きが悪いなどという次元ではないほどに前時代的であり、クッキーを持つのもままならない。

「見ての通りだ」

 食卓からみて、無駄に広いリビングの端。壁に向かって机の上で作業をしている谷崎は義手をいじくり回している手を止めずに声を発した。フィラメント状の部品を取り替え、整備も一段落した様子の彼は、突如部屋に満ちる霊気を感じ、薙の方に顔を向けた。何層にも重なった雪のような怜悧な青色の「封」の漢字が彼の右手から出ていたのだ。幽霊の類を封じるための法術 より現代的な言い方をすればソム・アーツ だが、物理的な干渉もできないわけではない。それを使って、薙は何に触れることもなく型抜きを達成した。

「お見事」

 谷崎は短く感嘆した後、作為すら感じさせるタイミングでメンテナンスが終わったらしい義手を薙に渡す。それを肩のアタッチメントに嵌めると、薙の脳内には一つの疑問が湧いて出る。視線を谷崎の榛色に合わせると、サングラスなしに直接見られるのには慣れていないのか、彼は少したじろいだ様子を見せた。

「どうすれば良かったんだ?」
「どうしてキミはいつも正解があると思うんだい」
「あんたがそういう奴だからだ。谷崎」

 谷崎はしばらく考えている様子だ。短くない同居期間で、応神薙はこの谷崎翔一という男に対しての理解を少しは深めたつもりだった。すなわち、この男は何にでも答えを括り付けたがる悪癖があるのだと。ふと、谷崎はおもむろに応神の家紋が刻まれているクッキーをとって、さも何でもないかのように齧った。

「誰も型抜きをしろとは言ってないよ。必要以上に物事を複雑にするのはよくない」

 空虚に回る己の左手首が物悲しさを漂わせていた。義手に内蔵した短刀やテーザー銃などの調子もいい。人肌風の偽装も問題ない様子だ。谷崎の整備士としての実力は確かだった。それを見て谷崎はどうしようもなく可笑しくなったのか、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。そそくさと彼は壁にかけてあった黒パーカーを羽織り、応神薙のコート一式を投げて寄越した。薙は露骨に眉間にシワを寄せた。

「獅子斬にはさわるなよ。絶対だ」
「あんな神器みたいな刀、絶対触れたくないね。万が一壊したらどうすんだい」

 季節にそぐわぬロングコートを着た応神薙は、左腰に長めの打刀一本、背中に野太刀めいた大きさの獅子斬一本を装備し、複雑な印を結んだ。すると、刀はどれも認識ができなくなる。燕を模した簪を挿し、サングラスをかけ、革手袋をつけると、誰も近寄れないくらいの圧力が出る。他方、谷崎翔一はどこにでもいる青年のようだった。

 バスと数本の電車と一本の真空チューブ列車 俗にスピード・チューブと呼ばれている を乗り継げば、およそ一時間でサイト-8115に到着する。このサイトに異常なオブジェクトは保管されていない。事実上の本体である大図書館「天ノ川」を始めとして、資料収集やオフレコの会談、それに事務作業などに使われるサイトだ。ネットの驚くべき発達により、電子書籍へのアクセスは簡単になった。しかし、紙の本というものは、そこに存在しているだけで価値を発揮するものである。


 廊下は簡素だった。打ちっぱなしのコンクリートに無表情な扉がいくつか埋まっていて、その向こうには厳密に規格化された部屋がある。廊下の一方は包丁で切られたかのように唐突に終わっているものの、もう一方には明らかに周りと調和がとれていないような大木削り出しの扉がある。「天ノ川」への入り口だった。

 二人の同居生活の一つの恩恵として、あらゆる行為に対する事実上の作業量が半分になるというものが挙げられる。それは、財団に提出する活動報告書についても同様であった。同居を初めてから、応神薙と谷崎翔一は事実上のバディとして活動していた。機密情報とそうでない情報がないまぜになっているため、紙での提出が必須なことに対する辟易だけは二倍になったが。

 担当者に手早く書類を提出する。ふと薙が時計を見ると、アイランズとの約束の時間まであと二分となっていた。彼は谷崎を連れて所定の部屋まで行き、指紋認証装置が仕込まれているドアを開けた。中には上等そうなウイスキーの瓶とグラスを三つ、さも当然かのように机の上に用意したアイランズ外交官がいた。

「や、待ってましたよ」

 癖っ毛をわずかに揺らしてアイランズが手を振る。すると、自動的に向かいの椅子が二つ引かれた。妙に滑る座り心地の椅子に四苦八苦しながらなんとか尻を固定すると、目の前に滑るようにグラスがやってきた。薙は懐から開けていないペットボトルを取り出し、簡単な印を結んだ。ペットボトルのなかの水が減った代わりに、グラスの中にはロックアイスが出現した。

「アイランズ。昇進したんだっけ? 今日はもう休みなのかい」
「今日は半休です。だから飲んでもいいんです」

 谷崎とアイランズは、二人とも友人がいそうな性格ではない。これを知っているからこそ、薙は旧来の友人めいた会話をする二人には毎度驚かされるのだ。ごく少量注がれたウイスキーに口をつける。いぶされたような芳醇な香りとアルコールに特有の熱さが喉元を過ぎる。胃に直接刻まれた解毒の術式が起動して、即座にアルコールを分解する。便利だが、酔えないのは残念だ。

「おれは配属替えと聞いている。内部監査だったか」
「上は私に両方できると期待しているみたいですよ」

 アイランズは他人事のように話しているが、その実彼が優秀であることには変わらない。応神は、アイランズの肌艶や仕草から最近は不規則な生活をしていると見抜いた。「ちょっと失礼」彼はアイランズの背中に左手を添え、軽く腹を叩いた。アイランズは軽く苦悶の表情を顔に浮かべるが、すぐに平静を取り戻した。

「どこが痛い?」
「胃が特に。今度またマッサージをお願いできますか?」
「アイランズ。マジで言ってるのかい? あのクソ痛いのをもう一度と」

 応神の家伝体術には殺法のみならず活法も含まれている。血流が著しく改善され、筋肉がドン引くほど柔らかくなり、肩こりなどもすべて消えるが、代わりにマッサージを受けている間はものすごく痛いとは谷崎の談であった。

「おれがミスったら致命傷になるぞ。それとコレは没収。しばらく酒は控えろ」

 薙はアイランズのグラスとウイスキーのボトルを流れるような動作で奪い取り、そしてグラスの方を飲み干して、酒瓶を認識できなくした。露骨に悲しそうな顔をしたアイランズを胡乱げな瞳で見つめる。談笑もいいが、そろそろ本題にはいってほしいという思いが強まっていた。

「そう、本題です。谷崎。あなた、そろそろ過去にケリをつけてください。私からの公式な依頼です」
「ケリを付けるって言っても、関係者は散逸してるぜ」
「いま、天ノ川の司書は天月千春です。私がねじ込みました」

 天月千春。その名を聞いた谷崎は申し訳無さそうな顔をしたあと、薙の方に向き直った。その表情ですべてを察した薙は、大きなため息をついたあと、鳥居めいて厳粛に立ち上がった。

「分かった。おれがその天月千春とやらに会おう。谷崎、あんたはその『過去』の資料なり何なりを集めてくれ」
「話が早くて助かるよ。薙くん。ぼくはまだ彼女に会う用意ができていないんだ」


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 「天ノ川」は大図書館の名に恥じない大きさを持っていた。薙が自動のドアをくぐり抜けると、ふわりと紙の匂いが漂ってくる。少し押し付けがましいとすら感じる、カビ臭い匂いだ。高い天井と本棚に対する感動もそこそこ、身を刺すような殺伐とした雰囲気に抵抗していると、本棚の隙間から人影が見えた。それは草原を模したエリアに一人座り、本を読んでいる様子だった。応神薙は例の司書だろうとあたりを付けて、静かに脚を進めた。

「やあ、お初さんだね。どんな本を借りに来たのかな? それとも、読み聞かせかい? ぼくは天月千春。ここの司書をやってる」

 あたりの壁が吸音材で出来ているのかと思うほど静かだった。ちりん、と鈴を鳴らすような声の彼女は、ワルツでも踊るように軽やかに、ぬるりと応神薙の意識に滑り込んできた。腰ほどまである黒い髪がふわりと広がり、金木犀めいた芳香が鼻をくすぐる。女性としては身長が高く、応神薙より十センチばかり低いほどだ。左目が眼帯で隠されている隻眼故に、残った方の目は思うより力強く、彼を少したじろがせるほどだった。

「応神薙だ。よろしく頼む。 ここのことはあまりにも噂に聞く。だから少し見に来ただけだ」

 薙の声を聞いた瞬間、天月は明らかに動揺した様子を見せた。残った方の目を見開き、そして眼帯を撫でる。取り繕った様子の彼女は視線を逸らし、そして「好きに見ていってくれ」と言って薙に背を向けた。はらり、と彼女の手から紙が一枚落ちた。何かの手紙のようだ。

金木犀へ
あなたと出会ってから、秋が好きになりました。いつもあなたは金木犀の香りを漂わせていて、秋はあなたの存在をより克明に感じられるからです。夏季休暇中に二人で行った海のことは、いまも目を閉じれば思い出すことが出来ます。風になびくあなたは、そのまま向こう岸に連れて行かれてしまいそうで、どことなく不安になったのを覚えています。普段のあなたを知っている私が、このような考えに囚われるのは奇妙なことではございますが。

冬になったら、二人で山を登りに行きましょう。あなたと見る星空は、きっと何よりも美しいでしょう。真夜中、月は空になく、わたしの隣にいることでしょう。

お返事、お待ちしております。

椿

 恋人同士ならば、こんな手紙を書くのではないかと薙は思った。ふと、穏やかなはずの図書館に満ちる殺伐とした雰囲気の正体を探る。巧妙に隠されてはいるが、外部との接続を遮断する術式から始まり、本に偽装された監視カメラ、圧力センサー、そして天井や壁に隠されている小型のタレットの存在までも感知することが出来た。まるで監獄のようだ。

「落としたぞ」

 薙は手紙を司書に渡す。彼女は明確に動揺した様子を見せた。異国情緒のあるツイルのゆったりとしたズボンが小刻みに震える。ふと、彼女の眼帯を見れば、わずかな綻びが生まれている様子だ。眼帯によって何かを封印しているのは、明らかであった。

「いまのぼくには関係のないものだ」
「だとしても、昔のあなたと今のあなたは連続だろう」
「少なくとも、きみには関係ない」

 にべもない拒絶。薙は自分がおせっかいなのは自覚していたが、それも相手の求めがあってのもの。ここまで綺麗に拒まれてしまえば、できることもない。そうやって突き返された手紙を再び受け取る。立ち行かなくなった薙は「また来る」と捨て台詞めいて短く言い残し、住処に帰ることにした。


 家に戻ってきた薙を出迎えたのは、散らばったスライムのように一人がけソファに貼り付いている谷崎だった。弾の籠もっていないキアッパ・ライノをぐるぐる回している彼の様子を見るに、なかなかうまく行っていないようだった。

「大丈夫か」
「問題は山積みだが、概ね見通しは立ったよ」
「ならば重畳」

 薙は最新式の冷蔵庫(内容物の時を止める部屋がある。税込み598,000円)から当たり前のようにカップケーキを五つ取り出し、湯気を放っている茶とともにそれを丁寧に、しかし手早く胃に押し込んだ。谷崎の手元にある資料の写真はどうも赤黒く、少なくとも食事中に見る気にはなれなかった。

 手早くエネルギー補給を終えると、薙は日課の鍛錬のため、自室へと姿を消した。

「終わったらシャワーは浴びてくれよ」

 谷崎の声が空虚に響いた。

怪譚

 多々ある技術のうち、情報をつかさどると言っても過言ではない半導体技術の発展は目まぐるしかった。財団と連合が独自に持っていた技術は多々あれど、そのなかでひときわ優れていたのが観測のための技術である。異常存在を素早く探知し、性質を解明し、程度と方法の差はあれど、その異常性を組織内に還元する彼らの裏打ちともいえる技術だ。多くの民間企業に惜しみなく提供された技術の効果は、二文字で表すならば絶大だった。これは世界トップ級の頭脳たちを大いに刺激した。本来踏むべき階段を何段も飛ばし、文字通り競ってプロセスルールの微細化が行われたのである。ある学者の試算によると、飛ばした年月は30年を下らないそうだ。

 応神薙と谷崎翔一は、各々の情報端末とにらめっこをしていた。ディスプレイという概念はすでに過去のものである。部屋の中を文字通り情報の塊が飛び、手でつかんで精査する様は、神格降臨事件がもたらした良いもののうちの一つだった。

「あんたのその過去の事件。どれくらい覚えてるんだ?」
「キミのご機嫌なガールフレンドが助けに来たってことは覚えているよ」
「全部覚えているようだな。冗談を言う余裕もあるとみえる」

 薙は谷崎の僅かな微笑みを見逃さなかった。手元に資料が舞い落ちる。被害者と思われる人物の背中には一つ袈裟に切られたような傷が目立っている。応神薙は即座に理解できた。これは外側から切られたものではなく、内側から食い破るようにして作られたものだ。卓越した医療技術があればこのような傷を作為的に作るのは不可能ではなかろう。しかし、被害者を取り巻く状況がそれを不可能にしていた。

「最近の変死事件だ。これが人によって作られたものならば、その人は相当な暗殺者ってことになる。つまりだね、家族と一緒に寝ているこの橋本小百合さん二九歳を、一切の声を上げさせずにこんな傷を作ったってことだ」
「つまり、人の仕業ではない。おれならできないこともないと思うが」
「そうなの? まあ、日本中探してもキミくらいだろうな。キミが実はシリアルキラーだったという可能性はあるが、それなら面倒なことになるね」

 わざとらしく驚いて見せた谷崎に奇妙な思いを抱きつつも、続けて手元に届く電子資料に目を通す。全身に噛み跡があったり、額に大穴があったり、一つ一つの死体の状況をつぶさに説明していけばB級ホラー映画もかくやといったところだ。しかし、資料にまとめられているそれらは、どこまでも無機質だった。

「おれがシリアルキラーだったらあんたにバレてないはずがないだろうさ。 呪いっていう線も考えられるが、これじゃ穴がいくつあっても足りん。もっと、自律的な何かを感じる」
「そこで、これだ」

 言葉数も少なく、谷崎が見せたのは「都市伝説」や「洒落にならないほど怖い話」などといった恐ろしげな文言が踊る匿名掲示板のページだった。二〇〇〇年に投稿された「猿夢」の項が即座に展開される。

「あらゆる事象は分解すれば情報となる。その意味で、オバケの類は純然たる情報に間違いないよ。被害者は全員、眠る前にこのページを見ていた。偶然とは考えられないから、ぼくはこれが原因であると見ている」
「だとしたら、必ず人が介在しているな」

 谷崎は「専門家の意見に傾聴しよう」と言って、驚くべき速度で一人がけソファに収納された。薙は閲覧している情報タブをすべて閉じ、半ば呆れたように谷崎と向かい合うように腰を下ろした。

「匿名掲示板によくある性質だ。たしかにこんなご時世だし、そこで生まれた伝説が形を持つことは考えられる。しかし、そのためにはこの猿夢とやらを読んだ人、あるいは作った人の意識の方向性がある程度統一されている必要がある。民間信仰、八百万の神々が復権するには、あまりにもこの世は光に照らされた」
「ならば、わからないのは動機だ。これがテロだとするならば、復讐か、変革か、あるいはその両方か」

 谷崎は考え込んでいる様子で、懐から取り出した万年筆でぐりぐりとこめかみを揉んでいる。ふと薙が窓の外を見ると、日はだいぶ傾いているくらいの時間帯であった。薙は一つ深呼吸をして、少しだけ伸びをした。

「話を変えよう。キミが会ってきた天月千春はどんな様子だった?」
「左目に何かを封印されているようだった。記憶があるかどうかも定かではないな。それと 

 薙は思い出したようにコートに仕舞った手紙を引き寄せの術で手元に持ってくる。「この手紙」と薙が谷崎に渡した。谷崎はそれを何度か読み、眉を引きつらせてから手紙を薙に返す。薙がそれに触れた瞬間、手紙はまるで最初からなかったみたいに宙に溶けて消え去った。

「なるほどね。これが天月千春の過去の想起だとしたら、ちょっと刺激した程度で具現化するほどに強力なエネルギー源が彼女に仕込まれてるわけだ」
「伝聞ではあるが、ネットロアが現実にこれほど強力な影響をおよぼすためには、アンカーとなる人間が必要だ。こんどはおれから聞くぞ。なぜ急にこんな話を?」
「言ってなかったっけ。天月とぼくが関わった昔の事件というか事故も、ネットロア絡みのものだったからだ」

 意図しているのかそうでないのか分からないが、重要な情報を伝え忘れるのは谷崎の悪い癖だった。共通点があるのだろう。薙はそうやってあたりを付けて、再び考え込む。無意識のうちに、冷たく黒光りする義手を撫でる。機械に由来する奇妙な暖かさがあった。

「では、キミに質問だ。天月千春に封じられているエネルギー源をすべて消費して現出した存在を、キミ独力で払うことはできるのかい?」
「曲がりなりにもおれは応神だ。まだ若いと自覚はしているが、それでも焔日八咫烏に桐の紋を背負えるだけの訓練は受けた。そのうえ、おれの術者としての技量も出力も、天月の左目よりは上だよ。そしてあんたにはもう一つ懸念がある」

 法術の焦点具の役割も持っている義手がわずかに光る。谷崎は目の前の丸テーブルの上に置かれているポットから冷めきった鉄観音をカップに注ぎ、静かに口をつけた。ジャスミンの甘く苦い香りがあたりに広がる。薙もそれにならって、茶を一口飲んだ。上品な苦味が心地よかった。

「続けてくれ」
「天月を核として、彼女の生命が損なわれないかという話だ。結論から言えば、ないだろう。単純な話、核となる人間が死ねばそれは霧散し、二度と同じようには使えなくなる。これはおそらく予備実験のようなものだとおれは読んだ。だから問題ない」
「素晴らしい。キミと二年間も同居した甲斐があるというものだ。では、キミの言葉の裏をとろう。確か、応神家には資料庫があったね」

 それは膨大な量だった。薙の生体認証により、応神家のデータベースにアクセスしたとたん、部屋を満たしたのは大量の書影。曰く、一割程度しか電子化及び現代語訳はされていないみたいだが、それでも移動図書館の蔵書数くらいはあった。
 応神家の歴史に始まって、式神の運用方法や家伝の体術と法術の技法書、隠密行動の指南書など、谷崎にとって興味のある情報は多数あるが、薙にとってはすでに身につけた技術と知識だった。有用な情報もあった。平安の世において、いわゆる「あやかし」や「もののけ」はあまりにも強大だった。それゆえ、直接姿を描写することは憚られ、それが却って恐怖を増大させた。結果、それら怪異が制御下を離れ、多数の事件が連発した。
 それに対するカウンターとしての役割を応神家は平安の世から今まで担っている。怪異を直接観測し、それに形をもたせ、祓う。あるいは、怪異を操る術者を秘密裏に始末する。彼らは夜の世界を炫耀し、人々に安寧をもたらしていた。
 この辺でいいだろう。どちらかがそういい出して、空中に浮かぶ情報のかけらはすべて消え去った。いつの間にかに太陽は地平線の下に身を隠し、夜の帳が彼らを覆っていた。

 二人はそれぞれ大鍋に寝かせてあった角煮を皿に盛り付けた。薙は三人前程度を、そして谷崎はその三分の一。いつもはあまり食事量が多くない谷崎だったが、今日は疲れてしまったのか、人並みの量を食べていた。甘辛く味付けされた豚バラ肉は、噛めばジュワリと脂が染み出して舌を覆い、そして歯ごたえのある赤身の旨味とやさしく調和する。同じ鍋で煮られた人参と芋にもしっかりと味がついており、繊細な食べごたえであった。

「しかし、わからないのはやはり動機だね。それがわからない限り、我々は後手に回るしかない」
「後の先だ。使えるものは可能な限り使って、正体も知れぬ相手に対処すればいい。これまでと同じように、なんとかなるはずだ」

 白米を丁寧にかきこみ、しっかりした咀嚼の後に飲み込んでから薙は口を開いた。谷崎の少し驚いた視線を躱し、食器に清祓の術をかけた。それらを浮かして食器棚に収納すると、代わりに歯磨きセットを手中に収めた。

「便利だねえ、それ。キミが来てから家事がぐっと楽になった。今日もうまかったよ」
「お褒めに預かり、恐悦至極。あんたは風呂に入るといい。おれはもう寝る」

 手早く歯を磨き、床につくまでの間、応神薙の脳内には羽曳野の実家が去来していた。静かな、しかし確かな歴史が地層めいて積み重なった、あの書院造りの庭園付きの家だ。谷崎翔一と同居を始めてから満足に刀を振るったり戦闘に巻き込まれたりすることはめっきり減ったが、果たしてこれで良いのだろうか。未だに彼は、己の光を見つけることができていない。


西暦二〇〇五年 二月二十九日

 凛冽とした空気だった。枯れ草もまばらな中、雪が土をまだらに染めている。その空気に混ざるように、一人の少年が正眼の構えをとっていた。あまりにも静かでいるので、頭にシジュウカラが一羽座り込んでいる。十四才にしては体躯に恵まれており、応神の家のものとしてそれを高めようという意思もある。彼は応神薙。応神宗家の嫡男だ。制服めいた白いシャツと紺色のズボンが、彼の身分を示していた。

「その辺にしておくといい。いい加減に水を飲んで少し休め、薙。寒い中、日の出から二時間微動だにしなかったのは褒める。しかし、水も飲まずとあれば俺も少し心配になる」

 そうやって野太い声を巧みに操って薙に投げかけるのは、彼の父である応神風路であった。深い紺色の着流しを身にまとっており、かつては美しい濡羽の髪にも白髪が混じっている。高い鼻と筋肉質な体格も相まって、引退した勇士といった風格だった。

「大丈夫だ、父上。『いかなる状況でも崩れることなかれ』と景光の叔父上もおっしゃっている」

 シジュウカラが飛び去ったのを残念そうにみつめ、薙は「朝餉は三十分後に」と軽く伝え、漆黒の髪の毛を整えた。一息つく間もなく、応神本邸に仕込まれた警戒装置が、何者かの侵入を警告する。直感が彼の顔を上に向けた。雲海から音もなく降下するのは、一つの黒い人影。だんだん近づくにつれ、それが明らかに人外であるとすぐに理解できた。背中に積層ホログラムめいた黒い翼が一対生えていたからであった。

「久方ぶりに起きて、妙な気配がすると思ったら面白い小僧がいるではないか」

 天狗だ。赤い鼻高の仮面の奥から覗く黒い瞳が、爛々と不気味に輝いていた。敵意はないようだ。七年前の神格降臨事件によってヴェールはしめやかに上げられ、世の中には神秘が再び満ちた。であれば、これも自然か。薙は八相の構えを取り、天狗を見つめ返した。

「稽古でもつけていただけるのでしょうか」
「面白いことを言う。私の技法はだいぶ古いものだが、それでも得るものはある筈」

 畳を切ったような声だ。いつの間にかに天狗は無骨な黒い木刀を握っていた。彼は木刀を持った右手を掲げて地を滑るようにして突進する。最初の一手は正面打ちであることは容易に想像ができた。しかし、不思議と隙はない。入身で投げを試みようならその前に打たれる。突きを用意しようとしても、隠れている左手で何かされて崩される。ならば、防御に徹して刃筋を逸らすなり弾くなりしたほうが良い。そう考えて薙は木刀を頭の上に置くようにして構えた。
 大型トラックめいた衝撃が彼を襲う。天狗の木刀は無事に逸らされたが、その分薙も畳半分ほど後退してしまった。姿勢も崩されてしまい、絶大な隙を晒している。ここが実際の戦場だったら死んでいた。その事実に薙の脳髄は冷え込んだ。

「まあ、何であれだ。私のような理外の者とくらべて身体能力がどうしても劣るのは仕方がない。愚直に受け止めるのも柳のように力を消して逸らすのも悪くはないが、その中間が一番有効だ」

 まるで「打ち込んでみよ」とも言いたげな彼は、黙って木刀を正中に構えた。応神家伝体術において、刀を振って打ち込むことは多くない。しかし薙はジリジリと天狗に近づき、そして袈裟に打ち込んだ。いまは稽古であり、それが必要だから打ち込むのだ。
 天狗は微動だにしていないように見えた。しかし、木刀同士が触れる瞬間、薙は自分の頭が上に向き、腰から崩れたことを自覚した。そのまま後ろに転がって受け身をとる。

「これは」
「まあ、合気の弾きの一種だ。しかしまだ教わってないのか? ずいぶんと遅い。 今度は私が打ち込む。再現を試みてみよ」

 天狗は常人の範囲内の速度と力に抑えつつ 強くて速いことには変わりないが 薙に打ち込む。しかし薙は正しく弾くことが出来ず、そのたびに飛んでくる拳や蹴りの対処に追われている。センスは良い方だと自負していたがゆえに、どうしても相手を崩すことができないことに悔しさを感じていた。

「なぜ出来ない」
「焦るなよ。やってりゃそのうちできる。刀を押すのではなく、まずは腰を切るものだと思え。だがお前に限って言えば、信じ切っていないからできないのだろうな」
「何を」
「それはお前が見つけろ。お前の親父も、叔父も、全員信じるものを持っている」

 この際、天狗が何者かはどうでもよかった。元より薙自身に修行をつけることが目的だったようで、素性を聞き出せる雰囲気でもなかった。しかし、記憶をたどってみると天狗は俗世を嫌うはずだ。そんな種族がなぜこのようなところにいるのか不思議ではなかった。「それはいずれおまえ自身が明らかにするだろうて」薙の心を読んでか、天狗が答えた。再び、両者ともに木刀を構える。今度の天狗の打ち込みは、いくらか手加減した様子だった。

 十合、二十合と剣戟が重なる。そのたびに薙は悔しさを噛み締め、焦りがだんだんと積み重なる。今度、薙は逆に考えてみることにした。打ち込まれる木刀に、常に自分のそれを沿わせるようにして動かし、そして己から動かずに木刀に導いてもらうようにして動く。純粋な重心移動による反射の動きだ。前につんのめれば足が勝手に出るのと同じように、無意識に導いてもらう。

「それでも良い。だが逃げるなよ」

 天狗は身を沈める。突きだと直感し、薙は半身になる。木刀が己の腹に達する瞬間、天狗の木刀を上から叩いて踏みつける。予想外の行動に彼は驚愕したのか、天狗の体が思わず固まった。至近にある天狗の喉に向かって肘を突き出す。当たった、と思った次の瞬間、天狗は水に溶ける墨めいて消え去ってしまった。一息ついて、空を仰ぎ見る。烏の風切羽が一本のみ残っていた。


 朝食を片付け、ふと薙は天狗の言葉がどうしても気になった。父には一つ信じているものがあるらしい。新鮮な藺草の香りを肺いっぱいに吸い込み、厳格な父に聞こうと決心した。

「父上は何を信じているんだ」
「昔は色々あったが、今はお前だよ。でなければ、お前の母も浮かばれんだろうさ」

 普段は口下手な父が珍しくまっすぐに答えたかと思えば、頭に節立った手が乗せられる。そこから熱さが伝わってくるような気がして、薙は少し面映ゆくなった。

「景光の叔父上の刀はお前が受け継ぎ、そして次代を担うことになる。俺たちは太古の昔からその役目を果たしてきた。いまはわからずとも良い。信じられたらそれに応えろ。 黒陶のやつが来ている。顔を見せに行ったらどうだ」
「由倉ね……さんが?」

 薙は素早く自室まで戻り、そして深呼吸をした。硝煙と白檀の香り。黒陶由倉からはいつもその香りがした。時たま夜に自室に来て、特に濃いその香りを漂わせながら何があったのか話してくれる時間が好きだった。


 薙は今が朝であることに気がついた。自分は羽曳野にいるのではなく、東京の高層マンションの自室にいる。失った左腕がやけに痛む。幻肢痛だ。昔の記憶を振り払い、薙はベッドサイドで充電している義手に手を伸ばした。夢にまで見た「合気の弾き」はいまだに習得できていない。それ以外の技法は概ね身についたものの、天狗の言葉がウニの棘めいて心に刺さってしまっているのだ。ひとまず薙は朝食を用意することにした。「一日の計は朝にあり」実家にいた頃からの彼のモットーだった。

陽炎

「もう一度、『天ノ川』に行ってくれないか」
「なぜだ。あんたが行くのが筋だろう」

 朝食を片付けたあとに、谷崎は唐突に口を開いた。いつにも増して軽薄そうな声だ。二年間の同居生活で、谷崎が突拍子もない頼み事をすることは多々あった。しかし、それは常に意味がある行動であると応神薙は知っている。しかし、意図を聞かずにはいられなかった。

「ぼくにはぼくで準備がある。今夜だ。今夜にケリを付けるつもりでいる。だから、すまない。納得してくれ」
「あんたはいつも わかった。終わったら説明はちゃんとしてくれよ」

 谷崎は「無論」と答えて、黙々と情報端末に向き合う。己より幾分か年上だというのに、彼は常に何かに圧されているようだった。応神薙は、それが心底気に食わなかった。なにはともあれ、と頭を振って邪念を追い出し、薙は装備のチェックもそこそこ、足早に住居を去った。


 応神薙は、いささか釈然としない気分のまま、天ノ川の門の前に立っていた。二年間を振り返ってみると、いつも自分は谷崎に納得を求めていたような気がする。ほとんどの場合、納得を求めた時点での説明はない。しかし、結果的にすべて丸く収まるのは谷崎の技量なのだろうか。
 巨大な門に手をかける。同時に、何となしに観見の術を起動した。死角がなくなる。そして視界が水墨画めいて塗り替わり、ぽつんとひとつ青色の光を認めた。壁越しにものを見たり人を特定できるのは便利ではあったが、理屈がよくわからないことだけは不気味であった。

 門を押し開け、中に入る。昼前のしんとした時間の図書館にいるのは、やはりというべきか天月千春ただ一人だ。彼女はこの前と全く変わらない様子で偽物の草原の上で静かに本を読んでいた。応神薙は適当な歴史の本を一冊手に取り、彼女の横に腰掛ける。サングラス越しにちらりと見た彼女の目元には、化粧によって巧妙に隠されているものの、わずかな隈が見て取れた。

「……よく眠れていないのか?」
「ぼくがもしそうだとしても、きみが気にすることじゃあないさ」

 天月千春は本から一瞬たりとも目を離さずに言う。見当違いの方向に投げられたボールを拾う者は誰もいなかった。代わりに、応神薙が新たなボールを生成し、彼女の方向にゆっくりと投げつける。お手本のような会話だ。

「いいや、気にすることだぜ。おれはたまたま隣に座ったやつが寝不足だと寝不足になっちまうタチなんだ」
「なんだい?それ。面白いことを言うね」

 彼女から気のゆるみを引き出すことが応神薙の目的だった。本の世界に身をうずめると、どうしても気が張ってしまう。だから、見えてくるべきものも見えてこない。応神薙の方を見てくすりと笑った彼女の顔からは、明らかな疲れが見て取れる。彼女が何日もまともに眠れていないことを、応神薙は強く確信した。

「おれがあんたの問題を解決できるかもしれない」
「でも、その前に。サングラスを外してくれるかな」

 拒む理由もないだろうと言外に伝える彼女に少したじろぎながらも、薙はサングラスを外した。金木犀の香りが漂ったかと思えば、薙の目の前には天月千春の顔があった。目を見つめられたので、そのまま見つめ返していると、そのうちに彼女は再び薙の横で体育座りをした。

「同じ顔だ。同じ顔だけど、何かが違う。きみのほうが人間って感じ」
「……応神家のことを言っているならば、特に男の連中は顔が似る傾向がある。血が濃いのか知らんがな」
「違う。似ているなんて次元じゃないよ。同じ顔なんだ」

 同じ顔。その言葉に薄ら寒さを感じながらも、応神薙は努めて平静を保つ。偶然も何もあったものではない。その男が応神だということには間違いないが、これを今深掘りしてしまうのは正しくない気がした。

「で、そいつはどんなやつなんだ」
「酷いやつさ。誰も信じてなくて、無慈悲。でも、仕事はちゃんとやるやつだったと思う。で、きみも応神ってことは何か信じてるものはあるんだね」
「それ以前に、おれは一人の人間だ」

 「答えになってない」不満そうにそう言って、天月は薙に情報端末の画面を見せる。そこには一枚の写真があった。青い空とそれにつながる海。そして白い砂浜と、それと同じ色のワンピースを着て、同じ色の帽子をかぶった天月千春が写っていた。写真の中の彼女は、すべてが大丈夫みたいな笑みを浮かべていた。

「この間、そいつから急にこの写真が送られてきてね。どんな関係だったと思う?」
「さあな。これだけ安心しきっているということは、恋人どうしか何かか?」

 「かもしれない」と天月は言った。廃坑道みたいに空虚な声だった。高い天井に貼り付けられた星空が無表情に瞬く。薙は、この偽物の星空をどうも好きになることができなかった。

「似合いもしない服を着て、ずいぶん幸せそうに笑うじゃないか。“私”は」
「記憶、ないんだな」
「昨日、きみが来てから少し思い出したことはあるさ」

 薙は左手の手袋を外した。機械の手が顕になる。天月は意外そうにそれをしげしげと見つめた。意趣返しがうまく決まったと薙は幼さの残る笑みを浮かべた。

「失ったものがある奴どうし、わかるものもあるだろうさ。 前よりも便利になっているのは内緒だがな」
「だとしても、ぼくはここから出られないさ。見ればわかるだろう?」

 確かに、大図書館の術式に加え、天月の体には手形みたいに封印が張り巡らされていた。しかし、それらは応神薙の影響かどうか、いくらか中和されてしまっているように見えた。

「でも、あなたが私のことを連れ出そうと思って導きとなってくれれば、きっとぼくも外に出られる」
「あんたとも因縁浅からぬ男が、今夜終わらせると言っている。だからきっと大丈夫だ」

 薙は懐から折り紙を取り出し、そこにさらさらと書き込んだ。すなわち、「今夜、日が変わる頃に天月千春を連れて行く」と。そして彼はそれを烏の形に整え、息を吹き込んで空中に放った。少し迷う様子で宙を舞うそれは、しばらくの後に天井を抜けて行った。

「腹を満たしに行こう。こんなところではおちおち飯も食ってられんからな」

 薙は右手で天月の腕を柔らかく掴み、そして二人は大図書館をあとにした。彼女に纏わりついていた呪いが少し悶えたかと思えば、太陽に燃やされたみたいに溶けていった。

「少し、体が軽くなった気がする」


「で、こんなド深夜に」

 谷崎は眠そうな声でコーヒーを三杯淹れ、金平糖で山盛りになった皿とともに丸机の上に置いた。薙は自分で備え付けのミルクと砂糖をそれに入れ、天月と谷崎ははブラックで飲み干す。少し目が覚めたような気がした。谷崎は部屋の情報端末を起動し、天月千春の人事ファイルを表示した。薙と谷崎は向かい合っており、天月はその二人の間を見るようにして座っている。効果があるのかは不明だが、威圧感を減らす措置だそうだ。

「最初から復習だ。基本的な情報はさておいて、天月千春は過去の事件によってPTSDを患っており、それにより記憶が混濁。異常性検査の項目は機材不備により空欄。 天月。キミはあまりお変わりない様子だね」
「そう言うあんたは、ずいぶんと」
「よく言える」

 データベースに固定した表情も目線も動かさずに淡々と言葉を投げる。それがたとえどんな暴投であったとしても、人から言葉を引き出すにはいくらかの横暴も必要なのだ。谷崎もその加減をよく分かっていた。わざと粗野な言葉を使ったり、つっけんどんな態度をとると、ほかの人の素の状態を見ることができるのだ。そのような意図が見え透いている彼のことを、天月千春はどうにも気に入らなかった。

「薙くん。これをどう説明する?」
「財団は曲がりなりにも巨大組織だ。検査機材が一度不備になった程度で調査をこれほど先送りにするのはあまりに不自然だろう」

 谷崎は満足そうにうなずいた。彼はいつになく無表情を保っている。開け放たれた窓の外からの涼しげな微風と蛍光灯の無機質な光は調和していないが、しかし確かな平衡を保っている。文明の光に煌々と照らされてしまったこの時間は、数世紀前と比べたら大きく変わっていた。未知は既知に変わり、呪術から脱した世だ。賢人たちの啓蒙の結果というべきか。その代わりに、世界は大いに冷徹になってしまった。

「それで、最近変わったことは?」
「夢を見るんだ。渋谷の、スクランブル交差点。ぼくは眠るといつもそこにいるんだ。けたたましく鳴る踏切の音に縛られて、ぼくの脚は動かない。とてつもない暑さをはらんだ車掌の声が次の場所を告げるけど、ぼくはそこがどこかを知らない。また一人、誰かが死ぬんだと思って、ぐっしょりと寝汗をかいて目が覚める。こんなもんだよ」

 まるでこれが瑣末事かのように、二人は会話を進めた。室内には時計の音を始めとして、様々な音が規則正しく鳴っている。だというのに、二人の間の空気は無音よりも静かだった。

「天月。キミは今何ができる? これに関しては、薙くんの意見も聞きたい。彼女は戦えそうか?」
「おれが見る限り、身体能力は多少落ちているが、動けないわけではなさそうだ。だが片目の不利が大きい。あまり前線を連れ回したくはない」
「ぼくに残っているのは生理的に身に着けた技能だけだよ。だから体に染み付いた方法で多少は動けるが、そうだね。応神の意見に同意するよ」

 谷崎は納得した様子だった。予め用意していたであろう、例の渋谷での一件の報告書を三人の前に展開した。超常黎明期と言っても良いこの世の中で、大きな変革にさらされた各組織の気が立っていたことは簡単に見て取れた。調査にここまで時間がかかったのは、ある種の黒歴史になってしまったのだろうか。

「では、役者も揃ったことだ。我々で渋谷の例の一件を再演しよう」

 谷崎は厳かに宣言した。応神薙は、窓の外の風景がそっくりそのまま渋谷に移り変わったような錯覚を覚えた。


西暦二〇〇九年 八月二五日

 刺激臭がするほどの蜃気楼が沸き立つ渋谷。いつもなら夏休みを満喫している あるいはした学生や社会人によって埋め尽くされているだろうそこは、物々しい雰囲気を身にまとう三つの組織による、狭域的な作戦が展開されていた。一つは財団。もう一つはそれに肩を並べる連合。最後は前の二つに比べればいささか格は落ちるが、公安部特事課。
 以前に比べれば勢いはいささか落ちたとはいえ、財団と連合が正常性維持機関の頂点であることは変わらなかった。その三つの組織が渋谷のスクランブル交差点を封鎖し、特事課の人員は財団側と連合側に均等に割り振られていたのだ。谷崎翔一は、財団側の初動対応部隊 俗にカナリアと呼ばれる の班長と顔を合わせていた。

「ああ、あんたが公安の」

 そうやってつぶやく女性は、谷崎よりもわずかながらに身長が高く、またはっきりと芯のある声をしていた。長く黒い髪が、どこまでも印象的だ。谷崎翔一はうなずき、そして返事を口にしようとする前に、彼女が自らの名前を述べた。天月千春。不覚にもいい名前だな、と彼は思ってしまった。真っ黒のコンバットスーツを身にまとっていても、一貫して涼し気な表情を浮かべる彼女に、どこかうらやましさを感じた。

「ぼくは谷崎翔一。公安の切れ端です。五行の連中は?」

 わずかながらの皮肉を込めて彼は言う。彼の直属の上司である大島の、さらに上から言い渡されただろう指令からは、財団と連合に敵わないのはわかっているから、取り敢えずメンツだけはつぶされるな、といったような思惑が透けて見えた。適切に動いて、適切に報告しようと決心した彼は、官僚の支配する世界にだいぶ嫌気をさし始めていた。振り向き、自分の持ち場に戻ろうとする彼は、しかし天月千春に呼び止められる。

「全くシャレにならないことに、遅れるみたいだ。奴らが時間を守ったことなどあまり記憶にない……」

 谷崎は振り向き、天月の後ろに一人の男が控えているのに気がついた。フルフェイスのヘッドガードをつけているので、彼の相貌は判別できない。彼は打刀を一本腰に差していた。彼がかなりのやり手であるということは一目でわかる。

「……誉田椿熙。こいつの副長をやっている」

 谷底の荒涼とした風みたいな声だった。声がくぐもっているのか、最初からそういう声なのかはわからなかった。谷崎は簡素に挨拶を返し、二人の様子をつぶさに観察した。やけに距離が近いし、お互いに足が向き合っている。秘密の恋人といったところだろうか。
 
「仲がよろしいようで」

 公安の庁舎においても、谷崎の目の早さは少し有名になっていた。要らん事までべらべらしゃべるな、燻されるぞとは、谷崎の直属の上司の言葉だった。上司なりの嫌味だったが、谷崎は等しくそれを見抜いて、生返事をもって答えた覚えがある。その谷崎の言葉を聞いた二人は同時に目を細めた。すくなくとも天月はそうだった。
 ピピッと鳴る時計が、油を売る時間はもうないことを告げていた。神秘の濃度は刻一刻と高まっており、いつそれが爆発するかもわからない状況だ。物々しいバリケードを越えて、谷崎は財団のカナリアと機動部隊がスクランブル交差点に立ち入るのを見届けてから、自らも足を向こうに踏み入れた。指揮は財団と連合が共同でとっているらしい。しかし、それがすでに割れているだろうことは明らかだった。

 境界を超えると、そこはいつもの渋谷だった。つまり致命的に現状と齟齬が出ているということだ。明らかに天月の目には夏休みを満喫している あるいはした学生や社会人によって埋め尽くされているように見えた。
 天月千春は、人の群れが唯一覆っていないスクランブル交差点の中心部へと歩みを進める。このような場所において、振り返るのは最もやってはいけないことであると叩き込まれていた。だから彼女は視線を一切動かさずに前に進む。そこで連合の排撃班と落ち合う予定だったのだ。銃は持っているだけで、構えていない。安全装置はもちろんかかっているし、引き金にも指はかかっていない。瞬間、遠くで銃声が聞こえる。

「撃つなよ」

 天月は隊員を制止した。ぞろぞろと歩みを進めているうち、明確に渋谷のゴム人形めいた群衆に流れが出来ていることに気づく。鉄の塊の潰れる音が聞こえた。確か連合にはパワードスーツかなにかが配備されていたはずだ。嫌な予感に背筋を震わせつつも、前に進む。

 ふと、天月は自分たちが渋谷駅の構内にいると気がついた。携帯をいじっている群衆は、しかし己の方を向いているような感覚があった。境目において振り向くのは自殺行為。止まっていても埒があかない。ならば、前に進むしかない。意味をなさないアナウンスを無視しつつ、到着した山手線に乗り込む。
 先頭車両に向かう。後ろから聞こえる断末魔や悲鳴を可能な限り無視しながら。開け放たれた車両連結ドアを通過し、一歩ずつ歩みを進めていく。そこに確かに地面があることを確かめながら。
 車掌室は無人のように見えた。暗い部屋と明るい車内を区切るガラスは、鏡のようによく反射していた。天月千春はそれを見た。誉田椿熙も、隊員も全員それを見てしまった。鏡を通じて後ろの様子をたしかに見たのだ。べチャリ、と小さい窓に猿のような何かが貼り付く。

 全員で一斉に振り向き、刃物を持って襲い来る小人のような存在を相手取る。狭い車内でライフルを振り回すのは悪手。ならば拳銃を抜いて対処するも、素早い小人には当たらない。まるで自分たちが撃とうとしている意思を読まれて、撃たされているような感覚だ。
 一人、二人と倒れていく。倒れるその瞬間、天月は隊員が内側から爆ぜているという妙な確信があった。誉田が天月を押しのけ、腰の打刀を抜いた。彼は小人の動作をしっかりと視認してから最小限の動きでそれらを切り裂いていく。達人の動きだった。
 ぬるい風が吹いたかと思えば、天月は誉田に再び押し飛ばされた。後ろを振り向けば、電車の先端は無残に切り取られ、そこから大きな腕が車内に侵入していた。猿みたいに毛むくじゃらな腕だった。「お前は 」誉田椿熙は、その言葉を最後に、その手に包まれて、どこか遠くに連れ去られてしまった。硝煙と白檀の香りが漂った気がした。
 すぐに辺りを冷たい水が包む。天月千春の意識は、ここで一旦途切れた。

 谷崎翔一は、天月の部隊が倒れ、うち一人が消え去ったのを目撃した。谷崎のすぐ横を一陣の風が通り抜ける。派手な金髪の、ふわりとサイズの合っていない真っ白のパーカーを羽織った、ダメージが入ったデザインのショートパンツを履いた若い女がいた。直感的に、目の前の彼女が五行の者であると谷崎は感じた。ハイヒールを履いているのに、なぜこうも素早く動けるのかが不思議でたまらなかった。

「救援を求められたかと思ったら、こんなになっちゃって。こりゃあ、スキャンダルってやつじゃあないの。稲葉杏子、推参! ってね」

 背中を向けているのにもかかわらず、谷崎は彼女が溌溂な笑みを浮かべたのだと感じ取った。谷崎はそれに続いて彼女が発した言葉をほとんど聞き取ることができなかった。あまりにも音がつながっており、また調子も独特だったからだ。如何にそういったことに疎い谷崎でもそれが祝詞の類であることらしいことが分かった。しかし、彼女がわざと分かりやすく発音したのだろうか。「ミヅハメノミコト」の一言のみを聞き取ることができた。
 彼女のことを呼び水にして、奏上された祝詞が清冽な奔流を生じた。太陽の光を受けて輝く水は、谷崎と目の前の女には何一つ影響を及ぼさず、彼らを取り巻いている群れと、倒れている数人を覆い隠した。最後に、何やら眠っている様子の天月千春のみを残して。

 ふと、天月千春は自分の上に女が一人いると自覚した。その女はどこから取り出したのか、長く節立った杖と、黒く結晶化した石のようなものを持っていた。彼女は屈み、石を天月の左目にあてがう。不思議と痛みはない。石がずぷりと目に入り込み、視界の左半分が黒く染まった。

「ごめんねえ、千春さん、だっけ。こうするしかないんだよ。貴女の中でこいつを忘れさせて、貴女しか覚えているひとがいなくなるまで。そうやって何年か経ったら、きっとわたしの友達がなんとかしてくれるから」

 天月千春の意識は、いま暗闇に包まれた。


 三人の意識が全員現代に戻ってきた頃、薙は頭を抱えた。期待されてしまっては、それに応えるしかない。応神家はそういう役割の家だし、それ以前にも友の頼み事はそうそう裏切れない。谷崎は灰色で素朴な作りの万年筆をもてあそびながら、黙っていつもの良くわからない顔をしていた。

「どうした、天月」

 天月の方に目をやると、彼女はいつの間にかに椅子から立ち上がり、茫然自失と宙を見つめていた。眼帯に覆われている左目から、涙が一筋流れ落ちた。それに気がついた谷崎は、身長にしては長めの五指を顔の前で合わせていた。深く考えている時の癖だった。

 天月千春は、今の自分の視界を疑った。両の目でしっかりと物体を三次元的に捉えていたからだ。見えているものも異常だった。己は高層マンションの部屋の中にいるはずなのに、未だに意識が渋谷から戻っていなかったからだ。ふと、気がつけば目の前には一人の男がいた。赤い朱鷺の仮面を被り、地面まで届くかという長さの白いロングコートを着た男だ。

「思い出したか、千春」
「つば、き」

 無意識に口から出た音に、背筋が凍る。あの時に行方不明になった男が、いま目の前にいるのだと妙な確信を得た。脳裏に踏切の音と、無感情なサイレンが響く。静寂の後、男はゆっくりと口を開いた。気持ち悪いほどに整っている口だ。

「お前にまで忘れられているとは、悲しくなる。それでおれの写身のような男の横にいるとなれば、憤慨もする」
「勝手なことを。私の眼前から消えておいて、それはあんまりじゃないか」

 男は天月の唇に人差し指を与え、そしてそれを彼自身の唇に寄せた。遠くから童謡が聞こえる気がする。シャボン玉の歌だった。そのまま彼は宙に浮き、両腕を広げた。辺りはたちまち暗く、まるで月夜のようになった。真昼だというのに、おかしな話だと天月は思った。男はその僅かな光に溶けるようにして、消えていなくなった。

「雪山については、済まなく思っている」

 ぱちん、とシャボン玉が弾けるような音とともに、天月は椅子にへたり込んだ。谷崎は彼女に金平糖の皿を差し出す。一粒食べた彼女の顔色は、先程に比べればいくらかマシになっていた。

「何を見た?」
「ごめん、ちょっと休ませてくれないか」

 谷崎の雰囲気が変わった、と薙は思った。明確な苛立ちを彼が示すのは珍しい。少し身構えていると、変わらない様子で万年筆を回し続けている彼が再び喋りだした。

「なら、お出口はあちらだ」
「は?」
「随分としおらしい。察しの悪さは記憶通りだがね。聞こえなかったのかい? すぐに話せないならば帰りたまえ。偽物の空の下で、悲劇のヒロインでも気取っているといい」

 薙は立ち上がって二人の間に入ろうとした。しかし、それを察してか否か、谷崎は制止の視線を彼に向ける。榛色が天月に向けられると、彼女は丸机を力の限り叩き、立ち上がる。元エージェントにしてはやけに弱弱しい音がしたように聞こえた。
 谷崎はまるで結果を予測ていたかのように微動だにしていない。細められたまぶたから覗く二つの目から漏れるのは、何やら挑戦的な光だ。わなわなと腕、そしてそこから伝播して全身を震わせる天月千春は、熱くなってしまった頭をどうにかまとめつつ、ゆっくりと口を開いた。

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「何も、知らないくせに。過去をなくすこと、支えるものを全部なくすことを知らないくせに、よくもいけしゃあしゃあと言えたもんだね。ケリをつけるだって? 失ったものがある奴どうしわかるものもある? ぼくはな、ちょっとあんたに、谷崎に期待したぼくが間違ってたよ。ああ、お望み通り出て行って 
「そう、それでいい。そして今、心の幕が上げられる」

 薙が止めるまでもなく、勝利を確信した笑みの谷崎は立ち上がり、手元に開いているウインドウを天月に見せた。それは、猿夢の初出となる、匿名掲示板への投稿であった。天月千春はその整った顔を苦しく歪め、左目から溢れ出した大量の手紙に覆われた。怪異の現出だ。


From: S. Tanizaki
To: J. Islands
舞台 8m四方
和太鼓、祈祷師数人
簡易灯篭数本
午前二時、猿江公園
天月千春 怪異封印

 午後一時、都会の雑踏の真ん中で谷崎からメールを受け取ったアイランズは頭を抱えた。谷崎はけりをつける気だ。彼自身の過去と、天月千春の過去に対して。彼はこの一件をもって、完全に過去を解決し、未来へと歩みを進めるつもりらしい。要求はメールの通り舞台、和太鼓と祈祷師、そして簡易灯篭。
 残り数時間のタイムリミットで機動部隊一つを動かすのは無理だ。自分へのお土産ということにして先ほど東京駅で買ったばかりのかなり上質なゼリーが詰まった袋の重みをキーとして、何をどうすべきかを考える。彼の頭は、谷崎の目と耳よりも速かった。

「や、いつもご苦労様です。私の監視」

 雑踏にいくらうまく紛れども、外交官として培ってきた目をごまかすことはできない。財団にセキュリティホールとして最大級の監視を置かれている彼は、東京の雑踏にぽつぽつといる監視要員を手早く見つけて声をかける。明るい色のジャンパーを着ているアベック二人は、よもや監視対象に声を掛けられるとは思わず、ぎょっとしつつも一応の上官に対して背筋を正そうとする。アイランズはそれを手で制し、ゼリーの詰まった袋を差し出す。

「町中で敬礼する奴がありますか。 いつもご苦労様です。これは差し入れ。私もたまーに食べるんです。おいしいですよ。ところで一つ頼みを聞いてほしいんですが、加持祈祷用舞台のモジュールって八メートル四方ぶんは携帯していましたよね?あなたたちのお知り合いも、少しお借りしたいんです」

 極めて明るい調子かつ、穏やかな笑顔は、しかし有無を言わせない迫力があった。ジョシュア・アイランズ。彼は経験の少なさを指摘される一方、それを補って余りある温厚な性格、精神面の安定性、柔軟性を持つ。これらの要素はモノを言わせない迫力と死を目前にしても揺るがない度胸に直結する。監視要員二名も、その凄味に完全に気圧されてしまっていた。

「あ、ありがとうございます、アイランズ外交官。……確かに我々の内に祈祷師はいます。しかし、我々はあなたの側を離れるわけにはいかぬのですよ」

「ならば私も現場に行けばよろしいではありませんか。何もないはずの半日以上の休みが仕事に化ける体質はできるだけ早く改善したいですね」

 半休をとったアイランズが谷崎と薙の自宅に油を売りに行く途中、猿江公園に立ち寄り、怪異に対峙したときの警護演習を予告なしで執り行う。加持祈祷舞台をたまたま展開したときに天月千春を含む三名が現場に入る。そして、怪異を引きずり出し、応神薙の力をもってこれを調伏する。アイランズの監視部隊は調伏の支援をするという筋書きである。

炫耀

「諷経!」

 薙の行動は素早かった。左腕の義手と一体化している式神の名を唱え、解き放つ。普段はただの烏だが、緊急時にはその真の姿をあらわす。すなわち、三本脚であり、金色に光り輝く八咫烏の姿だ。式神は怪異に覆われた天月千春を窓の外に押し出し、旋回をして北の空に飛び去った。

「猿江公園だ!」
「急に何をする!」

 応神薙と谷崎翔一の二人は同時に叫んだ。谷崎と顔を突き合わせた薙は、彼の榛色の目を見た。何かに圧されていることには変わりないが、自分のことを信じ切っている目だった。式神の位置を感じる。いまはちょうど西大島駅の上空あたりであった。

「キミを信じた。キミはぼくと同じで納得しないと何もしないから、ぼくが先に形を示す。キミの家のことは多少調べさせてもらった。いまは話している時間なんてない。行くよ」

 谷崎は壁にかけてあるパーカーを掴み、そそくさと玄関の方まで行った。「信じられたら応えろ」父の言葉が、薙の肩に重くのしかかる。呼吸を整え、全身の力みをとる。式神は猿江公園の上空に差し掛かろうとしていた。薙は十秒で装備を整え、現身の術 式神と自分の位置を入れ替える術 を起動した。代わりに部屋には少しくたびれた様子の烏が現れ、カアと鳴いた。谷崎はその烏から落ちた風切羽を一枚回収した。

 怪異に組み付いた応神薙は、左腕の義手から飛び出している短刀を適当に 中にいる天月千春に当たらぬように 怪異に突き刺す。まだ猿江公園の上空だ。夏の夜の生ぬるい風が耳元でうるさく鳴る。下を見ると、薙は見慣れた人影 ジョシュア・アイランズとその愉快な監視たち を認めた。彼らはボクシング・リングを何倍かにしたような舞台を取り囲んでいる。そこには簡易ではあるがたしかに有効な結界が貼られようとしていた。その隙間にめがけてダイブする。

「作戦続行!」

 アイランズが叫ぶ。舞台を囲むようにして五つの火が灯る。簡易灯篭による結界だ。これならば、いくら中で暴れどもその影響が外に出ることはない。灯篭に照らされた一組の男女は、限りなく困った顔をしていた。猛々しい和太鼓の音に乗って、力ある言葉が聞こえる。大祓詞だ。

 墜落めいて着地した薙はひとまず距離を開ける。満足そうな顔をしたアイランズが立っていた。なるほどと状況をすべて理解した谷崎はふっと軽い笑みを浮かべる。かちり、と鯉口を切る音に続き、様々な光を克明に反射する約78センチの打刀が抜かれる。刃紋のみならず地肌模様さえも隅から隅まで鮮明に見えた気さえした。ただの鋼ではなく、で鍛えられたこの刀は、80年以上もの間戦場にさらされたにもかかわらず、その刃が損なわれる様子は今なお無い。
 物の怪の姿は、無心でいることを努めている応神薙、アイランズの警護部隊、式神に連れられて到着した谷崎に観測されて、その姿を見せる。まず注目するべきはその体格だ。応神薙の二倍ほどの身長に不釣り合いなほどに長い腕は脅威になるだろう。一見すると猿の様であるが、驚くほどにやせぎすであり、また毛が一本も見受けられない肌は赤くぬめっていた。頭部は丸い代わりに合掌したような形をしている。胸骨は一見パンタグラフのようであり、また脊柱は線路のような印象を受けた。しかし、応神薙にとってはそのような些末事などよりも、目の前の存在がただの標的であることに意識を向けていた。

 怪異は右腕を強く突き出す。それに対して薙は半身になり、腕を叩き落とすようにして踏みにじる。それに対抗してか標的も腕を跳ね上げる。しかし薙はそれすらも利用して後方転回ざまに切りつけた。家伝体術の逆さ独楽は、攻撃と回避を同時にできる優秀な技法の一つだ。
 薙のすぐ後ろには木が一本。怪異は金属なのか木材なのか判然としない地面を這うような姿勢になり、こすりつけるような金切り声を上げて両腕と頭部の代わりの手を広げて猛進する。危険。脳裏にその文字が浮かぶ。後ろへの回避も不能。横も同様に悪手。ならば、上。戦闘勘の優れた彼の脳がそう判断を下すのにコンマ数秒もかからなかった。
 薙は祭壇に備え付けられた灯篭を駆け上り、そしてその笠をを力いっぱいに蹴りつける。標的の後ろをとった彼は滑らかに踏み込み、そしてその不釣り合いなほど細く短い脚を切りつける。驚くほどにすんなりと切ることができたそれは、しかし次の瞬間には再生してしまっていた。これは、そもそも現世とのつながりを断たねばならない類のものである。薙はそう確信した。
 乱雑に振るわれた腕を避けるついでに数度切りつければ、一瞬だけ腕が垂れ下がる。しかし瞬きでもすれば腕は元気に動き出すのだ。大祓詞によるものもあるだろうが、本来ここまで実体の強度が弱いならば、数度四肢を切り飛ばせば自動的に力が漏れて体が霧散する。この場合のエネルギーも保存する。
 再び怪異が右腕を突き出す。先ほどと同じようにして薙は腕を叩き落とし、そして踏みつける。また同じように腕を跳ね上げられるが、応神薙はその力を使って前に跳んだ。月夜にコートがはためく姿は、話に伝え聞く忍者のようでもあった。
 その勢いを利用して応神薙は標的の首元に風切を突き刺す。指揮系統と体とが断たれ、膝をつく怪異。次の瞬間には復帰するのだろうが、薙には十分すぎる隙だった。背中に吊っていた獅子斬を抜刀し、力を少し込めて頸部を弾くように切る。確かに合掌された手は弾き飛び、そして応神薙は納刀して、谷崎の方へと歩みだした。

「油断はするなよ! 薙くん!」

 谷崎が力の限りに叫ぶ。彼がまず見えたのは光に照らされる応神薙の姿だった。次に見えたのは、吹き飛んだ頭部を回収し、そしてそれをもって胸骨と背骨をこすりつけている異形の姿。まるで猿が見せた夢。鉄と鉄がこすれるような音に混じり、しわがれたアナウンスの声が聞こえる。ただの殺気ではない。極限まで高まった何者かの負の感情により、簡易的な結界はきしみ音を上げる。
 あたりは再び闇に包まれてしまった。大祓詞には手が出せなかったようで、唱えられるたびに何かが削がれている様子だった。手負いの獣が最も恐ろしい。
 異形は地面に四つの手のひらをつけ、何かを吸収する。ここで埋葬された者の魂の欠片だ。大空襲で燃え尽きた欠片だった。一つ一つはたいして大きなエネルギーではないものの、塵も積もれば山となるとはよく言ったものである。谷崎はそのあまりのおぞましさに思わず目を逸らそうとする。しかしその直前に彼はしかと目にしたのである。こちらに背を向け、左手を刀の鞘に添えて右手をこちらに見せる応神薙の姿を。今回ばかりは、谷崎も何も言えなかった。

阿波利矢 遊ばすと白さぬ 顕正座に天照大神 降りましませ

 立ち上がった異なるモノに相対して、応神薙は軽く腰を落として抜刀の構えをとる。実際に神を降ろすわけではない。薙はつぶやくようにしてその力ある言葉を口にする。これは一種のパスワードの
 ようなものだ。応神が唱えることにより、式神の核として代々継承してきた八咫烏の欠片が呼び覚まされる。薙の場合、義手に埋め込まれているものだ。しばらく休んでいたと思われるそれは、しかし主の呼びかけに寸分の狂いもなく応ずる。曙色のそっけない紐で結われた薙の長髪がふわりと風に揺れた。

阿波利矢 遊ばすと白さぬ 顕正座に天照大神 降りましませ

 二たび唱えれば、これが誤作動などではなく、真に必要な時であると理解される。応神薙の左前腕から光の奔流が鞘に納められた刀に向かって流れ込む。古今東西、あらゆる怪異は破壊と再生の、そして生命の象徴たる太陽を恐れるのである。目の前にいる異形とて、それは変わらないのだ。怪異は、思ったよりも大きくなかった。かちり、と鯉口を切る。地平線から朝日が昇るように、刀身がわずかに姿を現す。

阿波利矢 遊ばすと白さぬ 顕正座に天照大神 降りましませ

  旭光よ、我が身に傅け。どこかからそのような声が聞こえた気がした。三度唱えれば、神にも通ずる力は術者である応神薙の肉体を駆け巡る。音すらも置き去りにしかねない踏み込みにより、祭壇にへこみが生じる。それに続くは、光子の奔流を纏った伝説的な居合斬りだ。薙の即興技と言えど、その威力は絶大である。
 応神薙は、不謹慎ながらもヴェール崩壊に対していくらか感謝していた。驚くほど静かな一太刀を胸部に浴びた標的は内側から灼け落ちるように消滅する。応神薙は、確かにこの瞬間、紅い鏡のような日輪を背負っていた。

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  谷崎があらかじめ救急車を呼んでいたのだろうか。遠くからサイレンの音が聞こえる。天月千春と怪異を切り離し、彼女を回収した応神薙は様々な魂に対して一礼をした。はらりと眼帯が落ちる。その下に覗くのは、きれいなダークブラウンの瞳であった。

 舞台の中心には黒い石が残されている。薙は天月を救急車に預けたあと、その石を検分した。殺生石の一部だとはすぐに分かった。九尾伝説の成れの果て。恨みつらみも全部が漂白されたあとの石だった。那須にある本体の守りはかなり堅い。稲葉杏子が使用したこれは、おそらく彼女の家に伝わるものだろう。しかし、今はただの石ころ以上のものではなかった。
 薙は、自分が肩で息をしていることを自覚した。


 Darkness Enlightened 

端緒

 あれから猛烈な眠気に襲われた薙は、ほうほうの体で住処まで戻った。彼は寝る準備をすべて飛ばして布団に入り、そして泥のように眠った。それは谷崎も同じようだった。彼はかろうじてシャワーを浴びる程度の体力は残っていたようだが。アイランズは予め仮眠をとっていたため、その足で近隣のサイトに向かった。事後処理のためだ。

 否応なしに朝は来る。どこまでも透き通った朝だった。殺生石は薙の一太刀によって無力化された。しかし、事態の元凶となる人物の実体は未だに曖昧なままだった。作り置きしてあった朝食を二人で食べると、不意に谷崎は口を開いた。

「昨日、らしくないことをしたね」
「……最後の居合か」
「キミのところの家伝体術は省エネがモットーじゃないか。なんでそんな力押しをしたんだい」

 同居生活のなか、谷崎は時折、薙の体術の稽古に付き合っていた。もともと谷崎には合気道の素養があったので、激しい動きにもついていくことができた。彼がこれを見抜くのは、自然なことだった。

「あれしか取れる選択肢がなかった」
「ふうん」

 かあ、と烏が窓を突き抜けて二人の住処に入る。思わず警戒してしまう谷崎を、応神薙は手で制止した。応神風路からの伝令の烏だ。折り紙ではなく、式神本体を遣わせることになんらかの圧を感じた。再び烏はかあ、と鳴き、来た時と同じように窓ガラスを突き抜けて西の空に飛び立った。丁重に巻物を開けると、そこには簡潔な二文字が書かれていた。「来い」と。

「ともあれ、キミは一つ大きな矛盾を抱えている。託されたら応えるのに、託すことをしない。何を躊躇っているのかは知らないが、精神的なものに対する納得はどうしても不可能だ」
「……それよりも、今は親父の手紙だ。ご丁寧に花押まで添えてやがる。こりゃあ本気ってやつだな。行けばきっとお叱りが下るだろうが、行かねばもっと怒られる」
「まあいいや、きっと時間が解決してくれる。 キミは最近R34が納車されたんだっけ?どこに敵がいるのかわからない以上、相乗りするのはよくない。この時期の高速はガラガラだろうね。ぜひともぼくのロードスターとちょっとした勝負でもしゃれ込もうじゃないか」
「ちょうどいい。日用品の類は向こうにあるだろうから要らん。服を数枚おれのRのトランクにでも詰め込んどこう」

 瞬く間に服の選定を終わらせた二人。流れるようにエレベーターを下り、服の詰まったボストンバッグを二つ、駐車場から出したRのトランクに詰め込み、そして二人は手の中で鍵を回しながら各々の車に乗り込む。エンジン音のハーモニーが前奏曲として奏でられる。比較的低い建物にマンションが混じる下町と、遠く新宿の大都会。東京の二つの町並みを、諷経はよく目に焼き付けた。二人は、西へ。太陽が沈む方へ。

 

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